2015年公演評

★[ダンス][バレエ]  新国立劇場バレエ団「Dance to the Future ~Third Steps ~」

新国立劇場バレエ団が3回目の団員創作公演を行なった。「Dance to the Future ~Third Steps ~」である。ビントレー前芸術監督の企画を、平山素子をアドヴァイザーに迎えて継続させた。前回までは作品選択、指導、プログラム構成にビントレーの息吹が行き渡り、公演全体がビントレーの作品であると同時に、団員のサンクチュアリともなっていたが、今回は平山道場の趣。自らの処女作をプログラムに加え、創作の先輩としての自分と競わせる厳しさが漂った。

個性を確立し、ダンサーを十分に生かして踊らせたのは、貝川鐵夫と福田圭吾だった。貝川の『Chacona』(バッハ曲)は堀口純を紅一点に、輪島拓也、奥村康祐、田中俊太朗が踊る。ドゥアトへの傾倒を思わせる濃密なエロティシズム(男性デュオあり)と、貝川独自の鮮烈な音楽性が舞台に横溢する。何よりも動きに肉体を通した喜びがあった。

福田の『Phases』はグノーの「アヴェ・マリア」とライヒを組み合わせ、叙情性とミニマルな動きを交互に見せる作品。美しいマリアの寺田亜沙子を菅野英男が美しくサポートする。ライヒでは福田振付の代弁者、五月女遥を中心に丸尾孝子、石山沙央理、成田遥が切れの良い踊りで、福田の鋭い音楽性を体現した。

多人数作品は他に、公演の最初と最後を飾った宝満直也『はなわらう』(高木正勝曲)と、小口邦明『Dancer Concerto』(ブラームス曲)。前者は、アポロンのような福岡雄大と翳りのない米沢唯の可愛らしいデュオを中心に、全体が明るく微笑んでいるような作品。後者は細田千晶をトップに、小口世代がソロをバトンタッチしていく親密なシンフォニック・バレエだった。

デュオ作品は広瀬碧『水面の月』(久石譲曲)と、高橋一輝『The Lost Two in Desert』(G・プリヴァ曲)。ドッペルゲンガーのような川口藍と広瀬のたゆたう女性デュオに、盆子原美奈の巧さを前面に出した粋な男女デュオである。 ソロはトレウバエフ『Andante behind closed curtain』(D・クレアリー曲)と、平山『Revelation』(J・ウィリアムズ曲)。前者は、幕が降りた後のプリマの苦悩を、ペーソスを滲ませたグロテスクな踊りで表現。湯川麻美子の虚構度の高い踊りが印象深い。

かつてザハロワが、その研ぎ澄まされたラインで機能美を主張した『Revelation』(招待作品)には、小野絢子と本島美和が挑戦した。両者ともザハロワとは異なるアプローチ。初日の小野は物語を構築し、振付に感情を乗せる方法。叙情的だが、作品に向けて自分を解き放つには至らなかった。一方本島の踊りには、研修所時代の自作ソロから現在までを走馬燈のように蘇らせる深さがあった。振付・構成の解釈は的確。動きの強度、鮮烈なフォルムに、ヴッパタール・ダンサーのような剥き出しの実存を感じさせた。(1月16、17日、新国立劇場小劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2943(H27.2.15号)初出(2/14)

 

★[バレエ]  神奈川ブロック『シンデレラ』

日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックが設立35周年を記念して、『シンデレラ』を上演した。音楽はプロコフィエフ、演出・振付は夏山周久による。夏山版は、土台のザハーロフ版に、難度の高いソロとコミカルな味わいを加えたもの。王子登場以降の、友人やピエロを交えた闊達な踊りに見応えがあった。序盤は演技が多く、難しい場面が続くが、継母役の冨川祐樹が新国立劇場での経験を生かして、舞台を牽引した。品が良く、母親らしい暖かさにあふれた女形で、新境地を拓いている。

主役のシンデレラには樋口ゆり。確かな技術、清潔な脚技に、親密な雰囲気を漂わせて、慎ましやかなシンデレラを造型した。対する王子は清水健太。共に元Kバレエカンパニーの精鋭である。清水は規範に忠実な美しい踊りに覇気を加え、回転技の多いボリショイ版の勢いを体現した。女性を美しく見せるパートナーだが、この版に多用されるアクロバティックなサポートも果敢に実行、熟練の王子役であることを証明している。

ないがしろにされながらも妻を見守る気の弱い父親には、ベテランの小原孝司。姉娘の大滝よう、妹娘の朝比奈舞は踊り、芝居共に達者だった。仙女・山田みきの気品、ピエロ・荒川英之のきれいで可愛気のある踊り、舞踊教師・浅田良和の切れの良さなど、脇役陣も充実。四季の精(浅井蘭奈、飛沢由衣、岩崎美来、寺田恵)を始め、ブロックのダンサー達も日頃の研鑽の成果を伸び伸びと披露した。

指揮は前回同様、冨田実里。新国立劇場バレエ公演で副指揮者等を務める新鋭である。舞台とよく呼応し、俊友会管弦楽団から、プロコフィエフの胸に迫る美しさを引き出している。(1月18日 神奈川県民ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2943(H27.2.15号)初出(2/14)

 

★[バレエ][ダンス]  「青山バレエフェスティバル~LAST SHOW~」

国立児童館「こどもの城」が2月1日、老朽化を理由に閉館した。それに伴い、併設の青山劇場と青山円形劇場も閉館を余儀なくされた。長年、バレエやコンテンポラリー・ダンスの足場となってきた劇場である。特に円形劇場は、その独特の空間から多くの実験的作品を生み出している。

一方の青山劇場では、開館翌年の86年から2000年まで毎年「青山バレエフェスティバル」を、その後は不定期に「ローザンヌ・ガラ」を開催してきた。特に前者には、当時のプロデューサー、故高谷静治氏の「バレエダンサーにコンテンポラリー・ダンスを踊らせたい」という思いが強く反映されている。海外で活躍する日本人ダンサーと国内ダンサーが団体の枠を超えて一堂に会する、クリエイティヴなフェスティバルだった。

その「青山バレエフェスティバル」の「LAST SHOW」が劇場最後の公演となった。フェス所縁のダンサー、振付家が久々に集い、劇場との別れを惜しむ。公演は二部構成。共に最初は多人数作品、続いてデュオやソロ、トリオが並ぶ面白いプログラミングである。

第一部幕開けは、矢上恵子振付の『組曲PQ』。関西男性バレエダンサー集団〈PDA〉の面々が、矢上の超高密度の振付を嬉々として踊る。文化を共有する者の喜びがひしひしと伝わる伝統芸能のような作品だった。続いて栗原ゆうと中家正博による正統派『ダイアナとアクティオン』、行友裕子と堀内充によるロマンティックな『Flower song』(振付・堀内)、酒井はなと西島数博による濃厚な『シェヘラザード』(振付・西島)と、デュオが並び、第一部の最後を佐多達枝の名作『ソネット』が飾った。95年初演組の髙部尚子、足川欽也、坂本登喜彦が、バレエダンサーとしての成熟の形を示している。

第二部幕開けは、西島改訂の『ライモンダ』グラン・パ・クラシック。西田佑子、横関雄一郎の磨き抜かれたクラシック・スタイルが素晴らしい。男女4組のアンサンブルも高難度の振付を見事にこなしていた。続いて小尻健太と渡辺レイによる小尻作品『not Yet』、酒井によるゲッケ作品『Mopey』、キミホ・ハルバートと佐藤洋介によるハルバート作品『MANON』、井関佐和子による金森穣作品『Under the marron tree』と、コンテンポラリーが並び、最後は下村由理恵と佐々木大による『ロミオとジュリエット』バルコニーのパ・ド・ドゥ(振付・篠原聖一)で締め括られた。

「バレエダンサーの踊るコンテンポラリー・ダンス」の現在の成果としては、酒井の繊細なニュアンスあふれる闊達なソロ、井関の鍛え抜かれた身体が生み出す実存的ソロが挙げられるだろう。高谷氏の喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。(1月30日 子どもの城 青山劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2945(H27.3.15号)初出(3/13)

 

★[ダンス]  日本昔ばなしのダンス」

標記公演を見た(2月1日 彩の国さいたま芸術劇場大練習室)。下司尚実振付『いっすんぼうし』と近藤良平振付『ねずみのすもう』の二本立て。練習室なので座席が組んであり、地続きで見る楽しさがある。必ず子供連れという想定からか、座布団の置き方が狭く、大人3人が並ぶと(実際そうだった)身動きが取れない。左は親子連れで、業界風の父親が娘のために来ている感じ(始まる前、隣には母親がいて、次には娘、それから父親に変わった)。右は30代初めの文化系青年で、役者の演技にいちいち受けていた。これほど反応のいい人は、ダンス系ではなかなかいない(後から伊丹アイホールの人だと分かった)。

下司(しもつかさ)作品は、昔ばなしをそのまま辿っていく正統派。小柄な佐々木富貴子が針の刀を持って、勇ましく跳ね回り、美形の鈴木美奈子と下司が、爺婆になったり、姫と鬼になったりして、物語の枠を作る。一寸法師は奥の小舞台で動き、爺婆たち二人は手前の地面で、あたかもそこに一寸法師がいるかのような演技をする。その演技が上手いので、奥の一寸法師が頭の中で合成されて、一緒にいるように錯覚する。果たして子供たちはどうだっただろうか。

下司はシャイ。ご飯を盛る手つきが素晴らしかった。子供を授かるよう、爺婆が神社にお参りをし、二礼二拍手一礼するシークエンスが何度も繰り返されるが、その度に、子供たちの声が上がる。少し前、WWFesプレイベントのシンポジウムで、山崎広太が「初詣で人々が参拝しているのを見ていると、踊りに見える」と言ったのを思い出した。下司に戻すと、小道具が背面のカーテンからマジックのように飛び出てきたり、袂から(?)出てきたりと、扱いに切れがある。求める効果に向かって脳を使い切った演出だった。

近藤作品は再演。物語は解体され、近藤のイメージが氾濫する。鎌倉道彦、藤田善宏、山本光二郎の百戦錬磨、強者どもが、肉体の全てを捧げて近藤の振付を遂行する。その迫力はトラウマとなるほど子供たちを圧倒するだろう。子供たちにはまだ分からない世界をそのまま提示し、子供たちに背伸びさせるような、高踏的な作品だった。(2/7)

 

★[バレエ]  東京バレエ団『眠れる森の美女』

標記公演を見た(2月8日 東京文化会館)。2006年にベルリン国立バレエ団で初演されたマラーホフ版の導入。プロローグと第1幕、第2幕と第3幕をそれぞれ続けて上演し、休憩を挟んで2時間半の短縮版である。プロローグと第1幕の間に幕前で、カラボスとリラ、小さなオーロラが寸劇をするが(パノラマ使用)、確かハイデ版にあったような記憶がある。第3幕のシンデレラとフォーチュン王子のデュエット、アポテオーズでのカラボス登場は、ヴィハレフ復元版の影響かもしれない(ヴィハレフ版アポテオーズの雲間に、カラボスが顔を出していた記憶がある)。オーロラは薔薇の棘に刺されて眠る設定に変更されている。しかし、カラボスの予言後も薔薇の生け垣が舞台に残されているので、破綻していると言えば言える。

オーロラの川島麻実子は丁寧で、少し和風の感じ。きっちりした先生に教えられてきたことが分かる。デジレの岸本秀雄は、ややカジュアル。元気の良い青年タイプに見えた。沖香菜子のパッショネットなカナリアの精も目立ったが、最も驚かされたのは、河谷まりあサファイアオペラ座の脚だった(ハンブルク・バレエ学校だけど)。無意識に踊ってしまう脚。キトリの友人の時、バジルとぶつかったのを見たが、さもありなん。なにしろ踊ってしまうので。オーロラ友人のアンサンブルでも一人、踊りがずれていた、と言うか、本当に踊っていた。怪我で降板したジュリエットも、踊っていればすごく良かっただろう。何をやらかすか、楽しみなダンサー。(2/14)

 

★[コンサート][ダンス]  柳本雅寛@「佐藤俊介の現在」

標記公演を見て、聴いた(2月14日 彩の国さいたま劇術劇場音楽ホール)。バロック、モダン両方のヴァイオリニスト佐藤俊介のソロに、ダンサー柳本雅寛が絡み、田村吾郎が演出するコンサート。演目はビーバーのパッサカリアに始まり、バルツァー、プロコフィエフJ.S.バッハ、と来て、バルトークで折り返し(袖で演奏しているのかと思ったら、ホールのあちこちから音が聞こえるので、増幅かなと思う、しかし途中で佐藤が舞台に出てくると、白から黒シャツに着替えていて、弾いてないのに音がするので、録音だと分かった)、そしてイザイ、プロコフィエフ、イザイ、J.S.バッハシャコンヌで終わった。

よくありがちな音楽とダンスのコラボではなく、すべての動きに理由づけがある。佐藤が音を奏でている時に、柳本が小道具を動かす、歩き回る、動き回る、足音をさせる。コンサートの禁じ手をあえてやることで、こちら側の体がほぐれ、聴取する領域が広がる感じになった。

柳本は懐が深く、常に相手の身体を包容する、珍しいダンサー。佐藤はアンファン・テリブル。初っ端から圧倒された。何の留保もなく、才能がある、と言い切れる気持ちよさ。暗やみで(つまり暗譜で)弾く。柳本に引っ張られながら、柳本をころがしながら、柳本に抑えられながら、寸分の狂いなく弾く。シャコンヌは前半、形而上学を排した疾走する音楽、技巧の鋭さに神業かと思う。終盤シモテのライトが着くと、一瞬ミスタッチ、柳本が入ってくるとそれに向けて開いた演奏になった。つまり神業よりもコミュニケーションを良しとする弾き手なのだ。

柳本は佐藤の凄さを分かっているのだろうか。もちろん体で理解はしていると思うが。これほどの音楽で踊れるのは、柳本の人徳だろう。人間が人間と出会ったということ。(2/18)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団「TOKYO CITY BALLET LIVE 2015」

東京シティ・バレエ団恒例の「TOKYO CITY BALLET LIVE」が、大ホールに場所を移して開催された。上演順に、石井清子、小林洋壱、中島伸欣の座付き振付家作品、さらにゲスト振付家としてレオ・ムジックを招いての創作集である。座付きの良さはダンサーを知り抜いていること、ゲストの良さはダンサーの意外な側面を引き出すことにある。創作を重視するバレエ団の意気込みを感じさせるプログラムだった。

幕開けの石井版『ボレロ』は84年初演。シティの女性団員が、軒並み踊ってきた歴史的作品である。女の情念がこもった美しいライン、和風のニュアンスが滲む腕のみの踊り、クライマックスに向けての民族舞踊的一体感が、定着したレパートリーの力強さを示していた。

小林振付『Without Words』は、マーラーの「アダージェット」を用いたデュオ作品。足立恒(照明)のブルーグレーがニュアンスの深い空間を作る。チョ・ミンヨンの控え目な男らしさ、佐々晴香の情感豊かで明晰な踊りに、力みのない等身大の関係が映し出される。日常性を手放さない美的な作品だった。

同じデュオでも中島の『鏡の中で』(ペルト曲)は、まずコンセプトありき。白い襞のある布を背景に、白のオールタイツに黒テープを巻き、頭を白く固めた志賀育恵と黄凱が踊る。ただし美的というよりは内的。何か熱いものがあって、こうでなければならないという中島の思いが迸る。それが何かはよく分からないが。中島の体臭が充満する創造的な作品だった。

ムジック振付『死と乙女』は、ヴィターリの「シャコンヌ」とシューベルトの『死と乙女』を用いたドラマティックな作品。男女共に黒ずくめの衣裳で、前半はポアントで踊る。バロックの濃厚な退廃美から、自然に立脚するロマンティシズムへの振り幅は、前作『crash the lily』でも覗えたムジックの個性である。

大石恵子の情念、佐々のダイナミズム(リフトされまくりだった)、キム・セジョンの美しいライン、高井将伍の飄々とした男っぽさ、玉浦誠の切れ味の鋭さと、個性を生かした主役の踊りに、全力疾走のアンサンブルが加わり、会場をめくるめく陶酔感で包んだ。大人っぽいゴージャスな女性陣は、創作を踊り継いできた同団の美点である。(2月15日 ティアラこうとう大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2947(H27.4.15号)初出(4/14)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ラ・バヤデール』

標記公演を見た(2月17、21、22日 新国立劇場オペラパレス)。牧阿佐美版『ラ・バヤデール』の特徴は、ニキヤとソロルが冥界で結ばれない点と、太鼓の踊りがない点。後は概ね伝統的な演出を踏襲している。特に優れているのが、アリステア・リヴィングストンの美術と照明。幕開けや幕を繋ぐ場面で、ランチベリーの編曲に合わせて、黒と銀の森が上下に開閉する。こうした美術と音楽の同期は、他の版では見たことがない。恐らくリヴィングストンのアイデアが反映されていると思われる(今回のプログラムには名前の記載がない、理由は不明)。

3キャストを見て、震撼させられたのは米沢唯(初日ガムザッティ、最終日ニキヤ)。ガムザッティ時の体の美しさ、最小限の身振りで最大限のエネルギーを発散する。体全体に艶があり、伝統芸能のようなトロみを後に残した。一方のニキヤに変わると、米沢の思考が氾濫した。最初のソロは巫女そのもの。そのまま神社で踊っても差し支えない心的境地。逢引き、ガムザッティとのやりとり、恨み節は当然のレヴェルだが、バレエ・ブランには驚かされた。米沢本来の大きさになり(これまで小さく見えていた)、古典の気品が漂う。つま先まで神経が行き届いたからだろう。最後の山登りは慈愛に満ちていた。誰もしていない解釈。ニキヤは許しているのに、ソロルが付いていけなかったという結末。

米沢はこれまで内容を注視するあまり、踊りのスタイルを等閑視する傾向があった。結果、古典もバランシンもコンテも同じ踊り方になる。最初の頃は意識の集中で身体の質を変えており(もちろん誰にもマネできない身体表現)、いつもびっくりして見ていたが、それだけでは表現の幅が限られる。スタイルの把握は社会化を意味する。大劇場の主役をやる以上、必要だっただろう。

今回は小野絢子のニキヤと米沢のガムザッティという贅沢な組み合わせを見ることができた。大原永子芸監の采配。これまでガムザッティは演技、見た目がぴったりでも、二幕で観客を緊張させる(大丈夫か)場合が多かった。初めて対等のライバル関係を見た気がする。小野も体を大きく使うことが不自然ではなくなり(ムンタギロフの高さもあるか)、何よりも、自分の解釈を超えたパフォーマンスに、粛然とさせられた。作品に自分を投入している。供物としての踊りだった。小野と米沢が互いに影響しあっていること、正反対の資質だが、高い精神性を共有する二つの才能が、同時期にバレエ団にいることの幸福を思った。第2キャストの長田佳世、菅野英男、本島美和の組は、舞台自体がなぜか低血圧、理由は分からず。

男性では、福岡雄大ソロル、貝川鐵夫のラジャー、輪島拓也のトロラグヴァ、福田圭吾のマグダヴェヤ、奥村康祐の黄金の神像、女性では、長田のガムザッティ、柴山紗帆の第1ヴァリエーション、原田舞子のつぼの踊りが印象深い。ファキール、兵士達は大柄になり、見ごたえがあった(プログラムに名前の記載なし)。

一幕バヤデールの踊り、ジャンペの踊り、三幕影のコール・ド・バレエは、牧時代に比べると揃っていないが、生き生きと踊っている。大原芸監の趣味だろう。

熱血指揮者アレクセイ・バクランが、東京交響楽団の厚みのある、熱い演奏に満足していた。バクランはフェッテ関係の速度に容赦ないが、最終日、米沢の一幕ソロにやられた様子。そこからは米沢の呼吸にすべてを合わせていた。オケが先走っても関係なく。バレエを熱烈に愛している指揮者。(2/24)

 

★[バレエ]  スターダンサーズ・バレエ団『ジゼル』

スターダンサーズ・バレエ団が創立50周年を記念して、ピーター・ライト版『ジゼル』を上演した。共催は文京シビックホール(公益財団法人文京アカデミー)。ライト版の特徴は、動きの全てに意味付けがあり、細やかなドラマの流れが目に見える点にある。ヒラリオンとベルタのセリフが聞こえるようなマイムに始まり、バチルド、クーランド公、狩猟長の闊達な演技など、レパートリーの定着を裏付ける仕上がりだった。

森の詩人ピーター・ファーマーの墨絵のような美術と淡い色合いの衣裳が、繊細なロマンティシズムを醸し出す。ただし大きいホールに変わったせいか、以前よりも照明が暗めに感じられた。

ジゼルは初日が林ゆりえ、二日目が新人の西原友衣菜、アルブレヒトはそれぞれ吉瀬智弘とゲストの浅田良和が勤めた。その初日を見た。林はライトに見出され、19歳でジゼルを踊った逸話の持ち主。一幕の情熱的少女から、母性でアルブレヒトを包む終幕までの真情あふれる演技、鋭い音楽性に裏打ちされた一拍伸びるラインが記憶に鮮やかである。今回は中堅らしい落ち着いた演技。特に狂乱の場面ではよく練り上げられた解釈を見せた。ただ全体に手の内に納まった印象が残る。林らしい疾走するジゼルを期待したい。

