2011年公演評

★[ダンス]  コンテンポラリーダンス・チャリティー公演」

東日本大震災から丁度三週間、北品川のフリースペースでコンテンポラリーダンスによるチャリティ公演が開かれた。名付けて「作業灯、ラジカセ、あるいは無音」。発起人は舞台音響の牛川紀政、ダンサーは伊藤キムが中心となり、おのでらん・ももこん、東野祥子、鈴木ユキオ他、実力者が勢揃いした。

12組の出演者のうち踊りそのものが死者へのレクイエムと化したのは、やはり伊藤の肉体においてだった(『生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか?』よりソロ)。ラヴェルのピアノ協奏曲が流れるなか、舞踏の正統的エッセンスを受け継いだ伊藤の体が、静かに発熱する。白いワンピース姿が妖精のようにも、両性具有のようにも見えて、生死を往還する舞踏の最大の可能性が、鮮やかに可視化された。

一方、神村恵の「走り」は、身内を亡くした人々に向けられた(無題)。小さい木の机の前に神村が正座する。ミネラルのペットボトルと携帯電話を机の上に置き、人形遊びのように二つを対話させる。ペットボトルが最近叔母を亡くしたこと(震災前)、そのことを感情に表すことができない悩みを打ち明ける。それに対し、携帯電話が動きながら表現するといいとアドバイス。すると神村はやおら立ち上がり、ペットボトルを体の横に固定して走り出した。まるで伴走者のように。

これは家族や親しい者を失った人達への神村のエールであり、寄り添い続けることへの決意の表明である。ペットボトルと共にただ走り続けることしか今の自分にできることはない、突き詰めた思考の跡を見た。

その他、東野の多面的な実存派ソロ、鈴木、田畑真希の個性あふれるソロ、ボクデスの親子パンダ踊りなど充実した演目が続くなか、おのでらん・ももこんのマイム『合席』は、被災した人々を慰めうる高度の職人芸の結集だった。気弱な男と強力な女が合席する悲喜劇が、超人的に細分化されたおのでらんの肉体と、恐ろしく懐の深いももこんによって描き出される。その間合い、徹底した仮構の体は芸術的洗練を帯びる一方で、マイムが前提とする見せる芸としての謙虚さも忘れていない。おのでらんの現実への透徹した眼差しが、唯一被災者と対峙しうる舞台を作り出したと言える。

またカワムラアツノリ率いる初初期型の『コレオグラフィー』、本日登場の振付家・ダンサーの物真似コントも面白かった。内輪受け狙いだが、肉体を駆使する高度な批評性に、久しぶりに腹を抱えて笑うことができた。  上演時間は5時間。入場者数は114名。二千円の入場料はスペース使用料を除き、日本赤十字社と企業メセナ協議会復興支援ファンドに寄付される。(4月2日 北品川フリースペース楽間)  『音楽舞踊新聞』2011年5月21日号,No. 2841初出(12/31)

 

★[演劇][バレエ]  新国『ゴドーを待ちながら』を見る +マラーホフのこと

今まで見たなかで、一番面白かった(三つだけだけど)。新訳ということもあるのか、一から洗い直されている気がする。衣裳はいわゆるだが、装置の抽象性と噛み合って、違和感はなかった。役者はエストラゴンの石倉三郎が圧倒的にすばらしい。腕を広げて項垂れるだけで、キリストのような受苦が示される。肉体そのものが悲しみの表象。最後のせりふ「うん、行こう」の一声には無垢な魂が宿り、ゆっくりとフェイドアウトする舞台と客席(そしてそこにいる人々の人生)を浄化した。希望と諦念が入り混じった複雑な一声だった。

もう一人はラッキーの石井愃一。「踊れー」の踊りがすごい。自分の振付だろうか。いずれにしても石井にしか踊れない、肉体と密着した踊りだった。倒れ方も抜きん出ている。偽りのない肉体。こうやって見ると、喜劇系と新劇系の違いが分かる気がする。ウラジミールの橋爪功は運動神経に優れ、動きの切れもすばらしいが、演技と身体は切り離されている。セリフ主導の演技ということ。喜劇系は体から入る。自分の体を作っている。  最後にポッゾの山野史人にびっくりした。自在なセリフはともかく、あんなに華麗な役者だったとは!(4月22日 新国立劇場小劇場)

