2010年公演評

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖

新国立劇場バレエ団新年の幕開けは『白鳥の湖』。セルゲーエフ版を基に芸術監督の牧阿佐美が改訂を施したもので、今回新たに四幕のアダージョが削除された。オデットと王子が互いの感情を確かめ合うダンサーにとっては為所の場面。スピーディな展開を狙ったものと思われるが、残念ながら今回はそうした効果よりもドラマの稀薄さを印象づける結果に終わっている。

予定のキャストは4組。ただし初日を含め3回踊るはずのザハロワが当日故障、急遽代役として、すでに配役されていた厚木三杏が初日と二回目を、配役外の川村真樹が三回目を踊ることになった。両者ともスター性十分のベテランと中堅だが、今回が2回目の『白鳥』主演である。無事に踊りきったとは言え、近年の配役の混迷ぶりを露呈する形になった。

当初の回を含め3回踊った厚木は初日、持ち前の責任感と思い切りのよさで劇場の急場を凌いだ。パートナーにはそのままウヴァーロフが残されたので、互いの呼吸を測りながらの苦しい舞台である。2回目には自らの豊かな音楽性と演劇性を生かし、伝統的解釈に則った役作りを見せることができた。本来配役の公演では、代役の疲れを感じさせつつも持てる力を出し切って、グラン・フェッテの鋭さ、終幕のパトスで、無垢な王子貝川鐵夫を激情の渦に巻き込んだ。二幕の詩情、三幕の肉体の華やかさという美点を生かした川村共々、バレエ団への貢献は大きい。

初役は中堅のさいとう美帆(未見、パートナーはトレウバエフ)と若手の小野絢子。小野は優れた音楽性と緻密な解釈力、確かな技術を持った次代を担う逸材だが、さすがに『白鳥』の壁は厚かったようだ。音楽性は音感に留まり、解釈も身体化されていない。年末『くるみ割り人形』での初日の金平糖の精、最終日のクララ役から日が浅いということもあるかも知れない。次回、小野らしい白鳥を期待する。

パートナーの山本隆之は完成された王子造形を見せた。小野の一直線の芝居を見守るしかなかったが、本来は劇的なパートナーシップを築けるダンサーである。

ロートバルトの芳賀望は意志と献身性、貝川はノーブルな佇まいで個性を発揮。また西川貴子が正統的なマイムで威厳と気品に満ちた王妃を演じている。パ・ド・トロワでは川村、寺島ひろみ、トレウバエフのゴージャス組が舞台に厚みを、堀口純、寺田亜沙子、福岡雄大の清新組が爽やかな風をもたらした。

バレエ団若手では、道化役八幡顕光の踊りの切れ、同じく福田圭吾の愛情深さ、ナポリ伊東真央の全身からこぼれる微笑み、ルースカヤ井倉真未の舞台を支配する大きさが、ベテランでは、ハンガリー西山裕子の優美、同じく長田佳世と古川和則の骨太な踊りが印象深い。白鳥群舞は前回公演よりも精度が上がっている。

熱血アレクセイ・バクランの指揮に東京交響楽団はよく応えたが、オーボエの音詰まりはこの演目の場合やや致命的に思われる。(1月17、19、20、21、22日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2806(H22.2.21号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『アンナ・カレーニナ

新国立劇場バレエ団恒例の中劇場公演はロシア人振付家ボリス・エイフマンによる『アンナ・カレーニナ』(05年)。アクロバティックなアダージョアスレティックな群舞、シンボリックな感情表現は、ソビエト・バレエが行き着いた究極のスタイルである。古典以外は英仏米作品を踊ってきた新国立劇場バレエ団にとって、挑戦とも言える作品導入である。

エイフマン版『アンナ・カレーニナ』(音楽チャイコフスキー)はトルストイの原作からアンナの部分を抜き出し、登場人物をアンナ、夫のカレーニン、愛人のヴロンスキーに限定(キティは冒頭の舞踏会にのみ登場)。主役三人の心理を表す象徴的なソロ、デュエットと、社交界、軍人、社会の良識、鉄道員といった外界を表す群舞が交互に組み合わされる。このため観客は通常の物語バレエのようにドラマの流れを辿るのではなく、三人のその時々の強烈な感情(パトス)を味わう仕組みになっている。