対する吉瀬は、やんちゃ系の王子として、また無意識の牧神として個性を発揮してきた。今回も時折やんちゃな気質を覗かせたが、全体的には真っ直ぐ育った貴族の子息。堂々たる佇まい、癖のない明晰な踊りで、器の大きいアルブレヒトを造型した。

脇も充実。大野大輔の肚の据わったヒラリオン、天木真那美の切り返し鮮やかなバチルド、なぜか大きく見える東秀昭のクーランドと、演技を見る楽しみがあった。ミルタの佐藤万里絵は肌理細かい艶のある踊り、ウィリ達は周囲に合わせると言うよりも、個人で音を取る自立したダンサー集団だった。

テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ率いる田中良和が、舞台に寄り添った指揮でドラマ作りに貢献している。(2月28日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』No.2946(H27.4.1号)初出(3/28)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団『眠れる森の美女』

牧阿佐美バレヱ団が、都民芸術フェスティバル参加作品として、ウエストモーランド版『眠れる森の美女』を上演した。82年バレエ団初演の重要なレパートリーである。

同版は英国系の流れを汲み、マイムを保存。昨年、新国立劇場バレエ団が初演したイーグリング版とは、言わば兄弟関係にある。ウエストモーランド版では、妖精の招待リストを何人もが確認するのに対し、イーグリング版ではリストの確認に邪魔が入る。「目覚めのパ・ド・ドゥ」でも、ウ版の古典的な振付に対し、イ版では情熱的なモダンバレエの振付。改訂者の資質もあろうが、時代の流れを感じさせる細部の違いが、興味深い。

オーロラ姫には、バレエ団を代表する伊藤友季子と青山季可、フロリモンド王子には、マリインスキー・バレエのデニス・マトヴィエンコと、前回カラボスの菊地研が配された。伊藤は何よりも音楽性を重視。演技はあっさりと、踊りはこれ見よがしでなく、するすると水のように推移する。一幕の少女らしさ、二幕の幻想的はかなさ、三幕の気品と演じ分けてはいるが、核は音楽と一体化した隙のない身体である。古典の形式美を追求するアプローチだった。

一方、青山は物語性を重視。古典バレエの演劇的側面を読み込み、一挙手一投足に心を込める。常に相手との、さらには観客とのコミュニケーションを目指すので、観客は青山と共に旅をし、その身体から微笑を受けたような心持ちになる。両者共ベテランの域、考え抜いた舞台だった。

王子のマトヴィエンコは若々しい激情を個性としてきたが、さすがに落ち着いた演技。マイムの品格を初めて出した気がする。三幕コーダでは勢いあるマネージュで、かつての片鱗を覗わせた。一方、菊地は二幕ソロに力みがあったが、徐々に王子の雰囲気を醸し出し、さらには不敵な笑みを浮かべるに至った。三幕マネージュとピルエットは華やか。少しカラボス色が滲む王子だった。

リラの精はベテランの吉岡まな美と、久保茉莉恵。吉岡は全てを見通す統率力と、長いラインが繰り出すシャープな踊り、久保は全てを見守る包容力と、調和の取れた香り高い踊りが特徴。ソロはそれぞれロプホフ版とプティパ版を踊った。

カラボスの保坂アントン慶、フロレスタン24世の逸見智彦、王妃の吉岡と塩澤奈々が、個性を生かした演技を見せた他、依田俊之が愛情深いカタラブットを演じて出色だった。

清瀧千晴のブルーバードははまり役。また清瀧、日高有梨、坂爪智来、中川郁の金・銀・宝石アンサンブル、中家正博・栗原ゆうのブルーバード組、塚田渉の猫、元吉優哉の狼など、ディヴェルティスマンは見応えがあった。リラのおつきと花輪の踊りはジュニアだったが、バレエ団の総合力を示す上演だったと言える。

大ベテランのデヴィッド・ガーフォースが、東京ニューシティ管弦楽団から細やかなニュアンスの音楽を引き出している。(2月28日、3月1日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2948(H27.5.1号)初出(4/28)

 

★[バレエ]  日本バレエ協会コッペリア』2015

日本バレエ協会が都民芸術フェスティバル参加公演として、ヴィハレフ復元のプティパ版『コッペリア』を上演した。ドリーブの幸福感あふれる音楽、華やかな民族舞踊、ホフマン原作の闇に無邪気な恋物語を絡めた喜劇作品である。

サン=レオン初演版は最後のロマンティック・バレエと言われるが、プティパ版は、サン=レオン振付の香りを残した古典バレエ。三幕「時のワルツ」は幾何学的なフォーメイションを描き、ディヴェルティスマンは高難度の古典ソロで構成される。特に曙、祈り、フォリーのソロは主役級の振付、ブルノンヴィル風のフランツ・ソロ(N・セルゲイエフ振付)も難度が高い。

主役のスワニルダには、一幕のフランス風脚技、二幕の人形振りと演技、三幕の古典技法と、高い技倆が要求される。下村由理恵、法村珠里、志賀育恵(出演順)が果敢に挑戦、フランツにはそれぞれ、芳賀望、浅田良和、橋本直樹の元Kバレエ・トリオが出演した(芳賀は元新国立でもある)。

初日の下村は全幕を通じて、スワニルダのあるべき姿を見せることに成功した。自在な脚技、自然な演技、崇高なアダージョ。改めてオールラウンドのバレリーナであることを思い知らされた。相棒の芳賀は、フランツ気質。「楽しくやろうよ」が信条である。破格の明るさ、華やかなスター性、豪快な踊りが、舞台に熱風を吹き込んだ。

二日目マチネの法村は、モスクワ仕込みの伸びやかなラインと大きな踊り、華やかな容姿、地を生かした演技で、楽々とドラマを立ち上げた。友人達とのアンサンブルも抜群。アダージョの見せ方にはさらなる工夫が望まれるが、最もロシア・バレエの味わいが濃厚だった。対する浅田は、法村の娘らしさに見合ったロマンティックな青年。やや憂いを秘めた役作り、切れ味鋭いソロが印象深い。

ソワレの志賀は、東京シティ・バレエ団で同役を踊り込んでいる。小柄だがエネルギーにあふれ、繊細な腕使いと脚技、コミカルな演技で、生き生きとしたスワニルダを造型した。対する橋本は、パートナーシップに長けたダンスール・ノーブル。志賀との演技のやりとり、ソロでの清潔な脚技が素晴らしかった。

コッペリウスもトリプルキャスト。マシモ・アクリの伝統的マイムが繰り出す滑稽な味、桝竹眞也の人形に命を吹き込もうとする狂おしい野望、アレクサンドル・ミシューチンのペーソスあふれる老人と、それぞれ技巧派、ロマンティック、正攻法の舞台に沿ったアプローチだった。

ソリストはバレエ協会ならではの才能を集めたが、中でもフォリー・星野姫のエネルギーに満ちた踊り、祈り・榎本祥子の場を支配する踊りが強烈な印象を残した。マズルカチャルダッシュ・アンサンブルはベテランを交えて厚みがある。一方、時のコール・ド・バレエは若手主体。プティパのシンプルな振付を神妙に踊っていた。

指揮はアレクセイ・バクラン、演奏は東京ニューシティ管弦楽団。(3月7日、8日昼夜 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2946(H27.4.1号)初出(3/18)

 

★[オペラ][バレエ]  新国立劇場オペラ『マノン・レスコー』+バレエ公演のオケについて

標記公演を見た(3月9日 新国立劇場オペラパレス)。プッチーニのオペラ。2011年3月に予定されていたが、東日本大震災が直前に起こり、上演中止になった。指揮者を除いてほぼ同じ座組みを目指したので、4年後になったらしい。バレエの「ダイナミック・ダンス」も中止になったが、こちらは2013年1月に上演されている。その際、ゲネプロを一般公開して義援金を募るなど、芸術監督ビントレーの被災地への思いが強く感じられた。今回は表立っての言及はなし。観客もあまり感慨がなさそう。

初めて聴く『マノン・レスコー』は、いわゆる「マノン」の世界ではなく、プッチーニの世界だった。ひたすら男女が愛を歌う。ああプッチーニだなあと思いながら聴いた。マスネの『マノン』も見たことあるが、デ・グリューの神学校生活の場面があり、もっとストイックだった気がする(もちろんマクミランの『マノン』が、自分の中のいわゆる「マノン」の世界)。

聴き終えて、家路につき、夜寝るまで、すごく快復した気持ちに。プッチーニはそれほど好きではないのに。東京交響楽団の豊かな音が充填されたからだと思う。知人によると、指揮者がもっと弦を揺らさないとプッチーニではないとのことだが、文句はない。前日まで、日本バレエ協会の『コッペリア』を、東京ニューシティ管弦楽団で聴いていたので。

指揮はアレクセイ・バクラン。 東京ニューシティは、東京小牧バレエ団公演では内藤彰が必ず指揮をして、音楽的に満足のいく舞台をお膳立てするのだが、今回のバレエ協会公演では、調子がよくなかった。一番の見せどころで、ヴィオラ・ソロが舞台を助けているとは言えなかった。また東京フィルのチェロが首席奏者に入っている。よくあることなのか。

バクランは、2月17~22日に新国立劇場バレエ団『ラ・バヤデール』を振り、東響のあまりの熱演に狂喜していたが、その後、2月28日と3月1日にバレエ研修所で東京フィル(未見)、3月7日と8日昼夜に日本バレエ協会コッペリア』で東京ニューシティ、3月14~22日に新国立劇場バレエ団「トリプル・ビル」で東京フィルを振る、というスケジュールだった。東京のオケ状況について、感想を聞いてみたい。(3/17)

 

★[バレエ][ダンス]  新国立劇場バレエ団「トリプル・ビル」

標記公演を見た(3月14、15日 新国立劇場中劇場)。19日に三日目を見るが、初日、二日目の感想を一先ず。

演目上演順はバランシンの『テーマとヴァリエーション』、ドゥアトの『ドゥエンデ』、ロバート・ノースの『トロイ・ゲーム』。初め時間割を見たとき、驚いた。ドゥアト、ノース、バランシンの順だと思っていたので。実際見てみると、ノースのスポーティであっけらかんとした作品がおかしく、さっぱりした気持ちで家路についた。大原永子芸監の江戸っ子気質がこの順番を生み出したのかと思ったが、ノースを踊ると後は疲れて踊れないという、物理的な理由だと気が付いた。

トリプル・ビルと言えばビントレー監督。音楽的、歴史的に考え抜かれた作品選択と、享受者への身体作用を考慮した上演順に驚かされた。一方、大原監督の良さは、的確な配役、ダンサーを十分に踊らせること、観客の視点に立って作品選択をすることである。

初っ端の『テーマ』は、主役二人をコリフェ、アンサンブルが取り巻くグラン・パ形式。メランコリックなアダージョと終幕の輝かしいポロネーズが、古典バレエの記憶を呼び覚ます。アダージョは姫とカヴァリエの踊り(王子と言うより)、ポロネーズは次々と男性ダンサーが加わって、めくるめく大団円になる。凡庸な振付家なら、最初から男性を出しただろう。先日のプティパ版『コッペリア』(日本バレエ協会公演)の入れ代わり立ち代わりするコーダを見ていて、バランシンのこれでもかと追い立てる終盤は、ここから来たのだと改めて思った。つまりプティパがすでにスポーティであり、過剰であるということ。

初日の主役は小野絢子と福岡雄大。5列目から見てしまったので、筋肉のきしみまで聞こえそうだった。きっちりとバランシンスタイルを見せていたが、アダージョは情感を醸し出すには至らず。アシュトンのパキパキ・アダージョは良かったのだが。福岡はカヴァリエのあり方を身に付けなければ。二日目は米沢唯と菅野英男。指揮のバクランは、米沢にすっと寄り添う。米沢のテンポ。スタイルはバランシンよりも古典に近い。アダージョは目と目を見かわし、ほのぼのとした暖気が客席を覆う。最後までほのぼのだった。稀有なパートナーシップだと思う(菅野は踊りが少し崩れた、節制しなければ)。

コリフェの配役は順当。奥田花純、柴山紗帆が玄人っぽい。江本拓、貝川鐵男の両ベテランが楽しそうに踊っているのに対し、期待の王子、井澤駿は超控えめ。小柴富久修のカヴァリエとしてのあり方、原健太の熱い存在感も印象に残る。

ドゥアトの『ドゥエンデ』は、ドビュッシーの音楽に振り付けられた現代の牧神物。ニジンスキー『牧神の午後』の引用もあるが、より自然と密着している。レパートリー作りではなく、本当に作りたいものを作っていると思う。4つのパートの最後は人文字。象形文字のようだが、何か知りたい。ドゥアトが指導に来た初演時には、ダンサーが緊張でガチガチだった記憶が。今は伸びやか。本島美和の決然としたフォルムの美しさ、輪島拓也のビロビロとしたオーラ(好きなことをやっている喜びも)、小口邦明のソリッドな味、福岡、福田圭吾、池田武志のダイナミズム、奥田の精度の高い動きが印象深い。

『トロイ・ゲーム』は古代ギリシアの装いで、スポーツや試合をするコンセプトの作品。マチズモ満載、男性8人×2組は筋トレをして体を作っているが、肉と肉のぶつかり合いよりも、どちらかと言うと高校生のやんちゃな遊びに見える。一人一人のソロがあり、配役もビシッと決まっているので、男性ダンサーの個性がよく分かった。と言うか、個性を出せているダンサーを見る喜びがあった。振付はものすごくきついけど、顔見世のような作品。やはり井澤は王子。動きにきらめきがある。柴山といい、加藤大和といい、ソリスト入団の3人は、体の彫琢がずば抜けている。(3/15)

 

★[ダンス]  アーキタンツ・スタジオパフォーマンスvol.9 『最後の聲』

バレエ、コンテンポラリー・ダンス、能のクラスやワークショップを運営するスタジオアーキタンツが、縁の深い香港在住振付家ユーリ・ンの新作を上演した。同スタジオは、ンのバニョレ国際振付賞受賞作『Boy Story』の美術に携わったスタッフにより設立されている。昨年3月の「ARCHITANZ 2014」公演では、この受賞作の再演を見ることができた。

今回の『最後之聲』は、ンが芸術監督を務める香港のアカペラ・グループ「ヤッポシンガーズ」(一舗清唱)と、オーディションで選んだ「コラボレイターズ」によるアカペラとダンスの公演。振付・演出はン、音楽監督は「ヤッポシンガーズ」の共同芸術監督ウン・チャクイン、さらにアーティスティック・アソシエイトとして、富士山アネットの長谷川寧が加わった。

上演場所は同スタジオ。長方形スタジオの長い方を正面とする平舞台で、客席も横長に組んである。舞台には5本のマイク、奥の鏡には、透明のビニールで流れる雲のような模様が描かれ、その下に18個の椅子が置かれている。客が席に納まると、男声の場内アナウンス。携帯などの注意事項を聞くともなしに聞く。しばらくすると、妙な具合に言葉が増殖しているのに気が付いた。「奇声はかたくお断りいたします、涙はかたくお断りいたします、カラオケはかたくお断りいたします、ミネラルウォーターはかたくお断りいたします」。ここに至って初めて、これが作品のテキストであることが分かった(後に、作品の自己言及アナウンスであることが判明)。

歌手4名、ダンサー18名がそれぞれマイクとグラスを持って入場する。黒ずくめのパーティ・ドレスやジャケットに、血の気のないグロテスクな化粧。「ヤッポ」の男性4人が、ヴォイス・パーカッションを含むアカペラで全8曲を歌う。その歌に呼応して、ダンサー達は声を出しながら様々なフォーメイションやシチュエーションを作る。合間にアナウンス。ダンサー達の動きは日常的な身振りの延長だった。いわゆるダンス風の動きではなく、声を出す、歌う、歌と連動することが、ンの現在の振付なのだろう。

声と身体の関係は、多くのダンサーが試みるところである。例えばバニョレの先輩、山崎広太は、言語化される前の未分化の言葉を発しながら踊る。あるいは誰かが物語る空間の中で、その言葉に寄り添うように踊る。あるいはポップスの歌詞とユニゾンするように踊る。他者に振り付ける時も同じ。いずれにしても、声と個々の身体の関係は即興的に追求される。

ンの場合は、アカペラという精緻な歌唱形式をバックに、ダンサー達の動きが理性的に統一されている。ダンサー達は動きながら歌を唄い、奇声を発し、男女関係の片鱗を動きでなぞるが、個々の身体がほどけて自らを主張することはない。唯一の例外は、白井さち子によるミネラルウォーターの瓶を持ったソロ。重心の低いなめらかな踊りは、ンの演出を突き抜ける強度があった。

アカペラと協同する公演は、もちろん芸能的な音楽の快楽を伴う。その一つに、中国語と日本語のデュエットがあった。ラウー・チャンと田中蕗子が歌う愛の歌である。日本語は訳詞のはずなのに、なぜか言葉の音がしっくりくる。中国語の意味は分からないのに、二人の濃密な感情のやり取りが伝わってくる。日本語の作詞者は、場内アナウンスと、もう一つのアナウンスのテキストを書いたアーティスティック・アソシエイトの長谷川である。

長谷川のもう一つのアナウンスとは、玉音放送のアレンジだった。「朕」という自称そのままに、男性ダンサーがテキストを読む。聞き覚えのある文章が微妙に編集されている。玉音放送を読む、しかもアレンジされていることに強い衝撃を受けた。ただしその意図は掴めなかった。長谷川の考えが明らかになったのは、振付家音楽監督、出演者全員によるポスト・パフォーマンス・トークにおいてである。

この作品は題名通り、「最後の声」をコンセプトとしている。ダンサー達には、「三日後に声が出なくなったらどうしますか」という課題が与えられ、それぞれの回答を基に作品が作られたことが、トークで分かった。長谷川には、「日本で一番有名なラジオ・アナウンスメント」を基にしたテキストが課された。そして彼は玉音放送を選ぶ。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終わらせた「最後の声」だから。

さらに長谷川はデュエットの訳詞について、驚くべき発言をした。空耳で作ったと言うのだ。『タモリ倶楽部』で有名なあの空耳である。つまりチャンの歌詞を聴いて、その音に近く、内容にふさわしい日本語を当て嵌めて、歌詞を作ったのだ。中国語と日本語のデュエットに違和感がなかったはずである。

香港の振付家が香港のアカペラ・グループを連れてきて、日本人ダンサーとワークショップを行う。そこに日本の場という楔を打ち込んだのが、長谷川だった。作品に自己言及するアナウンスの過剰さ、玉音放送を日本人による一つのテキストとして捉えアレンジする知的度量、空耳で作詞する大胆不敵。そして本人がこれらを当然と見なしていることに、計り知れない才能を感じた。

トーク中、ユーリ・ンは、右足の小指を左足の親指と人差し指で裏返しに挟んで、楽しそうだった(当然裸足)。白井のソロと、この足指のにぎりが、この夜味わった数少ない身体的快楽だった。

「ヤッポシンガーズ」は優れたアカペラ・グループである。ダンス公演と思わなければもっと虚心に音楽を楽しめたかも知れない。アンコールには、中国の歌謡曲を歌った。二胡などの中国楽器を口まねする。それまでのどの曲よりも、心に沁みた。昨年の『Boy Story』再演で見た、中国歌謡でのバーレッスンを思い出す。細胞レヴェルで身体に音が入ってくる様が、二重写しになった。

2015年3月20日、21日昼夜 スタジオアーキタンツ(3月20日取材) 文化庁委託事業「平成26年度文化庁戦略的芸術文化創造推進事業」 振付:ユーリ・ン(伍宇烈)、音楽監督:ウン・チャクイン(伍卓賢)、照明デザイン:瀬戸あずさ、音響:金子伸也、主催:文化庁、株式会社アーキタンツ、制作:株式会社アーキタンツ

 

*本評は、ある媒体用に書いたものだが、諸般の事情でブログに載せることにした。(5/12)

 

★[バレエ]  谷桃子バレエ団『海賊』

谷桃子氏の訃報を聞いた。谷さんの姿を最後にお見かけしたのは、昨年の9月4日。最愛のパートナーだった小林恭氏の葬儀の席だった。全身を振り絞るようにして弔辞を述べられた。美しく気品に満ちた外見からは想像もできないほどの激しい情熱の持ち主だった。舞台は拝見できなかったが、振付作品『ロマンティック組曲』は、『レ・シルフィード』を凌ぐ素晴らしさ。バレエ団のレパートリーに残して欲しい。標記公演をご覧になっていたかどうか。もしご覧になっていたら、永橋あゆみの開花を喜ばれたことと思う。

 

谷桃子バレエ団が待望の新作を発表した。元キーロフ・バレエで活躍したエルダー・アリエフ改訂振付の『海賊』(全二幕)である。監修者イリーナ・コルパコワの強力な推薦によって実現した。

アリエフ版は間奏曲を含め、古典バレエらしい端正な音楽構成が特徴。プティパ振付を残しつつ、余計な枝葉を切り落として、コンラッドとメドーラの愛を中心に据える。一幕ハープとフルートによる叙情的な出会いのパ・ド・ドゥ、「活ける花園」での美しいアダージョ、二幕ハーレムでの切迫したデュエット、洞窟でのクラシカルな「海賊のパ・ド・ドゥ」。どれもが確かなドラマトゥルギーに則って配置されている。「花園」をコンラッドの夢とする設定は、『ラ・バヤデール』と共通、メドーラがジゼルのように去っていく夢の幕切れも、深い余韻を残した。アリエフの美意識、経験が隅々まで生かされた、血の通った改訂だった。

