2012年公演評

★[ダンス]  長谷川六の踊り

実演者として、批評家として、プロデューサー(教育者)として、特異な歴史を刻んでいる長谷川六氏。氏の舞踊公演について昨年と一昨年のものをアップする。

 

*長谷川六の『櫻下隅田川』を見た。客電が落ちても、客席は落ち着かない。後方で紙をめくる大きな音、携帯音が鳴り、通路では遅れてきた親子連れの声、「あ、六さんだ!」。そうしたざわめきを物ともせず、長谷川は悠然と舞う。清濁あわせ呑む風でもなく、無関心でもなく、ただ一期一会を貫いている。

舞台は空間的にも時間的にも厳密に構成されていた。助演の中西晶大にはおそらく細かな指示が出されているだろう。二人の動きの質的変化は徹底してコントロールされている。しかしその場で実際感じられるのは、セッション感覚、何も前提としない究極の自由である。来る局面ごとに長谷川の体が反応し、動いているように見える。しかもその反応は深部に生じて、肉体は力みなく静かに漂っている。これまで見せてきた地母神のようなパワー、気の漲り、エロスの横溢は消え、消えたこと自体も想起させない新たな境地だった。

助演の中西はモノとして存在する能力を持つ。亡霊のように、あるいは精霊のように狂母の傍らに佇む。仄暗い照明を浴びて蹲る姿は、石仏かイコンのような聖性を帯びていた。長谷川の空間で生きることのできる、自立した踊り手である。

能を基に身体を使った作品だが、受ける感触は音楽に近い。刻々と変わる微細な動きが、快楽を伴って感覚を刺激する。ただし動きの解釈は拒絶され、思考は麻痺したままだ。ベケットのような空間、または能のエッセンスを抽出したような舞台。メッセージは常に「自由であれ」である。(2011年7月7日 シアターX)

 

*長谷川六が『薄暮』の2010年版を上演した。87年の初演。能の形式を採り、前後二場を長谷川のソロ、間狂言はその都度変わる。今回は韓国現代ダンスの南貞鎬(ナム ジュンホ)が務めた。この作品は「天声人語」(朝日新聞)に書かれた沖縄の一人の老女から、インスピレーションを得ている。神山かめは夫をニューギニア、長男をスマトラ、次男を沖縄で失う。以来、膏薬を体に貼りながら反戦行進を続けてきた。長谷川はこの老女の慟哭を身体化し、能の形式を用いて老女に救いを与えている。

作品は例によって長谷川の美意識の具現だった。カミ手にギターを持つマカオが登場する。生演奏と歌に同時録音のエコーをかぶせ、ブルースの感触とミニマルな現代性を行き来する。その傍らで長谷川は土色の長衣を身につけ、狂女のように髪を逆立てて佇む。音楽とは交感のようなセッション。音楽によって長谷川の体が劇的に変わることはないが、集中が増し、体の統一が促される。老女神山となった長谷川は、夫への想い、子への愛情を少ない動きで表現、ほの暗い照明の中で己の肉体との対話を続けた。

長谷川の横の動きは美的。日本刀のような厳しさを帯びた右腕と、微細な手の動きが尋常ならざる美しさである。一方、前後の動きは危機を孕む。世界が瓦解するのではと思わせる危うい歩行。舞踏を経由した果ての現在のすり足なのだろう。かつては今よりもポジティヴな気のみなぎる神山かめだったかもしれない。現在は静か。しかしこれを衰えと思わせないのは、長谷川の肉体の探求が継続しているからである。

狂言を挿んでの後半は一面海の底だった。鬱金色の鉢巻きに水色の長衣、クリーム色の打ち掛けを着た長谷川は、鳥のように両手を広げてたゆたう。海の底で神山かめは長谷川によって救いを与えられる。膏薬を貼って歩き続けた神山への、まさに鎮魂の舞だった。

狂言の南は黒い袖無しTシャツ、クリーム色の柄物スカート、黒いベタ靴という日常的な装いに、赤い紅を両頬に丸く塗って滑稽味を添えた。相方はベースの斉藤徹。南が「斉藤さーん」と呼んで掛け合いが始まる。圧倒的な美意識を誇る長谷川の空間とは異なり、南の空間は日常性から発するコミュニケーションの場である。互いの即興に耳を傾け、動きを見守る。南の韓国舞踊に由来するエレガンスと暖かさ、内側からスパイラルに広がる肉体がすばらしい。斉藤の音もいつしか韓国太鼓のように響いた。どんなリズムでも三拍子を拾う南の軽やかな足踏み。踊りの愉楽と、無垢でユーモラスな対話が横溢した空間だった。

南の間狂言を入れたことで改めて、長谷川の演劇と美術への傾斜が明らかになった。実演者として批評家として、日本ダンスシーンに多くの栄養を注ぎ込んできた歴史を思った。(2010年7月7日 シアターX)(1/15)

 

★[バレエ]  ボリショイ・バレエスパルタクス

ボリショイ・バレエがセルゲイ・フィーリン芸術監督就任後、初めての来日公演を行なった。プログラムはユーリー・グリゴローヴィチ振付の三演目、『スパルタクス』『白鳥の湖』『ライモンダ』である。85歳になったばかりのグリゴローヴィチは昨秋、ボリショイ劇場改修後初のバレエ公演で『眠れる森の美女』を新演出し、改めて存在感を示している。三演目のうち代表作『スパルタクス』の二日目を見た。

本作はボリショイならではの勇壮な男性舞踊と、叙情的並びに妖艶な女性舞踊が全編を彩る、ソビエト・モダンバレエの傑作である。物語の舞台はローマ帝国時代、剣奴のリーダーとなったスパルタクスの反乱とその死が、妻フリーギアとの愛を交えて描かれる。 構成は登場人物の内面を映すモノローグ、愛のパ・ド・ドゥ、群舞が、それぞれ幕ごとに整然と配置され、古典的な明晰さを誇る。一方振付はキャラクター色の強いクラシックが基本、男性のダイナミックな超絶技巧が見せ場である。 上演アプローチとしては、初演時に意図された剣奴の苦悩と夫婦愛をクローズアップするバレエ・ドラマの方向性と、振付の様式性や造形美を重視する壮麗なパレード、言わば大ディヴェルティスマンの二つが考えられるが、当日は前者のアプローチだった。

スパルタクスのパーヴェル・ドミトリチェンコはその的確な解釈により、グリゴローヴィチ振付の真の姿を伝えている。胸を開く悲劇的な跳躍や、大きく鋭い回転技は、スパルタクスの苦悩や高潔な意志そのものだった。 群舞を統括するリーダーシップに加え、ロシア人ダンサーにしか見られない大地と結びついた宗教性、狂気と紙一重の崇高さを、ドミトリチェンコは身に纏っている。アンナ・ニクーリナの若妻風フリーギアとのパ・ド・ドゥはみずみずしい夫婦の情愛に満ち、その象徴である袈裟がけリフトでは、誇り高い男らしさがあふれ出た。

クラッススのユーリー・バラーノフはローマの司令官を、気の弱さを合わせ持つ一人の人間としてリアルに描き出した。また愛人エギナのマリーヤ・アレクサンドロワは、全てを引き受ける懐の深さを見せる。クラッススに寄り添う、愛情に満ちたエギナだった。 羊飼いや道化のグロテスク・アンサンブル、饗宴での美しい女性アンサンブルには、依然として振付の魅力がある。

元芸術監督アレクセイ・ラトマンスキーは、ボリショイの歴史の一部としてグリゴローヴィチ作品を再導入したが、今回の公演で、地続きに経験された生きた歴史としてのレパートリー化を確認することができた。

パーヴェル・ソローキン率いるボリショイ劇場管弦楽団は、ハチャトゥリアンの叙情性をあまり重視しなかったが、ソリストのレヴェルの高さとダイナミズムで観客を驚かせた。(2月1日 東京文化会館)  『音楽舞踊新聞』No.2866(H24.3.21号)初出

 

*実は、所見日前日のイワン・ワシーリエフ主演公演も見ている。グリゴローヴィチに「ウラジーミル・ワシーリエフからイワン・ワシーリエフに引き継がれた」と言われたと本人が語っているが、体の大きさはともかく、無意識のスケールが小さく、モダンな造型に思われる。丁度ミハイロフスキーに移籍したばかりで、周囲との連帯感もあまり感じられない。超絶技巧のみ記憶に残った。(6/20)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団ローラン・プティの『ノートルダム・ド・パリ

牧阿佐美バレヱ団が創立55周年記念公演の一環として、ローラン・プティの『ノートルダム・ド・パリ』を上演した。プティは昨年七月に87歳で逝去。追悼公演はプティの懐刀ルイジ・ボニーノの愛情深い指導、プティ作品を知り尽くしたデヴィッド・ガーフォースの指揮、さらに主役の充実、溌剌とした音楽性豊かな群舞により、晴れやかな舞台となった。

65年パリ・オペラ座委嘱の本作は、プティが全力を傾けたモダンバレエの古典である。モーリス・ジャールの原始的かつ民謡的な音楽に、プティの恐れを知らない振付が炸裂する。動きの奇矯さがドラマに直結する不思議、天才の技である。