配役はボリス・エイフマン・バレエ劇場からのゲスト組と新国立劇場組のダブルキャスト。エイフマン組は当然ながら、アスレティックな動きとパの大きさを重視するエイフマン・スタイルの体現者である。アンナのニーナ・ズミエヴェッツはアクロバティックなリフトを難なくこなし、鮮烈な脚のフォルムを観客の目に焼き付ける。言わば動く肉体の彫刻である。グラン・ジュテしてそのままヴロンスキー役のガビィシェフに片腕を取られ振り回される場面、ベッドの手すりに乗ってアラベスクし、そのまま後ろ向きに倒れる場面では、危険と隣り合わせの振付を淡々と遂行して、無意識の崇高さを漂わせた。

エイフマンの分身とも言うべきカレーニンは若手のセルゲイ・ヴォロブーエフ。まだ十全とは言えないが、エイフマン独特の重厚な男性ソロを骨太に踊ってみせた。またアンナのアンダーも兼ねた堀口純が、キティの娘らしい外見と感受性豊かな内面を、わずかの登場で描き出すことに成功している。

一方新国立組のアンナとカレーニンはベテランの厚木三杏と山本隆之、ヴロンスキーには貝川鐵夫が配された。厚木のアンナは緻密な解釈と思い切りのよさが組み合わさった集大成とも言うべき出来栄え。エイフマンの振付意図を手兵ダンサーよりも的確に伝える。そのクリエイティヴィティ、感情を喚起する優れた音楽性、ドレス姿の気品、リフト時のラインの繊細さと強度は、アーティストの域に達している。

対する山本も少し若々しい感情表現だったが、カレーニンの内面の奥底にまで入り込んだ渾身の演技を見せた。パートナーとしての信頼度はバレエ団随一。一幕「フィレンツェの思い出」を使った和解のパ・ド・ドゥからは、二人の痛切な会話が聞こえてきた。貝川のヴロンスキーは初日は少し緊張気味。二回目でようやく素直な感情と優れた音楽性という長所を発揮した。終盤夢の中で子供に戻ったアンナを抱っこするデュエットが瑞々しい。困難なリフトにも果敢に立ち向かった。

ソリストを多く含む群舞はよく健闘している。中でも躍動感あふれる軍人群舞、蒸気機関車と化した鉄道群舞が素晴らしい。江本拓、福岡雄大、福田圭吾の鮮やかな踊り、トレウバエフの献身的動き、さらに舞踏会での西山裕子の精緻な踊りが印象的だった。演奏はテープ使用。(3月21、22、26、27日昼 新国立劇場中劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2812(H22.5.1号)初出

 

★[ダンス]  新国立劇場バレエ団『カルミナ・ブラーナ

新国立劇場バレエ団が次期芸術監督デヴィット・ビントレーの『カルミナ・ブラーナ』を5年ぶりに上演、同時上演『ガラントゥリーズ』と併せ、来季バレエ団陣営を予告する公演を行なった。 バレエ団初演の『ガラントゥリーズ』(86年)は、振付家ビントレーの繊細で生き生きとした音楽性、明朗な精神、ユーモアといった才能が余すところなく発揮されている。音楽は初期モーツァルトを使用。題名通り、男性ダンサーは一人を除いてサポート役に徹し、その優雅で慎ましい献身性は、英国に移植された帝政ロシア・スタイルを偲ばせる。

パートナリングは現代的な複雑さを帯びているが、全て音楽から導き出されており、技巧の誇示は皆無。トロワでの左右タンブリング・リフトや、アダージョでの流れるような回り込みサポートが素晴らしい。エポールマンをよく意識した清潔なスタイルと明晰な技術をダンサーに要求する、古典バレエの粋を集めたシンフォニック・バレエである。