バレエ団はワガノワ仕様に変化。男女共、伸びやかなラインと明確な視線を身に付けて、空間を大きく使っている。バレエ団の長所である芝居心や、コール・ド・バレエの古風な娘らしさも失われていない。最大の成果は、プリマの永橋あゆみが可能性の全てを引き出されて、本来の姿へと辿り着いたことである。

連日メドーラを踊った永橋は、はまり役。美しいラインにエネルギーが宿り、明晰なパが踊りに強度を加える。アリエフの高度な要求によって、永橋の可能性の中心だった気品と豊かな感情の融合が実現された。初日パートナーの今井智也も、役の性根を的確に掴み、自分を超えた挑戦する踊りを見せた。終幕ソロ(通常アリのソロ)も凛々しいまま、コンラッドの踊りだった。永橋二日目のコンラッドは三木雄馬。初日はランケデムで出演したが(二日目は今井)、持ち味の正確で鋭い踊りは、コンラッドの方で発揮された。

もう一組は初日ソワレの檜山和久と佐藤麻利香。序盤は緊張気味で、ドラマを伝えるには至らなかったが、「海賊のパ・ド・ドゥ」で一気にはじける。佐藤のアダージョの気品、加速する回転技が素晴らしい。檜山は雰囲気のあるダンサーだが、コンラッドではなく、アリに見えたのが残念。

ギュリナーラはメドーラの身代わりとなる気の好い女性。連日出演の雨宮準は確かな技術もさることながら、コンラッドと逃げるメドーラを、哀しげに見送る姿が、抜擢の加藤未希は生き生きとした踊りが印象的だった。

イード・パシャ岩上純の音楽的で奇天烈な動き、同じく近藤徹志の太っ腹な滑稽味、芸術監督の齊藤拓を始めとする海賊たちのキャラクター・ダンスも、このバレエ団らしい味わいだった。

河合尚市は舞台に大きく寄り添った指揮で、東京フィルを牽引。弦、管ともに素晴らしく、間奏曲を堪能した。(3月21日昼夜、22日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2948(H27.5.1号)初出(4/28)

 

★[ダンス]  白河直子@笠井叡『今晩は荒れ模様』 (2015年3月26日 世田谷パブリックシアター

舞踏、オイリュトミーを基盤とする笠井叡が、女性ダンサー6人に新作を振り付けた。出演順に黒田育世、寺田みさこ、森下真樹、上村なおか、白河直子、山田せつ子。笠井はプログラムで次のように述べている。「6名はそれぞれの全く異なった感性、才能、資質、身体性、キャリアを有しております。共通しているのは、それぞれが舞台に立つ以前に、そのカラダそれ自体がダンス作品であるという、ダンサー主義の極北にいる人達である、ということです」。

さらに「戦争とは、過去の男性文化の最も醜悪な遺物です。これを乗り越え、歴史に新しい地平を拓くのは、すべての文化、民族をつなぐことの出来る女性の生命的な力であると、私は確信しています」と続く。芸術的意義だけでなく社会的意義を視野に入れることが、今の笠井には重要なのだろう。笠井は冒頭、合間、終幕に登場し、ダンサーを呼び込む狂言廻しを担った。 幕開けは笠井。白スーツで客席右端から颯爽と登場する。回転しては倒れ、中腰で天と地を指さす。膝曲げアラベスク、笑いながらの片脚立ち、その間、歌うように言葉を発する。「頭と太陽は間もなく燃え尽きるでしょう、黒い太陽が輝き始めるでしょう、白は黒です、闇は闇、黒は黒だ、いくよー」と、最後は駄洒落で締めて、客席左端に座った。それに応えて、黒い皮の胸当てに黒チュチュ、裸足の黒田育世が、ハイハイしながら奥から出てくる。

黒田はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番1楽章をバックに、力一杯踊り始めた。笠井が冒頭に見せたものと同じ振りを見せる。天と地を分離させる仕草、中腰アラベスク、中腰アチチュードなど。黒田は内股でクラシックのパを力みかえって実行する。カエル手の突っ張り、裸足のスタンピングが、相撲の四股や歌舞伎の荒事を思わせる。相撲取りのような力みが、笠井の黒田解釈なのだろう。

ラフマニノフの叙情的な2楽章は、寺田みさこに捧げられた。肌色のレオタード、銀のTバック、銀のトウシューズを身に付け、生まれたての子鹿のような体を晒す。ルルヴェがこれほど繊細に、また永遠を思わせる時間の中で行われたことがあっただろうか。立ち上がることの奇跡。クラシカルに分割された美しい体に、舞踏という細胞液が満たされて、寺田本来の姿が顕現する。舞踏への捧げ物だった。

3楽章は黒田と、水色のドレスに裸足となった寺田が絡む。黒田の力感と寺田の体の美しさ。油と水、黒い太陽と月。同じクラシック・バレエから始まった肉体の彫琢が、これほど違う体を生み出すとは。ラフマニノフの有名なメロディが寺田の肢体にまとわりついて、東洋的な妖しさを舞台に充満させる。笠井の思考の現在性を覗わせる強烈なデュオだった。

続いて森下真樹と上村なおかが登場。水色と金、水色とピンクの宇宙服のようなお揃いを着て、シュニトケ弦楽四重奏を踊る。シンメトリーの位置関係を多用し、同じ振りを当てたのは、二人が似通った容貌の持ち主だからだろう。ただし個性は対照的。直線的で太棹のような森下と、ニュアンスの色濃い細棹の上村。同じ振りを踊ることで、却って個性が浮き彫りになった。黒田と寺田が笠井の振付を「生きた」のに対し、この二人は振付を忠実に実行する。笠井の振付意図が前面に出た、抽象性の高いデュオだった。

そして満を持してのプリマ登場。薄紫のライトに照らされ、ドレス姿の白河直子が現れる。笠井のアンシェヌマンが見られるが、全く異次元の踊り。研ぎ澄まされた美しい腕、鍛え抜かれた筋肉質の体が、大島早紀子と共に作り上げた呼吸法によって突き動かされ、一気に異空間を作り出す。音楽はマーラー交響曲第5番1楽章、葬送行進曲。白河の全身全霊を傾けた音楽への深い感応が、マーラーの持つ人間存在の苦悩を白い炎のように噴出させた。笠井は白河にのみ、逆光ライトを与えている。何もかも捨て去った剥き出しの生、捧げ尽くす体、犠牲の子羊がそこにいた。

最後はベテラン山田せつ子。銀のおかっぱに白ワンピース姿で登場する。ノイズやピアノ、水滴音(音楽:かしわだいすけ)をバックに、自分の中の少女を愛おしむように踊る。笠井の振付が識別できないほど自然だった。少し自意識が匂ったが、笠井とのデュオになると外向きに変わる。笠井が山田の腹を背後から触れた途端、一気にエネルギーが外に出た。笠井は青年、山田は少女。時空を超えた無垢なデュオである。シューベルトの『冬の旅』終曲で再びソロに。少女の一人遊びがシルエットとなって大きく映し出される。最後は自ら影となり、奥へとゆっくり歩いていった。

大団円はM・トランスのシンセサイザー曲。笠井は赤いチュチュに頭飾り、チュール付きのサンバ風衣裳でノリノリの踊り。6吊りの袖幕から出演者が登場し、ハチャメチャに踊って幕となった。笠井の振付を、出自の異なる6つの体が取り入れては押し戻す実験的作品。最も激しい化学反応を起こしたのは、寺田みさこだった。ダンス・クラシックの無意識の体を、笠井が念入りに耕したかに見える。舞踏にとって新たなヴィーナスの誕生だった。

2015年3月26、27、28、29日 世田谷パブリックシアター 構成・演出・振付:笠井叡、衣裳:萩野緑、照明:森下泰、サウンドオペレーター:角田寛生、音響技術:尾崎弘征、舞台監督:寅川英司、制作:髙樹光一郎、プロデューサー:笠井久子、主催:一般社団法人天使館、提携:公益財団法人せたがや文化財団、世田谷パブリックシアター、後援:世田谷区  *『ダンスワーク』70(2015夏号)初出(7/26)

 

★[バレエ]  杉昌郎・関直人『ゆきひめ』@井上バレエ団「アネックスシアター」

杉昌郎・関直人振付の『ゆきひめ』を見た(4月4、5日 世田谷パブリックシアター)。小泉八雲の『雪女』を基に、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の1幕前奏曲と「愛の死」を用いた1幕物。井上バレエ団創立者井上博文が72年、杉昌郎に日舞版のバレエ・ブランを依頼。初演は若者のみがバレエダンサーだった。83年に関直人がバレエ版を作り、その後、ゆきひめのみを日本舞踊家が踊る版も作られた。今回はバレエ版で、初日ゆきひめが日本舞踊家の花柳和あやき、二日目が田中りな、若者は両日とも荒井成也が踊った。

冒頭、両手から、白い半透明の「かつぎ」をかぶったロマンティック・チュチュの雪の精たちが入ってくる。二人、三人と、一見ランダムに入るように見えて、ここしかないというタイミング、場所で止まる(日舞のフォーメイション風)。また一斉に「かつぎ」を翻して諸肌を見せたり、「かつぎ」を広げて壁を作ったりと、日舞の衣装遣いが見え隠れする。音楽と振りの関係も、リズムを逐一合わせるのではなく、楽想と感情を合わせる日舞風のやり方。バレエ版には日舞版のニュアンスがかなり入っているように思われる。

一方、ワーグナーの濃密な音楽を完全に使い切ることができたのは、関の抜きんでた音楽性によるものだろう(日舞版は未見だが)。音楽を体に入れると、自然に振付・フォーメイションがこぼれ出る。井上博文の実験性とバレエ・ブランという、バレエ団のアイデンティティに深く関わる優れたレパートリーだった。

初日ゆきひめの和あやきは高密度の踊り。切り詰められた動きで感情の襞を表す。一つの手に無数の動きが集約されているのが分かる。若者を取り殺そうとした時の晴れやかなフォルム、若者が雪女のことを口にした時の体の豹変。カーテンコールまで緊密な体だった。二日目の田中は精霊風の造形だったが、ゆきひめの凄みを出すには若過ぎたかもしれない。

一方、若者の荒井が新境地を拓いた。もともと技巧派として活躍していたが、これほど濃厚なパトスを出せるとは思わなかった。関直伝の正統派ダンスール・ノーブル。あくまで女性を立てるあり方は、現在ではほとんど見ることができない(NYCBには残っている、国内ではこの間まで齊藤拓で見られた)。伝統的な様式として受け継いで欲しい。(4/11)

 

★[バレエ]  コデマリスタジオ第50回「コデマリコンサート」

コデマリスタジオ恒例の「コデマリコンサート」が、第50回を迎えた。第一部は『くるみ割り人形』。スタジオ主宰の大竹みかが師と仰ぐ、貝谷八百子ゆかりの演目である。第二部は小品を集めたコンサート。最後はレハールの『メリー・ウイドウ』を用いた『ジョイフル・ウイドウ』で、記念の会を締め括った。

第一部の『くるみ割り人形』は「クララの夢」と題し、真夜中の「戦い」から「雪の国」、「お菓子の国」、「終曲」まで、クララの経験を軸に描いていく。曲順を入れ換えるなど変更もあるが、音楽的には自然な仕上がりだった。

ドロッセルマイヤーには大竹の盟友、吉田隆俊を迎え、スタジオ生や貝谷の学園生、系列の生徒たちが総出演。幼児から大人まで、日頃の成果を精一杯披露するなか、吉田が悠々と舞台を仕切り、安藤雅孝、長谷川秀介、新井光紀、増田真也の常連ゲスト陣が献身的に脇を支えた。場をさらったのが、ねずみの看護婦さんの大竹。少しの登場で舞台が華やいだ。

第二部コンサートは9曲。大竹の新作は、ヴィヴァルディの『四季』による『ヴァイオリン・コンチェルト』だった。白いドレスの女性6人が、牧歌的な喜び、嵐のような激しさ、清澄な祈りを踊り継ぐ。振付、フォーメイションは音楽と完全に一致、さらに新鮮な感触を加えている。大竹固有の深い音楽性の表れだった。河邊優、壁谷まりえが、振付の勘所をよく伝えている。

5曲振付の安藤は、様々な人間模様を巧みに描き分けたが、幕開けの『大地の果てから』が野心作。白いドレスの大竹が、安藤、長谷川、新井、増田を従えて踊る。安藤が大竹を激しくリフトし、ソリッドでモダンなテイストの大竹像を見せることに成功した。

スタジオ出身の千田郁子による超セクシーな一人ルンバ、竹澤薫と竹原弘将による濃厚なアルゼンチンタンゴ、そして竹原を二人が取り合うカーテンコールは、粋な大人の味わい。コデマリスタジオの個性の一端である。

コンサートの締めは、大竹の思い入れ深い『ジョイフル・ウイドウ』。愛らしい未亡人を大竹、友人のマルグリートには懐の深い吉田が女装で扮する。共に気品のある舞台姿である。有名な「ヴィリアの歌」を大竹利一が熱唱し、教え子の秦万実がマミーナ役を情感たっぷりに演じた。最後は、民族衣裳を着たチャルダッシュの子ども達、出演者全員が大竹を囲んで、華やかな幕切れとなった。(4月5日 メルパルクホール) *『音楽舞踊新聞』No.2949(H27.6.1号)初出(6/2)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『こうもり』

新国立劇場バレエ団がローラン・プティの傑作『こうもり』(79年、02年団初演)を上演した。今回で5度目。3人の芸術監督が導入・選択したことになる。ヨハン・シュトラウスの幸福な音楽(編曲 ダグラス・ガムレイ)を、隈無く振り付けられる人間はプティ以外にいないだろう。音楽に貴賤なしを実践し、破天荒な振付を平気でやってのける点は、バランシンと双璧である。

主役キャストは4組。そのいずれもが魅力的な組み合わせだった。ベラ役初日の小野絢子は、生来のユーモア、気っ風の良さを前面に出したアプローチ。プティの語法を誰よりも正確に視覚化する一方で、そのあり方は、3月のオーロラ姫と同様、シンボル、イコンと化している。ヌードのパ・ド・ドゥは舞踊への供物そのもの。存在の凄みを感じさせた。前監督の予言を、現監督が実現させた形だ。

ヨハンはABTのエルマン・コルネホ。小野のラインを出すにはやや小柄だったが、マキシムの迫力あるソロ、マチズモ全開による異物感は刺激的だった。ウルリックには驚きの福岡雄大。最終日にはヨハンを演じ、三枚目と二枚目を演じ分ける成熟を見せた。前者では小野、後者では引退する湯川麻美子に、全力で献身した。踊りの精度、覇気も素晴らしく、何よりも苦み走ったいい男だった。

第二キャストの米沢唯はコミカルでアットホームな雰囲気。メイド今村美由起との電話コントは、抱腹絶倒だった。菅野英男の亭主関白(はまり役)にも、「仕方がない」とあきらめムード。パ・ド・ドゥはアヴァンチュールというよりも、母性的な優しさにあふれる。観客を引き込む、共感力の高い舞台だった。

第三キャストの本島美和は、成熟した人妻の魅力。クールな年下夫の井澤駿に、切ない投げキッスを送る。パ・ド・ドゥでは豪華な肢体にフランス風エレガンスを漂わせた。井澤は高い技術と美しいラインを駆使したソロ、安定したサポートが魅力。ウルリックは人間味あふれる福田圭吾が、持ち味を発揮した。

最終日は湯川の引退公演。福岡ヨハンに、超絶技巧ウルリックの八幡顕光が加わり、最後の舞台を盛り立てた。湯川は演じるのではなく、そこに存在した。パ・ド・ドゥの振り一つ一つを味わうように踊る。ヨハンを操る手つきは最小限。福岡が喜んで跳んで回って、それに応える。指揮者のアレッサンドロ・フェラーリも、湯川の全身全霊を傾けた踊りを感じ取り、渾身のクライマックスを贐に捧げた。

湯川はフォルトゥナ、『E=mc2』の巫女、『アポロ』のレト、『パゴダの王子』のエピーヌと、ビントレー時代に大きく開花した。ベラ役で示した舞台を背負う気概、責任感は、後輩への遺言である。

寺田亜沙子のクールでモダン、今村のコミカル、益田裕子の初々しさと、メイドは3者とも演技を見る喜びがあった。ギャルソン、踊り子、チャルダッシュ、警察署長、黒髪・燕尾服の男性陣、ドレス姿の女性陣、仮面舞踏会と、一コマ一コマが楽しく、音楽の喜びを伝えている。

フェラーリは、素晴らしい序曲で観客をハレの世界に引き入れる。シュトラウスの粋な味わいを東京フィルから引き出し、舞台への愛情も兼ね備えた指揮者だった。(4月21、25昼夜、26日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2950(H27.6.15号)初出(6/15)

 

★[コンサート][ダンス]  佐藤俊介萩原麻未@「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2015」

佐藤俊介(ヴァイオリン)と萩原麻未(ピアノ)を標記音楽祭で聴いた。共演した訳ではなく、別個の公演。前者はバッハの『ヴァイオリン協奏曲第2番』と『2つのヴァイオリンのための協奏曲』、後者はラヴェルの『高貴で感傷的なワルツ』『ラ・ヴァルス』と、ジェフスキの『ウィンズボロ・コットン・ミル・ブルース』(5月2、4日 東京国際フォーラムB7、G409)。両者ともダンサーに匹敵する身体性の持ち主だった。

佐藤は今年2月、柳本雅寛と組んだ動き回るコンサートを聴いて(見て)驚いたばかり。柳本に引っ張られたり、寝転がったりしても音程が崩れない。子供の頃から歩きながら練習していた(←叱られていた)成果とのこと。体幹がしっかりしていて全身の力が抜けているので、運弓がダンスのように見える。こちらの体もほぐれる。今回はオーヴェルニュ室内管弦楽団との共演だが、指揮者がいるのに、後ろを振り向いて、団員と濃密なコンタクトを取っていた。コンチェルト・ケルンとオランダ・バッハ協会のコンマスをしているので、その癖が出たのだろうか。違う気がする。コンタクトを取りたい人。『2つの』ではイレーヌ・ドゥヴァルと共演したが、まだ学生の彼女を指導しているように見えた(彼女がまたガチガチのフォーム)。いずれも超絶技巧を駆使しているのに、これ見よがしではなく、一陣の風が吹き抜けたような演奏。バロックの装飾音符が、ジャズの即興のように、みずみずしいエネルギーを帯びて生み出される。つまり固定化された名演奏を目指していない。その時その場にいる人々と、音楽を分かち合いたいだけなのだ。自然体のステージマナーを見て、なぜか熊川哲也を思い出した。嘘がつけないタイプ。超絶技巧が何かに捧げられているという点で。

萩原は狭い空間だったので、ラヴェルの繊細なワルツよりもジェフスキの肘打ち奏法が合っていた(音がワンワンしてラヴェルに聞こえなかった)。座席が萩原の背後だったため、ジェフスキの串団子が延々並んでいるような譜面と、萩原の肘打ちをしっかり見ることができた。綿工場で働く労働者のブルース。機械音を和音の強打で表し、時折肘打ち奏法で轟音を作る。見ていて、黒田育世を思い出した。裸足でスタンピングし、四肢を突っ張らかす黒田。自分の脚を蹴り続ける黒田と、子供の頃、親が止めるまでピアノを弾き続けていた萩原が重なる。弾きたい、打ちたいという萩原の思いのみが後に残った演奏。(5/19)

 

★[ダンス]  アキコ・カンダダンスカンパニー「連星」

標記公演を見た(5月9日 東京劇術劇場シアターイースト)。アキコ・カンダというカリスマ・ダンサーの亡きあと、カンパニーはグレアム・メソッドを駆使する創作集団に戻った。特に市川紅美作品は、グレアムの語彙が明確で、エッジの効いた動きが特徴。音楽性にも優れる。アキコの情感や抒情性に傾いた作風は、グレアム影響下から脱して、独自の道を歩んできた結果だが、市川作品は、グレアムの普遍性に触れようとする。その語彙の神秘的な魔力。踊る女性たちが巫女に見える。原初的な祭儀性ではなく、深層心理のようなモダンな祭儀性だが。 ダンサーたちはベテランから中堅まで登場。市川作品はハードなので、踊り切れないベテラン勢もいるが、それでいいのだろう。つまり作品の完成度よりも、全員が踊ることに意味があるのだろう。

 

★[ダンス]  国立劇場「能狂言の舞踊」

標記公演を見た(5月23日 国立劇場)。五耀會のメンバー、西川箕乃助、花柳寿楽、花柳基、藤間蘭黄、山村友五郎が出演、女優の鈴木保奈美がナビゲーターを務めた。鈴木はこの5年ほど、西川流を習っているとのこと。アフタートークの司会ぶりから、芸(術)の目利きであり、信奉者であることが分かった。

これまで見た五耀會の公演は、流派の越境に面白みがあったが、今回はその家に伝わる真っ向、正攻法の演目を並べた。結果、5人の個性が際立つ公演になった。

出演順に、山村友五郎は地唄『菊慈童』(山村愛伝承)。能の『枕慈童』を原典とした義太夫節(1756)を、地唄に移したもので、後半になぜか傾城の口説きが入る。歌詞や振りのテクスト比較はできないので、単にダンスとして見た訳だが、舞踏に近かった。腰を落としたまま舞う。体全体が撓んで、長身の友五郎がそうとは見えない。ほとんど同位置を保ったまま、体の質を変えるだけで異空間を作る。もし座敷で見たら(そんな贅沢なことはありえないが)、体ごと持って行かれるだろう。不思議な腰だった。

