2006年公演評

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団「ナチョ・ドゥアトの世界」

新国立劇場バレエ団恒例の中劇場公演は、「ナチョ・ドゥアトの世界」。ドゥアトはベジャール、アルヴィン・エイリーの下で学び、クルベリ・バレエ、NDTに在籍、現在はスペイン国立ダンスカンパニー芸術監督を務める。プログラムは、すでにレパートリーに入っている『ドゥエンデ』(91年)と『ジャルディ・タンカート』(83年)に、新レパートリーの『ポル・ヴォス・ムエロ』(96年)を加えたトリプル・ビルである。

三作中ドゥアトのオリジナリティを最も感じさせたのが、ドビュッシー室内楽、とくにフルートとハープを主とした曲に振り付けられた『ドゥエンデ』である。振付はニジンスキーの『牧神の午後』を思わせるアルカイックなフォルムに、昆虫や動物の奇怪な動きが加わっている。パンやニンフが戯れる神話的世界の現代版とも言え、スペイン色を排除することで、かえってドゥアト最大の特徴である音楽性が浮き彫りになった。ダンサーには、音楽のみを身体化する高度な音楽性が求められる。

『ドゥエンデ』四曲のうち、吉本泰久、グリゴリー・バリノフ、中村誠によるパ・ド・トロワが充実していた。吉本、バリノフの音感鋭いソリッドな動きを背景に、中村の身体が纏っている一種の狂気が音楽と一体となって、みずみずしい牧神のエロティシズムを醸し出す。音楽の身体化と音楽への没入を同時に感じさせる、稀有な踊りだった。また、パ・ド・シスの西山裕子はいかにもニンフ。西山独特の自然で流れるような音楽性が、柔らかでしかもピンポイントの動きを生み出す。陶然とするばかりだった。

男女三組が棒杭に囲まれた土色の舞台で踊る『ジャルディ・タンカート』は、カタルーニャ語の労働歌に振り付けられた土俗色の強い作品。エイリーやキリアンの語彙による影響もうかがえるが、処女作らしい自然な感情の発露がある。厚木三杏が音楽的かつ創造的な動きで突出している。現代的な動きのアクセントやニュアンスを、最も魅力的に作り出せる踊り手である。

宮廷舞踊風ネオ・クラシックとコンテンポラリーを行き来する『ポル・ヴォス・ムエロ』は、十五、六世紀スペインの古楽と同時代の詩人ガルシラソ・デ・ラ・ベガの詩に振り付けられている。作品構成の点でキリアンの影響を思わせるが、スペイン人のアイデンティティを前面に打ち出した、いかにも国立のダンスカンパニーらしい作品。ネオ・クラシックの部分では、高橋有里と西川貴子がクラシックの密度を感じさせる踊りで作品に重みを与え、コンテンポラリーでは、吉本と末松大輔によるデュオが新鮮な空気を作品にもたらしている。 初日と三日目では舞台の印象が大きく異なった。とくに三演目出演の山本隆之が、初日とは見違えるほどの精彩を三日目に見せている。山本のドゥアトへの情熱が舞台を牽引し、トリプル・ビル全体を覆わんばかりだった。同じく三作品出演の湯川麻美子は演技力で舞台に貢献。中心としてはもう少し踊り自体の密度が求められるだろう。

今回のトリプル・ビルは派手な演目がなく、玄人好みのプログラムと言えるだろう。しかし現代物の来日公演ラッシュのさなかにあって、「ドゥアト・プロ」がややインパクトに欠ける印象に終わったことも否定できない。新レパートリーが、動きの追求よりも演出に傾きがちな作品であったことも原因の一つだろう。かつてのJバレエやミックス・プロで見られたような、バレエ団が一体となったプログラムを、今一度期待したい。(3月23日、25日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2692(H18.5.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『こうもり』