同世代の振付家グリゴローヴィチとは、象徴的手法による作品構成と女性脚線美の強調という共通項を持つ。ただし振付は、グリゴローヴィチがアスレティックで動きの運動性を重視するのに対し、プティはジムナスティックで動きの面白さを追求する。前者があくまでバレエの枠組に留まるのに対し、後者はアン・ドゥダンの脚、大地を踏みしめるステップ、全方向への動きといったバレエの禁じ手をやり尽くす。曾祖父がサーカスで綱渡りをしていた出自と無縁ではないだろう。

見る度に驚かされ、今回も驚いたのは、奇跡小路の赤い起き上がり小法師軍団。膝を抱え、ユニゾンで前後に揺れる振付は、魂のふるさとのように懐かしい。また祈りの場ではミニスカートの女達が、祈るというよりも拝んで、原初的な力を見せつける。ルネ・アリオの骨太な美術、サン=ローランのカラフルな衣裳も前衛と中世のアマルガムだった。

エスメラルダには同団より二名が予定されていたが故障で降板、代わりにボリショイ・バレエ団プリンシパルのマリーヤ・アレクサンドロワが勤めた。いわゆる「プティの脚」ではないが、エスメラルダの心情が手に取るように伝わってくる。フェビュスとは女の喜び、カジモドとは母性的な憐れみ、フロロとは怖れ、それぞれのパ・ド・ドゥが自らの内面に基づいた正直な造型により、しみじみとした説得力を持つ。舞台に全てを捧げる献身性、精神的な好ましさ、真面目さといった美質は、先の来日公演でも明らかだったが、ゲスト出演においても何ら変わりはなかった。カーテンコールで団員たちとハイタッチをするバレリーナは見たことがない。公演成功の最大の功労者である。

カジモドにはプティに見出された菊地研、亡き師匠への想いに満ちた好演である。異形性は薄く、格好良さが先行するが、素直に役に入り込んでいる。フェビュスはベテランの逸見智彦、適役である。成熟した男性の色気や身体性を見せるが、パ・ド・ドゥでの愛の表現はやや控え目だった。

一方フロロには新進の中家正博。正確で洗練されたテクニック、鋭い振付解釈、気の漲りが素晴らしい。特に祈りの場や、エスメラルダを支配する際の手の表現が際立っていた。サポートによる対話も可能。アレクサンドロワと拮抗するエネルギーの持ち主である。今後は役を選ばない活躍が期待できる

男女群舞は見応えあり。特に男性若手の切れのよい動きが素晴らしい。古典作品の桎梏から解放され、動く喜びや楽しさが舞台に横溢した。演奏は東京ニューシティ管弦楽団。(2月19日 新国立劇場オペラパレス) 『音楽舞踊新聞』No.2868(H24.4.21号)初出

 

*アレクサンドロワは『ダンスマガジン』のインタヴューで非常に興味深いことを語っている。まず今年の3月号では、「観客の声援はとても励ましてくれます。しかしそれと同時に、私にはいつだってプロの意見が必要です。それがあるからこそ、それを踏切板にして跳躍ができるのです。観客や批評家の意見に心を動かされることはありません。こんなこと言ってごめんなさい。」と、あやまりつつも正直な気持を述べている。プロとは同業者(ダンサー)のこと。観客や批評家の意見に心を動かされないのは、プロなら当たり前だろう。ただここまではっきり言うダンサーはいない。 同じく5月号では、『ノートルダム・ド・パリ』のプティパ版とプティ版の違いを明確に述べ、パートナーだったセルゲイ・フィーリンについても的確に分析している。さらに「自分で言うのも恐縮ですが、私は誰かの支えになることができる人間なんです。すごく芯が強いんです。」とも。いかにもアレクサンドロワの言葉。(6/22)

 

 

★[バレエ]  ウィーン国立バレエ団「ウィンナー・ガラ」+「エトワール」

休憩を含めて3時間15分の長丁場。コンテンポラリー系の作品が多く、プログラムとしては冗漫に思われる。個人的にはライトフットとレオンの『スキュー・ウィフ』、ロビンズの『イン・ザ・ナイト』が面白かった。動きに工夫があるのと、優れた音楽性ゆえ。

ダンサーはほとんどロシア系のため、ルグリの薫陶の程はまだよく分からない。最もスタイルの近さを感じさせたのは、日本人の木本全優。パリのコンセルヴァトワールで学んでいるので不思議ではないが。前回のルグリ公演ではグッゲとブベニチェク作品で抜きん出た解釈力を見せた(知人の話ではAプロのブルノンヴィルが素晴らしかったとのこと、そうだろう)。今回は『イン・ザ・ナイト』の1楽章ソリストフォーサイス『精密な・・・』。前者では王子のような優雅さとラインの美しさにおいて、二人の先輩(ルグリ、ラツィク)を凌駕している。もちろんルグリのサポートは圧倒的。見ているうちに、新国のルグリと言われる山本隆之の、『アンナ・カレーニナ』における盤石のサポートを思い出した。一方木本のフォーサイスは、昨夏のコンテに比べるとさほどでもなかった。だが慎ましいステージマナーといい、好感度大。日本で踊って欲しい逸材。(4月24日 東京文化会館

 

*ついでに思い出したこと。1月の「エトワール」(2月2日 ゆうぽうとホール)では、ヤニック・ビトンクールが断トツですばらしかった。ガルニエの『オーニス』でオファルト、マニュネと三人で踊ったが、動きの鮮やかさが抜きん出ている。新国の「バレエ・アステラス」で藤井美帆と組んで出場したときも、断トツの美しさ。オペラ座の底力を見たと思ったのだが・・・実はビトンクールは英国ロイヤル・バレエ学校出身だった。その衝撃。ラインの美しさはやはりロイヤル系なのだろうか。フランス派はラインよりも、動きの正確さと機敏さ重視なのか。特に脚の。 マチルド・フルステの腕使いも美しい。ポントワにみっちり仕込まれたと、『ダンスマガジン』のインタヴューに答えていた。これも例外なのだろうか。木本の美しい腕は日本仕込み?(4/25)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『アンナ・カレーニナ

新国立劇場バレエ団春の中劇場公演は、2年ぶり2回目の『アンナ・カレーニナ』。ソビエト・バレエの伝統を受け継ぎ、それを極限まで進化させたボリス・エイフマンの作品である(05年)。

エイフマンはトルストイの原作から、アンナの不安定な感情と、死の強迫観念をクローズアップし、夫カレーニンと愛人ヴロンスキーとの三角関係および、社会の倫理的圧力を、群舞を巧みに使って描き出した。 アンナとヴロンスキーが恋に落ちる一幕は、群舞を含めて浮遊感のある振付、三角関係と社会の圧力に苦しむ二幕は、地に着いた動きが多い。アンナの感情は逐一、アクロバティックなリフトや新体操のような曲がりくねった動きに変換される。特に逆ハの字や卍型の脚線、硬直した歩行、アヘンを飲んだ直後の胎内回帰幻想における内股が印象深い。

激烈とも言える振付は、主役ダンサーに肉体の全てを差し出し、存在を剥き出しにすることを要求する。そこにトップスピードの群舞が加わり、舞台は祝祭的なエネルギーの渦巻く場と化す。バレエ団初演時には、そのあまりの凄まじさに悲壮感すら漂ったが、今回はバレエ団全体が作品を咀嚼し、輝きを加えることに成功した。特に男性群舞の体がほぐれ、無意識の伸びやかさが出せるようになったことは大きい。

キャストは3組。初演組の厚木三杏(アンナ)、山本隆之(カレーニン)、貝川鐵夫(ヴロンスキー)が、集大成とも言える演技を見せた。 厚木は肉体改造を敢行、美しい肢体に纏った筋肉を使い、前回よりも十全に振付の機微を明らかにした。倒立リフトは絶対的ラインを築き、叙情的に流しがちな愛のパ・ド・ドゥ全てに動きの解釈を入れている。そのためアンナの感情と言うより実存が滲み出て、マクミラン流の醜悪さまで描かれることになった。デコルテの美しいドレス姿からオールタイツまで、全身が感覚器官のごとく自在。振付家のヴィジョンを汲み取りそれを実行する能力と、果敢な背面ジャンプや投身が象徴する自己放棄の激しさが、全て花開いた舞台だった。

一方、夫カレーニン役の山本は前回よりも渋さが加わり、人生の苦汁が滲み出る深い役作りを行なっている。振付の解析度、動きの密度が高く、様々な振付作品を踊ってきた蓄積を感じさせる。膝歩行するソロはコンサートピースにできる程の素晴らしさだった。サポートの巧さはバレエ団随一。厚木をたやすく踊らせ、解釈の実現に大きく貢献した。

愛人ヴロンスキー役の貝川は、前回よりも抑えた演技。素直な役作り、茫洋とした肉体の存在感、厚木に体を貸すような献身的サポートに独自の美点があった。

初役組の長田佳世、マイレン・トレウバエフ、厚地康雄は、ロシアでエイフマンに直接指導を受けた初演組に比べると、準備期間の短さが明らかである。エイフマンの語彙、リフトのフォルムはまだ不完全、役作りも空白が残されている。しかし、長田はその豊かな音楽性で、トレウバエフは端正な踊りで、厚地はノーブルなスタイルで、可能な限り舞台を盛り上げた。アンナの造型はまだ途上にあるが、音楽がよく聞こえたのは、長田の功績である。

