2013年公演評

★[バレエ]  冨田実里バレエ指揮デビュー

神奈川ブロック『ドン・キホーテ日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックの自主公演で、女性指揮者の冨田実里がバレエ指揮のデビューを果たした。 作品は『ドン・キホーテ』、オケは俊友会管弦楽団

冨田は国立音大ピアノ専攻卒、桐朋学園大学の指揮教室にて堤俊作より学ぶ。ロームミュージックファンデーション音楽セミナー指揮者クラスで、小澤征爾、湯浅勇治、三ツ石潤司の指導を受ける。バレエのリハーサルピアニストとしては、日本バレエ協会『眠りの森の美女』『ジゼル』『卒業舞踏会』、新国立劇場バレエ団『アラジン』『シンフォニー・イン・C』『火の鳥』『ペンギンカフェ』『マノン』等を担当した(プログラムより)。

オケは時々、ホケッと管がフライングしたりしたが、冨田の明晰で情熱あふれる指揮に、情熱で応えていた。ダンサーをよく見たメリハリあるテンポが気持ちよく、冒頭から舞台に引き込まれた。カーテンコールは、男性主役がエスコート。なぜか胸がじんとした。

演出は大ヴェテランの横瀬三郎。勘所を押さえた構成、力みのない演出、高難度のソロ振付、活気あふれるアンサンブル振付と揃っている。主役の樋口ゆり、浅田良和の元Kバレエコンビも、技術はもちろんのこと、主役の成すべきことを心得たプロらしい舞台。桝竹眞也のドン・キホーテ、岩上純のサンチョ・パンサ、マシモ・アクリのガマーシュと贅沢な配役で、演技そのものを楽しめる充実した公演だった。(1月13日 神奈川県民ホール)(1/17)

 

★[バレエ][ダンス]  新国立劇場バレエ団「ダイナミック・ダンス!」公開舞台リハーサル

明後日から上演の「ダイナミック・ダンス!」公開舞台リハーサルを見た(1月21日 新国立劇場中劇場)。 2011.3.11の影響で直前に上演中止となったプログラムである。参加者は東日本大震災の復興支援に500円以上の寄附を求められた。チャリティー・リハーサルということ。

リハーサルに先立って芸術監督ビントレーのお話。「先週、小野絢子と福島のバレエ学校に行ってきた。どれだけ震災の影響があり、どれだけ復興しているかを見るため。NHKのドキュメンタリーの一環。今日もカメラを担いだ男の人が付いて回るが、これは作品の一部ではないので(笑)。」

先週金曜日にメディア向けのシーズンラインアップ説明会と記者懇談会があった。その懇談会の席で、ピントレー監督がアウトリーチについて語ったことを思い出した。「BRBでは年間500もの企画を行なっている。学校、障碍者、また受刑者など様々なアウトリーチをやる。イスラムの学校の時は、女性ダンサーだけ行って、窓を目隠ししてやった。後で、生徒が今までで一番楽しかったと言うのを聞いて、嬉しかった。新国でもやろうとしたけど、とっかかりも作れなかった、残念。」 ビントレーの社会貢献、社会の福祉に関わる姿勢は、震災直後のBRB来日の際、すぐにチャリティー公演を行なったことでも明らかだった。本当は新国立が先陣を切らなければならないはずだが(国税で成り立っているのだから)。

ビントレーは『パゴダの王子』において、家族が団結することで、国が健康を取り戻す過程を描き、復興への祈りをこめた。日本の美術(国芳)と身体(能)を取り入れることは、震災前から決まっていたが、その日本へのオマージュがどれほど我々の慰めになったことか。さらに適材適所の配役をすることで、バレエ団を有機的な組織に変え、バレエ団と観客に希望をもたらした。あるべき芸術監督の姿。

リハーサルはビントレー作品『テイク・ファイヴ』。場当たりをファーストキャストが行ない、ファーストキャストの本番、ダメ出し、セカンドキャストの本番、と続いた(2時間超)。同じ振付を2キャストが続けて踊ることで、ダンサーの個性がよく分かる。それを監督が熟知していて、肯定していることも。ダンサーは伸び伸びと踊っている。 いつも、誰がこうとか、誰がああとか好きなことを言っているが、リハーサルとして見ると、ダンサーたちがいかに細かい動きを記憶し、遂行しているかを思い知らされる。音と渾然一体となる動きが、どれほどの微細な身体コントロールによって行われていることか。バレエダンサーは特殊技能者であり、職業として確立されるべき。モンゴルの国立ホーミー歌手は、過酷な仕事なので、年金支給までの就業期間が短い。それを思い出す。彼我の差はありすぎだけど。(1/22)

 

★[バレエ]  スペイン国立バレエ団

スペイン国立バレエ団来日公演Bプロを見た(2月6日 オーチャードホール) バレエ団と名がついているが、主にフラメンコ作品がレパートリー。75年生まれのアントニオ・ナハーロが芸術監督に就任して初めての来日だった(バレエ団としては6年ぶり)。 Bプロはバレエ団の代表的レパートリー『メデア』(84年)、『ファルーカ』(84年)、『ボレロ』(88年)に、昨年初演の『ホタ~《ラ・ドローレス》より』というプログラム。その『ホタ』が面白かった。

振付はピラール・アリソン。父ペドロ・アリソンが83年、国立バレエ団に振り付けた版を基に、サルスエラ『ラ・ドローレス』中の舞踊シーンに振り付けたもの。ホタはアラゴン地方の民族舞踊で、男女ともにリボンで足に結ぶエスパドリーユを履く(プログラムより)。カスタネットもフラメンコとは違い、中指ゴム。踊り自体も、地面を踏み鳴らすフラメンコとは違い、つま先やかかとで床を打つ。ひざ下はロン・ド・ジャンブのように回したり、斜めに交差させ、そのまま片足ジャンプしたりする(男)。足技の細やかさは、ヨーロッパのその他の民族舞踊を思わせるが、舞台仕様なのか、洗練されていて複雑だった。跳ねる系の舞踊。

ダンサーたちは、フラメンコとは真逆の踊りを楽しそうに踊っていた。フラメンコのパトスに満ちた重厚さ、ホタのエネルギッシュな明るさ、の両方を表現できなければならないのだろう。背の高い男性ダンサーが多く、『メデア』『ファルーカ』ではフラメンコのマチズモが炸裂した。(2/9)

 

★[バレエ][ダンス]  新国立劇場バレエ団「ダイナミック・ダンス!」

新国立劇場バレエ団が中劇場公演として「ダイナミック ダンス!」を上演した。バロック、ジャズ、ミニマル・ミュージックを堪能でき、配役の妙を味わえる、優れたトリプル・ビルである。

この公演は2011年3月に予定されていたが、直前に起きた東日本大震災のため中止となった経緯がある。バレエ団は今回の上演に先立ち、復興支援の寄附を入場料とする公開リハーサルを行なっている。

幕開きは、バッハの『二つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調』に振り付けられた『コンチェルト・バロッコ』(40年)。フレーズを絵にしたような美しいアダージョ、大胆な脚遣いと強烈なポアント・ワーク、腕繋ぎや通りゃんせを用いたフォーメイション、人体の集合フォルムなど、バランシン振付の面白さが凝縮されている。

二作目の『テイク・ファイヴ』(07年)は昨年末亡くなったブルーベックと、デズモンドの代表曲に、デヴィッド・ビントレーが精緻な振付を施した。変拍子ボサノヴァでは青春の爽やかなエネルギー、ブルースではその憂愁が、音楽と不可分の切れ味鋭いステップで描き出される。ジャズを子守唄に育ったビントレーの円熟の境地。50年代の若者の衣裳、ブルーを基調とする照明も作品世界を補強している。

最後の『イン・ジ・アッパー・ルーム』はトワイラ・サープの振付、フィリップ・グラスの委嘱曲、ノーマ・カマリの衣裳、ジェニファー・ティプトンの照明のコラボレーション。題名は聖書からの引用。冒頭の女性二人が、湯気のようなスモークと共に結界を作る。

振付はスニーカーの男女3組と、バレエの男女3組に分かれ、一人の女性がそれを行き来する。タップ、エアロビクス、ヨガ(?)と、バレエは同列。グラスの腹式呼吸のようなメロディ、延々繰り返されるリズムと、ダンサーを無意識へと駆り立てるハードな動きに、空間は溶解し、会場全体が朦朧体と化す。仕上がりはあまり関係なく、ダンサーが踊ったことに意味のある作品。

この異種三作は、音楽的にも振付的にも、地下水脈で繋がっている(サープのバランシン引用あり)。観客はまず視覚で喜び、変拍子に体を揺らし、最後には体全体が解きほぐされる。的確な作品選択、絶妙な上演順だった。

バランシンのアンサンブルを除いて、全てダブルキャスト。例外は急遽シングルになった原健太(サープ)。4日間5公演を踊り抜いた。

全作出演の小野絢子は、美しいラインを生かした繊細できらめく踊りをバランシンで披露。山本隆之の物語性を帯びた濃密なサポートを、受け止められた結果である。同じく全作の米沢唯は、ビントレー作品で4人の青年と軽やかに踊った。湯川麻美子との意外なダブル配役。米沢を自分に固執させまいとする、ビントレーの愛情だろう。

同じく全作組では、長田佳世が、音楽と一体となった男前の踊りをサープ作品で、また寺田亜沙子が透明感あふれるバランシンを披露した。

ビントレー作品で印象深かったのは、八幡顕光、福田圭吾、奥村康祐の超絶技巧組と、個性派古川和則が生き生きとした踊りを見せたこと。そして本島美和と厚地康雄のデュエット。本島の濃厚な情念と大きな存在感、厚地の爽やかな色気が大人の恋を描き出した。

サープ作品は参加することに意義があるのだが、やはり前回『プッシュ・カムズ・トゥ・ショヴ』で主演した福田は、体がほどけ、楽に呼吸をしている。またスタイル解釈に優れた厚木三杏が、サープ振付のイデアを提供した。音楽がくまなく聞こえる。若手の盆小原美奈の巧さ、原の緩さ加減も楽しかった。

演奏は、バッハがVn漆原啓子藤江扶紀、指揮大井剛史、新国立劇場弦楽アンサンブル。ブルーベックが荒武裕一朗、菅野浩、石川隆一、力武誠、ダンサーとの呼吸の一致はまさにジャズの醍醐味だった。(1月24、25、26夜、27日 新国立劇場中劇場)  『音楽舞踊新聞』No.2892(H25・3・1号)初出

 

*米沢唯について、なぜ評中のように思ったのか。実は公開リハーサルでは、『テイク・ファイヴ』の同名曲の最後は別の演出だった。米沢(湯川)が4人の青年と次々に踊り、最後は「トゥー・ステップ」で本命の女性とデュオを踊ることになる福岡(厚地)に、軽く振られるはずだった。米沢はそれを、深く振られ、がっくりと肩を落とした。三日後の本番では、「二人は明るく下手に去る」という演出に変更されている。このことから察するに、ビントレーは米沢に実存を反映させない配役を選んだのではないか。プロとして、引き出しを増やす、あるいは振付家に寄り添うことを期待したのではないか。

厚木三杏は振付・演出の可能性の中心を把握するダンサーである。クラシックからコンテンポラリーまで、その振付家の意図するところを百パーセント実現できる。米沢は振付を契機として、フィクションを自分で再構築する。そのためアブストラクトの場合は、踊りの密度は高くても、作品との乖離を感じさせる。厚木は振付家、米沢は演出家を父に持つが、そのことと関係があるのだろうか。(3/2)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ジゼル』

新国立劇場バレエ団がロマンティック・バレエの名作『ジゼル』を、7年振りに上演した。改訂振付はキーロフのK・セルゲーエフ、演出はシーズンゲスト・バレエマスターのデズモンド・ケリー(BRB)という、やや変則的な布陣である。

セルゲーエフ版はマイムを切り詰め、舞踊そのもので舞台運びを行なう。ケリーは枠組そのままに明確なマイム指導を加えることで、ドラマの細かい筋道を可視化した。前回指導の『ロメオとジュリエット』同様、アンサンブルが個人を生き切る全員参加型の舞台である。ウィリたちも伸びやか。古典的な様式性は後退したが、若い活気にあふれた舞台だった。

キャストは3組。ENB話題のコンビ、ダリア・クリメントヴァとワディム・ムンタギロフのゲスト組に、長田佳世と菅野英男、米沢唯と厚地康雄のバレエ団2組である(小野絢子、福岡雄大はBRB『アラジン』に出演のため不在)。

ベテランのクリメントヴァと若手のムンタギロフは、ほぼ20歳の年の差を全く感じさせない自然なパートナーシップを見せた。二人ともチェコとロシアという旧共産圏で生まれ、英国でキャリアを積み、教育を受けた共通点がある。優れた身体能力と正確な技術に、英国の細やかな演技指導が加わって、墨絵のような『ジゼル』を創り出すことに成功している。

クリメントヴァの透明で繊細な演技は、これ見よがしのないという言葉も不要。特に狂乱と二幕がすばらしく、その作意のなさは演技の一つの頂点を示している。じんわりと胸に迫るそこはかとない味わいに、カーテンコールは長く続いた。一方ムンタギロフも、佇まいのみでノーブルな育ちの良さを窺わせる。二幕の悠揚迫らぬ踊り、鮮やかなのに、銀ねずのような渋さがある。久々の英国系ダンスール・ノーブルである。

初日の長田は一幕の真情のこもった演技に持ち味を発揮した。素朴で初々しく真実味がある。二幕終幕の別れも、アルベルトへの想いが体全体から漂い流れた。ただ二幕の踊りは、情熱を内に秘めた方がよかったかも知れない。アルベルトの菅野も、誠実で一貫した役作り。清潔な佇まい、基本に忠実な踊りが、清々しい舞台を作り上げた。

バレエ団もう一人のジゼル米沢は、やはり俯瞰的な役作りを見せた。一幕は死者の昔語り、二幕が現在の姿に見える。終幕は能の身体。この世の者でないことを、演技ではなく境地で見せる。いわゆるバレエ的な表現ではないが、観客は米沢の舞台を、熱狂的に受け止めている。現在性を強く感じさせるからだろう。対する厚地は、意外にも濃厚な役作りだった。言い寄るアルベルト。少し硬さも見られたが、スレンダーな身体で、大きな踊りを披露した。

ミルタは3週間前まで「ダイナミック・ダンス!」でスニーカーを履いていた厚木三杏、本島美和と、2週間前まで『タンホイザー』のバッカナーレを踊っていた堀口純。厚木は全てに行き届いた演技と踊り、本島は存在感の大きさと統率力で二幕の要となった。堀口は美しいが、まだ男を取り殺す腹がない。

ハンスは、言葉の聞こえるマイムを見せたトレウバエフ、人情味あふれる古川和則、熱血輪島拓也という配役。バチルド湯川麻美子、ウィルフリード田中俊太郎、清水裕三郎ははまり役。4組の村人パ・ド・ドゥのうちクラシックの様式性を感じさせたのは、江本拓と細田千晶の二人だった。

指揮は井田勝大。ややタイトなコントロールだったが、的確なテンポに覇気ある指揮振りで、東京交響楽団の持ち味である重厚な音を引き出している。(2月17、20、22、23日 新国立劇場オペラパレス)  『音楽舞踊新聞』No.2895(H25・4・1号)初出(3/29)

 

★[バレエ]  NBAバレエ団「ディアギレフの夕べ」

NBAバレエ団がフォーキン振付の4作品を集めて、「ディアギレフの夕べ」を催した。再演の『ル・カルナヴァル』(10年)、『ポロヴェッツ人の踊り』(09年)、『ショピニアーナ』(09年)と、本邦初演『クレオパトラ』(09年)である。

再演3作は、適材適所の配役と、美的基準の明確な演出により、緻密な仕上がりだった。特に幕開けの『ル・カルナヴァル』は、ヴィハレフ復元の繊細な香りを、初演時よりも伝えている。シューマンの同名ピアノ曲に登場する人物(シューマンの分身、憧れの女性、妻、コメディア・デラルテの人達)が、音楽そのままに演じ踊る。マイムと踊りの情感が途切れることなく続き、シューマンの繊細な叙情性と激しい熱情に身を委ねることができた(オーケストラ編曲版による)。

アルルカンの貫渡竹暁の華やかな踊りが素晴らしい(初日・皆川知宏)。グラン・プリエからのピルエットを始め、軽い跳躍、指さしの決め技、そしてチャラチャラした色気、適役である。またピエロの大森康正(両日)は、白い長袖をゆったり膨らませて、心に沁みるペーソスを醸し出した。軽やかな跳躍と消え入るような退場が、残像となって舞台を彩る。

竹内碧(初日・小島沙耶香)のコロンビーヌを始め、女性陣も適役。パンタロン役ジョン・ヘンリー・リード(両日)が、優れた演技で舞台を引き締めた。バレエ・リュスの重要な遺産。音楽の魅力にあふれた貴重なレパートリーである。