新国立劇場バレエ団三回目の『こうもり』。02年の初演時に、振付家ローラン・プティによってコール・ド・バレエから一気に主役のベラに抜擢された真忠久美子が、ようやく大輪の花を咲かせ、プティの慧眼を証明した。真忠の美点は他のプティ・バレリーナとは異なり、上体の美しさと魔術的な腕の動きにある。細くしなやかな両腕が流れるような軌跡を描くとき、豊かな感情が音楽となり詩となって立ち現れる。腕のほんの一振りで見る者を陶酔させるその技は、愛のパ・ド・ドゥでヨハンをくるくると踊らせる際にもっとも威力を発揮した。真忠ほど、この振付の魔術性を浮かび上がらせるバレリーナは他にいない。

しかし真忠を真忠たらしめている最大の特徴は、無意識の大きさだろう。昨秋の『カルミナ・ブラーナ』で、男たちに喰われるローストスワンに全く違和感を抱かせなかったのは、役作りもさることながら、その存在のあり方による。今回のベラも、ただそこにいるだけで周囲の目を惹きつける、内在的な輝きを帯びていた。ショーアップされた演出においても、繭にくるまれたような浮世離れした雰囲気を漂わせるのは、無意識に吸収したものを、無意識のままに出せる才能のなせる業だろう。喧騒の夜が明けて、朝日の中に浮かび上がる真忠のシルエットは、驚くほど美しかった。美を表現しようとしているのではなく、美そのものとして存在していたのだ。

夫ヨハンを演じた森田健太郎も、その豊かな才能を十全に発揮している。プティ独特の(意味を持たない)アクセントを、これほど粋に見せられる日本人ダンサーがいるだろうか。そのセンスのよさに加え、気品ある正統的なラインと、物語をその場で生きる無意識の力は、森田を理想的な男性主役に位置づけている。森田の堅固で大きなサポートに、真忠のかよわい女らしさがしっとり絡み合ったパ・ド・ドゥは、プティの思惑をはるかに超えて、香り高く情感に満ちたデュエットとなった。終幕、膝に寄り添う妻の背に、夫がそっと手を置く光景は神々しく、二人が無意識のうちに交わした感情の大きさを物語っていた。

日本人初日を飾ったゲストの草刈民代は、ベラの役をよく理解し、華やかな存在感で行き届いた芝居を見せる。ソロではやや硬さがあったが、一期一会を感じさせる真摯な舞台だった。草刈のヨハンは山本隆之。振付の意味をもっともよく伝える。愛情と呼ぶしかない献身的なサポートと、舞台全体を巻き込む強いエネルギーが、シュトラウスの音楽、プティの振付と相まって、観客に生へのポジティヴな力を与えている。

ウルリックはヴェテランの小嶋直也と新人の八幡顕光。小嶋は完璧な足技とシャープなライン、役をよく心得た演技で、目の覚めるようなウルリック像を作り出した。一方八幡は、ペーソスなどの感情的な厚みには欠けるが、初役にしてすでに、役の明確な輪郭を描きえている。さっぱりとすがすがしい、少し和風のウルリックだった。

楠元郁子のメイド、トレウバエフのチャルダッシュとギャルソン、厚木三杏のカンカン、イリインの警察署長に、洒落た男女アンサンブルが元気に脇を固める。急遽代役のギャルソン奥田慎也がようやく舞台に戻り、十人分の明るさを振りまいた。男性陣の黒髪は粋。舞台の仕上がりの良さに比べ、今回の東京フィルは、プティの繊細な振付に対応していなかった。(5月26日、27日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2697(H18.7.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ジゼル』

新国立劇場バレエ団今季最終演目は、四年ぶり三回目の『ジゼル』。パリ・オペラ座エトワールのクレールマリ・オスタとバンジャマン・ペッシュをゲストに四組がキャストされたが、オペラ座の都合でオスタは来日せず、代って初演時に主役を踊った西山裕子が、円熟のジゼルを披露した。