ゲストは当然エイフマン・バレエから。ニーナ・ズミエヴェッツ、オレグ・マルコフ、オレグ・ガヴィシェフは、特大の肉体で迫力ある舞台を作り上げた。特にズミエヴェッツは前回よりも解釈が深まり、終始アンナとして生き続けている。一幕雪の中、オモチャの機関車が描く輪の中で苦しむ姿が素晴らしかった。

キティ役では前回同様、堀口純が短いシークエンスで的確にドラマを立ち上げ、ソリスト江本拓が、エポールマンとモダンな動きを見事に組み合わせた鮮烈な踊りで、群舞を牽引した。(3月16日、17日昼夜、20日 新国立劇場中劇場) 『音楽舞踊新聞』平成24年5月1日号 No.2869初出

 

*ウィーン国立バレエ団ガラでも、この作品のパ・ド・ドゥが上演された。カレーニンがアンナを責めるデュエットと、カレーニンが膝歩行する苦悶のソロのシークエンス。イリーナ・ツィンバルとエノ・ペシというプリンシパルソリストの配役だったが、贔屓目ではなく、新国の厚木=山本組の解釈とパフォーマンスが遙かに優っていた。経験知も才能も異なる上、観客の志向が両国では違う(ような気がする)ので一概には言えないが。新国の芸術監督D・ビントレーによると「日本人ダンサーはエモーショナル」。バレエダンサーが職業に成りきれていない現状と裏腹かもしれないが。(5/9)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖

新国立劇場バレエ団が2年振り、5回目の牧阿佐美版『白鳥の湖』を上演した。今回は主役に4組をキャスティング。次代を担う2組が、本格的なパートナーシップを発揮し始めた記念すべき公演となった。昨年の『パゴダの王子』でも組み、来シーズンの『シルヴィア』でも組む予定の、小野絢子と福岡雄大、米沢唯と菅野英男である。

小野は前回の早回しのような踊りからは見違える出来栄え。無垢な姫オデットと、気品あふれるオディールを的確に演じ分けている。動きの明確なアクセントとピンポイントの音取り、規範に則った清潔な踊りが素晴らしい。精神の清々しさも、小野固有の美点である。 対する王子の福岡は、故障明けということもあり、踊りは通常よりもソフトだったが、スポーティな持ち味を生かした独自の王子像を造型した。役に入れ込まない風通しのよさが、小野の清潔さと響き合い、兄妹のようなパートナーシップを息づかせている。

一方、米沢と菅野からは、強力な磁場を形成する女と、それに引きずられながらも、見守り受け止める男の姿が垣間見えた。米沢の白鳥はパの痕跡を留めていない。バレエの枠組を超えて「踊り」そのものが現出する。座敷舞いのようなグラン・アダージョを見せた酒井はなと、共通する巫女的性質を持ちながら、米沢はパトスによってではなく、身体の操作によってそうした境地に至っていると思われる。黒鳥では演技に若さを感じさせたが、見事なアン・ドゥダンのピルエット、サービス満点のフェッテが、米沢のヴィジョンを物語った。パートナーの菅野は誠実さを絵に描いたような王子。楷書のような踊りと、行き届いたサポートで、ダンスール・ノーブルの規範を示した。

今回はさらに、ベテランによる日中白鳥バレリーナ競演も実現した。中国国立バレエ団からのゲスト、ワン・チーミンと、英語表記では日本国立バレエ団である、新国立劇場バレエ団屈指の正統派、川村真樹である。 ワンは隅々まで意識化されたクラシックの肉体に、中国風のしなりが加わり、妙技としか言いようのない踊りを見せた。しなやかで強い腕が白鳥の羽ばたきを幻視させる。 一方パートナーのリー・チュンは古風な王子。一幕ソロは、クラシックのエレガンスを示すお手本のような踊りだった。体の切り返しの素晴らしさ、アラベスクの美しさ。力みがなく、涼風が吹き渡るような典雅な味わいがある。演技も誠実、国代表としての責任感に満ちた舞台だった。

対する川村は3回目の『白鳥』。実力と年齢からすると少ない舞台数と言わざるを得ないが、美しい腕とゴージャスなライン、大胆な踊りで自らの才能を十全に発揮した。黒鳥の華やかな気品は、川村にしか出せない美質である。パートナーの貝川鐵夫は、前回のようにドラマに巻き込まれることはなかったが、ゆったりと余裕のあるベテランらしい演技だった。

脇では、厚地康雄のノーブルなロートバルト、王妃西川貴子の威厳と愛情に満ちたマイムが素晴らしい。また道化役八幡顕光の音楽的な踊り、同福田圭吾の軽快な演技、トロワ江本拓の両回りトゥール・アン・レールが印象深い。

ディヴェルティスマンではやはり米沢のルースカヤが圧倒的。試験のような振付を易々とこなし、さらに音楽解釈も加えた。また堀口純が、リリカルで伸びやかな大きな白鳥、淑やかかつ華やかな花嫁候補で、改訂者の美意識の在処を示している。 指揮者アレクセイ・バクランは相変わらずの熱血振りだったが、東京フィルは前回同様、管に乱れがあったのが残念。(5月5、6、11、12、13日 新国立劇場オペラパレス)  『音楽舞踊新聞』No.2874(H24.7.1号)初出

 

*米沢唯は入団当初、何か過剰な、作品をはみ出るあり方をしていたが、昨秋のガラ『ドン・キホーテ』pddから舞台に納まるようになった。『パゴダの王子』では振付家の意図を超えるクリエイティヴィティを発揮、『くるみ割り人形』では世界レヴェルのダンサーが見せるようなアダージョを、初めて新国立の舞台に乗せた(ヴァリエーションはまだ詰める余地があったが)。そして『白鳥の湖』。白鳥を見たとき、誰にも似ていないと思った。隣の見知らぬ人に「これまで白鳥を見た中で、誰か似た人がいますか?」と真剣に聞こうと思ったほど。当ブログ名ではないが、まさに舞台の謎だった。どのようにしてああいう踊りが出てくるのか、誰にも分からない身体の、あるいは意識の操作があるのだろう。ダンサー同士では分かるのだろうか。

小野絢子は少女時代、バレエと並行して日舞を学んでいた。振付遵守、型遵守、ラインの明晰さは、そこから来ているのかも知れない。一方米沢は、意識の上で、踊りそのものを掴んでいるように思われる。易々とバレエ越えをする。『パゴダ』で継母に反抗し、すぐさま正座してあやまる場面があるが、小野は美しいお辞儀、米沢は役の腹でお辞儀をしていた。才能ある二人が刺激し合い、これからの十何年を踊っていく姿が見られるのは、観客冥利に尽きる。どこかへ移籍しなければの話だが。(7/8)

 

★[バレエ]  シュツットガルト・バレエ団『白鳥の湖

クランコ版(63年)を初めて見る。第一印象は音楽をかなりいじっているということ(原曲使用あり)。一幕はワルツ(?)、トロワを省略、その代わりにパ・ド・シスで王子と女性(町娘とのこと)5人が踊る。次に王妃のくだり、そして乾杯の踊りになる。王子はジプシーの占い女に化けて登場し、ウォルフガングの曲でソロを踊るので、よく踊る王子。 二幕ロットバルトは冑とマントを身につけて、フクロウには見えず。 三幕も個性的。宮廷に子ども達の姿がある。花嫁候補はポーランド、スペイン、ナポリ、ロシア、そしてオディールがロットバルトのマントから現れる(退場も同じくマントの中へ)。民族舞踊が面白い。元の舞踊に遡っていると思われる。黒鳥のPDDソロは王子が新発見曲、オディールは蘇演版王子のソロで踊った(本来は女性用だったから?)。 四幕のPDDは別曲を使用。王子は波にのまれて死に、オデットは白鳥に戻る。全体にブルメイステル版(53年)の影響を感じる。

一方ヌレエフ版(64年)はクランコ版の影響大。 ジークフリートエヴァン・マッキー(トロント出身)。総じてシュツットガルトの男性ダンサーは一昔前のダンスール・ノーブルの趣を留めている。爪先が美しく、足音がしない(コール・ド・バレエもポアント音なし)。また規範に則った正確な技術が素晴らしい。地元出身のフォーゲルは傍系に思えるほど。新国立にゲスト出演したリー・チュンも古風なジークフリートだったが、やはりシュツットガルトに客演しており、バレエ団の明確な美意識を感じさせる。

50年間同じ版を踊り継ぐことで、新作が古典になる。シュツットガルトの観客は『白鳥』と言えばこの版を思い浮かべる訳で、舞台体験の偶然性と絶対性を思う。(6/14)

 

★[ダンス]  長谷川六最新ソロを見る

批評家、ダンサー、プロデューサー、教師として、日本ダンス界で独自の地位を築く長谷川六のソロを見た(7月10日 キッド・アイラック・ホール)

長谷川は、日本画家間島秀徳による巨大な円筒二基の間で、湯浅譲二の40年前の曲をバックに踊った、と言うか、居た。円筒が陰になってほとんど見えない位置(私)。時々長谷川の研ぎ澄まされた美しい手がぬっと出てくる。ガラス玉をばらばらと落とす音が、食べ物をこぼすようにユーモラスに聞こえる。円筒にしゃぶりついたり(ほんとはいけないこと、絵の具が落ちる)、左右の椅子を行ったり来たりして見た。左の女性はすごく迷惑そうにしていた。集中できないからか。でも見えないことに怒っている風も。