二作続けて上演された『ポロヴェッツ人の踊り』と『ショピニアーナ』もヴィハレフ復元。それぞれロプホフ版、ワガノワ版に基づく。前者の男女群舞、後者の女性群舞は共に音楽的で、スタイルが統一されている。ポロヴェッツ人の野蛮な熱気、シルフィード達の絵画のようなフォルムに、対照の妙があった。 ポロヴェッツの男性、泊陽平(初日・リード)の覇気ある踊り、少女、坂本菜穂(初日・原田貴子)の切れのよい動きが印象深い。

最終演目『クレオパトラ』はアレクサンドル・ミシューチンによる再振付。プログラムによると抜粋が残っているとのことだが、どの部分かを明示して欲しかった。

音楽はアレンスキーを枠組に、グリンカリムスキー・コルサコフムソルグスキーグラズノフを加えた複雑な構成。ただし筋書き・人物名はC・ボーモント(41年)の記述とは異なるため、マリインスキー上演版と思われる。

美術・衣裳はレオン・バクストを模したもので、ピラミッドを遠景に、巨大神殿の踊り場が舞台。原色に金銀を交えた美しい衣裳と共に、バレエ・リュス当時を偲ばせる。

振付は『ラ・バヤデール』風あり、エジプト風ありのキャラクター・ダンス。マイムが少なめなので、全体がディヴェルティスマンのように感じられる。再演時には踊りもこなれ、ドラマの流れも出てくるだろう。音楽の統一感がないので、余程強引な演出力が求められる。

バレエ・リュス初演時にはイダ・ルビンシュテインが演じたクレオパトラには、キエフ・バレエ団のエリザヴェータ・チェプラソワ。美しい肢体にくっきりした顔かたちで、残酷な妖艶さを体現した。一方クレオパトラに魅入られ、一夜の情事と引き替えに命を落とすアモンには、リード。情熱的な演技と大きな踊りで舞台に貢献した。

恋人アモンをクレオパトラに取られるビリニカ役、峰岸千晶の哀しみに満ちた踊りも印象深い。

バレエ・リュス初期の4作品を一挙上演することで、振付家フォーキンの革新的な部分と、伝統に寄り添った部分の両方を見ることができた。 例によって、榊原徹指揮、東京劇場管弦楽団による高レヴェルの演奏が、舞台の質を高めている。(2月23日 ゆうぽうとホール) 『音楽舞踊新聞』No.2895(H25・4・1号)初出(3/30)

 

★[ダンス][演劇]  山崎広太・鈴木ユキオ・平原慎太郎@『ネエアンタ』&『ASLEEP TO THE WORLD』

3人の優れた男性ダンサーを見た。 山崎はARICA『ネエアンタ』(2月28日、3月1日 森下スタジオCスタジオ)、鈴木と平原は青山円形劇場の『ASLEEP TO THE WORLD』(3月9日)。

『ネエアンタ』はベケットのテレビ・スクリプトを舞台化したものである。元は、男性俳優をテレビカメラが写し続け(アップの距離、秒数を指定)、姿を見せない女性のセリフに、男性が顔で反応する作品。それを山崎が身体で反応し、同じシークエンスをニュアンス、動きを変えることで、時間経過を見せている。まずベッドに座って動かずに踊り、裸電球の点滅を合図に、立って窓のところに行き、カーテンを開け、閉める。そして冷蔵庫と関わったあと、ドアに向かって対角に歩行、開いたドアを閉め、ベッドに戻るというシークエンスである。終盤、広太踊りの現在形とも言える、世界を穿つソロの他は、動かない踊りに終始する。演出家藤田康城との共同作業の結果、山崎の可能性の一角が現前された。ベッドでの動かない踊り(内部では明らかに動いており、濃密な時間が流れる)。冷蔵庫に頭を突っ込んで脚を突っ張る冷蔵庫とのデュオ(鮮烈な脚は、肉体の充実を窺わせる)。そして幾通りにもニュアンスを変える対角の歩行、厚木凡人の「パクストンの歩行はグラン・パ・ド・ドゥだった」という言葉を思い出させた。山崎自身はポストトークで「ジャドソンはニュートラル、自分は日本人として違ったものを出したかった」と語っているが。 演出には疑問もある(なぜ女性を表に出したのか、とか)が、藤田が山崎を丸ごと理解していることが、ポストトークでよく分かった。

『ASLEEP』は中村恩恵の振付(出演なし)、共同振付は鈴木、平原、音楽・演奏は内橋和久、ドラマトゥルクに廣田あつ子という布陣。全体の構想は中村、所々中村振付(生々しくキリアン風の部分も)、ソロは鈴木、平原が各自という感じだろうか。

中村振付を二人がユニゾンで踊るときが面白い。鈴木は中村のタスクを易々とこなし、自分の空間に歪曲する。平原は振付を誠実に追って、自分の肉体との齟齬を露わにする。鈴木の空間感覚、空間構成力がずば抜けていて、踊りながら常に演出しているのに対し、平原は外界との対話で自分の内から出てくるものを注視している。体の質感も対照的。鈴木が鋼鉄のような重さ、密度を感じさせるのに対し、平原は柔らかく受け身。見た目も、鈴木はガンダーラ仏、平原は犠牲としてのキリストである。

この座組みの良かった点は、枠を与えることにより、二人の優れたダンサーが思い切りソロを踊れたことである。中村の家は代々キリスト教徒とのことで(プログラム)、中村作品の文学性、意味性の強さに合点が行った。 山崎の出自は舞踏+バレエ、鈴木は舞踏、平原はバレエ+ヒップホップ。山崎は笠井叡門下、鈴木はアスベスト館出身で、同門に近い。一方、山崎は平原に注目していて、自ら主宰するWWFesでも起用し、インタヴューも行なっている。3人ともスター性があり、体を投げ出すことができる。一緒に踊るとどうなのか。常識の彼方にいるのは、山崎がダントツだけど。鈴木は山崎に空間を与え、平原はノイズムでもそうだったように犠牲の仔羊になるだろう。(3/12)

 

★[バレエ]  酒井はな@日本バレエ協会白鳥の湖

日本バレエ協会が都民芸術フェスティバル参加作品として、ゴルスキー版『白鳥の湖』を上演、その三日目を見た(3月17日 東京文化会館)。

監修はベラルーシ国立ミンスク・ボリショイ・オペラ・バレエ劇場を長年率いたワレンチン・N・エリザリエフ。2004年にはNBAバレエ団に『エスメラルダ』、2011年には、バレエ協会に『ドン・キホーテ』を振り付けている。 ゴルスキー版と言えば、東京バレエ団の『白鳥』。アサフ・メッセレルとイーゴリ・スミルノフが、64年に改訂導入したボリショイ版である。二幕湖畔のコール・ド・バレエが背景に留まらず、主役を凌駕するほどダイナミックに動く点が大きな特徴。今回のエリザリエフ監修版では、そうした演出は見られなかった。他に目立った違いは、道化の扱い。東バでは、片脚を前に伸ばして座り、両腕を前に寄り合わせてパタンと前傾する古風な挨拶が見られたが、今回はなし。代わりに一幕、三幕では所狭しと回転技を披露する。ディヴェルティスマンの前振りとして踊るのを、初めて見た(ディヴェルティスマン自体、東バ版の方が古風な味わいが残る)。東バ版も踊りが多いが、それよりも多い印象。エリザリエフは『ドン・キホーテ』でも踊りを細かく挿入していた。今回もその気がある。エリザリエフのエネルギッシュな方向性が反映された版のように思われる。

酒井はなの『白鳥』を見るのは5年ぶりだった。新国立劇場オペラ劇場で見るたびに、ものすごく疲れたことを思い出す。今回も疲れた。帰りの山手線で一瞬眠りそうになったほど。新国立時代の白鳥と比べると、内に向かっていたエネルギーが、外向きになったような気がする(以前は勝手に座敷舞と称していた)。今回はもっと生々しく、一つ一つのフォルムに思いを充満させている。一昨年の「オールニッポンバレエガラ」で見た『瀕死の白鳥』を思い出した。踊りのフレージングがなく、エネルギーの塊としてのフォルムが数珠つなぎになっている。また重心が低く、丹田がエネルギーの中心のように感じられる。つまりバレエ(腰高で上昇する踊り)には見えない。そのことと、見ていて異常に疲れることとは関係あるのだろうか。酒井が舞台で格闘していて、それに体ごと引き込まれる、そんな感じ。『白鳥』に限られるが。 序曲が流れると、胸がグーッと熱くなった。福田一雄の指揮(東京ニューフィルハーモニック管弦楽団)。このようにバレエ音楽を愛する指揮者はいない。ドリーブの一音一音を愛でるような指揮、プロコフィエフのたった一音でドラマを立ち上げる指揮、そして自らドラマを生きるような『白鳥』の指揮。指揮台に立つだけで、福田一雄の音になる。年下の誰よりも熱い指揮だった。(3/20)

 

★[ダンス][バレエ]  新国立劇場バレエ団「Dance to the Future 2013」

新国立劇場バレエ団公演「Dance to the Future 2013」を見た(3月26、27日 新国立劇場中劇場)。因みにボックスオフィスのチケット販売状況掲示板にNBJ(The National Ballet of Japan の略称)の表示があって、少し驚いた。世界でこの略称が流通する日が来るのだろうか。海外公演を打つ日が来るのだろうか。ビントレーが続けていれば、少しは可能性があったのか。でもアウトリーチもできない劇場(構造)では。まずは国内ツアーができるようになることが先決だ。

プログラムは中村恩恵振付が3作品、金森穣振付が1作品。昨年の平山素子一人の同企画と比べると、配役が適材適所になっていない気がする。二人で分けて、バレエ団の要求を加えるとこうなったのか。仕上がりの良さでは、やはり唯一の新作、中村の『What is "Us"?』がダントツだった。

中村はキリアン色濃厚な『The Well-Tempered』、東洋的動きを取り入れたソロ『O Solitude』、そしてバレエのポジション、パをモチーフにしたこの新作を担当。古典を踊るバレエダンサーに振り付けることで、こうした作品になったのだろう。長田佳世と江本拓が下手奥から、アン・ナヴァンの腕でバレエ歩きするシークエンスが美しい。長田の完璧に意識化されたクラシックの脚、そのねっとりと艶のある美しさは、クラシックダンサーにしか出せない味である。またエポールマンをモダンな動きにかぶせるのは、江本の得意技である。 だが何よりも作品の存在意義は、福岡雄大のソロにあった。このところ海外出張を控えて、今一つ個性を発揮できなかった福岡だが、この作品で爆発した。福岡にジャストフィットした初めての役(パート)かもしれない。福岡の実存が迸る踊り。中村の提案よりも細分化された動きをしているのだろう。Kバレエスタジオで鍛えられた足腰の強さ、鮮やかで力強い腕の動き、動きそのものへの集中力。ビントレー、サープ時の踊りが嘘のようだった。金森作品でも唯一、金森の動きを実現している(金森穣ソフト版)。

金森作品は『solo for 2』。新国立劇場新潟市民芸術文化会館により共同制作された『ZONE』の第一部を改訂、「NHKバレエの饗宴2012」でNoismが上演した作品。昨年末のKAAT公演でも再演されている。核となる井関佐和子のパートには米沢唯。大いに期待されたが、残念ながら金森の動きを消化できていなかった。これは一月のバランシン、ビントレー、サープ作品にも言えることだ。古典であれだけ成熟した舞台を見せる米沢が、モダンになると、つまり動き自体に振付家の個性が反映されると、なぜか幼く見える。あるいは物語のあるなしで、アプローチが違うのだろうか。組んだ福岡が華やかで重心の低い踊りを見せた分、ひょこっと軽く、人形っぽく見えた。

音楽はバッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』を使用、渡辺玲子の演奏だったが、本家Noismに比べるとまだ丁々発止とは行かない。その中で、第一番クーラントを踊った小口邦明=小野寺雄(26日)と福田紘也=宇賀大将(27日)の若手二人組は、音楽と呼応する躍動感あふれる踊りで、金森の特徴である覇気を体現した。

パーセルの歌曲に振り付けられた中村作品『O Solitude』でも、若手が実力を発揮。初日の宝満直也は、体を真正面からぶつける素の魅力で、存在感あふれるソロを踊り、二日目の五月女遥は、繊細な音楽性、動きに対する鋭敏な理解力で、振付の機微をあぶり出した。(3/28)

 

★[コンサート][ダンス]  『無限大∞パイプオルガンの宇宙―バッハから現代を超えて』

標記公演を見た(4月12日 東京芸術劇場コンサートホール)。改修後はじめてのコンサートホール。大エスカレーターが壁際に寄せられ(以前は両脇から下が見えて、怖かった)、絨毯の模様が、青い銀杏から赤バラの線画に変わった。椅子もクッションが分厚くゴージャスな布張りに(クッションのせいで足が着かなくなったが・・・)。一階吹き抜けもガラスで囲まれ、吹きさらしでなくなった。

鈴木優人のオルガン、勅使川原三郎、佐東利穂子、KARASのダンスを合わせた公演。面白かったのは、表裏になったモダン・オルガンとバロック・オルガンの回転、そしてルネサンス・オルガンの調律。J.P.スウェーリンク(1562-1621)の『半音階的ファンタジア』では、ミーントーン調律法による調子っぱずれの笛のような音に魅了された。平均律ではない、肉体に密着した音。鼻の穴が広がり、体の筋肉が緩んだ。

先月BCJの『ヨハネ受難曲』で通奏低音を弾いていた鈴木は、今回主役。父雅明がロックスターのように華やかなオルガニストであるのに対し、鈴木(優)は翳のあるオルガニスト。モダンを使ったインプロでの軋み、轟音はこの世への自己主張だった。それにしてもオルガニストはダンサーである。バッハ演奏時の脚さばき、両手両足を鮮やかに使い分けて、巨大なオルガンを鳴らし続ける。一方モダンでは、巨大コンピューターか宇宙船の操縦士みたい(オルガンのデザインのせいもあるけど)。あちこちにあるストップを操作し、ホール全体を振動させる。ピアノに増して、世界を作れる楽器だと思った。

一方勅使川原は、還暦とは思えない体の切れ。コラールでの素朴な味わいも新鮮だった。全体を見据える演出もセンスがよく、オリエンタリズムを武器にしないで、西洋人と同じ土俵(パリ・オペラ座)に上がれる理由が分かる。ただダンサーとしては、相変わらずコラボレーションができない。「ラ・フォル・ジュルネ」でもそうだが、相手(たとえばチェリスト)とのコンタクトが取れない。今回はオルガニストが二階にいるためコンタクトの必要がなく、自由だったはずだが、それでも音楽との遣り取りは僅かしか見ることができなかった。かつて同じ芸劇の小ホールで、山崎広太がシェーンベルクの『浄夜』を生きたのとは対照的である。

鈴木は5月26、31日には、再びBCJ通奏低音に戻る。11月には、横浜シンフォニエッタの首席指揮者就任記念演奏会が控える。音楽監督山田和樹に依頼されての就任。山田は自分とは違うタイプの指揮者を迎えたかったとのこと。プログラムが楽しみだ。(4/14)

 

★[ダンス]  長谷川六パフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ

長谷川六のパフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ』を見た(4月26日 森下スタジオ)。 長谷川の主宰するPAS東京ダンス機構による新作公演シリーズ「ピタゴラス2」の一環。今回は上野憲治との共演。両手奥それぞれに書見台を置き、原民喜『夏の花』の一節を交互に読み、交互にソロを踊る。 長谷川は黒いプリーツのソフトジャケットに黒のロングスカートで登場。「大の字」に立つと、黒子役の女性(後に衣装デザイナーと分かる)が、置いてあった赤い衣装と冠を長谷川に着せる。衣装は細かく切れ目が入り、体全体を覆う筒状のもの。同じ赤い布で作られた冠は、四角い底辺に山型の屋根を持ち、紐で固定する。シルエットは能衣装、赤いビラビラは原爆の業火を身に纏っているように見える。

上野が原民喜の言葉を読んでいる間、長谷川は研ぎ澄まされたフォルムで、空間を作る。「立つ」、それだけでスタジオを異化する。身体のあり方は能に近く、背後に無数のフォルムを感じさせる。両足で立つと左脚の曲りが深い。長谷川の表徴。手足は苦行僧のように極限の様相を帯びて、節があるのに優雅で美しい。このような能、または神事に関わる身体に加え、今回初めて太極拳の型と、気の放出を見せた。

赤い衣装を脱いだ後、『夏の花』の朗読へ。上野は美丈夫だが、まだ拮抗できる体ではない。長谷川は朗読を終えると、メガネを付けたまま奥の立ち位置へ行く。どうするのかと見ていると、何事もなかったようにメガネを置きに書見台へ戻った。以前シアターXの公演で、時計を付けたまま舞台に出たことがあるが、そんなことはどうでもよいのだ。

徹底したモダニズム美意識と、能、神事、武術の体の融合、そこに何でもありの精神が加わった踊り手。そして自分にとっては舞踊批評の唯一の師匠である。(4/27)

 

★[ダンス]  岡登志子クラス・創作ワーク・ショーイング

昨日アップした長谷川六パフォーマンスの前に、岡登志子ワークショップのショーイングがあった。当日12時45分から17時(途中退室)まで、岡のクラス(ジャン・セブロン・メソッド)と創作ワークショップを見学した。