西川箕乃助は長唄『七騎落』。能の同名曲を基にした西川扇藏による創作物(1984)である。物語は古今変わらない日本人の心情に沿ったものだが、現代風に男性群舞があり、美術も抽象化されて、観客の想像力を刺激する。西川流の実力者たちの中に一人、藤間流の蘭黄が頼朝で入った。興味深かったのが、實平の箕乃助と蘭黄が主従ユニゾンを踊る場面。西川流のコンパクトで求心的な見えに対し、藤間流の見えは華やかでオーラが広がる。バレエで言えば、デンマーク派対ロシア派。ついでにブルノンヴィル(デンマーク)の細かい技巧は、花柳流だろうか。

花柳寿楽長唄『釣狐』。狂言の同名曲を基に二世壽楽が振付をした(1960)。歌舞伎舞踊の「釣狐物」とは異なり、九世三宅藤九郎から狐の技を学んだとのこと。これまで見た寿楽は、しっとりした二枚目を控えめに演じる、だったが、今回は面を付けて、杖を突く老僧となり、端々に狐の軽やかな身振りと口跡を示す熟練の舞踊手だった。体全体から飄々とした滑稽味と哀愁を漂わせる。陶然とした。

花柳基は常盤津長唄『身替座禅』。狂言『花子』を藤間勘右衛門が振付、1909年に六代目尾上菊五郎と七代目坂東三津五郎で初演された。運動神経抜群の基の右京と、蘭黄の玉の井ははまり役。蘭黄は立役の凄みを垣間見せながら、情が深く嫉妬深い奥方を大きく演じた。頼朝では気品が勝り、近代的自我を感じさせたのと対照的。本来は情念の人なのかも知れない。もし山村流を踊ったらどうなるだろうか。

最後は5人全員で清元『蜻蛉洲祭暦』。先ごろ急逝した藤間蘭景のために、1979年に書き下ろされた作品で、神世から現在までの日本の祭りを写実的に描く。5人のしめやかな踊りが蘭景を偲ぶようだった。

日本舞踊の普及を目指しているのか、字幕付きだったが、『菊慈童』では字幕を見ることができなかった。体を注視しなければならなかったから。他の作品で見ることができたのは、演劇性が強かったからだろうか。(5/26)

★[ダンス][その他]  第5回全日本健身気功・太極拳練功大会

標記大会に参加した(5月28日 国立競技場代々木第二体育館)。区立体育館で教わっている先生関連の大会。もちろん団体出演で、200名ぐらいが24式太極拳を行う、そのうちの一人。片脚立ちが上手くいかなかった。

出演した後は、観客席で様々な団体の演技を見た。太極拳は360度回るので、円形競技場のどこからでも見られる。大体一人二人練達者がいて、その人を見たり、技の違いを見たりした。最後に中国人老師の表演があった。北京体育大学の教授や大学院生、日本で長年指導している先生が、気功や太極拳を見せる。大学教授は確かに行き届いて巧いと思うが、ダンスとしては、日本で指導している陳ソン先生の太極拳が素晴らしかった。広い空間を飄々とあやつり、360度に清潔な気をまき散らす。見た後は、おいしい物を食べた気分になった。

この丸い空間に置いてみたいと思ったのは、先日見た、日舞の山村友五郎、舞踏の山崎広太、鈴木ユキオ。彼らには正面性があるので360度とは行かないかもしれないが、色んな気を発すると思う。

昨年、全日本武術太極拳選手権大会を見た際、長拳南拳といった超絶技巧駆使の派手な拳より、自選太極拳の方が、最終的には面白いと思った。創作舞踊のようにその人となりが滲み出る。最後は悟りの境地に至るのだろう。(5/30)

 

★[オペラ]  カイヤ・サーリアホ『遥かなる愛』 (演奏会形式)

標記公演を聴いた(5月28日 東京オペラシティコンサートホール)。東京オペラシティ同時代音楽企画「コンポージアム2015」の一環。なぜ聴こうと思ったかと言うと、女性作曲家であることが一つ。もう一つは、6月に同じフィンランドのテロ・サーリネンのダンス公演を見るから(エサ=ペッカ・サロネンの楽曲使用)。ついでにフィンランドを代表する女性画家ヘレン・シャルフベックの展覧会にも行くことになった。

『遥かなる愛』は2000年、ジェラール・モルティエの依頼によりザルツブルグ音楽祭で初演された。題材は12・13世紀フランスの「遥かなる愛」伝説。オック語で愛の詩を綴るトルバドゥールの一人、ジョフレ・リュデルの物語である。筋書きを読んだとき、トルバドゥールや十字軍が出てくるので『ライモンダ』を思い出した。あと『トリスタンとイゾルデ』も。

リュデルはバリトン、愛の対象クレマンスはソプラノ、二人を繋ぐ巡礼の旅人はメゾ・ソプラノが歌う。演奏会形式なので映像のみの演出(ジャン・バティスト・バリエール)。チェス盤やイスラム幾何学模様にモザイクをかけ、歌手の顔を同時撮影して組み合わせる。渦巻き状で切れ目のない神秘的な音楽と、ピタリと同期する。東京交響楽団と東京混声合唱団の生音に、エレクトロニクスを絡めているらしいが、よく分からなかった。ただ一か所、巡礼の旅人が歌うリュデル作詞の愛の歌が、妙にビブラートがかかって鮮烈な印象を残した(エレクトロニクス?)。これがオペラの原型となった『遠ク』だろうか。『遥かなる愛』の4年前に初演された女声とエレクトロニクスの曲で、オック語で歌わせ、その仏訳と英訳の語りを電子的に操作して、原詩を包むオーラのように響かせた、らしい(プログラム)。

指揮はエルネスト・マルティネス=イスキエルド、バリトンは与那城敬、ソプラノは林正子、メゾは池田香織。与那城は、トルバドゥールで領主という役どころや音楽の質を、あまり理解していないようだった。林は神秘的というよりも情熱的、池田は音楽をよく理解していた(サーリアホを聴いたことがないのに、なぜ言えるのだろう、舞台芸術の不思議)。 同じ演奏会形式でもよいから、歌手を揃えて、もう一度聴いてみたい。(6/2)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖

新国立劇場バレエ団が、大原永子芸術監督就任シーズン、最後の演目を上演した。06年初演、7回目の牧阿佐美版『白鳥の湖』(K・セルゲイエフ版に基づく)である。大原監督は古典バレエへの回帰と共に、演劇性重視を指導の要としてきた。今回の『白鳥』では、古典様式、民族舞踊、マイムがかつてなく行き届き、薫陶の成果を覗わせている。3人のオデット=オディールも、それぞれ和風、西欧風、ロシア派と、個性を十全に発揮、若手の台頭も知らしめた充実の舞台だった。

初日の米沢唯は、役を考え抜いた上でその場を生きるタイプ。オデットは当初、何を目指しているのかよく分からなかったが、悪そのものであるオディール造型、ロートバルト死後に見せた、憑き物が落ちたような表情から、悪魔によって白鳥に変えられた人間の苦しみを、身体的に生きていたのだと分かった。破格のアプローチだが、有無を言わさぬ思考の強度と、それを実行する熱量の高さがある。

二日目の小野絢子は叙情的な白鳥、気品あふれる妖艶な黒鳥を的確に演じ分けた上で、さらに運動的快楽をも供給する。パートナーの福岡雄大と共に、古典バレエの様式性、演劇性、パの純度を追求するいわば求道者。時に「きっちり」という声が聞こえる部分もあったが、古典ダンサーとして王道を歩んでいる。

最終日の長田佳世は白鳥を踊るための四肢を備えたダンサー。美しい腕が繰り出す柔らかな羽ばたき、完璧に意識化された脚が永遠のアラベスクを描き出す。バレエを神聖なものとするロシアの教育に、長田の誠実さが合致して、宗教性を漂わせる舞台を作り上げた。

王子はそれぞれ、英国ロイヤル・バレエのワディム・ムンタギロフ、福岡、奥村康祐。ムンタギロフは、ロシアの身体に英国の教育が施された理想的なダンスール・ノーブル。自然体の演技、規範に則った踊りが素晴らしい。米沢に呼応することはできなかったが、一貫した役作りだった。

福岡は今回、優雅だった。心得た演技、正確な美しいソロで、責任感あふれる突き詰めた舞台を見せた。一方、奥村は前回よりもさらに若く、夢見がちになった。ロマンティックな資質を強調したのだろうか。

ロートバルトは演技派3人。貝川鐵夫のダイナミズム、輪島拓也の熱血、古川和則の哲学者のような威厳と、個性を楽しませた。特に古川の立体的な役作りは、牧版の弱点を補っている。例によって道化の八幡顕光、福田圭吾、小野寺雄が、音楽的超絶技巧、人間的な暖かさ、洗練された演技と踊りで、宮廷場面を献身的に支えた。

ベテランでは、チャルダッシュの大和雅美、丸尾孝子、トレウバエフ、貝川が豊かな味わい。大和はさらに、小さい4羽の白鳥を率いて音楽的なアンサンブルを作り出した。ナポリ・江本拓の美しい脚技、家庭教師・内藤博の老練な演技も素晴らしい。

若手では、井澤駿の華麗な踊り、池田武志の覇気ある踊り、柴山紗帆の品格ある踊り、また来季入団する木村優里の大物ぶりが印象深い。

演奏は東京フィル。熱血アレクセイ・バクランが全力で指揮をしたが、残念ながら、『白鳥』の華であるオーボエ、さらに金管も不調。余程の過密スケジュールなのだろうか。(6月10、11、14日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2952(H27.7.15号)初出(7/15)

 

★[ダンス][バレエ]  NBAバレエ団『HIBARI』

標記公演を見た(6月13日 メルパルクホール)。美空ひばりの生涯を、ダンス、歌、ナレーション、芝居、生前の映像で綴る。『悲しき口笛』、『リンゴ追分』から、『真赤な太陽』、『悲しい酒』、『愛燦燦』、『人生一路』など、最後に『川の流れのように』でカーテンコールが行われた。全15曲、1時間10分の作品。

美空ファンが駆けつけているのか、映像に対して、拍手と合いの手のような歓声が上がる。その異様な興奮の中で、和央が宝塚仕込みのスレンダーな姿態で、凛々しいナレーションと歌を、バレエ団がダンスと芝居を見せる。リン・テイラー・コーベットの構成・演出は、映像の使い方など、こなれていて巧み。但し、振付はオリジナリティを追求する方向にはなく、ダンスのみを取り出すと物足りなさが残る。音楽解釈の反映も、もっとあってしかるべきと思う。しかし作品全体から、誠実さ、真摯さといったコーベットの資質が感じられて、胸が熱くなった。ダンサーも適材適所で使われている。特に『悲しい酒』の関口祐美、『愛燦燦』の大森康正は、本来の美質が十全に生かされている。何よりも、コーベットが関口を見出したことが嬉しい。

カーテンコールで観客は総立ちになった。必ずしも美空ファンではないような。昨年の『ドラキュラ』でも総立ちだったが、その客が付いているのだろうか。だとしたら、久保綋一芸術監督の力である。 帰り道、清々しい気持ちで大門まで歩いた。ダンサー達が、日本人として当然踊るべき曲を踊り、個々の持てる力を発揮していたから。全国ツアーを組めばいいと思う。(6/15)

 

★[バレエ]  バレエシャンブルウエスト「トリプル・ビル」

バレエシャンブルウエストが第74回定期公演を行なった。昨年に続き、船木城の創作を含むトリプル・ビルである。

幕開けの船木振付『Thousand Knives』(11年)は、12年にNBAバレエ団でも上演された作品。坂本龍一のアジア的な音楽に、今回はスタイリッシュな照明(成瀬一裕・あかり組)と衣裳(萩野緑)が加わり、よりネオクラシカルな色彩を深めている。主役を踊った山本帆介(サンフランシスコ・バレエ団)の成熟した男の魅力、力強く美しいラインが作品を牽引。土方一生の若々しく切れ味鋭いパ、松村里沙のハードな味わい、楠田智沙の厚みも際立った。バレエ団がレパートリー化しうる完成された作品である。

第二部は『海賊』より「花園」(振付・今村博明、川口ゆり子)。オダリスクの踊りを加え、バレエ団女性陣の実力を披露する構成である。メドーラの橋本尚美は気品に満ちたエポールマンで、古典のあるべき姿を伝える。回転技には少し苦しんだが、一つ一つのパに涼やかなきらめきがあった。ギュリナーラ・深沢祥子の美しさも健在。オダリスク・藤吉千草の風格、斉藤菜々美の切れ、柴田実樹の伸びやかなラインと行き届いた踊り、さらにスタイルの統一された誠実なアンサンブルが、バレエ団の育成力を物語っていた。

最後は船木の新作『Tale』(40分)。昨年の『カウンターハートビーツ』は作家性を前面に出し、バレエ団を使ったという印象だったが、今回はダンサーのために振り付けている。さらに大ベテランの今村と川口を中心に据えたことで、作品に幅と奥行きがもたらされた。翻って、弟子に新作を振り付けられた二人は、師匠冥利に尽きるだろう。

7場のうち最も心に刻まれたのは、やはり川口の踊りだった。今村と少し組んだ後、正木亮とエック風のデュオを踊る(音楽・ペルト)。逆さになって脚を開閉しながらリフトされる姿が新鮮だった。エックのデュオが孤独と絶望に彩られるのに対し、船木のデュオには、郷愁やものの哀れといった自然と密着した感情が伴う。川口の少女を思わせる透明感と、風にそよぐような受け身の身体性が、或いはそう思わせたのかも知れない。

一方今村は、教え子の吉本泰久、土方とのユニゾンで、抜きん出て美しい踊りを披露した。終幕には、ダンサー一人一人に抱きとめられながら、最後には川口と出会う、オルフェオのような劇的歩行を見せている。

高山優と山本による叙情的な白鳥風デュオ、松村とジョン・ヘンリー・リードによるハードな黒鳥風デュオ、楠田と男性3人による激しいカルテットと、表情の異なる力強い振付が並ぶ。バレエ団にコンテンポラリー・バレエ作品を提供できる振付家が誕生した。(6月20日 オリンパスホール八王子) *『音楽舞踊新聞』N0.2952(H27.7.15号)初出(7/15)

 

★[ダンス]  テロ・サーリネン・カンパニー『MORPHED』

標記公演を見た(6月21日 彩の国さいたま芸術劇場)。昨年、埼玉舞踊協会の招きで、日本人ダンサーに新作を振り付けたテロ・サーリネンが、自らのカンパニーを率いて来日した。作品は同じく2014年初演。特権的なダンサーのソロに緻密な群舞、フォーメイションを付けるという点では共通するが、埼玉舞踊協会の場合は、東洋的身体(舞踏、推手)や、アフリカン・ダンスのような足踏みなど、土俗的な要素が多く含まれていた。

今回は、まずエサ=ペッカ・サロネンの音楽があった。『無伴奏ホルンのための演奏会用練習曲』(00年)、『フォーリン・ボディーズ』(01年)、『バイオリン協奏曲』(09年)。直球正攻法、清潔で凛々しい。初演時には作曲家の指揮で、生演奏されたとのこと。恐らくは全く異なるダンス受容体験になっただろう。今回はCD録音という完璧な演奏、アンプを通しての音量のため、音楽の存在感がダンスを圧倒する場面が多かった。

ダンサーは男性8人。異なる出自とのことで、振付語彙が特別のジャンルを思わせることはない。冒頭は歩行。4重の正方形を互い違いに2人づつ歩く。シモテに中心を移したり、斜めの変形を作ったり。ポストパフォーマンス・トークで、曼荼羅を描いていたと分かった。僧侶やビジネスマンの歩行と言っていたが、実際には兵隊か服役囚のように見えた。さらに時計の針のような隊形を作ったり、三方に垂らされた太いロープと絡んだり。時々細かなフォーメイションを作ってハッとさせたり(通常は作り込まないようなところで)。

ロープで群舞、というと先例があるが、サーリネンのロープは太く実直。船や海を思わせる。同じく振付も真っ直ぐ。クールであることに価値を置いていない。農作業が、最後には神事に至るような感じ。

ダンサーたちはマッチョな外見だが、静かな印象がある。汗の匂いがしない。男性性からの解放が着地点だから? それともサーリネンの特徴? それともフィンランドの土地柄?

最初に白のベストになったユッシ・ノウシアイネンの、深い精神性を思わせる武術家のようなソロ、鳶色の長いソバージュ頭でブリッジをした、ペッカ・ロウヒオの実存的ソロが素晴らしかった。二人のクリエイティヴな踊りが、唯一音楽と拮抗している。

サーリネンの才能を感じさせた、と言うよりも、サーリネンの思いを受け取った公演。(6/23)

 

★[バレエ]  東京小牧バレエ団「スター・ガラ2015」

東京小牧バレエ団がボストン・バレエの精鋭を招いて、「スター・ガラ2015」を開催した。バレエ団の常連ゲストで、ボストン・バレエ所属のアルタンフヤグ・ドゥガラーと、菊池宗団長のプロデュースによる。

第一部は『ジゼル』第二幕。佐々保樹の演出・振付は、プティパに遡る物語性を有していた。形骸化した振付に、本来の言葉を蘇らせている。ミルタが十字架を怖れる場面、ウィリの対角フォーメイションが鮮烈だったが、特にアルブレヒトの終幕は、深い嘆きを感じさせて、他版にはない説得力があった。佐々は優れた黒鳥のパ・ダクションも振り付けている。古典バレエの物語性に光を当てる貴重な上演だった。

ジゼルにはボストン・バレエのプリンシパル、倉永美沙。艶のある体に柔らかな腕使いで、コケティッシュな魅力を発散させた。アントルシャの力強さ、跳躍の鋭さも素晴らしい。アルブレヒトはドゥガラー。少しナルシスティックに見えたが、ノーブルな官能性を漂わせた。

ミルタの市河里恵も、長年ボストンで活躍。死霊にしてはやや情熱的に過ぎると思われたが、ダイナミックな個性を十全に発揮した。ドゥ・ウィリの長者完奈と金子綾が、消え入るようなラインでバレエ団の長所を体現。ウィリたちは団員とオーディション選抜者の混合のため、スタイルの統一には至らなかったが、密やかな佇まいは共有していた。

第二部はコンサート形式。『海賊』パ・ド・トロワ、『ラ・バヤデール』パ・ド・ドゥ、『ドン・キホーテ』グラン・パ・ド・ドゥと、ヴァル・カニパロリ、ユーリ・ヤノウスキー、ジェフリー・シリオによる創作5曲。古典では、『ドン・キホーテ』を溌剌と踊った倉永と、同じく超絶技巧を控え目に見せたシリオが、圧倒的な存在感を示した。創作ではシリオの2作。自身が踊った武術家のようなソロ、ドゥガラーの官能性を引き立てる『of Trial』が印象深い。

人種、体型、舞踊スタイルの異なる10人が、情熱を込めて踊り継いだ一時間半。人種の坩堝ならではの実験性、新しいスタイルの導入などを目前にできたアット・ホームなコンサートだった。(6月26日 新宿文化センター) *『音楽舞踊新聞』No.2952(H27.7.15号)初出(7/15)

 

 

★[オペラ][バレエ]  NISSAY OPERA 2015 ロッシーニランスへの旅

標記公演を聴いた(7月3日 日生劇場)。ロッシーニが好きで、アルベルト・ゼッダ(先生)の軽やかで生命力あふれる指揮が好きだから。ロッシーニの、近代的自我や自己表現などを突き抜けた超絶技巧、人生の肯定感は、バレエのブルノンヴィル作品と共通する。アジリタ駆使の超絶歌唱は、プリパレーションなしのブルノンヴィル・ソロと同じ。正確な技術がなければ、歌(踊り)にならないところも。

ランスへの旅』のゼッダ先生の解説。「この困難極まりないオペラを演奏できるキャストを集めるには、2つのやり方がある。世界中から選り抜きのロッシーニ歌手を集結させるか、或いはこのスコアを前に、延々と共に稽古をする覚悟のある若い歌手たちに委ねるかのどちらかである。十分に意欲のある若い歌手は、上手いか下手かのどちらかであって、可もなく不可もないということは決してない。月並みな才能こそが、ロッシーニの音楽にとっては最悪の状況を引き起こすのである」(プログラム)。つまり突き抜けなければいけないということ。小手先ではだめなのだ。

この作品は1825年6月19日、パリ・イタリア劇場で初演された。初演の2週間前にフランス国王シャルル十世の戴冠式がランスであり、祝意を示すための公演だった。終盤に各国から集まった貴族、騎士がお国の歌(らしきもの)を(イタリア語で)歌う。もちろんアジリタ駆使。その最後に聴きなれた曲が鳴った。『眠れる森の美女』のアポテオーズである。チャイコフスキーが古謡『アンリ四世讃歌』を引用したもの。『ランスへの旅』はフランス国王讃歌なので、ロッシーニも使ったということか。30人位の歌手が一斉に歌う讃歌は素晴らしかった。ロッシーニテノールの片鱗を窺わせたのは、山本康寛。突き抜けようとしていた。

来年、新国立劇場バレエ団がブルノンヴィルの『ラ・シルフィード』を上演する。楽しみなのが男性ソロ。両回転トゥール・アン・レールを決行するかどうか。井澤駿は先日の『白鳥の湖』トロワで、江本拓以来の両回転をこなしていたので確実だろう。