湯浅の音楽はノイズ風で、アフタートークの時、音量が足りないとの湯浅の苦言あり。長谷川が使用する音とは違って、生の荒々しさがある。そのため、いつもの美的に洗練された空間とは異なる破れ目、裂け目が生じた。踊り自体も音に立ち向かっているような、対話しているような切迫感があった。キュレーションの面白さだろう。

こういう事故的パフォーマンスだったが、と書いて思い出したのが、終盤の長谷川。若い男の子二人にガラス玉を拾うよう命令、また正座で見ていた女の子に立つように促した。しかしその子は足が痺れて立てない。生まれたばかりの子鹿のように、長谷川の手につかまり、ようやく立ち上がった、その初々しさ。長谷川の慈母のような肉体を招き寄せた。 帰り道はいつものように体がほぐれ、細胞が解放された。長谷川の気が空間に充満し、客の体を通り過ぎたからだ。このように、踊りを見て、自分が肯定(解放)されることはほとんどない。神事のような踊り、本来の踊りである。だからダンサーの才能を評価しようとするスケベ根性は出てこない。(7/11)

 

★[ダンス]  ライムント・ホーゲ『牧神の午後』

ピナ・バウシュのドラマトゥルグをやっていたライムント・ホーゲの『牧神の午後』(08年)を見た。(7月14日 KAAT大スタジオ)

ダンサーのエマニュエル・エゲルモンが仰向けに寝ている。頭と足の線上にコップが二つ。ホーゲが茶道のように歩いて、コップに牛乳(最後には乳液に見えた)を注いで、後ずさりしながら下がる。そして上手前で後見のように正座する。結界の作り方は日本的に思える。ホーゲはせむしだった。

振付はニジンスキーの振付を引用し、再構成したもの。脚はほとんど使わず。冒頭はお手前のようなスタティックな動きだった。振付の精密さと、エゲルモンの動きの密度は拮抗している。と言うか、不可分。ホーゲの怖ろしく美的な注文を正確にこなしている。

音楽はドビュッシーの『牧神』や『月の光』等と、マーラー歌曲『亡き子をしのぶ歌』等を交互に使う。エゲルモンはドビュッシーの時には明晰で主体的、マーラーの時には客体的、退廃趣味の対象になった(アーリア民族的ポーズ)。冒頭のお手前も精神をよく表していたが、終盤の菩薩のような手の振りと気の飛ばしも的確だった(韓国経験ありとのこと)。途中、ドビュッシーでタンゴのような足技があった。コンテの教育だと思うが、いかにもフランスの脚、素晴らしかった。

最後、ホーゲが白い液体をこぼして、二人で字を書いたり、絵を描いたりする。そして精神と肉体のように向き合って終わる。1時間15分、少し長い気が。最後も余分のような。しかし優れたドラマトゥルグがきっちり構成して、優れた振付家がきっちり振り付けた上で、動きの質を指定して、優れたダンサーがそれを完璧に遂行する凄さを感じた。見ていて頭がひりひりした。 Noismに必要なのは、優れたドラマトゥルグのような気がする。(7/15)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『マノン』

新国立劇場バレエ団が9年ぶりにケネス・マクミランの『マノン』(全三幕)を上演した。74年英国ロイヤル・バレエ初演、マクミラン44才の円熟期に作られた、現代バレエの古典である。

作品の魅力はやはり4つのパ・ド・ドゥ。クラシックを基盤とする「出会い」、「寝室」の両パ・ド・ドゥ、演劇的な「パッキング」のパ・ド・ドゥ、そして表現主義的な「沼地」のパ・ド・ドゥが、アモラルな美少女マノンと、神学生デ・グリューの恋の変遷を描き出す。互いの肉体が絡みつくような「出会い」、半ば意識の薄れるなか、マノンが自らの肉体を虚空に投げ出す「沼地」は、現代バレエにおけるパ・ド・ドゥの極北である。

演出はカール・バーネットとパトリシア・ルアンヌ。前回のモニカ・パーカーとルアンヌ組が、十八世紀パリの退廃を演技に求め、振付のアクセントを厳密に要求したのに対して、今回はバレエ団の清潔な地を生かす、全体の流れを重視したステイジングだった。

美術も、砂埃や匂いを感じさせるジョージアディスの猥雑さから、森の詩人P・ファーマー(オーストラリア・バレエ提供)の洗練に取って代わり、マスネの音楽もマーティン・イェーツの美しくメロディアスな編曲に変わった。その結果、上演の歴史的遺産を含むマクミラン作品が、一物語バレエに還元され、振付によって掘り起こされるという、一種の普遍化を見ることになった。

主役はバレエ団2組、ゲスト1組の3キャスト。初日の小野絢子、福岡雄大が初々しい少年少女の愛を描き出した。小野はあどけなさの残るマノン。寝室のパ・ド・ドゥも明るく若い喜びにあふれる。毛皮とダイアモンドに目がくらみながらも、デ・グリューへの愛をそのまま持ち続けていたことが、和解の際に明らかになる。存在そのもので見せる三幕は等身大に留まっているが、振付を体に入れて実行する度合い、視線を含む演技、そのどちらにも優れた、見事な初役だった。

デ・グリューの福岡はバランスの難しいソロ、複雑でハードなサポート、恋する若者の一途な演技を十全に行ない、小野と協力して清々しい舞台を立ち上げている。再演ではさらに福岡らしい覇気や、やんちゃな仕草が加わることだろう。

バレエ団もう一組は、ベテランの本島美和と山本隆之。本島はマノンの柄だが、前半は緊張のせいか体が硬く、マクミランの流れるような振付を実現するには至らなかった。パッキング以降は力が抜け、沼地では、山本の盤石のサポートと全身での演技に大きく支えられて、悲劇的瞬間を現出させることに成功した。

山本は例によって振付解釈が圧倒的。踊りのダイナミズムや切れ味は本調子ではないが、舞台を総合的に作り上げる力はバレエ団随一である。

ゲストはヒューストン・バレエのサラ・ウェッブとコナー・ウォルシュ。共に手の内に入った役らしく、細かく的確な演技だった。ウェッブは繊細な身のこなし、ウォルシュは美しいアラベスクに若く明るい演技で、振付のニュアンスをよく伝えている。

レスコーは、ノーブルで生真面目な菅野英男、コミカルで温かい古川和則、少し線が細いが、振付をよく読み込んだ福田圭吾が勤めた。愛人には懐の深い湯川麻美子と愛情深い寺田亜沙子、ムッシューG.M.には緻密な演技のトレウバエフと、存在感あふれる貝川鐵夫が配された。

マダム西川貴子の美しいマイムと豪快な踊り、物乞い八幡顕光の切れ味鋭い踊り、踊る紳士江本拓の美しい踊り、少年装娼婦、五月女遥の鮮やかな踊りが印象深い。また高級娼婦の厚木三杏がフル回転で数人分の演技を担当、マノンに付き添う老紳士の内藤博が、幅のある演技で一幕一場の要となった。

イェーツ指揮、東京フィルは仕上がりがよく、チェロ(金木博幸)の薫り高い音色に魅了された。(6月23、24、30、7月1日 新国立劇場オペラパレス) 『音楽舞踊新聞』No.2876(H24.7.21号)初出

 

*久しぶりの『マノン』。前回は初めてアジア人がマノンを踊るというので、バレエ団も観客も緊張していた気がする。スタダンで初めて『ステップテクスト』を上演した時のように。 今回は芸術監督が英国人なので、変な安心感があり、通常のレパートリー公演のような余裕ある意気込みだった。そして出来栄えも通常通り。マクミランファンにとっては物足りないだろうが、新国ファンにとってはOKなのでは。インターナショナルとは言えない外国人ゲストにもブラボーが飛び(当然のブラボー)、新国goerの成熟度を示した。ブラボーの主がオペラ常連だった可能性もあるが。惜しむらくは、米沢唯のマノン解釈を見られなかったことである。 今回は終わって3週間位、マスネの音楽、特に「エレジー」が耳に付いて離れなかった。新編曲のせいだろうか。イェーツの指揮が良かったのだろうか。初めてだと思うが、副指揮者に井田勝大を呼んでリハーサルに臨んだせいだろうか。 それにしても、英国人監督によって、初めて等身大のバレエ団が出来つつある。欧州の中でも英国は、バレエ・リュス以降に、自国のバレエ団、自国バレエ作品を作ったという経緯がある。ビントレーにはそれがインプットされているのだろう。日本のバレエ団を作ろうとしている。『パゴダの王子』の際にも、英国人の自分が考えた日本文化のファンタジーと、ことわりを述べていたが、誰がここまで日本文化を大切に思ってくれるだろう。この作品を海外で上演するときは、日本人が洋風の所作を学んでいるように、海外のダンサーが日本の所作を学ばなければならないんだよ、とビントレーは嬉しそうに話していた。ダンサーの才能を慈しみ、育ててくれる芸術監督。先日の「バレエ・アステラス」に出演した佐久間奈緒が、他の女性ダンサーに比べて、自然な感情、自然な肉体を保持しているのは、ビントレーに愛されて育ったからだと思う。(7/26)

