2014年公演評

★[バレエ]  日本バレエ協会アンナ・カレーニナ

日本バレエ協会が都民芸術フェスティバル参加公演として、プロコフスキー版『アンナ・カレーニナ』を上演した。79年にオーストラリア・バレエで初演。各国のバレエ団が採用し、日本国内では同協会(92、98年)、法村友井バレエ団(06、09年)の上演がある。今回の監修は、法村友井の法村牧緒、振付指導は同じく杉山聡美が担当した。

プロコフスキー版の優れた点は、絶妙な場面転換(アンナ・ソロ後のラディカルな無音の幕切れ!)と、創意とユーモアにあふれる演出(握手から手に口づけへの移行、指輪のシークエンス、息子の「あれ誰?」を逸らすアンナ)にある。そこに高難度のパ・ド・ドゥ、豊かなキャラクターダンス、可愛らしい子役の見せ場が、物語の流れに沿って巧みに配置される。スケート・アンサンブルが団子から一気に四方へ広がるフォーメイションは振付家の闊達な性格の象徴。チャイコフスキーの叙情的な音楽も加わり、都民に優れた舞台芸術を提供する、本フェスティバルにふさわしい作品選択だった。

キャストは3組。主役のアンナには下村由理恵、瀬島五月、酒井はな、恋人のウロンスキーには佐々木大、アンドリュー・エルフィンストン、藤野暢夫の配役。初日の下村は、考え抜かれた緻密な演技、振付の機微に迫る精度の高い踊りが目を惹いた。特に二幕のパ・ド・ドゥは、下村本来の叙情的な味わいが全開した優れたアダージョである。アプローチの全てが身体化された訳ではないが、完璧を目指した果敢な舞台だった。パートナー佐々木はノーブルを意識してか、抑えた演技と踊り。下村をよく支えたが、もう少し情熱を見せても良かったかもしれない。

二日目マチネの瀬島は座長芝居の風格。ゆったりと構え、全てを引き受ける大きさがある。演技は自然体。自分の間で踊り、音楽をよく聴かせた。長身のエルフィンストンはノーブルな佇まい、これ見よがしのない演技、素直な踊りで、ドラマの輪郭を形作った。夫婦阿吽の呼吸が味わい深い。

最終回の酒井は、汽車を降りた瞬間から劇場全体の視線を一身に集める。マクミランの『マノン』や『ロミオとジュリエット』を踊ってきたドラマティック・バレリーナの本領である。舞踏会パ・ド・ドゥの前デヴロッペから仰け反り、素早く脚を降ろすシークエンスでは、激情の爆発を唯一表現。無音で歩く難しい幕切れも、完全に空間を支配した。その場を生きるエネルギーの強さ、磨き抜かれたラインによる鮮烈なアンナ造型である。対する藤野は立体的な役作りをする優れたパートナー。その情熱的資質は近衛騎兵大尉によく合っている。今回は演出の方向性もあるのか、やや控え目な表現だった。

アンナの夫カレーニンは妻を寝取られる高級官僚という難しい役どころ。森田健太郎、原田公司、小林貫太がそれぞれの長所を生かした役作りで健闘したが、法村友井バレエ団公演(新国立劇場)における、柴田英悟の鮮やかな記憶を払拭するには至らなかった。

ソリストでは、レーヴィン持ち役のノーブルな今村泰典、ダイナミックで華のあるエカテリーナの今井沙耶、切れ味鋭いロシアの踊りの末原雅広、美しいラインのパ・ド・シス今井大輔と、関西勢の活躍が目立った。また副智美、浅田良和、橋本直樹、小山憲の元Kバレエカンパニー勢も、プロらしい意識の高い踊りで舞台を支えている。

アンサンブル、立ち役、子役の全員が、生き生きとした踊りと演技でプロコフスキーの世界を形成。単一バレエ団の求心力には当然及ばないが、様々なメソッドのダンサーが心を一つにして舞台作りをする醍醐味を感じさせた。

演奏は江原功指揮、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。初日は抑え気味だったが、最終回ではダイナミックな音作りでドラマを牽引した。(1月11、12、13日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2919(H26.2.21号)初出(2/24)

 