ジャン・セブロンは1938年パリ生まれ。パリ・オペラ座ダンサーだった母に学び、その後 the London Leeder school に入学、同時に幾つかの極東スタイル(武術?)も学ぶ。ロンドンでデビューしたのち、the Essen Folkwang school へ赴き教師となる。フォルクヴァンク・バレエでも踊った。

岡は1990年にフォルクヴァンク大学に留学、ジャン・セブロン・メソッドを習得した。入学後、コンテンポラリーダンスクラシックバレエ、民族舞踊、ルドルフ・フォン・ラバンの舞踊譜などを2年、セブロン教授のメソッドクラスを2年学ぶというカリキュラム。岡によれば、セブロン・メソッドにはクルト・ヨース、ジーゴード・レーダー、ルドルフ・フォン・ラバン、チェケッティ・メソッドの影響が見られるという。またヨースのカンパニーで一緒に踊っていたピナ・バウシュは、セブロンの振付から大きな影響を受けたと語っている(『ダンスワーク』2013年、pp. 64-77 )。

岡のクラス(2時間)は座位から始まり、立位で終わった(3日間のうち初日のみ見学)。座位は胡坐か前方に足を投げ出す形。坐骨を使い、前進後退したりする。その際呼吸が重要で、胸を入れることが多い。バウシュの座ったまま左右に揺れる動きを思い出した。3拍子あり。以前、市田京美によるヨース・クラスを見学した際、3拍子の情動を喚起する動きを見た記憶がある。座位では呼吸法と身体への意識が重視され、やはり東洋的な印象を受けた。

立位になると、バットマンの変形などが見られ、よりダンスに近くなる。バウシュの片腕を上げて螺旋を描く動きは、ここから来たのかと思った。

岡は関西ニュアンスのある歯切れのよい口調で、受講者を引っ張っていく。岡自身はバレエダンサーの体。腕使いが繊細で、動きに詩情がある。

創作のワークショップでは、今年上演された作品の抜粋を使用し、受講生のインプロヴィゼーションを加える。老若男女、ばらばらの受講生の個性を一目で見抜き、彼らの動きをさらに展開させて、優れたダンスに置き換える凄さ。構成(ダンサーの関係性)を考えながら、個々の動きを付けていく速度に驚いた。19時30分からのショーイングは、一つの作品として見ることができなかった。作品化のプロセスを知っているので、ダンサーが与えられた振りをいかに遂行し、その上で自分を出せたかどうか注視してしまったからだ。(4/28)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ペンギン・カフェ2013』

新国立劇場バレエ団がビントレーの『ペンギン・カフェ』を再演した。同時上演は前回と同じバランシンの『シンフォニー・イン・C』と、ビントレーの近作『E=mc²』(バレエ団初演)。一月公演同様、ダンサーのアスリートとしての側面を鍛えるタフなトリプル・ビルである。

ビントレー初期の傑作『ペンギン・カフェ』(88年)は、サイモン・ジェフ率いるペンギン・カフェ・オーケストラの「世界音楽」を用いた被り物バレエ。ヒツジ、サル、ネズミ、ノミ等が民族音楽に乗って楽しげに踊るが、彼らは実は絶滅危惧種であり、狂言回しのペンギンは既に絶滅していることが、最後に分かる。 終幕、黒い不吉な雨を逃れ、動物と人間が対になってノアの箱船に乗り込む。しかしペンギンの前で扉は閉ざされ、あとに一人ポツンと残される。残されたことさえ分からないその無防備な立ち姿は、死そのもの、我々の行き着く先である。

さらに今回は3・11以前の前回と比べ、住むところを追われた熱帯雨林家族の哀しみが、他人事ではないリアリティを持って胸に迫ってきた。生の喜び(踊り)を味わううちに、いつの間にか死の影に捉えられる。緻密に計算された重層的な作品である。

久々復帰のさいとう美帆が嬉々としてペンギンを演じている。ウーリーモンキーの福岡雄大、オオツノヒツジの湯川麻美子、カンガルーネズミの八幡顕光、福田圭吾、ケープヤマシマウマの奥村康祐、古川和則もはまり役だった。最大の見せ場は貝川鐵夫、本島美和と子供が演じる熱帯雨林の家族。その無意識の哀しみ、無垢な魂が緩やかな動きとなって流れ出す。本当の家族に思われた。

前後を二つの傑作に挟まれた『E=mc²』は、09年にバーミンガム・ロイヤル・バレエ団によって初演された。デイヴィッド・ボダニス著の同名作から着想し、マシュー・ハインドソンに曲を委嘱した意欲作である。

作品は、ボダニスの章立てに沿って「エネルギー」「質量」「光速の二乗」と進むが、「光速」の前にこの方程式が人類にもたらした最悪の結果、「マンハッタン計画」が挿入される。

ハインドソンの音楽は、原初的なエネルギーに満ちた曲に始まり、雅楽を思わせる瞑想的な曲、振動を伴う轟音、そして明るいミニマルな曲で終わる。ビントレーの振付も、モダンダンス風の写実的な動きに始まり、浮遊感のあるアダージョ、日本風の舞、ミニマルな跳躍と、音楽に呼応する。ただしビントレー特有の、肉体の細部まで動員した繊細な音楽解釈を感じさせたのは、残念ながら「質量」と「マンハッタン計画」のみだった。

ダンサー達は作品の実質を上回るエネルギーで、芸術監督の意欲作に応えている。特に「エネルギー」の福岡、本島、「質量」の美脚三人組、小野絢子、長田佳世、寺田亜沙子、「マンハッタン計画」の湯川、「光速の二乗」の五月女遥が、振付の意図をよく伝えている。

バレエ団4回目となる『シンフォニー・イン・C』はPaul Boos の振付指導。バレエ団初演時(P・ニアリー指導)と比べると、大胆な脚技やフルアウトのエネルギーは影を潜め、より端正で流れを重視した形になっている。

プリンシパルにはバレエ団の顔が揃ったが、中でも第一楽章の長田が、優れた音楽性と正確な脚のコントロールでバランシン・スタイルの体現者となった。また菅野英男のクラシカルな切れ味、福岡のスピーディな踊りも魅力にあふれる。

コリフェではベテランの大和雅美、江本拓に加え、五月女、盆小原美奈、宝満直也等、若手の活躍が目立った。また第二楽章のプリンシパル厚地康雄と第一楽章のコリフェ小柴富久修が、『E=mc²』同様、サポート役で貢献している。

演奏はポール・マーフィ指揮、東京フィルハーモニー交響楽団。(4月28、29日、5月4日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2900(H25・6・11号)初出(6/11)

 

★[美術][ダンス]  フランシス・ベーコン

フランシス・ベーコン展を見た(5月25日 国立近代美術館)。 NHKの「日曜美術館」で、井浦新を相手に、浅田彰が熱弁をふるっていたので、見ようと思った。神が死んだ後の宗教画(三幅対)とのこと。

行ってみると、ダンスとベーコン展のような感じ。土方巽『疱瘡譚』の記録映像が常時流され、ベーコンの絶筆をなぞるフォーサイスの動きが、インスタレーションとして大スクリーンに映し出される。表からも裏からも見ることができる。ベーコンの絵は、肉体そのものを描いている。特に土方を見た後、『三幅対―人体の三習作』を見ると、肉の歪みが、そのまま舞踏を描いているように見えた。でも実は反対で、土方の方がベーコンにインスパイアされていたのだ(土方の舞踏譜「ベーコン初稿」)。『疱瘡譚』をオシャレな老若男女が見入っている姿に感慨が(普通の展覧会よりも明らかにおしゃれ)。

もう一つ『人体による習作』は、ドアの前で人体が消えようとしている絵。2月に見たベケット作品『ネエアンタ』を思い出した。山崎広太がドアに向かって歩行する、その肉体の軋み。ドアは世界の入り口になっている。そこに辿り着くことの不可能性。演出家はこの絵が念頭にあったのだろうか。(6/10)

 

★[ダンス]  金森穣『ZAZA~祈りと欲望の間に』

Noism1の神奈川公演を見た(5月26日 KAAT)。 一時、首都圏で公演を打たなかったが、その間に、ダンサーがバレエベースで統一されていた。演技派宮河愛一郎を除いて、みんな体が切れる。ラインも美しい。その分、金森の振付に抵抗する体(島地保武、青木尚哉、平原慎太郎のような)がいなくなった気がする。金森コンセプトの今回、また昨年の『Nameless Voice~水の庭、砂の家』を見ると、空間が閉じられている。金森の思うがまま。昨年末の『中国の不思議な役人』は音楽、台本があるので、金森の物語との格闘がある分、外に開かれていたが。 定期的に新作を作るレジデンシャル・カンパニーの場合、振付家一人の想像力では賄いきれないのが普通だろう。ドラマトゥルクか、台本から金森をアシストするスタッフが必要ではないのか。『Nameless Voice』はコンセプトを盛り込みすぎて、メッセージが伝わりにくく、『ZAZA』は、ダンサーの技量を生かし切れるコンセプトとは言えなかった。インスピレーションの度合いが浅い。

プロのコンテンポラリー・ダンス・カンパニーを維持し、ダンサーを育成し、ダンサー雇用の受け皿を作る金森の才能は、もちろん凄いと思う。また物語に即した演出振付の才能も。美術、音楽以外のコラボレーションが期待できれば、新たな展開があると思うのだが。(6/9)

 

★[バレエ]  パリ・オペラ座バレエ団『天井桟敷の人々』

パリ・オペラ座バレエ団が3年ぶりに来日、『天井桟敷の人々』(08年)を上演した。マルセル・カルネ監督の傑作映画をバレエ化したもので、バレエ団芸術監督ブリジット・ルフェーブルの企画。振付をジョゼ・マルティネス、衣裳をアニエス・ルテステュが担当した。

マルティネスは『ドリーブ組曲』や『スカラムーシュ』の振付から分かるように、歴史への眼差しを持つ振付家である。そうした資質と、エトワールとして物語バレエからコンテンポラリーまで様々なジャンルを踊ってきた蓄積により、文化的国家遺産『天井桟敷の人々』を現代に蘇らせることに成功した。

作品の構造は入れ子状態。サーチライトを持ったジャン=ルイ・バローが、かつての撮影所を訪れ、回想するという導入部が置かれる(終幕にもバローは登場、幕引き役となるが、少し余情が損なわれる面もある)。

回想の中では、パントマイム役者バチストと絶世の美女ガランスの恋が、俳優ルメートル、悪党ラスネール、座長の娘ナタリー、宿屋のエルミーヌ夫人、モントレー伯爵を絡めて、ほぼ映画通りのニュアンスで描かれる(翻案・マルティネス、フランソワ・ルシヨン)。

19世紀前半のコメディア・デラルテ風無言劇と、その舞台裏を見せるバックステージ物の妙味は、映画でも見られたが、実際に舞台上で演じられると面白さが倍増する。場面に応じて様々なスタイルを使い分けるマルク=オリヴィエ・デュパンの音楽も、この無言劇の甘く切ないメロディが特に素晴らしかった。

劇場構造をフルに生かし、観客とダンサーを近づける演出も効果的。ルメートルの寸劇『オセロ』は、休憩時に観客が見守るなか、クローク横の階段で演じられ、終幕のガランスとバチストの永遠の別れは、ガランスが客席へと降り立つことで表わされる。 ジャグリング、太鼓を伴った呼び込み屋(残念ながらフランス語)、ルメートルの新作を宣伝するサンドイッチマン、天井からのチラシ撒きなど、昔の芝居小屋の熱気を劇場内に呼び起こす演出は、まさに演劇そのものへのオマージュである。

振付は人物に応じて、クラシックからコンテンポラリーまで多岐にわたる。バチストのピエロの仕草と床を使ったコンテンポラリーの語彙、ガランスのポアントのニュアンス、ラスネールの爬虫類風身のこなし、エルミーヌ夫人のコミカルなヒール付きポアント踊りが印象的。ルメートルの新作『ロベール・マケール』のプロットレス・バレエはバレエファンへのサービスかも知れないが、演技と踊りを融合した物語部分の方に、マルティネスの才能が発揮された。

バチストを演じたマチュー・ガニオは、美しい容姿の内包する空ろさが、ピエロの衣裳によく合っている。バローの天才的な鋭い狂気、詩的なパントマイムとは違った、何か常に受け身の哀しさを感じさせた。一方、ガランスのイザベル・シアラヴォラは適役。美しい脚と甲の高さで、様々な感情が表現できる。映画のアルレッティに近い造型だった。

ルメートルのカール・パケットは、クラシック場面を一手に引き受けている。数多の女をサポートし、休憩時も寸劇でリフト、そのまま新作の踊りに入るタフな役どころである。誠実で女を弄ぶ風には見えないが、献身的な舞台に好感が持てた。

ソリストを含め、バレエ団は一人一人が役を心得て、群衆の猥雑な活気を生み出している。一幕兵士の古風なユニゾンや、アクロバット三人娘のチンチクリンな可愛らしさも印象深い。カーテンコールの元気な出入りも楽しかった。

ジャン・フランソワ・ヴェルディエ指揮、シアターオーケストラトーキョーが若々しい演奏で、来日ソリスト陣と共に、舞台を大きく支えている。(5月30日 東京文化会館大ホール)  『音楽舞踊新聞』No.2901(H25・6・21号)初出(6/21)

 

★[映画]  王家衛『グランド・マスター』

王家衛の映画を久しぶりに見た。07年の『マイ・ブルーベリー・ナイツ』以来(6月5日 ワーナーマイカル板橋)。 ウォン・カーウァイの映画は全部見ている。『2046』のキムタク出演部分を除くと、全部好きだ。

作品の構成はハチャメチャ、映像も歪んでいる、終わりがない、そこがたまらない。全体でウォン・カーウァイの作品。彼が生きて仕事をしていると思うだけで、生きる勇気が湧いてくる。

ウォン監督の分身トニー・レオンも好きな俳優(阪本順治にとっての佐藤浩市)。田村高廣や小津作品の笠智衆を思わせる。上品な受け身の色気がある。 監督は「今回、香港・中国・フランスの合作なので、脚本の審査が厳しい」と、日経のインタビューで語っている。ということは本当はもっと流動的な構成だったかも。最後にトニー・レオンがにっこり笑って「君は何派?」と訊いて終わる。直前に「武術では流派は関係ない」と言っているので、お茶目をかましているわけだ。いかにものショットだった。

レオンはブルース・リーの師匠イップ・マン(葉問)役。47歳で初めて武術(詠春拳)を学んで、役に備えた。途中、二度骨折したとのこと。詠春拳は短橋狭馬(歩幅が狭く、腕を伸ばし切らない)で、接近戦を得意とする(プログラム)。レオンの構えは自然で美しい。心境に澱みがなく、淡々と技を繰り出す。レオンの形になっている。初めの2年間は戦うシーンの撮影ばかりで、冒頭の雨の格闘シーンは、10月から11月にかけて一か月以上、毎晩休みなしで行われたという。しかも、夜7時に撮影が始まったとしたら、翌朝まで着替えることができない。このシーンを撮り終えた後、レオンは気管支炎にかかり、5日間寝込んだ(プログラム)。レオンが監督の言うまま、黙々と役をこなしている姿が目に浮かぶ。

このイップ・マンという人は、「40過ぎまで何もしなくても生活できる代々裕福な家に育った。その味を一番出せるのがトニーだと思った」と監督(日経)。その妻の張永成役には、韓国女優ソン・ヘギョ。多くを語らずとも互いに分かり合える高貴な家系の女性なので、言葉を発しなかった。ただひたすら美しく、光り輝くような慎ましさがある。夫レオンに脚を洗ってもらっていた。なぜ日本にはひたすら美しい女優がいないのだろう。

ウォン・カーウァイとカンフーの組み合わせで、おいしさ二倍。美術や映像の美しさも凄いが、そこまでやるかという閾値を超えるところに快感がある。ディレクターズ・カットになるとどうなるのか。(6/10)

 

★[ダンス]  平山素子『Trip Triptych フランス印象派ダンス』

標記公演を見た(6月7日 新国立劇場中劇場一階席のみ使用)。見ながら思ったのは、時々曲が長い、後半が面白い、『ボレロ』はバレエダンサーのレパートリーになりうる、平山のダンサーとしての成長、平山の優れた音楽性、地についた世界観と演出、中村恩恵との違い、シルヴェストリンが東洋的になっているなど。

曲が長いと思ったのは、第一部のドビュッシー弦楽四重奏曲ト短調』、ラヴェルの『5つのギリシャの民謡』、第二部のサティ『ノクターン』。特に最後は、『ジムノペティ第3番』で二枚の白いチュールが舞うデュエットがよかっただけに、短く終わってほしかった。

演出は自分が考え出したもの、外からくっつけたものではないので、肯定できる。特に後半の水関係、チュールの踊りが面白かった。

ボレロ』はいくつかのシークエンスを使い、少しニュアンスを変えながら、繰り返していく。ラヴェルの明晰な構造を理解し、振りのパーツを組み立てている。さらに音楽のうねりを、動きの波動に変えているところが素晴らしい。時々休止(ポーズ)を入れる、その入り方と出方(動き出し)の音取りが絶妙で気持ちがいい。重心の低さは、プリエではなく、東洋的な中腰に見える。何よりも自分の音楽解釈から生み出された動きなので、ベジャールの呪縛から逃れている。酒井はなと米沢唯は、「絶対私が踊りたい」と思うだろうなあと思った。同時に、平山のダンサーとしての成長を思った。以前は自作自演の場合、自意識が見えてつまらなかったが、今回は自分の体を他者として振り付けている。作品が独立して存在する。『Revelation』『Butterfly』『ボレロ』を様々なバレエダンサーで見てみたい。