ブルノンヴィルの曜日のクラスで、グラン・プリエからピルエットするのを見たことがある。反対に、フォーキンの『ル・カルナヴァル』には、ピルエットから胡坐になるアルルカン・ソロがある。19世紀には当然の技だったのだろうか(後者はフォーキンの創作?)。いずれにしても、現在の技術とは質の異なる職人的な難技があったのだろう、両回転を含めて。ラトマンスキーの『眠れる森の美女』復元で主役を踊ったヴィシニョーワは、何ということもない踊りなのに、すごく疲れたと言っていたらしい。どういうことなのか、早く見てみたい。(7/4)

 

★[ダンス]  長谷川六『闇米伝承』追記あり

標記公演を見た(7月10日 ストライプハウスM)。東京ダンス機構主催「TOKYO SCENE 2015」の一環である。作・演出・装置・出演は長谷川六。衣装(装置としての衣服)製作は奥野政江。照明はカフンタ。と書いて、照明に気付かなかったことに気付いた。照明効果は無意識に刷り込まれている。あるべき照明の姿。

昨年は、道路に面した半円を描く大ガラス窓を背景にし、行き交う人々が見える舞台設定だったが、今回はギャラリー中央にある階段がバック。壁には高島史於による70年代の写真が並ぶ。花柳寿々紫、藤井友子、三浦一壮、矢野英征、畑中稔の霊に囲まれて踊る形。

カミテ通路から長谷川が登場。留袖をリフォームした長い衣装、右手には杖、ではなく竹刀、左手には紫の花束。盲目のオイディプスか、能役者の佇まい。竹刀がよく似合っている。ついさっきまで受付でにこやかに微笑んでいたのが、一瞬で本来の体に統一される。つまりどこでも集中できるということ。足袋のような白い靴下をはき、地面を選びながら静かに動く。床の中央には三枚の畳んだ着物。その前で、長谷川は体と対話しつつ、フォルムを変えていく。竹刀を斜めにしたり、両の手で捧げ持ったり。その腕の美しさ(左前腕裏には丸い痣がある)。様々な身体技法を経てきた果てに獲得された美しさである。一瞬一瞬フォルムを切り取り、体の位相を変える手法は、能に由来するのだろうか。気の漲りは穏やかだが、見る者の中に確実に堆積して、ふと気が付くと涙が流れていた。

『闇米伝承』という題の下に、「母親の箪笥から着物が一枚、また一枚消え、四人の子供のいのちを繋いだ」とある(ちらし)。母の着物を思い、父の竹刀を使った舞。そこにバッハの無伴奏チェロ組曲を流すところが、モダニスト長谷川。一方、張りつめた神事のような瞬間ののち、それを破壊するかのごとく、母の着物を両腕に巻きつけてぶん回すのが、ポストモダニスト長谷川。最後は『ケ・サラ』を「70年代を思って歌い」、終わりとなった。 「昨日膝を痛めて歩きづらいので、父と祖父の使った竹刀(剣道の師範だった)を杖に使いました」と挨拶。花束も「今朝頂いたもの」だった。完全な自由を垣間見られる時間。人間は自由なのだと思い出させるパフォーマー

 

*長谷川六氏より「着物を振り回すのは、乱拍子、唄を歌ったのは、シテは謡うので」とのご指摘を頂いた。全て能にある要素で創られていたということ。(7/12)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団『ジゼル』

東京シティ・バレエ団恒例の夏公演は『ジゼル』全二幕。演出・振付は金井利久。今回はゲストバレエマスターに元シュツットガルト・バレエ団プリンシパルのローラン・フォーゲルを招いた。

金井版の特徴は、主役から脇役、端役まで、役の性根が入っていること。ラッパ手が本当に先触れとして吹いているのを、初めて見た気がする。洋風をなぞるのではなく、日本人の自分を通過する入り方のため、演技にはどこか新劇風の味わいがある。様式的には少し過剰かも知れないが、事情を唯一知るウィルフリードの演技から、ジゼルとバチルドの出会ってはならない関係が、改めて浮き彫りになった。

ジゼルは初日が志賀育恵、二日目が中森理恵、アルブレヒトは黄凱とキム・セジョン、その初日を見た。志賀は、かつてのあふれんばかりのエネルギーがクラシック技法で統制され、透明で緻密な体にさらに磨きがかかった。繊細な腕、生き生きとした脚。アルブレヒトへの想いが、ドゥミ・ポアントから全身に逆流する。また裏切りを知った後、ネックレスを捨てて倒れる時の脱力が素晴らしい。明るいはかなさが浴衣姿を連想させる、和風のジゼルだった。

黄は長年のパートナーの志賀が相手とあって、かつてのようなクールな面差しではなく、愛情に満ちた兄のようなアルブレヒトだった。本調子の技巧とはいかなかったが、剣を構える姿の神々しい美しさは相変わらず。はまり役である。

ヒラリオン役チョ・ミンヨンの熱血ながら抑えた演技、ミルタ・清水愛恵の地に足のついた演技、ベルタ・長谷川祐子の滋味あふれる演技、クーランド公(青田しげる)、バチルド(坂本麻実)、貴族達のわきまえた演技が、舞台に厚みを加える。

ペザントは森絵里と岸本亜生が明るさを振りまいた。村娘、村男の様式に則った溌剌とした踊り、ウィリ達のおっとりした踊りは、バレエ団の個性である。

井田勝大指揮、東京シティ・フィルの演奏は、もう少し乗りがあってもと思うが、端正で行儀がよかった。(7月11日 ティアラこうとう大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2957(H27.10.15号)初出(10/17)

 

★[バレエ]  井上バレエ団 『シンデレラ』

井上バレエ団恒例の夏公演は、プロコフィエフ音楽、関直人振付の『シンデレラ』全3幕。6年ぶりの上演である。美術・衣裳は、王宮を森の中に作ってしまう森の詩人ピーター・ファーマー。妖精の白い衣裳や、緑と紫を基調とする淑女のドレスが、背景の森に美しく溶け込んでいる。回転する映像など、舞台に寄り添う照明(立川直也)も効果的だった。

関版の特徴は、何よりも音楽的な振付にある。叙情的なパ・ド・ドゥ、高度なクラシック・ソロ、華やかで清潔なキャラクター・ダンス、エネルギッシュな群舞、それぞれに心浮き立つ音楽的喜びがある。特に時の精は、四肢を時計の針のように使い、鋭いフェッテで掟の厳しさを強調する名振付である。

また「アモローソ」大団円の後に、「舞踏会出発」のワルツで総踊りを加え、さらに幕が降りてからも、幕前で継母と義姉妹が掃除をするオチを付けるなど、観客にポジティヴなパワーをこれでもかと与える。バレエ団のシンプルなスタイルと関のエネルギーが組み合わさったフェアリー・テイル、唯一無二の『シンデレラ』である。

シンデレラは初日が宮嵜万央里、二日目が田中りな(所見日)、王子はチェリャビンスク国立オペラ・バレエ劇場バレエ団所属の秋元康臣が両日を勤めた。

中堅の域に入った田中は、前半やや硬さが見られたものの、舞踏会から戻ったソロ、王子との再会の踊りは感情にあふれ、体全体から晴れやかなエネルギーを発散した。バレエ団のスタイルもよく体現している。対する秋元は、国内時代とは全く様変わりしていた。長い手足を豪快に使い、生き生きと野性味さえ感じさせる。本来はこのように踊りたかったのだろう。

一方王子の小姓、荒井成也は、今春再演された関の傑作バレエ・ブラン『ゆきひめ』で若者を踊り、古風なノーブル・スタイルを継承したが、今回も美しい踊りと、献身的な演技で存在感を示している。

仙女(大島夏希)、四季の精(阿部真央、速水樹里、山下さわみ、源小織)、時の精(矢杉朱里)を初め、妖精たちや星の精が織り成す幻想的な風景が美しい。継母・福沢真璃江のゴージャスな踊り、義姉妹・樫野隆幸、安齋毅の渾身の演技、さらに中尾充宏を始めとする男性ゲスト陣が、舞台を大いに盛り立てた。

指揮は、新国立劇場バレエ団で副指揮者として活躍する冨田実里。ロイヤルチェンバーオーケストラから、プロコフィエフの豊かな弦の響きを引き出している。来季ENBの客演指揮者として、『ロメオとジュリエット』、『海賊』、『くるみ割り人形』を振る予定。自分の音楽を持つ貴重な指揮者である。(7月26日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』N0.2957(H27.10.15号)初出(10/17)

 

★[バレエ]  有馬龍子記念京都バレエ団『ロメオとジュリエット』

フランス派スタイルを信奉する有馬龍子記念京都バレエ団が、久々の東京公演を行なった。プロコフィエフ音楽、ファブリス・ブルジョワ振付の『ロミオとジュリエット』全幕である。主要キャスト8人に、エトワールを含む現旧パリ・オペラ座ダンサーを配した破格の座組。これはオペラ座の演劇空間を日本で実現しようとした主宰者の、芸術的情熱によるものである。

振付のブルジョワは現パリ・オペラ座メートル・ド・バレエ。前回12年の『ドン・キホーテ』では、キューピッドのトラヴェスティを解いて、男性ダンサーを配し、自然体のマイムを基調に、装飾音符のようなフランス風足技を随所に散りばめた。

今回もまずマイムの内発性に目を奪われた。音楽と一致していることはもちろん、登場人物の内面から動きが生み出されている。大仰ではなく自然。その頂点がキャピュレ卿のシリル・アタナソフだった。ブルジョワ演出の創意として、冒頭と終幕に、書斎で娘の思い出を綴るキャピュレ卿が登場する。机に座る身じろぎ一つしない形、それだけで悲劇の全てを物語った。最小限の動きで最大限の感情を生み出すマイム、遠くから見守るパートナリングは、舞台芸術家が辿り着く最高の境地である。

演出は隅々まで血が通っている。赤のキャピュレ家には情熱的な振付、緑のモンテギュ家には端正な振付、舞踏会の客人入場にも細やかな芝居が付いた。舞踏会でロミオの赤いシャツの胸元を開いて、その名を知るジュリエットの哀しみの仕草は、悲劇の微かな予兆。軽やかな日常の積み重ねがいつの間にか悲劇に至った。

ロミオにはエトワールのカール・パケット。必ずしも本調子ではなかったが、豊かな舞台経験と献身的なサポートで、ジュリエットを包み込むように支えた。エロイーズ・ブルドンは長い四肢を鋭角的に操る闊達なジュリエット。ロミオとの恋が始まった途端に、繊細な身体になり、後は情熱の赴くまま悲劇を突っ走った。

キャピュレ夫人のモニク・ルディエールは、夫に寄り添い、娘を気遣う愛情深い佇まいが素晴らしい。パリスにはノーブルなクリストフ・デュケンヌ、ティバルトには暗い情熱に満ちたピエール=アルチュール・ラヴォー、ベンヴォリオには正統派ヤニック・ヴィトンクール、そしてアクセル・イーボが、知的で品格あるマキューシオを、清冽なエネルギーを持って生き抜いた。アルレッキーノの仕草が見せるエスプリ、死に至る芝居の自然さに、オペラ座の底力を見た。

本多恵子の乳母、大野晃弘のヴェローナ大公、ロザランの藤川雅子を始めとするバレエ団側も、ゲスト陣と溶け込む優れた役作りを見せる。マキューシオ友人の奥村康祐、西岡憲吾、鷲尾佳凜の美しいスタイル、フォークダンス若手男女の清潔なスタイル、舞踏会のエレガントなアンサンブルなど、ブルジョワ薫陶の成果は明らかだった。

指揮の江原功が、ロイヤルチェンバーオーケストラからドラマティックな響きを引き出している。(8月2日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2956(H27.10.1号)初出(10/1)

 

★[バレエ]  谷桃子バレエ団『Fascination Concerto Triple』

標記公演を見た(8月16日 DDD AOYAMA CROSS THEATER)。舞台と客席が近い空間で、迫力あるバレエパフォーマンスを見せる T-CONNECTION シリーズの3回目。

演出・振付は坂本登喜彦、作曲・音楽監修・演奏は打楽器奏者のYAS-KAZ、映像は立石勇人。踊り、音楽、映像が高いレベルで噛み合った作品。シンデレラの靴をモチーフに、3人の男性ダンサーの魅力を隈なく見せることに力点がある。坂本の振付は、ダンサーの本質をえぐり出すダンサー批評だった。

三木雄馬は、『夏の夜の夢』のパックやギリシア神話のエロスのような無垢な少年。振付は高度な技術を織り込んでいるが、持ち味であるロシア風のダイナミズムはなく、繊細で両性具有のようなニュアンスを帯びる。清潔な肌合いは、三木の踊りで初めて見る要素だった。

今井智也は、金髪でダイナミックな踊り。牧神のように無意識の部分を拡大したエネルギッシュな青年だった。行儀のよい舞台を多く見てきたが、自分を突き抜ける破天荒なタイプだったのか。

齊藤拓は、ダークでエロティックな男。胸から脚にかけての美しいラインが、鋭利な刃物のようにきらめく(首に巻いた白いスカーフが、美しい胸を隠して残念だったが)。いつかストイックなタンゴを踊って欲しい。ずっと王子役を担ってきたが、本来はマクミラン作品にあるような暴力性が似合うダンサー。誰か齊藤のために創ってはくれないだろうか。来年の『眠り』ではダウエルに倣って、女装のカラボスを演じて欲しかったのだが。(8/17)

 

★[映画]  荒井晴彦監督『この国の空

標記映画を見た(8月22日 シネリーブル池袋)。なぜ見たかと言うと、荒井晴彦の映画だから。97年の『身も心も』以来の監督作品。『遠雷』や『Wの悲劇』などは、荒井の脚本と知らずに見ていたが、阪本順治監督の『KT』や『大鹿村騒動記』は荒井脚本だと思って見た。『映画芸術』の編集人時代、自らの原稿を年下の編集者に掲載拒否される事件があったが、それを金井美恵子が愛情を込めてエッセイにしていたことを思い出す。

本作は、荒井が長年温めていた高井有一の原作を、戦後70年の節目にようやく映画化できた作品。日常と非日常が綯い交ぜになった戦時下の生活を描き、最後に茨木のり子の詩『わたしが一番きれいだったとき』の朗読で終わる。一見メッセージ性の強い作品に見えるが、やはりエロスを核とするいつもの荒井作品。ショットはすべて内発的。こう撮りたい、こうでなければという監督の思いが、画面全体から伝わってくる。日本の夏の闇、湿気と冷気、蚊の音、虫の音、風の音、木々の音。今にも夏の匂いが漂ってきそうだ。『KT』の時も、日本の夏の闇が、物語の筋と関係なく挿入されていた。この日本の自然(身体を含む)に対する濃やかな感覚は、恐らく日本近代文学によって培われたものだろう。性愛の場面も文学的。微妙な心身の変化、体温の上昇まで事細かに描写される。

役者はほぼ揃っていたが、主役の二階堂ふみの台詞回しが、荒井の世界を壊していた。なぜ演技指導をしなかったのか。長谷川博己池部良の系譜、知的で色気がある)との濡れ場でも、二階堂がセリフを言うや否や、コメディかパロディになってしまう。『朝日新聞』のインタヴューによれば、「あれは僕(荒井)じゃない。二階堂が成瀬巳喜男小津安二郎監督を勉強してきたんじゃないか。高峰秀子原節子のしゃべり方をね」(2015,8,21夕刊)。 もちろん監督は、二階堂が高峰や原とは異なるタイプの女優だと言わなければならなかった。それ以前に、身体と台詞の乖離を指摘しなければならなかった。台詞のない時の二階堂はアップに耐える女優である。自分の生地を生かした台詞回しをすれば、こんなおかしなことにはならなかったと思う。残念。(8/26)

 

★[バレエ]  小林紀子バレエ・シアター『グローリア』他

小林紀子バレエ・シアター第108回公演は、マクミラン日本初演作品『グローリア』を含むトリプル・ビル。同時上演は同じくマクミランの『ソワレ・ミュージカル』と、小林改訂の『ライモンダ』第三幕である。

80年、英国ロイヤル・バレエで初演された『グローリア』は、第一次世界大戦で婚約者と弟を失ったヴェラ・ブリテンの自伝に触発され、フランシス・プーランクの同名曲に振り付けられた。合唱とソプラノ・ソロによる輝かしい神への讃美は、戦死した兵士と、かつて彼らと共に生き、今は精霊となって彼らを慰撫する女達へのレクイエムに姿を変えた。

マクミランの振付は、死後の世界を描くためにリフトを多用。複雑なパートナリングは、『マノン』のエロティシズム喚起とは対照的に、霊性を醸し出すために使われる。兵士たちの重く疲れた身体が、透明で軽やかな女達を掬い上げる。特に主役パ・ド・ドゥにおける女性のラインは、超人的な美しさだった。

主役女性は島添亮子。磨き抜かれたラインと優れた音楽性で、精緻なパ・ド・ドゥを作り上げた。『マノン』や『コンチェルト』を踊ってきた経験が十分に生かされている。リフト時の神経の行き届いた体が比類ない。

男性主役はゲストのエステバン・ベルランガ(スペイン国立ダンスカンパニー)とロマン・ラツィック(ウィーン国立歌劇場バレエ)。島添を支えて健闘したが、もし日本人のみの座組にした場合、作品の持つ普遍性がより明らかになり、追悼の趣もさらに増したのではないか。

ソプラノ國光ともこの濃密な歌唱と、武蔵野音楽大学合唱団の力強い歌声が、作品に強度を与えていた。

『ライモンダ』第三幕は、他幕のヴァリエーションを加えたグラン・パ。ハンガリアン・プリンシパルの出番が多く、最後の大見得も、ライモンダとジャンの主役と並列される。 ライモンダは高橋怜子。美貌で、日焼け(?)した二の腕が艶めかしさを伝える。まだ「腹が据わった」とは言えないが、自立した踊りに近づいている。ジャンは大柄なラツィックが勤めた。

新国立劇場バレエ団で長年踊ってきた大和雅美の、音楽性豊かな楷書のヴァリエーションが心に残る。男性ゲスト陣も美しい踊りを披露した。

指揮はポール・ストバート、演奏は東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。(8月23日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2958(H27.11.11号)初出

 

*『ソワレ・ミュージカル』について触れなかったのは、再演作ということもあるが、最終場面で、女性主役がフェッテを出来なかったから。そのことで作品全てが壊れてしまった。技術的に出来ないのではなく、精神的に追い込まれてだと思う。主役がフェッテ自体出来なくなるのを、2回見たことがある。やはり世界が瓦解したような衝撃を感じた。フェッテとは何か。単なる技術に留まらない、何かを象徴するパなのだろう。観客にとっては、技術的な見どころであると同時に、主役の精神性を感じる場面でもある。輝かしいオーラ、エネルギーで観客を祝福する、アナニアシヴィリの全盛期のフェッテを思い出す。またアニエス・ジローが、男性ダンサー4人(だったか)をフェッテでぶん回すプティ作品を思い出す。フェッテの象徴性を剥ぎ取り、動きの面白さのみを抽出した、プティの天才がなせる技だった。(11/3)

 

★[バレエ][ダンス]  日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」

文化庁及び公益社団法人日本バレエ協会主催「全国合同バレエの夕べ」が、二日にわたり開催された。「平成27年文化庁次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である(協力・公益財団法人新国立劇場運営財団)。今回は岡本佳津子会長が就任して初めての公演。7支部、東京地区、本部による12演目が並んだ。公演の性質上、若手ダンサーが多数出演するが、発表会風の作品はほぼ皆無。ダンサーのレベル及び、支部の制作意識が向上したせいだろう。一般の観客が日本バレエを概観し、なおかつ楽しめる公演に成長した。

古典5作、創作6作。例によって本部のリシーン作品『卒業舞踏会』が両日のトリを勤める。古典から上演順に、関東支部の『ラ・バヤデール』より「婚約の宴」(再振付・冨川祐樹)。主役経験豊富な福岡雄大ソロル)と日向智子(ガムザッティ)が、高度なソロと情感豊かな演技を見せる。やはり古典はバレエの華。若いアンサンブルがプティパ振付を経験する意義も大きい。中部支部はレガット兄弟の『フェアリー・ドール』2場より(再振付・エレーナ・レレンコワ、監修指導・岡田純奈)。標題役の山本佳奈を中心に、ピエロの河島真之、水谷仁、各国の人形たちが、可憐な人形ぶりと、清潔なクラシック・スタイルを披露した。

東京地区の『ワルプルギスの夜』はラヴロフスキーの振付に横瀬三郎が手を加えたもの。3人のニンフがバレエ・ブラン仕立てで淑やかに踊る。バッカナーレの狂躁よりも牧歌的雰囲気が優るのは日本人ならでは。浅田良和のバッカスと、樋口ゆりのアリアーヌも慎ましやかな情緒を漂わせた。北陸支部の『パキータ』(改訂振付・坪田律子)は、土田明日香の情熱的なパキータと、法村圭緒のノーブルなリュシアンの組み合わせ。法村は登場するだけで舞台に気品が満ちあふれる。端正なソロが素晴らしかった。アンサンブルも技術・スタイルをよく身に付けている。トロワの巻孝明は未来のノーブル候補。

