2016年公演評

★[バレエ] 日本バレエ協会関東支部神奈川ブロック『白鳥の湖

日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックが、第32回自主公演として『白鳥の湖』全四幕を上演した。演出は橋浦勇。同ブロックにはこれまで『シンデレラ』と『眠れる森の美女』を振り付けている。今回の『白鳥の湖』は、氏の舞踊美学の全てを注ぎ込んだ、言わば集大成。所縁のある貝谷八百子版、小牧バレエ団のスタイル、英国ロイヤルバレエ旧版の演出を随時取り入れた、自伝的演出とも言える。

演出の特徴としては、振付全般に見られる内的必然性、マイムの優美なスタイル、ダンサー出し入れの美的・合理的裏付けが挙げられるだろう。さらにベンノの存在の大きさ。王子が内面を吐露する一幕ソロには踊りで介在、二幕アダージョでは王子をサポート(ロイヤル版)、三幕では王子の誤認を正そうとする。学友の域を超えた親友のような結びつき。本来なら王子の死を見届ける役回りだろう。

他に、一幕の貴族と農民の区分けの明確さ、左右両回りを重視する身体のシンメトリー、白鳥フォーメイションのすっきりとした美しさなど、演出・振付上の美学が、全編に刻まれている。終幕はオデット、王子自死の後、ロットバルトが倒れ、白鳥たちが残される。ドゥミ・ポアントで歩み出て、向こう向きに座り、静かに羽ばたきを続ける白鳥たち。音楽も、ハープの余韻を残す静謐な終わり方だった。

主役の王子ジークフリートには、ベテランの域に入った清水健太。落ち着いた優雅な佇まい、舞台を掌握する懐の深さ、ノーブルでパトスに満ちた踊り、対話のようなパートナリングが揃った、円熟の王子だった。 オデットには若手の佐藤愛香、オディールには経験豊富な樋口ゆりという適役が配された。佐藤はラインの美しさはもちろん、振付の全てに細やかな感情が入る。清潔なオデットだった。一方、樋口は鮮やかな脚線を駆使して、濃厚で華やかなオディールを造型。コーダでは清水と横並びで、脚技満載の火花を散らす踊り合いを易々とやってのけた。

脇役も適材適所。橋本直樹の献身的で情熱あふれるベンノ、高岸直樹の高貴で大きさのあるロットバルト、尾本安代の貫禄の王妃、佐藤禎徳の賑やかなヴォルフガング、荒井英之の愛らしい道化等が、橋浦演出を支えている。 橋本とトロワを組んだブロックの綾野友美、山本晴美の優雅なスタイル、確かな技術が素晴らしい。白鳥群舞は一人一人が意志を持って運命を受け入れている。ソテ・アラベスクの入場は、明るい哀しみに包まれていた。

音楽アドバイザーは福田一雄、音楽構成は江藤勝己。指揮の御法川雄矢が、俊友会管弦楽団からドラマティックな音楽を引き出している。(1月10日 神奈川県民ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2/15)

 

★[バレエ] 谷桃子バレエ団『眠れる森の美女』

谷桃子バレエ団が恒例の新春公演を行なった。演目はバレエ団初の『眠れる森の美女』。演出・振付は昨年の『海賊』に引き続き、元キーロフ・バレエのプリンシパル、エルダー・アリエフ、監修は同じくイリーナ・コルパコワである。

アリエフ版『眠り』は『海賊』同様、隅々までアリエフの血が通っていた。まずはスタイルの徹底。『海賊』はソビエト色が濃厚だったが、『眠り』はプティパ時代の優美で調和のとれたスタイルに統一されている。芝居も大仰さを避け、自然体。マイムはセルゲーエフ版を基にしているため少な目だが、舞踊が突出することもなく、まるで水が流れるように物語が進行する。

主な改訂は、一幕の編み物シーンを間奏曲に変えた他、一幕ワルツ、二幕パ・ダクション、三幕「シンデレラとフォルチュネ王子」が新たに振り付けられた。ワルツは農民たちの楽しげな様子がよく伝わる牧歌的な味わい、パ・ダクションは幻影のオーロラ姫と王子が通常よりも接近し、しっとりと愛を歌い上げる。「シンデレラと王子」は、物語が明確に伝わるクラシック・パ・ド・ドゥの傑作。『海賊』同様、愛のパ・ド・ドゥに、アリエフの優れた振付手腕が発揮された。

主役キャストは3組。その初日を見た。オーロラ姫の永橋あゆみは、理想的な造型。踊りに透明感があり、優美で自然。調和、気品、慎ましさを体現する。二幕ソロでは、難度を上げたアンシェヌマンで、幻想的な燦めきを表現した。触れることのできないイデアの世界を、コントロールされた肉体で現出させる離れ業を成し遂げている。

デジレ王子の三木雄馬は、ワガノワ仕込みの端正な踊りを披露。パートナーとの対話がもう少し望まれるが、ノーブルなスタイルをよく意識した王子像だった。

リラの精の佐々木和葉は、元来ロマンティックな美しいラインの持ち主。徒に大きさを見せるのではなく、体から滲み出るそこはかとないムードで、世界を統合した。オーロラと共に、アリエフ(またはコルパコワ)の『眠り』解釈の非凡さを示す象徴的存在である。一方、カラボス役のゲスト舘形比呂一は、柄としては適役であり、よく健闘していたが、アリエフ演出のエッセンスを伝えるには至らなかった。

フロリナ姫の齊藤耀と青い鳥の牧村直紀、シンデレラの山口緋奈子と王子の酒井大がみずみずしい踊りで、5人の妖精、宝石の精、森の妖精たちが生き生きとした踊りで、バレエ団の実力と層の厚さを証明している。指揮は河合尚市、演奏は東京ニューシティ管弦楽団。(1月15日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2/15)

 

★[ダンス] 西岡樹里×濱田陽平@『無・音・花』横浜ダンスコレクション

「若手振付家の発掘と育成」、「コンテンポラリー・ダンスの普及」を目的とする横浜ダンスコレクションが21年目を迎えた。今回から、従来の振付家コンペティションと受賞者公演に加え、オープニングプログラム、3カ国のアジア・セレクション、さらに日本・フィンランド・ダブルビルが組まれ、アジアのダンスプラットフォームにふさわしい陣容が整えられた。オープニングプログラムの『無・音・花』は、コンペティションの過去の受賞者、チョン・ヨンドゥの振付。4人のダンサーも同じくコンペティション出場者から選ばれている。同コレクションの歴史と成果を示す作品と言える。

共同演出には現代美術家丸山純子。もぎり入口からフォワイエに至る長い通路の所々に、身の丈50㎝程の白い造花が咲いている。芥子のような風情。銀色の錘で、地面からいきなり直立する。舞台には楕円ドーナツ状の白い花畑、ライトの加減で宙に浮いているようにも見える。近づくと複数の花弁の中に、「こけし」の文字や、赤、緑の色。手提げポリ袋から作られたこの「無音花~Silent Flower」から、作品の標題は採られた。

構成は二部に分かれ、間にチョン自身のソロが入る。前半はパク・ジェロクの音楽(太鼓のドーンにピアノのミニマルな音)が示す通り、韓国伝統舞踊のニュアンスが濃厚。戸沢直子、中原百合香、西岡樹里、濱田陽平とチョンの5人が、静かに出入りし、ソロ、デュオ、トリオをゆるやかに踊る。韓国舞踊の内向きの動き、前後開脚ストレッチ、中腰片脚立ち、片手を床に付いた横臥フォール、スパイラル回転、などを組み合わせたシークエンスを繰り返す。膨らませた右腕を内側に振る、右手、右脚を外側に回転させ、体幹を左に引く、といった韓国舞踊のニュアンスが、アスレティックな動きに優雅な質感を与えている。

続いて無音でチョンの内省的ソロ。ざっくりとした動きにチョンの素朴さ、大きさが滲み出る。太極拳のような体の溜め、狂言風の中腰、中腰片脚立ちに実質がある。途中、瞑想を促すような音楽が流れると、白い花が蓮に変異した。

後半は西岡と濱田のデュオから。一本の花にピンスポットが当たり、密やかな空気を醸し出す。胡座をかいた濱田の上に西岡が座り、横抱きになる図。濱田が立ったまま西岡の上に乗り、そのまま西岡の胴に脚を巻き付かせてのけぞる男女逆転の図。跪いた濱田の首の後に西岡が座り、バランスを取って立ち上がる軽業風。再び座った西岡を首に乗せたまま、濱田が象のように立ち上がり、奥へと歩く図。水滴音と電子音が微かに響くなか、互いの呼吸を測る、親密な体の対話が連続した。 西岡のコンテンポラリー・ソロの後、4拍子のミニマルなピアノ曲で、チョンを除く4人が中腰でくねるように歩く。くるり反転や片脚立ちをはさみ、韓国舞踊を思わせる八の字回りや、後歩きを加えて、心地よいリズムを生み出す。濱田、戸沢、中原、西岡の順に袖に入り、フェイドアウト

丸山の白い花は、芥子のように瞑想へと誘い、蓮と化して浄土を思わせる。死を内包するリサイクル(再生)のシンプルな花は、アジアの伝統と繋がるふくよかな中腰に、深い呼吸を伴うチョンの振付と呼応して、静かなエネルギーを発散し続けた。

チョンの振付には踊り手を、さらには観客を解放する力がある。一瞬たりとも身体と乖離しない正攻法の清々しさ。そこに洗練を加えたのが、西岡と濱田だった。共に音楽性に優れるが、西岡は音楽を生き、濱田は音楽を表現する。西岡の宮廷の女官を思わせる優美な体、首と腕の雄弁さ、中腰の色気、濱田の動線の美しさ、腕のしなやかさ、デュオでの親密な体が、振付の可能性を拡大し、日韓共同の意義を深めている。

2016年1月23日、24日昼夜  横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール 美術・演出:丸山純子、振付・演出・出演:チョン・ヨンドゥ、音楽:パク・ジェロク、照明:丸山武彦、音響:牛川紀政、衣裳:田村香織、主催:公益財団法人横浜市芸術文化振興財団、助成:平成27年文化庁国際芸術交流支援事業、日韓文化交流基金  *『ダンスワーク』73(2016春号)初出(8/7)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『ラ・シルフィード

新国立劇場バレエ団が13年ぶりにブルノンヴィル版『ラ・シルフィード』を上演した。同版はデンマーク・ロイヤル・バレエ団の初演以来、多少の変遷はあるにしても、途切れることのないレパートリーで、19世紀ロマンティック・バレエの貴重な遺産となっている。ブルノンヴィル版の主たる魅力は、大胆で輝かしい男性舞踊、練り上げられたマイム、闊達な民族舞踊にある。腕を使わない跳躍や脚技は、リール共々、強い体幹と脚力をダンサーに要求、コンパクトに切り詰められた独特のマイムも、上演のハードルを上げる。

主役は4キャスト。ジェイムズは覇気あふれる福岡雄大、ロマンティックな奥村康祐、美しい井澤駿、と個性を発揮したが、最もブルノンヴィルのニュアンスを伝えたのは菅野英男だった。雄弁なマイム、晴れやかなソロ、勇壮なリール。何よりもM字形のグラン・プリエを見せたのは菅野一人である。絵に描いたようなジェイムズだった。

シルフィードは出演順に、妖しい誘惑者の米沢唯、清潔な妖精の細田千晶、無邪気な妖精の長田佳世、コケティッシュな妖精の小野絢子と、これも実力と個性を発揮。中でも長田は、パを微塵も感じさせない生きた動きで、妖精の繊細さ、はかなさを体現した。

脇役で唯一ブルノンヴィルのマイムを見せたのが、エフィの堀口純。感情もこもっている。またマッジの本島美和が、深い役作り、音楽的なマイム、舞台を掌握する力で、終生の当たり役を手に入れた。W配役の男性マッジ高橋一輝も、力強い演技で存在を主張。意外な所では、若手のフルフォード佳林が、慈愛あふれるアンナを造型した。

ソリストからアンサンブルまで、ダンサー達は初めてのメソッドを前によく健闘したが、現地指導者が入らなかったせいか、前回ほどには、ブルノンヴィルの息吹を感じさせるパフォーマンスとはならなかった。

同時上演は、ラフマニノフの音楽(編曲ギャヴィン・サザーランド)にウエイン・イーグリングが振り付けた『Men Y Men』(09年、ENB)。初演は『ジゼル』の同時上演作だったため、9人の男性ダンサーをアルブレヒトに見立てた振付が施されている。アラベスクを読点にソロを始めるシークエンスが面白い。15分と短く、前座のような作品だが、自らの作家性よりも、ダンスール・ノーブルの美学をダンサーに伝えたいという、振付家の熱い気持が先行する後味のよい作品だった。 指揮はギャヴィン・サザーランド、管弦楽は東京交響楽団。厚みのある音作りだが、もう少し叙情性が加われば、さらに舞台を牽引できたかも知れない。(2月6日昼夜、7日、11日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2965(H28.3.15号)初出(3/18)

 

★[ダンス] 横浜ダンスコレクション『グロウリング Growling

標記公演を見た(2月10日 象の鼻テラス)。横浜ダンスコレクションのアジア・セレクション[韓国]の枠組みで、日韓ダンス交流プロジェクトの5回目に当たる。上演時間1時間10分の前半は、ソウルダンスコレクション2014受賞振付家のキム・ジウクと、横浜ダンスコレクションEX2015選出振付家のタシロリエによる二つのソロ、休憩を挟んで後半は、二人によるデュオという構成だった。

面白かったのはキムのソロ。デュオはその面白さを確認するためにあった。冒頭、汚れたスーツ姿の男が、背中を見せている。こちらを向くと、シェーヴィングクリームで顔が覆われていた。スーツから物を取り出して床に置く。その間、カラスのカアーだか、牛のモーだかに宗教曲風の音楽が流れている。カミテ奥の床にはRELIGIONのブロック。キムは上着を脱いで、床の物ともどもブロックに向かって押し込み、REの文字のみを残した(その前に顔を拭っている)。最初はややグロテスクな体形と汚れた衣装に引き気味だったが、ソロ後半の電子音の踊りからグッと惹きつけられた。ただ跳ぶだけ、ロボット系のクキクキ動き、イグアナorオオトカゲ動き(デュオの方だったか)の一挙手一投足に、強烈な思考を感じる。ストリート系の動きで実存を感じさせるダンサーを初めて見た。デュオではタシロへのパトスの投げかけが嵩じて、呪術のような熱さが動きに加わる。終幕の、体で机を測る動きは、研ぎ澄まされた知性とパトスのあり得ない融合だった。やはり韓国人と日本人の違いを考えてしまう。途中、山崎広太の踊り狂いを思い出しはしたが。

TPAMとの共通プログラムだったので、西洋人関係者が客席前列に陣取っていた。キムのソロが中盤にかかると、その中の女性一人が、体を震わせ始めた。隣の女性が背中をさすっている。以前、青山円形で、黒田育世の自分の脚を蹴るソロを見ていた時、韓国人の女性ダンサーが泣きじゃくっていたのを思い出した。先の女性は、次のソロになるとケロッとして、デュオの時分にはいなくなっていたが。(2/10)

 

★[ダンス] アイザック・イマニュエル『風景担体~LANDSCAPE CARRIER』@TPAM

標記公演を見た(2月13日夜 横浜・BankART Studio NYK 1F kawamata hall)。前回はSTスポットの狭い空間で、至近距離から動きを見ることができたが、今回は、簀子を壁面、天井にぎっしり敷き詰め、荷重(坪)20tと赤書きされた巨大な2本の柱が突っ立った空間である。消臭されているとは言え、物質が体全体に迫ってくる。柱の間から(中央部カミテ寄り席)、映像と、四角く切られた土間での動きを見る。

作品は4部から成る(部ではなく跡、trace と表示)。イマニュエルが過去に作った作品を構成したもので、映像の「遺棄された衣服を着る男」、「背負った鏡で風景を見せる男」、「長靴を背負う女」(福島麻梨奈と共作)、「荷物を背負って歩く男」を、それぞれ生身のイマニュエル、生実慧、福島麻梨奈、安藤朋子がソロで引き継ぐ形式だった。中央土間のソロと同時に、脇でも別の人がうっすらと動く(見えなかったりする)。ほとんどが向こう向きか横向きのうつむいた動き。安藤のみが正面の印象を与える。さらに言えば演技をしている。

跡4では、荷物を運び、自ら荷物となって横たわる安藤に、他の3人が簀子を背負って加わり、荷物の上に倒れ込む。さらに簀子を横長に立てて、こちらへと乗り越え、向き直って、安藤もろとも奥へと荷物を押しやる。最後は4人が向こう向きの幽霊立ちで、フェイドアウトした。

動きで印象に残るのが、跡1のイマニュエルのブリッジと、動きの寸止め。白井剛を思い出す。さらに終幕の簀子越え。最近「ダンスがみたい!新人シリーズ」で、ベテラン貞森裕児の素晴らしい梯子逆さ下りを見たばかりだが、それに匹敵する逆さ体だった。

シークエンスとしては、元倉庫の空間と呼応する簀子の終幕が圧倒的に生きていた。1時間物も作れそうだ。演出に寸分の狂いもなく、美意識に溺れることもなく、ストイックに身体追求する真面目な作品だったが、空間が凄すぎた。どうしてもミニマルな感じが残る。映像は跡4がミステリアスで面白かった。

もう一つ違和感があったのが、福島以外は土足だったこと。コンクリートの土間だから? 運ぶ人だから? ここに西洋人だから?を持ってくるのはおかしいだろうか。土足の舞踏の体。隔靴掻痒の感があるが、何か別の局面に至るのだろうか。(2/23)

 

★[バレエ][ダンス] 新国立劇場バレエ団「DANCE to the Future 2016

新国立劇場バレエ団が恒例の団員創作公演「DANCE to the Future」を開催した。今回は、団のオリジナル作品『暗やみから解き放たれて』(J・ラング振付、14年)を組み合わせた3部構成。舞台を小劇場から中劇場に移している。アドヴァイザーは前回同様、平山素子。企画発案者だったビントレー前芸術監督の暖かい孵卵器のような雰囲気は払拭され、作品を作り切る、自分を出し切ることへの厳しさが公演全体に漂っている。劇場の大きさもさることながら、平山のフリーランスとしての経験がそうさせたのだろう。

全7作が並んだが、クリエイティヴィティの点では、貝川鐵夫のソロ作品『カンパネラ』がずば抜けている。キリアン、ドゥアトの文脈下にあるが、貝川にしかできない有機的な音楽解釈、それを動きに変換する際の「無意識」の大きな関与が独自性を強めている。初めて聴くようなリスト、初めて見るような動き。初日を踊った宇賀大将の清々しい男らしさ、二日目、貝川自身の全てを出し尽くした踊りが素晴らしかった。

振付の点で個性を発揮したのは、福田圭吾の『beyond the limits of…』と、小口邦明の『Fun to Dance~日常から飛び出すダンサー達~』。福田の音楽性豊かなハードでスタイリッシュな振付語彙、小口のバーレッスンに始まる小気味よいリズム感覚。前者では寺田亜沙子の美しい肢体、後者では小野寺雄の鮮烈な踊りが印象深い。8人と6人のダンサーそれぞれの個性を生かし、尚かつエンターテイメント性にも優れた二作品だった。

一部、二部の幕開けは共に女性讃歌。髙橋一輝の『Immortals』と、原田有希の『如月』である。髙橋作品は、リヒターが再構築したヴィヴァルディの『四季』をバックに、女神のような盆小原美奈を6人の男性ダンサーが崇める。盆小原の艶のある美しいラインが印象的。一方、原田作品は7人の女性ダンサーが、原初的な女性合唱と苛烈な現代音楽で、女性の生々しい業を描き出す。共に神話の世界に遡るスケールの大きさがあった。

様々なスタイルの作品を作ってきた宝満直也は、優れたコンテンポラリー・ダンサー五月女遥とのデュオ作品『Disconnect』を発表。フェイドアウトを多用する暗めの空間で、男女のすれ違いをスタイリッシュに描く。早廻しのような高速の動きに特徴があった。

最後は米沢唯の『Giselle』。ジゼルのソロ曲で、初日は小野絢子、二日目は自身が踊る。先行者としてはマッツ・エックを踊るギエムが想像されるが、そうした社会的擦り合わせなしに作っているようだ。自分の中の塊を外に出すことに主眼を置き、さらに小野に対しては己自身に肉薄するよう、剥き出しになることを要求している。

団オリジナルの『暗やみから解き放たれて』は、東日本大震災津波に呑まれた多くの人々を追悼するレクイエムである。海の底で波に揺られながら生と死の狭間を生きている人々。ドーナツ状の白いぼんぼりが魂のように、また雲のように上下して、時の経過を表す。終幕、人々は暗やみから逃れ、明るい死の世界に向かって歩き始める。

瞑想的な音楽、美的な照明の美しい作品だが、やや散漫な印象を受ける。初演時セカンド・キャストが示したような解釈が加われば、日本のバレエ団が踊る意義はさらに深まると思われる。(3月12、13日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2968(H28.6.1号)初出(5/31)

 

★[バレエ] 日本バレエ協会『眠れる森の美女』

日本バレエ協会が都民芸術フェスティバル参加作品として、K・セルゲーエフ版『眠れる森の美女』を上演した。同版の特徴は、マイムを舞踊化し、音楽性や詩情を重視した点にある。ヴィハレフ復元版や英国系の版よりも登場人物が少なく、ややコンパクトな改訂版と言える。復元振付・振付指導はマリインスキー劇場バレエ団レペティトゥール・教師のマヤ・ドゥムチェンコ。一月に谷桃子バレエ団が『眠り』を上演した際、監修のコルパコワ、演出・振付のアリエフは、ロマンティック・バレエのスタイルを選択したが、マリインスキーの後輩ドゥムチェンコは、ワガノワ・スタイルで指導している。

主役、ソリストは全て3キャスト。新国立劇場バレエ団の新旧ダンサー、Kバレエカンパニーの元ダンサーが主要な役を占めて、全体のレヴェルアップが図られた。

初日のオーロラ姫は酒井はな。古巣の新国立で体に入ったマリインスキーの振付に、独立以後の様々な経験、現在の解釈が加わった酒井独自の造型である。終幕後、ドゥムチェンコが片膝を付いてレヴェランスしたことでも、その芸術的探究の深さは明らかである。一幕は以前と変わらぬ初々しさだが、体の捌きは前よりも鋭く、二幕では能のメソッドを生かし、体を殺した動きで幻想性を表現。三幕は気合いの入った華やかな明るさが特徴だった。一つ一つのパに、酒井の息詰まるような精緻な刻印が押されている。

二日目マチネは、元Kバレエカンパニーの松岡梨絵。リラの精のイメージが強く、動きの精度はカンパニー時代ほどには戻っていないが、主役として堂々と華やかな舞台作りだった。同ソワレは、新国立の小野絢子。英国系イーグリング版での作り込まれたオーロラ像が印象に新しいが、ドゥムチェンコの指導が合っていたのか、自分に即した自然なオーロラだった。一幕の愛らしさ、二幕の無心、三幕の輝かしさ。完璧な踊りが、目的ではなく、役作りの手段となっている。