西山は現在バレエ団でもっともロマンティック・バレエが似合うバレリーナと言えるだろう。演技やマイムの明晰さ、踊りの軽やかさ、自然な音楽性、繊細な感情といった西山の特徴が、内気で感受性豊かなジゼル像を作り出している。 西山における音楽性と演劇性の結合は、すでにガムザッティ役での驚くべき音楽的マイムで確認されているが、今回も全編にわたってその見事な融合を見ることができた。二幕のアダージョでは、ラインの端々からアルベルトへの愛情が流れ出し、音楽とともに舞台を覆いつくす。感情と音楽が一体化した、まさにポエジーの化身だった。

この日のミルタは、やはり初演組の西川貴子。踊り、マイム、立ち姿の全てに、ミルタの性根が入っている。凛として統率力のある堂々たるミルタだった。今回『ジゼル』らしい霊的世界を現出させたのは、唯一この組だけだった。他は全員初役という状況の中、西山、西川による初演ヴェテラン組の功績は大きい。

初日、二日目には、バレエ研修所第一期生の若手二人が抜擢されている。初日(最終日代役も)の本島美和は、まだ固有のラインを獲得しておらず、役作りが全て表現として定着しているわけでもない。しかし、役を自分で咀嚼しようとする強い意志に、将来への展望を感じさせた。とくに狂乱の場は、自らの存在の底にまで降りていったことをうかがわせる、強い静けさに満ちていた。

一方のさいとう美帆は、長い手足を生かしたラインが美しく、相手を翻弄する小悪魔的な魅力を備えている。一、二幕ともに踊り方をよく心得て粗がない。しかし、狂乱の場が象徴するように、いわゆる良いとされる表現に留まっていて、心底からの感情が表現として表に出るには至っていない。今後主役として、本島には外からの眼差しが、さいとうには内面との対話が求められるだろう。

『眠れる森の美女』『ドン・キホーテ』で、音楽性と様式性、スター性を併せ持つ大型主役であることを証明した厚木三杏は、今回残念ながら真価を発揮するには至らなかった。柄としてはミルタだろうが、様式性で押していく厚木ならではのジゼル・アプローチもあったかと思われる。華やかなスター性を持つ貴重な踊り手として、今後に期待したい。

アルベルトはゲストのペッシュ、シーズンゲストのマトヴィエンコ、バレエ団の山本隆之。ペッシュはハムレット的陰鬱さを帯びたキャラクター性の強いタイプで、まだ役作りの途上にあるが、西山の透明感とはよく合っていた。マトヴィエンコは端正。持ち味の爆発力よりも、ラインのコントロールを重視している。厚木、本島を丁寧にケアしていた。 山本は作品を構築する深い物語性を発揮した。足技の明晰さにはまだ向上の余地があるが、一幕役作りの説得性はもちろんのこと、二幕の登場では唯一空虚なナルシシズムを免れている。終幕の片膝をついて花を拾う姿には、ジゼルとの逢瀬からその死、そして死後の愛の交感が、全て刻み込まれていた。

バレエ団では、村人のパ・ド・ドゥを踊った大和雅美と中村誠の香り高い踊りが印象深い。また冨川祐樹が節度あるマイムで誠実なハンスを演じ、クールランド公爵のイリインが、品格あるマイムでロシア・バレエの香りを伝えている。

今回コール・ド・バレエは、珍しく揃っていなかった。ウィリの本質を出す以前に、動きの方向性が指し示されていないように思われた。エルマノ・フローリオ指揮、東京フィル。(6月24、25、30日、7月1日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2700(H18.8.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』新制作

新国立劇場バレエ団が八年ぶりに『白鳥の湖』を新制作した。改訂振付・演出は芸術監督の牧阿佐美、舞台装置・衣裳は『ラ・シルフィード』と『リラの園』を担当したピーター・カザレット、照明は沢田祐二による。全四幕で休憩が一回という上演形式である。旧版のセルゲーエフ版は、マイムを減らし、演劇性よりも音楽性を前面に出したスピーディでコンパクトな演出。ラストはソビエト・バレエらしく戦って悪を滅ぼすハッピーエンドである。新制作ではこうした時代性を払拭し、原典重視の世界的潮流が反映されるのではと期待したが、残念ながらほとんどがセルゲーエフ版の踏襲だった。