一方、創作はクラシックからコンテンポラリー・ダンスまで多彩だった。北海道支部Jewelry symphony』(振付・石川みはる)は、ビゼー交響曲ハ長調から3つの楽章を用いたシンフォニック・バレエ。パステルのチュチュが美しく、出演者全員の練習成果がよく分かる振付だった。東京地区の『スケルツォ』(振付・今村博明、監修・川口ゆり子)は、ブラームスのピアノ生演奏にゴージャスな衣裳で踊るロマンティックなネオクラシック。本島美和とJ・H・リードのエレガンスが際立つ。対して中国支部の『ピアノ・ブギ・ウギ』(振付・貞松正一郎)は、ジャズやフォークダンスを取り入れた音楽的で闊達な作品。貞松自身、パ・ド・ドゥでは相変わらずのダンスール・ノーブルぶりを発揮した。

関西支部の『Zero Body』(振付・島崎徹)は、Z・キーティングの土俗的なミニマル音楽に乗せて、9人の少女が踊るコンテンポラリー・ダンス。照明(立川直也)と絡み合った幾何学的フォーメイション、低重心のハードでオーガニックな振付が、ミニマルな陶酔感をもたらした。同じく四国支部の『in the Air』(振付・青木尚哉)は、ダンス・クラシックを取り入れたスタイリッシュなコンテンポラリー・ダンス。ダンサー青木の持ち味である脱力コミカル系ではない、あくまで正統的な振付を、24人の少女が踊り切った。

異色作は関東支部の『THE SWAN』(演出・振付・西島数博)。『白鳥の湖』第二幕に手を付ける胆力を見せた。永橋あゆみのオデット、高比良洋の王子、新村純一のロットバルトという適材適所に、白鳥と黒鳥が絡む。隊形、出入りの整理はこれからだが、ロットバルト中心のダークな美意識と鋭い音楽性が、新たな第二幕を創出した。

恒例の『卒業舞踏会』では、マイレン・トレウバエフの元気な老将軍、江藤勝己の自然体且つ母性的な女学院長、志賀育恵の繊細なラ・シルフィード、江本拓の美しいスコットランド人、天性のコメディエンヌ齊藤耀の即興第1ソロなど、適材を楽しむことができたが、最大の驚きは、即興第2ソロ初日の奥田花純が物語を生きて、作品にドラマティックな局面を与えたことである。

シアターオーケストラトーキョー率いる福田一雄が、舞台を包容するパワフルな指揮で、公演に大きく貢献した。(8月28、30日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2956(H27.10.1号)初出(10/1)

 

★[バレエ]  東京バレエ団「横浜ベイサイドバレエ」

標記公演を見た(8月29日 象の鼻パーク 特設ステージ)。「DANCE DANCE DANCE @ YOKOHAMA 2015」の一環でもある。プログラムは、ブラスカ振付『タムタム』、ワシリーエフ版『ドン・キホーテ』第1幕より、ベジャール振付『ボレロ』。Wキャストの二日目だった。

最も驚かされたのは『ドン・キホーテ』の上野水香。昨年の全幕では演技に難があったのが、今回は全く払拭されている。ローラン・プティ以降、指導者なしの状態だったが、ようやく適切な指導者が見つかったのだ。斎藤友佳理芸術監督の演出も素晴らしい。全幕では気付かなかった細かい演技の流れを、間近で見ることができた。特にメヌエットに至るマイムの細やかさ! 以前NBAバレエ団のヴィハレフ版で、19世紀に繋がる演劇性に驚いたことがあるが(ブルノンヴィル作品のような)、今回はそれよりも闊達で明るい。ペテルブルクとモスクワの違いだろうか。

斎藤監督は8月に就任して早速、秋元康臣、宮川新大という才能をバレエ団に引き入れた。秋元はボリショイで学び、宮川はジョン・クランコ・スクールでペーストフに学んだ(ドイツの高校を卒業できるところだったが、ペーストフのクラスを受けるために休学したと聞く)。たとえベジャールを踊るにしても、クラシック・スタイルは基本。公演回数の多いバレエ団として、正統派ダンサーを採用するのは望ましい方向だと思う。上野の例を見るまでもなく、斎藤監督にはダンサーを育てる力がある。今回のキャスティングとダンサーのパフォーマンスを見て、その感をさらに強くした。

現在公立では、新国立劇場バレエ団の大原永子監督、民間ではNBAバレエ団の久保綋一監督が、演出とダンサー育成の点で際立っているが、そこに斎藤監督が加わった模様。先の二人は欧米のバレエ団でダンサー人生を全うした。つまりバレエ団のレパートリー展開と、ダンサーの成熟過程を熟知する。斎藤監督は東京バレエ団に所属しながら、モスクワの舞踊大学を首席で卒業したエリート。日本のバレエ団の実情とロシアバレエのレベルを熟知する。三人に共通するのは、振付はせず、二代目という点。ダンサーが正当に生かされるバレエ団がまた一つ増えた。(8/30)

 

★[ダンス]  Noism 0 『愛と精霊の家』

標記公演を見た(9月4日 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館)。「新潟インターナショナルダンスフェスティバル2015」(芸術監督:金森穣)の一環。他に韓国の大邱市立舞踊団、中国香港の城市当代舞踏団が参加した(未見)。金森監督によれば、「新潟は鎖国時代にも北前船などで中国、韓国と交流してきた。中韓との関係が冷え切っている現在、大陸に隣接する唯一の政令指定都市である新潟が、本来の姿である国際交流を再構築していくことは、新潟で文化に携わる者の責務であると感じている」(プログラム)。この作品は同時に、新潟市のアートフェスティバル第3回「水と土の芸術祭」参加作品でもある。

『愛と精霊の家』は、『シアンの告白』の一部と『Under the marron tree』を内包する(原案の『シアンの家』は未見)。金森はアフタートークで、作品の方向性を「パーソナルなものから、普遍的なものへ」拡大させたと語っていたが、根底にはやはりダンサー井関佐和子への愛がある。井関は、 イヨネスコの『椅子』を暗唱する奥野晃士(SPAC)相手のエロティックな人形ぶり、ダンス教師役・山田勇気との初々しいダンスレッスン、金森とのコミカルな新婚ぶり(映像)、小尻健太との大人の愛、さらに妊娠、流産を経ての愛の深まり、そして幼女から老女までを包括する『Under the marron tree』を踊り抜いた(各場、チャイコフスキー5番、ラヴェル『亡き王女のパヴァーヌ』、ショスタコーヴィチの「ワルツ」、シェーンベルクの『浄夜』、マーラーの「アダージェット」を使用)。女性の一生分を踊った形。

これほど高密度で深い踊りを捧げられ、それに応え得る日本人ダンサーが他にいるだろうか。金森の振付は音楽の本質をえぐり、なおかつ輝きを与えるもの。ダンサーには音楽性のみならず、自らの実存の底に到達することが要求される。山田の誠実で愛情深い教師ぶり、小尻の鋼のような男性性と強い包容力が、井関の達成を支えている。

金森自身は冒頭に踊ったと思う(全員黒スーツに黒帽子を被っているので、誰が誰か分からなかった)。最初、その切れの良さ、鮮やかさから井関かと思ったが、力強い覇気が体中にあふれ、金森かなと思い、右脚を振り上げて跳躍後、胡坐で着地した瞬間に確信した。「パーソナル」を避けるために、井関とのパ・ド・ドゥを作らなかったのだろうか。二人が踊るマッツ・エックの『ソロ・フォー・トゥー』、金森の『カルメン』パ・ド・ドゥを、いつか見てみたい。

イヨネスコの『椅子』は、ベジャールがマリシア・ハイデとノイマイヤーに振り付けた作品。奥野の暗唱は、その独特の語り口から、内容よりも身体性を感じさせるものだったが、最後の言葉、「それでもわしは、これほどまでに、同じ皮に包まれ、同じ墓に埋められ、わたしたちの古びた肉で、同じ蛆虫をやしない、いっしょに腐りたかった」(安堂信也訳)は、これを選んだ振付家の肉声として心に響いた。金森による井関への愛の讃歌。(9/14)

 

★[美術]  新潟市美術館

標記美術館に行った(9月5日)。Noism 0 の公演『愛と精霊の家』(感想は9月16日に既出)を見た翌日。丁度「ラファエル前派展」をやっていたが、それは見ないで、常設展示「HI, STORIES!」を見た。ピカソ草間弥生、カリエール、ルドン、エルンスト、アンソニー・グリーンと見ていくうちに、よくある地方美術館の有名作家羅列展示ではなく、統一された美意識の下に選択展示されていることが分かった。当たり前と言えば当たり前のことだが。日本人作家(森川ユキエ、橋本龍美、猪爪彦一、川口起美雄)やソフィア・リデトの写真、高松次郎野田哲也といった既知の作家の作品まで、全体が生き物のように有機的な秩序を保っている。そしてそこに付された学芸員星野立子)の柔らかな文章。市民の目線を意識し、新しい価値観へと誘うような、愛情と責任感にあふれた解説文だった。

美術館を設計した前川國男関連の展示もあった。美術館のシックでモダンな佇まい、落ち着いたインテリアに、初めて訪れた場所とは思えなかった。その理由は、すでに前川の建築に親しんでいたから。東京文化会館東京都美術館国立西洋美術館新館。自然の庭、自然食系のカフェを含め、居るだけでゆったりとした気持ちになる(居るだけで落ち着かなかったのは、兵庫県立美術館)。カフェでベーグルとスープのセットを食べた。おいしかった。

荷物を美術館のロッカーに入れて、日本海を見に向かった。昨日まで川の町だと思っていたが、美術館から元砂丘を越えて、日本海が見えた瞬間、海の町でもあることが分かった。砂防林の松林、昔風の海そばの木造家屋。碁盤状の町から、歩いて海に行ける! 金森穣と Noism はこういうところで創作活動していたのだ。(9/17)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団『くるみ割り人形

都内有数のバレエ会場、ゆうぽうとホールが、15年9月一杯で閉館した。33年の長きにわたってホールに親しんできた牧阿佐美バレヱ団は、年末の『くるみ割り人形』を一足早めて、ホールに別れを告げた。バレヱ団の母体、橘秋子記念財団による補助金問題報道に揺れた一週間だったが、舞台はいつも通りのレベルの高さ。主役はもちろん、マイム役から子役まで、指導の行き届いた老舗の味だった。

バレヱ団創立60周年記念公演の第3弾となった『くるみ割人形』は、総監督三谷恭三の演出・改訂振付による。ドロッセルマイヤーが広間の壁から登場し、その甥が活躍するなど、演出の面白さに加え、デヴィッド・ウォーカーの美術とポール・ピヤントの照明が相乗的に作り上げる豪華で繊細な空間は、他版にはない魅力である。一幕の雪混じりの月光、広間の暖かい燭台の灯り、二幕の豊饒を意味する黄金の照明など、何度見ても素晴らしい。

主役トリプル・キャストのうち、最終回の中川郁と清瀧千晴を見た。中川は6月の『リーズの結婚』に続き、初役の主役。物怖じしない伸びやかな踊り、翳りのない明るいオーラで、舞台に新風をもたらした。清瀧も、いつもながらの高い跳躍に、今回は落ち着いた王子ぶりを見せる。爽やかなカップルだった。 ドロッセルマイヤーはノーブルなラグワスレン・オトゴンニャム。その甥の細野生が、切れのある美しい踊りと安定したサポートで、またくるみ割り人形の今勇也が、鮮烈なアラベスクで存在感を示した。

今回花のワルツ配役の青山季可は、にこやかな佇まいに隙のない動きで貫禄の踊り。他日金平糖の精を踊った織山万梨子の凛とした美しさも印象深い。実力派の茂田絵美子(雪の女王)、久保茉莉恵(アラブ)は、残念ながら本調子とは言えなかった。

最後はカーテンコール無し。「33年間、ありがとう」の横断プレートを掲げ、ホールに感謝を捧げて幕が降りた。練達の指揮者デヴィッド・ガーフォースが、東京オーケストラMIRAIから、豊かで暖かみのある音を引き出している。(9月6日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2957(H27.10.15号)初出(10/17)

 

★[ダンス]  鈴木ユキオ・川村美紀子・ケイタケイ@「ダンスがみたい! 17 ~春の祭典~」

標記ダンサーによる公演を見た(それぞれ 7月31日、8月21日、8月23日 d-倉庫)。12人のダンサーがストラヴィンスキーの『春の祭典』で作品を作る途方もない企画。『春の祭典』を舞踊化する場合(元々舞踊音楽だが)、リズムと、物語性(生贄選び)を重視する傾向が強い。例外は平山素子。音楽を俯瞰的に捉え、振付によって音楽の構造を感じさせた。音楽分析もさることながら、音楽を深く感受する資質によるものだろう。

鈴木は、第1部で『春の祭典』にまつわる様々な映像をクリップ。無数のボール紙のファイルを積み重ね、そこに映写した。映像をカットするリズムは音楽とシンクロする。鈴木自身は積み重ねたファイルを、煉瓦を運ぶように、両脇に置いていく。スカートから見える脹脛の充実。1部と2部の間で、作品の解説を自らマイクで喋る。慣れていて、面白い。第2部、ようやく踊りが始まる。安次嶺菜緒とのデュオ。裸になったり、見得を切ったり。だが身体を感じさせたのは、1部のファイル運びの方。2部では思考が前に出て、体が消えてしまった。踊りながらモノになる、無意識になることと、知的な演出や社会性とは、相容れないのだろうか。鈴木の脹脛を信用する。

川村は、客席を車座にして、中央で踊った。つまり生贄として。裸で始まり、裸で終わる。服を着て踊る本編の前後に「川村」がいた。踊りは音楽に合わせて、何か習得言語のような、「川村」とは乖離したやり方。服の間から覗く下っ腹のぷるぷる、太ももの脂肪分が、ダンサーらしからぬ野放図な生活を想像させる。踊り自体は、行儀のよい、初々しい踊りだった。

ケイタケイは弟子達と共に。本編前後に儀式を付け加えた。ストラヴィンスキーとは関係なく、ボーっと心地よく見ていられる。ダンサーたちが心と体によいことをしているので、こちらも体がほぐれるのだろう。ケイタケイはいつものように、田舎の妖精。田んぼや畑にいて、お百姓さんを助けるかわいい妖精。終演後、ラズ・ブレザーがケイの手を掲げると、本気で怒って手を下げた。帰路、秋風の吹くなか、盆踊りの音を聞きながら、日暮里の裏通りを気持ちよく歩いた。(9/12)

 

★[バレエ][ダンス]  日本バレエ協会関東支部埼玉ブロック「バレエファンタジー

日本バレエ協会関東支部埼玉ブロックが、28回目の「バレエファンタジー」を開催した。芸術監督は矢野美登里。矢野の作る空間の中で、若手育成と創作推進の目的は今回も果たされた。

ブロックのジュニア達が踊るオープニング作品は、菊池紀子振付の『breath…息吹き』。プロコフィエフの『古典交響曲』を細部まで読み込んだ生き生きとした振付と、クラシック・スタイルの徹底指導により、音楽そのものを楽しめるシンフォニック・バレエの域に達している。

スタジオ作品は6作。上演順に、石塚彩織振付『ミトウロク/Unregistered』(大岩静江バレエスタジオ)は、ミニマルな電子音にドビュッシーピアノ曲を差し挟むコンテンポラリー・ダンス。面白い振りも散見されたが、子ども達にとっては少しドライな作風だったかも知れない。山田沙織、伊東由里振付『アディエマス』(井上美代子バレエスタジオ)は、身体能力の高いダンサー達を一致団結させた、エネルギー発散系のジャズダンス作品。標題となった作曲家、アディエマスの音楽には合唱も入るため、ミュージカルのような高揚感があった。

休憩を挟んで、田口裕子振付『タンゴ』(伊藤京子バレエスタジオ)は、ピアソラの名曲『リベルタンゴ』から始まる。粘り気のある足遣い、スタイリッシュなデュオの動きが、タンゴの暗いニュアンスを引き出す。主役の関口祐美が土橋冬夢相手に、しっとりとした大人の踊りを披露した。続く矢嶋美紗希振付『水の戯れ』(マリエバレエ)は、ラヴェルの同名ピアノ曲に振り付けられた。水色の衣裳を身につけた5人の女性が、水そのものと化して踊る美しい作品。

一方、腰塚なつ子振付『スラブ民謡の主題によるヴァリエーション』(同バレエアトリエ)は、少女8人と若者一人が繰り広げる牧歌的青春模様。花柄チュチュが楽しい。最後は新井悠汰を中心に8人が円を作り、前後開脚して新井を讃美した。スタジオ作品最後は、宮内麻衣子振付『WHITE』(HAGAバレエアカデミー)。22人の女性ダンサーが黒いホルダーネックにチュールのスカート、お団子ヘアで踊るコンテンポラリー作品。気怠い大人っぽさを作風とするが、子ども達が少し置いてけぼりになったような気もする。

合同作品は中尾充宏改訂振付の『コッペリア』第3幕より。冒頭、市長の代わりに「祈り」の鈴木瑠華が全体を統括し、最後は結婚の祝福も与える演出。振付は、長年ブルノンヴィル・スタイルを学んできた中尾らしく、早いテンポで細かいステップが繰り出される。ロマンティック・バレエに近い祝祭的雰囲気で作品は大いに盛り上がった。

スワニルダの戸田有紀は、やや緊張気味ながら、確かな技術とおっとりした娘らしさを、フランツの清水健太はベテランらしい行き届いたサポートに、情熱的な若々しい踊りを披露した。

「祈り」の鈴木の気品、「婚礼」の奥山あかりの鮮やかなライン、「戦い」の中川杏奈のアマゾネスぶりを始め、ブロックの若手が一丸となって中尾の振付に立ち向かい、ドリーブ音楽の喜びを伝える。男性ゲスト、吉田邑那の華やかさ、荒井成也の切れの良い踊りも舞台をバックアップ。ブロックの高校生、「婚礼」の永堀智也のノーブルなスタイルも印象的だった。(9月13日 さいたま市民会館おおみやホール) *『音楽舞踊新聞』N0.2957(H27.10.15号)初出 (10/17)

 

★[ダンス]  川村美紀子新作『まぼろしの夜明け』

標記公演を見た(10月9日 シアタートラム)。夜はロベール・ルパージュの『針とアヘン』を見て、その実存と結びついた精緻な演出に唯々圧倒されたが、心が喜んだのは川村作品。やらかした、という感じ。チラシには「ヒトは、どれくらい踊れるだろう?」とあり、「限界まで踊ってみたい」ともあったので、80分間6人の男女が踊り狂って、スタンディング(客席がそうなっている)を強いられている我々も、最後には踊らされるのではないか、という一抹の不安があった。丁度風邪をひいていたし、どうしたものかと思ったが、見ることにした。

最後列を除いて客席を取り払い、広い四角の空間が作られている。天井には数個のミラーボール。中央にはお立ち台。6人の人間が白い薄物に覆われて横たわっている。観客はぐるりを取り囲み、ダンサー達を見つめる。様々な音楽、人の声、リズムを刻む電子音が、寄せては返す波のように続く。ダンサーは動かない。時折足の親指を動かすくらい。時計を見ると40分経過。体力温存策?