 

★[バレエ]  第13回「世界バレエフェスティバル」Bプロ

世界バレエフェスのBプロを見た(8月13日 東京文化会館)。全体の感想は、バレエフェスが新たな局面に立っているということだった。 これまで佐々木忠次の一流豪華路線を突き進み、徐々に斜陽の雰囲気を漂わせていたのが、今回はそれぞれのダンサーが伸び伸びと個性を発揮し、等身大のガラ公演となっていた。一つは東日本大震災のチャリティ・オークションが行われること、NHKがTV収録し、仙台等の映画館で無料公開される予定になっていることも、あったかもしれない。

もう一つは、シルヴィ・ギエムの不在。独立独歩、教師(歴史)から切り離され、全てを自分の目で解釈し直す、言わば実演者と批評家が合体したバレエダンサーである。その解釈と実現の絶対性は、他のバレリーナの居心地を悪くさせたことだろう。その中心軸がなくなり、それぞれのダンサーは心置きなく個性を追求できることになった。

最も印象に残っているのは、ラコットの『ラ・シルフィード』を踊った、エフゲーニャ・オブラスツォーワ。NBAで踊ろうと、バレエフェスで踊ろうと全く変わりのない舞台への献身性である。シルフィード・スタイル、姿形、技術は言うまでもないが、その踊りのぶれの無さに、驚きを感じる。

もう一人は、43歳で初出場のイーゴリ・ゼレンスキー。セミオノワを相手に『シェヘラザード』を踊った。西欧化していないソヴィエトの味。重厚でクール、少しノンシャランなパートナーで、相手を冷静に見ているのがおかしい。何よりも跳躍の重みのすばらしさ。飼い慣らされない、つまりは消費されない男性ダンサーは、ロシアからしか出てこないのだろうか。

もう二人はフランス人。ノイマイヤーの『アダージェット』を踊ったエレーヌ・ブシェと、『椿姫』3幕pddを踊ったステファン・ビュリョン。 ブシェの糸を引くようなつややかな脚は、オペラ座エトワールのルテステュ、デュポンを上回っていた。ノイマイヤー初期の、動きをよく作り込んだpddが、ブシェの優れた解釈と音楽性によって蘇る。マーラーの「アダージェット」を理解していた。

ビュリョンは、ルグリ公演で初めて見たときから、強烈な存在感を発していた。その黒い情熱。熱くて暗い。役柄は限られるだろうが、バレエ団での純粋培養でしか育まれない個性だと思う。(8/19)

 

★[バレエ]  「オールニッポンバレエガラ2012」

日本人バレエダンサー達による復興支援チャリティ、「オールニッポンバレエガラ2012」を見た(8月15日 メルパルクホール)。昨年、東日本大震災から5ヶ月後の8月15日に開催されたガラの2回目で、今年が最後とのことである。当然ながら、昨年の公演を牽引した、死者への鎮魂と、被災者への励ましは少し後退し、バレエ団の垣根を越えた日本人ダンサーの表現の場、という印象が強かった(福島の若手男女二人の特別参加はあったが)。構成は昨年よりもコンパクトでバランスがよく、公演のあり方としては進化している。

公演の意義は、遠藤康行の2作品が上演されたことだろう。『Mayday, Mayday, Mayday, This is...2012ver.』は震災の衝撃をそのまま映し出した作品。遠藤が死者達を召還し、踊らせ、再び冥界へと連れ帰る。ミュータントのような平山素子が、切れの良い自在な動きで、空間をあおり続ける。もう一つの作品『3in Passacaglia』では、小池ミモザのエロティックな体(面白い生物)を、マジな柳本雅寛がサポートし、遠藤がまとめて、強力な三角肉体関係を作りだす。遠藤の振付は両者ともに、動きが作り込まれ、それが自分の根っ子と深く関わっている。キリアン系振付家によくある、形の美しさを追求する瞬間は微塵もなかった。実質的な振付である。

ダンサーでは米沢唯が圧倒的なパフォーマンスを見せた。新国立の全幕時よりも自由で手練れの黒鳥である。王子の厚地康雄を自在にあやつり、厚地は嬉々として仰せに従っていた。米沢の回転は音がしない。アン・ドゥオールとアン・ドゥダン・ピルエットの切り換えが見えない。ガラでの見せ方を心得、しかも品を失わない踊り。すばらしかった。

また福島の佐藤理央の責任感の強さ(もちろん技術はすごい)、加藤三季央の伸びやかな踊りは、観客にも、恐らくダンサー達にもショックを与えた。加藤はサポート術を身に付けなければならないが、この二人がどんなダンサー人生を送るのか、ダンサー輸出国日本の底力と、国内環境の後進性について、深く考えさせられた。(8/20)

 

★[バレエ]  小林紀子バレエ・シアター『アナスタシア』

小林紀子バレエ・シアターがケネス・マクミランの『アナスタシア』(全3幕)を上演した(8月18日 新国立劇場オペラパレス)。本邦初。

『アナスタシア』は1967年にベルリン・ドイツ・オペラで1幕物として作られた。音楽はマルティヌー交響曲6番と電子音楽。その後チャイコフスキー交響曲1番と3番を加えて、ロイヤル・バレエで3幕版が上演された(71年)。自らをロマノフ王朝の生き残り、アナスタシア皇女と名乗ったポーランドの女性、アナ・アンダーソンが主人公である。

マクミランの生前時にはDNA鑑定がされておらず、マクミランはアンダーソンをアナスタシア皇女だと信じていた節がある。そのため、3幕のアナの回想として、1幕の少女時代、2幕の社交界デビューが描かれたが、現在では事実と異なることになり、整合性を欠く。のみならず、振付のスタイルも1、2幕はクラシック、3幕は表現主義的なモダンの動きで、劇場で隣り合わせた年配紳士の言を借りれば『変なバレエだねえ』ということになる。しかし世界が瓦解する前と後と考えれば、おかしくはなく、今からでは遅いが、1、2幕を圧縮すれば、面白い作品になったかもしれない(前段が長すぎる)。

今回の上演の意義は、第3幕が見られたこと。チューダーを思わせる硬直した身振りの数々。マクミランの興味は、いわゆる物語バレエにあるのではなく、人間が自らの置かれた状況にどのように反応するかにしかないのだと、改めて思った。ドラマを繋いでいく演出術には、長けていない、と言うか、興味がないのだろう。

島添亮子のアナスタシアは3幕になってようやく、農民の夫、中尾充宏とパ・ド・ドゥを踊ることが出来た(1、2幕はほとんどソロ)。リフトされた脚の素晴らしさ。ドラマティックなバレリーナである。その音楽性は、コジョカルのように音と戯れるのでも、小野絢子のようにピンポイントで音を捉えるのでも、長田佳世のように体全体で音楽に入り込むのでも、西山裕子のように繊細な音の流れに分け入るのでもない。パトスと手に手を携えて、音楽そのものと化すのである。島添の、体を投げ出す無意識の大きさと、受苦する能力が、音楽性にも深く関わっていると思われる。

『コンチェルト』で組んだ中村誠、『二羽の鳩』で組んだ山本隆之、『インヴィテーション』(少年)や『マノン』(G.M.)で組んだ後藤和雄、そして今回の中尾充宏が、島添の良きパートナーとして思い浮かぶ。彼らと組むと、地味な外見が徐々に熱を帯びて、破天荒なパトスを放出する。テューズリーとは少し恥ずかしそうな、人見知りする感触が残る。(8/20)

 

★[バレエ]  東京バレエ団『オネーギン』

東京バレエ団の『オネーギン』を見た(9月29、30日 東京文化会館)。 シュツットガルト・バレエ団で見、東京バレエ団の初演でも見、時々ガラでpddを見ている。いつも思うのはクランコは陽性だということ。カラッとしていて、マクミランの対極にある。作品の作り方が俯瞰的で、登場人物の内面に焦点を当てるよりも、ドラマ自体をクリアに立ち上げる。その点ではビントレーも近いが、ビントレーはもっと詩的で繊細。クランコは叙事的かも。 振付は、アンサンブルにはかわいくコミカルな踊り、pddにはアクロバティックな動きを多用する。後者はソビエト・バレエの影響だが、アンシェヌマンは込み入っていて、なおかつ軽やかな運動讃歌を感じさせる。

演出は英国系のリアルな演技を基本とする。ただしオネーギンとレンスキーの決闘が決まった時点で、突然シンボリックな演技+振付となり、決闘直前のタチヤーナ、オリガ姉妹とレンスキーのトロワも、モダン系のフォルム重視の踊りに。いつも唐突で驚いてしまうが、なぜ?

タチヤーナが鏡と向き合って腕を動かす演出(向こうで別のダンサーが同じ動きをする、背後にいるオネーギンが鏡から抜け出てきたように見える)は、ブルノンヴィルの『ラ・ヴェンターナ』を連想させる(05年ブルノンヴィル・フェスティバルでの上演)。同じ背格好の二人の女性が、スペイン風の踊りを表と裏で踊る。互いに見ることができないのに、完璧に動きが合っていた。最後に、裏のダンサーがほんの少し違う仕草で種明かしをしたが、観客の中には別人だと分かっていない人も。伝統芸の凄さ、それが維持保存されていることに感動した。クランコは見ているのだろうか?