サティ、ドビュッシーラヴェルを使用し、バレエ・リュスへの理解を交えた作品だが、自分の音楽の好み、自分の世界観が作品に反映されている。ペダントリーではない。そこに中村との違いがある。中村の価値観は自分の外にある。 冒頭のシルヴェストリンのソロには、東洋的なニュアンスを感じた。以前はもろフォーサイス踊りだったのに。肩が上がり、手が外に曲がっている。動きの質感が湿っている。個性が出てきたのだろうか。小尻健太の牧神起用は正しい。テクニックの凄さ、重厚な体、存在感。元Noismダンサーは4人。青木尚哉、平原慎太郎、高原伸子、原田みのる。青木、平原はそのまま、高原はやはり井関佐和子の味を思わせる。平山の弟子、西山友貴が、平山そっくりなのに驚く。動きの癖、存在の出し方。驚いた(訂正:西山ではなく福谷葉子?ポアント履いてた)。新国立の宝満直也は、何もしないでそこにいるように見えた。大物か。宝満にとって勉強になったと思う。(6/9)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』初日と二日目

標記公演を見た(6月22、23日 新国立劇場オペラパレス)。 以前理想的と思っていた組み合わせが逆に。小野絢子は菅野英男と、米沢唯は福岡雄大と。『くるみ割り人形』もそうなったので、『パゴダの王子』や『アラジン』以外はこの組み合わせになるのかも。小野は菅野との『こうもり』で女らしさを出していたし、米沢と福岡はビントレーのモダンダンスでエネルギーが拮抗していた。

初日の米沢は、考え抜かれた演技と踊り。米沢の特徴は、身体(意識)の自在なギアチェンジと、回転技を中心とするずば抜けた技術にある。今回は後者が爆発した。これまで妖精(金平糖)、白鳥、死霊(ジゼル)と、異形の者で、身体意識を変えてきた。今回は人間なので、技術が目立ったということか。グラン・フェッテはトリプル以上(数えられなかった)。扇子スパイラル回しは、確か酒井はながやっていた(訂正:酒井は扇の開閉だった)。酒井は一度、トランス状態のキトリを佐々木大とやったことがある。その時のオペラ劇場の興奮は、それ以降経験したことがない。米沢はすっきりと静かなフェッテ。エネルギーがはじけるのではなく、高速コマの静止状態のような感じ。長唄をやっていたことと関係あるのだろうか。 バジル福岡は万全の体調で、なおかつ気持ちも充実していた。グランパのヴァリエーションは、危険ぎりぎりのところまで楽々と跳んで回る。コンクール荒らしの二人が組むと、という図だった。

そして山本隆之のドン・キホーテ。サポートするだけで物語を立ち上げる凄腕なので、全編山本ドン・キの視線に覆われる。米沢とは組んだことはないと思うが、『アンナ・カレーニナ』で組んだ森の女王の厚木三杏、『椿姫』で組んだグランパソリストの堀口純を、遠くから見つめる。その距離の遠さに、愕然とする。彼女たちと組むことはもうないだろう。だがそうした感慨はこちらの勝手で、山本は視線でサポートしている風にも見える。妖精たちに囲まれるのは、山本の定位置だった。シルフィード、ウィリ、白鳥、眠りの森の妖精、バヤデールに囲まれて、舞台生活を過ごしてきた。キホーテが森の妖精に囲まれる姿が、これほど様になっているのを見たことがない。サンチョの吉本泰久とは王子と道化で組んだ仲なので、阿吽の呼吸。初日は山本の舞台だったかもしれない。バジルの狂言自殺のとき、皆が顔を覆うなかで、ドン・キホーテだけがバジルの動作を見つめていた。山本によって初めて気づいた芝居だ(これまでも多々あり)。

ロレンツォの輪島拓也、ガマーシュの古川和則、カスタネットの踊りの西川貴子が役(踊り)に息吹を与えていた。特にカスタネットの踊りは、初めて十全に踊られた気がする。西川の正確なポジション、その全てに気が漲った円熟の踊りだった。厚木の森の女王も、アクシデントはあったものの、これまでで最高の出来栄え。キホーテと対話し、すべてをふくよかに包み込む踊りだった。

二日目は菅野の舞台。機嫌のいい笑顔、何があってもサポートできる開かれた身体性。小野がこけそうになっても、あわてず騒がず、びっくりしたね~とでも言うように笑い合う。これほど人間的で自然な包容力のあるパートナーはいない。観客は無意識のうちに、世界が肯定されているのを感じとり、気持ちよく家路につくのである。

小野は大きい踊り(ロシア派?)を見せようと、骨がはずれるのでは、と思うくらい頑張っていた。グランパ・アダージョは輝くエネルギーを発散し、1.5倍くらいの大きさに見えた。そして持ち前のユーモアも。

古川のキホーテは、近くで見た知人は「顔がすんごいおかしかった」と言っていたが、遠目ではよく分からなかった。ただ存在が何もない感じはよく出ていた。エスパーダは福岡。コテコテの関西弁のような踊り。生き生きとしている。初日メルセデス、二日目森の女王の本島美和が、スパニッシュでもクラシックでも大きくゴージャスな踊りを見せた。今シーズンに入って、地に足が着いた感じがする。本来の資質が花開いた。

全体に芝居がツボにはまり、踊りも思い切りがよくなった。コール・ド・バレエのクラシック・スタイルも復活し、いいとこだらけ。ゲスト・コーチはナタリア・ホフマン。キホーテの盾と鎧が異常に重い、という芝居をサンチョや宿の女将だったかがするのが新鮮だった。キホーテの神憑りがよく分かる芝居。(6/24)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』三日目、四日目

標記公演を見た(6月29、30日 新国立劇場オペラパレス) 19世紀古典バレエ(全幕)の良さは、世界中のバレエ団がほぼ同じ振付を踊り、歴代のダンサーによる蓄積が途方もなく大きいこと、主役バレリーナが全幕を踊り切ることで破格の成長を遂げる可能性があること、バレエの様式性の維持が望めること、が挙げられる。1月のトリプル・ビル(バランシン、ビントレー、サープ)の後、2月の『ジゼル』では、ペザント・パ・ド・ドゥがクラシックに見えないという弊害があった。サープのせいだと思う。今回の『ドン・キホーテ』では、ビントレー作品を踊ってきた成果である自然な演技と、バレエ団持ち前のクラシックの様式性がマッチして、レヴェルの高い古典全幕上演になった。古典嫌いのビントレーの感想が聞きたい(『ジゼル』はロマンティック・バレエだからOKだそう。どうせならビントレー版を移植して欲しかった)。

主役二組は実力発揮。来季からオノラブル・ダンサーになる川村真樹、同じくファースト・ソリストになる寺田亜沙子、共にラインが美しく、目を楽しませる。川村の来し方を考えると、複雑な思いに。もっと早く、もっと多く主役を踊るべきダンサーだった。ただ明るい演目で終わることができて、カーテンコールも満足そうだったので、気持ちの区切りがついているのかなとも思った。一方、寺田は風格が出てきた。研修所の修了公演の挨拶が、涙で言葉にならなかったのを思い出す。立派なアダージョだった。キャラクテールにも、コンテンポラリーにも優れているので、今後の展開が楽しみ。凄みが出てくると、美しいだけに恐ろしいことになるかも。

来季からBRBに戻る厚地康雄は、献身的なサポートで川村を支えた。プロらしい舞台。一方の奥村康祐は、まだサポート筋ができていない柔らかい体。回転技に力を発揮した。

キャラクター陣は先週と同じ。最終日は左バルコニーで見たので、山本ドン・キ、吉本サンチョ、古川ガマーシュ、輪島ロレンツォの小芝居が面白くて仕方がなかった。4役が揃うのは新国では今までなかったこと。皆年齢を重ね、経験を重ねて辿り着いた舞台人の境地。特に吉本の自在さは、ビントレーとの出会いによって後押しされたような気がする。スカートめくりしたり、常に役を生きていた。キューピッドの一人が過って落とした矢を拾って、カバンに入れて、最後は矢をふりふり退場していった。山本ドン・キとのコンビをずっと見ていたい。

先週と唯一変わったのは、街の踊り子の米沢唯。29日(役初日)は、福岡エスパーダと粋なやりとりを見せ、30日にはマイレン・エスパーダと濃厚なやりとりを見せた(マイレンは米沢のみならず、本島メルセデスの首筋にもブチュとやっていた)。そしてなぜか米沢はこの日、日舞の感触があった。顔は夜叉のよう、扇は日舞の扇に見えた。今回唯一の身体ギア・チェンジだった。『夜叉が池』の白雪をやってほしい。小野は百合を。晃と学円は福岡と菅野で。

本島は先週も見ごたえがあったが、今週のメルセデスは凄かった。上からだったので、総踊り時、テーブルの上で踊っているのがよく見えた。オシム監督の「水を運ぶ人」という言葉が思い浮かぶ。ソロもエネルギーが四方八方に飛び散る素晴らしさ。腹からの力が踊りに出るようになった。

今回はトレアドールのナイフ刺しも楽しみだった(ダンサーたちには悪いが)。初日、二日目ボロボロ倒れる。以前、貝川鐵夫や現在アシスタント・バレエ・マスターの陳秀介が倒した記憶はあるが、こんなに倒れたことはない。さすがに三日目は持ち直し、しかし四日目は何本か倒れた。街の踊り子寺田は少し緊張、米沢は平気に見えた。ナイフを刺し直すのも面白かった。以前は一発の美学だったけど。(7/1)

 

★[バレエ]  英国ロイヤル・バレエ団『不思議の国アリス』「ロイヤル・ガラ」『白鳥の湖

英国ロイヤル・バレエ団が3年ぶり11回目の来日公演を行なった。全幕創作バレエ『不思議の国のアリス』、「ロイヤル・ガラ」、『白鳥の湖』の3プログラムである。

ロイヤル・バレエ団は丁度、世代交代の時期に当たっている。ギエム、バッセル、吉田都等が退き、ロホはENBの芸術監督に、またベンジャミン、コジョカル、コボーは今回が最後のロイヤル出演である。こうした事情に加え、初代アリスのローレン・カスバートソンが故障で来日ならず、さらにロイヤル最後の『白鳥』と喧伝されたコジョカル、コボーも故障で、同じく代役となった。

世界レヴェルのスター達が妙技を競い合う華やかさはなくなったが、その分、ロイヤル・バレエ団の伝統が浮き彫りになる地に足のついた公演だったと言える。

不思議の国のアリス』(11年)はロイヤル出身で、NYCBの常任振付家を務めたクリストファー・ウィールドンの作品。翳りのないユーモアと、音楽性にあふれた演劇的バレエである。ヴィクトリア朝、不思議の国、現代という三つの時空を、演技の様式を変えて描き出す手腕、ブラック・ユーモアのバランス感覚は、ウィールドンが真に英国的な振付家であることを示している。

動物の被り物、グロテスクな女装、強い女王と弱い王は、バレエ団のお約束。映像、美術、音楽も素晴らしく、劇場自体のレヴェルの高さを思わされる。先頃パリ・オペラ座バレエ団が、同じく全幕創作バレエ『天井桟敷の人々』で来日したが、オペラ座クリエイティヴィティを前面に出すのに対し、ロイヤルは工夫の跡を見せない演出を誇る。観客の嗜好の反映なのだろう。

出ずっぱりの主役サラ・ラムは、美しいラインと控え目な演技で繊細なアリス像を、ルイス・キャロルと白うさぎのエドワード・ワトソンは、奥行きのある複雑な人物を的確に造型した。 残虐なハートの女王ゼナイダ・ヤノウスキーは、怖ろしいローズ・アダージョを寸分の狂いなく踊り、いかれ帽子屋のスティーヴン・マクレーは超絶技巧タップで、いかれ具合を表現した。三月うさぎのリカルド・セルヴェラ、料理女のクリステン・マクナリーも印象的。インターナショナルな団員構成なのに、脇役に至るまで英国的だった。

東京では久しぶりの「ロイヤル・ガラ」は、アシュトン、マクミランからリアム・スカーレットまで、オリジナルの作品が並び、新旧振付家の系譜を辿ることができた。アシュトン作品では、現行版では使われていない『白鳥の湖』パ・ド・カトルと、『眠れる森の美女』目覚めのパ・ド・ドゥが興味深い(牧阿佐美バレヱ団のウエストモーランド版にその影響がある)。またマクミランの『マノン』寝室のパ・ド・ドゥで、ベンジャミンが集大成となる演技を見せた。

最も客席の空気を変えたのは、ラウラ・モレーラがフェデリコ・ボネッリを相手に踊ったスカーレットの『ジュビリー・パ・ド・ドゥ』。一見普通のパ・ド・ドゥに見えるが、自然な息吹がそこかしこから立ち昇り、自然食のような素朴な喜びにあふれる。モレーラの明るく肯定的な資質とよく合っていた。

伝統のプログラム『白鳥の湖』は、87年から続くダウエル版。一幕王子のソロがないオーソドックスな演出だが、時代を19世紀後半のロシアに設定した点に独自性がある。三幕は仮面舞踏会。キャラクターダンスはロットバルトの手下が踊り、小人も登場する。ソナーベンド美術独特の退廃美である。

主役のラムは、美しいラインで儚げなオデットと気品あふれるオディールを演じ分けた。ジークフリートマクレーはロイヤル伝統の王子。ソロは高難度に変えていたが、アラベスクのポーズは端正。ノーブルな踊りと佇まいだった。

今回は全般的に日本出身のダンサー達が大活躍をした。里帰り公演が多数配役の理由でないのは、配役に見合ったレヴェルの高い踊りから明らかである。プロらしい堅実な踊りの小林ひかる、高い技術と愛らしい容姿の崔由姫、正統派高田茜、大きく華やかな金子扶生、品の良い蔵健太、硬質な肉体と大きさのある平野亮一。特に平野は、日本人らしさを留めたままで、数々の配役をこなすサムライである。

演奏は、デヴィッド・ブリスキン、ボリス・グルージン、ドミニク・グリア指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団が担当した。(7月5、10、12日 東京文化会館)  *『音楽舞踊新聞』No.2907(H25・9・11号)初出(9/11)

 

★[バレエ]  谷桃子バレエ団『道化師』他

谷桃子バレエ団伝統の創作バレエに、新たなレパートリーが誕生した。伊藤範子振付『道化師~パリアッチ~』である。団独自の企画「古典と創作」において、『ライモンダ』第三幕と共に上演された。

『道化師』はレオンカヴァッロの同名ヴェリズモ・オペラをバレエ化したもの。コメディア・デラルテ一座の座長が、嫉妬のあまり妻を殺すという人情物である。座長カニオが、後に妻となるネッダを少女時代に拾って育てる場面(オペラではカニオの歌詞で分かる)を付け加えた他は、ほぼ筋書き通り。道化のトニオが幕を開けると、物語が始まり、さらに劇中劇が物語上の現実と錯綜し、悲劇が起こる。再びトニオが幕を引くという三重構造になっている。

演出面では舞台袖のアプローチや客席も使うなど、工夫が凝らされている。特に箱馬車を挟んでシモ手に劇中劇、カミ手に苦悩するカニオを配した場面は効果的だった。 伊藤の振付は、登場人物の性格、感情を的確に表している。またコメディア・デラルテの動き(指導・光瀬名瑠子)を導入したことで、歴史的な深みが加わった。ただしオペラの歌をそのまま使用した場面は、歌詞の意味が分からない分、見る側の意識が宙づりになり、振付に集中することが難しかった。

座長カニオには三木雄馬若い女房に密通された男の怒りと哀しみを、果たして若い三木に表現できるのかと思ったが、以前の技術一辺倒ではない三木がそこにいた。前半の優しさと大きさに加え、後半の苦悩が、幅のある演技と踊りにより伝わってくる。有名なアリオーソ「衣裳をつけろ」は、形に捕らわれない心からの絶唱だった。

ネッダの林麻衣子(二日目・日原永美子)は明るく可愛らしい、地を生かした役作り。横恋慕するトニオを軽くあしらい、恋人シルヴィオとの逢瀬を楽しむ。対するシルヴィオの檜山和久は、やや暗めの造型だったが、ダンスール・ノーブルのソロを美しく踊っている。

トニオの近藤徹志は、狂言廻しの懐の深さと、ネッダへの暗い情念を、巧みな演技と重厚な存在感で示した。またペッペの山科諒馬は、愛嬌のある佇まいに献身的な踊りで、舞台に爽やかさをもたらしている

四人の道化役者(津屋彩子、雨宮準、下島功佐、中村慶潤)の細やかな演技と明るい踊り、村娘たちの牧歌的なアンサンブル、村男6人の素朴な踊りも楽しい。とくに牧村直紀の正確な踊りと闊達な演技が印象的だった。