1時間たって、ようやく直立に向けて体を起こし始めた。目前のダンサーは、あおるような音楽に駆られて、立ち上がろうとする。立っている観客からすると、「頑張れ」と言いたくなる。しかし力尽きて、再びうつ伏せになる。思わず笑ってしまった。最後の最後に全員が立ち上がり、海のかなたを見つめた。暗転。6人は再び横たわっている。拍手の隙を与えず、終了。

川村は「太い」と思った、体ではなく、魂が。全く踊らなかったが、動かないだけで、実は踊っていました、と言うかもしれない。ノンダンスなどと洒落たものではなく、やらかしたった、とか、バカヤロー、という感じの舞台。一瞬ゾンビかとも思ったが、それにしては健康的。生まれる前の子供のような無垢な存在感があった。川村は最後に立ち上がった。幼女のような乳臭さが漂う。それも一瞬だけで、すぐに暗闇になった。

スタンディングの効用。最初は壁に寄りかかっていたが、だんだん前のめりになり、腕組みして仁王立ちになった。音楽、空間に身を委ねる。じっと目の前の体を見る。そして応援する。座った時よりも、全身での空間享受になる。そしてダンサーを見ない自由もある。もし踊らない作品だと知っていたら、ここまでダンサーの体を注視しただろうか。今動くか、今動くか、と思いながら、80分が過ぎた。面白かった。もちろん踊れるダンサーがじっとしているから、見ていられたのだ。(10/13)

 

★[バレエ][ダンス]  牧阿佐美バレヱ団『ジゼル』『牧神の午後』

牧阿佐美バレヱ団創立60周年記念公演第4弾は『ジゼル』。改訂振付は牧自身による。同時上演はドミニク・ウォルシュ振付『牧神の午後』(09年)。ロマンティック・バレエ、コンテンポラリー・バレエの両者が共に異界に取材する、絶妙なダブル・ビルだった。

『牧神の午後』はウォルシュのニジンスキー讃歌。おぼろ月夜に竹が二本、裸身の男が一人佇む。左肩を前にプリエ、前方に伸ばした右足を左手で掴む。ウォルシュが触発されたロダンニジンスキー・フォルムが、至る所で繰り返される。スタティックな平面動きのニジンスキー版が、動物的なエロスであふれるのに対し、ウォルシュ版は植物的な動きの連続。日本的美意識さえ感じさせる。ニンフのねっとりしたポアント運びは、花魁の歩行を思わせた。

牧神には、クラシカルに分節された肉体美を誇るラグワスレン・オトゴンニャム。なめらかな東洋の体が静かなエロティシズムを漂わせる。牧神仲間、元吉優哉とのデュオ、リードニンフの田中祐子との絡みも静謐。ベテラン田中の優れた振付解釈が、上演のバックボーンとなった。

牧演出の『ジゼル』は、マイムの保存、ワイヤー使用など、原点に遡る古典の風格がある。同時に、一幕アンサンブルでは闊達な男性舞踊を取り入れて、モダンでスピーディな味わいも加わった。

ジゼルはベテランの域に入った青山季可。一幕の明るく控え目な少女、二幕の愛情に満ちた霊的存在を、青山にしかできないやり方で生き抜いた。日頃からジゼルのように生きていると思わせる自然な佇まい。一幕ソロがこれほどまで、ジゼルその人によって踊られたことがあっただろうか。相手と常に真のコミュニケーションに努め、己を空しくするそのあり方は、主役の極北である。

アルブレヒトは菊地研。正攻法で真っ直ぐの踊り。役に全身全霊を捧げている。ヒラリオンはノーブルなオトゴンニャムが勤めた。ミルタの久保茉莉恵は、ウィリの女王としての冷徹さよりも、人間時代の熱い情熱を思わせる役作りで、舞台を大きく支配。ズルメ日高有梨の夢見がちなラインも印象深い。

ペザント・パ・ド・ドゥは織山万梨子と清瀧千晴。垢抜けた折り目正しい踊りで、存在感を示した。また、クーラント公の保坂アントン慶を始めとするマイム役が、わきまえた演技で舞台を大きく支えている。

指揮のウォルフガング・ハインツは、村人アンサンブルのテンポが速過ぎたものの、東京オーケストラMIRAIを駆使し、引き締まった音楽作りで舞台に貢献した。(10月15日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』No.2960(H27.12.1号)初出(12/1)

 

★[ダンス]  第67回「西川会」

標記公演を見た(10月27日第二部 歌舞伎座)。都合で清元『三社祭』までを拝見。もちろん洋舞を見るように見たのだが、興味深かった演目は、清元『青海波』と荻江『松・竹・梅』。 前者は西川箕乃助振付。10人の女性が男役と女役(?)に分かれて踊る群舞作品。途中デュオ、トリオなどが入る。背景は銀屏風で、男役は濃い紫の着物、女役は薄紫の着物で裾を引き、白地に水色の波模様の扇を全員が持つ。美術の洗練に息をのんだ。

振付は詞章を反映していると思うが(分からない)、様式的で、抽象化されたシンフォニック・バレエのように見ることができた。途中、グレアム・メソッドのアキコ・カンダダンスカンパニーを、何故か思い出した。全員が一つの様式に身を捧げ、舞踊家として日々精進していると感じさせたからだろう。女性舞踊家が女らしさに頼らず、男性舞踊家と同じように道を究めていける流派なのだろうか。アキコのカンパニーを思い出させたもう一つの理由は、フォーメイション、ダンサーの出し入れに、洋舞に通じる快楽を感じたからかも知れない。

後者は西川扇藏振付。箕乃助(松)がいつの間にか舞台に座っている。その完全無欠の佇まいに驚かされた。研ぎ澄まされた体の線(着物の線)、一分の隙もない動きに、踊りというよりも、武道の型を見せられたような気がした。清冽でしかも円満な境地。 西川流のスタイルは、これ見よがしでなくストイック。芝居に寄りかからず、動きの追求を行なっている。様式性の滋味を味わえる、清々しい舞踊空間だった。(10/30)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ホフマン物語

新国立劇場バレエ団の新シーズンが開幕した。演目はピーター・ダレル版『ホフマン物語』(72年、STB)。プロローグ・エピローグ付き、全三幕のグランド・バレエである。

作品はオッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』を母胎とするが、ランチベリーが大幅に編曲を施して、ランチベリー版とも言える堅固な音楽構成を誇る。一幕のメヌエットやガヴォット、二幕のモーツァルトピアノ曲、ロシア風グラン・パ・ド・ドゥ、三幕の有名な舟歌に加え、スパイスの効いたソロ曲等、耳に残るメロディが多い。

ダレルの振付はバレエの様式を年代順に追うもの。一幕の宮廷舞踊とコメディ、二幕のロマンティック・バレエとクラシカル・バレエ、三幕のモダン・バレエ。プロローグには3つの男性ヴィルトゥオーゾ・ソロが含まれるが、エピローグと共に、ミュージカルの趣を持つ。観客との地続き感を大切にしたのだろう。

オペラのニクラウス(ミューズ)を省略したことは、ホフマンの詩人としての性格付けを曖昧にし、幕切れの芸術讃歌を、悪魔に翻弄された人間の悲嘆へと矮小化することになるが、全体を見れば、堅固な音楽構成と、視野の広い、一種啓蒙的な振付の合体は、オペラハウスに適した作品と言える。川口直次の装置、前田文子の衣裳、沢田祐二の照明も互いに相性が良く、作品の魅力拡大に貢献した。

配役は適材適所。ホフマン初日の福岡雄大は、酔っぱらいの老け役には覇気がありすぎて、リアリティを欠いたが、幻想シーンの切れ味鋭いクラシック・ソロ、三幕のマゾヒスティックな苦悩の踊りで長所を発揮した。二日目の菅野英男は、力みのない自然体演技と、何でも来いのサポート力で、悠揚迫らぬホフマン像を造型。特に酔っぱらいの場面では懐の深いユーモアを漂わせた。三幕の十字架攻撃が最もはまっていたのも菅野。最終日の若手、井澤駿にとっては、3人のパートナー、老け役等、チャレンジングな役柄である。サポートに力を取られて、いつもの華麗な踊りは影を潜めたが、老け役を含む芝居には才能を発揮。ピアノを弾く姿はロマンティックだった。

一方、ホフマンを取り巻く女性陣も主役経験豊富な強者。二役を演じた米沢唯は、5回公演全てに出演する強行軍だったが、芸術への情熱が嵩じて死に至るアントニア、熱いエネルギーが迸る魔性のジュリエッタを、自らの分身のごとく気持ちよさそうに演じている。アントニアの小野絢子はパートナーの福岡共々、幻想シーンが本領。プリマのオーラが広がる磨き抜かれたロシア風ソロが素晴らしかった。

ジュリエッタの本島美和は、本島の来し方を思わせる演技。ジュリエッタがなぜ高級娼婦になったのか、ダーパテュートとの深い関係までも感じさせる、奥行きのある造型だった。オリンピアの長田佳世は、自動人形のメカニズムを追求。細かく分節された正確な動きで、人形の愛らしさの裏に潜む、もの悲しさを抽出した。一方の奥田花純は、ホフマンから見たオリンピアという解釈。少し動きが流れる部分もあったが、愛らしい演技だった。

ホフマンを操る一人4役の悪魔的人物には、冴え渡る動きと色気を見せたトレウバエフ、大きく暖かみのある貝川鐵夫が好演。ホフマンの現在の恋人、ラ・ステラの本島と堀口純も役どころを押さえている。

ホフマン友人には新旧の3人組。中でも奥村康祐と木下嘉人のバットリー対決は見応えがあった。また、召使い・八幡顕光、福田圭吾のラディカルな動きは、ベテランならではの創意にあふれる。新加入の抜擢もあり、バレエ団は新たな局面に突入した模様だ。 ポール・マーフィー率いる東京フィルは、金管木管、弦、全てが充実。舟歌には陶然とした。(10月30日、31日昼夜、11月1、3日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2964(H28.3.1号)初出(2016.3/2)

 

★[ダンス]  第二回「花柳寿楽舞踊會」

標記公演を見た(11月3日 国立劇場小劇場)。演目は長唄『二人椀久』と、長唄『安達ケ原』。前者は寿楽の父、二世花柳錦之輔の振付により、片岡孝夫(現仁左衛門)と坂東玉三郎が初演した。後者は寿楽の祖父、二世花柳壽楽の振付。曲は、二世杵屋勝三郎が明治三年に作曲したもので、詞章は多くを能によっているとのこと(プログラム)。

『二人椀久』の寿楽は、出の場面から憂いと狂おしさが入り混じった体だった。今回の公演のため指導に当たった仁左衛門は、自らの初演時、監修者の先代壽楽より「踊り手になってはいけない。椀屋久兵衛が戯れていなければいけない」と、厳しく言われたという(プログラム)。その通り、ただ体が揺蕩っているように見えた。愛情深い松山太夫片岡孝太郎との連れ舞いは、一転して愛らしく、喜びにあふれる。太夫の幻が消えた後の嘆きの姿は美しく、二枚目の気品が備わっていた。

一方『安達ケ原』は、前シテの老女が素晴らしかった。ちんまりと畳まれた体、宙に吊られたような枯れた動き。5月に見た『釣狐』を思い出した。二枚目よりも、老け役を演じる方が、寿楽の体が喜んでいるような気がする。その工夫が楽しく、それを見ている方も楽しかった。鬼女になってからは、体を起こし、能のような足運び。癇の強い突き抜けた眼差しで性格を表す。ワキの阿闍梨祐慶は花柳基。真っ直ぐな精神、実直な踊りで、鬼女を退治する。最後の晴れ晴れとした立ち姿が爽快だった。資質の異なる二人が、阿吽の呼吸で立ち回る面白さ。楽しかった。(11/3)

 

★[ダンス]  ARICA+山崎広太『Ne ANTA』 (2015年11月5日 シアタートラム)

演劇集団ARICAと舞踏の山崎広太が、ベケット原作『Ne ANTA』を再演した。初演は2013年森下スタジオ。演出の藤田康城は、ベケットのテレビ用脚本(66年BBC)を舞台化するにあたり、大きな改変を施している。一つは、声のみの出演である女性を実際、舞台に登場させたこと。もう一つは、主人公の男が行なう動作(ベッドから窓、扉、戸棚を経て、ベッドに戻る)を、6回繰り返させ(ベッド→窓→冷蔵庫→扉→ベッドに変更)、結果として、クローズアップされた俳優の表情の代わりに、動きで主人公の意識の推移を表したことである。さらに、テレビカメラを俳優に向かって10㎝づつ、9回前進させよ、というベケットの指示に対し、藤田は奥の壁を手前に動かす、逆転の手法を採っている。

山崎演じる中年男は、頭の中で聞こえる様々な声に苛まれる人。ルーティンの動作は、部屋に誰もいないか、誰かが入ってこないか確かめるためである。男は声の主を一人一人「精神的に」絞め殺してきた。今聞こえる女の声(安藤朋子)は、愛について、薄紫の服を着た女の自死について、男を責め立てる。息を吸いながら途切れとぎれに、怨霊のように。後半、安藤が可視化されることにより、孤絶したベケット的空間が、死霊と戯れる祝祭的空間へと変換された。

冒頭、ベッドに座っている山崎。微塵も動かないが、体の内側では、定型から絶えず逃れていることが分かる。意識の集中もなく、無意識でもなく、空間を吸い込んだブラックホールのような体である。さらには、不具の体、麻痺の体、老いの体が出現し、山崎の舞踏に対する現時点での回答を見た気がした。初演時に比べると、動きに洗練が見られるのも、山崎の方向性を示すものだろう。日舞の体を取り入れた「踊らない踊り」、ルーティンの歩行、顔の踊りに、サラリとした涼やかさがある。扉への踊り狂いも、かつては低重心の粘り腰、フランシス・ベーコンを思わせるねじり込みや歪みがあったが、今回はタップのようなカジュアルな上下動を伴って、アメリカン・ポップスへの傾倒を思い出させた。

ニューヨーク在住のため、本人主宰のwwfes 以外で、山崎の踊りに接する機会は少ない。ベケットの言葉が触媒となって、山崎の現在を見ることができた、貴重な公演だった。

演出:藤田康城、テクスト協力:倉石信乃、出演:安藤朋子、山崎広太、照明デザイン:岩品武顕、音響空間デザイン:堤田祐史、衣裳デザイン:安東陽子、舞台監督:川上大二郎、鈴木康郎、制作:須知聡子 助成:芸術文化振興基金  *『ダンスワーク』72(2015冬号)初出(2016.7/6)

 

★[ダンス][バレエ]  テアトル・ド・バレエ・カンパニー「ダンス・ボザール」

名古屋市を本拠とするテアトル・ド・バレエ・カンパニーが、秋恒例の「ダンス・ボザール」を開催した。バレエ団の常任振付家、井口裕之の4作品を見せる意欲的な公演である。

幕開きは、井口が指導に当たる志学館高等学校ダンス部の『Shaking Auk』。冒頭、ウミガラス達が足元に卵を抱える様子が描かれ、そこからバスケット・ボールのような卵(ボール)の攻防が繰り広げられる。複雑なフォーメイション、互いに組んでの動き、重く低い動きなど、生徒達にとってハードルの高い教育的作品だった。

続いては今年の「バレエコンペティション21」の受賞者二人。コンテンポラリー部門シニア第1位受賞の畑戸利江子が、美しいバレエのパと動物的動きを融合させた、ダイナミックな『春の祭典』(振付・井口)を披露。また振付部門第3位受賞の川原美夢が、自らの思いや感情を等身大で綴った『Atomatitoo』を、伸びやかに踊った。

前半の最後は井口の再演作『DOLL』。ラグタイムやバッハを組み合わせた緻密な音楽構成で、人形たちと人形使い、すなわちダンサーと振付家の関係を描く。人形使い(井口)と、彼が溺愛する美しい人形(浅井恵梨佳)とのパ・ド・ドゥ、人形使いと、彼にラブコールする情熱的な人形(植杉有稀)とのデュオが素晴らしい。エロティックとコミカルの両方を具体化できる井口の才能が明らかだった。最後は人形たちに見放された人形使いが、ペトルーシュカのようにくずおれて、振付家の哀感を漂わせた。

後半は新作『コロッセオ』。古代ローマの女性剣闘士を描いた物語コンテンポラリー・ダンスである。最強の女性剣闘士(服部絵里香)が、一人紛れ込んだ弱い男性剣闘士(高橋大聖)の面倒を見る中に、恋に落ちる。女性の内省的なソロ、情熱的なパ・ド・ドゥを挟んで、最後は二人が闘うことに。女性が勝ち、とどめを刺せずにいる所を、男性がその手を取って自らを刺す悲劇に終わる。

井口の音楽性、肉体フォルムの造型センス、コメディを含むドラマへの感性が結集した作品。アルビノーニ、ヴィヴァルディ、カゼッラ、シャリーノ等、イタリア新旧作曲家の音楽が、物語の場面を繋いでいく(最後の試合場面のみショスタコーヴィチを使用)。

服部の優れた振付解釈が加わった音楽的パ・ド・ドゥ、剣闘士のスポーティな訓練、コミカルな疑似試合など見せ場が多く、特に、古代ローマ時代の音楽を再現した「シンフォニア」によるアンサンブルが素晴らしかった。アジア的な太鼓、笛、弦、声に呼応して、二次元フォルム、狂言を思わせるすり足挙げが繰り出され、音楽と振付の幸福な一致を見ることができた。

今回は音楽構成で物語を語らせる手法だったが、もし男女同数に振り付ける条件が整えば、さらに物語に傾斜した演出も可能になるかも知れない。(11月7日 名古屋市芸術創造センター) *『音楽舞踊新聞』No.2961(H28.1.1/15号)初出(2016.1/8)

 

★[バレエ][ダンス]  シュツットガルト・バレエ団「シュツットガルトの奇跡」&『オネーギン』

標記公演を見た(11月18、23日 東京文化会館)。現在ただ今はマリインスキー・バレエを見ているのだが。

今回の来日公演で思ったことは、シュツットガルト男性ダンサーの過酷さ。ガラの「シュツットガルトの奇跡」でクランコ作品を5つ見たが、どれも超アクロバティックなサポートの連続である。これを体得しなければ、バレエ団で生き残れないのだと思った。クランコが衝撃を受けたボリショイ・バレエの作品よりも、クランコ作品の方が、パートナリングは高度で複雑になっているのではないか。主役は当然、ソリスト級でも難度が高く、気のせいか、皆上腕が太く、下半身もがっしりしている。フォーゲルなど、普通のバレエ団なら楽ちんの主役だろうが、ここでは常にチャレンジングな男性パートが待っていて、気が抜けることはないだろう。

バランキエヴィッチ、ザイツェフ、マッキー、ラドメーカーがいなくなり、レイリーだけが残っている。彼の『オネーギン』を見たが(もちろんオネーギン・タイプではない)、振付、演技を、指導された通りに細かく演じていて、胸が熱くなった。伝統を継承しているということ。前回は情熱的なグレーミンに魅了された(グレーミン・タイプでもないと思うが)。

ガラはなぜか『ドン・キホーテ』のパ・ド・ドゥで締めるNBS形式。直前までは、クランコと、シュツットガルトが生んだ振付家たちの作品を取り混ぜて上演する緻密なプログラムだった。上階はガラガラだったので、どうせなら本来の形で上演して欲しかった。作品ではイツィック・ガリリの『心室』と、マルコ・ゲッケの『モペイ』が面白かった。前者はフォーゲルとレイリーの男性デュオ。ベートーヴェンの『月光』を使った脱力系、脱官能的振付。新国立劇場バレエ団の井澤駿と原健太で見たいと思った。『モペイ』はダンサーの固有性よりも、振付自体の面白さが勝る。音楽(C.P.E.バッハ)から生み出された有機的な動きは、結果としては面白いが、受け狙いではない。他者の介在しない内的必然性がある。福岡雄大で見てみたい。(11/30)

 

★[バレエ]  マリインスキー・バレエ来日公演

ロシアの誇るマリインスキー・バレエが三年ぶりに来日した。バランシンの『ジュエルズ』(67年、99年)、グリゴローヴィチの『愛の伝説』(61年)、ラヴロフスキーの『ロミオとジュリエット』(40年)、セルゲーエフ版『白鳥の湖』(50年)という充実のラインナップ。中でも『愛の伝説』は初演版としては、本邦初公開になる。

メリコフの音楽、ヒクメットの台本、ヴィルサラーゼの美術によるグリゴローヴィチ初期作品は、すでに彼独自の様式性を備えていた。フォルム重視のパ・ド・ドゥ、ポアントによる民族舞踊、勇壮な行進やシンメトリーの大見得といった華やかな装飾的振付。外に曲げられた直角の手首は、優美な古典的調和への強烈な反抗である。女王、その妹、宮廷画家による三角関係のドラマが、壮大なページェントの口実に思われるほど、踊りと肉体フォルムが氾濫する。マリインスキーの男女ダンサー達は、大きさ、力強さに、洗練を加えて、本家の意地を示した。

テリョーシキナの姐御肌女王。グラン・ジュテ・アン・トゥールナンの浮遊が素晴らしい。妹には愛くるしいシリンキナ。宮廷画家のシクリャローフは、終盤に故障降板したが、力強い大きな踊りで、かつての爽やかな青年のイメージを覆した。宰相のズヴェレフ、托鉢僧のピィハチョーフも重厚な存在感にあふれる。

今回の来日を通して最も驚かされたのは、バレエ団が有機的に統合されたことだった。これまではマリインスキーの伝統という名の下に、個々の指導者が作品を統括しているように見えたが、今回はファテーエフ芸術監督の意向がステージングと配役に反映され、コール・ド・バレエの隅々まで、指導者の目が行き届いている。

象徴的だったのが、クリスティーナ・シャプランとサンダー・パリッシュの主役起用。二人とも輝きはあるが控え目。シャプランはポアントが強くないことで、却って肉体に微妙な襞が生じ、陰翳の濃い感情を体に溜めることができる。見ているこちらが吸い込まれそうな呼吸の深さだった。パリッシュは、英国ロイヤル・バレエのコール・ドからファテーエフによって引き抜かれた不思議な経歴の持ち主。まだ押し出しは弱いが、ノーブルな美しさがある。

ダンサー育成の繊細さはステージングにおいても共有される。ラヴロフスキー版『ロミオとジュリエット』の様式的な演技とフォルム重視の踊りが、振付への緻密な解釈が加わることで、生き生きとした自然な演技と感情豊かな踊りに変貌を遂げている。バルコニーのパ・ド・ドゥは細やかな愛の対話に、秘密結婚の儀式的フォルムは、祈りそのものに昇華した。

こうした変化はバレエ団の西欧化なのだろうか。それともロシア・スタイルへの先祖返りなのだろうか。いずれにしてもマリインスキー・バレエが高性能集団であることを、かつて無く認識させられた来日公演だった。(11月26日 文京シビックホール、11月28日、12月2日、5日昼夜 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2016/2/15)

 

★[ダンス]  ナハリン×米沢唯×ギエム

『ダンスマガジン』でオハッド・ナハリンのインタビューを読んだ(2016年1月号)。聴き手は三浦雅士(話はそれるが、NHKの『サラリーマンNEO』で、三浦そっくりの役者池田鉄洋が、三浦役を演じていたことを書き留めておく)。 元に戻って、面白かったのは、ナハリンが鏡を嫌いだということ。「私はダンスを始めたのが遅かったですから、鏡に自分の姿を写してみるという考えはありませんでした。私は鏡を見るのが好きになれなかったのです。ところが、ベジャールのもとでは男性はみな孔雀のように自分の姿を鏡に写して見ていたのです・・・私たちは鏡を使わずに練習します。鏡を使うことを許していないのです。壁を見、相手を見ることでさまざまなことを感じ取る。自分の外部を感じるのです。そして自分を感じる。」