★[ダンス]  Noism01『PLAY 2 PLAY―干渉する次元』

標記公演を見た(1月24日 KAAT 神奈川芸術劇場)。07年の作品を改訂したもので、初演ダンサーは井関佐和子一人。今回は振付の金森穣もダンサーとして加わった。

シアター1010で見た記憶とはかなり違った印象。客席が向い合せになっているのは同じだが、もっと互いに近かったような気がする。半透明の三角柱9本を挟んで、シンメトリーにダンスが行われていたような。旗揚げ作品『SHIKAKU』の時と同じように、すべてを見ることができない解放感があった。今回は劇場の構造もあって、向かいの客席も舞台装置のような感じ。さらに記憶と違うのは、ルイーズ・ルカヴァリエ並みの聖なる怪物と化した井関が中心になっていること。男でも女でもあり、不可侵の存在へと成長している(妙な連想だが、佐々木大の両性具有感と似ている)。金森と踊る圧倒的なデュオでは女、その他の男と組む時は中性、女と組む時(踊る時)は男。NDT2での音楽的で勘のいい少女の踊りから、美しく力感のある大人の踊りへ。日本人コンテンポラリー・ダンサーの一つの達成だろう。対する金森は同じく抜きんでたダンサー。空間を一気に変えることができる。見た目、踊りの精度、華が揃ったスターダンサー。金森と井関のデュオは、このまま時を止めて保存しておきたい歴史の結節点である。

振付はかつての無機質な人工美から、濃厚なエロティシズムを帯びるようになった。キリアンもドゥアトもそうだけど、集団が持続するとエロティックになっていくのだろうか。ダンサーたちはかつての島地保武、青木尚哉、平原慎太郎、宮河愛一郎と比べると、振付への抵抗感が少ない。ほとんどがバレエの肉体で、金森のニュアンスを出すことができるし、複雑なパートナリングもこなせるため、作品としてはまとまるが、金森の一人勝ちのようにもなる。女性ダンサーは井関を前に、個性を出すことは難しいだろう。

金森の作品を見ることは、金森が日本の舞踊界で孤軍奮闘している姿を見ることでもある。劇場付舞踊団を初めて一から作った男(給料制のプロのバレエ団は熊川哲也が作っている)。両者ともダンサーの職場を日本で作りたいという思いから、個人の力量でカンパニーを作り上げた。金森はその後、日本の文化行政の問題点を認識、どのような方向で劇場文化を定着させたらよいのか考え続けてきた(Noism設立10周年記念会見―Noismサポーターズ会報24号参照)。現状ではNoismの後に続くカンパニーは現れず、依然としてダンサーたちはプロのダンサーになるために海外に流出しているが、当のNoismには台湾のダンサーLin Yi Chienが加わった。「2009年の台湾『NINA』公演を見て、Noismスタイルにすごく惹かれた。とても刺激的で独自の舞踊観があり、大きな挑戦ができると思った。国立台北芸術大学を卒業し兵役を終え、入団できてとてもハッピー。がんばりたい。日本語勉強中」(同会報)。(1/25)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団『白鳥の湖

東京シティ・バレエ団が都民芸術フェスティバル参加公演として、伝統の石田種生版『白鳥の湖』(70年)を上演した。石田版はセルゲーエフ版に準拠、四幕での日本的美意識に沿った独自の白鳥隊形が大きな特徴である。終幕のオデットと王子の静謐なデュエットが、白鳥達の巻き貝のようなフォーメイションの核となる構図が美しい。最後はブルメイステル版同様、愛の力で魔力に打ち勝ち、オデットが人間の姿に戻る結末である。

今年は石田の三回忌に当たり、没後初めての『白鳥』上演になる。演出は初演時から出演の金井利久が担当、加えて民族舞踊指導に小林春恵、指導にレイモンド・レベックを招いた。以前は古典的な様式美を前面に出す抑制された演出だったが、今回はそこに溌剌とした動きと躍動感あふれる民族舞踊が加わり、バランスの取れた上演となった。またヴィジュアル面も刷新。衣裳は小栗菜代子、装置は横田あつみ、照明は足立恒。美しく格調高い衣裳に、陰翳の深い舞台空間がマッチしている。