3キャストのうち、初日組の精緻なアンサンブルが素晴らしい。メヌエットでは、若手の小野絢子が芳賀望と福岡雄大に交互にサポートされ、優れた音楽性と確かな技術を発揮、ビントレー振付の申し子であることを証明した。またアダージョの川村真樹が、山本隆之の十全たるサポートを受けて、花開くデヴロッペ、垂直に屹立するアチチュードなど、クラシック正統派の輝きを放つ。湯川麻美子の風格、長田佳世の活きのよさ、八幡顕光の音楽性など、ソリストの個性がよく生かされた、優れた座組だった。

一方、ビントレー版『カルミナ・ブラーナ』(95年、音楽カール・オルフ)は60年代の英国ポップ・カルチャーを背景にしたモダンバレエ。冒頭の有名な「おお、運命よ」では、目隠しをした黒いスリップドレスとハイヒール姿のフォルトゥナ(運命の女神)が鮮烈な天秤ソロを踊る。神学生三人が音楽の三部構成に従ってダンスホール、ナイトクラブ、売春宿と人生を謳歌するが、最後にはしっぺ返しがくるため、振付家自身によれば「道徳的な作品」である。

振付はクールでスタイリッシュなフォルトゥナ・ソロと、神学生の群舞が充実している。他は歌詞を反映したマイムが多く含まれ、動き自体は音楽的ながら、振付の強度がやや低い。また曲数の多い第一部は、演出が煩雑で少し説明的に感じられた。だが、堕落を描いて明るく、ダンサー達が禁じ手の動きを嬉々として演じる姿は、見ていて楽しい。歌手や合唱との共演も、この作品の大きな魅力である。

主役は全て3キャスト。来季より姉妹バレエ団的存在になるバーミンガム・ロイヤル・バレエから、ヴィクトリア・マールがフォルトゥナ役で、ロバート・パーカーが神学生3役で客演。マールは前回のヒメネス程の強さはないが、癖のない踊りで、パーカーは美しい体型と素直な踊りでアンサンブルに溶け込んだ。

ビントレーの信頼厚いベテラン湯川は、二回目とあって完全に役を掌握、爽やかな色気と繊細かつシャープな動きで迫力あるフォルトゥナを造形する。神学生3の芳賀とのパ・ド・ドゥでは、臼木あいの濃密なソプラノをバックに、互いの感情が渾然一体となる熱い愛の形を描き出した。相手の芳賀も未消化の部分を残しながら、パートナーに誠実に対する優れたデュエット感覚を示した。

小野は少し早すぎるフォルトゥナだったが、成熟した肉体美を誇る神学生3山本とのパ・ド・ドゥでは、才能の確実な開花を予感させるみずみずしさを見せる。山本、古川和則、福岡という重厚な三神学生を従えて踊る、フィナーレでの真っ直ぐなソロは、まさに来季の予告だった。

小野と組んだ山本は、圧倒的な存在感、密度の高い踊り、虚構を楽しむ余裕にこれまでの道程を感じさせる。福岡の詩情あふれるオルフェウス風神学生1、古川の正統的な骨太神学生2、同じく福田圭吾のその場を生き抜くドラマ性と八幡の音楽性、さらに川村の美しいローストスワン、さいとう美帆の気紛れブロンド娘が印象的だった。

演奏はポール・マーフィ指揮東京フィル。バレエ団と同じ立場にある新国立劇場合唱団が、ピットから強力に舞台を支えている。(5月1、2昼夜、5日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2816(H22.6.21号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『椿姫』

新国立劇場バレエ団シーズン終幕は、99年以降11年の長きにわたってバレエ団を率いてきた牧阿佐美芸術監督の最終公演でもあった。演目は07年初演の自作『椿姫』全二幕である。