デジレ王子初日は、ロマンティックな奥村康祐(新国立)。ノーブルな立ち居振る舞いをよく心掛けている。二日目マチネは、ダンスール・ノーブルの橋本直樹(元K)。踊りの美しさは当然、パートナーや周囲とのコミュニケーションに暖かさと大きさがある。橋本の舞台だった。同ソワレは、新国立の福岡雄大。小野同様、自分に即して、スポーティな資質を生かしている。剣がよく似合い、悪を打ち破って小野の元に駆け寄るたくましさ。決まったパートナーならではの自然な出会いだった。

リラの精には新国立のゴージャスな堀口純、美しいラインの寺田亜沙子が参加、適役であることを示したが、二日目マチネの平尾麻実が、腕を広げるだけで世界に秩序と調和を与えて、善の精を体現した。カラボスには妖艶な西島数博、踊りの切れで見せるトレウバエフ(新国立)に加え、京劇風女形の敖強が、役の性根を完璧に捉えた演技で、舞台を圧倒した。

フロリナ王女と青い鳥は、若手の塩谷綾菜と髙橋真之、中堅の今井沙耶と酒井大、ベテランの奥田花純と菅野英男が、それぞれ高レヴェルの踊りを披露。特に、若い塩谷の品格と身体コントロールには目を奪われた。

脇役にはベテラン勢を揃え、協会公演の底力を示したが、3回のうち最もアンサンブルを感じさせたのは、二日目マチネだった。プロローグから調和の取れた雰囲気が漂い、群舞も心なしか揃っている。新国立勢が一週間前までコンテンポラリー・ダンスを踊っていた影響が、或いはあったかも知れない。

指揮はアレクセイ・バクラン。演奏はジャパン・バレエ・オーケストラ。在京オケから、バレエ音楽に精通したメンバーを集めて編成された。(3月19日、20日昼夜 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』N0.2968(H28.6.1号)初出(5/31)

 

★[ダンス]山崎広太『暗黒計画1~足の甲を乾いている光にさらす~』 @ 踊りに行くぜ !! Ⅱ vol.6(2016年3月26日昼 アサヒ・アートスクエア)

山崎広太が日本で日本人ダンサーと共に作った作品を見るのは、久し振りの気がする。ニューヨークを拠点にしてからも、様々なソロ作品、様々な客演作品、セネガル、韓国、アメリカで地元のダンサーに振り付けた作品、日本の体育大生に振り付けた作品を、東京で見ることができたが、自ら選んだ日本人ダンサーとの、デュオ以外の作品は、『Night on the grass』(02年、03年)以来なのではないか。「暗黒」と「舞踏」にフォーカスし、合田成男に捧げられたこの作品は、土方巽へのオマージュだった。

出演は笠井瑞丈、武元賀寿子、西村未奈、山崎広太(プログラム掲載順)。山崎が時折マイクを手に喋り、残る3人がソロ、デュオ、トリオをゆるやかに、且つ激しく踊る形式。山崎は客席の背後で、民謡も歌う。山崎の11回に及ぶ発話は、意味を伝える言葉から始まり、意味を伝えない言葉を挟んで、最後は詩へと昇華した。土方の『病める舞姫』をテクストにしたソロ公演を、長年プロデュースしてきた(wwfes)山崎にとって、言葉は踊りを生む契機であり、踊りそのものでもあるのだろう。

作品は舞踏譜を使いながらも、圧倒的な生成感に満たされていた。その時その場で動きが生み出される。ダンサーが存在の底の底まで見せられるのは(武元の諧謔は別として)、山崎の暖かい気が舞台全体を包容しているからだろう。武元の狂った老女のような、それでいて透徹した眼差しを宿した涼やかな体。笠井の華やかで透明なアウラに包まれた熱い青年の体。笠井と西村の清潔な兄妹デュオは、山崎作品に繰り返される理想の関係である。

山崎自身は袖で思わず体を動かしながら、終盤には、シーアの『Bird set free』と『Alive』をバックに、西村と並列して明暗デュオを踊った。西村にはピンスポット、自らは薄闇で。二人が戦ってきたニューヨーク生活を思わせる、壮絶なデュオである。背後には武元と笠井が亡霊のように佇み、二人の歴史を見守っている。山崎の肉厚の体から迸るエネルギー。阿波踊り(女踊り)のような、タップのような上下動あり。かつての低重心は見当たらない。一方、手足の長い西村は腰高の舞踏。透明無垢の輝きを放って、壊れた人形になる。二人の刻苦勉励、アメリカでの戦いが、並列のデュオだからこそ、胸に迫った。

作品を作るために考える作家が多いなかで、山崎は常日頃考えていることが最終的に作品になる、真正のアーティストである。それゆえ作品には、常に山崎の現在の反映がある。メランコリックな『Night on the grass』から、解放のエネルギーにあふれた『暗黒計画1』までの13年。舞踏を人生の核として生きる山崎の姿は、学生服を内なる日本として抱え持つ、文化服装学院先輩の山本耀司とオーバーラップする。

 

*山崎の言葉(手書きメモからの抜粋) 「資本主義社会の背後に暗黒がある・・・考え事をしているとき、体は暗黒・・・なぜこの人はこう動くんだろう、そこに尊厳を感じる・・・湿気は暗黒の雰囲気・・・土方さんから、オイ青年、と呼ばれた、酔って寝ていたら、いつの間にか土方さんが布団に入っていて、ずっと寝言を喋っている、子どもは闇をむしって喰う、それが暗黒、土方さんも同じようにして暗黒舞踏を作った・・・足が海鞘のように膨れた、足の甲をかわいた光にさらすと、腫れが引いた、金色の物が降りてきて・・・」

振付:山崎広太、出演:笠井瑞丈、武元賀寿子、西村未奈、山崎広太 音楽:菅谷昌弘 衣裳:山崎広太 技術監督:關秀哉 舞台監督:渡辺武彦 照明:伊藤雅一 音響:齋藤学 プロデューサー:佐東範一 プログラム・ディレクター:水野立子 主催:文化庁NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク  *『ダンスワーク』74(2016夏号)初出(7/6)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ

標記公演を見た(5月3、4、5、7日 新国立劇場オペラパレス)。改訂振付はアレクセイ・ファジェーチェフ。ゴルスキー版の流れを汲む簡潔な演出。あまり辻褄合わせをせず、キャラクター色の強い踊りと古典バレエの見せ場を、ダイナミックに繋ぐ(辻褄が合い、19世紀の香りがするのはヴィハレフ版)。梶孝三の明るいフラットな照明は、「踊り自体を見せる」という信念に基づいている。今では貴重な照明アプローチだ。

今回は全体に品のよい仕上がりだった。主役、ソリストの技術が保証され、必ずしも熟練とは言えないが、全員芝居が徹底されている。何よりも、東京フィル率いるマーティン・イェーツの指揮が素晴らしかった。ミンクス(他)の音楽が、これほど気品にあふれたことがあっただろうか。2幕カスタネットの踊り(カルメンシータ)の曲が、耳に付いて離れない。

主役は3組。米沢唯と井澤駿の初日は、米沢の座長芝居が際立った。踊りながら、パートナーや周囲を牽引し、舞台を作り上げていく。米沢の集中力は映画女優田中絹代を、演出力は舞台女優の杉村春子(小津組の4番バッターでもある)を思わせる。隅々まで神経の行き届いたライン、代名詞となった回転技、全身を使ったコミュニケーションも素晴らしく、古典ダンサーとして成熟の一途を辿っている。井澤はすくすくと成長し、あるべき姿を目指している。『ロミオとジュリエット』で二人がどのような変異を遂げるのか、楽しみ。

小野絢子と福岡雄大は、磨き抜かれた3幕アダージョに、二人の長い歴史を感じさせた。1幕での小野は、大きく見せようとする意識がやや透けて見える。山椒は小粒でもぴりりと辛い。日本バレエ協会『眠れる森の美女』では、小野、福岡とも伸び伸びと踊っていた。ロシア人指導者と息が合ったのか、あるいはアウェイの方が気持ちが楽なのだろうか。

木村優里と中家正博は、中家の正統的才能に目を奪われた。牧阿佐美バレヱ団に入団した時も、逸材であることは明らかだったが、今回の古典全幕主役で、本物だったことが証明された。正確なポジションが生み出すラインの美しさ、行き届いた技術、サポートを含む優れたパートナーシップ、さらに観客に開かれた舞台姿勢。踊りは優雅で力強く、ゆったりとした中にも、厳しさがある。バレエ団男性ダンサーの配置を組み替える才能である。一方、木村は1幕では何か迷いが感じられたが、2、3幕のチュチュ姿は華やかな大きさを誇った。3月のチャコット主催『バレエ・プリンセス』(伊藤範子演出・振付)では、白雪姫の内面を表す苦悩のソロを踊り、ドラマティックな資質が明らかになった。今後、マノンや椿姫のような役どころが予想される。

今回は主役3キャストを含め、配役を読み解く面白さがあった。大原監督がダンサーをどのように捉えているか、どのように育てようと思っているか(小柴富久修のエスパーダ!)がよく分かる。一方で、立ち役は初役が多く、さすがに、前回の山本隆之(ドン・キホーテ)、吉本泰久(サンチョ・パンサ)、古川和則(ガマーシュ)、輪島拓也(ロレンツォ)が作り出したような、即興的自在さを感じさせるには至らなかった。4人全員が舞台経験を積んだ、味のあるダンサーだからこそ可能な演劇空間。キャラクターのプリンシパルダンサーを抱える余裕が、国立のバレエ団にもないことは、残念というしかない。

初役でも爆発的面白さを見せたのが、ロレンツォの福田紘也。さらにフルフォード佳林が超脇役と言えるロレンツォ妻役で、見せ場を作った。二人とも持って生まれた才能があるのだろう。初役ではないが、八幡顕光のサンチョ・パンサは、一分の狂いもなく音楽とシンクロする動きが素晴らしかった。

街の踊り子・長田佳世の美しい体、同じく寺田亜沙子の美しいライン、メルセデス・本島美和は公爵夫人でも周囲に祝福を与えた。役を生きている。カスタネットの堀口純、森の女王の細田千晶ははまり役。エスパーダの小柴は、踊りの切れはこれからだが、ユーモアがあり、相手と対話のできる点が長所。キューピッドの広瀬碧は愛らしく、小キューピッドとの呼吸合わせに優れていた。中家のボレロは理想形。牧で踊ったエスパーダ(初役時)を思い出させた。また、ベテラン江本拓の粋で美しいトレアドールは、男性ダンサーの模範である。(5/16)

 

★[ダンス] アキコ・カンダ・ダンスカンパニー『愛のセレナーデ』

標記公演を見た(5月15日16時 東京芸術劇場シアターイースト)。カリスマ・ダンサーだったアキコ・カンダが亡くなり、残された高弟たちが、そのレパートリーを守ると同時に、新作を発表している。構成・演出の市川紅美は、ジャック・ルーシェ編曲のバッハで『遥かの道へ』、森比呂美はラフマニノフで自演ソロ『遠い声』。市川作品は、グレアムのボキャブラリーを駆使したバランシン張りのシンフォニック・ダンス。今回は床を使わず、細かいステップを刻み込んだ振付で、ベテラン達にはやや困難な作品に思われた。そうした中、唯一茶髪の若手ダンサーが、市川振付の機微をよく捉えて、作品の全貌を明らかにした(彼女は『愛のセレナーデ』にも出演したが、カーテンコールでは涙ぐんでいる様子も)。音楽性と運動性に優れた市川作品は、若手を鍛えるのに最適だと思う。一方の森作品は、アキコの抒情性を受け継いだ、ベテランならではの味わいだった。

アキコ作品は、83年の『愛のセレナーデ』(音楽:クレイダーマン)と93年の『牧場を渡る鐘』(音楽:ケテルビー)。前者は群舞、デュオ、ソロの10曲で構成され、途中フラメンコ調の振付が入る、情感を重視した昨品。10年後の『牧場』では、アキコの鋭い音楽性が際立った。グレアムの語彙が多く用いられているせいか、ダンサーたちは踊り込むにつれて、体が無意識に動き始め、巫女のような高揚感を身にまとう。観客にもそれが伝染し、劇場は祭儀的な空間に変貌した。

カンパニーの公演を見るたびに思うのは、グレアム・メソッドの威力。バレエの空間使いが基本にあるが、斜めやスパイラルの動き、床との親密性が、内側からの感情を生み出しているようだ。 Martha Hickmanによるグレアム・メソッドのクラス(YouTube動画)では、床を使った動きが、ヨガや座禅を連想させる。斜めの動きは東南アジアの踊りを、片脚を回しながら座り込む動きは太極拳を思わせる。ヒックマンは小太鼓でリズムを取りながら指導、ダンサー達にはストイックな修行者といった趣がある。他の映像ではピアノを使い、感情を表に出すようなクラスもあったので、何が正統なのか分からないが。ピラティスとの関連も言われ、ネイティヴ・アメリカンのダンスとコンセプトが近いとの指摘(Siobhan Scarry)もある。グレアム・メソッドの持つ祭儀性は、東洋起源の動きと関係しているのだろうか。(5/24)

 

★[ダンス] 柳下規夫×能藤玲子@現代舞踊協会

標記の二人が共演した訳ではなく、ここ2回の現代舞踊協会公演で、衝撃を受けたダンサー兼振付家を並べたのだ。柳下規夫は「男たちが描く愛と調和の時代」(3月17日 東京芸術劇場プレイハウス)、能藤玲子は「モダンダンス5月の祭典」(5月20日 めぐろパーシモンホール)。柳下は藤井公・利子門下の異端児、能藤は邦正美門下の正統派と両極だが、現代舞踊(協会)のアイデンティティを外部に知らしめる才能である。

柳下作品『冷たい満月』は、副題が「ニジンスキーの影に翔る」。自らをニジンスキー、古典バレエダンサーの川口ゆり子をカルサヴィナに見立て、コール・ポーターの音楽で、魔訶不思議な世界を紡ぎだす。柳下は2014年「ダンス・アーカイヴ in JAPAN」(新国立劇場)において、大師匠の小森敏振付作品『タンゴ』を洒脱に踊って、融通無碍の境地を示したが、今回はあまり動かず、病を得た後のニジンスキーのように微笑みながら佇むことで、同境地を実現した。金盥をかぶる、タイツが股引に見える点も魅力。白雪姫のようなドレスをまとった川口は、かつてのハリウッド女優のようなゴージャスな雰囲気を漂わせながら、柳下の振付を正面から実行した(ポアント使用)。腕使いのみで『薔薇の精』の物語を伝えることができる。その真摯な踊りは、大ベテランとなった今でも、新たな挑戦を続けていることの証である。周囲の女性ダンサーたちは、ピカソ風のふくよかな体型。牧神となった柳下を母のように見守る。振付はジャズ・ダンス風だが、気合を入れない、風になびくような踊り方。常に観客と正対するのも変わっている(柳下作品そのものがそう)。ダンサーたちの柳下に対する尊敬の念は、千石イエスと方舟の女性たちを思い出させる。生きることと踊ることが一致する、柳下の細胞が行きわたった作品だった。

能藤作品『霧隠れ』は、山下毅雄の音楽(『魔の女たち』オリジナル曲、80年)を使用。ギリシャ悲劇を思わせる原初的な情念の世界を、研ぎ澄まされた空間・時間構成で立ち上げる。語彙はモダンダンスのみ。美意識という甘い言葉を退ける、能藤の知と感覚のすべてが肉化された作品。能藤は女を、ただ歩を進めるだけで顕した。表現主義舞踊の粋。舞踏とも、現代能とも言えるが。ミノタウロスのような男を追い、全身で怒号する。そのフォルムの強さ。男には武術風の低重心振付を、コロスの女たちには、気の統一されたソリッドな振付を施している。手触りが石の肌のような作品。モダニズムの極致だった。(5/27)

 

★[バレエ] ボリショイ・バレエ in シネマ『ジゼル』

標記映画を見た(6月4日 ル・シネマ1 2015年10月収録)。グリゴローヴィチ版『ジゼル』は初めてだった。主な改訂は、貴族とお供の者がステップを踏みながら登場する点。貴族の優雅な行進は、グリゴローヴィチの好むところだが、演劇的必然性がなく、ドラマを支える振付とは言えない。ただグリゴローヴィチの刻印が押されているというだけ。だが、ザハロワのジゼル造形からは、ボリショイ(またはマリインスキー)の伝統が脈々と流れていることが感じられた。ウラノワからセメニャカに伝えられた細やかな演出・振付を、ザハロワが体現している(ように見える)。一幕の慎ましやかな演技は、これまでのザハロワには見られなかったアプローチ(ジゼルは未見だが)。一挙手一投足が役に奉仕している。二幕の大きいエクステンションは、役柄と懸け離れているとは言え、好きに踊っていた頃からすると、殊勝な踊りに見える。

最も衝撃を受けたのが、二幕のウィリになる瞬間だった。ミルタにレヴェランスしてアラベスク・ターンをする際、通常はいきなり両腕を広げるが、ザハロワはアン・バから徐々に腕を広げていった。羽化するように、翼が広がるように。ウィリ変態を視覚化した、説得力のある振りだと思う。もう一つは演出面。二幕、シモテ手前にジゼルの石の十字架が置かれ、ジゼルは墓石(すっぽん)から出入りする。新国立のマリインスキー版でも最初の頃は、すっぽんや滑車など、機械仕掛けを踏襲して、19世紀の雰囲気を醸し出していた(ワイヤーはなし)。来季『ジゼル』でのすっぽん復活を願う。

ザハロワの演技が変わったと思ったのが、前回のボリショイ・バレエ来日の時。グリゴローヴィチ版の『白鳥の湖』を踊り、こってりと濃厚なオデット=オディールを見せた。そして今回の細やかな演技。ウーリン総裁就任と軌を一にするが、何か関係があるのだろうか。ザハロワのジゼル造形は行き届いていた。だが一方で、どこかアンナチュラルなものも感じられた。芸術的要請、内的必然性よりも、外的な要請を想像させる。殊勝な演技と思わせるところに、ザハロワの自然との乖離がある。

ウクライナカップルとなったアルブレヒトのポルーニンは、色悪風の魅力がある。英国ロイヤル仕込みの繊細な演技と丁寧なサポートは、パートナーとしての強力な武器。二幕アントルシャの高さと持続に、狂気を滲ませた。他の役でも見てみたい。(6/8)

 

★[映画] 阪本順治『団地』

標記映画を見た(6月10日14:50 新宿シネマカリテ)。見終えたあと、ボーっとした。人間、生と死、がまるごとそこにある。そして何よりも監督が役者を愛している。自分の映像美学を優先するために役者を駒のように扱う監督、とは対極にある阪本監督が、同時代にいる、と思うだけで嬉しくなる。

ネタバレになるので言えないが、終盤から結末にかけて、「それでいいのか」と言いたくなるほど浪花節だ。大楠道代藤山直美の対話は、『顔』(2000年)における同じ二人の対話と呼応して、人生を賭けた切実さを帯びる。ありえない結末にしても、映画全体が壊れてもいいから、登場人物たちをこのように遇してやりたかったのだろう。

映画評論家の宇田川幸洋は「終盤は、SFに転調する。くわしくはかかないが、そこからが長く、ウェットで、そこまでのコメディーのいい風味をすべて帳消しにするまで、なくもながの世界観(異世界観?)のリクツをならべる。オチで遊びすぎて、元も子もなくなった。」(『日本経済新聞』2016.6.3 夕刊)と書いていて、阪本の浪花節を真っ向から否定する。阪本監督は、それでもいいと思っただろう。藤山直美岸部一徳大楠道代石橋蓮司の4人にあて書きして、存在の底にまで降りていく対話・会話をさせたかっただけだ。結末はどうころんでもいいのだ。

藤山直美は、時折画面からはみ出て、強力な気を放つ。藤山の気の飛ばしを監督がドキュメントした、とも言える。藤山はテレビの対談番組で、舞台との大きな違いは、まばたき、と答えた。映画ではまばたきはしない。舞台では、まばたきをする。「まばたきは脳内の情報処理と密接に関わっている」と阪大の脳科学者、中野珠実准教授(『日本経済新聞』2016.6.12)。まばたきをするとリラックス時に活動する脳の領域が活発化する。「まばたきは脳に入る情報に区切りをつけて、新たな展開に備えられるようにする役割を果たしているのではないか」(中野)。即興・アドリブが命の舞台では、まばたきは重要。監督のフレームに入る映画では、不要? その場ではなく、その世界に入る集中力が必要なのだろう。(6/13)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『アラジン』①

牧阿佐美芸術監督時代、デヴィッド・ビントレー前監督が、同団に初めて振り付けた作品。2008年初演時には、カール・ディヴィスのカラフルな音楽(宝石組曲、5音音階の懐かしいメロディなど)と、それを完璧に視覚化し、精緻でウイットに富んだ演出を施したビントレーの才能に驚かされた。(予算の関係で?)やや尻すぼみになりはしたが、ディック・バードのクリエイティヴな美術も。成熟した才能がぶつかり合うマグマのようなエネルギーを感じた。

2011年再演時は 3.11 の一ヶ月半後。劇場が再開されて初めてのバレエ公演だった。老若男女が東日本大震災の衝撃で窒息しそうな体を、束の間忘れることができた。当時、劇場で配られたビントレー監督のメッセージを抜粋する。

"Those who have lost homes and loved one's must feel many years away from the solace and healing that only time can bring, but the prayers and thoughts of all of us, safely delivered from the earthquakes worst, are with them....The dancers and I have been longing to get back on stage and dance for you and we hope that the charming and humorous story of Aladdin and his Priness, and their triumph over dark and sinister forces, has brought a much needed revival of your spirits after the recent tragedy."