全然別の舞台で、書いておきたかったこと。ベルリン国立バレエ団1月公演のマラーホフについて。なぜ何を踊ってもマラーホフなのか。『チャイコフスキー』で思ったのは、何よりも芸術愛好家だということ。つまり舞台の虚構に入ることが、マラーホフの至上の喜びなのだと思う。チャイコフスキーの苦悩にひたる喜び、白鳥群舞の中に入る喜び。役になりきるのではなく、役を踊ることそのものが喜びなのだ。芸術監督という社会的な仕事をこなしながら、同時に現実は悲惨であると感じ続けられる能力がその根元にあるのだろう。芸術愛好家である以上、芸術家としての深まりは期待できないが、ダンサーとしては誰も侵すことのできない奇跡のような人である。(4/24)

 

★[ダンス][バレエ]  「オールニッポン・バレエ・ガラコンサート2011」

お盆の八月十五日、終戦記念日の日に「オールニッポン・バレエ・ガラコンサート2011~東日本大震災復興支援チャリティ~」が開催された。実行委員は現役ダンサー9人、舞台監督の森岡肇、照明の足立恒、音響の松山典弘他がボランティアで参加した。

開演前に実行委員の西島千博遠藤康行、酒井はな、伊藤範子、島地保武、森田健太郎が登場、代表して西島が収益金と募金の振り分けを説明した。まず被災地ボランティアに30%、被災地ワークショップに30%、福島県いわき市での公演に40%という内訳である。さらに吉田都が登場、「トップダンサーによる意義深いチャリティ公演だと思います、ご来場頂いてさらにお願いするのは心苦しいですが、ロビーで募金に立ちますのでよろしくお願いします」と挨拶した。吉田は森下洋子熊川哲也と並んでプログラムにもメッセージを寄せている。幕間の募金活動には吉田、実行委、出演者に加え、東京バレエ団の高岸直樹芸術監督補が参加した。

公演は二部構成の三時間。国内バレエ団では新国立劇場バレエ団、谷桃子バレエ団、東京シティ・バレエ団、スターダンサーズ・バレエ団、海外では国立マルセイユ・バレエ団、バーミンガム・ロイヤル・バレエ団、パリオペラ座バレエ団、ミュンヘン・バレエ団、キール州立劇場バレエ団にそれぞれ所属する日本人バレエダンサー、内外で活躍するコンテンポラリー・ダンサー、さらに和太鼓佐藤健作の総勢40名が集結し、持てる技倆を披露した。

死者へのレクイエムとしては、最終演目の遠藤作品『Mayday, Mayday, Mayday, This is…』がその役割を見事に果たしている。死者を呼び戻し、共に踊り、再び死者を見送る、言わば盆踊りと同じ構造で、哀悼の意を表した。<br> また第一部の最後に踊られた酒井の『瀕死の白鳥』(改訂振付 畑佐俊明)では、不死鳥が表現された。最後まで力強く生き抜いた白鳥が、サンサーンスの音楽と共に息絶える。照明が明るくなると、逆回転フィルムのように白鳥が蘇るさまが演出された。表面的な美しさにとらわれない、酒井の実存が滲み出た白鳥の生と死だった。

古典作品では新国立の長田佳世、芳賀望、厚地康雄による適材適所の『海賊』パ・ド・トロワが、コンテンポラリーでは青木尚哉&柳本雅寛による高度でコミカルなデュオが際立っていた。またキミホ・ハルバート、中村恩恵、松崎えりが連続上演で振付の個性を競い合った他、フォーサイスカンパニー所属の島地が、和太鼓を使った躍動感あふれる作品を発表した。

死者への鎮魂と生者への励ましがそれぞれ作品化され、芸術的にもレヴェルの高い意義のあるチャリティ・コンサートだった。(8月15日 メルパルクホール)  『音楽舞踊新聞』2011年10月21日号,No. 2854初出(12/31)

 

★[バレエ]  小林紀子バレエ・シアター『マノン』

小林紀子バレエ・シアター定期公演が100回目を迎えた。祝賀記念公演はケネス・マクミランの『マノン』(全三幕)。74年の第一回からおよそ四十年、前半は古典と創作、後半は英国バレエを上演してきたバレエ団の、言わば集大成である。

『マノン』(74年)はアモラルな少女マノンと、それに魅入られた学生デ・グリューの恋を軸に、人間の欲望の在処を描き尽くしたマクミラン円熟の作品である。ソビエト・バレエの影響著しいアクロバティックなリフトが、ここにきて初めて内的必然性を備え、アダージョにおける男性ダンサーが女性同様、クラシックのラインで精神性を表すようになった画期的作品でもある。