牧監督の功績は、日本のバレエ団にふさわしいアンサンブルを作り上げたこと、バランシン、アシュトン、マクミラン、プティ等、世界レヴェルの現代バレエを導入したこと、また『くるみ割り人形』を始めとする古典の再演出と、石井潤の『カルメン』、自身の『椿姫』、ビントレーの『アラジン』という再演に耐える創作バレエをプロデュースしたこと、対外的には米ロ二回の海外公演を実現したことが挙げられる。

ただ、主役ダンサーの起用については、これまで劇場を本拠とするプロのバレエ団が日本に存在しなかったこともあり、試行錯誤が繰り返された。開場以来唯一のプリマ候補だった酒井はなを登録に移行させたことは、バレエ団のその後の混迷ぶりを考えると残念と言わざるをえない。一方で次代を担う逸材、小野絢子を早くから主役起用し、次期芸術監督に繋いだ点は評価できる。最終日、カーテンコールに続いて牧監督の辞任の挨拶が行なわれた。バレエ団全員を背に、晴れ晴れとした表情が印象的だった。

再演の『椿姫』は練り上げられた仕上がり。前回物足りなかったパ・ド・ドゥも充実、ディヴェルティスマンはさらに磨きがかかった(アラブは省略)。唯一作舞法の異なるマルグリットとアルマン父のパ・ド・ドゥは、まだ動きの収まりが悪く突出して見える。一方終幕の様式的なパ・ド・トロワはナルシシズムが排除され、自然なクライマックスを迎えた。エルマノ・フローリオ選曲のベルリオーズはやはり作品の根幹である。オペラ劇場にふさわしい奥行きと深さを備え、示導動機を取り入れた緻密な編曲がドラマを易々と推進させた。

四人のマルグリット・ゴーティエは全員二回目。それぞれのアプローチが作品に貢献している。初日のザハロワは初演時よりも合理的なパフォーマンスに終始し、終幕トロワでようやく凄みが出た。それまで鈍く見えたラインが一気に引き締まり、リフト時の繊細な動きは宗教性さえ帯びている。ロシア派らしい崇高な叙情性が支配したザハロワ色濃厚な終幕だった。

二日目の酒井は完全に役を掌握している。肉体の磨き抜かれた輝き、繊細なライン、心の底から湧き出る偽りのない演技がすばらしい。牧独特の振付ニュアンスを完璧にこなしたのも酒井ただ一人だった。蓄積を生かした円熟の舞台である。

一方、昨年九月ボリショイ劇場で主役を踊った堀口純は本拠地初お目見えとなった。少し控えめだが細やかで丁寧な役作り。ラインよりも感情表出が前面に出る日本バレエ伝統のアプローチである。牧監督によるボリショイ抜擢が理解された。音楽が最も聞こえたのもこの日。フローリオは自分の作品を心置きなく指揮することができた。

本島美和のマルグリットは堀口とは対照的に押し出しの良さが特徴。華やかさが観客の視線を惹きつけるが、なぜか踊りに香りがなく感情が喚起されない。役作りを十全に身体化させる術をまだ見つけていないようだ。

アルマン役はザハロワにマトヴィエンコ、酒井と堀口に山本隆之、本島にテューズリー。マトヴィエンコは狂気すれすれの激情を見せる。一本調子だが献身的なアルマンだった。一方ベテランの山本は完璧な役作り。酒井にはよきパートナーとして、堀口には若々しい情熱的な恋人として存在する。堀口と出会う場面、頬を愛撫される場面の初々しさは、ボリショイ公演に至る濃密なプロセスを想像させた

テューズリーは端正なロイヤルスタイル。恋人にしてはややクールで、他日配役された伯爵の一分の隙もない演技に美点が生きた。マルグリットの扇を拾う場面も説得的。また全日アルマン父を演じた森田健太郎は強烈な存在感を発したが、老け役としては受けの演技が必要だろう。

全体を通してドゥミ・モンドの華やかさを最も表現し得たのは、プリュダンスの厚木三杏とガストンの逸見智彦。主役でも良い程だった。ソリストが勢揃いするディヴェルティスマンではメヌエットの川村真樹、チャルダッシュの西山裕子、長田佳世、タランテラの小野絢子、またペザント福岡雄大が主役級の踊りを見せている。東京フィルは非常に充実していた。(6月29、30日、7月2、4日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2820(H22.8.11-21号)初出