同時上演の『ライモンダ』第三幕は、03年キーロフ・バレエのN・ボリシャコワ、V・グリャーエフにより導入された。今回はアレクサンドル・ブーベルの再振付が加わり、ハンガリアンとマズルカ・アンサンブルの質が大きく向上している。

ライモンダには佐藤麻利香(二日目は佐々木和葉)、ジャン・ド・ブリエンヌには齊藤拓(二日目は酒井大)。佐藤は艶のある緻密な踊りと視線の使い方で、古典の主役にふさわしい踊りを見せた。全てに神経が行き届いている。一方の齊藤は、持ち味の美しいスタイルと安定したサポートで、ダンスール・ノーブルとしてのお手本を示した。

パ・クラシックは、一糸乱れぬスタイルの統一が不可欠である。中劇場で表情がよく見えることもあるが、男女ともに個性が前面に出て、古典らしい香りを醸し出すには至らなかった。『道化師』での躍動感あふれる踊りと引き比べ、改めてバレエ団の演劇的な指向性を思わされた。(7月6日 新国立劇場中劇場) 『音楽舞踊新聞』No.2905(H25.8.1号)初出

 

*今年はすでにコメディア・デラルテ物が3作、上演されている。フォーキンの『ル・カルナヴァル』(NBAバレエ団)、マルティネスの『天井桟敷の人々』(パリ・オペラ座バレエ団)、そして伊藤範子の『道化師』(谷桃子バレエ団)である。フォーキンの場合は、19世紀前半に作曲されたシューマン原曲の登場人物をバレエ化、マルティネスは映画に則って19世紀初頭の無言劇を劇中劇として、伊藤は20世紀初頭の設定(レオンカヴァッロのオペラは19世紀半ば)で、コメディア・デラルテの動きそのものを導入した。元々は即興劇なので言葉の軽妙な遣り取りが命だが、バレエ、パントマイム、動きのみの受容は、それぞれに面白さがあった。谷のダンサーたちはダンサーだけあって、コメディアの動きにも切れがあり、伝統の卑猥な身振りも難なくやってのけている。(8/2)

 

★[バレエ]  「全国合同バレエの夕べ」

日本バレエ協会主催「全国合同バレエの夕べ」が二日間にわたり開催された。文化庁「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である。今回は8支部1地区が参加。本部作品を加えると、13作品上演という盛況だった。

最大の成果は、東日本大震災の復興途上にある東北支部が三年ぶりに参加して、レヴェルの高い舞台を見せたことである。作品は『海賊』の踊りどころを再構成した『ル・コルセーユ・ディヴェルティスマン』(改訂振付・左右木健一)。海外で活躍する大場優香、田辺淳、淵上礼奈、馬場彩に加え、地元の鹿又陽子、ジュニア実力派が、技術、様式を伴ったヴァリエーションを披露した。特にアリの田辺は無口ながら大技を繰り出し、鎮魂の祈りを踊りに滲ませている。アンサンブルは全体にポアント音が小さく、慎ましやかなスタイル。統一感あふれる改訂だった。

古典改訂は他に2作。山陰支部の『時の踊り』(改訂振付・若佐久美子、監修・安達哲治)は、夜の女王に吾郷静、三日月にトレウバエフ(共に好演)、時の精に地元ジュニアを配した寓話風バレエ。ジュニア達は必ずしも揃っていないが、プティパ・イデアが共有されて、フォーメイションの明快さ、面白さ、豪華さを伝えることに成功した。

北陸支部は『ドン・キホーテ』第2・3幕より(改訂振付・坪田律子)。ノーブルな法村圭緒をバジルに迎え、土田明日香がドルシネア、岩本悠里がキトリを踊った。混成のアンサンブルをよくまとめているが、構成にはもう一工夫欲しい。

創作は8作。個性派揃いのなかで、一際目立つ2作品があった。関西支部の『コンチェルト』(振付・樫野隆幸)と、四国支部の『夕映え―only yesterday』(振付・小尻健太)である。

女性16人が踊る『コンチェルト』は、バッハの管弦楽曲に振り付けられた純粋なプロットレス・バレエ。音楽と密接に結びついた精緻な空間構成が素晴らしい。振付はバッハにふさわしくカノンを多用。アラベスク、ア・ラ・スゴンド、フェッテが次々に花開いていく。ダンサーのレヴェルも高く、ガルグイヤードなど高難度の振付を易々こなした。隅々まで意匠を凝らした、宝石箱のような作品だった。

一方女性8人が踊る『夕映え』は、意味を生成しない純粋なコンテンポラリー・ダンス。深海のような密やかな息遣い、シルフィードのような存在感、ホラー物のムードも漂わせる。日常的仕草や動き出しのカノンが面白い。そのユーモアとリリシズムの絶妙な配分、繊細な音楽性。師匠キリアンよりもやはり東洋的である。バレエの体でなければ作り出せない霊妙な世界だった。

他の6作は初日から順に、グラズノフを使用した東京地区の『SEASONS』 (振付・伊藤範子)。志賀育恵と横関雄一郎(共に好演)を主役に、コリフェ、コール・ド・バレエを配したシンフォニック・バレエである。神経の行き届いたアダージョ、古典の香り高いヴァリエーションに振付家の個性を見た。

関東支部の『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』(振付・石井竜一)は、メンデルスゾーンの生涯を女性二人を絡めて描いたモダンバレエ。武石光嗣のノーブルな佇まい、清水美由紀の情感豊かな踊りが素晴らしく、作品の枠組もよく考えられている。ただ振付家の個性の発露という点では物足りなさが残った。

沖縄支部の『南のシンフォニア』(振付・伊野波留利)は、富田勲with鼓童の曲に振り付けられたモダン・ダンスの語彙を含むプロットレス・バレエである。モダンの闊達な動き、バレエの研ぎ澄まされた体、南国らしい伸びやかさの融合は他では見ることができない。観客の心を一気に解放する力があった。

二日目の創作は、バッハの「シャコンヌ」を使用した東京地区の『MIRAGE(幻影)』(振付・安達哲治)から。安達の文学性を濃厚に反映した現代版ロマンティック・バレエである。安達のロマンティックな願望を古澤良が体現。永遠の女性を寺田亜沙子が美しく、古澤を包み込むように演じた。寺田の透明感が作品に燦めきを与えている。

中国支部の『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(振付・榎本晴夫)は、モーツァルトの同名曲に振り付けられた作品。ダンサーの技倆に寄り添ったのか繰り返しが多く、スタイルの指導も徹底されていない。ただダンサーたちが笑顔で踊っていたのが印象的だった。

関東支部の『ダンス ドゥ キャラクテール』(振付・金田和洋)は、チャイコフスキーを使った個性的な群舞作品。バレエというよりも体操やマスゲームに近いスポーティな感触がある。ユニゾンが多く、多人数が揃うことに振付家の悦びがあるのだろう。

最後はバレエ協会の貴重なレパートリー、リシーンの『卒業舞踏会』。例によって引き締まった仕上がりである。今年の女学院長と老将軍は、貞淑な井上浩一と円満な原田秀彦、気品のあるコンビだった。藤野暢央のスコットランド人はご馳走。第二ソロの堀口純がパートナー中島駿野との間にやや濃厚な愛を育み、海外に旅立つ鼓手アクリ士門、第一ソロの福田有美子が鮮やかな踊りを披露した。 福田一雄指揮、シアターオーケストラ・トーキョーがヴァイオリン・コンチェルトを含め、生き生きとした演奏で舞台作りに貢献している。(8月1、3日 新国立劇場中劇場) 『音楽舞踊新聞』No.2909(H25.10.1号)初出

 

*樫野のプロットレス・バレエと小㞍のコンテンポラリー・ダンスが素晴らしかった。 樫野作品は初めて。優れた音楽性と明晰な空間感覚がピンポイントで合致した精緻な作品。作り込む思考の量が半端ではない(普通はここまで作り込めない)。ダンス・クラシックを解体する方向ではなく、その粋を極める方向は、よほどの才能でなければ作品は無効になる。細部を確認するため、もう一度見たかった。小㞍作品の方は自作自演を含め、アーキタンツや様々なガラで見たことがある。それらの作品では振付家としての個性を掬い取ることができなかったが、故郷で女性8人に振り付けた作品には、なぜか小㞍の感覚が反映されている。自分の内部を見つめ、そこに蠢く感覚をそっと動きに変えている。その繊細さ、密やかさ。外見とは裏腹に(でもないのか)、フェミニンな資質を感じさせた。クラシック・ベースの方が自由になれるのかもしれない。(10/4)

 

★[ダンス]  さいたまゴールド・シアター×瀬山亜津咲

標記二者によるワーク・イン・プログレスを見た(8月15日 彩の国さいたま芸術劇場大練習場)。 ピナ作品で見る瀬山は、いつも恥ずかしそう。とんでもない振付をエイッと飛び込んでやっている。真面目。自分に正直。苦しそうな時もあったが、不良青年のファビアン・プリオヴィーユが守ってくれた感じ(ファビアンは途中で退団したが)。

あまり期待せずに行ったら、凄かった。ゴールド・シアターの面々の凄さは演劇作品を見て知っていた。プロの役者にはない開き直り、剥き出しの欲望に、蜷川の仕込みで舞台人としての覚悟が備わっている。アマの経験+プロの稽古。引っ込み思案の瀬山がどう料理するのか、想像もつかなかったが、凄かった。瀬山の演出家としての力量が作品の端々から伝わってくる。音楽を含む構成力、ピースの組み合わせ、出し入れのタイミングに感動する。ピナの手法を取り入れているが、完全に自分のものになっているのは、俳優との関わりが作品化されていることから分かる。例えば共産党員であることをカミングアウトした男性。当初は「先生に申し上げるような夢はありません。」と言っていたのが、終盤、自分の半生を振り返り、「死ぬときは少しでも世のため人のために役立ったと思って死にたい」と夢を語った。瀬山の全身全霊を傾けたワークショップを想像させる。同時に、この一回性はプロのダンス・カンパニーでは生じにくいだろうとも思う(マンネリは避けられない)。 ゴールド・メンバーは踊りも踊る。経験者も散見されたが、全員が踊りになっている。その凄さ。ただしネクストの若者三人はまだまだ(何もないつるんとした体)。女性が一列に座って踊る手のダンス、胸を手で十字に抑え片脚上げポーズ、背を向けて座る動かないダンス、流線型のダンス、盆踊りダンス、阿波踊りダンス、ボールルームダンス(時々女性が上を向くと、男性が手で押さえる愛の仕草)、スパニッシュ、エア太鼓(小柄な女性がダンダンカツカツと叫びながら打ちマネする)、湯呑みソロ、猫ソロなど。

ここならではの企画。まず蜷川がいて、ゴールドという所属劇団があって、ピナ作品上演の歴史があって。稽古場等の設備も凄いが、何よりも人ありきだと思う。開場前に椅子に座って並んでいたら、島地保武と宮河愛一郎が通って行った(もとNoismコンビ)。(8/21)

 

★[バレエ]  スターダンサーズ・バレエ団「20世紀のマスターワークス」

スターダンサーズ・バレエ団が「20世紀のマスターワークス」を上演した。創作物と並ぶ活動の柱の一つである。プログラムはバランシンの『スコッチ・シンフォニー』、『フォー・テンペラメント』、ロビンズの『牧神の午後』。演出・振付指導にはベン・ヒューズを招いた。

幕開きの『フォー・テンペラメント』(46年)は、興行ベースを離れた芸術志向の企画組織バレエ・ソサエティの旗揚げ作品。パウルヒンデミットによるオリジナル曲は、3組のデュエットによる「テーマ」と、「憂鬱」、「快活」、「無気力」、「怒り」のヴァリエーションで構成されている。振付は人体フォルムや手繋ぎムーヴメントに加え、グラン・バットマン+ポアントの突き刺し、腰や腹の突き出し、カニ歩きなど、過激な動きが多い。シャープなタンデュと、膝曲げポアント歩きという正反対の脚の見せ方には、バランシンの茶目っ気が感じられた。

福原大介が踊った「憂鬱」はノーブルな男性が悩み苦しむ姿、ゲストのフェデリコ・ボネッリ(英国ロイヤル・バレエ)が踊った「無気力」は、どうしたのかと思うほどクネクネした動きで、それぞれの気質を表した。一方「快活」の林ゆりえは、吉瀬智弘を相手に四肢がはじける踊りを、「怒り」の小林ひかる(英国ロイヤル・バレエ)は全体を統率する貫禄の踊りを見せた。中でも林は動きのニュアンスが濃厚。音楽と完全に一致して、熱い磁場を生み出した。

ドビュッシー曲、ロビンズ振付の『牧神の午後』(53年)は、バレエスタジオが舞台、牧神とニンフはダンサーである。常に鏡を介在させるバレエダンサーのコミュニケーションを演出に取り入れることで、マラルメ原詩の夢と現実の間が巧みに表現されている。動いては鏡で確認するその時間差に、クールなエロティシズムが横溢する。

牧神は吉瀬、ニンフは林、今回は吉瀬のための作品だった。動物的なストレッチ、体から先に動く無意識の大きさ、よく鍛えられた上半身、若い牧神そのものである。林はマラルメ原詩の情熱的な方のニンフ。音楽的で官能的。吉瀬がナルシスティックではないので、常に鏡を見るバレエダンサーについてのメタレヴェルは生じず。唯々動物的で官能的な一場だった。

最後はメンデルスゾーン交響曲3番に振り付けられたバランシンのスコットランド・オマージュ、『スコッチ・シンフォニー』(52年)。クラシック主体の振付で、人体フォルムの面白さなどは見られないが、シークエンスにバランシンの天才ぶり(訳の分からなさ)が見て取れる。ゲストの吉田都がボネッリ扮する王子役と、『ラ・シルフィード』のような追いかけっこのアダージョを展開。吉田がカミ手に誘うと、キルト軍団がボネッリを制止し、要塞のように吉田を守る。この同じシークエンスが、シモ手でも繰り返される。途中に二人の親密なアダージョが入るので、なぜボネッリが制止されるのか分からない。その理不尽な面白さ。要塞のような四角のフォーメイションもおかしい。終幕では吉田がお手本を示して、群舞が真似る軍隊調のシーンがあり、バランシンのスコットランド・イメージを明快に映し出した。

吉田はピンクのロマンティック・チュチュがよく似合う。全盛期のようなピンポイントの音取りとはいかないが、ベテランらしく作品のニュアンスをよく汲み取った舞台作りだった。またキルト装の女性、渡辺恭子の鮮やかなバットリーも印象深い。同じくキルト姿の大野大輔、川島治と美しいユニゾンを見せた。

アンサンブルは前半モダニズム、後半ロマンティックな振付をすっきりと音楽的にこなしている。前半の脚の迫力は肉食系ダンサーに負けるが、バランシンへの愛を感じさせる意欲に満ちた舞台だった。演奏は田中良和指揮、テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ。(8月17日 テアトロ・ジーリオ・ショウワ)  『音楽舞踊新聞』No.2910(H25.10.11号)初出(10/17)

 

★[バレエ]  ローザンヌ・ガラ2013」

標記公演を見た(8月18日 青山劇場)。 3部構成。1部2部は過去のローザンヌ受賞者と本年の受賞者によるガラ、3部はウーヴェ・ショルツ振付の『ラフマニノフピアノコンチェルト第3番」。これは2年前にアーキタンツ10周年記念公演で上演されたもので、出演者はほぼ同じ。ローザンヌ関連では西田佑子がファイナリスト、振付指導の木村規予香がプロフェッショナル賞を受賞している。

芸術監督は島崎徹。ローザンヌの審査員とコンテンポラリー課題曲振付家を歴任した。記憶に残っているのは、島崎が個性重視の審査をしていたこと。クラシックダンサーとしては少し欠点があっても、個性が光るダンサーを押していた(当然賞には残らなかったが)。今回の挨拶文でも、ピルエットのように数値化できる要素は、舞踊のほんの一部分である、という持論を展開している。島崎の意図は、プログラムに反映しているのだろうか。また群舞作品は島崎が振り付けるべきだったのではないか。日本のローザンヌ文化(コンクール文化)とは対極にある人物が芸術監督になったのは、皮肉なことである。

ダンサーとして技術と芸術的感覚が一致し、気力が備わっていたのは、『ジゼル』第2幕pddを踊った加治屋百合子とジャレッド・マシューズ(ABT)、『アスフォデルの花畑』第2楽章よりを踊った崔由姫と平野亮一(英国ロイヤル・バレエ)だった。古典とリアム・スカーレットによる新作(10年)の違いはあるが、細部まで教えられ振り付けられた上で、自ら磨き込んでいる。ダンサーの才能もさることながら、ダンサーを育てるバレエ団自体の力量を痛感した。新国立劇場バレエ団は数少ない公演回数で、小野絢子と米沢唯を育てなければならない。自分で育った森下洋子の後に続くことができるだろうか。(8/18)

 