プライヴェート・カンパニーがこの大作を取り上げた勇気にまず驚かされたが、今回の上演は図らずも、マーティン・イエーツによる新編曲版を本邦初演する貴重な機会となった。イエーツ編曲は、マクミラン自身が原編曲版を必ずしも理想的と考えていなかったことから、英国ロイヤル・バレエの依頼で実現した(N. Wheen)。本年三月フィンランド国立バレエで初演、六月には本家ロイヤル・バレエでも上演されている。

全体的な印象としては場面ごとの繋がりが自然になり、以前はぶつ切れだったものが一つの纏まった作品に感じられるようになった。序曲、間奏曲(挿入あり)、パ・ド・ドゥ曲はより叙情的になり、音楽が振付を牽引するのではなく、振付に寄り添った感触がある。

さらに加えて、ぼろ布を象徴として使用したジョージアディスによる初演美術が、P・ファーマーの森を配したロマンティックな美術(オーストラリア・バレエ提供)に取って代わり、作品の猥雑な印象がすっかり消えてしまった。ジュリー・リンコンの演出も、ダンサーの能力を引き出しながらアンサンブルをまとめ、ドラマの大きな流れを作り出す方向にある。編曲、美術、演出の傾向が揃い、言語矛盾のようだが、後味のよい『マノン』上演となった。

マノン役の島添亮子は一幕前半こそ役に馴染んでいないようだったが、ムッシュG.M.、レスコーとのトロワになると俄然本領を発揮し始めた。自己放棄する能力、受苦する能力が全開する。スペイン風二幕ソロの強烈な自己顕示、男達の手で空中遊泳する艶やかな官能、会話が聞こえるような腕輪のパ・ド・ドゥ、そして全てが剥ぎ取られた三幕トロワと沼地のパ・ド・ドゥ。仰向けに倒れたデ・グリューに支えられたアラベスクの鮮烈さ、ぼろ布のように脱力した肉体の崇高な輝きは、音楽、ドラマ、肉体の気が一致して初めて可能な高い境地を示している。

デ・グリュー役ロバート・テューズリーは、マクミランアラベスクを体現できる世界でも数少ないダンサーである。一幕ではお手本のようなソロと優れたサポートを見せながら、まだドラマの外にいる感じだったが、島添が役と一致した辺りから情熱的なデ・グリューとなった。二幕の徐々にマノンに近づいていく熱気、腕輪のパ・ド・ドゥでの激しい怒り、三幕ではマノンに付きっきりの献身と苦悩、最後は体全体を使って防波堤のようなサポートを見せた。『インヴィテーション』から芽吹いた、島添との優れたマクミラン・パートナーシップである。

レスコーには若手の奥村康祐。マノンの兄というよりもやんちゃな弟に見えるが、演技に踊りに難しい役をよく健闘した。レスコーの愛人には同じく若手の喜入依里。ソロ、パ・ド・ドゥはまだこれからだが、舞台度胸がよく華やか。G.M.の後藤和雄は存在感があり、島添との息もぴったりだった。

マダムの大塚礼子、看守の冨川祐樹、ベガーチーフの恵谷彰を始め、アンサンブル一人一人が役どころを押さえた演技。二幕娼館のディヴェルティスマンは明るく健康的で楽しかった。

練達の指揮者アラン・バーカーが、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団から瑞々しい叙情性を引き出している。(8月27日 新国立劇場オペラ劇場)  『音楽舞踊新聞』No.2852(2011年10月1日号)初出(12/30)

 

 

★[ダンス][バレエ][その他]  シルヴィ・ギエム・オン・ステージ2011」

公益財団法人日本舞台芸術振興会及び日本経済新聞社主催の「東日本大震災復興支援チャリティ・ガラ シルヴィ・ギエム・オン・ステージ2011」が、震災から七ヶ月経った10月19日に開催された。発起人のギエムは、パリとロンドンでいち早くチャリティ公演を行なっている。今回の東京公演でも、高田賢三氏がパリ公演のためにデザインした太陽とヒナゲシのポスターをプログラムの表紙に据えて、一貫した被災地支援の精神を表明している。なおこの後展開される「HOPE JAPAN TOUR シルヴィ・ギエム・オン・ステージ2011」では、ギエムの希望で、被災地のいわき市盛岡市での公演が追加された。