3度目の今回は、作品に流れるシンプルな愛(アラジンとプリンセス、親子の愛)と、移民の子が姫と結ばれるプロットに、ビントレーの信念、信仰を見た気がした。『パゴダの王子』でも、男女の愛ではなく、兄妹の愛を描いたように、ビントレーの愛は、エロスよりもアガペが上位にあるように思われる。アラジンとプリンセスのパ・ド・ドゥは、初々しい恋の始まり、晴れやかな結婚式、途中にアクロバティックな再会のデュエットを挟んで、最後は満ち足りた平安の踊りで終わる。奪い合う愛ではなく、慈しみ合う愛が最後に描かれるのだ。

アラジンとプリンセスの出会いの場面には、一つの謎がある。アラジンが持っていたリンゴをプリンセスに投げると、姫は臣民の女性から捧げられた花束を落として、リンゴを受け止める。女性からすると悲しい行為だが、ビントレーはなぜこのような演出を施したのだろう。姫としての心得を捨てさせるほどの衝撃だったのか。裏目読みかもしれないが、エロスを選択すると、臣民への愛が疎かになることを冷徹に描いたのか。当の姫達の解釈を聴いてみたい。

親子の愛情は、一幕、洗濯板(!)で洗濯をする母のもとに、突然アラジンが帰還する場面によく表れている。二人はアラジンの冒険を、振り真似を交えて追体験する。ダイヤモンドの女踊りをアラジンが踊り、母も続いて踊る楽しさ。『パゴダの王子』の皇帝と道化のパ・ド・ドゥ(親子ではないが)に匹敵する、名場面だと思う。

アラジンを移民にしたのは、中国色の強い音楽と、日本人の描くアラジン像との整合性を図った結果だが、現在の世界状況を予見したような設定だった。ビントレー監督の英国での本拠地、バーミンガムも移民が多く、当地での上演を考慮に入れて、アラビア国の中国人移民としたのではないか(違うと言われそうだが)。移民の子がその国の姫と恋仲になり、魔神の力を借りて皇帝を説得し、二人はめでたく結婚に至る。その後、二人は自力で試練を乗り越え、最後は魔神を解放して、平和な国を築く。そこには、移民側の文化であるライオン・ダンスやドラゴン・ダンス、真紅の幡が翻る。ビントレーの世界平和への祈りを象徴する奇跡的な場面と言える。

演出面で改めて素晴らしいと思ったのは、砂丘が一瞬にして消え(19世紀的トリック)、洞窟の入り口が上方に見える場面。その中でプリンセス・バドル・アルブダル(満月の中の満月)がアラベスクするのを、マグリブ人とアラジンは、「客席に向かって」眺める。アラジンが洞窟の穴へとよじ登り、後姿のシルエットを見せて、こちらに振り向いた瞬間、財宝の洞窟が目前に広がる。劇場を熟知した緻密な想像力の賜物。(7/1)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『アラジン』②

標記公演を見た(①の続き)。配役で最も驚いたのは、井澤駿のジーン。元々ビントレーは本来のジーン像とは反対に、小柄で個性の強いダンサーをイメージして振り付けをした(早い回転技、細かいステップの連続)。初演の吉本泰久や再演の福田圭吾はこのタイプ。初演の中村誠は妖しさで勝負したが・・・井澤は、海老蔵のようなヌーっとした存在感で勝負。アラジンと母の目前に浮かぶ登場シーンは、怖ろしいまでの迫力があった。「俺は寝ていたのに、目がパッチリ覚めた。誰が起こしたのだー」のマイムを初めて見た気がする(母は、アラジンですぅ、と答えていた)。総踊りの終幕は井澤が場をさらって、主役のような印象を後に残した。当日と最終日には、高崎市長の後援会婦人部が大型バス数台で乗り付け、劇場は帝劇や明治座のような雰囲気に包まれたが、群馬出身の井澤と関係があるのだろうか。

ジーン初日には肩幅の広い池田武志が配され、異人ぶりを発揮した。大原芸監は、振付との齟齬はあるにしても、大きいジーンでやらせてみたかったのだろう。2回目の福田は、人柄の良さが滲み出る、人間味あふれる役作り。プリンセスとの心からの合掌挨拶が、目に焼き付いている。

主役キャストは3組。福岡雄大のアラジンと小野絢子のプリンセスは適役。見た目のバランスもよく、美しい踊りを披露した。ビントレー振付はパ数が多く、古典美を追求するのが難しい(以前『テイク・ファイヴ』で、菅野英男が古典と同じような精度で振付を実行したら、怪我をした過去がある)。福岡は初演時よりもやんちゃ度は低くなったが、難度の高い振付に美しさを加えて、バレエ団の要としての気概を示した。

奥村康祐と米沢唯は、細やかな演劇性が特徴。米沢の生きた演技は、常に舞台を注視させる。ややサポートに不安を残す相手パートナーだったが、恐れを微塵も見せず、輝かしい踊りに終始した。奥村は母子再会シーンや「砂漠の風」女性アンサンブルに囲まれる時、居心地が良さそうに見える。ダイヤモンドの振り真似を誰よりも美しく踊った。もう少し体力、筋力のアップを期待したい。

八幡顕光と奥田花純は、ビントレーの音楽性を隈なく実現した。八幡が冒頭、踊り出した途端に、振付の句読点がはっきりする。完璧なタイミングに、指揮のポール・マーフィも俄然乗り気になり、その結果、我々は、カール・デイヴィスの魅力を十二分に味わうことができた。役を作ったダンサーだけあって、振りの意味がよく伝わる。奥田は音楽を生きる力、踊りのダイナミズム、勇敢な舞台姿勢に美点がある。特に再会のアクロバティックなパ・ド・ドゥは、躍動感にあふれた。踊る喜びを最も感じさせた組。

公演途中からではあったが、感情豊かな菅野英男のマグリブ人、コミカルで情の深い楠元郁子と丸尾孝子のアラジン母、鷹揚なサルタン 貝川鐵男、初演時よりアラジン友人の江本拓は、最後の縦回転こそ簡略化したが、生き生きと美しい踊りを見せた。

宝石たちは適材適所。ルビーの長田佳世はロシアのゴージャスなプリマそのもの。奴隷の中家正博の濃厚な踊りと共に、ディヴェルティスマンの核となった。サファイア本島美和の美しさ、木村優里の豪華さ、研修所2期生3人組も活躍。中でも寺田亜沙子は美しい肢体で、エメラルドやジーン・アンサンブルを牽引した。東京フィルの演奏にも満足。(7/3)

 

★[演劇] 鈴木忠志×中村雄二郎『劇的言語』増補版

標記対談集を読み終えた(2016年6月15日)。昨年末、SCOTの公演時に購入し、少し読みかけて積んでおいたのを、ようやく読み終えたのだ。長年続いた様々なことが終わり、脳がリセットされたため。

『劇的言語』自体は1977年に白水社から刊行、増補版は1999年、朝日文庫朝日新聞社)の形で出版された。対談はいずれもその前年に行われ、最初の対談時は、鈴木37歳、中村51歳、2回目が59歳と73歳である(誕生日計算なし)。最初の対談がやはり面白い。一部、覚えとして抜き書きする(全て鈴木の言葉)。

  • 生活のほうが演劇を真似るということも、昔はいろいろあったようです。例えば初代の中村富十郎が舞台上を内股で歩くことをはじめて考えだした・・・それ以前は女性も外股歩きだったらしい。(p.20)
  • うちの劇団員に・・・舞台にバケツを置いて、そこに小便してみろと。これがなかなかできない。最初に集中がいるんですね。スタニスラフスキーの言う公開の孤独、つまり他人の注視のなかでも孤独になって集中しなきゃ小便はできない・・・ただしそこから、観客の前で実際に小便することがタブーや制度に反対する、価値のある演技なり行為になると考えてしまうのは・・・落とし穴なんですね。小便する演技が役者に課せられたとするときに、観客を前にした舞台上でほんとうに小便しうる役者が、小便を出さないで小便したとき、「小便する演技」が成立する。演技論として僕はそう思うのです。観客の前で小便ができないのに小便の真似をするというのは、自分軀のなかにある制度と批評的に関わっていない、ただの空真似です。しかし、舞台で小便をすること自体に価値があると言っているのじゃない。それができる集中にまで行っていて、それをフィクショナルに再構成する。それが僕の言う演技なわけです。(pp.27-28)
  • 舞台というものは明らかに現実空間です。そこは現実の軀がそのまま移行しているのですから、僕の考えでは、舞台で行われることは「変身」ではなくて「顕身」なんですね。(p.31)
  • 能の詞章なんかは、何を言っているのか分からないけれども、感じだけは分かる。つまり、一義的な意味は伝えてこないけれども、比喩とかイメージの連続みたいなもので、全体としてある感覚を分からせる。音声でもそうなんですね、ある台詞を意味として伝えるのじゃなくて、むしろ音色で伝える。(p.38)
  • 歌舞伎の場合でも空間の拡大はたいへんなものでしょう。国立劇場のような広い舞台になっちゃって、昔は例えば駆ける芸であったものが、今では舞台の中央から花道までほんとうに駆けるわけです・・・(歌舞伎の成立期の舞台は)間口二間から三間。幕末には八、九間になったと言われてますね。(pp.46-47)
  • スタニスラフスキーは、一応はリアリズムと言われるチェーホフを背景にして、そのシステムをつくったのですね・・・そのために彼のシステム全体が古風なリアリズムに見られたのですが、スタニスラフスキーが言っていることはそうじゃない。俳優が舞台で、自分のなかの潜在的なものを開いて飛躍するための滑走路を提供するのだ、というのがスタニスラフスキーのシステムの狙ったことなんです。潜在意識というものは変に人為的に近づくと、意識的になって貧しいものになる。だからそれを貧しくしないあらゆる方法を講じておいて、あとは神様の助けを借りるしかない。つまり、インスピレーションを得る方法である、と言っているのです。インスピレーションを得るためには、肉体というのは偶然性の強いものだから、考え方とか訓練法を厳密にしていかなければだめだということで、分析的な方法論を提出したわけです。(pp.52-53)
  • 近代劇でもチェーホフの場合などは、全員がコロスであるという構造ですね・・・全員がコロスで、それが奏でるシンフォニーの全体をチェーホフは狙っている。無関係の関係が一つの全体を形づくっている。全体としてはコロスが黙って座っているだけで出てくるような印象へと持っていった。うんとおしゃべりをしつつ結果としては沈黙の言語と言える一点に収斂させたという意味では、チェーホフ劇の登場人物はコロスですね。(p.79)
  • ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、明らかにコロスですね・・・チェーホフ以後どんどんヒーローを消していったという過程があって、現代は本来はコロスの芝居しかあり得ないと思うのです。(p.80)
  • 一般に演劇は祭式から出てきたと言われていますね。現実的にはコロスは英雄の墓の前で行われた民衆の鎮魂歌舞で、その歌舞のうちに死んだ英雄がお面を被って生き返るんだという説があるわけでしょう。つまり、その点では、能の構造に似ているわけですが、実際の舞台のほうからギリシャ劇の成立の事情を考える、柳田国男的に言えば、逆に、信仰を等しくせざる者が出てきたときに、初めて観客が成立し、だからまた必然的に舞台意識というものが成立するわけですよね。(p.81)
  • ヒーローを表現するときに、媒体としてコロスが出てくるのじゃないかという気がする・・・アイスキュロスは、オイディプースを絶対に書きたいのです。ところがオイディプースをそのまま書いていくことには、ある危険な感覚があるだろうと思うのです・・・アイスキュロスなりソポクレスがオイディプースとかアガメムノンを書いていくときに、その作家自身にすでに共同性からはずれているという自覚があると思う。(pp.82-83)
  • 不条理演劇が、内面の危機感とか孤独感とか、生存するだけで感ずるような一つの直観なりある感覚を、イメージとして舞台上に実現させようとするとき、俳優自体はオブジェでいいわけです。ベケットの芝居でも別役実の芝居でも、俳優が言っている一語一語には、それ自体としては意味がない。ある時間が流れ終わった瞬間に、その時間が、作家の危機感なり疎外感なり、アイデンティティーの亀裂といったものの信憑性を観客に感じさせられればいい。俳優はそのための道具立てであり、オブジェであるわけです・・・俳優たちが自分をオブジェ化する、自己物化する演技によって、作家の潜在的な直観の深さというか、無意識なものを全体として出そうとする。そういう意味で不条理劇は俳優に舞台上ではコロス的に存在することを要求している。(p.84)
  • (中村―アントナン・アルトーが、一所懸命に肉体の復権を強調するでしょう。日本人から見るとどうしてあんなに強調しなければならないのか分からないところがある。)その肉体というのも、バリ島の例を出したり、演劇をペストにたとえたりするのですが、どうも僕らが感じる演劇上の身体とか肉体とはちょっと違うのですね。演劇論はいろんな人が書いているけれども、身体や肉体にまで関わった演技論がほとんどない。また、渡辺守章さんが指摘しているように、俳優個人の回想録ふうのものはあっても日本の芸談のようなものは全然ないらしい。一方、日本には、正宗白鳥の言葉を借りれば、演劇史はあっても戯曲史がない。この場合の演劇史というのは芸能史のことで、芸能という側面の強い歴史はあるけれども戯曲のほうの歴史はないということなんですね。演劇といえば型とかしゃべり方の歴史が重要な位置を占めている。(pp.88-89)
  • ポーランドの演出家グロトフスキーが日本に来たときに、国民性の特徴を表すもので演劇にとってもっとも重要なものは何か、と僕に訊いたわけです。僕はそれに対して、行為の美意識であると答えた。日本人の場合、倫理意識と行為の型とはかなり強く結びついているでしょう。一つの行為のあり方が美しくあること、それがその人間の倫理意識を表すし、精神状態を反映しているという見方が、ついこの間まであった。(p.93)
  • 日本人の肉体表現には、苦痛に対する哲学みたいなものがあるような気がします。能でも、ずっと立っているとかずっと座り続けているとか、中腰のままでいたりする・・・肉体というものを苦痛で追い込んでいって、意識を非常に明晰に追及していった果てに、それが無意識に、つまり全身的に転化する。全身的な何かを顕在化させる肉体的な方法として、苦痛というものが考えられていたのではないか。(p.102)
  • 呪術的なものの残影が一時期、歌舞伎役者などに残っていて、自分の肉体を対象化して、リフレインに耐えるようにそのこと自体を遊ぶ。つまり肉体のなかで、コントロールしながら越境して戻ってくる。人為的なヒステリー症状や憑依状態を起こすわけです・・・本当の歌舞伎役者はファシズムなんかに対する抗体を持った人なんですね、僕に言わせれば。(p.104)
  • 西洋演劇で言うアンサンブルというのは、日本語で言えば息=呼吸が合うということだと思うのです。日常でも親しい人間同士だと・・・相手の存在のリズムが分かる。それが息が合っているということで、舞台でもそういう表現が必要なわけです・・・演出家が外側からリズム的に強制しても本当のアンサンブルはできない。外面は同じでも、ちょっとしたことが違う。生命のフクラミのようなものが欠けてくる。それぞれが相手の存在のリズムをさぐりながら瞬間に同時にハッと行ったときに、表現がアタリになるのです。(pp.109-110)(6/20)

 

★[バレエ] 英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』『ジゼル』

標記公演を見た(3月29、31日 ロイヤル・オペラハウス / 6月18、22、24、26日 東京文化会館)。配役は日程順に、オシポワ(G)とゴールディング(A)、ヌニェス(G)とムンタギロフ(A)、オシポワ(J)とゴールディング(R)、ヌニェス(G)とムンタギロフ(A)、オシポワ(G)とゴールディング(A)、カスバートソン(G)とボネッリ(A)。オシポワをよく見ているのは、面白いダンサーだと思っているから。ボリショイ時代からロマンティック・バレエには定評があったが、生で見たのは、『明るい小川』や『パリの炎』パ・ド・ドゥなど、バリバリ踊る演目だった。アレクサンドロワと並んで、脚の筋肉に目が行ったものだ。そんな人がジゼルではどうなるかと思い、またジュリエットは、ロンドンでのジゼルを見て、どうなるかと思って見ることにした。ムンタギロフは、新国立のシーズン・ゲスト・プリンシパルなので、所属バレエ団での舞台を見ておきたかったから。カスバートソンは、ジュリエットの評判がよく、唯一英国人の主役なので、見た方がよいと思って見た。

やはり、ダントツでオシポワが面白い。一瞬たりとも目が離せない。ジュリエットにしても、ジゼルにしても、体がほぐれ、役を生きている。ジュリエットが仮死するときには、本当に体が痙攣していた。作り込まれた演技も素晴らしいと思うが、生きた体をバレエで見られるのは、もっと素晴らしい(つまりとんでもなく技術があるということ)。

演出について。マクミラン版『R&J』のマキューシオが、道化に近いのが気になったのと(もっと知的でシニカルでは)、ライト版のジゼル自殺。剣で突いてから亡くなるまでのシークエンスが長く、少し不自然な感じがした。ヌニェスが血まみれのマイムをやっていたので、そう思ったのかもしれない。それからバチルドの造形。ベルタが「娘は踊ると死ぬのです」のマイムをした直後、バチルドが「踊りなさい」と言って、ジゼルの一幕ソロが始まる。あまりに非情では。本来のバチルド像(初演版台本)からも懸け離れている。

ベルタのウィリ・マイムは、カルサヴィナ由来とのこと。現地では、クリステン・マクナリーのマイムにブラボーが飛んだ。英国人はマイムが好きなのだと、改めて思った。

印象に残ったダンサーは、パ・ド・シスのジェイムズ・ヘイ、モイナのオリヴィア・カウリー、ズルマのベアトリス・スティックス=ブルネルとヤスミン・ナグディ(両者美しい黒髪)。ミルタは現地で見たヌニェスが素晴らしかった。

演奏は、現地で映像収録を行なったロイヤル・オペラハウス管弦楽団が、圧倒的だった。コンマスを初め、個々の楽器のトップがソリスト級の腕前。音楽だけでも満足させられる。指揮のワーズワースは、踊りに合わせるタイプだが、二幕のウィリ達のアラベスク交差は怖しく早く、その飛び交う姿を想像させた。(7/8)

 

★[バレエ] バレエシャンブルウエスト「トリプル・ビル」

標記公演を見た(6月19日 オリンパスホール八王子)。八王子を拠点とするバレエシャンブルウエストの地域密着型公演。今回は、前回の舩木城作品に続き、田中祐子の新作を地元の人々に紹介する。創作に力を入れる同団らしい企画である。メインは日舞とバレエのコラボレーション『時雨西行』、さらに古典バレエの幕抜粋『ライモンダ第3幕』が上演された。美しい衣装のオープニングも加わったが、田中作品の深刻なテーマとバランスを取るためだったのだろう。

田中祐子振付の『あやとり』は、八王子出身の作家、篠田節子の『長女たち』を基にした作品。認知症の母と、娘の姉妹、そのフィアンセたちに、コロス、子供時代の姉妹と友達を踊る子役が登場する。母は仮面を付けているが、途中コロスによって外され、症状が出る前の生き生きとしたソロを踊る。子供たちを見守る優しい姿も。現在の母は、恐怖にさいなまれ、あてどなく歩き回る。母に寄り添う長女とフィアンセ。母が眠りにつくと、長女は呆然と座り、幕となる。

原作は未読のため、構成などの工夫は分からないが、観客に分かりやすい自然な展開だった。最後はモダンダンス風に詠嘆で終わり、年輩層が受け入れやすい日本的な終幕である。振付語彙はコンテンポラリーの入ったモダン系。少し説明的に思える部分もあったが、長女とフィアンセの瑞々しいデュオ、母の認知症のソロ、母と長女とフィアンセのトロワは、見応えがあった。母・吉本真由美の存在の根底が揺るがされた踊り、フィアンセ・土方一生のたくましい青年ぶりが印象的。冒頭、舞台左右に張られた何本ものあやとりの糸を切って落とすなど、美術・照明は広い舞台によく対抗している。

18年前に清里フィールドバレエで初演された『時雨西行』は、バレエ部分を今村博明・川口ゆり子、邦舞を藤間蘭黄が振り付けている。宗次郎(『大黄河』より)の悠然と流れる無国籍民族音楽が、洋舞と邦舞を違和感なくまとめる。作品の核は、江口の君を踊った川口。その美しい日本的所作、遊女から普賢菩薩への変化を可能にする聖性は、他のダンサーの代替を許さない。西行 中村梅玉との立会い、互いの話(ソロ)を聴く佇まいは拮抗し、パ・ド・ドゥに等しいエネルギーの交換があった。実際に江口の君とパ・ド・ドゥを踊る「心」には、逸見智彦。初代の今村からノーブルな踊りを引き継いでいる。

最終演目『ライモンダ第3幕』は、改訂振付を今村・川口が担当(主役のパ・ド・ドゥは、牧阿佐美バレヱ団のウエストモーランド版より)。優美なマズルカが印象深い。ライモンダには松村里沙、ジャン・ド・ブリエンヌは元Kバレエカンパニーの橋本直樹。松村は、輝かしいライモンダ・ダンサーだった川口の指導を受けて、行き届いた踊りを見せる。古典主役としてはさらに、パ・ド・ドゥを二人で踊る意識、空中でのフォルム、劇場空間を掌握する大きさが望まれる。一方の橋本は、本来のノーブルで溌剌とした踊りよりも、少し控えめなスタイルを踏襲しているようだ。パートナーとのコミュニケーションはいつも通りよく努めていた。

中央線での帰途、隣席の中高年女性二人が、出口で配られた花束を手に『たまにはバレエもいいかなと思って。楽しかったね』と語らっていた。(6/22)

 

★[バレエ] NBAバレエ団『死と乙女』

標記公演を見た(6月29日13時 北とぴあ)。3本立てで、どれにも和太鼓が入っている。公演としては「和太鼓とバレエの饗宴」といった趣。興味深かったのは、林英哲の太鼓が洗練され、直のエネルギーを感じさせなかったことである。4人の弟子たちも、和太鼓にありがちな、男気をまき散らすような立ち居ふるまいがなかった。新垣隆(作曲・ピアノ)、舩木城(振付)と組んだ新作『死と乙女』でも、林の太鼓(鼓のような音を響かせたりする)は、ストイックで、社会化(?)されている。新垣の方は、ダンスとのコラボレーションのため、テンポなど抑制していたと思うが、自分の快感原則に身を委ねた個所が多々見受けられた。打楽器奏者はテンポの要なので、ストイックにならざるを得ないのだろうか。

新垣の曲は、『カルミナ・ブラーナ』のような主旋律に、ストラヴィンスキーショパンシューベルト、サティなどの引用・パスティーシュを加え、変拍子を多用した激烈な音楽。舩木の振付傾向も激烈なので(ストラヴィンスキーの『春の祭典』で和太鼓とコラボしたかったらしいが、編曲の許諾が難しいので取りやめたとのこと)、合うはずだが、オリジナル曲による初演ということで、まだ音楽の腑分けが十分でない印象を受けた。一方、エゴン・シーレの『死と乙女』をモチーフに、衣装や化粧でグロテスクな美を作り出し、シーレの人物像を真似た性的な仕草を加えるなど、振付自体には舩木の意図がよく表れている。いつものように過呼吸や痙攣あり。女(岡田亜弓)にキスされて、男(久保綋一)が倒れるシーンが象徴するように、伝統的な死神と乙女とは異なり、全員が死の側にいる感じを受ける。ただこのままでは「俺はこれがやりたいんだ」という舩木の熱意が伝わるだけで、なぜシーレに惹かれるのかまでは分からない。性的な仕草も、公序良俗への反抗に過ぎないように見える。昨年のバレエシャンブルウエストでは、先行の舞台作品を援用した立体的な(社会化された)作品を、激烈に作っていたことを考えると、今回のような自分の世界を、説得力を持って作品化することがいかに難しいか、改めて思わされた。

ダンサーは適材適所の配役で、成長を促されている。林作品を彩った若手の阪本絵利奈の伸びやかな姿態、『ケルツ』(振付:ライラ・ヨーク)再演での佐々木美緒の情感、同じく大森康正の美しく切れ味鋭い踊り、髙橋真之の闊達な踊りが印象深い。ゲスト・バレエマスターには、元松山バレエ団の鈴木正彦を迎え、男性ダンサーのレヴェルアップを図っている。昨年の『ドン・キホーテ』でも、鈴木が大森のバジルを指導し、他団では現在見られないような細かな振付を施した。強力な助っ人誕生だ。(6/30)