★[バレエ]  小林紀子バレエ・シアター『マノン』2013

小林紀子バレエ・シアターが二年ぶりに『マノン』を再演した。昨年の『アナスタシア』を挟んで、3年連続マクミランの大作を上演したことになる。

『マノン』は振付家のムーヴメントに対する意識が最も研ぎ澄まされた最高傑作である。4つのパ・ド・ドゥ、各キャラクターのソロ、群舞を、スピーディなマイムで繋ぐいわゆる物語バレエだが、踊りが物語を超えて、異次元を生み出す瞬間がある。その最たる場面が、複雑なリフトを多用する「出会いのパ・ド・ドゥ」。同じ超絶リフトでも、クランコの場合は運動的快感が追求されるのに対し、マクミランは無意識の奥底にある感情の塊を、視覚と皮膚感覚を融合した形で現前させる。踊り手にアーティスティックな感覚を要求する現代パ・ド・ドゥの極北である。

今回はデ・グリュー以外ほとんど初演と同じメンバー。再演の成果はレスコーの奥村康祐と愛人喜入依里の演技に顕著だった。舞台で役になって生きている。奥村の溌剌とした踊り、妹への想い、死ぬ間際の哀感、喜入の太っ腹でゴージャスな踊り。もちろん演技を深める余地は残されているが、はまり役だと思わせた。

マノンは島添亮子。その美点は、抜きん出た音楽性が繊細で美しい姿形に隈なく反映されること、完璧を追求する勇気を持ち合わせていることである。演技部分のやや引っ込み思案な様子は、舞踊部分になると一掃され、本来の輝かしい姿が顕現する。

今回は初日冒頭から淑やかなマノンだった。「出会いのパ・ド・ドゥ」ですでに前回ロバート・テューズリーとの間で到達した境地に達していたが、残念ながら今回のデ・グリュー、エドワード・ワトソン(英国ロイヤル・バレエ・プリンシパル)の不調で、盤石のデュエットとはならなかった。

ワトソンはルドルフ皇太子等をはまり役とする演技派。先頃のロイヤル来日公演でも、ルイス・キャロルと白うさぎという難役を見事に演じている。デ・グリューも持ち役だが、ひたすら恋人に尽くす柄ではないのだろうか。パートナリングの調整時間不足を差し引いても、献身的なパートナーとは言い難かった。あるいは体調不良だったのかも知れないが。 島添の再演ならではの余裕は、ワトソンへの配慮に費やされた。パ・ド・ドゥでは自分のラインよりも相手のラインを優先。島添の美しいラインがサポートによって崩されるのを何度見たことか。今回の真のパートナーは看守の冨川祐樹である。いつもは目を背けたい流刑地でのレイプシーンが、こんなに愛情深く見えたことはない。看守として適切な演技とは言えないが、島添の踊りやすいようにサポートを重ね、島添も思いきり動いていた。本来の意味でのパ・ド・ドゥである。

ムッシュG.M.の後藤和雄は初演時に引き続き、重厚な存在感で場をまとめる。マダムの大塚礼子、高級娼婦の高橋怜子以下、賑やかで健康的な娼館の雰囲気は健在だった。演出は元ロイヤル・バレエ・プリンシパルアントニー・ダウスン。前回のジュリー・リンコンによる愛情深い舞台作りとは異なる演出法だった。演奏はアラン・バーカー指揮、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団ソリストを揃えていたがオーボエにアクシデントがあり、「寝室のパ・ド・ドゥ」が台無しになったのが残念。(8月24日 新国立劇場オペラ劇場) 『音楽舞踊新聞』N0.2910(H25.10.11号)初出(10/12)

 

★[ダンス]  KARAS「日々アップデイトするダンス」シリーズ

KARASの新しい本拠地、KARAS APPARATUS で標記シリーズの『終わらない季節、終わらない音楽』~『第2の秋』へ向けて~を見た(8月30日)。カラスアパラタスは荻窪西口から3分。すずらん通り商店街を下ったところにある。1階が受付、地下1階が稽古場兼ギャラリー、地下2階が舞台のあるホール。階段、踊り場、ギャラリーには過去のポスターがぐるりと飾ってある。今回は芸劇プレイハウスでの作品に向けたワークインプログレスとのこと。1時間15分位、音楽と照明のみで、勅使川原三郎、佐東利穂子が踊った。

限られた照明なのに、いつものように研ぎ澄まされた空間。二人を棺桶のような長方形の照明が囲う。そこで痙攣する二人。勅使川原は空気を動かす骨太の押しと引き、高速のステップ、ぬめぬめと動く四肢、すべてに気が漲っている。もちろんかつてのような切れ味鋭い動線とはいかないが、心身ともに充実した力強さがある。佐東は軽やかな足さばき、美しい腕使い、縫うように動く上体に、オリエンタルなムードを漂わせる。互いの間合いを読み、すれ違い、すれ違う、勅使川原のデュエット。

客席と舞台は近い。クラシックダンサーだと観客を瞬時に鷲掴みするところ。コンテンポラリーや舞踏でも、舞台から何らかの波動がくる近さ。だが勅使川原(と佐東)の場合は、大劇場の時と同じ。観客は二人が美的なピースを嵌め込んでいくさまを、じっと見ているだけである。我々は必要なのだろうか? 佐東が踊るのを見ながら、これが井関佐和子だったら、バンバンこちらに来るだろうと思った。勅使川原が金森穣と井関に振り付ける図を思い浮かべた。勅使川原は振り移しはしないそう。佐東が踊ってみて、ちょっと違うとか言って直したりするとのこと。でもパリ・オペラ座でも振り移しなしなのだろうか。佐東のパートを井関で猛烈に見てみたくなった。

舞台のあるホールは、言うまでもなく勅使川原にとっての子宮。ポストトークの勅使川原は気持ちよさそうだった。この空間は「常に外部に向けて開かれている」とのことだが、但し書きが。「私の思想とすこしでも重なり共感できる他者=表現者、発言者との交流の場として」。若手の訳の分からない奴らをプロデュースして、バンバン舞台に載せると面白い場になると思うが、それよりも美的な空間になりそう。(8/31)

 

★[美術]  福田美蘭

標記美術展を見た(9月7日 東京都美術館ギャラリーA・B・C)。 当日18時から東京文化会館小ホールでパーカッションとダンスのコラボ公演があった、そのついで(公演自体は何のため、誰のための公演かよく分からなかった、都民のためでもなく)。 福田はデザイナー福田繁雄の娘。コラージュやパスティーシュの画家と思っていたら、違っていた。考えたことを絵にするのではなく、絵を描くことで考えるタイプ。絵に添えた福田自身のコメントを読むことで、絵は完結するのだが・・・ まず絵を描く喜び、絵を見る喜びが根底にある。絵に対する愛情と、絵を聖化せず、すべてを零度に戻して考える批評精神が、ユーモアによって結び付けられている。祖父の童画家林義雄からすると三代目にあたるが、その蓄積ゆえだろうか。

職人的な技量の高さは、作家の金井美恵子を思い出させる。安井曾太郎になり切って(つまり安井のスタイルで)、『孫』(大原美術館所蔵)を描いている安井を描いた『安井曾太郎と孫』(大原美術館所蔵)は、金井が目白サーガでやっていることだ。 時事を扱っても浮つかないのは、イデオロギーを信じていないから。というか感覚を通過させずに思考することがないから。珍しく躊躇なく図録を買い、絵葉書は『涅槃図』『ロゴマークを描く』『レンブラント―パレットを持つ自画像』を買った。(9/9)

 

★[ダンス]  長谷川六『曼荼羅

標記公演を見た(9月12日 ストライプスペースM&B)。 今井紀彰の曼荼羅のようなコラージュ作品と、柳田郁子の赤と生成りの布造形作品が置かれた空間でのダンス公演。前半は坂本知子の構成で、坂本と加藤健廣、上野憲治が、走り回り、ぶつかり合い、ころげ回り、踊る。坂本の緻密な肉体の輝き、一秒たりとも躊躇を見せない集中した動きが素晴らしい。加藤は肉体の虚ろな部分が他者との接点になっている。上野は感じはよいが、まだ見られる体とは言えない。

後半は長谷川のソロ。黒いジャージ地のロングドレスで、ギャラリー前方部分中央に位置をとる。たちまち長谷川の気が空間に満ちて、見る側の身体が自由になる。両足を踏ん張り、やや前傾、掌を上に両腕を前方下に差し伸ばし、少しづつ動く長谷川。ロマン派をくすませたような不思議なピアノ曲の高まりと共に、右回りに空間に入り込んだ。曲はグルジェフアルメニア生まれの思想家、精神指導者で、グルジェフ・ムーヴメントと呼ばれる舞踏を残す)の弾く瞑想のための音楽とのこと。メロディに身を委ねるロマン派的な熱さは、これまで感じたことがなかった。終盤、柳田郁子自らが長谷川の体に、生成りのビラビラした布を付けていく。微動し続ける長谷川、布の形を直し続ける柳田。最後にビラビラで完全に顔を隠した。ケイタケイが服をめでたく重ね着するのとは違って、得体のしれない豪華な異人(貴人)が突っ立っている。柳田の愛、柳田に肉体を差し出す長谷川の愛の一致だった。(9/13)

 

★[ダンス]  長谷川六@ヒグマ春夫

長谷川六がヒグマ春夫の空間に存在するのを見た(10月9日 キッド・アイラック・アートホール5階ギャラリー)。「連鎖する日常あるいは非日常の21日間・展」の一環である。

開演30分前にすでに長谷川は、白い布でぐるぐる巻きにされて椅子に座っていた。道路に向かって開放された大きな窓に、ほぼ正方形の部屋。中央に立方体の木枠が組まれ、半透明の白レースが上と窓方向に張られている。さらに窓にも揺れる白レースのカーテンが。木枠のレースと窓のカーテンにヒグマの映像がノイズ音と共に映し出される。焦点の合っていないシミだらけの車窓風景が飛ぶように過ぎて、時折深海魚の燻製が風景にかぶさる。カーテンに映される二重の映像は、風に揺らめいて外界へと消えていく。骨だけの傘が浮かぶ天井には、波飛沫の映像。隅にはミイラのような長谷川の体。三々五々人が集まるなか、30分間、長谷川と共にその空間に身を浸した。

開演時間になると、長谷川がぬーっと立ち上がり、布を内側から広げて体を現した。左腕には腕時計。木綿の紐を持って水平に伸ばし、肩幅に繰り、弓のように引き絞る。木枠と窓の間で動くので、途中からレース布で遮られ見えなくなった。昨年のパフォーマンスでもインスタレーションで、ほとんど体が見えなかった。キッド・アイラックでは見えないことになっているのか。 布を取った長谷川は、ツナギの上だけみたいな赤い作業着を身に着けている。これが着たかったとのこと。高橋悠治とヒグマ春夫のサインが背中に入っている。いつものような気の漲りがなかったのは、30分間布に入っていたせいだろうか。終演後の挨拶で「呼吸ができないし、暑いし」と言っていた。布の中ではどういう体だったのだろうか。瞑想状態? 人の声だけが聞こえる。音で人を判別していたのだろうか。長谷川ミイラの並びに座ってヒグマのぼんやりした映像を見るという、夢に近い体験だった。(10/11)

 

★[ダンス]  WWFes2013 山崎広太×伊佐千明×外山明@生西康典

半年ぶりに山崎の踊りを見た(10月17日 森下スタジオB)。山崎、西村未奈、印牧雅子が運営する Body Arts Laboratory が、年に一回主催する Whenever Wherever Festival の一プログラム。WWFes は創作プロセスを重視し、そのことでダンサーのネットワーク(コミュニティ)を作ることを目指している。今年は「即興の再生」というテーマだった(10月27日まで)。

「エクスペリメンタル・パフォーマンスday1」と題されたプログラムの後半作品で、演出は生西康典。黄緑地に菱形の模様が入ったシャツに薄茶色のパンツをはいた山崎と、黄緑とオレンジ色が入り混じったワンピースの伊佐が並んで立っている。外山明の祭囃子のような、お神楽のようなパーカッションで、動き始める二人。伊佐はつぶらな瞳のかわいいダンサー。広太の動きを推し量るように、おずおずと動き、広太は恥ずかしそうに、伊佐を守るように遠慮がちに動く。伊佐の若さにやられている中年男の図。新聞を斜めに巻いてぎりぎりねじり、はしっこを持ち合って動くシークエンス(生西演出)の後、ちぎった新聞を伊佐が、細長く出っ張った柱によじ登り手すりにねじ込む。再度、今度は上までよじ登って新聞を突っ込む。最初の手すりはようやく手が届くところにあり、そこまではつるつるの壁を登らなけらばならない。伊佐は木登りの要領で軽々とよじ登った。それまでのかわいいイメージが一変し、こいつはこんなやつだったのかと目が覚めた。広太も覚めたのか、そこからアドレナリンが発生して、いつものタコのようなクネクネ動きが始まった、その前に伊佐を抱き下ろしたが。

そこからは対等のダンサー。動きでの対話がクネクネ、ぐるぐると続く。伊佐はもはやかわいらしさを通り越して、化け物のような集中を見せる。広太も伊藤郁女の時ほどブチ切れなかったが、即興の旅に身をまかせていた。観客にとって即興の楽しさは、ダンサーと一緒に旅をしていくところ。楽しかった。

生西のキャスティングだけで、パフォーマンスの成功は保障された。広太の父性と狂気、伊佐の生きのよさ、外山の繊細なパーカッション。祭り太鼓に加わるカウベルのような鐘の音は後で訊いたところ、ギニアの鐘とのこと。アメリカ経由のアフリカ音楽だと分からないが、(日本の)祭りの音楽に共通するところがあるとも。あんなにしっくりくるパーカッションは初めてだった。二人の踊りが新手の獅子舞に見えた。(10/18)

 

★[ダンス]  WWFes2013 神村恵・宮河愛一郎・村松稔之@田村友一郎

WWFesプログラム、田村友一郎の即興ストラクチャー公演《D.H.L》を見た(10月20日 森下スタジオB)。ダンサーは神村恵、宮河愛一郎、石和田尚子、柴一平、根岸由季、山井絵里奈。田村友一郎は、昨年の WWFes でキュレイションをめぐるラウンドテーブルに参加。レジデンシャル・アーティストとしての経験を発表したが、それがとんでもなく面白かった。ヨーロッパのどこだか(メモしなかった)で、部屋を一つ与えられ、一週間に一回、部屋にいろんな仕掛けをして、他人に開放したとか、ジョン・ケージ生誕か没後何年かのイヴェントとして、ケージの記念ディナーを企画し、料理自慢の本物の刑事に腕を揮ってもらった、とか。自分はアーティストではないとも語っていた。アーティストにしか見えなかったが。

18時の開演時間きっかりに開場。スタジオに入ると、ホワイトボードの前に5人のダンサーが立っていて、床に青年がうつぶせに倒れている。傍に黒いデイパック。宮河が顔見知りの観客に「俺たちも何をするのか知らされてないんだよ」。18時15分になると BAL の印牧さんが「田村さんからのディレクションです」とホワイトボードを示した。「Face the sudden death of his life. How we lament for his days.」とあり、「これから30分で、彼の死を悼んでください、ただし言葉を使ってはいけません。丁度30分後にクライマックスがくるようにしてください。」と述べて、公演が始まった。

ダンサー達はじっと考えて、まず青年を仰向けにし、宮河が青年の衣服を整え、神村が彼のと思しきデイパックを開けて、中身を取り出す。分厚い楽譜、おにぎり、ペットボトル、お菓子など。宮河がティッシュを取り出し、青年の顔の上に乗せ、拝む。また女性ダンサーの一人と並び、青年のお菓子を二人で食べる。神村は90度シンメトリーで青年と同じ仰向けになる。柴は踊り、神村と女性ダンサーが両足裏を合わせて床にころがる。柴が青年を起こして、支え、皆で円になって体をふるわす(降霊術風)。神村は体で青年の中に入ろうとし、宮河は地に足の着いたやり方で、青年の死に向き合う。ダンサー一人一人が体を使って青年の死を悼んだ。

青年を両脇から支え、立ち上がらせ時、どこからか天の声が聞こえた。少ししてそれが死体である青年の口から流れ出していることに気がつく。ダンサー達は歌声につられるように、青年を取り囲んで去って行った、18時38分頃(少し短い)。

青年の名は村松稔之(としゆき)。カウンターテナー。田村の指示は「30分位になったら歌う」だった。日生劇場11月公演『リア』(アリベルト・ライマン作曲)のエドガー役でアンダーに入っていて、その一部を歌ったとのこと。歌声はもちろん、死体としての身体性も素晴らしく、田村の人と人を結び付け、場を作る才能に改めて感動した。

歌が聞こえると、ダンサー達はとたんにその支配下に置かれたかにみえた(きっかけが欲しかったのかもしれないが)。言葉を使えないダンサーの寄る辺なさを感じると同時に、野蛮さも感じた。言葉なしの欠陥を特権に反転させる強さ。一声でダンサーを剥き出しにした、真にクリエイティヴな空間だった。(10/24)

 

★[バレエ]  ニューヨーク・シティ・バレエ A・Bプロ

米国を代表するバレエ団の一つ、ニューヨーク・シティ・バレエが、二つのプログラムを携えて4年ぶりに来日した。両プロとも、創立者バランシンの世界的レパートリーを並べ、Aプロではロビンズの『ウエスト・サイド・ストーリー組曲』、Bプロではバランシン振付の一幕版『白鳥の湖』を加えて、バランシン・ファンのみならず、一般観客をも楽しませるプログラムとなっている。