ガラの演目はバレエ、日舞、和太鼓と笛、日本歌曲、朗読と多岐にわたる。バレエダンサーではギエムとウィーン国立バレエ団芸術監督のマニュエル・ルグリ、ミラノ・スカラ座バレエ団エトワールのマッシモ・ムッルがそれぞれの個性に見合ったソロを、さらに封印していた『ボレロ』をギエムが東京バレエ団と踊った。また往年のダンスール・ノーブル、元英国ロイヤル・バレエ団芸術監督のアンソニー・ダウエルが、英国バレエの母ニネット・ド・ヴァロワの霊的な詩を二篇朗読している。

日本人出演者では、和太鼓の林英哲、笛の藤舎名生の演奏で日舞花柳壽輔が老練の踊りを、メゾ・ソプラノの藤村実穂子が日本歌曲を無伴奏で披露した。

心のこもった熱演が続くなか、被災地への想いが一際胸に響いたのが、藤村の歌だった。来日公演や新国立劇場新日本フィルのオペラ公演でお馴染みの実力派歌手だが、日本語の歌曲を初めて聴いた。「十五夜お月さん」「五木の子守唄」「シャボン玉」「赤とんぼ」を歌う引き絞られた濃密な声が、藤村の身体となって劇場を満たしていく。全てを凌駕する「声」の直接的な力を思わされた。そして一呼吸置いた「さくらさくら」。遠く離れた異郷に生きる藤村の日本への想い、そこでの大災厄による死者と残された人々への想いが、悲歌となってあふれ出る。本チャリティに最もふさわしい、芸術の捧げ物だった。

『ルナ』と『ボレロ』のベジャール作品を踊ったギエムは年齢を重ね、新たな境地に至っている。「ベジャールの魂を連れてくるため」『ボレロ』の封印を解いたと語るが、自身は異教的拡がりのあるベジャールよりも、北方の実存派マッツ・エックに親和性をもつダンサーである。ベジャールという異質を勢いで踊った往時とは異なり、年を経たギエムの新たな肉体は、その異質をクラシックの技法を通して真摯に取り込む作業を行なっている。『ルナ』ではギエム独自の美しい脚のエクステンションよりも、フランス派の伝統を担う自在な脚捌きに目を奪われた。

封印解除の『ボレロ』はやはり東北の死者たちとベジャールへのレクイエムとなった。楔を打つように、一つ一つの動きを丁寧に刻んでいく。その想いの密度に粛然とさせられた。驚異的な身体性がゆるやかに下降していく中で、素のギエムが滲み出た、共感の持てる『ボレロ』だった。演奏はアレクサンダー・イングラム指揮、東京シティ・フィルによる。

出演者、スタッフは全員無報酬での参加。入場収入、グッズ収入は経費を差し引き全額、東日本大震災津波遺児支援金として、あしなが育英会に寄付される。(10月19日 東京文化会館)  『音楽舞踊新聞』2011年11月21日号,No. 2857初出(12/31)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『パゴダの王子』

新国立劇場バレエ団が世界に誇れるレパートリーを作り上げた。現芸術監督デヴィッド・ビントレー振付による『パゴダの王子』全三幕である。

本作の意義は重層的だった。まずベンジャミン・ブリテン唯一の全幕バレエ曲(57年)を現代に蘇らせた点、日本の身体(能、杖術)や美術(版画、切り絵)を引用し、その国の文化に根差したバレエを作った点、さらに離散した家族が苦難を乗り越え、最後に再会を果たすプロットを用意して、震災で傷ついた国民を鼓舞した点である。才能豊かな円熟期にある振付家が、我々の劇場のために精魂込めて創った作品に接すること自体、一種の僥倖である。

『眠れる森の美女』を下敷きにし、ガムランを内包するブリテンの曲は魅力があった。神秘的、植物的なメロディは、東洋の宮廷を舞台とする兄妹の物語に合っている。

ビントレー版のプロットは先行のクランコ、マクミラン版に倣い、『眠り』『美女と野獣』『リア王』の要素を含むが、独自に姉のエピーヌを継母に設定し直し、王子(継子)をサラマンダーに変える場面を登場させた。妹のさくら姫(ローズから変更)が試練を乗り越えて兄を救うプロセスは、アンデルセンの『野の白鳥』のエコーを含んで説得力がある。