演出上の改変部分は、プロローグとしてオデットの変身場面(室内)を加えた点と、終幕のロットバルトの死を入水自殺(?)に変えた点である。ただ両者ともに演出の練り上げがまだ弱く、説得性を獲得するに至っていない。なぜ友人二人がオデットの部屋からいなくなるのか疑問だった。一方、三幕で各国の花嫁候補とキャラクターダンスを結びつけた演出は、効果的だった。イギリスの踊りも加えるとより整合性が増すと思われる。

舞踊面では三幕に「ロシアの踊り」が加わった点と、四幕冒頭に王子が紗幕前で少し踊りを見せる点が新しい。また、一幕王子のソロを中盤から幕の最後に移し、「乾杯の踊り」の後半を村人の踊りに変更している。ただ後者については、音楽の急なテンポダウンを要する振付と音取りの変化にやや違和感を覚えた。

旧版のオークネフの美術は明快すぎるほど主張がはっきりしていたが、カザレットは中庸を重んじたのか、あまり特徴がない。湖畔も森の神秘性や廃墟趣味といったロマン主義的風景には至らず、小さな洞窟(通り抜けられる)と湖に落ちる滝が、どこがうらぶれた雰囲気を醸し出す。照明は横ライトを駆使し個性的だが、ダンサーのライン、とくにロットバルトの踊りが見えなかったのは残念だった。

オデット=オディールには、旧版での一月公演と同じくスヴェトラーナ・ザハロワ、酒井はな、寺島ひろみという配役。二回目となる寺島が成長の跡を見せて、三者三様の白鳥を競い合った。ザハロワは、所属のボリショイ劇場バレエでも組んでいるデニス・マトヴィエンコを相手に、いつもより伸び伸びとした踊りを見せた。ソロの解釈にはまだ物足りなさを残すが、ラインの美しさには一段と磨きがかかっている。きらめくようなグラン・アダージョだった。

ヴェテランの域に入った酒井は、以前のようなパトス全開の踊りは影をひそめ、高度にコントロールされたラインとすみずみまで施された深い解釈で、完璧とも言える白鳥を踊っている。当日は中高生の団体が半分近く入った半ば教育プログラムのような公演だったが、酒井は社会的啓蒙の役目を見事に果たしたと言えるだろう。一方客席は私語をする中高生と隣り合わせの劣悪な環境にあった。劇場側はオペラ同様、学生鑑賞日を別に設けるべきではなかったか。

『ライモンダ』に続いて主役を踊った寺島ひろみは、ようやく個性を発揮し始めたようだ。スポーティかつダイナミックな白鳥で、主役としての大きさが備わっている。ただ四肢の扱いが雑に見えることがある。かつて『眠れる森の美女』の銀の精で見せた、艶のある豪華な踊りをもう一度見てみたい。

ジークフリード三者三様。マトヴィエンコは華やかさに欠けるが端正な踊りで、酒井と組んだ山本隆之は、登場しただけで舞台の輪郭を作るドラマ性で、逸見智彦は寺島にはおとなしすぎるが、類稀な音楽性で、個性を顕かにした。

パ・ド・トロワでは江本拓の覇気、中村誠の優美、さいとう美帆の清新さが、白鳥たちでは厚木三杏と西山裕子の音楽的な姿形の美しさが、キャラクターではスペインの楠元郁子、ハンガリーの奥田慎也のはつらつとしたニュアンスが印象深い。楠元は王妃でも温かく気品のあるマイムを見せた。イリインの家庭教師は十八番、一幕の要である。

渡邊一正指揮の東京フィルは、いつもより音が分厚すぎて渡邊の機動力が生かせなかった。オーケストラの状態もよくないように思われる。(11月12、15、18、19日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2712(H19.1.1-11号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