ダンサーが鏡を見るのは必須だが、自分を疎外することにもなる。バットシェバ舞踊団を見ていて、複雑な振りをしても、ダンサーが自分を保っているのが不思議だった。自分でいることが気持ちよさそうに見えるし、見ている方も気持ちがいい。しかしパフォーマンスについて何かを言う気にはなれない。見せるために踊っているように見えないから(辛うじて作品化されているものもあるが)。

以前、新国立劇場バレエ団の米沢唯が、「子供のころから本が好きで、近視になった。高校の頃、レッスンでメガネを掛けて鏡を見たら、自分のラインが汚いのに驚いた」といったようなことを語っていて、さもありなんと思った。つまり自分を疎外しないで踊っていたのである。そのことが今でも、米沢を唯一無二のダンサーに仕立てている。

もしギエムがパリ・オペラ座バレエ学校に入らなかったら(体操選手になっているだろうが)、似たようなことが起こったのではないか。米沢の好きなジゼル・ダンサーがギエム、と言うのも、よく理解できる。ギエムは引退後やりたいことに、アーチェリー、太極拳、陶芸を挙げている。全て精神性の高いものだ。米沢の父、竹内敏晴が弓道をやっていたことを思い出した。(12/18)

 

★[ダンス]  whenever wherever festival 2015 山川冬樹×山崎広太『感応する身体』 (2015年12月11日 森下スタジオB)

舞踏の山崎広太が、ホーメイ歌手で現代美術家山川冬樹と共演した。山崎が毎年主催する「whenever wherever festival」の一環である。今年の主題は「不可視の身体」。キュレーターを4人立て、その中の生西康典が企画した。

スタジオにはフェスティバル共通のインスタレーション(木内俊克)が設置されている。長方形の空間に楕円を描く浮遊物。木や透明プラスチックの板、長細い布が、金属の釣り具によって中空に浮く。山川はそこに裸電球付シンバルをぶら下げ、あちこちにマイクやスピーカーを仕込み、スタジオ中央の壁際にスタンドマイクや打楽器、シャベル、笙などの楽器を置いた。山川の出で立ちは上半身裸、スキニーパンツ、腰まで届く長髪、山崎は白の柔らかな長袖シャツにパンツ。

共演は最初から不穏な空気に包まれた。山川の作る薄暗い空間(中央のシンバル照明を地上20㎝程に設置)は、山崎の身体を神秘的に見せていたが、突然山崎は照明盤に突進し、明かりを付ける。少し踊っては消し、急に部屋から出ては戻るなど、空間への苛立ちを隠さない。それでも山川の作る音(ホーメイ、シャベルの打音、シンバルの蹴り、心臓の鼓動、頭蓋骨の打音等を、増幅、フィードバック)に何とか寄り添う気配を示しながら、そこに踊りを介入させようとする。

山崎が体で距離を測ろうとしていたのに対し、山川はあくまでマイペースで音を作る。さらには四つん這い走りや、狼の咆哮まで繰り出して、対話のないまま、出たとこ勝負が続く。山川がガラスの照明をぶん回し、それが山崎の頭に当たった時が、潮の分かれ目だった。山崎は「テメェ、やりやがったなー」と叫んで山川の腹に突撃。「パフォーマーは相手に触れてはいけない、そうじゃないすかっ」と納めて、歩き始めると、山川がその背中にぴったりくっついて歩く。さらに遠吠えする山川の体を、山崎が両手で象って和解した。山川の笙(生音)に山崎がしっとり踊る場面が、唯一、正気のコミュニケーションだった。山川はその後、脚立から天井の梁につかまり、中空の板に乗って揺さぶる。梁を伝って端から端へ。山崎は腰に手を当てて、「注意してください、落ちるかもしれません」。天井ライトの側に小動物のように蹲る山川。山崎の「僕はまだやりたいんですが、(彼が)降りられないので、これで終わりにしていいですか、生西さん」で終わりになった。

山崎は対話のできない相手に、ストレスを感じていただろう。いつものように踊りが深まり、観客と共にどこかへ旅をすることはなかった。一方、山川は喜んでいたのではないか。山崎の喃語付の突っ張り踊り、四方へ広がるクネクネ踊りに、自分の野生や狂気の蓋が開いたのではないか。子どものように喜んで、次から次へと色んなことをやってみて、最後は天井に登ってしまった。

見終わって、即興であっても(だからこそ)、ダンサーがいかに伝統や様式を前提としているか、体を使っていかに高度なコミュニケーションを行なっているかを、改めて思い知らされた。山川のマイペースは美的、山崎の対話を求めての苛立ちは倫理的、その対立は明らかだった(フェス最後のトークで、山崎自身はこれを「モダニズムポストモダン」と称したが)。

今回の“ディスコミュニケーション”を顕現させたのは、山崎の舞踊に対する真摯な姿勢と、懐の深い糊のような身体があったればこそである。誰がこれ程までに「破れた場」を作れるだろうか。

キュレーター:生西康典 出演:山崎広太、山川冬樹 空間デザイン:木内俊克、山川冬樹 音楽:山川冬樹 主催:ボディ・アーツ・ラボラトリー 助成:公共財団法人セゾン文化財団、芸術文化振興基金  *『ダンスワーク』73(2016春号)初出(2016.7/6)

 

★[バレエ]  テアトル・ド・バレエ・カンパニー深川秀夫版『コッペリア

名古屋市を本拠とするテアトル・ド・バレエ・カンパニーが、芸術監督の深川秀夫による『コッペリア』を上演した。深川版の特徴は、牧歌的世界に魔術的な存在を投入したこと。自ら演じるコッペリウスをドロッセルマイヤーのごとく、世界を支配する人物に設定している。最後はバルコニーに登場して皆を見守り、彼らの挨拶を受ける幕切れである。

マイムの舞踊化、ディヴェルティスマンの抽象化など、モダンでスピーディな演出だが、一方で「曙」をトロワのアダージョで見せるなど、古風な伝統も顔を覗かせる。深川の欧州経験の一端を見た思いだ。振付は高難度。特にスワニルダはアン・ドゥダン回転のソロが多く、三幕コーダまで全編踊り詰めである。

コッペリウスを踊った深川は、軽やかなステップに洒脱な演技で物語を牽引。脚のラインの鮮やかさが、華麗な技巧を誇った往時を偲ばせる。スワニルダの畑戸利江子、フランツの西岡憲吾に対する視線に、技術を受け継ぐ者への深い愛情が感じられた。

畑戸は芝居心たっぷりのお転婆娘。大胆なフレックス足がよく似合う。鮮烈な足技、遠心力のある5回転+四方向フェッテ、踊り続けても息切れしないタフネス。難技をあっさりやってのける舞台マナーは、深川の薫陶によるものだろうか。一方西岡は、美しいライン、清潔な踊り、確かな技術の揃ったダンスール・ノーブル。爽やかなフランツだった。

オーディションで選ばれた8人のスワニルダ友人の練度の高さ、永田瑞穂の気品に満ちたアダージョ(曙)、梶田眞嗣、長谷川元志等、男性ゲストダンサーの覇気あふれる踊りが、隅々まで深川の息吹が行き渡った独自の『コッペリア』を支えている。演奏は河合尚市指揮、セントラル愛知交響楽団。(12月17日 愛知県芸術劇場大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2016.2/15)

 

★[演劇][ダンス]  SCOT『エレクトラ』『鈴木演出教室』

標記公演を見た(12月19、21日 吉祥寺シアター)。SCOTの公演は思い出したように見ていたが、途中で出たり、鈴木忠志トークの方が、公演そのものよりも印象に残っていたりで、よく分からない演出家だった(SCOTが Suzuki Company of Toga であることを今回初めて知ったくらい)。なぜ足を運んだかというと、Noizm の金森穣が私淑しているので、それを確かめに行ったのだ。

金森は鈴木の演劇理論と、日本の身体を取り入れたメソッドに大きな影響を受けている。だが本質的には、金森の方が戯曲・台本を生かす演出家であり、それに即した振付ができる(当たり前)振付家だと思う。

今回も公演やメソッド(それはそれで面白かったが)よりも、鈴木の言葉や身体の方が、印象に残った。チャンバラごっこをしていた男の子と、明晰な理論家が、それぞれ純粋な形で鈴木の中にいる。祖父が義太夫の師匠だったことと、その後の知的教育を、何とか融合させようとしてきた果ての姿。鈴木の歌舞伎や、能の声色、体の切れは凄まじかった。「ギリシャ悲劇は体をセンターに置いて、神に向かって喋る。チェーホフは少し斜めに、別役や平田(オリザ)は並んで、任侠物(と言ったのか聞こえなかったが)は、斜め後ろから喋る」を、声と身体の質を変えて模範演技した。その真っ直ぐなエネルギーと華やかなオーラ。鈴木が SCOT のスターなのだと思った。それを証明するように、客席には着物姿の奥様たちが当たり前のようにいる。やはり義太夫の血筋なのだろうか。鈴木の理論については現在、中村雄二郎との対談集『劇的言語』を読んでいる最中。(12/22)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形

標記公演を見た(12月19、22、23、26昼夜、27日 新国立劇場オペラパレス)。いつも通り、全キャストを見る強行軍だったが、体のほぐれる自然な観劇体験。大原芸監による有機的な配役と細かいステージング、指揮者バクランの繊細な音楽作りがその理由だろう。

牧阿佐美版は、クララと金平糖の精を分ける伝統的な演出に、ワイノーネンのアンサンブル振付、牧自身の音楽的なディヴェルティスマン、ダニロワ直伝の二幕アダージョを組み合わせたもの。美術のオラフ・ツォンベックのコンセプト(クララが新宿副都心のマンションから、20世紀初頭のドイツへワープし、再び戻ってくる)は、東京所在国立劇場のレパートリーにふさわしい。ツォンベックは衣装のスタイルをタイタニック沈没(1912年)より少し前に設定。その洗練されたモダニズムは、エルキュール・ポアロのテレビ版を思い出させる。個人的には「花のワルツ」の衣装(と装置)が、理屈抜きに好き。子どもの頃、児童文学を読んで憧れたような舞踏会ドレスだ。ツォンベックは「このバレエを通して、人間の持つ内面的美しさ、平和や調和といった美質を描きたい」と語っている(09年初演プログラム)。

また『くるみ』初登場のバクランは、「『くるみ割り人形』には、非常に精神性の高い曲が散りばめられています。だから、音楽家や指揮者は、心に偽りや不誠実があると弾けません。序曲や第1曲は子どもの世界を描いた曲です。子どもは心がとても清らか。ですから我々大人も、子どものようなピュアな心で演奏しなければいけません」と語っている(『The Atre』2016年1月号)。当然ダンサー達も、以上のような心持で演じなければならない。

金平糖の精は5人。全員が技術に秀で、主役としての器もある。ただ無心、無私ということで言えば、筆頭は長田佳世。米沢唯が命がけの献身、柴山紗帆が微細なクラシカル・スタイルの実践で、その後に続く(誰よりも細かい)。木村優里は大きく、華やかで、プリマの風格があるため、小野絢子はずっと矢面に立たされてきたせいか、本来の自分と乖離しがちなため、上記の条件からは外れる(両者ともパフォーマンス自体には何の問題もない)。

小野は今後、自分に即した踊りを追求するよう、方向転換すべきだ。江戸前のシャキシャキ感、キュートでチャーミングな持ち味を生かす方へ。周囲の期待に応えることを止めて、あるべき自分ではなく、今の自分を愛して欲しい。バーミンガム出発前日のオデット=オディール、転倒した後にバリバリ踊ったシルヴィア、コルネホに翻弄されても押し返したベラが、本来の小野。「カカカ」と笑う鉄火肌オディールが忘れられない。

今回最も音楽を感じさせたのは、ドロッセルマイヤーの貝川鐵夫。ツリーが大きくなる場面では、貝川の体を通してチャイコフスキーの音楽が流れた。江本拓のワルツソリストは、繊細なエポールマンが素晴らしい。まさにクラシカルな体。同様にハーレキンの美しい爪先も。また輪島拓也扮する夜会老人のリアリティ+ユーモア、原健太の無意識の存在感、八木進のコメディセンス、宇賀大将の明るさ、女性では川口藍のワルツソリストが印象深い。東京フィルは、6月の『白鳥の湖』とは打って変わった充実ぶり。バクランの緻密な解釈を具現した。(12/30)

 

[バレエ]  東京小牧バレエ団『火の鳥』『憂愁』

東京小牧バレエ団が創作物のダブル・ビルを企画した。佐々保樹振付『火の鳥』と、菊池唯夫・宗振付『ショパン賛歌~憂愁』である。

佐々版『火の鳥』(92年)は、「小牧正英のエスプリ」を受け継いだ新版。概ねフォーキン版に沿った場面展開だが、カッチェイ手下の踊りをクラシック語彙に変えた点に、大きな違いがある。スピーディな舞踊場面は現代的。だが一方で、視線や繊細な腕使いにより、登場人物の感情を表出させる手法も駆使する。心理の襞に分け入るこのアプローチは、佐々がチューダー門下であることを思い出させた。

火の鳥の倉永美沙(ボストン・バレエ団プリンシパル)は、艶やかで気品ある佇まい。爽やかなイワン王子のアルタンフヤグ・ドゥガラー(同団セカンド・ソリスト)と情熱的なパ・ド・ドゥを繰り広げた。金子綾の情緒細やかなツァーレブナ、田中英幸の存在感あふれるカッチェイも素晴らしい。男女アンサンブルも佐々のストイックなスタイルを体現している。

同時上演の『憂愁』は、ショパンのピアノ生演奏(一部チェロが参加)と美しい映像を背景に、放浪の青年(李波)を主人公としたロマンティックな物語が展開される。青年が精霊たちを夢に見るバレエ・ブランが素晴らしい。振付はアラベスクとパ・ド・ブレのみだが、フォーメイション、首の傾げ方、腕の伸ばし方で、静かな詩情が生み出される。ポアント音は聞こえず。5月の『ジゼル』第二幕を思い出した。

一方青年が、既に結婚していた元許嫁(周東早苗)に出会う夜会は、女性の淑やかさと、男性のノーブルなエスコートが特徴。周東の情感、娘・藤瀬梨菜の純朴、サロンの主人・原田秀彦の粋、その妻・森理世(07年ミス・ユニバース)の美貌が印象深い。ピアノ演奏は斎藤龍、チェロは豊田庄吾が担当した。(12月20日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2962(H28.2.1号)初出(2016.2/9)

 

★[バレエ]  松崎すみ子バレエ公演『幻覚のメリーゴーランド』

バレエ団ピッコロ主宰の松崎すみ子が、8年ぶりに個人のバレエ公演を催した。『幻覚のメリーゴーランド』、『鳥』(共に94年)の再演に、松崎えりのコンテンポラリー作品『vulcanus』を加えた創作集である。

『幻覚のメリーゴーランド』はベルリオーズの半生を描いた作品。円形劇場のような階段と、後半降りてくる銀色の半円天井飾り(美術・前田哲彦)が、作品世界を大きく規定。ロマンティックな主題に様式的な枠組を与え、作品に深度を加えている。ベルリオーズの『幻想交響曲』を中心にシューベルト、現代曲、ロックなどを組み合わせた選曲が素晴らしい。音楽を体で味わい尽くし、音楽と融合する松崎(すみ子)の才能を、遺憾なく発揮させる音楽構成だった。

主役の作曲家を志す青年には、新国立劇場バレエ団の山本隆之。女性に囲まれても男性に囲まれても独特の色気を発散する。ロマンティックな主題や音楽に自己を完全に没入させられると同時に、主役として舞台を冷静に掌握し、作品を推進させる力量がある。さらにサポートの凄さ。倒れながらのサポートもさることながら、サポート自体を踊りに昇華させる能力は、現在山本にしか見ることができない。阿片吸引や指揮ぶりも鮮やか。

青年が憧れる女優には下村由理恵。気高いオーラに包まれた女優と、幻想シーンの蠱惑的な女奴隷の両方を、完璧に演じる。また下村を奪う友人役には佐々木大。大技満載のダイナミックなソロで個性を発揮した。

ミック・ジャガーのような死神・篠原聖一の貫禄のソロ、手下の黒ずくめの男・能美健志の、阿波踊りのような妖しい手つきを加えた切れ味鋭いソロが、青年を死へと誘う。音楽の精・西田佑子の清潔な踊り、主人を見守る小出顕太郎の道化道の素晴らしさ。常連大神田正美の存在感も破格だった。黒タイツのシンフォニック・バレエシーンを含め、松崎のクリエイティブなエネルギーが爆発した名作である。

同時上演はピアソラを使った『鳥』。小原孝司の親鳥を中心に、左右4人が鳥の羽ばたきを象るフォーメイションが面白い。西田と橋本直樹のしっとりとしたパ・ド・ドゥ、小出顕太郎のコミカルな場面が、作品に膨らみを与えている。

松崎えり作品は、増田真也とのデュオ。様々な局面を見せてきた二人の踊りだが、今回は照明も含めて美的である。ただし、デュオの妙味であるコンタクトによる身体の変化や、松崎のオーガニックな空間構成が(照明との絡みで)見られなかったのは残念だった。(12月23日 東京芸術劇場プレイハウス) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2016.2/15)

 

★[バレエ][ダンス]  「2015年バレエ総括」

2015年バレエ公演を振り返る(14年12月を含む)。 今年は芸術監督の力について考えさせられた。昨年就任した新国立劇場バレエ団の大原永子芸術監督、就任3年目の久保綋一NBAバレエ団芸術監督、今年就任の斎藤友佳理東京バレエ団芸術監督である。前二者は海外で現役生活を全うし、大原はバレエミストレスも経験。後者はロシア国立舞踊大学院バレエマスター及び教師科を、首席で卒業という経歴である。三者に共通するのは、優れた演出力(久保は振付も)、的確な配役、ダンサーの可能性を伸ばす指導力である。

大原は新加入ダンサーの即時抜擢など、一貫した芸術的基準の下に、平等でダイナミックなダンサー采配を続けている。『ラ・バヤデール』では、小野絢子、米沢唯、福岡雄大のトップスリーを組ませ、技術的にも演劇的にも高度な舞台を演出した。テレビ放映された『白鳥の湖』は、マイム役から民族舞踊に至るまで、国立の名にふさわしい格調の高さを誇っている。

久保のバレエ団改革は、まず観客のために舞台を作ることだった。公演数の増加に加え、ダンサーの技術・演技の向上も目覚ましく、若者に開かれたバレエ団に成長させた。創作では『HIBARI』、古典では『ドン・キホーテ』で成果を上げている。

斎藤はワシーリエフ版『ドン・キホーテ』の舞踊譜を作ったことで有名だが、芸術監督になってからの同版は、さらに磨きがかかった。音楽性と演劇性の融合した細やかなマイム、主役ダンサーの役作りの深化は、明らかに斎藤の手に拠るものである。

劇場付属・給料制ダンスカンパニーを長年維持している金森穣Noism芸術監督は、アジアの身体とダンス・クラシックを結び付けた『Training Piece』(『ASU』第一部)、童話に現代批評を投影した『箱入り娘』、井関佐和子讃歌『愛と精霊の家』を創作した。『Training Piece』はバレエ団のレパートリーに最適。

海外来日公演では、ファテーエフ芸術監督下のマリインスキー・バレエが変貌を遂げた。古典、ソビエト・バレエに、演劇性重視の緻密な解釈を加え、現代のレパートリーとして蘇らせている。

国内振付家はベテラン健在。関直人(杉並洋舞連盟、井上バレエ団)の音楽性、佐々保樹(東京小牧バレエ団)の演劇性は他の追随を許さない。コンテンポラリー系では、オーガニックな島崎徹(日本バレエ協会)、スタイリッシュな井口裕之(テアトル・ド・バレエ・カンパニー)、音楽的な貝川鐵夫(新国立劇場バレエ団)、激烈な舩木城(バレエシャンブルウエスト)が、バレエ界に新たなレパートリーを提供。

海外振付家では、チューダー(スターダンサーズ・バレエ団)、クランコ(シュツットガルト・バレエ団)、ダレル(新国立劇場バレエ団)、マクミラン小林紀子バレエ・シアター)という英国の系譜を概観できた他、ヴィハレフ(日本バレエ協会)、アリエフ(谷桃子バレエ団)、ブルジョワ(京都バレエ団)が、それぞれマリインスキー・バレエパリ・オペラ座バレエ団の伝統を、演出・振付で伝えている。

女性ダンサーは、上演順に、酒井はな(ゲッケ)、井関佐和子(金森)、米沢唯のガムザッティ、永橋あゆみのメドーラ、小野絢子のベラ、長田佳世のオデット=オディール、志賀育恵のジゼル、島添亮子(マクミラン)、青山季可のジゼル、本島美和のジュリエッタ。番外は長谷川六、白河直子と寺田みさこ(笠井叡)。

男性ダンサーは、芳賀望のフランツ、井澤駿(ノース)、福岡雄大のヨハン、齊藤拓(坂本登喜彦)、小尻健太(金森)、山本隆之(チューダー)、大森康正のバジル、ラグワスレン・オトゴンニャム(ウォルシュ)、菅野英男のホフマン。番外はベケットを踊った山崎広太。

海外ゲストでは、小野絢子に大きさを与えたムンタギロフ、同じく小野の規範の殻を破ったコルネホが印象深い(新国立)。 今年はKバレエカンパニーの熊川哲也芸術監督が専属オケを作って10年、同音楽監督福田一雄は指揮活動60年を迎え、その記念コンサートも開催された。 *『音楽舞踊新聞』No.2961(H28.1.1/15号)初出(2016.1/8)