繊細な音楽性と明確な演劇性を基盤とするビントレーの演出は、作り手の手が見えないほど詩的だった。特に子役の扱い(甕棺、昔語り)と、衰えた皇帝と道化の場面が素晴らしい。振付も役どころを的確に表現。宮廷アンサンブルがすり足で歩行し、体を鮮やかに切り替えた時、袴姿でトゥール・アン・レールやグラン・バットマンをした時には、言い知れぬ感動を覚えた。

レイ・スミスの繊細な美術は振付家の美意識と一致している。白い紙細工のような動物や棘(エピーヌ)の点在する黒地の額縁が、物語を見守る。切り絵の富士山と青い月(最後は日の丸に)がバックに配され、同じく切り絵の波、炎、稲妻が観客を版画の世界へと誘う。宮廷の装束や盛り上がったチュチュも美しく、国芳に想を得たかわいい妖怪やパゴダ人の被り物は、いかにも英国風だった。

照明は日英コラボレーションの一環として沢田祐二が担当。沢田らしい絶妙な色調は二幕で生かされ、漆の黒も実現されている。ただ宮廷場面では少し主張が強く、特に一幕は暗めの照明のため、残念ながら演出の全てを見ることができなかった。またスポットライトでの踊りは、ダンサーの作る空間を確認できない難がある。

主要キャストは三組。さくら姫には、小野絢子、長田佳世、米沢唯、王子には福岡雄大、芳賀望、菅野英男、共に期待に違わぬ出来栄えである。

第一キャストの小野は美しいラインと優れた音楽性で振付の規範を提示。勇気とユーモアを兼ね備えた、絵に描いたような姫である。王子の福岡も凛々しい若武者姿が光り輝いている。覇気のある華やかな踊りが素晴らしく、パートナーとして磨きが掛かれば盤石の主役である。

第二キャストの長田はいわゆる姫タイプではないが、役にはまり込み、二幕ソロでは深い音楽解釈を示した。一挙手一投足に誠実さが滲み出る、心温まる舞台だった。王子の芳賀は以前のような踊りの切れには欠けるものの、無意識の押し出しと鋭い音感が魅力。

第三キャストの米沢は、すでにベテランのような舞台だった。踊りは自在、振付の全てに解釈が行き届き、さらにそれを上回るクリエイティヴィティを見せる。舞台で自由になれるのは二代目ゆえだろうか。王子の菅野は優れたパートナー。妹を見守る愛情深い兄だった。

美しい継母エピーヌには、湯川麻美子、川村真樹、本島美和という迫力あるキャスティング。湯川の明確な演技と舞台を背負う責任感、川村のダイナミックな踊りと能面のような怖ろしさ、本島の華やかな存在感が適役を物語った。

ダンサー冥利に尽きるのは皇帝の堀登(他日トレウバエフ)と道化の吉本泰久だろう。衰えた老皇帝を道化が抱っこする三幕デュオは、リア王原型の究極の愛の形である。堀の気品に満ちた枯れた演技、吉本の裏表のない献身性が素晴らしい。吉本は観客の優れた水先案内人でもあった。

さくら姫に求婚する四人の王には12人の精鋭が投入され、場を大いに盛り上げたが、中でも西の福岡、南の厚地康雄が抜きん出た踊りを見せた。新加入の奥村康祐、ソロデビューの小口邦明も実力発揮、厚地は他日、怖ろしく優雅な宮廷官吏を演じている。

宮廷、異界両アンサンブルの美しいスタイルと的確な演技、ポール・マーフィ指揮、東京フィルの熱演が、舞台の成功に大きく寄与している。

本公演を最後に、開場以来バレエ団に貢献してきた西山裕子が退団した。流れるような自然な音楽性、明晰なマイムと演技はバレエ団随一。春の精は世界一のアシュトン解釈だろう。ジゼル、シンデレラ、マーシャ、ガムザッティ、ドゥエンデ、チャルダッシュ、ノミ、そして盟友遠藤睦子と組んだキトリの友人を、我々は二度と見ることはできない。(10月30日、11月1、3、5、6日 新国立劇場オペラパレス)  『音楽舞踊新聞』No.2860(2012年1月1・11日号)初出(12/29)

 