主役はWキャスト。初日のオデット=オディールには志賀育恵、二日目は若生加世子、ジークフリード王子は黄凱とユニバーサル・バレエのオム・ジェヨンの配役。初日の志賀と黄を見た。志賀はこれまでの体がはじけるような奔放さが型に収まり、繊細な腕使いと美しい脚線が目に見えるようになった。その上でなお、羽ばたきは生き生きと力強い。ポーズの美を追求するのではなく、動きの留めとしてのポーズがある。運動の快楽を感じさせる稀有な踊りだった。対する黄はラインの美しさが健在。志賀との呼吸もよかったが、役ではなく素で立っている。踊りの切れも以前程ではなく、そこだけ空虚な時間が流れていたのが残念。ロートバルトの小林洋壱はノーブルで大きさもあったが、もう少し鋭さが望まれる。

道化の玉浦誠の美しく切れのよい踊りと献身的な演技が、舞台を大きく活気づける一方、王妃の安達悦子は、王女がそのまま后になったような愛らしさと、少しそそっかしさも見せて舞台に生気を与えた。初役だろうか。パ・ド・トロワ大内雅代、佐合萌香、内村和真のレヴェルの高い踊り、三羽の白鳥佐々晴香の気っ風のいい江戸前の踊りが印象深い。キャラクターダンスでは、特にチャルダッシュマズルカの切れと撓めが素晴らしかった。井田勝大指揮、東京ニューシティ管弦楽団は、行儀のよい演奏だった。(1月25日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2920(H26.3.1号)初出

 

*王子の黄凱は大陸的な鷹揚さを持つ、稀にみるダンスール・ノーブルである。時折舞台への誠実さに欠ける場合があり、今回がそうだった。公演翌日、某発表会で完璧なまでの美しい踊りを見せていた分、辛口評になった。(3/13)

 

★[ダンス]  テロ・サーリネン『MESH』@埼玉舞踊協会

標記公演を見た(2月2日夕 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)。埼玉舞踊協会がフィンランド振付家テロ・サーリネンに委嘱した新作である(国際交流アドヴァイザー 立木燁子)。 オーディションで選ばれたダンサーは、男性9人、女性17人。一ヶ月の稽古期間を経て、世界初演となった。幕が上がると、上手床に縦長のライトが奥に伸び、笠井瑞丈が客席に背を向けて立っている。黒い暗幕の切れ目から明かりが射している格好。中央にソリスト集団、下手一列にアンサンブルが並ぶ。照明は横ライト使用のやや暗め、音楽は弦(琴や三弦の響きに似る)と男声合唱(読経に似る)。笠井は「在る」のみだったが、その他は常に作り出されたムーヴメントを実行しており、久しぶりに真正のダンス作品を見た気がした。

懐かしさは笠井の佇まいのせいかもしれない。父(叡)とは違った清潔なオーラ。常に居ることへの真摯な姿勢。笠井が歩き、消え、再び現れ、最後には色とりどりのフラッシュ・ライトを電流のように浴びて、しなやかな肢体を慎ましく剝き出しにした。笠井のいる空間で、二つのアンサンブルが隊形を変え、時に鈴木竜の土俗的なソロ、女性二人の推手デュオを交え、踊り継いでいく。東洋武術の呼吸やアフリカ風の足踏みが、西洋的な空間構成と合体し、東西の融合があっさりと実現した。本来は日本人舞踏家がやるべき仕事だと思う(山崎広太がかつてやっていたが)。 レパートリー化すべき作品。埼玉舞踊協会は創作を重んじる集団として、今後もこうした企画を続けるべきだろう。(2/4)

 

★[バレエ]  東京バレエ団×ノイマイヤー版『ロミオとジュリエット

標記公演を見た(2月7、8、9日 東京文化会館大ホール)。

3公演を見て最も心に残ったのは、ベンジャミン・ポープ指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏だった。在京主要オケの一軍が、本気で全力を尽くしたらこうなるという演奏。これまで指揮者はよくてもオケの技量不足、または本気なしの演奏に諦め半分だったが、バレエ公演でもやればできるのだ。弦、金管木管とも素晴らしく、トランペットの輝かしさ(最終日は疲れが出たが)に惚れ惚れした。秘密結婚のホルンもメロディが聞こえる。なぜ? ポープの腕? NBS主催だから? 2010年パリ・オペラ座来日公演の『ジゼル』(NBS主催)でも、東京フィルが国内バレエ団公演では聴いたことのないようなヴィオラ・ソロを弾いて、なぜ? と思ったことがある。せめて新国立のピットでは同じレヴェルであって欲しい。ついでに言うと、東京フィルの定期で聴いた『R&J』組曲版では、素晴らしいトランペットの咆哮があったのに、直後の新国立『R&J』公演では無残だったことがある。