 

★[バレエ][ダンス] Noism『ラ・バヤデール』

標記公演を見た(7月1日 KAAT神奈川芸術劇場 ホール)。新潟3公演を経て、神奈川3公演、続いて兵庫2公演、愛知1公演、静岡2公演、鳥取1公演と、全国を回る。演出:金森穣、脚本:平田オリザ、振付:Noism1、音楽:ミンクス、笠松泰洋、空間:田根剛、衣装:宮前義之、木工美術:近藤正樹、出演:Noism1&2、奥野晃士、貴島豪、たきいみき(以上SPAC)という重量級のコラボレーション。ただし振付は金森ではない。Noism1のダンサーたちに振り付けさせたのは、芸術的な試みなのだろうか。あるいは教育的な試みなのだろうか。金森が最終的に仕上げているせいか、金森の語彙を際立って外れる振付は見当たらなかった。ただしカリオン族の女性達の、バレエのパを多く組み込んだ踊りには意外性がある。全体に、金森単独振付の時のような、生きた音楽性を感じさせたのは、二幕の所謂「山下り」の場面からだった。

金森の演出は、鈴木忠志へのオマージュにあふれる。冒頭に登場する老人ムラカミは、鈴木のリア王のごとく、看護師に付き添われ、車椅子に乗ったまま舞台を見守る。物語は狂人の回想、という形である。終幕には登場人物たちが、鈴木メソッドのバレエ歩きで、塔の周りを回る。また能の橋掛かりをイメージしたという、両袖に通じる斜線の道の出入りも、鈴木流の歩行で行われ、振付にも随時取り入れられている。加えてSPACの俳優たちの、意味よりも強度を重視する発話法。鈴木ファンからすると、この作品は、舞踊が加わった鈴木作品に見えるかもしれない。

平田オリザの脚本は、プティパの『ラ・バヤデール』の舞台を、満州国と思われる幻の国に置き換えたもの。金森の意見を取り入れながら6稿(3月現在)を重ねたとのことで、平田の意図がどこまで残されたのかは分からないが、設定と部族の命名だけでも面白い。物語は、オロル帝国とヤンパオ帝国に挟まれたマランシュ帝国が舞台。五族協和の名のもと、5つの民族と馬賊が皇帝プーシェに仕える。カリオン族(朝鮮族)、メンガイ族(モンゴル族)、マランシュ族(満州族)、オロル人(ロシア人)、ヤンパオ人(日本人)、馬賊が、それぞれ水色、銀色、黄土色+こげ茶色、紫色、白色、赤紫の衣裳を身に着けて、民族の誇りを示す。皇帝は人形を配し、ヤンパオ人の傀儡であることを視覚化した。

平田の芝居は、絶妙な間合いと語り口で、発話する登場人物の実存を浮かび上がらせるのが特徴。鈴木メソッドは真逆にある。平田の言葉をSPACの俳優が喋る、という興味深さはあるが、平田の幻の国への想い、それを子孫に伝えたいという切実な気持ちが、平田芝居で見た(と想像する)ほどには、残らなかった。翻って、平田の芝居のように発話した場合、舞踊とのコラボは可能だろうか。例えば、ガムザッティとニキヤのマイムに相当する、フイシェン(たきい)とミラン(井関佐和子)の場面。フィシェンの「木槿の咲く国へ帰りなさい」を、現代劇リアリズムでやると、ミランのマイムに拮抗できるのか。いずれにしても、平田ファンにとっては、馴染みにくい舞台だっただろう。

バレエファンにとっては、『ラ・バヤデール』の筋書き通りに話が進み、カリオン族などはバレエ色濃厚な振付でもあったので、面白かったのではないか。「山下り」は縦一列に並んだミランの12の影が、鋭く両腕を開きながら、左右に分かれる。プティパ振付の残像が相乗効果となり、また宮前の美しい衣裳(今回はダンサーのラインを考慮した)も加わり、コンテンポラリー・ダンスによる画期的なバレエ・ブランとなった。

ミランの井関は、前回公演の『カルメン』再演から、脱皮した印象。周囲との距離を図り、演技の計算(いい意味で)を感じさせるようになった。今回も、存在感を見せながらも、一歩引いた演技で、美しいミランを造形した。ただ、パートナーが金森や小尻健太だった場合(『愛と精霊の家』のように)、さらに高次に止揚された身体を見せたかもしれない。(7/9)

 

★[バレエ] 小林紀子バレエ・シアター『ソリテイル』『二羽の鳩』

標記公演を見た(7月3日 新国立劇場中劇場)。二作とも、ステージングがジュリー・リンコンからアントニー・ダウスンに変わって初めての再演。『ソリテイル』(56年)は、一人ぼっちの少女が友達と遊ぶことを夢見て、想像の世界に浸るが、最後は再び一人ぼっちになり、孤独の淵に沈むという、マクミランの自画像とでも呼ぶべき初期作品(マクミラン自身は91年、「この作品はハッピーエンディング」と語っているが)。今回、孤独があまり強調されず、作品全体が少女の楽しい一人遊びに終わったのは、主演の高橋玲子の資質によるものだろう。

一方、『二羽の鳩』(61年)の印象が前回と大きく異なったのは、明らかにダウスンの演出に起因する。アシュトンの牧歌的なロマンティシズムよりも、人間の暗部をえぐり出すマクミラン風リアリズム、青年と少女の和解のパ・ド・ドゥよりもジプシーの濃厚な踊りが前面に出る。ダウスンが『マイヤリンク』のルドルフを当たり役としていたことと、こうした演出傾向は、どこかで繋がっているのではないか。青年の裏切りへと至るざわついた感情のやりとりと、ジプシー達の青年に対する暴力的な翻弄は、アシュトン・スタイルの域を超えたリアリティがあった。

主演の島添は、リンコンによって『ソリテイル』主役に抜擢され、『インヴィテーション』、『マノン』と、マクミラン・ダンサーのステップを歩んできた。リンコンによって育まれ、自らの緻密な音楽性と結びついた深い情感は、美しい踊りと共に、島添の美点である。こうした島添の美質を引き出すには、ダウスンの演出はあまりにドライでシニカルに思われる。今回はアシュトン・バレエであった分だけ余計に、二者の齟齬が感じられた。

前回2005年の『二羽の鳩』評を、アップしてみる。青年はロバート・テューズリーだったが、故障降板。当日初めて代役を知らされた。

小林紀子バレエ・シアター秋公演は、アシュトン作品『レ・パティヌール』(37年)と『二羽の鳩』(61年)のダブル・ビル。音楽的で小気味のよいアシュトンのスタイルが、その魅力を全開にした。 アシュトンの振付は音楽と不可分の関係にある。今回の成功の大きな要因は、渡邊一正の指揮にあると言っても過言ではない。マイヤベーアとメサジェの音楽の隅々まで、渡邊独得の暖かみのある息吹が吹き込まれ、踊りとともに疾駆する。渡邊の音楽によって、アシュトンが極東の地で蘇ったと言える。

二つ目の要因は、所属ダンサーの好演もさることながら、新国立劇場バレエのダンサーを始めとする客演陣の力である。一週間前には、イギリスの中堅振付家ビントレーによる現代的な振付を踊っていたとは思えないほど、スタイルを強く意識した踊りを見せた。

三つ目は、『二羽の鳩』の若者で急遽代役に立った新国立劇場ソリストの山本隆之だろう。山本は日常(ボヘミアンではあるが)と異界(ジプシーキャンプ)を行き来するロマン主義的ヒーローを、アルブレヒトジークフリート、ヨハン(こうもり)といった蓄積を全て注ぎ込み、なおかつ軽やかに演じている。この作品の主役が実は若者であることを、山本の肉体は明らかにした。アシュトンも喜んだのではないか。

黒鳥のシーンを思わせる、ジプシーの女(斉藤美絵子)とその恋人(中尾充宏)とのパ・ド・トロワや、グラン・アダージョに相当する、少女(島添亮子)との清らかな和解のパ・ド・ドゥで、山本は優れたパートナーぶりを見せる。仲直りの象徴である白鳩とのコミュニケーションも抜群。白鳩を肩に階段を下りてくる姿には、絵画から抜け出たような古典的な美しさがあった。当日まで代役告知がなかったのが残念なほどのはまり役である。

少女の島添は一幕のコケティッシュな演技ももちろんよかったが、本領はやはり二幕の悲しみのソロと、和解のアダージョだろう。繊細で高貴なラインに、豊かな感情が息づいている。ドメスティックな鳩を踊る島添を見ながら、この人の白鳥を見たいと強く思った。寓話ではなく、真のドラマをその肉体は要求している。

『レ・パティヌール』でのスケートの身振り(二十世紀初期の時代性を感じさせる)や、『二羽の鳩』での鳩の身振りといったカリカチュアは、極めてイギリス的なディタッチメント(感情超越)を作品に与えている。『二羽の鳩』一幕最後の愁嘆場でも、アンサンブルが両肘を鳩の羽のように後ろに引きつけて、悲しみの中にも上質のユーモアを醸し出していた。

ジプシーアンサンブルを率いる大森結城のダイナミズムと、佐々木淳史の鮮烈な踊りが印象に残る。管弦楽は、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。(11月13日 ゆうぽうと簡易保険ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2683(H18.1.21号)初出(7/12)

 

★[バレエ][ダンス] クライム・リジョイス・カンパニー第1回公演

標記公演を見た(7月7日 メルパルクホール)。クライム・リジョイス・カンパニーとは、優れたダンサー・振付家である坂本登喜彦・高部尚子が、2015年に設立したカンパニーのこと(高部のたかは、本来ははしごだか)。一風変わった名前だが、公演プログラム掲載のうらわまこと氏の文章から、クライムは登る、リジョイスは喜ぶで、坂本登喜彦の下の名から採ったことが分かった。高部の夫への愛を窺わせる命名。カンパニーは「唯一無二の世界を創出するバレエ作品の創作・上演を目指す」。

演目は、坂本振付の『Feeling Grieg』(2016ver.)、高部振付の『Transparency』(初演)、佐多達枝振付の『父への手紙』(1993年)の3作品。佐多作品は、坂本・高部が初演し、今回も出演している。

坂本作品は、グリーグ組曲『ホルベアの時代から』を使用したシンフォニック・バレエ。西野隼人と真鍋明香里をソリストに、8人の女性ダンサーがアンサンブルを踊る。西野にはノーブルな憂いを含んだソロ、西野と真鍋には、台詞の掛け合いのようなゆったりとしたパ・ド・ドゥが振り付けられている。音楽性よりもむしろドラマ性を重視した作舞で、長調よりも短調アレグロよりもアダージョに、坂本のドラマティックな資質が生かされた。たなびく雲のような美術は河内連太。

高部作品は、打って変わってバレエの語彙を含むコンテンポラリー・ダンス。美術も高部が担当。音楽はAOKI takamasaによるミニマル・ミュージック。紗幕と3枚の白スクリーンで題名の『透明』を示唆し、3脚の椅子を使った3人一組の3つのグループが、ユニゾンで踊ったり、ばらけたりする。高部所属の谷桃子バレエ団から男性3人、女性6人が集結、バレエダンサーにしか踊りこなせない難度の高い振付を、切れ味よく踊り抜いた。山科諒馬、安村圭太が、振付をよく理解した鋭い動きで、ソリストとしての存在感を示している。

高部の振付はこれまで、舞踏風ダンス、シンフォニック・バレエなどを見てきたが、コンテンポラリーは初めて。さらにカンパニー・デラシネラ風の素早いマイム動きの導入もあり、高部の動きそのものに対する探究心の強さに改めて気付かされた。振付は一見、よくあるように見えるが、一時も目を離すことができない。つまり高部の思考が、隅々まで漲っているのである。ミニマルでもストラヴィンスキーでも、高部の音楽的精度は同じ。ここまで音楽を腑分けする能力は、シチェドリン音楽でアンナ・カレーニナを踊った、ロパートキナくらいしか思い浮かばない(振付はラトマンスキーだが、明らかにロパートキナの音楽性)。緻密な音楽性に加えて、高部のもう一つの特徴は「過剰さ」にある。今回は、構成がよくまとまったせいもあり、そこまでやるのか、という過剰さは影を潜めている。

佐多作品は、3回目の上演。カフカの同名作(手紙)を河内が台本化、音楽はグレツキスクリャービンリゲティ、ペルトを小森昭宏が選曲した。美術・衣装は前田哲彦。小森の選曲、前田の空間で、作品の半分が作られていると言ってもよいほど、隙のない時空構成である。

トタンの幕がガタガタと上がると、白い部屋の中央に白のベッドが置かれている。その上方には、百合の花のような形をした白い大型照明器具(?)。バックのシモテ上には、トタン幕同様、小さい窓ライトが当てられ、主人公「私」の閉塞状況を示している。衣裳は、「私」が黒のズボンを穿いている以外は、全員白。コロスの女性6人のみがポアントを使用した。

河内の台本は、ベッドに眠る「父」への、「私」の葛藤と苦悩を中心に、「フィアンセ」や「友人」、さらには一種道化の役割をする「メイド」を加えて、人間関係の様々な局面を描く。原作と異なるのは、母が登場せず、父がフィアンセを「私」から奪うという妄想が加わった点。父と子の戦いが分かりやすくなったと同時に、舞踊的な見せ場を作るという効果があった。ただしカフカの分かりにくい自意識の感触は薄らいでいる。

佐多の振付は、モダンバレエの可能性を突き詰めたもの。コロスにはニジンスカの『結婚』のエコーが、メイドの強張ったメルヘン調の動きには、マッツ・エックとの同時代性が息づいて、ダンス・クラシックの語彙に表現主義的要素が加わった、モダンバレエの極北を示す。世代を超えて再演されるにふさわしい作品と言える。

主役の「私」には坂本。ロマンティックなダメ男ぶりが板についている。全身を使った苦悩の表現は塩辛く、そこに坂本のクールな特徴がある。友人・足川欣也(ノーブル!)とのデュオは、二人の長い歴史を感じさせた。

メイドの高部は自在。音楽的な鋭敏さはもちろん、動かない時でも、常にその体になりきる点に、舞台人としての凄みを感じさせる。初役の作間草は、彼女のために作られたとさえ思われるほど、官能的なフィアンセだった。身体を投げ出す思い切りのよさは相変わらず。張り切った美脚も健在だった。また要の父には演技派の堀登。原作の圧倒的な存在感とは異なる、明るく、ややコミカルな役作りは、佐多のカリカチュアを実践した結果なのだろう。

3作とも、振付家の想いがこもった力強いトリプル・ビル。佐多作品の継承については、坂本・高部の芸術的意志を感じさせた。(7/15)

 

★[バレエ] 東京シティ・バレエ団『白鳥の湖

標記公演を見た(7月9、10日 ティアラこうとう大ホール)。2年ぶりの『白鳥の湖』。石井種生版の特徴は、ストイックなまでに抑制されたスタイルと、四幕の劇的パ・ド・ドゥにある。終幕は高速フラッシュと替え玉を利用して、オデットが人間の姿に戻る結末を採用する。前回に続き、演出を金井利久が担当。ゲスト・バレエマスターにローラン・フォーゲル、民族舞踊指導に小林春恵を招いての上演だった。前回から加速したのは、かつての抑制されたスタイル(四幕はスタティックとさえ思われた)が排され、踊り自体の充実を重視するようになった点。言わば固有の文化よりも、グローバルな精神に重きをおく姿勢である。以前はあまりに禁欲的に思われたスタイルだったが、それが石井版のアイデンティティだったのかもしれない。

初日の主役は黄凱と志賀育恵、二日目はキム・セジョンと中森理恵。フォーゲルの指導は、黄の役作りにおいて最も発揮されたのではないか。これまでの絶対的な美しいラインと、気品あふれる鷹揚な演技に、王子の内面の深化が加わって、正統派ジークフリードの完成を見ることができた。惜しむらくは、技術の衰えを隠さなかったこと。正直と言えばそうだが。

志賀は身体の彫琢が極限に達している。これまで踊りの激しさとなって表れたパトスが、現在は動きのきらめき、ひらめきとなって表れている。繊細な腕使い、鮮やかな脚技が生み出す、水晶のように透明な動き。その内部には日本的心情が隠されている。昨年の1幕ジゼルは浴衣姿を想像させたが、今回も上方舞のような情緒を漂わせる和風のオデットだった。艶やかさに、悪戯っ子のような愛らしさを滲ませるオディールも、魅力にあふれる。

二日目のキム・セジョンは、美しい脚線を持つ王子タイプだが、フォーゲルの指導をまだ消化し切れていないように見える。音楽との呼応が感じられなかった。一方中森は、端正な白鳥姿に安定した技術を披露。役作りにも自分ならではの彫り込みを施して、ドラマティック・ダンサーとしての可能性を示した。

王妃は貫禄の高木糸子、ロートバルトはベテラン李悦と中堅の石黒善大。道化の三間貴範(9日)はよく動き健闘、岡田晃明(10日)は、踊り、役作り共に完成されている。パ・ド・トロワは、初日の岡博美・清水愛恵・中弥智博が、スタイルを心得た実質的な踊りを見せた。ディヴェルティスマンでは、スペイン 濱本泰然の美しさ、チャルダッシュ 岡のゴージャスな迫力、同じくチョ・ミンヨン(9日)の男らしさ、同じく高井将伍(10日)の飄々とした人間性が印象深い。クラシカルで音楽性に優れたナポリの松本佳織と玉浦誠は、トロワで見たかった気がする。

指揮の井田勝大は、本拠地同様、自分の音楽を出すようになった。グラン・アダージョは少しテンポが遅すぎて、バイオリンの主旋律が崩れそうになったが。演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。主催は、9日が公益財団法人東京シティ・バレエ団、10日が公益財団法人江東区文化コミュニティ財団ティアラこうとう。(7/20)

 

★[ダンス] カンパニーデラシネラ『ロミオとジュリエット

標記公演を見た(7月15日 東京芸術劇場シアターイースト)。この作品は、2011年9月28日に、世田谷ものづくり学校でも見ている。元教室が舞台。2、3mの至近距離から、子供椅子に座って見た記憶がある。今回は機構の整った劇場。照明・音響・衣裳、演出の細部は変わっていたが、実質は変わらず。小野寺修二の傑作だと思う。

構成・選曲の素晴らしさは言うまでもない。マイム、ダンス、発話を含む演技という、異なる表現形態の繋ぎ目を見せない、練度の高い演出がすごい(他の作品ではダンスが突出することもあった)。さらに、役者のマイム・ダンス・演技の強度を、同レベルにする指導力も。加えて小道具の扱い。ルパージュと共有するローテク志向は、劇場マジックへの愛である。小さい人形・馬・家・喋る胸像などを、生身の肉体と地続きに存在させる力がある。

前回同様、最も驚かされたのが殺しの場面。ティボルトのマキューシオ殺しは、マキューシオの持つトマトを、ティボルトがおもちゃの剣で突き刺すことで表す。ロミオのティボルト殺しは、ティボルトが持っていたキャベツを、ロミオがメチャメチャに千切ることで表す(直前にティボルトは、キャベツを昂然とむしって食べている)。天才の発想。

終幕、ベッリーニ『ノルマ』の清冽なアリアが流れる中、息絶えるロミ・ジュリ。客席ではすすり泣く声も。カラフルなリボンが四方から床に投げられると、二人は立ち上がり、全員でフリスビーを投げ合って、生から死に向かって疾走した二人を祝福するように終わる。

出演者は、ジュリエットとマキューシオ以外は前回と同じ。ロミオの斉藤悠は、持ち前の気品に若者の不安定さを滲ませて、はまり役。ジュリエットの崎山莉奈はしっかりしたお嬢様、パリスとマキューシオの王下貴司は、発声がやや上ずっていたが、観客との繋ぎ役をにぎやかに務めた。神父とキャピュレットの大庭裕介は自在、意識が丹田にある。乳母の藤田桃子も、もちろん自在。前回は「ホニャラガ」を連発し、台詞を端折っていたが、今回は、小声で喋る技を駆使して、乳母の滑稽味を見せる。客席のくしゃみに節度を保って反応するのは、いかにもももこん。小型ティボルトの小野寺は、疲れ知らず。キャベツのむしり喰いのみで、ティボルトの不敵な性格を表した。

直前まで学校巡回公演に参加し、25回ほぼ連日の過酷なスケジュールをこなしている。通常の演劇よりもはるかにきつい気がするが、これほど面白い芝居を見ることができた子供たちは、幸せだと思う。(7/22)

 

★[バレエ] 松崎すみ子@バレエ団ピッコロ55周年記念発表会

標記発表会を見た(7月16日 練馬文化センター)。ほぼ5時間に及ぶ記念発表会。定番のパ・ド・ドゥやヴァリエーションに加えて、松崎すみ子の振付作品が随時入り、最後に松崎えりの振付を一部加えた『カルミナ・ブラーナ』が上演された。今回は昨年亡くなられた夫君、松崎康通氏の追悼発表会でもあった。康通氏によるメルヘンチックなプログラム表紙絵が素晴らしい。人間、妖精、動物が楽しげに、自由な時間を生きている。夫君のこうした世界をバックに、松崎は作品を思う存分作っていたのか、と思わされた。

男女PDD「春風にのって」や少女デュエット「姉妹」には、松崎のポジティヴな世界観がよく表れている。踊る子供たちも、まず存在が肯定され、その上で、松崎の振付に導かれて、愛にあふれた世界を作り出している。いわゆる児童舞踊の達者さは全くなく、自然に身の丈で踊る。結果として、その子供の最もよい所が引き出され、観客はイデアのような子供らしさ、少女らしさを舞台で見ることになる。現在を肯定する松崎の真っ直ぐな視線、人間そのものを愛する松崎の力を、改めて感じた。

カルミナ・ブラーナ』は、作品の原点に立ち返ったような祝祭的空間だった。大人から子供まで、音楽に乗って次々に踊る。篠原聖一、堀登、小原孝司によるベテラントリオは、それぞれの個性である、美しさ、クリティカルな動き、大きさを発揮。篠原、堀と組んだ菊沢和子の江戸前の味わい(ブルノンヴィルが合いそう)、中村えみと小原の情感豊かなパ・ド・ドゥなど、振付の妙味も味わうことができた。松崎えりと増田真也のパートは毛色が異なるが、それさえも包み込むのが松崎の世界。磁場を作る太陽のような存在と言える。

発表会には、下村由理恵(篠原作品)、西田佑子・黄凱(『白鳥の湖』第2幕)、交流のあるベルギーのジョゼ・ニコラ・バレエスタジオ生たち(創作『Swan Lake』より)が参加し、55周年を華やかに祝った。(7/26)

 

★[バレエ] 井上バレエ団『コッペリア

標記公演を見た(7月24日 文京シビックホール)。関直人版『コッペリア』の特徴は、優れた音楽性に裏打ちされた踊りの数々。民族舞踊から、クラシック・ヴァリエーションまで、関独自の音取り、音楽解釈が散りばめられている。終幕のギャロップでは、踊る者、見る者全てを巻き込む、熱風のようなエネルギーが劇場に充満し、帰路の足取りを軽やかにした。