ダンサーでは、タチヤーナの吉岡美佳が爆発した。3幕私室に引っ込んでから、ということはオネーギンの手紙を受け取ってからが素晴らしかった。夫グレーミンを引き留めて、愛の確認をする様子、夫が出かけると、意を決したように居住まいを正す。その気品。オネーギンが入ってきて、あの有名なpddが始まるが、pddが始まったとは思わせない。夫への愛とオネーギンへの想いに引き裂かれ、揺れ動く感情のままに動いているように見える。手垢のついた振付を、あれほど新鮮に踊れるのは、自分の手で振付解釈を行なっているからだろう。キリアンやベジャールを踊っていた姿を思い出す。吉岡のダンサー人生を凝縮したような凄まじい踊りだった。

もう一人は、オリガの小出領子。その音楽的で薫り高い踊り、抜きん出た技術は、普通のバレエ団であれば、プリマに位置づけられるはず。どのような経緯で選ばれたのか分からないが、『ダンス・ヨーロッパ』誌の2010/11シーズン世界のトップ100ダンサーに選ばれたとのこと(プログラム)。当然だ。小柄で丸顔なのでオリガへの配役だと思うが、そして完璧に役どころをこなして、観客に見る喜びを与えているが、タチヤーナでも素晴らしかっただろう。胸の熱くなるようなニキヤ、オデット=オディールを見たからには、そう断言できる。

吉岡にインスピレーションを与えたエヴァン・マッキーのオネーギンは、文句がなかった。ニヒルで知的。通り過ぎるだけで、冷たい風が吹き抜ける。ルグリの場合は演技の過程が見えたが、マッキーはオネーギンそのもの。現代を代表するダンスール・ノーブルだと思う。

 

*『ラ・ヴェンターナ』はロイヤル・デーニッシュ・バレエで今季、上演されるとのこと。デンマークロマンティック・バレエにおける、エスクエラ・ボレラ(escuela bolera)の影響を象徴する作品。エスクエラ・ボレラについては、一回スペイン・ガラで見たことがある。確か、ジョゼ・マルティネスが踊ったと思う(『三角帽子』を踊ったような気も、別の人かも)。タマラ・ロホによれば、プティパの『ドン・キホーテ』振付に多く取り入れられているとのことで、実際『ラ・ヴェンターナ』の踊りは『ドン・キ』と似ている。ブルノンヴィルもプティパも、同じようにスペイン古典舞踊に影響を受けたということ。19世紀は今以上にインターナショナルだったのだろう。世襲の劇場一族が各国を周っていたということも一つ。(10/1)

 

★[ダンス]  首藤康之「DEDICATED IMAGE 2012」

文化庁平成24年度優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業として、首藤康之をフィーチャーした標記公演が行なわれた(10月21日 KAAT神奈川芸術劇場ホール)。 1時間の公演(休憩なし)。少し短い印象も。全体にダンサー首藤讃歌のコンセプトで、新しい境地を見せるというよりも、首藤ファンの期待に沿った構成だった。

冒頭の『Between Today and Tomorrow』は、椎名林檎の音楽に、中村恩恵が振りを付けた小品。いわゆるコンテンポラリー風の振付を首藤が踊るのだが、サイズの合わない服のような居心地の悪さを感じる。あっという間に終わった。 続く『The Afternoon of a Faun―ニジンスキーへのオマージュ―』は映像作品。首藤は以前、ストレートプレイで、ニジンスキーの舞踊場面を踊ったことがあるので、牧神姿に違和感がない。操上和美の舐めるような視線(カメラ)が、首藤の肉体を這っていく。その官能的視線を一身に受けて、首藤は捧げ物としての肉体を顕現させた。ただし映像の中で。

最後はイリ・キリアンの『ブラック・バード』から想を得た『WHITE ROOM』。中村恩恵の振付で、映像部分は操上が担当する。作品の美的コントロールは、やはり操上が行なっているように見える。中村もダンサーとして登場するが、あの強烈な個性でさえ、操上の世界に組み込まれている。男声コラールでの首藤と中村のデュエットは、中村が主役。宗教的法悦を求めるような、官能を全身にみなぎらせた中村の肉体に対し、首藤はサポートで対抗することができない。しかしイゾルデのアリアでのソロでは、首藤康之アウラが舞台を覆った。美・芸術・想像の世界でしか生きられない男。そうして見ると、官能のみを追求する中村とは、意外に相似形なのかも知れない。(10/24)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シルヴィア』

新国立劇場バレエ団が2012-13シーズン開幕公演として、デヴィッド・ビントレー版『シルヴィア』全三幕を上演した。少年時代、ネヴィル・マリナー指揮の『シルヴィア』組曲を繰り返し聴いた、ビントレー監督のドリーブ・オマージュである。

同版は93年にバーミンガム・ロイヤル・バレエで初演。09年の改訂では、原台本にほぼ忠実な神話物語に、プロローグとエピローグとして、モーツァルトの『フィガロの結婚』とフェリーニの『甘い生活』を援用した、現代伯爵家のエピソードが加えられた。伯爵夫妻、家庭教師と使用人の2カップルが、神話の世界にタイムスリップし、ダイアナとオライオン、シルヴィアとアミンタに変身する演出である。

狂言廻しは愛の神エロス。伯爵家の老庭師や、海賊(原台本)に姿を変え、シルヴィアとアミンタを愛の成就へと導く。

昨シーズンの『パゴダの王子』ほど込み入った作りではないが、物語の原型に対するビントレーの鋭い感覚は、タイムスリップしてもなお、現世の記憶を失わないアミンタを盲目にし、オルフェウスのように愛する人を求め歩く設定にしたことでも明らかである。

今回はまた、男性神に女性が扮するトラヴェスティ、大中小の海賊船を使って遠近を表すロー・テクノロジーで、十九世紀バレエへの讃歌を捧げている。

主要キャストは三組。シルヴィアとアミンタには、バレエ団の将来を担う小野絢子=福岡雄大組と米沢唯=菅野英男組、そしてBRBからは、改訂版を初演した佐久間奈緒とツァオ・チーが招かれた。

初日の小野と福岡は、ビントレーの振付世界を完全に実現できる組み合わせである。小野の繊細なラインと、気持ちのよい弾むような音楽性、福岡のスポーティな踊りと、半ば無意識のロマンティックな肉体が、恋人たちの甘い関係を紡ぎだす。三幕パ・ド・ドゥは恋の喜びに満ちた、闊達な踊りの交換だった。

一方、米沢と菅野の舞台には、古典作品の清澄さが伴った。米沢の振付解釈はある意味、ビントレー作品に客観性をもたらすものである。古典から現代物まで、あらゆる作品に照らし合わされての解釈。さらに、自らの実存をそこに反映させることで、作品を生きた芸術へと昇華させる。盲目の菅野に寄り添うだけで、米沢の深い孤独が感じられた。パ・ド・ドゥのアダージョはお手本のような踊り。ヴァリエーションでは、登場するだけで会場を鎮める、極めて高い境地を示した。

菅野には米沢の行なっていること全てを受け止める度量がある。三幕で目が見えないまま、両手を広げて立つ姿はその象徴だった。踊りはあくまで端正。人間的厚みを感じさせる舞台だった。

ゲストの佐久間とツァオは、初演者らしい安定した演技。佐久間の力みのない自然な踊りと、ベテランらしからぬ初々しさが、ツァオの亭主関白な風厳しさ、激しさを和らげている。二人の長年の歴史が感じられた。

ダイアナには一途で献身的な湯川麻美子、的確な演技の堀口純、華やかな存在感の本島美和が美を競い合った。対するオライオンは、重心の低い古川和則が、肉厚の演技で野生の荒々しさを表現した他、トレウバエフが生真面目な、厚地康雄がノーブルな造形をそれぞれ行なっている。

物語の要、愛の神エロスには、『パゴダ』で新境地を拓いた吉本泰久が、年輪を感じさせる好演。役との絶妙な距離、観客への愛情あふれるコミュニケーションが素晴らしい。他日の八幡顕光、福田圭吾は巧みではあったが、まだ若さが優り、ゴグ・マゴグ役での献身的で切れの良い踊りに、持ち味を発揮した。

バレエ団はニンフ、奴隷、海賊、パーティ客など、新旧の多種多様な踊りを生き生きと踊って、現代と神話世界を無理なく結びつけた。一つ残念だったのは、一幕が洞窟であること。原台本通り、風や草木が薫り、月明りの差す森だったらどんなによかっただろう。

東京フィル率いるポール・マーフィは、エネルギッシュな指揮ぶりだったが、残念ながら、ドリーブの優美な音色を実現するには至らなかった。(10月27日、11月2、3日 新国立劇場オペラパレス)  『音楽舞踊新聞』No.2888(H25.1.1/11号)初出 (12/30)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団ローラン・プティの『デューク・エリントン・バレエ』

牧阿佐美バレヱ団が優れたオリジナル・レパートリー『デューク・エリントン・バレエ』を上演した。01年、バレエ団の創立45周年記念として、モダンバレエの巨匠、ローラン・プティが振り付けた作品である。国内外で再演を重ね、東京では三度目となる。