Aプロ冒頭の『セレナーデ』は、日本国内だけでも3団体(上記参照)が上演する古典中の古典。幕が開くと、長身でボリュームのある女性ダンサーが整然と並んでいる。いわゆるバランシン・バレリーナのイメージではなく、腕使いも他国のバレエ団のように揃っている訳でもない。だが見ていくうちに、その体格に比してポアント音が聞こえないことに気が付いた。アンサンブルの足先を眺めると、まるでバレエシューズのような柔らかさでポアントワークが実行されている。着地の音も皆無。男性ダンサーも同じである。これまで長身の美女が優れた音楽性で統一されるのが『セレナーデ』の理想と思っていたが(それもバランシンの美意識の一端には違いないが)、この柔らかいポアントワークこそ、バランシンの神髄なのではないか。スクール・オブ・アメリカン・バレエの生徒に振り付けられた『セレナーデ』は、生徒が遅れてきたり倒れたりした偶然の出来事を振付に取り入れている。アンサンブルの密やかな足の統一は、作品に本来備わっている、偶然を必然に変える儀式性を浮かび上がらせた。

続く『シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメント』と『タランテラ』、Bプロの『フォー・テンペラメンツ』と『シンフォニー・イン・C』も同様だった。他のバレエ団では真似のできない精緻な職人技による、奇跡的なパフォーマンスの連続だった。ブルノンヴィル・スタイルと同じ、伝統芸能の匂いがする。

一方、バランシンが観客のために創った一幕版『白鳥の湖』は本邦初演。二幕と四幕を合体させ、王子のヴァリエーションを加えた。オデット以外は黒鳥で、張りのない膝丈チュチュのため人間に近い感じを受ける。オデットと王子を二羽の大きい黒鳥が引き裂く点、王子の友人が10人登場し、グラン・アダージョで黒鳥たちと10組のトロワを作る点が、バランシンらしい面白さだった。

今回の公演はバランシンの残り香を伝えるウェンディ・ウィーランが来日せず、いわゆるスターダンサーは不在。しかしバレエ団全体の士気が上がり、順当に世代交代が進んでいる。女性ではアシュリー・ボーダー、ミーガン・フェアチャイルド、タイラー・ペック、サラ・マーンズが魔術的なポアントワークを誇り、ジョルジーナ・パズコギンが『ウエスト・サイド』のアニタで手練の踊りを見せた。また、バレエ団伝統のダンスール・ノーブルも健在。エイドリアン・ダンチグ=ワーリング、ロバート・フェアチャイルド、タイラー・アングル、テイラー・スタンリーの古風な騎士ぶりは、現代では珍しい慎ましさを纏っている。

演奏はクロチルド・オトラント、ダニエル・キャプス指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団。バレエ団指名のオケだけあって、新日フィルの健康的で豊かな音は、闊達な舞台によくマッチしていた。なおバランシンのポアントワークについては、スキ・ショーラー著『バランシン・テクニック』上野房子、里見悦郎訳(大修館、2013)に詳しい記述がある。(10月23日昼夜 オーチャードホール) 『音楽舞踊新聞』No.2914(H25.12.1号)初出

 

*今回のNYCB公演は、ほとんどバランシン作品。これまでのようにマーティンスやラトマンスキー、ウィールダンの創作物は上演されなかったので、ダンサー達がバランシン・テクニックに集中したのか、以前気付かなかった繊細なポアントワークに惹きつけられた。

通常のバレリーナ体形ではないダンサー達が、足音を立てずに細かい足技を繰り出す。伝統芸能のようでもあり、プロテスタント信仰の証のようでもある。華美を嫌う清教徒気質に合致したテクニックなのだろうか。あるいはブルノンヴィル・メソッドで育ったマーティンスの嗜好なのだろうか(ブルノンヴィルはクリエイティヴなクラスを行なっていたが、死後メソッドが固定化され、曜日ごとのクラスが行われるようになった)。もしマーティンスが芸術監督になっていなかったら、バランシンの持つ帝政ロシアの華やかな雰囲気が維持されていたのだろうか。「質実な古き良きアメリカ」という印象が残る公演だった。

追記:バランシン専門家の上野房子さんより、貴重なご指摘を頂いた。『セレナーデ』の国内上演は6団体(スターダンサーズ・バレエ団、牧阿佐美バレヱ団、新国立劇場バレエ団、Kバレエカンパニー、松山バレエ団、貞松・浜田バレエ団)。訂正します。(11/30)

 

★[バレエ]  東京小牧バレエ団2013トリプル・ビル

東京小牧バレエ団がオリジナル作品を含むトリプル・ビルを上演した。『レ・シルフィード』、『新世界』より第二楽章、『マタハリ』というプログラムである。

幕開けの『レ・シルフィード』は芸術監督佐々保樹による改訂振付。同団アンサンブルの、現代女性とは思えない淑やかさと細やかな足捌き、ロマンティックな森の風景、青白く繊細な月明かりが、幽玄なシルフの森を出現させた。プリマ・バレリーナにはゲストの長崎真湖。床に吸い付く無音のポアントワークが素晴らしい。抜きん出た技術の持ち主である。『コッペリア』のゲスト出演時には、現代では廃れたかに思われる古風なスパニッシュを踊り、出身地沖縄に残された正統的なバレエスタイルの存在を知らしめた。ただゲスト出演では、体の奥底に眠る豊かな感情を解き放つことは難しい。長崎の美点が生かされる環境を望みたいところ。詩人はセルゲイ・サボチェンコ。少し癖のある踊りながら、ノーブルな佇まいをよく心掛け、ワルツの津田康子、プレリュードの金子綾、コリフェの長者完奈、山口麗子(全員交替配役)も、慎ましやかな踊りでアンサンブルを率いた。こうした古風な趣は他団では見ることができない。

続く『新世界』は、ドヴォルザークの同名曲を、バレエ団創立者である小牧正英が63年前に演出振付した作品。今回は「遠き山に日は落ちて」のメロディで有名な第二楽章のみの上演で、佐々が指導、森山直美が振付をした。村の男女3組が、畑仕事の合間に自然の中で戯れる姿を描いている。森山の振付は今どきのシンフォニック・バレエに比べるとスタティック。一音一音に動きを嵌めるのではなく、フレーズで音楽の情緒を表現しているからだろう。振付は男らしさ、女らしさが強調され、しっとりとした情感を醸し出す。全体に佐々の美意識が反映されているような気がする。装置は無く、アース系の落ち着いた色合いの衣裳(初演時の美術・衣裳は小磯良平)のみで、穏やかな牧歌的世界を描き出した。長者、藤瀬梨菜、金子の女性陣は音楽的でリリカル。対するゲストのモンゴル男性陣、ラグワスレン・オトゴンニャム、チンゾリック・バンドムンク、ビヤンバ・バットボルトは、端正な踊りとノーブルな佇まいが際立っていた。特にオトゴンニャムの美しいラインは、ダンスール・ノーブルの証である。

最後は、総監督菊池宗振付、酒井正光改訂振付の『マタハリ』。『パリの喜び』と伝説の女スパイ、マタハリの生涯をクロスさせたレビュー色濃厚な作品である。マレーネ・ディートリッヒの歌(録音)、オッフェンバックサラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』を組み合わせ、映像も駆使して、当時のパリの雰囲気を再現する。マキシムのディヴェルティスマンは見応えがあった。マダム森山の采配の下、マタハリ周東早苗の妖艶な踊り、フランス大尉原田秀彦の勇ましい踊り、花売り娘藤瀬の可憐な踊り、三枚目の支配人バットボルトと副支配人オトゴンニャムの超絶技巧が次々に披露される。合間に、カンカン娘、紳士淑女のワルツが場を華やかに彩った。森山の懐の深さ、原田の冷徹な色気、長者の美しいドレス姿、カンカン娘の品の良さが印象深い。 例によって内藤彰指揮、東京ニューシティ管弦楽団の優れた演奏が、舞台に大きく貢献している。(11月2日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2918(H26.2.1号)初出(2014.2/5)

 

*昨秋の公演。年末の総評でトリプル・ビル収穫の中に入れなかったのは、森山の振付がどれだけ佐々に依存しているのか分からなかったのと、菊池作品がレビューに傾いていたため。ゲスト陣に支えられているのは、必ずしも問題ではない。芸術が発生する場を作ることが重要だから。佐々は振付家としても、古典改訂者としても、教育者としても優れている。本来なら芸術監督としての職務を全うすべき人材(現時点ではそうはなっていない)。適材適所にならない日本。

 

★[コンサート]  ライマンの創作と『リア』・村松稔之

日生劇場が11月8、9、10日とアリベルト・ライマンの『リア』を上演するのに先駆けて、ドイツ文化会館がライマン自身の公開インタヴューを行なった(11月4日 同ホール)。聞き手は昨年の日生劇場ドラマトゥルクである長木誠司氏。前半にライマンの作曲家への道のりと、パウル・ツェラン等の詩に付けたリートについて、また長年ピアノ伴奏を務めたフィッシャー・ディスカウについての質問がなされた。今回は後半でツェランの『時の館』より5つの詩が歌われるため、ドイツ文学者の関口裕昭氏も解説に加わる行き届いたプログラム。客席には日本が世界に誇る作曲家細川俊夫氏の姿もあった。今年喜寿を迎えた(る?)ライマンは大柄の体をゆったりと構え、ユーモアを差し挟みながら、二回の世界大戦を経た現代の作曲家のあり方を、言葉と身体で示した。後半の最後には、ウィーンのコンツェルト・ハウスで10月に初演されたばかりの最新作『第九へのプロローグ』が音源で紹介された。『第九』に使われなかったシラーの詩につけた合唱曲で、まさに現代に生きる我々の歌である。幾重にも折り重なるアカペラの聖歌なので、「歓喜の歌」のようには歌えないが。

なぜこの催しに行ったかと言うと、先日の WWFes2013 で、田村友一郎演出のダンス作品に出演した村松稔之(カウンターテナー)が、ライマンを歌うと聞いたから(田村作品については本ブログ参照)。その時の天からの声があまりに素晴らしかったので、追いかけてみたのだ。真正面で聴くツェランのリートも素晴らしかった。カウンターテナーにありがちな人工的な臭みが一切なく、自然で真っ直ぐな声。低音もふくよか。声の継ぎ目が感じられない。当人の身体は細身だがガッツがあり、まるでスポーツ選手の感触がある。実際肉体を使う仕事なので不思議ではないけど。田村作品では死体役だったのだが、見事な死体ぶりだった。あの細身でなぜあのような強い声が出るのだろうか。

声は、ほかのどんな才能よりも天からの授かり物に思える。ライマン曰く、「昨年芸大で『メデア』のマスターコースを行なった時、村松くんの声がこの曲に合っていると思った。今、実際に聞くことができて嬉しい」。長木氏曰く、「日本のカウンターテノールの未来は明るいですね」。

大幅に伸びた公開インタヴューとミニコンサートのあと、知人とともに本人のところへ。私「これまで聞いたことのないカウンターテナー」、知人「そう。イギリスは健康的、ヨーロッパ大陸は退廃的、そのどちらでもない」に対し、村松「自分はアメリカのカウンターテナーに影響を受けている、オペラティックな感じの」とのことだった。(11/5)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団「バレエ・リュス~ストラヴィンスキー・イブニング」

新国立劇場バレエ団の新シーズンが開幕した。「バレエ・リュス~ストラヴィンスキー・イブニング」と題されたトリプル・ビルは、今季が最後となるビントレー芸術監督の日本国民に対する愛情深い贈り物である。

演目はディアギレフのバレエ・リュスで初演され、現在でも重要なレパートリーの、フォーキン振付『火の鳥』(10年、54年)、バランシン振付『アポロ』(28年)、ニジンスカ振付『結婚』(23年、66年)。三者共通の振付語彙に興味を惹かれるが、フォーキンが伝統の範囲内にあるのに対し、ニジンスカ、バランシンは動きから意味を排除するモダニズムの道を進んでいることが分かる。全作アポテオーズがあり、(準)主役が天を指さして終わるトリプル・ビルである。音楽はストラヴィンスキー。原始主義、新古典主義の名曲が合唱を含めて生演奏され、音楽的にもレヴェルが高い。国民への文化的還元及び啓蒙の点から、国立の劇場にふさわしい公演と言える。

幕開けの『火の鳥』はバレエ団再演。クーン・カッセルの繊細で陰翳に富んだ指揮と、ディック・バードの絵本のような美術がマッチして、洗練されたロシア民話の世界が出現した。初日の火の鳥は小野絢子。音楽的で切れ味鋭い動き、力強い視線、艶っぽい存在感に、持ち前の突拍子もないユーモアが加わる。初演時から三年間の経験が凝縮されている。二日目の米沢唯は野性味が優った自然な動き。身体のギアチェンジは「子守唄」に現れた。イワン王子にはサポート巧者の山本隆之と菅野英男。山本は細やかで闊達な演技と、終幕の輝かしいオーラが見事だった。菅野は素朴で自然な演技。米沢鳥を好きに踊らせている。寺田亜沙子は透明感のある匂やかな王女、本島美和は娘らしい明るい王女。カスチェイ役はトレウバエフの緻密な演技が目を惹いた。同役古川和則は腹芸をもう少し振りに変えて欲しい。

『アポロ』はバランシンとストラヴィンスキーの決定的なコンビネーションが初めて形になった記念碑的作品。今回はアポロ誕生の場面からパルナッソス登山までの完全版上演のため、物語バレエの要素が強い。振付はプティパを思わせる抽象度の高いヴァリエーションも含むが、水泳振りや、指くっつけ、腕の輪つなぎでぐるぐる回りなど、野蛮とも言える大胆な振付が目立つ。バレエ・テクニックも一から洗い直して運用しているので、動きの強度が高い。現在でも振付自体が面白い所以だろう。

初日キャストは、アポロ福岡雄大、テルプシコール小野、カリオペ寺田、ポリヒムニア長田佳世、レト湯川麻美子、二日目はコナー・ウォルシュ(ヒューストン・バレエ)、本島、米沢、奥田花純、千歳美香子。前者は音楽的で造形美に優れ、後者は物語的で内面性に優れていた。福岡のスポーティなソロ、ウォルシュのパートナー手腕、長田の意識化された脚、湯川の壮絶な出産が印象深い。

最後はニジンスカの『結婚』。原初的なリズム、ロシア古層のメロディ、泣き女の歌詞が強烈なバレエ・カンタータである。4台のピアノと打楽器、4声ソリスト、合唱がピットに入り、舞台上では、花嫁花婿、両親2組がマイム、男女群舞が踊りで、ロシア農民の結婚を描き出す。フォーキンの影響、ニジンスキーとの共通点がありながら、徹底したモダニズム作品。結婚の祝祭性はなく、儀式性のみが抽出される。斜めの動線や内向きの曲線を多用する、ミニマルで切り詰められた動きが特徴。ポアント使用も従来の天上志向ではなく、大地を突き刺し、原初のリズムに呼応する。花嫁花婿と両親は原型的な人物像。花嫁の母の慟哭以外は、直接的な感情の表出がない。その中で花婿を演じた福岡が、意識と無意識の間に立って振付意図を完璧に体現した。宙に一文字を描く呪術の素晴らしさ、動きの全てに必然性がある。

ソリストを多く含む男女アンサンブルは『火の鳥』、『結婚』共に力強く切れのよい動きで、舞台を逞しく盛り上げた。またアーティストの奥田が『アポロ』のポリヒムニアと、『結婚』の花嫁友人トップで小気味のよいソロを踊り、抜擢に応えている。演奏は東京フィル。ソリスト歌手と合唱は新国立劇場合唱団(指揮・三澤洋史)。カッセルに導かれて「ストラヴィンスキー・イブニング」の強力なサポーターとなった。(11月13、15日 新国立劇場オペラパレス) 『音楽舞踊新聞』No.2917(H26.1.21号)初出(2014.1/22)

 

★[ダンス]  岡登志子、中村恩恵白い夜

大野一雄フェスティバル2012」初演作品の再演(12月6日 シアターX)。舞台に客席を設営し、ダンサーが入り口から入って本来の客席で演技するパートがある。岡と中村の振付・演出でどこからがそうなのか判然としないが、演劇的なところは中村、振付は岡だろうか。中村は自作を踊る時とは明らかに動きの質が違う。手の内にはない動きに対して全力で向かっている感じ。骨太で真っ直ぐ。自作ではきれいに流すところを、武骨にがしがし踊っている。キリアンの『one of a kind』での主役ソロを思い出した。あの頃は粘液が流れ出るような密度の高い動きだったが。

対する岡はダンサーには見えない。関西の品のよい奥さん。なぜ関西かと言うと、岡のクラスを見学していて、すっぱりした関西弁(地域は限定できず)に魅了されたから。動き自体の面白さはあるのに、実行の仕方が日常から離れていない。理由は分からず。いずれにしても、中村の本気が見えたことは収穫だった。(12/11)

 