★[バレエ][ダンス]  2011年バレエ公演の総括

2011年のバレエ公演を首都圏中心に振り返る(含10年12月)。3月11日に起きた東日本大震災とその後の原発事故は、直接的被害の少なかった首都圏にも多大な影響を及ぼした。新国立劇場バレエ団、日本バレエ協会小林紀子バレエ・シアターが公演を中止、国内バレエ団への海外ゲストダンサーが来日を見合わせる中、新国立劇場バレエ団芸術監督デヴィッド・ビントレーの本国での手兵、バーミンガム・ロイヤル・バレエ団が予定通り来日し、チャリティ公演も行なった。

震度5強を経験した大震災の翌日、スターダンサーズ・バレエ団「振付家の競演」は余震の続く中で上演された。あらゆる前提が崩れた時の芸術の意味、目の前の現実に創作は対抗できるのかといった問いが、演者にも観客にも否応なく突きつけられる。その中で遠藤康行作品にはその問いに耐える強度があった。

震災から半月後、牛川紀政プロデュースのコンテンポラリーダンス・チャリティ公演では、伊藤キムのソロと神村恵の創作が、五ヶ月後の「オールニッポン・バレエ・ガラコンサート」では、やはり遠藤作品と酒井はなの『瀕死の白鳥』が、七ヶ月後のシルヴィ・ギエム東日本大震災復興支援チャリティ・ガラ」では、ギエムの『ボレロ』とメゾ・ソプラノ藤村実穂子の『さくらさくら』が、それぞれ死者へのレクイエム、生者への励ましとして被災地に捧げられた。

新国立劇場のリハーサル室で地震を経験したビントレー監督は、自作『アラジン』でバレエ公演を再開する際、震災で傷ついた国民に対し、この公演を立ち直るきっかけとして欲しいと述べて、芸術家の使命、劇場芸術の社会的役割に対する深い認識を示した。新シーズン幕開けの新作『パゴダの王子』でも、離散した皇帝一家が苦難を乗り越えて再会を果たし、国も健康を取り戻すプロットを設定して、国民の鼓舞に努めている。

この『パゴダの王子』全三幕はベンジャミン・ブリテンの全幕バレエ曲を蘇らせると共に、日本の身体、美術を引用して、我が国独自のバレエを作り上げることに成功している。ビントレーの全身全霊を傾けた日本への強いオマージュである。また新国立劇場地域招聘公演として新潟シティバレエが上演した『角兵衛獅子』全二幕(振付 橘秋子)も同じく、日本バレエ界の重要な遺産である。

通常公演に戻ると、小林紀子バレエ・シアターが大作『マノン』を上演した他、『ラ・バヤデール』を三団体(新国立劇場バレエ団、谷桃子バレエ団、東京バレエ団)が競演した。復元物ではロプホフの『ダンスシンフォニー』(NBAバレエ団)、サン=レオン原型を残すラコット振付『コッペリア』(有馬龍子バレエ団)の上演があった。

シンフォニック・バレエでは高部尚子(谷桃子バレエ団)、長島裕輔(日本バレエ協会埼玉ブロック)、キミホ・ハルバート(日本バレエ協会)、物語性の強い創作物として山本康介、小林洋壱(共に日本バレエ協会)、コンテンポラリー系では、先の遠藤に加え、松崎えり、大岩淑子の二世組、番外ではマイムの小野寺修二が昨年に続き、文芸物に優れた手腕を見せた。

ダンサーでは女性から上演順に、西田佑子のシンデレラ、長田佳世のガムザッティ、川村真樹のニキヤ、酒井はなのキトリ、久保茉莉恵のキトリ、小出領子のニキヤ、小野絢子のプリンセス、小出領子のオデット=オディール、小野のジュリエット、酒井のジュリエット、島添亮子のマノン、青山季可のリーズ、吉田都のスワニルダ、小野のさくら姫、米沢唯のさくら姫。

男性では、山本隆之のソロル、川島春生のドゥグマンタ、中家正博のエスパーダ、福岡雄大のアラジン、京當侑一籠のジークフリード、厚地康雄のパリス、黄凱のアルブレヒト、テューズリーのデ・グリュー、齊藤拓(高部作品)、福岡のパゴダの王子、堀登の皇帝、吉本泰久の道化、番外として、小林恭のマルセリーヌ篠原聖一のニケーズ。  コンテンポラリーでは木本全優(ゲッケ、ブベニチェク作品)、小口邦明(石山雄三作品)、番外として、山崎広太と共に最後の舞踏家となった伊藤キムの二つのソロが心に残る。  『音楽舞踊新聞』2012年1月1・11日号,No. 2860初出(12/31)