バランシンの影響を受けた関の作品は、古典改訂であっても、シンフォニック・バレエの要素が顔を覗かせることがあるが、本作は、ロマンティック・バレエの形式を重視し、マイムを多く残している。関の優れた音楽性を舞踊で体験し、細やかなマイムで演劇性を味わえる、理想的な『コッペリア』と言える。

主役は2組。初日のスワニルダは宮嵜万央里、フランツは荒井成也、二日目は西川知佳子、中ノ目知章(ドイツ国デュッセルドルフ歌劇場・デュイスブルク歌劇場バレエ団ソリスト)、その二日目を見た。久しぶりに、井上らしい主役を見た気がする。かつての藤井直子ほどには苛烈ではないが、自分を数に加えない、自己放棄する西川のあり方は、井上のプリマの伝統に則っている。藤井は巨大なオーラで舞台と客席を覆っていたが、西川は無意識の真空とでも言うような、不可思議な求心力を発揮した。パ・ド・ドゥではパートナリングの問題か、滞る部分が見受けられたが、それを物ともせず踊り切ったことは、藤井にも見られた主役にふさわしい美徳である。

中ノ目は、一度見たら忘れられない強烈な個性の持ち主。長身で脚長。正統的技術を持ちながら、熱さをまき散らすようなキャラクター色の強い踊りを見せる。ソロルとか、彼のために作られた物語バレエの主役(何かとんでもなくドラマティックな役柄)を踊りそうな気がする。

コッペリウスの本多実男は、ノーブル寄りの役作り。1幕の可愛らしいスワニルダ友人、ノーブル系を揃えたフランツ友人、チャルダッシュの福沢真璃江、中尾充宏のスタイルを心得た溌剌とした踊りが印象深い。2幕では中国人形の桑原智明が、開脚ジャンプで場を盛り上げ、3幕では、原田秀彦市長が取り仕切って、ディヴェルティスマンを開催。戦いの荒井英之、土方一生、貫渡竹暁のゲスト陣が、爽快な踊りを見せた。団員は関振付の素晴らしさを十全に伝えている。

ロイヤル・チェンバーオーケストラ率いる冨田実里は、前奏曲こそどうなることかと思ったが(ホルンの重奏部分のせいで)、ドリーブの闊達なエネルギーを舞台に滞りなく送り込んだ。(7/30)

 

★[バレエ] 日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」

標記公演を見た(8月3日 新国立劇場オペラパレス)。文化庁公益社団法人日本バレエ協会が主催する「全国合同バレエの夕べ」が、今年も開催された。文化庁・次代の文化を創造する新進芸術家育成事業の一環である。全国の若手ダンサーに、オーケストラ演奏での古典バレエや多様な創作物を踊る機会を与え、同時に新進振付家に作品発表の場を与える、有意義な企画と言える。通常は2日公演のところ、今年は会場の都合で1日のみ。6支部、東京地区、本部出品の合計8作品は例年よりも少な目だが、依然として復興途上にある東北支部が、3年ぶりに参加し、内外で活躍するダンサーの現在を披露するなど、充実のプログラムだった。

今回は古典3作に対し、コンテンポラリー・ダンス4作と逆転現象が起きた(本部は恒例となった『卒業舞踏会』)。クラシック・ベースの創作はなく、全体に二極化した印象。まずは存在感を高めたコンテンポラリーから、上演順に、中国支部の『Nutella』(振付・キミホ・ハルバート)。バッハ、マイケル・ナイマン、ロバート・モーランの音楽をバックに、日常を慈しむ風景が15人の女性ダンサーによって描かれる。ハルバート初期の作品で、優れた音楽解釈、健康的なユーモア等、振付家の美点が生きている。若いダンサーにとって、コンテンポラリーの語彙に、地続きの感覚、等身大の踊りで取り組める入門好適作品。

信越支部の『Fly to moon, after me』(振付・高部尚子)は、2013年山梨国民文化祭で初演された。20人の女性ダンサーが、オーウェン・バレットの激しい現代曲で、立石勇人の宇宙的映像をバックに踊る。振付には、クラシック・ダンサーでなければ踊れない容赦ない技巧が含まれ、振付家の技巧家としての側面を思い出させる。だが何よりも、音楽を腑分けするその細かさ、鋭さ。変拍子の曲を自在に動きに変換する力がある。フォーメイションには幾何学的な計算を見せる一方、音楽を入れた体が、動きたいように動く、ある意味野蛮な振付で、圧倒的なパトス、訳の分からなさが充満。終盤は高部独特の過剰さに満ち満ちていた。

九州北支部の『Eat me, Eat me』(振付・大島匡史朗)は、15人の女性ダンサーと大島自身が踊るスケールの大きい作品。フォルムで見せるモダン系のパートと、発話を導入するコンテ系のパートが組み合わさっている。若いダンサーに自らの言葉で語らせる試みは、彼女たちにとって大きな経験となるだろう。ただし、ダンスそのものの魅力は、大島と女性一人が並列して踊った場面で発揮された。こうした求心力のある部分を、もう少し見たかった気がする。

九州南支部の『The Absence of Story』(振付・島崎徹)は、題名に反して、物語を濃厚に感じさせる作品。ブラームスのバイオリン・ソナタで、紫と茶の膝下丈ドレスを着用した14人の女性ダンサーが踊る。衣裳からも分かるように、モダンダンスの色合いが濃厚。ただし、一見モダン回帰と思わせながら、コンタクトを取り入れ、コンテの語彙を加えたハイブリッド・ダンスである。言わばオーガニック・グレアムといった趣。音楽と呼吸が完全に一致し、互いに気を発しながら踊るので、体によい踊りに見える。フォルムは美しいが、形だけではない。大地のエネルギーと直結した強靭な美しさがある。

古典3作は、幕開けの東北支部『パキータ』(改訂振付・佐藤茂樹)から。BRB所属の淵上礼奈と、ネバダ・バレエシアター所属の田辺淳を主役に、2人の女性ソリスト、アンサンブルが、明るく華やかな踊りで日頃の成果を披露した。淵上の堂々たる存在感、田辺の切れ味鋭い正統派ヴァリエーションが、支部のダンサー育成力を物語る。2人のソリストも魅力あふれるヴァリエーションを見せた。

関東支部の『ドン・キホーテ』第二幕より‘夢の場’(再振付・指導・西山裕子)は、ドルシネアに工藤彩奈、森の女王に西櫻子、キューピッドに江田有伽という布陣(ドン・キホーテ役は省略)。工藤は美しい体の持ち主。ミスが惜しまれるが、主役にふさわしい輝きで舞台を統括した。西の大きさ、江田の行き届いた踊り、優雅さを意識したアンサンブルと、全体に丁寧な作り。ダンサー西山の抜きん出た特徴である素晴らしい音楽性が、さらに反映されていたらと思う。

東京地区の『海賊』より‘花園の場’(改訂振付・本多実男)は、メドーラに平田沙織、グルナーラに清水愛恵、オダリスクに根岸莉那、青島未侑、斎藤ジュンという布陣。平田はもう少し強度が欲しいが、美しいラインでたおやかなメドーラを造形、清水は、メドーラの犠牲となる人の好い役どころが合っている。オダリスクでは第3ヴァリエーションが実力を発揮。アンサンブルを含め、全体に伸びやかで明るく、踊りが大きい。観客の呼吸が楽になる、ベテランらしい舞台作りだった。

最終演目は本部出品の『卒業舞踏会』(原振付・リシーン、改訂振付・ロング、指導・早川惠美子、監修・橋浦勇)。ドラティ編曲のヨハン・シュトラウスが強力な推進力を誇る、優雅で軽やかな一幕物。年ごとの配役が楽しみな、バレエ協会の貴重なレパートリーである。老将軍には、正確な踊りにコミカルな演技が生えるマイレン・トレウバエフ、女学院長は母性的でグラマラスな樫野隆幸が務めた。ラ・シルフィードの寺田亜沙子、スコットランド人の奥村康祐が、ロマンティシズムを奏で、鼓手の惠谷彰が、熟練の妙技を見せる。第一ソロの宮崎たま子は爆発的演技を、第2ソロの平尾麻美は、逢引きするようには見えないが、しっかり者の役どころを押さえている。愛らしい無窮動の星野姫を始め、若手・中堅ダンサーが一丸となって、夏の祝祭的な公演を締めくくった。 指揮は、舞曲の熱いパワーを舞台に注ぎ込んだ福田一雄、演奏はシアター・オーケストラ・トーキョーによる。(8/10)

 

★[ダンス][その他] 西岡樹里+中間アヤカ@「トヨタコレオグラフィーアワード」

標記コンクールを見た(8月6日 世田谷パブリックシアター)。最後の「トヨタ」ということもあったが、主な動機としては、西岡樹里、中間アヤカが出演したため。西岡は、1月の横浜ダンコレの『無・音・花』(振付:チョン・ヨンドゥ)で初めて見て、その優美な踊りに引き込まれた。中間は、高知県立美術館制作『ZERO POINT』(振付:ダレン・ジョンストン)のリハーサル見学で見て、他のダンサーとは全く異なる内発的な踊りに惹かれた。さらに、その滑らかな踊りと意識の集中が、先の西岡と酷似していた。見学後、中間に尋ねてみると、共に神戸のDance Boxが主催する「国内ダンス留学@神戸」の一期生であることが分かった。

西岡は伝統舞踊を思わせる優雅な様式美、中間は野性的な奔放さを個性とし、それぞれ神戸女学院大学ランバート・スクールと出自も異なるが、踊りの質は同じ。と言うことは、共通する「国内ダンス留学」の影響なのだろうか。カリキュラムには舞踏、コンテンポラリー・ダンスが並び、日本人ダンサーの可能性が追求されている。今回の上野愛実振付『under』においても、印象は変わらなかった。西岡は四方に飛び散るような鋭いソロを踊ったが、優美さは相変わらず。中間は何をするか分からない危険な香りを発散させた。

コンクールの作品傾向は、デジタル系、ストリート系、洋物志向。上野のみが分からないことをぐずぐずやっていて、何をやっているのかじっと見てしまった(2人のダンサーを確認する必要もあったが)。

審査員の中に批評家はいない。すべて劇場、美術館等のプロデューサー。ゲスト審査員にようやく実演家が入る。単純に考えると、振付家たちは、まず劇場のコンテンツであることを目指してしまうのではないか。商品を作ってしまうのではないか。自分を売ってしまうのではないか。現在面白い(または理想的な)審査員陣容を整えるなら、まず乗越たかおと武藤大祐を入れること。二人の戦いから、とんでもない振付才能が生まれると思う。(8/7)

 

★[バレエ] 橘秋帆(牧阿佐美)@第42回「日本ジュニアバレエ公演」

標記公演を見た(8月13日 文京シビックホール)。主催は公益財団法人橘秋子記念財団。牧阿佐美は現在、新国立劇場バレエ研修所の他、橘バレヱ学校、日本ジュニアバレヱ、A.M.スチューデンツ、牧阿佐美バレエ塾と、5つの教育機関に携わる教育者だが、今回の公演では、振付家としての牧に注目した。

第二部『サーカス・ヴァリエーション』(音楽・湯浅譲二)と『クラシカルシンフォニー』(音楽・プロコフィエフ)の2作。初演年は記載されていないが、動きの奔放さから、牧の若い時期の作品であることが分かる。変拍子を含む現代曲を溌剌と動きに変え、そこに生き生きとした喜びを感じさせる。上体の思いがけないアクセント、ポアントを細かく使うアレグロの早さに、牧振付の特徴が覗える。

第一部の『行進曲』は、ウォルトンエルガーヨハン・シュトラウスワーグナーの行進曲を使用した4部構成。振付は橘秋子、牧が改訂を施している。第二部作品に比べると、空間の使い方が大きく(作品の性格も異なるが)、橘秋子の構成力と世代の差を感じさせる。牧は当然、母の作品に対抗して、振付を行なってきたのだろう。フォーメイションを含む空間構成よりも、自分の身体に即した音楽的振付に、快感を感じているように見える。牧自身は、モダンな空間構成を模索してきたと言うかもしれないが。

今月末の牧阿佐美バレヱ団新作『飛鳥』は、秋子の『飛鳥物語』を土台に、牧が改訂演出・振付をする新作。母と子のどのようなコラボレーションが見られるのか、また母に対する牧の思いがどのように表れるのか、注視したい。(8/14)

 

★[バレエ] 牧阿佐美バレヱ団新制作『飛鳥』

標記公演を見た(8月27日 新国立劇場オペラパレス)。本作は、1957年初演の『飛鳥物語』(台本・振付:橘秋子)を基に、牧阿佐美が改訂演出・振付を行なった、言わば親子合作の創作全幕である。山野博大氏によると初演当時、バレヱ団の母体である橘バレヱ学校では、教科に舞楽を取り入れていた。初演版は、舞楽指導者の宮内庁楽部楽長・薗広茂が雅楽を編曲、橋本潔が美術を担当したという(プログラム掲載文より)。その後、62年に片岡良和のオリジナル音楽、三林亮太郎の美術で、プロローグとエピローグ付き三幕四場のグラン・バレエに改訂され(同文)、65、69年に再演、76年に牧が振付改訂を行い、86年の再演を経て、今回の二幕版に至っている。

音楽は片岡(音楽監督福田一雄)、美術監督は洋画家の絹谷幸二、映像演出はZERO-TEN(代表:榎本二郎)、照明デザインは沢田祐二、衣装デザインは石井みつる(オリジナルデザインより)と牧、振付アシスタントはイルギス・ガリムーリンという布陣。装置は神棚と宮司の座る椅子のみ。後はプロジェクション・マッピングを用いて、情景を転換する。3幕から2幕へ圧縮したことと、常に変容する映像を用いたことにより、モダンでスピーディな新版となった。

片岡の音楽は日本的なリリシズムを基調とし、雅楽管弦楽編曲やピアノを含む、幅広く変化に富んだバレエ音楽だった。日本オリジナルのバレエ音楽として、山内正の『角兵衛獅子』、湯浅譲二の『サーカス・ヴァリエーション』と共に、バレヱ団の貴重な財産と言える。

ZERO-TEN演出の映像は、絹谷のサイケデリックな龍の絵、山里の絵を中心に、62年の三林美術を基にした情景、宇宙的、俯瞰的な抽象図が、音楽に合わせて繰り広げられる。水泡が浮かび上がる様やホタルの乱舞、滝、雲など、自然と密着した映像が多く、森林浴のような効果があった。二幕の舞姫ソロのバック、若草+灰+群青色のグラデーションは、奈良の自然を思わせて素晴らしい。榎本代表の言葉、「映像は、舞台セットのみならず、時にそれは音楽に寄り添い包み込むような柔らかい表現であり、あるいはパフォーマンスと連動したシャープな表現であり、音楽とパフォーマーとの間を自由に行き来しながら変形していくものです。その映像がもたらす無形の刺激こそが、舞台に一体感を生む上で、大きな役割を果たすと思っています」(プログラム)が、そのまま実行された高レベルの演出。「見るための映像」から「体験して経験する映像」への進化を、自立した芸術メディアとして目の当たりにした。

牧の演出は、時間的な速さを強調したモダンなもの(橘版は未見だが、『角兵衛獅子』から推測すると、骨太な構成と空間的なスケールの大きさが特徴だったと思われる)。振付はバランシンに影響を受けた世代らしく、速い足技を含むアレグロに特徴がある。一幕のディヴェルティスマン、二幕の竜の饗宴とも、工夫を凝らした踊りの数々だった(ベジャール風の雄竜アンサンブルあり)。一方、演劇的流れの点では、一幕最後の愁嘆場に分かりにくさが残った。本来は演劇よりも音楽に親和性を持つ振付家だと思う。

物語は飛鳥時代の都が舞台。竜神を祀る宮の舞姫、兄妹のように育った若者、竜神竜神を愛する黒竜が、愛と嫉妬のドラマを紡ぐ。神に仕える舞姫という点では『ラ・バヤデール』、黒竜との対比では『白鳥の湖』、終幕の舞姫と若者による瀕死のパ・ド・ドゥは『マノン』を連想させるが、舞姫の所作や心境には、日本的な土壌が反映されている。

主役は、飛鳥時代の国際性を踏まえて、ロシア人が勤めた。舞姫の春日すがる乙女には、スヴェトラーナ・ルンキナ(カナダ・ナショナル・バレエ団プリンシパル)、若者の岩足にはルスラン・スクヴォルツォフ(ボイショイ・バレエ団プリンシパル)。二人はすでに『白鳥の湖』でゲスト出演を果たしている。竜神にはバレヱ団の菊地研が配された。

ルンキナは元々繊細な抒情性が持ち味だったが、今回はさらに磨きがかかり、一幕の榊を持って踊る神聖なソロは、日本人かと見まがうほどだった。グラン・プリエから八の字を描く独特の脚の踊りを丁寧にこなし、上体の楚々とした佇まいに、神に仕える身の気高さを加えて、竜神の妻に選ばれた舞姫の心境を表した。元牧バレリーナ・川口ゆり子のストイックな抒情性を思い出させる。二幕の竜神の妃としての踊りは、やや弱さが見られたが、岩足の愛の象徴であるこぶしの枝を持って踊る哀切なソロでは、本領を発揮した。対するスクヴォルツォフは、ゆったりとした大きな踊りに優れたパートナーシップを備えたボリショイらしいダンスール・ノーブル。誠実な人柄が役と合っている。

菊地の竜神は、天を治める大きさよりも怒りや厳しさに重点を置いた役作り。力強く伸びやかな黒竜の佐藤かんなとは、ロットバルトとオディールのような相性の良さを見せた。佐藤は独立した意志のある踊りが素晴らしかった。

竜剣の舞と金竜を踊った青山季可の、隅々まで神経の行き届いた主役の踊り(カーテンコールでのゲストに対する心配りも)、日高有梨とラグワスレン・オトゴンニャムの美しいパ・ド・ドゥ、清瀧千晴の晴れ晴れとした回転・跳躍技、清瀧が要となった二つのトロワ(織山万梨子と阿部裕恵、須谷まきこと太田朱音)の充実が印象深い。

逸見智彦、森田健太郎、塚田渉、京當侑一籠の清々しい舞楽、保坂アントン慶(祭司)、坂西麻美(宮司)の引き締まった演技も加わり、バレヱ団の底力を示す新版初演だった。

デヴィッド・ガーフォースの指揮と東京フィルの演奏が、片岡音楽を生き生きと蘇らせる。コンマス・三浦章宏の抒情的なソロが素晴らしかった。(8/31)

 

★[ダンス] 現代舞踊協会「夏期舞踊大学講座」

標記講座を見学した(9月3、4日 国立女性教育会館)。今年はエミール・ジャック=ダルクローズとルドルフ・ラバンという興味深い取り合わせ。モダンダンスとコンテンポラリー・ダンスを考える上で、重要な身体思想家である。

開講式は、妻木律子研究部部長の進行で、正田千鶴研究部担当常務理事が挨拶をした。「自分は大学を出ていないので、コンプレックスがある。それで舞踊大学と名付けた。皆さんはこの二日間、自分を捨てて、講座に臨んでください」と檄。因みに、閉講式では「最初に自分を捨てて、と言いましたが、それは終わり。これまで習ったことはもう過去のこと。全部忘れて、自分に戻ってください(概要)」と、正田氏でなければ言えない言葉で締めくくった。

一日目は「ダルクローズ(リトミック)の講話と実技」が午前・午後に行われた。講師は折田克子、山口晶子、講師補佐は早川ゆかり、熊谷乃里子、男性一人。音楽家で小林宗作からリトミックを習った山口氏が、簡潔に理論を話し、折田氏が実技を指導する。受講生は中学生から70代までの30人強。特別ゲストダンサーの元Noism&元フォーサイス・カンパニーの島地保武も加わり、リズムを呼吸と共に体で表す。二人組になったり、大きな円を描いたり、最後は各自の選曲でグループに分かれ、創作を行なった。

ダルクローズのリトミックを、石井みどり折田克子が舞踊に適した形にしたとのことで、いわゆるリトミックよりも、体操に近い印象を受けた。折田氏によれば「手は二拍子で、足が三拍子というのもある。アウフタクトも」とのことだが、一日で習得できるテクニックではないので、受講生は一端に触れたという感じではないか。

指導する折田氏の美しい体が最も印象的だった。どこにも力が入っていない自然体の身体。武道家と違うのは、すっくと立っていること。やはりダンサーの体なのだ。体の切り返しはミリ単位で鋭く、東洋人舞踊家の究極の姿を見た。

二日目は午前に、ラバン研究家の大貫秀明氏による「ラバン理論講話」と、日本舞踊家でラバンセンター留学経験のある西川箕乃助氏による「ラバン体験講話」があった。大貫氏は図入りのハンドアウトを用意。動画も使用しながら、ラバンの生涯とスペース理論を中心に語った。途中、ダンサーによる模範演技も入り、分かりやすくて面白い講話だった。一方、西川氏は素手で勝負。留学の経緯や、授業の様子、ラバンの影響を実演家らしく、率直に語る。当初は、ラバンの影響について否定的だったが、質疑応答などを経て、やはり影響はあったということを徐々に認められた(と思う)。

昼休憩に機会があったので、お二人に質問をした。大貫氏には、前日予習したことでの疑問。「ラバンは神秘主義に惹かれる面と、メディア=動きそのものを分析する面と両方あるが、それはどういうことか」。大貫氏「それは不思議でも何でもない。両面あるということ。ロンドンではいまだにラバンの神秘主義を継承した集団が残っている。ラバンセンターはフリーメーソンとラバンの関わりには言及しないが」。予習した神秘主義としては、スーフィ・イスラム、バラ十字、グルジェフとの類似、フリーメーソンユングが挙がっていた(International Encyclopedia of DANCE, Oxford UP)。大貫氏の講話では、さらにシュタイナーの名前も。一方、メディア分析を残すためのノーテーションへの興味は、パリ時代に始まっていたという(大貫氏の講話―フイエの舞踊譜を研究した)。ただしラバノーテーションの確立は、弟子のアン・ハッチンソンによるとのこと。講話ではプラトンの正八面体、正六面体、正二十面体を用いたラバン理論の説明があったが、神秘主義とメディア分析の合体のようなものだろうか。因みに大貫氏は、柔道と空手の経験者とのこと。

西川氏には、昨年の「西川会」で見た清元『青海波』(振付:西川箕乃助)について質問。「10人の女性舞踊家が踊る群舞作品の出し入れやフォーメイションに、洋舞の影響を感じたが、ラバンと関係があるのか」。西川氏「関係はない」とのことだった。作品については当ブログ(2015.10.30)参照。「元々日舞には群舞というものはない。戦後新しい局面を求めて、モダンダンスとの交流があったが、現在の自分の考えでは、古典を大切に継承していきたいと思っている」(西川氏の講話)。