新国立劇場バレエ団が三年ぶり五回目のアシュトン版『シンデレラ』(48年)を上演した。プロコフィエフの叙情性と諧謔性がすべて振付に写し取られた、アシュトン中期の傑作である。 振付は一見すると古典バレエのパロディに見えかねない。しかし、シンデレラと王子のパ・ド・ドゥが古典の様式に準拠していることから、振付自体がアシュトンによる古典バレエの解釈、メタ振付であることが分かる。バランシンのネオ・クラシックと並ぶ、プティパへの特異なオマージュと言える。のみならず、アンサンブルのスライドを多用した幾何学的フォーメイション、振付における上体の極端な捻りが、依然として作品に前衛の輝きを与えている。三幕の「誘惑」と「東洋」の省略には異論もあるだろう。だがこの版のもう二人の主役、義理の姉たちによるパントマイム演技の重量感からすると、三幕の短さは妥当と思われる。

七公演のうち、初日から三公演を英国ロイヤルバレエのアリーナ・コジョカルが、残りの四公演をベテランの酒井はなと宮内真理子、若手のさいとう美帆と本島美和が担当、王子にはそれぞれフェデリコ・ボネッリ(ロイヤル)、山本隆之(二日)、トレウバエフ、中村誠が配されている。

シンデレラ像の完成度の高さは、ゲストを含めても酒井がずば抜けていた。アシュトン振付の細やかな襞に分け入り、そのすべてに真の感情を満たしている。これほど繊細な造型は世界でも珍しいのではないか。カーテン・コールでは、謹厳な指揮者エマニュエル・プラッソンが酒井の頬に祝福のキスを与えている。ただし、今回の酒井にはいつものようなエネルギーの放射は見られなかった。その理由は不明だが、いずれにしても、バレエ団のほとんどのレパートリーを初演し、その蓄積を社会に還元すべき円熟期に入りつつある酒井を有効に生かすことは、観客に対する劇場側の義務と言えるだろう。

全幕久々復帰の宮内と、この作品で主役デビューを飾ったさいとうは共にはまり役。無理なく作品世界を作り上げる。特にさいとうは演技が自然になり、初演時よりもみずみずしさが増した。同期で初役の本島はいわゆる姫役のタイプではなく、今回は挑戦の意味合いが強い。古典もしくは古典に準じる作品を踊るには、もう少し様式への意識が必要だろう。またゲストのコジョカルは本調子ではなかった。本人特有の生きいきとした生命感が感じられない分、アシュトン・アクセントの緩さが目立った。

王子四人は持ち味を十全に発揮している。ボネッリのゆったりとした鷹揚さ、山本の気品に満ちた細やかな演技、トレウバエフのりりしさ、中村の優美ななまめかしさ。とくにトレウバエフは王子役の進境著しい。

この版の基盤である義理の姉たちは、乱暴だが妹想いの姉にマシモ・アクリと保坂アントン慶、恥ずかしがり屋の妹に篠原聖一、奥田慎也、堀登(出演日順)が配され、それぞれ献身的な演技を見せている。アクリのパワフルな姉は独壇場だが、アンサンブルで優れていたのは、父親役イリインを中心とした保坂=堀組。三人の娘を見守り、末娘の不幸を思って苦悩するイリインの父、妹への優しさがにじみ出る保坂の姉、そして堀の妹が絶品だった。手への接吻をダンス教師と王子の二人に拒否されるおかしさが初めて分かった。

観客への演技を含む難役の道化は、バリノフと八幡顕光が健闘。四季の精では、西山裕子の春の精がアシュトンの音楽性を余さず表現している。舞台を包み込む豪華な厚木三杏の冬の精、けだるい夏になりきった真忠久美子も印象深い。ナポレオンの伊藤隆仁もますます面白くなっている。

久しぶりに艶と張りのある東京フィルを聴く喜びもあった。指揮者エマニュエル・プラッソンの功績だろう。(12月15、16、19、22、23、24日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2715(H19.2.11号)初出