 

★[演劇][その他]  本日開設+片桐はいりのこと

ダンス、バレエ、演劇、オペラ、映画を見た感想を書く日記を開設。片桐はいりづいているので。カンパニーデラシネラの『異邦人』、NHKのスタジオパーク、『もぎりよ今夜も有難う』(片桐の映画館エッセイ集)。

 『異邦人』は片桐の怪演により、マイム特有の西洋趣味を免れていた(10/8 シアタートラム)。破格の存在感。三本脚机にのしかかる時の痙攣は、小野寺の緻密な計算を簡単に上回る。スタジオパークで映画は恋人、舞台は配偶者と語っていたが、確かに演技の振り幅が尋常ではないにもかかわらず、全体の感触は地に足が付いたものである。過剰さと妙な慎ましさの同居はトークでも発揮された。質問に対して饒舌に答える一方、すみませんを連発する。ストイシズムの果ての大爆発なのだろう。エッセイでは大好きな映画通いを「日曜の礼拝に通うようなそれは神聖な行事」で「映画を観ている間だけ、なにかから救われる」と告白する。祈りに近い没入の体験が、片桐の舞台に深度を与えているのだと思う。(10/20)

 

★[バレエ][ダンス]  新国立劇場バレエ団『ペンギン・カフェ

新国立劇場バレエ団が、新芸術監督デヴィッド・ビントレーを迎えて初めてのシーズンを開幕した。プログラムはバレエ・リュスの古典、フォーキンの『火の鳥』(10年、54年)、バランシンの代表作『シンフォニー・イン・C』(47年、48年)、自身の『ペンギン・カフェ』(88年)。どれも激しい舞踊シーンを含むタフなトリプル・ビルである。

幕開きの『火の鳥』は上演100周年記念(バレエ団初演)。オリジナルに近いとされるグリゴリエフ=チェルニチェワ版に基づく。ストラヴィンスキーの色彩豊かな音楽、ロシア民話の素朴な味わい、濃厚なキャラクターダンス、ニジンスカやバランシンに共有される面白い人体フォルムなど様々な魅力を含むが、現状では歴史的意味合いの方が強い。今後は演奏のレベルアップによる補強が必要だろう。

タイトルロールは小野絢子、エリーシャ・ウィリス(バーミンガム・ロイヤル・バレエ)、川村真樹。小野は溌剌とした若鳥。音楽をすぐさま羽ばたきに変え、魔王の手下たちをユーモラスに踊らせる。ウィリスは伸びやかでダイナミックな成鳥、川村はゴージャスに羽ばたき手下を圧する、輝きに満ちた妖鳥だった。円熟味の点で川村が最も適役と言えるだろう。

イワン王子はそれぞれ、スターの存在感あふれる山本隆之、純朴なイアン・マッケイ(BRB)、物語を生き抜いた福岡雄大。王女ツァレヴナはたおやかな寺田亜沙子と風格のある湯川麻美子、魔王カスチェイは鮮烈なマイム役者トレウバエフ、妖しげな冨川祐樹、重厚な古川和則が務めた。

続くビゼー交響曲一番に振り付けられた『シンフォニー・イン・C』はバレエ団3度目。振付指導が変わり、初演時の破格のエネルギーは見られなかったが、すっきりした仕上がりである。ダンスクラシックの語彙のみによる振付は、ダンサーに純粋なパと音楽に忠実な楽器であることを要求する。 今回は第1、第2楽章の女性プリンシパル、長田佳世(1)、小野(2)、米沢唯(1)、川村(2)がそれに合致した。とりわけ初日の長田が優れたバランシンスタイルを体現している。躍動感あふれる音楽性、完全に意識化されたクラシックの肉体、盤石の技術。立ち姿のみで膨大な情報量を発信する。また火の鳥と同じく初日配役された小野は、初々しい蕾の魅力を発散させた。プリマがやるべき事を十分に理解しており、後は肉体の成熟を待つばかりである。男性では長田と組んだ福岡が踊りの切れと美しさで他を圧倒した。西山裕子、大和雅美を始めとするコリフェは充実、コール・ド・バレエの熟成はこれからである。