二日目の午後は、受講生31人がソロを披露することになった。それに対し講師の方々がコメントを寄せる予定だったが、大貫氏の提案(?)で、観客席に集った舞踊家、批評家が手分けして、2、3人を担当することになった。受講生のソロも個性があって面白かったが、舞踊家(と批評家)のコメントも面白かった。コメントと自分の舞踊信念が直結している。最後に大貫氏が講評を述べて、新たに5人の受講生を選出。5人によるインプロ創作を鮮やかな手際で指導された。続いて、中村しんじ氏進行で、折田、西川、大貫、島地4氏による丁々発止の鼎談。会場からの質問も活発に行われた。

ゲストダンサーの島地は、2日間にわたり、会場の体育館(残念ながら冷房・扇風機なし)を浮遊していた。一日目夜には、受講生との交流もあったのだろう。帰国当初は、体がやや強張っていたが、徐々にほぐれて、本来の柔らかな体に戻りつつある。Noismに入る前、師匠の加藤みや子作品で砂まみれになり、黄粉もちのように柔らかく踊っていた姿を思い出した。(9/6)

 

★[バレエ][ダンス] ラバン×フォーサイス@譲原晶子著『踊る身体のディスクール

標記著作は、2007年に出版された舞踊研究書である(春秋社)。以前にも目を通し、その時はバレエ用語の変遷に興味が向かったが、今回は、先日の夏期舞踊大学講座で、ラバンの専門家とフォーサイス・ダンサーが同時に居合わせたことの意味を確認するために、読み返した。示唆を受けた箇所を、抜書きする。

  • バレエ・パントマイムの時代に、さまざまな身体の立ち姿が舞踊作家によって構成されるようになり、「アチチュード」の概念がバレエにおいて重要な位置を占めるようになった。すると、それまでは他者に対して「身を控える」ことを意味していた「エファッスマン」や身体の自然の法則と考えられていた「オポジション」が、「アチチュード」を造形するための重要な概念となっていった。しかし、これらの概念は次第に、「体軸を捻る」という造形法つまり「エポールマン」の概念に集約されていき、ここから「クロワゼ―エファッセ」は二〇世紀のバレエに引き継がれ、バレエの姿態造形の基本概念となっていった。(pp.186-7)
  • フォーサイスは、エポールマンを「捻り torsion, counter turning, counter twisting」という言葉で説明している。彼は、エポールマンをベースにした複雑なねじれの連鎖をバランシン・テクニックから学んだ、と述べている。バランシン、フォーサイスは、エポールマンを「絞りによる造形技法」と捉えることによって二〇世紀の抽象バレエを先導した代表的振付家である・・・現在バレエのクラスでは、エポールマンは、古典の表現法として、そして抽象的身体の造形技法すなわちバレエの身体を操るテクニックとして、二重の意味で教えられている。(pp.189-90)
  • フォーサイスは「エポールマンとは、頭、手、足の関係であり、相対するねじり、ひねりをきっちりと規定する・・・こうしたバレエ固有のフォルムをつくるのに意識を集中すれば、多幸 euphoria 状態に達するであろう。私は多幸瞑想のようなものとしてこれを教わった」と述べている。(p.194)
  • ラバンは表現主義とともに抽象舞踊の確立を目指していた。しかし、「内なる精神体験」を表現しようと、舞踊のメディア自身すなわち舞踊家自身がそれに浸れば、自らが踊りを構成しようという態度とは裏腹に、極度な主観主義へと陥る危険性がある・・・その一方で、記譜法に対する興味は、人々の「動きそのもの」への関心、「作品構成」への関心を高めた。譜に記し構成しようという態度は、舞踊が主観主義から脱却していくための道筋を開いた。(p.205)
  • 「譜を書いて舞踊を創作する」という方法論の研究を先駆けて手がけたのは、ポストモダンダンサーたちであった。彼らはまず作曲家ジョン・ケージの影響を受けたのだが、彼らの活動で指導的役割を果たしていた音楽家、ロバート・ダン Robert Dunn(1926-1996) はラバンの理論を学んでおり、「シュリフト・タンツ(書かれた舞踊)は舞踊を発見するための方法であり、ラバンのアイデアで重要なのはタンツ・シュリフト(舞踊記譜法)ではなくシュリフト・タンツ」と述べている。(p.226
  • 振付家フォーサイスが開発したのは舞踊用語の体系であった。創作の道具として使用されるという点、しかも即興のためのツールになるという点、これまで取り上げてきたポストモダンダンサーたちの譜と、果たす役割はおなじである。フォーサイスは、古典バレエのシステムにラバンの理論を取り入れて、独自のバレエ言語体系を構築した。彼の言語体系がバレエとラバンの理論の混成であるということは、フォーサイスのバレエ言語の中心概念、「ジェネレータ generator」と「モディファイア modifier」という用語に、そのまま表れている・・・フォーサイスは、身体から動きを引き出すためのしかけのことを「ジェネレータ」と呼んだ。それは、ラバンの「空間」あるいはポストモダンダンサー達が設定した「ルール」と同じである。フォーサイスは、ラバンが考案した仮想立体「ラバン・キューブ Laban cube」を、重要なジェネレータの一つとしてあげている。(pp.235-6)
  • フォーサイスのバレエ言語が古典バレエと大きく異なる点は、ジェネレータの存在にある。古典バレエでは、核となる動きは、「パ」というポジティヴな動きによって与えられ、それに変形操作が加えられる。これに対してフォーサイス・バレエでは、核は「ジェネレータ」というネガティヴな枠組みであり、そこから多様な動きが立ち上げられる。前者は舞踊語彙あるいは特定の動きの素材を創作の前提にしているのに対して、後者はそれを前提としていない。ジェネレータを基に創作を始めるというフォーサイスのやり方は、ラバンそしてポストモダンダンサーという系譜において成熟していった、二〇世紀舞踊の方法論的遺産である。(p.237)
  • 譜や言葉で実演者に指示を与えるのには二つ方法がある。一つは「手続き」を指示する方法、もう一つは「結果」を指示する方法。古典バレエは、パという慣習化された動きを舞踊語彙としてもち、バレエ・ダンサーは、パの名前をいわれれば特定の動きの「結果」を生み出せるように日頃から訓練されている。一方、「コンポウズド・インプロヴィゼーション composed improvisation」では「手続き」のみが記され「結果」は記されない。「結果」は、実演者によって創作されることが求められている。「結果」未定のまま「手続き」のみを指示すること、これがポストモダンダンサーやフォーサイスが譜や言葉を通して行なってきたことである・・・こうした方法論は、身体を表現メディアとする舞踊芸術にとって、とくに有効なのである。というのは、振付家が「手続き」を投げかけ、舞踊家から「結果」が引き出されるとき、それは身体に投げかけられ身体から引き出される。そこからは何が引き出されるのか本当に分からない。楽器は特定の使用目的に即してつくられているから、使い方も限定されているし、出せる音も限定されている。しかし身体は人がつくったものではないし、使用目的もない。舞踊の場合、「手続き」と「結果」の間のギャップには、身体というメディアの無目的性が横たわっている。(pp.240-1)

*本文中の引用には註が付いていたが、省略した。(9/12)

 

★[バレエ] 谷桃子バレエ団「貴女の人生に、“Bravo”谷桃子追悼公演

標記公演を見た(9月23日 めぐろパーシモン大ホール)。バレエ団創立者でプリマ・バレリーナだった谷桃子は、昨年4月26日に94歳の生涯を閉じた。前年の8月26日には、厚い信頼で結ばれた舞台パートナー、小林恭を失っている(享年83歳)。葬儀で、声を振り絞るようにして弔辞を述べた谷の姿が、今でも思い出される(葬儀場には、谷と同じ年の10月3日に逝去された藤井修治氏の姿もあった)。

プログラムは、谷振付の『ラプソディ』、『瀕死の白鳥』、『リゼット』、伊藤範子振付の『追憶』、『ジゼル』第2幕(谷桃子版)の5作。創作が2本入った点に、古典と創作を両輪に活動してきたバレエ団の特徴が表れている。伊地知優子氏の言葉、「谷桃子の豊かな表現力は、天性の素質に加え、現代舞踊から入った舞踊歴にも起因するように思います。」(プログラム掲載文)は示唆的だった。谷の出自と、バレエ団から多くの振付家が輩出されたことは、無関係ではないと思う。

公演に先立ち、ロビーで関係者(山野博大、福田一雄、齊藤彰、八代清子、天野陽子、石井清子、鈴木和子)によるトークショーが、映像を交えながら行われた。印象的だったのは、谷の最初の生徒で、後に独立分裂し、東京シティ・バレエ団の創立に加わった石井清子の話。「地方巡業の時、谷先生が、公演が終わったら温泉に行こうかとおっしゃって、二人で行ったことがよい思い出。『ジゼル』のパ・ド・シスを踊っていた時、谷先生のジゼルを抱きかかえるパヴロワ先生が、私の膝に乗っかっていて重い、という思いを覚えている」。また山野博大氏は、「谷さんの引退公演『ジゼル』の相手役を、バレエ団最若手の三谷恭三に指名したのは、谷さん自身と聞いている。三島由紀夫台本の『ミランダ』(明治百年記念)は、谷さんの曲馬団スターを、魚河岸のあんちゃんたちが取り囲む作品。橘秋子と石田種生の振付。再演してほしい」。福田一雄氏「作曲は戸田邦雄です」等。

公演では、最初に谷の舞台写真を映像で流し、最後は、舞台後方に掲げられた谷の写真に向かって、出演者全員が一礼し、拍手(Bravo)を送る演出で締めくくられた。

創作2本は師弟コンビによる。谷作品『ラプソディ』(1977年、ラフマニノフ曲)は、白いショート・スカートの女性15人が踊るシンフォニック・バレエ。月明かりを思わせる青白い照明(足立恒)の下、トップの雨宮準を中心としたシンメトリー・フォーメイションが、厳粛で慎ましい儀式を思わせる。『ジゼル』、『白鳥の湖』、『ラ・バヤデール』のバレエ・ブランを援用し、プティパへのオマージュを捧げる一方、スタイルはモダンなバランシン風。音楽性よりも、構成やフォーメイションへの意志が前面に出た作品だった。『ロマンティック組曲』と共に、レパートリー保存を期待したい。

谷桃子の激情は、弟子の演出・振付法に引き継がれたのかもしれない。伊藤作品『追憶』(2015年、ドビュッシーショパン曲)は、師を月になぞらえ、その光に包まれて、22人の黒衣の男女(女性は後に白ドレス)が踊るドラマティックな作品。竹内菜那子と檜山和久をトップに、男女の愛、男性の孤独など、様々な感情が舞台を席捲する。振付家・伊藤の特徴は、振付の個別性よりも、動きから激情へと持っていく力、さらにそれを畳み掛ける強度にある。音楽理解(音楽「解釈」よりももっと音楽に接近している)とドラマを結び付け、感情の渦を次から次へと生み出していく。最後は、師に花を捧げて、逆立つ波のようなフォーメイションで劇的に終わった。演出家としての伊藤の美点は、クラシック&モダンのスタイルを熟知し、それに沿って、ダンサーから、自分を超える演技、普遍的な感情を引き出す点にある。伊藤作品に出演するダンサーたちは、自らの全てを舞台に投入し、役に奉仕することになる。ドラマを知るスタイル主義者として、今後、古典改訂に力を発揮すると思われる。

古典3作は、谷の好んだ作品。佐々木和葉による『瀕死の白鳥』、齊藤耀、三木雄馬、アンサンブルによる『リゼット』抜粋、佐藤麻利香、今井智也、齊藤拓、赤城圭、林麻衣子、アンサンブルによる『ジゼル』第2幕が、谷に捧げられた。『ジゼル』は故高田信一氏の編曲を、指揮の福田一雄氏が復活させた。最後のドラマティックな幕切れに加え、アルブレヒト登場、ウィルフリードとのやりとりも再現したとのこと。振付は谷桃子版。ドラマトゥルギーに基づく考え抜かれた演出・振付を、現役世代が説得力をもって実現した。特に齊藤が演じたヒラリオンの造形は魅力的。振付も随所で異なるが、現行版よりも演出家の手を感じさせる。高田氏編曲の谷版全幕復元を期待したい。(9/29)

 

★[バレエ] ミラノ・スカラ座バレエ団『ドン・キホーテ

標記公演を見た(9月24日 東京文化会館)。ミラノ・スカラ座は1980年にヌレエフ版を導入した。パリ・オペラ座は1981年に導入しているので、こちらの方1年早い。同じヌレエフ版でも、スカラ座の方は、演技が自然。演者の体の力が抜けている(以前スカラ座の『ジゼル』を見たとき、「自然食のようだな」と思ったことがある)。グァッテリーニによると、「(スカラ座は)ヌレエフの明確な承諾のもと、イタリアの伝統喜劇コンメディア・デッラルテの色彩に染めあげながら、このクラシック作品と取り組むことに情熱を燃やした。」(プログラム)。ソビエト・バレエでは添え物になってしまったマイムが、それ自体楽しめる「ご馳走」に戻っている(ヴィハレフ版もマイム重視だが、もっと音楽に即している)。ボードヴィル・バレエの趣があった。

踊りの統一感や技術の高さでは、オペラ座の方が優れている。ただし、ヌレエフの振付を完璧にこなすことに、オペラ座ダンサーは重責を感じているようで、ヌレエフ独特の過剰な装飾音符が、それこそ過剰に目に焼き付いてしまう。スカラ座ダンサーは、装飾それ自体を楽しんでいるように見えた。そのため、ヌレエフの意図、ブルノンヴィルの技巧的側面をクラシック・バレエに組み込むことが、自然に行われている。

昨年今年と、ラトマンスキーが『眠れる森の美女』と『白鳥の湖』を復元したが、現地レポートでは、スピード感と細かいフットワークについて触れている。ラトマンスキーはデンマーク・ロイヤル・バレエに一時所属し、ブルノンヴィル・スタイルを習得しているが、マイムを含め、そこからロマンティック期から古典期に至るバレエの復元に関して、インスピレーションを得ていることは想像に難くない。元々プティパとブルノンヴィルは、同じ流派である。

付け加えると、谷桃子バレエ団が導入したアリエフ版の『海賊』と『眠れる森の美女』は、主にラトマンスキーの復元作業に影響を受けていると思われる。『海賊』はラトマンスキーとブルラカのボリショイ版を引用し、『眠り』はロマンティック・スタイルを採用している(後者はマリインスキー・バレエで口伝されてきたはずだが、スタイルの変遷があった)。

キトリのニコレッタ・マンニは、大柄で技術も高い。スカラ座ダンサーと言うよりも、グローバルな規格に合ったダンサー。ミルタにも配役されているように、ややクールな持ち味である(今春、牧阿佐美バレヱ団の『ノートルダム・ド・パリ』にゲスト出演した際も、愛情を直接表現しないタイプに見えた)。英国ロイヤル・バレエで活躍するような気がする。 バジルのクラウディ・コヴィエットは、初めて見たが、背中が柔らかく、脚が手のように雄弁。アン・ドゥダン回転の美しさには目を奪われた。ただ、左右両回転のトゥール・アン・レールは、さすがに準備がなく、本人も不本意だっただろう(左右両回転できるのは、現在オペラ座ダンサーのみ? 新国立劇場バレエ団ダンサーたちも、4人中3人のジェイムズが両回転したが)。

アントニーナ・チャプキーナの愛くるしいドリアードの女王(脚が雄弁)、ドン・キホーテからガマーシュまでのキャラクターダンサーは言うまでもなく、立ち役の人々の自然派演技、トレアドール達の無心など、どれもこれも楽しかった。(9/30)

 

★[ダンス] 先週見たダンサーたち

9月28日~10月2日の公演で見たダンサーについて、メモしておきたい。

  • 木原浩太@現代舞踊協会「時代を創る」(9月28日 さくらホール)

ダンサー木原の魅力は、圧倒的な身体能力と的確な作品理解にある。今回の自作ソロでも、頭が付くかと思わせるぎりぎりのブリッジ、ドゥミ・ポアントでゆっくりしゃがむなど、体の柔らかさ、強さに加え、一手で踊りとなる細分化された体を見せつけた。ミニマル・ミュージックをフレーズで切り取るところにも非凡さが。作品のモダニズムに通じる雰囲気は、出演したアーカイヴ公演の影響だろうか。

  • 山村友五郎@西川箕乃助の会『彼の岸の花』(9月29日 国立劇場小劇場)

箕乃助は『二人椀久』と、『身替座禅』の後日譚である標記作品を、会の演目に選んだ。二作共に過剰な演技に走らず、品格ある踊りで二枚目と三枚目を演じ分けている。7月の五耀會公演で、山村流の振付を5人で踊る趣向があったが、山村の分かりにくい、振りともつかぬ、存在感で見せる踊りを、箕乃助と花柳寿楽が、エポールマンありの古典舞踊に見事に変換させたことを思い出す(藤間蘭黄と花柳基は演技から入るアプローチ)。中央に陣取った友五郎は、なめらかな中腰で、悠然と芯を舞った。今回は怖い奥方役。ぬーっと座る鵺のような存在感。踊りの妙味、演技の凄みが、飄々としたおかしみに変わるのは、上方の技?

小林聡美も出演したが、どちらかと言えば映像の女優。アップに慣れていて、きれいに見せることから逃れていない。片桐は献身的な舞台。劇団時代を全く見ていないので想像でしか言えないが、こういう少年だか何だか分からない過剰なヒトだったのでは。自分をその場に突き出す速度・強度は、常に狂気に達している。訳の分からないヘンテコ踊りを、もっと見たかった。と言うか、それこそを見たい。対する藤田ももこんは、台詞を喋らなかったかのような集中した身体(丹田に意識あり)。台詞が意味を伝えるのではなく、音のかたまりとしてある(台詞の身体化?)。何事にも動じない強い肚の持ち主だが、ポジティブな存在感はなく、対象との間に常に一定の距離がある(観客とも)。マイム役者としての矜持、節度なのだろう。

コンテンポラリー・サーカスから生まれた作品。ボワテルはサーカス学校出身。ヨブ記を題材にしているので、不条理な場面が続出する。それをクラウン芸でやってのける。途中、サーカス芸人(アーティスト?)らしい、宙返り等を駆使した躍動感あふれるダンスの見せ場があったが、その直前の、「突っ立ったまま後頭部から倒れる」という室伏鴻ばりのアクションが面白かった。室伏を見ているのだろうか。同じ不条理組でも演劇派のジョセフ・ナジとは違い、こちらはクラウン芸とダンスシーンに温度差がある。クラウン芸は観客との交渉が不可欠。ダンスシーンは見せるのみ。芸劇の観客は、ヌーボー・シルクに慣れているのか、反応はよかったが、それでもクラウン芸の場面は、文化の機微に触れる難しさを感じさせた(フランス語台詞の壁もある)。

首藤の本質は、被虐的なエロティシズムにある。だが、中村との間でそれが発揮されることはない。中村の地母神のような巨大な母性が、首藤を支配してしまうから。事によると、カマキリのメスでもあるから。中村の演出は円熟味を増している。本人はオフィーリアとガートルードを演じたが、後者は気品と色気、可愛らしさもあり、はまり役だった。オフィーリアをもし他の誰か(新国立の小野絢子とか)が演じたら、あるいはハムレット首藤の演技に火が付いたかもしれない。ダンサー中村の凄みは、自らの強固な自我を揺るがす他者の振付で発揮されると思う。自分の振付では、自分を越えられない。(10/8)

 

★[ダンス] 勅使川原三郎×山下洋輔『UP

標記公演を見た(10月7日 東京芸術劇場プレイハウス)。構成・振付・美術・照明は勅使川原三郎、出演は勅使川原、佐東利穂子、山下洋輔(プログラム表記順)。勅使川原の演出は、相変わらず冴えている。繊細な薄闇や、大胆な逆光シルエットなど、照明の素晴らしさは言うまでもない。今回は高貴で野蛮なバルタバスばりの馬遣いが加わった。佐東と馬が刻む2拍子、3拍子に、山下のピアノが呼応し、緊迫感あふれるデュオが生み出される。ピアニスト、馬、ダンサーのこの座組みは、海外公演等の可能性を秘めていると思う。 一方、フリージャズの覇者、肘打ち奏法で有名な山下を招くからには、勅使川原自身の踊りも相応の変化を見せるだろうと予想していた。だが残念ながら、こちらの方も相変わらずだった。ジャム・セッションとは相互の呼吸を量り、意識が相手の体に入り込んで、自分の身体が変容するもの。これまでにない自分が立ち現れるものだと思うが、いつも通りの踊りである。山下のテンポの変化に、勅使川原の体はすぐさま反応する。あるいは、踊りで山下を挑発する。しかし、勅使川原の意識が相手に向かって流れ出したり、踊りの質が変わるようなことはなかった。

勅使川原の踊るデュオが、相手が誰であろうと、心身ともに触れない(触れたとしても相互的ではない)デュオであることは、必然なのかもしれない。予定調和、つまり美を目指すには、即興的要素は排除されなければならないから。

山下はプロとして、演出家の意図に極力沿っていた。つまり駒に徹していた。最後に破壊衝動の片鱗を垣間見せたが、終始、洗練されたピアノだった。途中、少なくとも2人の中高年男性が退室した。駒に徹する山下を、見るに忍びなかったのだろう。終演後は指笛とブラボーの嵐だったが。(10/11)

 

★[バレエ] バレエシャンブルウエスト『コッペリア

標記公演を見た(10月8日 オリンパスホール八王子)。『コッペリア』の魅力は、まずドリーブの音楽。ワルツを始めとする舞曲の素晴らしさ、リリカルなメロディ、ドラマティックなオーケストレーションなど、聴く喜びを常に与えるバレエ音楽である。二つ目は「脚のバレエ」であること。版によって多少の違いはあるが、フランス派の細かい脚技が残されている。見る方にとっては楽しく、踊る方にとって苦しいのは、ブルノンヴィル・スタイルと同じ。ロシア風の大技がもたらす爽快感はないが、じわじわと心が浮き立つ幸福感を味わえる。三つ目は、人形が人間に変わる「奇跡のバレエ」であること。もちろんスワニルダはコッペリアの振りをして、コッペリウスを騙しているのだが、舞台上では実際に、体の変容を見ることができる(これを演技で行なうか、体の質を変えて行なうかは、ダンサーの技量、体がいかに細分化されているかによる)。四つ目はマイムの面白さ。演技派の腕の見せ所が随所にある。

今回の上演では、作品のこうした魅力がよく伝わってきた。末廣誠指揮、東京ニューシティ管弦楽団の、豊かでダイナミックな音楽、スワニルダ・吉本真由美の、爪先まで神経の行き届いた正確な足使い、一幕の愛らしい吉本とやんちゃなフランツ・橋本直樹の恋模様に、二幕コッペリウスの切実な願いを含んだコミカルな遣り取り(コッペリウスのジョン・ヘンリー・リードはノーブル系のアプローチを予想したが、やや軽めの造形だった)、さらにオークネフのメルヘン的な美術も加わり、地元八王子の人々はバレエの多様な魅力を堪能したと思う。子供たちの「アハハ」という反射的笑いは、一幕よりも二幕で多発した。一幕での主役二人の演技は、呼吸も合い、体全体に感情が息づいていたが、子供たちにとっては動きの面白さが、笑いのツボだったのだろう。