初演時には、プティ自らが見出した若い才能、上野水香、正木亮を始め、草刈民代、小嶋直也、森田健太郎、志賀三佐枝等の主力組に対して振付が行なわれた(森田と志賀には結婚祝いのデュエットも)。 当時の印象および、映像を見直してみても、プティがダンサーの才能の核心を見抜き、それを開花させるように振り付けていることがよく分かる。バレエ団は天才プティの初演作品を踊るという、得難い経験をしたのである。

現行版は再演を経て、かなりコンパクトにまとめられた。プティ自身のキャスティングが不可能になり、そのスピリットが保たれるのか懸念があったが、ルイジ・ボニーノの振付指導と、振付そのものの力により、作品の普遍的力を示すことに成功している。

新キャストでは、『Hi-Fi Fo Fums』を踊ったラグワスレン・オトゴンニャムが新境地を拓いた。初演キャスト、小嶋の持つ体操的資質を舞踊化した作品だが、オトゴンニャムの爪先、脚線、全身の美しさ、柔軟さがいかんなく発揮される。体操用具(?)の上で両脚を上げ、逆さでパを行なう振付の面白さを浮き彫りにした。

上野のために作られたゴージャスな女王風の『Solitude』では、吉岡まな美が全く別のニュアンスを作品に与えている。上野の少女のコケットリーから、吉岡の成熟した大人の色香への変化。棒を持った男たちをかしずかせ、振付自体の魅力を明らかにした。 『The Opener』菊地研の華やかさ、ベテラン逸見智彦、保坂アントン慶の存在感に加え、新進の中家正博が随所で切れの良い、美しい踊りを見せる。また、かつて上野=ボニーノが可愛く踊った『Cotton Tail』では、伊藤友季子の相手役を務めた坂爪智来が、温かく軽妙な演技を披露。伊藤は音楽的だが、もう少し重量感が望まれる。

バレエ団のプリマ、草刈の位置には、二月の『ノートルダム・ド・パリ』に引き続き、ボリショイ・バレエのマリーヤ・アレクサンドロワが、デニス・サーヴィンを伴って来日した。 初演時、シャーロット・タルボットの踊った『Sophisticated Lady』でのコケティッシュな女らしさは、アレクサンドロワから最も遠い役どころだろう。ミスキャストのような気もするが、真正面からの演技、直球勝負に好感が持てた。

一方、『Afrobossa』『Ado Lib on Nippon』では、ゴージャスな存在感、男たちを引き連れるプリマぶりで本領発揮。団員とのコミュニケーションも誠実で、作品の見事な核となったが、本来はバレエ団のプリマが受け継ぐべき仕事である。 日本で最もチョーカーの似合う女性アンサンブル、充実の男性アンサンブルがすばらしい。特に『Caravan』の上半身裸の男性群舞が、アラブ風の腕組みで首を前後に動かし、奇妙なカノンを繰り返す姿には、胸が熱くなった。プティの愛、プティの遺産を目の当たりにしたからである。

音楽はプティの希望で、1950~60年代のスタジオおよびライブ録音を使用。バレエ団の華やかな音楽性がよく生かされた貴重なレパートリーである。(11月11日 新国立劇場中劇場)  『音楽舞踊新聞』No.2893(H25・3・11号)初出(2013.3/8)

 

★[バレエ]  マリインスキー・バレエアンナ・カレーニナ

ロシアバレエの名門、マリインスキー・バレエが、『ラ・バヤデール』『白鳥の湖』『アンナ・カレーニナ』「オールスター・ガラ」というプログラムで、三年ぶりに来日した。その中から、前回の『イワンと仔馬』と同様、ロジオン・シチェドリンの音楽、アレクセイ・ラトマンスキー振付の『アンナ・カレーニナ』を見た。

ラトマンスキー版『アンナ・カレーニナ』は、04年にデンマーク・ロイヤル・バレエで初演、マリインスキーには10年に導入されている。 プロコフスキー版(79年)や、エイフマン版(05年)が採用した、美しくドラマティックなチャイコフスキーの音楽に対し、シチェドリンの音楽は、一部チャイコフスキー風の情感豊かなピアノ曲が入り、舞曲や行進曲の形式が守られてはいるものの、大部分がきしむような不協和音と、激しい効果音に終始し、必ずしも振り付けし易い音楽とは言えない。それを乗り越えて使用した背景には、シチェドリントルストイ解釈への興味と、ソビエト時代のバレエ音楽を保存する意図が、ラトマンスキーにあったのではないかと思われる。

台本構想はマルティン・トゥリニウス。本来の二、三幕を圧縮して二幕構成とし、さらに原作に基づいた細かいシークエンス(キティ一家とリョービンの関係など)を加えている。シチェドリンの原版であるプリセツカヤ版(72年、映像76年)よりも、演劇性が濃厚である。 それに当てたラトマンスキーの演出振付は、初演バレエ団の性格を反映して、リアルでストイックな演技に、上体のジムナスティックな振付が特徴である。特に前者は、体全体を使った様式的マイムに慣れているマリンスキー・ダンサーにとっては、新鮮だったかもしれない。

装置は最小限に抑え、風景や室内の写真を映写することで、場面転換を図る。そのスタイリッシュな映像移動と、緻密に計算された人物出入りのリズムが、北欧風の垢抜けた印象を与える。

アンナはwキャスト。初演ダンサーのディアナ・ヴィシニョーワよりも、後から踊ったウリアーナ・ロパートキナの方が、作品の可能性を最大限生かすことに成功している。ロパートキナのアンナは登場しただけで、辺りを払う輝かしい気品に満ちている。美しい肢体、的確な振付解釈と役作り、そして何よりもシチェドリンを腑分けする深い音楽性が特徴である。音の一粒一粒が生き生きと立ち上がり、不協和音の中から叙情性を見事に掬い取っていく。

一幕最後の激情のパ・ド・ドゥ、二幕イタリアへ行く前の、ハープが水音のように響く薄明のパ・ド・ドゥがすばらしい。演出の禁欲性もロパートキナの資質とよく合っていたのだろう。相手役をサポート役に留めるという難はあるが、母として、妻として、恋人としてのアンナの、愛、葛藤、絶望を描き尽くした名演だった。 カレーニン、ヴロンスキー、キティは、初日のバイムラードフ、ズヴェレフ、シリンキナに優れた造型を見た。

アレクセイ・レプニコフが親密かつ柔軟な指揮振りで、同僚のマリインスキー劇場管弦楽団を率いている。(11月22、23日 東京文化会館)  『音楽舞踊新聞』No.2892(H25・3・1号)初出(2013.3/4)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団「First Steps」

新国立劇場バレエ団が「Dance to the Future 2013」の関連企画として、「First Steps」を上演した。バレエ団所属ダンサーが同僚のダンサーに振り付けをする試みで、ビントレー芸術監督の発案による。企画の意義としては、振付家育成の場を作った点、ダンサーが同僚の批評的視線により、新たな側面を発見できる点が挙げられる。

昨冬、関係者で試演会を行ない、一年かけて一般公開に漕ぎつけた。小劇場公演のため、バレエダンサーの強度に満ちた肉体(踊り)を、間近で見られる利点があるが、一回公演では観客数が限られる。次回はぜひ複数公演に増やし、振付家育成と、観客の啓蒙を促進して欲しい。

プログラムは二部構成。10人の振付家による13演目である。習作に近い作品もある中で、ベテランのマイレン・トレウバエフと貝川鐵夫が、次に繋がる作品を提示した。

トレウバエフは四作。明確な構成力と、ダンサーの資質を見抜いて作品化する力に秀でている。米沢唯には爽やかでコミカルな踊りを振り付けているが(まだ米沢の本質には達していない?)、長田佳世にはヴィヴァルディの『四季』を使い、赤いドレスと激しいパトスに満ちた振付を与えている。長田の躍動感あふれる音楽性、力強い美しい跳躍が、一編のドラマを紡ぎだす。二月のアンナ・カレーニナを補完するようなソロだった。

また本島美和にはオルフの『カルミナ・ブラーナ』を使い、黒いラメのドレスで題名も『マザーナイト』。本島の、全てを飲み込むような母親としての可能性、夜の女王を思わせる昏い情念を嗅ぎ当てている。踊りこんで、持ち歌(踊り)にして貰いたい作品だった。

一方、貝川は男性トリオとデュオを振り付けた。トリオは『G線上のアリア』を使ったコンテンポラリーだが、その組み合わせに必然性を感じさせる振付。吉本泰久、輪島拓也、貝川という、同質でないダンサーがユニゾンで踊るとき、それぞれ固有の息遣いが滲み出て、作品がクリエイティヴな空間たり得ていることを証明した。八幡顕光と福田圭吾には、コミカルな、対話を思わせる振付。二作とも音楽的で、振付家の内部と結びついている。

他には、アンダーシュ・ハンマルのベートーヴェンを使った7人による踊り。大和雅美を核にフォーメイションで関係性を見せる作品である。また小笠原一真小曽根真の曲で、ベテラン女性3人と若者たちを対比させた。若者のポップな衣裳が効いている。

若手では、八木進が宝満直也を採用して、男の魅力あふれるソロを展開、高橋一輝は自らを含む四人のダンサーで、生き生きとした青年群像を描き出した。また紅一点の広瀬碧は、朝枝尚子と自らのデュオで、ドッペルゲンガーを可愛らしいワンピース姿で踊り、少女の不安を表現した。