★[ダンス]  新国立劇場バレエ団「DANCE to the Future~ Second Steps」

標記公演を見た(12月7日 新国立劇場小劇場)。団員が同僚に振り付けた作品を発表する場である。芸術監督ビントレーのダンサー達への愛情から生まれた企画で、公演は言わば孵卵器。ビントレーがセレクトし、アドヴァイスし、上演順を考えるという、ビントレー自身の作品でもある。

貝川鐵夫の『フォリア』(音楽:アルカンジェロ・コレッリ)が幕開けで、福田圭吾の『Side Effect』(音楽:ロバート・フッド)がトリ。両者とも個性を十全に発揮した動き、練られた構成の自立した作品だった。貝川の優れた音楽性から生み出される自然な振付、フォーメイションが素晴らしい。キリアン、ドゥアト系のネオクラシックである。小野絢子、福岡雄大の主役組が入っているが、貝川の体臭を感じさせたのは、前回も出演した輪島拓也。ビロビロと広がるオーラ、濃密な存在感。妙な味のダンサーである(時々熊川味)。堀口純と向かい合って徐々に近づくシークエンスは、危険な香りさえ漂わせた。小野の無音のソロから始まり、それぞれのソロ、3組のデュオ、バラバラの方向を向いた総踊りなど、見ているだけで嬉しくなる。凄いと思わせないところが、貝川の個性。音楽を体全体で味わい、それを動きに変換する喜びにあふれている。

一方、叔母の振付で鍛えられた福田にとって、創作は家業のようなものだろうか。コンタクト・インプロとブレイクダンスを合わせたハードなコンテ。八幡顕光、福田、高橋一輝の技巧派トリオに、五月女遥の紅一点が加わった。その五月女の凄さ。これまで平山素子、中村恩恵作品で目の覚めるような踊りを見てきたが、今回も圧倒的。胸まで割れた動きに驚かされる。クラシックでもオールマイティ、しかし体が弾けるほど大きく見えるのはコンテ。きっちり隅々まで予想を超えて動く爽快な踊りだった。

この2作の間に、マイレン・トレウバエフ、広瀬碧、今井奈穂、小笠原一真、休憩を挟んで宝満直也、アンダーシュ・ハンマル、宝満作品が並ぶ。いずれも個性や創作への意欲がはっきり打ち出された作品だった。トレウバエフは男白鳥のキャラクターを際立たせたクラシック・ソロ、広瀬はかわいいリリカルな振付、今井は表現主義的コンテ・ソロ、小笠原はエロティックで怖い振付、宝満は動きを作り出そうとする足掻きのソロ、ハンマルは幾何学的なフォーメイションと立体的な動きの背後に、確固たる理屈がある振付、宝満2はボーリングから始まるコント風デュオだった。

ダンサーは上記輪島と五月女に加え、小野寺雄の美しい白鳥ぶり、輪島と原健太の濃い味、大和雅美の正確な動き、小柴富久修のとぼけた味と間の良さが印象的だった。

ビントレーの企画なので、来季はどうなるのか。これだけ継続してもらうのは無理だろうか。または大原永子セレクションを新たに始めてもいいかも。せっかく覇気ある男性ダンサーが増えてきたのだから、創作企画をぜひ続けてほしい。(12/11)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形

新国立劇場バレエ団のクリスマス公演は、牧阿佐美版『くるみ割り人形』。09年初演、三度目の上演である。牧版の大きな特徴は、オラフ・ツォンベックの洗練された美しい美術・衣裳と、幕開け、終幕の舞台を東京の高層ビル街とした点にある。これはツォンベックが、ヨーロッパの物語を日本の人たちに身近に感じて貰おうと考えた設定とのこと(初演プログラム)。ブレイクダンスの若者や楽しげなカップルが行き交うなか、興行師風紳士とブルーマンによって、少女クララは二十世紀初頭のドイツへとワープする。東京所在の劇場にふさわしい導入部と言える。演出は英国系。ワイノーネンの振付を群舞に取り入れ、ディヴェルティスマンを牧が緻密に構成・振付、金平糖のパ・ド・ドゥはダニロワ直伝という伝統的な版を採用している。初日は舞台が立ち上がらなかったが、ダンサー達の演技により徐々に盛り上がりを見せるに至った。

主役は4キャスト。金平糖の精にはバレエ団の中軸となった小野絢子と米沢唯、ベテランの長田佳世と本島美和。小野は前回よりも踊りに厚みが出て、燦めきが増している。音楽性やラインの美しさは言うまでもなく、クララを見守る態度には、緻密な役作りを窺わせる。責任感が強く、常に完璧を目指しているが、さらに望むとすれば、本当の自分を観客に差し出すこと(バランシン)、供物として存在することだろうか。一方、米沢は前回のまさに供物としてのアプローチを封印した。天国と地獄を表現し得る感情の深さを持ち、意識の集中によって身体を変えられるがゆえに、振付を自分に引きつける傾向がある。表現の幅を広げるためにも、今回のように様式性に添うことは重要なプロセスと言えるだろう。 長田はいつも通り誠実だった。一つ一つのパを正確に、音楽を全身で感じて、今捧げられるものは全て捧げる、ダンス・クラシックへの信仰告白のような舞台。完璧に意識化された脚の、夢のような軌跡が、古典バレエの醍醐味を伝える。アダージョでは唯一、チャイコフスキーの悲劇性を浮かび上がらせた。昨季から踊りと自己が一致してきた本島は、まさにその通りの踊り。フォルムの美しさという点では、初日配役のアラビアの方が優っており、適役にも思われるが、輝かしさ、包容力で本島らしい金平糖の精を作り上げている。

王子にはそれぞれ菅野英男、福岡雄大、マイレン・トレウバエフ、奥村康祐。菅野、トレウバエフは、磨き抜かれたクラシックの美しさと万全のサポートを誇り、福岡と奥村はやや現代風の味付けだった(ただし牧振付の超絶リフトは菅野と福岡のみが実施)。小野と米沢が襷がけで雪の女王に配され、それぞれ福岡、菅野との阿吽の呼吸を見せるという粋な趣向もあった。

クララは五月女遥、井倉真未、加藤朋子、さいとう美帆が異なる造型を見せたが、自然な少女らしさでは加藤が際立っている。雪の女王は上記以外に、伸びやかで透明感のある寺田亜沙子と、美しく力強い堀口純という配役。物語の要ドロッセルマイヤーは、魔術的な山本隆之と、妖しげな冨川祐樹が勤めた。

雪、花のアンサンブルの美しさは健在。キャラクター・ダンスではトロルとトレパックで、切れ味鋭い八幡顕光、情熱にあふれる福田圭吾が献身的な踊りを披露し、若手の模範となった。バレエ研修所出身者を含めた若手男性ダンサーの活躍が目立つ一方、輪島拓也のシュタルバウム、古川和則のスペイン、貝川鐵夫のアラビアなど、個性派古参ダンサーも存在感を示している。

指揮の井田勝大は躍動感あふれる本来の個性をなぜか抑えて、全体をまとめる方向にあった。演奏は東京フィル。優れた歌声を聴かせた東京少年少女合唱隊に是非スポットライトを。(12月17、18、20、21日 新国立劇場オペラパレス) 『音楽舞踊新聞』No.2917(H26.1.21号)初出(2014.1/22)

 

★[バレエ]  2013年12月公演 『くるみ割り人形』+『ザ・カブキ』

 

●牧阿佐美バレヱ団

12年目を迎えた三谷恭三版。D・ウォーカーの奥行きある美術、P・ピヤントの機動的な照明が豪華な舞台空間を作り上げる。演出の見所は日常から異空間へのスムーズな移行。ドロッセルマイヤーは壁から、王子は客間のドアから登場し、客間が徐々に分解して雪の森に変わる。

金平糖の精の青山季可は、力みのない踊りと全身が微笑んでいるような佇まいが魅力。王子の京當侑一籠は包容力があり、青山とのパートナーシップも親密。雪の女王久保茉莉恵の自然な大らかさも加わり、人間的で暖かみのある舞台作りだった。本多実男のノーブルなドロッセルマイヤー、細野生の不思議な甥、篠宮佑一の切れ味鋭いハレーキン及びチャイナ他、ソリスト陣は見応えあり。ガーフォースのメリハリある指揮に、東京ニューシティ管弦楽団が機敏に応えた。(12月14日 ゆうぽうとホール)

 

●スターダンサーズ・バレエ団  昨年初演のコンテンポラリー・ダンス入り鈴木稔版。振付は全て音楽的で、鈴木独自のアクセントが入る。雪片のワルツをかわいい雪ん子たちが踊るのがミソ。少女クララの成長と人形世界での冒険譚が、鈴木らしい家族愛に包まれて描かれる。各国のダンサーが一幕の人形芝居にも登場するため、『くるみ』の欠点である一、二幕の断絶が解消された。美術・衣裳はD・バード。ニュルンベルクのクリスマス市、芝居小屋のあやつり人形や書き割りの裏が見える舞台裏(ホフマンの闇!)、ドールハウス仕様の人形の国全てが素晴らしい。足立恒の照明も魔術的だった。

クララの林ゆりえはみずみずしい演技、伸びやかなライン、確かな技術で少女の内面世界を描き出す。王子の吉瀬智弘もたくましくなり、カーテンコールではやんちゃ振りを発揮。存在感のある鴻巣明史のドロッセルマイヤー、味のある東秀昭の酔っぱらい父を始め、子供から大人まで活気ある演技が舞台を彩った。田中良和の情熱的な指揮がテアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ、ゆりがおか児童合唱団から豊かな音楽を引き出している。(12月23日 テアトロ・ジーリオ・ショウワ)

 

●Kバレエカンパニー

05年初演の熊川哲也版。ホフマン原作からクルカトゥクくるみのエピソードを加え、自動人形の子役で説明、ねずみ顔から癒されたマリー姫が王子とパ・ド・ドゥを踊る。スピーディ、エネルギッシュ、少しドライな熊川の特徴が全幕に充満。ソナベンドとトラヴァースの美術、特に巨大化したツリーの迫力は他の追随を許さない。

マリー姫の佐々部佳代は確かな技術に華やかな存在感、透明感を持ち合わせるプリマ候補。よく開いた美しい脚線の王子、池本祥真と共に今後が期待される。またドロッセルマイヤーの杉野慧がキャシディ直伝のノーブルな演技で舞台を大きく統率した(以上初役)。王妃役柄本まりなの気品あふれるマイムを始め、祖母、年配の使用人など、一幕の演技は自然。英国流が身に付いている。雪のアンサンブルは七公演目にもかかわらず、通常より早いテンポのワルツを見事に踊り切って、プロの気概を示した。(12月24日夕 赤坂ACTシアター)

 

●バレエ団ピッコロ

クリスマス公演第30回を記念して、松崎すみ子版『くるみ割り人形』を上演(通常は別作品)。第一回から出演の菊沢和子、北原弘子、小原孝司に松崎えり、常連ゲストの小出顕太郎、大神田正美、篠原勝美等の芸達者が脇を固め、松崎らしい子供目線の演出を支えている。乳母、メイド、ボーイの絡み、酔っぱらいおじさんが絶妙の味。一幕の子供たちの演技も素晴らしい。子役としての演技ではなく、現時点での成長を反映させた演技。子供による子供のための舞台空間だった。

金平糖の精には下村由理恵、王子には佐々木大。両者ともバレエ団との擦り合わせが弱く、また本調子には見えなかったが、そこはベテラン。役のあるべきスタイルを見せている。クラシック場面では下村門下の藤平真梨、南部美和が規範に則った踊りを、また小出が美しく献身的な踊りを披露して、30回目を寿いだ。(12月25日 東京芸術劇場プレイハウス)

 

東京バレエ団

四十七士の討ち入りに合わせてベジャールの『ザ・カブキ』(86年初演、185回目)を上演。黛敏郎の委嘱曲に、ベジャールの天才的な『仮名手本忠臣蔵』解釈が炸裂する。バレエ団のアイデンティティを支えるオリジナル作品である。

Wキャスト二日目の由良之助は森川茉央。初役とあって、まだ動きからエネルギーが漏れているが、大きさ、気品があり、先行ダンサーとは異なるタイプの由良之助となるかもしれない。顔世には美しいラインの渡辺理恵。溝下司朗、吉田和人の品格ある伴内は、岡崎隼也が受け継いでいる。

何より素晴らしかったのが、梅澤紘貴と吉川留衣のおかる勘平。梅澤の二枚目ぶりと暖かいパートナーシップ、吉川の清潔な愛らしさが絡み合い、うっとりする道行き、哀感極まる切腹だった。また終幕のソロで、新国立劇場バレエ研修所出身の入戸野伊織が、動きの精度、音楽性に優れた踊りを披露し、新世代の台頭を予感させた。(12月15日 東京文化会館)  *『音楽舞踊新聞』No.2917(H26.1.21号)初出(2014.1/22)

 

★[バレエ]  2013バレエ総評

2013年バレエ公演を首都圏中心に振り返る(含12年12月)。 今年はトリプル・ビル形式に優れた公演が集中、組み合わせの妙を堪能した。上演順に、新国立劇場バレエ団(バランシン、ビントレー、サープ)、NBAバレエ団(フォーキン=ヴィハレフ、ミシューチン)、Kバレエカンパニー(熊川哲也、スカーレット、熊川)、新国立(バランシン、ビントレー、ビントレー)、東京シティ・バレエ団(フォーキン、石田種生、ショルツ)、スターダンサーズ・バレエ団(バランシン、ロビンズ、バランシン)、新国立(フォーキン、バランシン、ニジンスカ)である。

新国立の3つのトリプル・ビルが観客の思考と感覚に新たな刺激を与え、最後の「ストラヴィンスキー・イブニング」で観客層の拡大にも成功したことは、バレエの国内上演史上、画期的な出来事である。批評性の高いプロデューサーで、優れた振付家のビントレー芸術監督は今季限り。団員創作公演「First Steps」を立ち上げ、静岡への『ペンギン・カフェ』ツアーと地元ワークショップを実施、アウトリーチ活動への端緒を開いた。今後も文化的啓蒙の一端を担える公共的なバレエ団であることを期待したい。

トリプル・ビルの演目としては圧倒的にバランシンが優位。クラシック・ベースで音楽的、さらに独自の振付語彙とフォーメイションが、現在でも前衛たり得る野蛮さを纏っているからだろう。今年はNYCBも来日し、驚異的な足技で本家の貫禄を見せつけた。バランシンの持つ華やかな一面は失われ、質実なプロテスタント的集団と化してはいるが。

創作全般を眺めると、物語バレエでは、優れたオリジナル曲を十全に生かした川口ゆり子・今村博明の『天上の詩』(バレエシャンブルウエスト)、一人三主役を断行した篠原聖一の『femme fatale』(Dance for Life実行委員会)、コメディア・デラルテを導入した伊藤範子の『道化師』(谷桃子バレエ団)が興味深い。シンフォニック・バレエでは、堀内元の明晰さ(バレエスタジオHORIUCH)、樫野隆幸の精緻さ(日本バレエ協会)、熊川哲也の清潔さ(Kバレエ)が音楽と共振、魅力を発散した。

コンテンポラリーでは、平山素子の情念とクールな思考が交差するソロ版『ボレロ』(新国立劇場)、金森穣の覇気あふれる『solo for 2』(Noism、新国立劇場)、小尻健太の繊細な女性群舞作品『夕映え』(日本バレエ協会)。また鈴木稔のかわいいコンテ風雪片のワルツは快挙だった(スターダンサーズ)。番外は、瀬山亜津咲のバウシュ・メソッドを自ら生き抜いた力強い演出である(さいたまゴールドシアター)。

海外振付家ではアシュトン、マクミランに続き、ビントレー、ウィールドン、スカーレットと英国勢が活躍。若手のスカーレットはKバレエに自然で野性味のある新作を振り付けている。また主役はギエムだが、エックのお転婆系『カルメン』を東京バレエ団が導入、破天荒なエック振りを見事に咀嚼した。さらに腹式呼吸のようなサープの脱力系『イン・ジ・アッパールーム』が、新国立のクラシックスタイルを破壊した事件もあった。

ダンサーでは女性から上演順に、米沢唯のシンデレラ、厚木三杏(サープ)、米沢のジゼル、酒井はなのオデット、長田佳世(中村恩恵)、荒井祐子(熊川)、本島美和(ビントレー)、青山季可のオデット=オディール、米沢のキトリ、小野絢子のキトリ、西川貴子のギターの踊り、志賀育恵(ショルツ)、林ゆりえ(バランシン)、島添亮子のマノン、下村由理恵のカルメン+マルグリット+サロメ、長崎真湖のシルフィード、小野の火の鳥、米沢の火の鳥、長田(バランシン)。

男性ダンサーは、福田圭吾(サープ)、黄凱のアルブレヒト、大森康正のピエロ、福岡雄大(中村、金森)、福岡のバジル、菅野英男のバジル、山本隆之のドン・キホーテ、吉本泰久のサンチョ・パンサ、古川和則のガマーシュ、三木雄馬カニオ、吉瀬智弘の牧神、梶田眞嗣のイワン王子、森田健太郎のスニーガ、山本のアルマン、福岡(ニジンスカ)。番外は、ベケットを踊る山崎広太である(ARICA)。 『音楽舞踊新聞』No.2916(H26.1.1・11号)初出(12/31)