ベテラン、中堅が要所を締めるなか、「祈り」の伊藤可南、「戦い」の村井鼓古蕗の若手が、伸びやかな踊りで目を惹いた。若いコールドたちの美しいポージングも壮観。スクールの教育の質を窺わせる。(10/12)

 

★[ダンス] フィリップ・ドゥクフレ『コンタクト』

標記公演を見た(10月28日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)。ゲーテの『ファウスト』をモチーフにしたミュージカル、と言っても、いつものドゥクフレらしい眩惑的かつ奇天烈なイメージの氾濫あり、純粋なダンス・シーンありで、音楽的要素の強いドゥクフレ作品という感じ。その場で演奏が入るため、フラメンコのような音楽と踊りの一体感がある。ノスフェル(超高音の出るロック歌手・ギタリスト)とピエール・ル・ブルジョワ(作曲家・チェリスト)の音は、増幅・フィードバックされて、二人とは思えない音の洪水を作り出す。ただし生音で聴いてみたいと思う時もあった。狂言回し風のメフィストフェレスを軽妙に演じたステファン・シヴォの渋いギター、野性味あふれるマルガレーテのクレマンス・ガリヤールは、ピアノを弾く姿も野性的だった。背中の肩甲骨がダンスのように躍動する。パリ国立高等音楽・舞踊学校卒のジュリアン・フェランディは、丸まっこい体躯の面白さと柔らかさもさることながら、天から神々が降りてくるバロック・オペラ風シーンで、カウンターテナーの美声も披露した(音楽学科を卒業?)。全員が踊れて、歌えて、芝居できて、時に楽器もできる、高度な舞台人のコミュニティが舞台に出現し、それだけで楽しかった。

ドゥクフレのインスピレーションの源は、ミュージカル映画やキャバレーショー、構成主義の美術(バレエ)など。その中で、胸打たれたのは、ピナ・バウシュへのオマージュだった。『コンタクト』はピナの『コンタクトホーフ』から採ったと言う。老若男女が楽しく踊るイメージ。ただしドゥクフレは、ピナのラインダンスをラテン的に換骨奪胎し、ドイツ的な悲劇性を払拭している。ユートピアのような人間関係のみが後味として残る、夢のようなラインダンスだった。(11/2)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『ロメオとジュリエット』

標記公演を見た(10月29、30日、11月3日 新国立劇場オペラパレス)。新国立はマクミラン版『R&J』を01年に初演、今回で4度目の上演となる。その特徴は、まずシンプルであること。余計な背景説明を省いて、若い二人の恋と死に焦点を当てる。先行版のラヴロフスキー版、クランコ版が演劇的であるのに対し、暗転やクローズアップの手法を用いるマクミランの演出法は、映画的と言える。肉体の絡まる官能的なパ・ド・ドゥは、マクミラン振付の表徴。プログラム(今季から無料配布、ただし配役表が主要キャストのみとなった)によれば、マクミランは1940~50年代、初期のローラン・プティ作品などフランスのバレエ、アメリカのジェローム・ロビンズ作品、英国演劇のジョン・オズボーンの舞台に傾倒した(マクミラン公式サイトより)。動きそのものを追求する振付姿勢、パ・ド・ドゥの官能性は、プティの影響もあるのだろうか。

カール・バーネットとパトリシア・ルアンヌを招いた演出は、細かく行き届いていた。前回よりも動きがくっきり見える。フェンシングの場面、舞踏会も見応えあり。またマーティン・イェーツの気品あふれる指揮が、東京フィルの弦の美しさを十二分に引き出していた。金管も健闘。美術が以前よりもよく見えるようになったのは、気のせいだろうか。

主役は、二日目ロミオ役の井澤駿が故障降板したため、完全なWキャストになった。井澤はパリス役も降板。パリスはシングル・キャストに、またベンヴォーリオは最初からシングル、キャピュレット夫妻もシングルと、手堅い布陣だった。大原監督のマクミラン作品に対する敬意の表れと考えられるが、全体的に見ると、6回公演としては、やや彩りに欠ける配役という印象。なおプリンシパルの八幡顕光は、今回出演がなかった。

初日のジュリエットとロミオは小野絢子・福岡雄大、二日目は米沢唯・ワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル)という組み合わせ。小野・福岡は絵に描いたようなロミ&ジュリだった。いつものように振付のニュアンスをよく研究し、稽古を重ねてきたのが分かる。初日のせいか、所々、振付を正確に踊るという意識が見え隠れしたが、2回、3回と踊るにつれて、自然な流れになっていったのではないだろうか(未見)。

一方、米沢・ムンタギロフは、まず役の体となり、結果として振付を踊るというアプローチ。いわゆるマクミランの濃厚な色合いよりも、東洋風のあっさり、すっきりした舞台だった。米沢は、『ジゼル』の時にも思ったが、恋の喜びよりも、別れ、裏切り(乳母)、絶望といった悲劇の方に、親和性があるようだ。つまり悲劇から逆算しての恋。ムンタギロフとの出会いも、恋人というより、自分を理解する分身との出会いのように見える。それほど孤独が深いということだろうか。

小野にも言えることだが、先輩の酒井はなが恋の場面で見せてきた、生の喜び、エロスの迸りといったものが、二人とも希薄である。さらに言えば、小野は肉体を、美を表す手段として使い、米沢は精神を表す手段として使っている。バレエが演劇と大きく異なる点は、肉体の顕現。アラベスク一つ、デヴェロッペ一つで、見る者の人生を変えることができる。手段ではなく目的としての肉体が、バレエダンサーの最終目標ではないか。つまりフェティッシュとしての肉体。

新国立の『R&J』史上、最強の組み合わせは、森田健太郎のロミオ、熊川哲也のマキューシオ、山本隆之のベンヴォーリオだった(もちろんジュリエットは酒井)。彼らの音楽的に統一された「マスク」、キャラクターに即した的確な演技を超えることは難しいだろう。そうだとしても、マキューシオ(福田圭吾、木下嘉人)、ベンヴォーリオ(奥村康祐)が彼らの最高の演技をしたとは言い難い。再演の福田は自分なりの工夫があったが、他は演出の手が入っていないように見えた。

全体で最も印象に残ったのは、キャピュレット夫人の本島美和。貴婦人らしい美しい立ち姿は言うまでもない。ジュリエットの優しい母として、やや人の好い夫(貝川鐵男)を見守る妻として、ティボルトの愛情深い叔母として、その場を生きている。ティボルトの死体を抱く姿は、聖なるピエタそのものだった。

中家正博の抜き身のような鋭いティボルト、菅野英男の兄のようなティボルト、渡邉峻郁の貴族らしいパリス、丸尾孝子のふくよかな乳母、輪島拓也の情熱的なロレンス神父、またモンタギューも悠々と演じた古川和則の、古ダヌキのような司祭、長田佳世&寺田亜沙子率いる娼婦連が脇を固めた。輪島の真剣な祈り、古川の懐の深すぎる祝福は、舞台の幅を大きく広げている(古川は、哲学者のようなロットバルトを演じていたので、大公や家庭教師もできるだろう)。(11/9)

 

★[バレエ][ダンス] 後藤早知子60th Anniversary Performance『スライス・オブ・ライフ』標記公演を見た(10月31日 渋谷文化総合センター大和田さくらホール)。後藤早知子の記念公演だが、酒井はなのリサイタルでもある。後藤の酒井へのオマージュと、酒井の後藤への敬意が形になった公演。

作品は、ロマンティックな映像を交え、ジャズダンスや軽妙なコンテのコントも挟みつつ、ある女性ダンサーの一生を描いていく。R・シュトラウス『4つの最後の歌』に沿って、20代(春)を高比良洋、30代(夏)を宮河愛一郎、40代(秋)を山本隆之、50代(夕映え)を森田健太郎と、4人のパートナーと踊り継ぐ。いずれもサポート巧者だが、山本と森田は、酒井のバレエ人生に深く関わったパートナーとして、別格だった。山本のサポートはそれ自体美しく、森田のサポートは姫を全力で護る騎士のごとく。

山本とのパ・ド・ドゥは、二人の新国立での歴史の結実だった。相手を知り尽くしたサポート、シンメトリーや兄妹を思わせる同質の愛、さらに、経験を経た今の二人にしか出せない成熟した味わい。見る者の感情をかき立てるエロティックな高揚は、二人のデュエットの表徴である。一方、森田とのパ・ド・ドゥでは、森田の暖かいオーラが酒井をスッポリと包んで、子供に戻ったような安らかな愛が育まれる。互いに水をすくい合う場面、森田の分厚い胸にそっと手を置く酒井の満ち足りた顔。死に向かう前の束の間の安らぎが、二人を包み、舞台は終わる。

酒井の艶のある薫り高い体は、R・シュトラウスによく合っていた。永遠を感じさせる肌理細やかなパの遂行、細胞の一つ一つが生きている、危険で異質な体。美と実存を一致させることを、酒井は常に目指してきたのだろう。森田と踊った熱帯のように熱い『R&J』、山本と踊った双子のように親密な『R&J』を思い出す。舞台を見た当時は、その価値が分かっていなかった。(11/17)

 

★[バレエ] 日本バレエ協会「バレエクレアシオン」

標記公演を見た(11月5日 メルパルクホール)。文化庁平成28年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業の一環で、主催は文化庁公益社団法人日本バレエ協会。バレエを基盤とした振付家を育成する、貴重な場となっている。

今年度は3人の振付家による作品が上演された。幕開きは、東京シティ・バレエ団所属の中弥智博による『Synapse』。ワーグナーから始まり、ケルト系音楽、ハイドン弦楽四重奏という音楽構成(だったと思う、プログラムに作曲家と作品名を記載してほしい)。ソリスト男女3組に女性16人のアンサンブルが踊る。前半はマッツ・エック風のややグロテスクなコンテンポラリー語彙を多用し、後半のハイドンでは、キリアン風のネオクラシカルな振付に変わる。男女とも群青色のロングスカート(男性は上半身裸)を穿いていたが、前半よりも後半部の振付に合っていた。中弥の個性が生かされたのも、やはり後半部。音楽と振りの関係が密接になり、音楽から動きが導き出されているのがよく分かる。アラベスク、プリエの美しさ、ユニゾンの儀式性。橋本直樹の成熟した肉体が中心となり、音楽で統一されたクラシカルなコミュニティが出現した。

二作目は下村由理恵振付『氷の精霊』。トゥオマス・カンテリネン、エンヤ、カール・ジェンキンスを巧みに楽曲構成し、透明な氷の柱を背景に、26人の女性ダンサーが氷の精たちの激しさ、厳しさ、怖しさを踊る。最後は「レクエイム」が流れるなか、実際に幼子が登場。精霊たちの氷のような感情が溶けて、慈しみ深い愛や優しさに到達し、天国へと至る姿で終わる。途中垣間見られた金子優をいじめる物語が、いつの間にか立ち消えたが、どういう意図だったのだろうか。女性の持つ様々な感情が、下村自身の体から生み出された情熱的な動きにより、ダイナミックに視覚化された。

最後は、谷桃子バレエ団所属の伊藤範子による『ホフマンの恋』。オッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』の精髄を抜き出し、1時間の枠に収めた物語バレエである(14年 世田谷クラシックバレエ連盟初演)。伊藤版の優れた点は、ホフマンのミューズを天使に置き換え、自らの羽をホフマンに与えて詩を書かせる、というエピソードを加えたこと。地上では友人ニクラウスとなり、ホフマンを愛情深く見守る。天使時のバットリー多用や、ニクラウス時のグラン・ジュテ・アン・トゥールナンなど、女性のズボン役の魅力を存分に発揮させる(伊藤なら、プティパを含む19世紀バレエのトラヴェスティを再現できると思う)。またアリアを楽器に置き換える編曲選択も魅力があり、オッフェンバックの音楽を堪能することができた。何よりも優れているのは、キャラクターに沿った振付と演技指導。深い音楽理解に基づくドラマティックな振付、物語を熟知した的確なマイムは、伊藤が物語バレエの非凡な作者であることを示している。

ホフマンには初演時と同じ、浅田良和。この作品が浅田へのオマージュと取れるほど、魅力にあふれる。ロマンティックな詩人、情熱的な(時に滑稽なまでの)青年、愛情深い誠実な恋人、美女に翻弄される破滅的な男を、フランス風エレガンスと、力強く技量の高い踊りで演じ分ける。機敏なバットリー、正確でエネルギッシュなマネージュ、大胆な大技、そして情熱的なパートナーでもあった。

対するオランピアには宮嵜万央里、アントニアには佐藤麻利香、ジュリエッタには酒井はなという布陣。それぞれが適役だが、その中で、ベテランの酒井がゴージャスな肢体を惜しげもなく披露して、バレエの醍醐味を現前させた。ジュリエッタとしての演技もさることながら、その場に立つ肉体の凄み。ラインは絶対的フォルムと化し、ア・ラ・スゴンドのデヴロッペでは、あまりに濃密で粘度の高い動きに、時が止まったかと思われた。クラシック・ダンサー本来の体を、久々に見た気がする。同時に、酒井のあるべき姿を引き出した振付家の手腕にも、思いが至った。

浅田同様、初演キャストの堀登は、何もかも心得た的確な演技とクリティカルな動きで舞台を引き締め、ニクラウス(天使)・堀沢悠子は、清潔な演技と高い技術で、舞台に救いの光を与え続けた。アンサンブルの踊りも容赦なく仕込まれて、伊藤の一晩物への期待を大きく高めている。(11/11)

 

 

★[バレエ][ダンス] 新国立劇場バレエ団「ダンス・トゥー・ザ・フューチャー2016 オータム」

標記公演を見た(11月18、19、20日 新国立劇場小劇場)。今年3月、中劇場で同名企画が上演されたが、再び小劇場に戻っている。ただ、これまでとは異なり、「生え抜き振付家による作品集」の趣。レベルの揃った6作品(4振付家)に、ピアノ・トリオ(日替わり)との即興、という興味深いプログラムが組まれた。一晩の公演としては充実し、観客も満足していたが、振付家を育成する、所属ダンサーに別の角度から光を当てる、といった本来の趣旨からはやや遠ざかった。こうした面を、例えば、ダンサー主催のスタジオ・パフォーマンス等で補うことはできないだろうか。成田遥の踊りや、小柴富久修のコミカル面は、同僚ダンサーの作品で見ることができた。

三部構成の第一部は、貝川鐵夫の『ロマンス』(音楽:ショパン)から。小野絢子をトップとする女性5人が、ベージュのハイネック・レオタードで踊る。冒頭の脚線美、柔らかいロン・ド・ジャンブなど、女性の美しさを見せつけるが、背面を見せた途端、大きく開いたレオタードから、細かく割れた傷のような筋肉が目に跳びこんで、美の背後にある厳しい鍛錬、苦しみが露わになる。筋肉はねじれ、歪み、静止するが、再び柔らかな動きへと戻る。最後はなぜか美しい正座で終わる。なぜかは、貝川自身も分からないだろう。そこに貝川の才能の秘密がある。振付は相変わらず高度に音楽的。貝川自身の体に音楽を通すとこうなる、という振付。ピアノの音の細かい襞まで、振りを付ける。小野がそれを繊細に身体化した。レパートリー化を期待したい。

二作目も同じく貝川の『angel passes』(音楽:ヘンデル)。『メサイア』からテノールのアリアを選び、男性ソロを振り付けた。当初は井澤駿と小野寺雄のWキャストだったが、井澤の故障でシングルに。クラシックをベースに、四方を指さす輝かしいソロである。天使と小野寺は合っていると思うが、なぜか光のような踊りを見せないままに終わった。実力を発揮できていない。

三作目は木下嘉人の『ブリッツェン』(音楽:マックス・リヒター)。弦の繰り返しが徐々に高まる美しい音楽をバックに、米沢唯、池田武志、宇賀大将が踊る。言わば正統派のコンテンポラリー作品である。木下の体にはコンテの語彙が入っており、それが音楽と共に自然に流れ出る、といった印象。コンセプト・構成も明快、いつでも舞台作品を作り出せる(と思わせる)。米沢はコンテの経験を色々積んできて、自分の表現の枠に取り込めるようになった。白シャツ、黒ブルマ、白靴下がよく似合う。池田のたくましいリフト、宇賀の鋭い振付解釈が揃い、音楽に身を委ねて見ることができた。

第二部は宝満直也の『Disconnect』(音楽:マックス・リヒター)から。レクイエムのような悲痛な音楽で、五月女遥と宝満自身が踊る。コンセプトは繋がれないこと。2倍速のような動きが、繋がることへの切望を示している。ただし、再演作で、舞台が狭くなったこともあるのか、振付が独立して見えた。つまり五月女と宝満の体から、繋がれないことの絶望が読み取れなかった。二人とも一人で生きていけるように見える。もし本島美和と貝川が踊ったら、と夢想する。マッツ・エックの『ソロ・フォー・トゥー』に匹敵する作品になるのではないか。

二作目は福田紘也の『福田紘也』(音楽:三浦康嗣、Carsten Nicolai、福田紘也)。中央にテーブルと屑籠、カミテ奥には俯いて椅子に座る福田。カミテ袖から原健太がビニール袋を手に歩いてくる。五分の一ほど入ったボトル・コーラを四隅に、半量入ったボトルをテーブルに置いて、袋を屑籠に捨て、立ち去る。トイレを流す音がして、福田が立ち上がる。コーラに手を伸ばし、次々に飲み干す。最後のテーブルの一本をどうしたものか。時報の「12時をお知らせします」と同時にテーブルの上で、右肩倒立。その後、パソコンを立ち上げる音や洗濯機の音をバックに、ストリート系語彙を含む鋭い動きで、コーラに向けて葛藤を表す。ついに最後は半量ボトルを2回に分けて飲み干し、バタリと仰向けに倒れる。自分をソロで踊るには、遠くから自分を見るユーモアが必要だろう。コンセプトは明快、動きのダイナミズム、人を喰った音源、原健太遣いなど、超面白い。正に福田紘也。

三作目は宝満の『3匹の子ぶた』(音楽:ショスタコーヴィチ)。小野絢子の妹ぶた、八幡顕光の長男ぶた、福田圭吾の次男ぶた、池田の脚のキレイな悪いオオカミが、ショスタコの怖ろしい音楽に乗って踊る。プログラムの「幼い頃、子ぶたのようだったので親近感があります。」(小野)は、『ダンスマガジン』(2015年6月号)で検証済みだ。宝満は4人のダンサーの本質を見抜き、クラシック語彙にキャラクター色を加えて振付を行なった。音楽と物語を完全に一致させる的確かつ力強い振付である。ウィットに富んだ天性のコメディエンヌとしての小野の魅力が、これほど発揮されたことがあっただろうか。彼女を主役とするコメディを見てみたい。可愛らしい八幡長男、ロマンティックな福田次男は、ベテランの蓄積を惜しみなく投入して、舞台に身を捧げている。池田のオオカミはゴージャス。跳躍に色気があった。「子供のための」公演にぴったりだと思う。

第三部は即興。ダンサーは米沢、貝川、福田(圭)、木下嘉人、福田(紘)、宝満。アドヴァイザーに中村恩恵を迎えて、即興の手法が伝達された。触れ合わないコンタクト・インプロのような動きや、動きを持たない米沢への演技指導など、中村作品を思わせる場面が散見された。

音楽側は、監修とオーボエ他の演奏(全日)を笠松泰洋が担当。初日のピアノは中川俊郎、フルートに木ノ脇道元、二日目のピアノはスガダイロー、ヴァイオリンに室屋光一郎、三日目のピアノは林正樹、アコーディオンに佐藤芳明。笠松が全体を見て、演奏や表情で指示を出すが、ピアニストのタイプで、即興の傾向が決まるように思われた。初日は中川がキレ気味だったので、ダンサー達もハチャメチャ志向、二日目のスガはダンサブルな音楽を紡いだため、踊りのバトルが、三日目の林は音を聴かせるタイプのため、しっとりと情景を見せる場面が多くなった。

動きを作れるダンサーの中に米沢を配したことで、ダンスバトルに終始する危険が回避された。米沢は徒手空拳でその場にいなければならない。相手の動きに反応する、演技で相手を挑発するなど、演劇性重視のパフォーマンス。それに対して、音楽性重視、踊りたい人だったのは、貝川。二日目のヴァイオリンに嬉々として反応し、三日目の情景描写に、手拍子とスタンピングで強引に対抗した。音楽が鳴っていたら、まず動く人なのだ。

米沢をよく見てケアしていたのは、木下と宝満。コンタクトの経験があり、なおかつ全体の構成を見る人々。ただし木下は向日性で懐が深く、宝満は感情を表に出さない。少しニヒルに見える。福田兄弟は、ここでも人柄の良さを発揮。相手の気持ちを先に考えてしまう。圭吾は初日と三日目は最後に犠牲となり、二日目には、米沢をおぶって歩いた、キリストのように。紘也はトリックスター的な動きを、全体を見守りながら差し挟む。二人とも愛情の深さでは抜きんでていた。 もし米沢が男性と同じ衣裳だったら、どうだったか。子供のように踊っていたのではないか。もっと無意識のレベルで、対話ができたのではないか。動きと音楽のみのセッションになったのではないか。いろいろ考えさせられた刺激的なパフォーマンスだった。(11/23)

 

★[ダンス][オペラ] 東京文化会館眠れる美女

標記公演を見た(12月10日 東京文化会館大ホール)。東京文化会館開館55周年・日本ベルギー友好150周年記念公演。川端康成の原作をクリス・デフォートの音楽、ギー・カシアスの演出、エンリコ・バニョーリ&アリエン・クレルコの美術(バニョーリは照明も)でオペラ化した作品。台本はカシアス、デフォートにドラマトゥルクのマリアンヌ・ヴァン・ケルホーフェン。2009年5月8日にベルギー王立モネ劇場で初演された。今回見た理由は、まず川端の原作であること、江口老人に長塚京三、女に原田美枝子と好みの役者が配され、さらに初演ダンサーの伊藤郁女が出演するからだった(振付のシェルカウイは理由に入らず)。

開演直前、公立の文化会館としては、細川俊夫音楽、平田オリザ台本・演出の『海、静かな海』(2016年1月24日 ハンブルグ州立歌劇場)を持ってくる方がふさわしいのでは、と思ったりしたが、開演してすぐに、優れた舞台だと分かり、集中して見ることができた。美術は巨大な雪見障子と畳、障子が上下に開閉し、伊藤が宙吊りで動くのを見せる。紅葉、霙、雨の映像を投影。老人と女主人は役者と歌手(バリトン、ソプラノ)の二人一組、眠れる美女は伊藤とコーラスの4人が担当した。指揮はパトリック・ダヴァン、管弦楽は東京藝大シンフォニエッタ。音楽は武満/細川とブリテンを合わせたような現代曲で、途中なぜかバロック風の曲が挟まれる。常套的ではなく、正攻法に作られた音楽だった。演出も日本的な間を違和感なく取り入れ、役者の動き、歌手の動きも静か。改めてオペラの伝統の厚みを思い知らされる。新作オペラが演劇と同じように当たり前に作られている。