最終演目『ペンギン・カフェ』は、民族音楽の要素を多く含むサイモン・ジェフスの曲を創作の端緒とする。振付も多彩だった。ボールルームダンスやモリスダンスなど、種々の踊りを動物たちが賑やかに踊る。終盤は一転してカフェの入口が「ノアの箱船」の入口となり、動物と人間が二人一組で入っていく。夕闇迫る中、ペンギンが遠ざかる箱船を背に一人佇んで幕となる。 動物は全て絶滅危惧種であり、このペンギン種が既に滅んでいる事実を知らなくとも、生と死についての深い洞察が作品に隠されていることは明白である。シマウマが射殺される時の崇高な痙攣、消え入るように立ち去るネズミの小さな魂。動物たちの楽しげに踊る姿は、束の間の生、種のはかなさと表裏である。原題にある Still Life の二重の意味、「人生は続く」と「静かな生(静物画)」が、振付家の詩的で繊細な演出を通して静かに伝わってくる。

ダブルキャスト全員が献身的な演技を見せるなか、シマウマ 古川の高密度のフォルム、ノミ 西山の的確で音楽的な動き、ネズミ 福田圭吾のペーソスと役への同化が素晴らしかった。またペンギン さいとう美帆の細やかなフットワーク、ヒツジ 湯川とパートナー トレウバエフの洒脱な踊り、モンキー 福岡の華やかさ、熱帯雨林家族の貝川鐵夫、本島美和の無意識の哀しみも印象深い。

入口は入り易く、出るときは思索家となる優れた作品。恐らく子供の目と頭は深い理解を示すだろう。ポール・マーフィ指揮、東京フィル。(10月27、28、30日、11月3日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2835(H23.2.21号)初出

 

★[演劇]  ルパージュを見る

東京芸術劇場でロベール・ルパージュの『ブルードラゴン』を見た(11/11)。現在の中国、中国の歴史など、ローカリティが突き詰められているが、ハイテクを駆使したローテクの味わいはいつも通り。小さなオモチャのような列車が通り過ぎる驚き。人物の瞬間移動が映画のカット割りのリズム同様、視覚的喜びをもたらす。劇場でできること、すなわち人間がその場でできることを(優れた映像の助けを借りながらも)やり遂げたいのだと思う。だが緻密な演出をそれ自体目的としていないことが、ルパージュの最大の美点。アウトローの感覚に基づく世界への批評、マッツ・エックと共通する実存の苦しみが創作の根幹にある。

中劇場はまだ貸し小屋の匂いが染みついている。芸術監督はこれを親密な空間に変えることができるのだろうか。(11/12)

 

★[ダンス]  山崎広太ソロを見る

大野一雄フェスティバル2010で、久しぶりに山崎広太のソロを見た(11/23 BankART Studio NYK)。『百年の舞踏』と題した、数組のダンサーによるコンサート形式、そのトップが山崎だった。四角に取り囲んだ客席を跳び越え、3ヵ所で踊るため、見えない部分もあるが(柱もあるし)、山崎の現在の思考を存分に味わうことができた。

9月彩の国さいたま芸術劇場での伊藤郁女作品では、伊藤とのデュオに誠実な人間性を感じさせたが、ソロでは山崎が現在考えていることが、そのまま肉化される。客電は点いたまま、音楽はミニマル、何ものにも頼らないし、何ものにも回収されない、すごい踊りだった。供物としての肉体であり続けるところは、舞踏の正統的な継承者である。一方純粋に体で思考する点では、ジャンルを問わず、現在随一のダンサーだと思う。ラストの体の波動を見せる場面では、気が漲り、踊り本来の姿が立ち現れた。山崎固有の踊りでありながら、伝統的でもある不思議。舞踏の歴史が身体化されているということなのだろう。(11/24)