もう一つ思ったことは、ゲストを含め3キャスト(エレーヌ・ブシェ=ディアゴ・ボアディン、沖香菜子=柄本弾、岸本夏未=後藤晴雄)を見たが、技量や資質の差はあってもあまり印象が変わらないということ。ノイマイヤーが全ての動きに細かい意味付けをしているので、個々の解釈の余地がないのだろう。ジュリエットもマクミラン版ほど成長しないし、運命に飲み込まれた若い二人がそのまま死んだという感じ(悲劇的でない、と言うかノイマイヤーにとっては生きること自体が悲劇なのかも)なので、ダンサーの腕の見せどころは他版よりも少ない気がする。他の作品同様、ノイマイヤーの演出振付が主役なのだ。

振付はモダンダンスの力強いフォルムと、クラシックの素朴なアンシェヌマンを使い分ける。前者はキャピュレット家の舞踏会、後者はロミオとジュリエットの恋の場面。ジュリエットはモダン系の動きをなかなか習得できないが、ロミオに恋した途端に、内面から湧き出る踊りをクラシックの語彙で踊る。つまりクラシックの方が自然ということ。若い二人のデュエットの特徴はユニゾン。近くで、または遠く離れて子供のように同じパを踊る。ブルノンヴィル作品に通じる素朴な喜びがある。離れたパ・ド・ドゥの後、ジュリエットが左右の袖に向かって互い違いに走る場面は、この版の表徴。二人とも躓き、転び、でんぐり返る。生(なま)の若さが要求される版である。ロレンス(托鉢修道士)も従来より若くロマンティックな造形だった。

ジュリエットはみずみずしく、ロミオは肉厚で体温が高いダンサーが配役されている。普通は松野乃知のようなタイプがロミオだと思うが(ベンヴォーリオに配役)。3組のなかでは、沖の音楽性豊かなジュリエット、後藤晴雄の無謀なロミオが印象深い(サポートは相変わらず荒い)。が最も強烈な存在感を放ったのは、キャピュレットの高岸直樹。舞踏会のエネルギッシュな踊り、妻や娘を抱っこするときの大きな包容力。バレエ団全体が高岸の支配下にあるようだった。今後もマッチョなバレエ団であり続けるのだろう。

 

*以下は2009年に来日したデンマーク・ロイヤル・バレエ団の公演評。

デンマーク・ロイヤル・バレエ団が新芸術監督ニコライ・ヒュッベの指揮の下、9年ぶりに来日した。演目はブルノンヴィルの『ナポリ』とノイマイヤーの『ロミオとジュリエット』(以下『R&J』)である。デンマーク・ロマンティックバレエとモダンバレエの組み合わせは絶妙だった。両作ともイタリア(ナポリヴェローナ)を舞台とする若い二人の恋愛物語であり、聖人(聖母マリア、聖ゼーノ)の日を中心に托鉢僧(フラ・アンブロシオ、ローレンス)が活躍する。『R&J』の聖ゼーノの日は歴史好きのノイマイヤーが採り入れた設定だが、そのおかげで、両作とも老若男女の跪いて祈るシーンを見ることができた。祈る姿にこれほど真実味を感じさせるバレエ団は他にはないだろう。キリスト教信仰に裏打ちされたブルノンヴィル作品を、絶えることなく踊り続けてきたデンマーク・ロイヤルならではの名場面である。

二作のうちデンマーク・ロイヤル色を強く感じさせたのは、意外にもノイマイヤー作品だった。通常の版よりも多くの子役が投入されていること、30年踊り継がれたことで、演技の様式性がノイマイヤーのニュアンスを完全に払拭するほどデンマーク化されていることが原因だろう。『R&J』は振付家が29歳の時の作品。自分のスタイルを確立しようともがく若々しいエネルギーに満ちあふれている。ドラマの枠組や演出はクランコなどの先行作品に準じるが、聖ゼーノの祭日や、僧ローレンスの薬草摘み、『ハムレット』を思わせる旅芸人、疫病から逃れる人々など、ノイマイヤーらしい細かいリアリティが随所に埋め込まれている。