老人のオマール・エイブライム、女のカトリン・バルツが素晴らしい歌を聴かせる。しかし原作の湿度は、歌唱に反映されない。類型的な歌い方。長塚と原田も洋風(当たり前か)。原田の衣裳はロングドレスだったが、第一夜は長い裾を担ぎ、第二夜は右腕に引っかけ、第三夜は裾を曳いて、長塚を絡め取った。長塚は知的。声に色気があり、大きい舞台に耐える佇まいだった。

伊藤は、上方に吊られて、力技を見せていた。一人位相が違うのは、演出意図か、それとも言葉なしに体を使うダンサーゆえか、または肉体野獣派の伊藤ならではか。第二夜で前転し続けるところや、第三夜のレスリング風の床遣いなど、下の舞台への批評に見える。平気に動く野蛮さ。美しく洗練された舞台を、自らの肉を差し出して、現実に繋ぎとめる要となった。(12/13)

 

★[ダンス] スザンヌ・リンケ「ドーレ・ホイヤーに捧ぐ」FT2016

標記公演を見た(12月9日 あうるすぽっと)。ドイツ表現主義舞踊の伝統を守るリンケ(トリーア市立劇場舞踊芸術監督)によるトリプル・ビル。標題のホイヤーとは、1911年ドレスデンに生まれ、1968年ベルリンで自死したモダン・ダンサー・振付家表現主義舞踊とタンツテアターをリンクさせる重要な役回りを担った。戦前はヴィグマンのグループで踊り、戦後は西ドイツに渡り、ハンブルグ州立歌劇場のバレエカンパニーを率いたが、カンパニーをモダンダンスグループに変えることに失敗し、フリーで踊り始める。クロイツベルク作品や、ヴィグマンの『春の祭典』リメークで犠牲役を踊り、自身の解釈を加えた。その後ヴィグマンのアレンジでニューヨークやニューロンドンで公演、アルゼンチンやブラジルではソロ作品が熱狂的に受け入れられた。一方、当時の東西ドイツでは、モダンダンスの発展や保存は排除されていたため、ホイヤーの活動が注目を集めることはなかった。批評家には評価されていたものの、『Affectos Humanos』(1962)を最後に自殺。87年に、リンケとアリーラ・ジーゲルトが同作を再構築し、ホイヤーの功績に光を当てた。(<span class="deco" style="font-style:italic;">International Dictionary of Modern Dance</span>, St. James Press)

上演作品は、『人間の激情 Affectos Humanos』(1962/87)、『アフェクテ』(1988)、『イフェクテ』(1991)。面白かったのは、やはりホイヤーの振付を再構成した『人間の欲望』。性別が分からないベテランのレナーテ・グラツィアディ(ラボーアグラス・ベルリン)の実演と、ホイヤー自身の映像を交互に見せる。実演には補遺が含まれているのだろう。振付は、東南アジアの伝統舞踊や五禽戯を思わせる動き、スペイン舞踊、パ・ド・ブレや手や体の震えなど、原初的な動きが満載。グラツィアディの長い腕と大きな手が、ホイヤーの動きのみを追求した振付(意味の反映ではなく)を再生成する。グラツィアディはバレエの基礎を窺わせるが、同時にドミニク・メルシ(ヴッパタール舞踊団)を思わせる脱力的な超越性を備えている。なぜこのようなダンサーが生き残っているのだろうか。もちろんピナ・バウシュとの共通性もあるのだが。もう一度、グラツィアディを見てみたい。(12/13)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

標記公演を見た(12月17, 18, 19, 23昼夜, 24, 25日 新国立劇場オペラパレス)。99年バレエ団初演、10回目のアシュトン版『シンデレラ』である。デヴィッド・ウォーカーの美術(87年 英国ロイヤル・バレエ)、沢田祐二の照明が、陰影に富んだ繊細な美を表現する。炉辺の暖かい家庭的雰囲気、小姓を従えた妖精たちが踊るロココ調自然風景、華やかな宮殿、星空のバルコニー、それぞれが素晴らしい。さらに指揮のマーティン・イェーツが、濃淡の微妙に織り合わさったプロコフィエフの美しい音楽を、東京フィルと共に紡ぎ出した。音楽のみで満足できる十全な演奏だった。

今回は、振付指導にマリン・ソワーズ(Malin Thoors)を招き、パワフルな舞台を展開。ウェンディ・エリス・サムスの指導時には、アシュトンの詩的な側面が強調され、緻密に練り上げられたドラマが舞台に息づいたが、ソワーズの演出では、全員が主役の如き熱演。マズルカはバランシン張りにフルに踊られ、脇役も全力投球、舞台の全てを見ることができた。諧謔味も以前より増して、英国風のエクセントリシティが際立っている。あちこちで同時に芝居をするので、毎回発見があるが、今回は、一幕のダンスレッスンの後、教師が義理の姉娘に振りを付ける場面(カミテ)、二幕のナポレオンかつら事件の後、ナポレオンに父親が質問をする場面(カミテ)、二幕のシンデレラ・ソロのマネージュが、最初は四角、二回目が丸、ということに気が付いた。

シンデレラには、小野絢子、米沢唯、長田佳世、柴山紗帆、池田理沙子、王子には、福岡雄大、井澤駿、菅野英男、渡邉峻郁、奥村康祐。いずれもスタイル、技術に秀でた主役ばかり。四季の精、王子の友人も総じてレベルが高く、クラシック作品を上演するバレエ団として、充実期を迎えつつある。

小野のアシュトンらしい細かいフットワーク、コミカルな可愛らしさと清潔なオーラ、米沢の自然な芝居、クラシック時の能を思わせる身体+岸田劉生の「デロリ」感、長田の自然な感情表現、生きた脚、時空間を生み出すパの遂行、柴山の清潔でクラシカルな踊り、池田のコケティッシュな可愛らしさ。キャリアでは末っ子の池田は、小野、米沢の深い役作り、長田、柴山のクラシック技法の追求を、逆説的に明示する。現在、地の魅力で舞台を務めているが、今後どのようなアプローチを見せるのか、見守りたい。

長田は今回の舞台で退団となった。長田の魅力は、クラシカルに分節された肉体にあった。パ・ド・ブレやアラベスクのみで、感情を伝えることができる。隅々まで意識化された脚は、『白鳥の湖』で、またコンテンポラリーの『Who is “Us”?』(振付:中村恩恵)で魅力を発揮した。特に後者では、森下洋子の全盛時の脚を思わせたほど。音楽と一体化した踊りに、持ち前の誠実さが加わり、常に気持ちのよい舞台を作り出した。舞台に立つことの掛け替えのなさをいつも心に置いていたのは、カーテンコールでの深いレヴェランスによっても知ることができる。昨年、金平糖の精で見せた無私の境地、今年のルビーのゴージャスな踊りは、ダンサーとして円熟の極み。心を込めたシンデレラと共に、長田が辿り着いた最終ステージである。

王子(出演順)の福岡は、踊りの切れと小野との強力なパートナーシップ、井澤はスケールの大きいダイナミックな踊り、菅野は半ばバレエマスターに見えたが(友人達への視線)、長田の最後をサポートする役目を果たした。初役の渡邉はノーブルなスタイルを体現。パートナーへの気配りも万全で、ダンスール・ノーブルとしてのみならず、ドラマティックな役どころにも期待を抱かせる。奥村は、新人の池田を支える優しい王子だった。

第二の主役、義理の姉たちは、一幕活性化の鍵を握る重要な役である。小口邦明と宝満直也の初役コンビ、古川和則と高橋一輝の再演コンビが重責を担った。前者は動きの切れ、後者はコミカルな演技で見せる。小口は優しさ、宝満は女形の味わい(美人)、古川はキャラクター化した全人格、高橋は哀しげな笑顔で、舞台の要となった。全員が芝居を楽しんでいる。

仙女は、本島美和の円熟の役作りが抜きん出ている。背中で芝居ができる役者。細田千晶は美しい踊りに包容力が加わり、初役の木村優里は万全の踊りと存在感で、大物ぶりを発揮した。父親には、真率な演技で父の愛情を示した輪島拓也。道化・福田圭吾の愛情深い献身、同じく木下嘉人のウイットに富んだ役作り、ナポレオン・小野寺雄の動きの美しさも印象深い。クラシカルな踊りでは、柴山(春の精)、奥田花純(秋の精)、中家正博(王子友人)。また新人の浜崎恵二朗がティボルト系ノーブルな踊りを見せて、王子友人への抜擢に応えた。(12/28)

 

★[バレエ] 12月のバレエ公演

12月のバレエ公演について、短くメモをする。

松山バレエ団くるみ割り人形』(12月2日 東京文化会館

清水哲太郎版。東京文化会館に移って、美術(川口直次)の豪華さが生きるようになった。舞台上の人数の多さも気にならなくなり、振付自体の創意工夫、面白さが目に見えるようになった。清水のエネルギーが文化会館の広い空間に見合っているのだろう。クララは森下洋子、王子は刑部星矢。国宝のような森下を、若く長身の刑部が丁寧にサポートする。堂々たる王子ぶりで、華やかな存在感もあるが、サポートに全神経を使うためか、ヴァリエーションが流れがちに。自分の才能を大切にして欲しい。森下はかつてのような異空間を作り出す局面はなかったが、精妙な腕使いは相変わらず。個性を超えた絶対的なラインは、現在でも森下にしか見ることができない。バレエ団は若手も育ち、明るい雰囲気。刑部の功績は大きい。

NBAバレエ団「Stars and Stripes」(12月3日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

ダレル・グランド・ムールトリー振付『Essence of the Enlightened』(30分)、平山素子振付『あやかしと縦糸』(40分)、バランシン振付『Stars and Stripes』(30分)によるトリプル・ビル。ムールトリー作品はクラシック・ベース。両袖から走る、跳ぶ、ポーズして崩れるなど、アスレティックな魅力にあふれる。女性はポアント。竹田仁美の身体能力、大森康正の研ぎ澄まされた技、関口祐美の華やかさが印象的。ぎりぎりまで身体を使う点が、バランシンを思わせる。バレエ団に合った作品。対する平山作品は、モダン・コンテンポラリーの色合いが濃厚。床の動きを多用し、固まるフォーメイション等を見せる。ニジンスキー、サープなど、先行作品の影響を思わせる動きもあり、バレエダンサーに様々な動きをさせたいという、振付家の意図が窺える。ただし音楽構成に山場が二つあり、さらに平山の緻密な音楽性を生かす方向にないアプローチだったため、意気込みを見せるに終わった感がある。妖怪化粧のため、ダンサーを判別できないのも難点。簾状ロープの使い方は面白かった。バランシン作品は、スーザの行進曲を使用したアメリカンバレエ。軍服で踊られ(女性はチュチュ)、行進、敬礼あり。コール・ド・バレエと軍隊の近似を思わせる。グラン・バットマン、ポアント歩きなどバランシン語彙も見受けられるが、むしろ、シンプルな動きとフォーメイションで作品を構成する職人技に驚かされる(プティパと共通)。どのシークエンスも面白いのは天才ならでは。米津萌の正確な脚技に魅了された。

●井上バレエ団『くるみ割り人形』(12月11日 文京シビックホール

関直人版。見ているうちに自然と体が動く。関の振付もシンプルだが、誰にも真似できない音楽解釈の反映がある。さらに、日劇で培った(?)祝祭性。フィナーレの盛り上がりは必至。同ホールに移った頃は、照明が暗く、フレーベル少年合唱団の登壇タイミングも気になったが、現在では、照明が美術を美しく照らし、合唱団の扱い(拍手を含む)も適切になった。P・ファーマーの暖かく、心に沁みるような美術を満喫できる。ゲスト王子は浅田良和。金平糖の精=源小織よりも、雪の女王=西川知佳子との方が、浅田の長所である気品が滲み出る。西川の集中、献身ゆえだろう。あしぶえの踊り・越智ふじのの完璧なスタイル、花のワルツ・井野口美沙の躍動感あふれる音楽的な踊りが印象的。

●バレエシャンブルウエスト『くるみ割り人形』(12月16日 オリンパスホール八王子)

今村博明・川口ゆり子版。オークネフの豪華な美術が、同ホールの舞台でよく生かされている。橋本尚美とジョン・ヘンリー・リードの金平糖の精と王子、吉本真由美の葦笛、松村里沙の花のワルツ、深沢祥子のアラブと、ベテラン勢が要所を締めるなか、雪の女王(石川怜奈)やアンサンブルには若手を起用。伸びやかかつダイナミックな踊りで、客席をエネルギーの渦に巻き込んだ。帰途、読んでいた竹内敏晴の『ことばが劈かれるとき』の中に、「どうも都心の学校の子はこえが小さいし、はずまない。八王子あたりの郊外の子が、声がしっかりして朗らかで大きい。」とあり、踊りもそうなのだと思った(因みに、竹内敏晴は米沢唯の父。米沢を知る以前に勧められて購入したが、抵抗感があって読み進められず、この日ようやく読了した)。 江本拓がハレーキン(他日は王子配役)で、クラシックのお手本を示している。明晰な踊りに両回転トゥール・アン・レールあり。またフリッツの川口まりが、美しい脚でトラヴェスティの魅力を発散させている。サポート場面ではエルスラー姉妹を連想させたほど。

●牧阿佐美バレヱ団『くるみ割り人形』(12月17日夜 文京シビックホール

松山、井上、シャンブル同様、牧の場合も上演会場が変わって、舞台のスケール感が増した。デヴィッド・ウォーカーの美術、ポール・ピヤントの照明が一層生える。共催が文京シビックホールということもあり、かつてのアットホームな肌理細かい踊りが、開かれた踊りに変わっている。金平糖の精は日高有梨。古風な佇まい、ラインの美しさは相変わらずだが、自分を出せるようになり、華やかさが加わった。『飛鳥』の銀竜でも組んだ美しい王子、ラグワスレン・オトゴンニャムとの相性もよい。黒竜をダイナミックに踊った雪の女王の佐藤かんなは、抑制の効いた踊りで場を支配。青山季可の花のワルツ(昼は金平糖)、茂田絵美子のアラブ、安部裕恵の棒キャンディ、甥の橋本哲至など、ベテランから若手まで見応えある踊りを見せた。熱血アレクセイ・バクランが、オケ同様、児童合唱団にまで渾身の指揮。フィナーレの盛り上がりも素晴らしかった。

●バレエ団ピッコロ『メアリー・ポピンズ』(12月22日 練馬文化センター

恒例のクリスマス公演(32回目)。同時上演は、同じ松崎すみ子による『鳥』と、松崎えり作品『norte』。前者は小原孝司の親鳥を中心に、子鳥達が両翼となって羽ばたくフォルムが印象的。親鳥の翼下から飛び出して、橋本直樹と西田佑子が愛のパ・ド・ドゥを踊る。小品ながら、羽ばたきの示す生命力と、親子の確執を経ての独立物語が、力強く迫る。橋本の入魂の演技、西田のたおやかな肢体が作品の核を作った。えり作品は再演。増田真也とのデュオは、スタイリッシュな男女の愛を描く。だが、えりの本質はそこにあるのだろうか。多人数作品で見せた、性別を超えた友愛の踊りが思い出される。『メアリー・ポピンズ』は、映画のサントラを使用。物語を知らない人でも、楽しさは伝わってくる。早口長大語の「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」がかかると、客席からは必ず手拍子が起こる。舞台上の子供たちも自然体なら、客席の子供たちも自然。ポピンズのマジカル装置は舞台本来のローテクだが、子供たちはすぐに物語に入り込む。世界は良きところ、を信じさせる、すみ子パワーの力である。その前に、まず松崎がポピンズの世界に入り込んでいるのだろう。標題役の下村由理恵は、映画の同役J・アンドリュースの口跡そのままのクリスピーな踊り。世界を変える指導力(?)がある。バートの橋本の力も大きい。いつ何時でもバートとして存在。暖かい人柄と美しくダイナミックな踊りが、下村を力強くサポートする。これほど肩車の自然なダンサーが他にいるだろうか。小原のバンクス氏、菊沢和子のバンクス夫人は大小名コンビ。小出顕太郎は相変わらず献身的、清潔な「不思議な人」だった。さらに堀登(頭取)のツボを押さえた演技の素晴らしさ。動きからキャラクターが立ち上がる稀有なダンサーである。

洗足学園音楽大学谷桃子バレエ団クラス『白鳥の湖』(12月29日 洗足学園前田ホール)

谷桃子版。多少の省略はあるが、全幕の醍醐味あり。谷版の特徴は、すべての動きにドラマに沿った理由づけがあること。現在は単なるパ・ド・ドゥになっている「黒鳥」も、パ・ダクションで演じられた。その濃厚な演技に思わず引き込まれる。白鳥アンサンブルのアラベスク入場は、他団とアクセントが異なり、日本的な味わい。腕使いにも独特の動きが加わる。終幕では白鳥たちの強い意志が印象深い。ドラマを生きることが、谷の団是なのだろう。王子の齊藤拓は、ブランクを全く感じさせない美しい踊り。女性を生かすサポート、控えめな所作は、伝統的ダンスール・ノーブルそのものである(現在では齊藤にしか見ることができない)。対する佐藤麻利香は、磨き抜かれた身体に高い技術で、正統的オデット=オディール像を作り上げた。特にオディールの艶やかさは素晴らしい。視線の力強さ、濃厚な演技に、谷の伝統の刻印がある。ダブルを最後まで入れたフェッテは、その楚々とした風貌とは裏腹に力強く、背後に隠されたパトスを思わせた。中村慶潤の献身的な道化、伊藤大地の大柄なロットバルト、二羽の白鳥の井上栞、森本悠香、ロシアの山口緋奈子など、若手の台頭も見ることができた。(12/31)

 

★[バレエ][ダンス] 2016年公演総括

2016年(含15年12月)の洋舞公演を振り返る(上演順)。

今年は2作の重要な復元・改訂が行われた。江口隆哉の『プロメテの火』(プロメテの火実行委員会・現代舞踊協会)と橘秋子の『飛鳥物語』(牧阿佐美バレヱ団)である。前者は伊福部昭、後者は片岡良和によるオリジナル曲。前者の歌舞伎舞踊、後者の舞楽導入は、日本の洋舞史を考える上で興味深い。橘作品は娘の牧阿佐美が改訂、『飛鳥』と名を改め、身体を取り囲むプロジェクション・マッピングを用いて、新たな舞台演出の方向性を示した。他に、谷桃子の立体的なシンフォニック・バレエ『ラプソディ』(谷桃子バレエ団)が、追悼公演で復元されている。以下はジャンル別の回顧。

[国内振付家・クラシック]

  • 佐々保樹『火の鳥』(東京小牧バレエ団)―音楽性とチューダー直伝の心理描写に優れる
  • 松崎すみ子『幻想のメリーゴーランド』(バレエ団ピッコロ)―音楽と融合し、爆発的なエネルギーを発散
  • 橋浦勇『白鳥の湖』(日本バレエ協会神奈川ブロック)―濃密な内的ドラマを鋭い美意識で描く
  • 鈴木稔『白鳥の湖』&『迷子の青虫さん』(スターダンサーズ・バレエ団)―音楽性に優れた子供向けダブル・ビル
  • 関直人『コッペリア』(井上バレエ団)―ドリーブ音楽を独自の音取りで切り取る(誰にも真似できない)+祝祭性
  • 牧阿佐美『飛鳥』(牧阿佐美バレヱ団)―母橘秋子の構成力にスピーディな音楽性で対抗
  • 伊藤範子『ホフマンの恋』(日本バレエ協会)―優れた音楽性・文学性・演出力で、オペラの精髄をバレエ化
  • 熊川哲也『ラ・バヤデール』(Kバレエカンパニー)―演出・美術への明確なビジョンを実行に移す

[海外振付家・クラシック]

  • エルダー・アリエフ『眠れる森の美女』(谷桃子バレエ団)―バレエ・スタイルへの歴史的視野と独創的古典振付を合致させた
  • デヴィッド・ビントレー『アラジン』(新国立劇場バレエ団)―アラビアンナイト移民問題をリンク、人類融和を祈る

[国内振付家・モダン&コンテンポラリー]

  • 貝川鐵夫『カンパネラ』(新国立劇場バレエ団)―初めて聴くリスト、初めて見る動き、音楽の塊
  • 柳下規夫『冷たい満月』(現代舞踊協会)―破天荒なニジンスキー讃歌、ジャズと金盥を使う
  • 山崎広太『足の甲を乾いている光に晒す』(踊りに行くぜ ‼ Ⅱ)―破天荒な土方巽讃歌、米ポップスで舞踏を踊る
  • 能藤玲子『霧隠れ』(現代舞踊協会)―ギリシャ悲劇を思わせる時空間に自らの気を充満させた
  • 金森穣『ラ・バヤデール』(Noism)―プティパの名バレエ・ブランを、コンテンポラリー語彙で書き換えた
  • 高部尚子『Transparency』(クライム・リジョイス・カンパニー)―音楽的精度の高さ、確信に満ちた動きの追求(一瞬たりとも目が離せない)
  • 小野寺修二『ロミオとジュリエット』―戯曲の読みの深さ、発話と動きの自在な往還、今季最高の『ロミ&ジュリ』
  • 島崎徹『The Absence of Story』(日本バレエ協会)―ハイブリッド・モダンダンス=体によいオーガニック・ダンス
  • 大植真太郎『忘れろボレロ』(C/Ompany)―禁欲的な肉体は修行僧のよう、断崖絶壁に自らを(他人も)追い込む
  • 福田紘也『福田紘也』(新国立劇場バレエ団)―自分を踊れるディタッチメント=ユーモアあり、コーラを思い切り飲む
  • 宝満直也『3匹の子ぶた』(新国立劇場バレエ団)―自分の外に作品を創ることができる、小野絢子ぶたの可愛らしさ

[海外振付家・モダン&コンテンポラリー]

  • マルコ・ゲッケ『火の鳥』(アーキタンツ)―東洋武術を含むオリジナル言語を創出、優れた音楽性と出し入れの感覚
  • ウヴェ・ショルツ『春の祭典』(アーキタンツ)―映像と実像ダンサーの異なるのが苦しいが、ショルツのもう一つの(真の)声
  • マッツ・エック『バイ』(シルヴィ・ギエム〈ライフ・イン・プログレス〉)―ギエムが唯一、自分に嘘をつかなくてすむ振付家フォーサイスと共に20世紀最高の振付家

[女性ダンサー]

長田佳世の金平糖の精、永橋あゆみのオーロラ、西岡樹里(チョン・ヨンドウ)、酒井はなのオーロラ、小野絢子のオーロラ、米沢唯のキトリ、木村優里の森の女王、長田のルビー、ナターリヤ・オシポワのジュリエットとジゼル、井関佐和子のミラン、高部尚子のメイド、志賀育恵のオデット=オディール、スヴェトラーナ・ルンキナの春日野すがる乙女、青山季可の金竜、矢内千夏のキャンドル、本島美和のキャピュレット夫人、酒井のジュリエッタ、小野(宝満直也)、番外(映像):米沢のオーロラ、木村の白雪姫、長田のリラの精

[男性ダンサー]

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