 

★[バレエ]  『シンデレラ』新国立劇場バレエ団

新国立劇場バレエ団が年末恒例のアシュトン版『シンデレラ』を上演した。デヴィッド・ビントレー芸術監督、大原永子監督補の新体制になって二度目の公演、初めての全幕物である。

新体制による変化はまず運営面において顕著だった。ポスト・トーク、リハーサル見学、プルミエ・レセプションの導入、筋書きの当日配布、カーテンコールの改善など、観客とのコミュニケーションをより深める方策が採られている。カーテンコールを一回ごとに幕を降ろすやり方に変えただけで、ダンサーと観客の間に親密な空間が生まれた。社会における劇場の意味や、消費される文化ではなく育まれる文化の重要性を、新体制が認識している証左である。

二年ぶりの『シンデレラ』は4キャストが組まれた。期待されたパントマイム部分のブラッシュアップはまだ個人の技量に任されているようだが、主役、アンサンブルの踊り方にははっきりと変化が見られた。主役にはパの明晰さとスピード感、アンサンブルには伸びやかで大きな踊りが要求されている。従来の舞踊スタイル重視から、クリアな技術への転換があり、プロのバレエ団として新たな一歩を踏み出した印象を得た。それを象徴したのが長田佳世と小野絢子の初役二人である。

長田は、一人加わったことでバレエ団の体系が変わる程の強い才能である。長田の正確で躍動感あふれる踊りは、アシュトンのプティパ・オマージュをプティパそのものに戻す作用があった。炉端での全身全霊を傾けた演技はモスクワ派のリアリズムを想起させる。二幕アダージョでの見せ方には更なる工夫が望まれるが、本格派ドラマティック・バレリーナの誕生を期待させるに充分な舞台だった。カーテンコールでの心のこもったレヴェランスも素晴らしい。

一方、若手の小野はアシュトンの音楽的アクセントを隈なく実現する。明朗な精神と闊達な踊り、子ども達に夢を与える舞台人としての自覚に基づいた、優れたパフォーマンスだった。それぞれの王子は共にノーブルな佇まいの福岡雄大と山本隆之。福岡は端正な踊り、山本は場を支配する華やかな存在感と手厚いサポートに魅力を発揮した。

初日を飾ったさいとう美帆は重圧のせいか少し緊張気味だったが、持ち役にさらに磨きをかけている。踊りが大きくなり、何よりも感情が出せるようになった。王子のトレウバエフは最終日配役の義理の姉に精彩がある。

中堅の寺島まゆみと貝川鐵夫はリリシズムあふれる舞台作り。寺島の初々しいシンデレラと貝川のゆったりと鷹揚な王子が、親しみやすいお伽の世界を作り上げた。

義理の姉たちでは、初役のトレウバエフが明確なマイムと舞台への献身的情熱で一幕を支配、ベテラン堀登の溌剌とした可愛い妹に愛される姉だった。また気の好い妹 高木裕次が進境を見せている。仙女3キャストでは、復活の湯川麻美子が完成された役作りと円熟のヴァリエーションで舞台を大きく包み込んだ。

難しい道化役3キャストはそれぞれが貢献。八幡顕光は踊りの切れ、福田圭吾はその場に寄り添う自然な演技、バリノフは気合いのこもったマイムで客席を沸かせた。ナポレオンとウェリントンは八幡=小笠原一真組の妙なおかしみが印象的。四季の精では西山裕子の音楽的な春の精、新加入 米沢唯の優雅で切れのある秋の精が目立った。

王子の友人たちは回を重ねて整ったが、アンサンブルは初日から仕上がりがよかった。突撃隊長 大和雅美率いる星の精たちの肉体のきらめき、大柄マズルカの伸びやかな踊りが素晴らしい。ガーフォース指揮、東京フィルの奏でる濃密なプロコフィエフも公演の大きな魅力だった。(11月27、28日、12月4、5日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2833(H23.2.1号)初出