振付は音楽に自然に寄り添いつつもモダンダンスのグロテスクな語彙を取り入れて、独自の動きを追求している。ジュリエットとパリス、キャピュレット夫妻によるパ・ド・カトルは、リモンの『ムーア人パヴァーヌ』を想起させた。マイムがなく全て踊りで表現されているにもかかわらず、舞踊というより演劇に近い感触を得るのは、子役を含めたダンサーの全員がすみずみまで演技しており、踊り自体に感情の裏付けがあるからだろう。技巧や造形美のみを見せる部分は皆無。片手をくの字に曲げる独特の挨拶も、極めて自然な身振りへと消化されている。

デンマーク独自の強いパトスを含む切り詰められた演技様式は、ヴェローナ大公ポール=エリック・ヘセルキルが体現した。立ち姿のみで役を表現、稲妻のような一振りで世界を瓦解させることができる。こうした円熟のキャラクター・ダンサーはもちろん、子役に至るまで、彼らにはバレエダンサーよりも「舞踊に秀でた舞台人」という名称がふさわしい。十九世紀劇場文化の残り香がこのバレエ団にはある。

同団は優れた男性ダンサーを世界に供給してきたが、ヨハン・コボー(英国ロイヤルバレエ団)を最後に途絶えている。その中で、『ナポリ』ではジェンナロのトマス・ルンドが正統的ブルノンヴィル・スタイルを披露、タランテラのモーテン・エガトがジャン=リュシアン・マソに似た劇場人としての色気を漂わせた。またテレシーナ役ティナ・ホイルンドの真っ直ぐな演技、レモネード売りフレミング・リベアを始めとするキャラクター・ダンサーの伝統芸も健在だった。『R&J』では第二キャストながら、クリスティーナ・ミシャネックの生々しいジュリエット、グレゴリー・ディーンの絵から抜け出たようなパリス、クリスチャン・ハメケンの若々しい托鉢僧が印象的だった。

グラハム・ボンドが東京シティ・フィルを率いて素晴らしいプロコフィエフを聴かせている。ただし、カーテンコールでオーケストラの団員が観客に顔を見せないまま指揮者やダンサーに拍手するのは、演奏家のあり方として疑問である。(5月15、23日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2788(H21.7.1号)初出

 

*なお東京シティ・フィルは現在、カーテンコールにおける観客の拍手に正面から応えている。(2/11)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖

新国立劇場バレエ団が二年ぶりに牧阿佐美版『白鳥の湖』(06年)を上演した。来季の予定にも入る定着したレパートリーである。牧版はバレエ団先行のセルゲーエフ版を改訂したもので、プロローグのオデット白鳥変化、三幕ルースカヤの追加、四幕デュエットの削除、ロートバルトの溺死が主な変更点。ルースカヤの高難度の振付はソリストの見せ場を増やしたが、デュエットがなく、ロートバルトが自ら溺死する(ように見える)四幕は、劇的要素にやや欠けると言わざるを得ない。結末をプティパ=イワノフ版に戻すか否かを含め、再考の余地が残されている。

ピーター・カザレットの装置・衣裳は繊細で美しく、沢田祐二の照明も独自の幻想美学を舞台に紡ぎ出す。白鳥群舞の透明感は沢田にしか出せない味だろう。ただし、一時改善されたロートバルトへの照明が再び落とされている。貝川鐵夫、古川和則、輪島拓也の工夫を凝らした役作りが照明美学の犠牲になるのは、バレエ作品として本末転倒ではないだろうか。

主役は4組。出演順に小野絢子と福岡雄大、米沢唯と菅野英男、堀口純とマイレン・トレウバエフ、長田佳世と奥村康祐の配役。小野と福岡はBRBの『パゴダの王子』ゲスト出演のため、一回のみの登場だった。小野はこれまでの緻密に練り上げてきた役作りを一度捨てて、素手で勝負している。白鳥は音楽に沿ってあっさりと、黒鳥は妖艶で伝法な味わい。持ち前の大物感を遺憾なく発揮した。カカカと笑う様がこれほど似合うダンサーはいない。対する福岡はやはり本来のパートナーだった。クリーンな技術に同士のような阿吽の呼吸。王子らしい立ち居振る舞いにウヴァーロフ指導の成果が見えた。