最後はピアノを使用した作品。小口邦明はドビュッシーの『月の光』の冒頭を弾いたあと、若生愛とのデュエット(CD演奏)を、宝満直也は稲葉智子による生演奏で、奥田花純と現代的なデュエットを自作自演した。

全ての作品に、指揮者ビントレーの存在が感じられる。バーミンガム・ロイヤル・バレエで活躍した山本康介が、現在その成果を創作の形で帰朝報告しているが、振付家として育まれた軌跡の一端を、今回の公演で確認することができた。(12月3日 新国立劇場小劇場) 『音楽舞踊新聞』No.2891(H25.2.11号)初出(2013.2/10)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

新国立劇場年末の風物詩、アシュトン版『シンデレラ』が上演された。99年のバレエ団初演以来、再演を重ねてきた主要レパートリーである。

今回、監修・演出にウェンディ・エリス・サムス女史を迎えたことで、改めてアシュトンの意図が上演に反映されるようになった。演技のテンポの微調整により、舞台の流れがスムーズになる一方、振付の持つ意味、エネルギーの方向性が、一段と明確になっている。特に仙女、四季の精、マズルカがブラッシュアップ。アシュトン版の詩的な魅力を再認識させられた。

適材適所の配役。主要キャストのみならず、端役まで神経が行き届いている。父役、子役(谷桃子バレエ団研修所)以外は全てバレエ団で賄い、ダンサーに成長の場を与えている。

主役キャストは3組。初日の小野絢子、福岡雄大には、物語を作り出せるパートナーシップがある。小野はアシュトンの振付ニュアンスを細かく実現し、その面白さを視覚化した。女性らしさも増し、初日の重責を立派に果たしているが、一方で、以前の伸びやかな音楽性や突拍子もないユーモアは影を潜めている。まずは観客のために踊るという前提に立ち返ることが肝心だろう。

福岡は、確かな技術に基づいた躍動感あふれるソロが魅力的だったが、アダージョにおける女性の見せ方には、なお工夫の余地がある。

二日目は米沢唯と厚地康雄。米沢はいつも通り、作品の全てを俯瞰的に理解し、その中で自分も生きる不思議な境地にある。アシュトン風と言うよりも自分の踊り。プロコフィエフの音楽を細かく分析し、その意味を明らかにした。

ヴァリエーション直前の静寂、舞踏会登場シーンの気の圧力は、身体の自在なギアチェンジを窺わせる。ただこれみよがしではなく、単に自分の成すべきことを行なう、自分を勘定に入れない献身性を伴っている。米沢の舞台の特質だろう。

対する厚地はすっきりしたラインとノーブルな佇まいが、いかにも王子らしい。米沢を明るくさわやかに支えていた。

三日目は長田佳世と菅野英男。アシュトン色は薄いが、誠実で自然な感情が息づく舞台である。長田は音楽を体全体で感じ取り、生き生きと素直に、物語の時空間を生きている。グラン・ジュテの強度が素晴らしい。 一方菅野は全てを受け止める、真にノーブルな精神を体現する王子。アモローソでは、しずしずとパ・ド・ブレで進む長田を見守り、幸福感あふれる空間を作り上げた。

もう一組の主役、義理の姉妹は全員初役。バレエ団の王子役を一手に引き受けてきた山本隆之と、キャラクターで分厚い存在感を示している古川和則が豪快な姉役、気の弱い妹役には若手の高橋一輝と野崎哲也の配役だった。

山本はグラマラスな主役のオーラを発散、古川は水を得た魚のように跳びはねる演技で、コメディセンスを発揮した。高橋は初役とは思えない勘の良さ、巧さではまり役を手にしている。一方野崎は、古川と呼応する元気な妹だった。

仙女は、湯川麻美子がシンデレラを祝福する大きさと踊りのきらめきで、本島美和が母性的な大きさと、気品あふれる美しさで、作品の要となった。特に本島は、統合された自分の踊りを踊ることにより、本来の個性が表に出るようになった。

道化の八幡顕光、福田圭吾の献身的な踊りと演技、ナポレオン吉本泰久のツボにはまった演技が舞台を盛り上げる。四季の精では、五月女遥の音楽的な春、西川貴子の官能的な夏、長田のエネルギーが炸裂する秋が印象深い。

大和雅美率いる星の精の美しさ、マズルカ男女の溌剌とした踊りが素晴らしい。エマニュエル・プラッソン指揮、東京フィルも重厚な音作りで、舞台に厚みをもたらした。(12月15、16、18日 新国立劇場オペラパレス)   『音楽舞踊新聞』No.2892(H25・3・1号)初出(2013.3/4)

 

★[バレエ]  2012年バレエ公演の総括

2012年のバレエ公演を首都圏中心に振り返る(含2011年12月)。 今年はプロデューサー(または芸術監督)の顔が見える創作公演が多かった。振付家の育成および、作品保存を目的とし、他の舞踊ジャンルとの融合を目指すなど、それぞれに芸術的指針を読み取ることができる。

上演順に、デヴィッド・ビントレーによる「DANCE to the Future 2012」(振付家・平山素子 新国立劇場バレエ団)、竹内泉による「HUMAN BODY」(プログラム順に、佐々保樹・高橋竜太・平山 BALLET FOR THE 21st CENTURY)、大岩静江による「Ballet FANTASY」(アクリ・山本康介・ガリムーリン 日本バレエ協会埼玉ブロック)、久保綋一による「NEW DANCE HORIZON」(松永雅彦・ハルバート・伊藤キム・舩木城 NBAバレエ団)、篠原聖一による「Ballet クレアシオン」(大岩淑子・小林十市・山本他 日本バレエ協会)。共に説得力のある振付家選択である。

中でも佐々保樹の『ヴァリエーション・フォー・ナイン』は、日本シンフォニック・バレエの傑作、 常設バレエ団による保存が望まれる。またモダンの平山は、三部作構成、ダンサー起用の点で、アーティスティックな資質を発揮し、舞踏の伊藤キムは、バレエと舞踏という両極にある舞踊形式の相性の良さを、改めて印象付けた。

全幕の国内振付家では、上演順に、熊川哲也(Kバレエカンパニー)、鈴木稔(スターダンサーズ・バレエ団)、深川秀夫(テアトル・ド・バレエカンパニー)が個性的な『シンデレラ』で競演した他、牧阿佐美バレヱ団がオリジナル音楽による共同振付作品『時の彼方に アビアント』を再演した。

復元作品は、スキーピング版『ジゼル』(日本バレエ協会)、安達哲治=ミシューチン版『アルレキナーダ』(NBA)、ヴィハレフ版『コッペリア』(同)。19世紀バレエへの考察をそれぞれ形にした。また既出の佐々は、『ブラックスワン パ・ド・トロア』(東京小牧バレエ団)で、原型に近いニュアンスのパ・ダクションを振り付けている。 シンフォニック・バレエでは、高部尚子がストラヴィンスキーの協奏曲を使って、激しいアーティスト魂を炸裂させ、山本康介がフォーレの『レクイエム』で祈りの歌を、ラヴェルの『クープランの墓』でみずみずしい音楽の流れを身体化した(日本バレエ協会)。共に抜きん出た音楽性の持ち主である。

コンテンポラリーでは、遠藤康行が「オールニッポンバレエガラ2012」で、昨年に続き、東日本大震災の鎮魂作品と、力強いトリオ作品を上演し、松崎えりが自身の主催公演で、考え抜かれた空間構成を作品化した。 海外振付家作品としては、来日、国内団体を合わせ、グリゴローヴィチ、エイフマンのソ連系、アシュトン、クランコ、マクミラン、ライトの英国系、プティの三作と歴史的作品が上演された。また現役作家のビントレーが『シルヴィア』(新国立)を、ラトマンスキーが『アンナ・カレーニナ』(マリインスキー・バレエ)を国内初演し、ドリーブ、シチェドリンの音楽保存に貢献している。

ダンサーでは、女性から上演順に、米沢唯の金平糖の精、佐藤麻利香のシンデレラ、酒井はなのジゼル、下村由理恵のジゼル、厚木三杏のアンナ・カレーニナ、志賀育恵のジュリエット、小野絢子のオデット=オディール、米沢のオデット=オディール、西川貴子の王妃、青山季可のジュリエット、小野のマノン、島添亮子のアンナ・アンダーソン、林ゆりえのジゼル、小出領子のオリガ、長田佳世(山本作品)。

男性では、吉本泰久のウルリック、秋元康臣のシンデレラの王子、中家正博のフロロ、山本隆之のカレーニン、キム・セジョンのロミオ、菅野英男のジークフリード、福岡雄大のデ・グリュー、藤野暢央のヒラリオン、吉本のエロス、古川和則のオライオン。 コンテンポラリーでは五月女遥(平山作品)、中村恩恵(キリアン作品)、李民愛(伊藤作品)。海外では、アタナソフのドン・キホーテ、オブラスツォーワのシルフィード、マッキーのオネーギン、ロパートキナアンナ・カレーニナが、優れた造形を誇った。  *『音楽舞踊新聞』No.2888(H25.1.1/11号)初出 (12/31)