米沢(二回目所見)は前回、気で覆われて見えなかった体が見えるようになった。物語解釈はセリフが聞こえるほど細かく、しかも実存を感じさせる瞬間がある。黒鳥にはふくらみと艶が加わって、二年間の経験を実感させた。『火の鳥』が縁で小野共々(福岡も)Tezukaのストラップになったが、二人が今後どのような道を歩んでいくのか見守りたい。米沢の王子は菅野。落ち着いた演技で舞台を統率した。踊りのクラシカルな美しさも際立っており、盤石のサポートで米沢を支えている。

ベテランの域に入った堀口は、牧阿佐美の美意識に沿った大人の雰囲気を持つダンサー。本来なら美しい上体で日本的情緒を奏でるはずだったが、脚が本調子ではなかったのが残念。対するトレウバエフもどこか乗り切れず、実力発揮とは行かなかった。

最終日の長田は円熟の踊り。ロシアバレエの粋を生きた形で見ることができた。ポジションの正確な美しさは言うまでもなく、パの全てにこれまでの人生が滲み出る。全身を貫く深い音楽解釈と、目の前のパに向き合う誠実さに粛然とさせられた。パートナーの奥村は、山本隆之以来のバレエ・ブランが似合う王子。ロマンティックな情感を終始漂わせ、ヴァリエーションも役の踊りになっている。ドラマティック・バレリーノだったのか。

ソリストではロートバルト3人組を始め、王妃の西川貴子、湯川麻美子、道化とナポリの八幡顕光、福田圭吾、トロワの両回転江本拓等、ベテランが順当に活躍する一方、道化の小野寺雄、トロワの小柴富久修、スペインの林田翔平と小柴、ナポリの原健太、マズルカの池田武志等、若手男性陣の躍進が目立った。またルースカヤの本島美和と細田千晶がそれぞれ、パトスのこもったダイナミックな踊りと、繊細できらめく立体的な踊りで、牧振付の神髄を示している。

男女アンサンブルはクラシックスタイルを身に付けた上で、活気にあふれる。白鳥群舞も個の意志を感じさせる力強さがあった。演奏は、うなり声でオケを鼓舞するアレクセイ・バクラン指揮、東京交響楽団。(2月15、21、22、23日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2926(H26.5.21)初出(5/24)

 

★[バレエ]  ABTラトマンスキー版『くるみ割り人形

アメリカン・バレエ・シアターが三年ぶりに来日、ラトマンスキー版『くるみ割り人形』、マクミランの『マノン』、「オールスター・ガラ」ABプロを上演した。この中から『くるみ割り人形』初日を見た。

09年よりABTのアーティスト・イン・レジデンスを務めるアレクセイ・ラトマンスキーは、19世紀ロシア及びソビエト時代の作品を蘇演する他、各国のバレエ団に新作を提供している。振付の特徴は自らのダンサー時代と同じ、技倆を誇るのではなく、目の前の素材に誠実であること。それぞれのバレエ団の歴史と現在に適した作品形態を選択している。今回の『くるみ割り人形』(10年)はブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックとの提携作品。バレエを見たことのない地域住民や、地元の小学校との交流を重視した演出である。 退屈しがちな一幕は通常よりも早いテンポで踊りを減らし、芝居のようにスピーディに展開する。子ども達の動きは踊りというよりも、感情を直接表現する身振り。今回はKバレエ・スクールが担当したが、地元小学生を考えての振付だろう。二幕ディヴェルティスマンは、一幕の乳母がアラブ風の遣り手婆さん(金平糖の精)となって統括。バレエに馴染みのない人にも分かるように物語仕立てだった。子役のクララとくるみ割り人形が仲良くそれらを見物し、パ・ド・ドゥはクララの理想を投影した王女と王子(大人)が踊る。最後は夢から覚めたクララがくるみ割り人形を抱いて幕となる。

振付は闊達なモダンを縦横に駆使する一方、クラシック場面ではフェッテ・アン・ドゥダンなど、高難度の振付が施され、バレエファンの目を楽しませる。王子ソロはタランテラ本来のテンポ、台本にある蜜蜂を花のワルツに組み込み、くるみ割り人形の姉たちに葦笛を踊らせるなど、歴史を重んじるラトマンスキーらしい演出も散見された。

初日の王女と王子はヴェロニカ・パールトとマルセロ・ゴメス。パールトの素朴でダイナミックな踊りと、ゴメスの暖かく包み込むような騎士ぶりは、アメリカ社会に向けて開かれた作品の性質とよく合っている。ドロッセルマイヤーのヴィクター・バービー、金平糖の精のツォンジン・ファン、家令のアレクセイ・アグーディン等のマイム役や、クララのアデレード・クラウス、くるみ割り人形のダンカン・マクイルウェイン、子ねずみのジャスティン・スリオレヴィーンの子役、また葦笛の加治屋百合子等のディヴェルティスマン・ダンサーも全力で作品に貢献し、スターダンサーを擁するABTのもう一つの側面を披露した。 演奏はデイヴィッド・ラマーシュ指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。(2月20日 オーチャードホール) *『音楽舞踊新聞』No.2928(H26.6.11号)初出(6/12)

 

★[ダンス][バレエ]  スタジオアーキタンツ「ARCHITANZ2014 3月公演」

バレエ、コンテンポラリーダンス、能のオープン・クラスやワークショップを運営するスタジオアーキタンツは、国際的ネットワークを生かした実験的作品を、能楽堂や自スタジオで上演してきた。今回は新国立劇場に場所を移しての公演。2月のアレッシオ・シルヴェストリン、マクミラン森山開次、マルコ・ゲッケによるプログラムに続き、3月公演でも、ユーリ・ン、ウヴェ・ショルツ、ナチョ・ドゥアト、ゲッケという目配りの利いた作品が並んだ。中でも香港バレエ団所属ダンサーが踊るユーリ・ンとドゥアトの2作品は、東洋人がバレエを踊ることの精神的亀裂を考える上で示唆的だった。

幕開けのユーリ・ン作『Boy Story』は、98年バニョレ国際振付賞受賞作の再演。スタジオアーキタンツ設立のきっかけとなった記念碑的作品でもある。テーマは97年の香港返還。冒頭、赤い婚礼衣装に身を包んだ男が立っている。入れ違うように、パンツ一丁の男が登場。三点倒立をして横に倒れる。ハワイアン、加山雄三、ブラザーズ・フォーをバックに、高比良洋、江上悠の日本人を含む6人の男性ダンサーが、ギターの口パク、膝歩き、組体操、カンフーの動作を繰り広げる。細部まで動きがコントロールされているのは、呼吸法によるものだろう。 途中、赤い衣裳の男がそれを脱ぎ捨て、黒スーツ姿に変身、中国の歌でバーレッスンする。西洋の規範を東洋の体に折り合わせていく過程が、リ・ジャボーという優れたダンサーによって見事に身体化される。中国の歌を体に入れるときの、細胞レヴェルの喜びが直に伝わってきた。ユーリ・ン青春時代の身体を通した思考と試行錯誤が、ゆったりと流れる呼吸で纏められた、東洋の体への愛おしみにあふれる作品だった。

一方のドゥアト作『Castrati』(02年)は、ヴィヴァルディのカストラート声楽曲を使用。黒い衣裳を身につけた8人の男性ダンサーがカストラートの集団となって、肌色シャツの少年を組織に引きずり込む。音楽とエロティシズムが同居するドゥアトの特徴がよく表れている。男性集団の力強いユニゾン、少年の痙攣する繊細な動き。プリエ多用の重心の低い動きや力感を、ウェイ・ウェイを始めとする香港バレエ団ダンサーたちが見事に体現、少年の詩情あふれるソロと悲劇的な結末を、シェン・ジェの物語性を帯びた体が密やかに綴った。ドゥアトの世界が肉体美と共に現出する中で、その体に刻まれる暴力性とユーリ・ン作品の親密な体の対照が浮き彫りになる。ダンサーたちの肉体の艶、輝きはン作品にあった。

ショルツ作品はシューマンの同名曲を使った『The Second Symphony』(90年)からアダージョの抜粋。酒井はなとアレクサンダー・ザイツェフ、西田佑子とヤロスラフ・サレンコによるWアダージョである。女性二人が手を繋いだまま、流れるようにリフトされる絵画のようなフォルムが美しい。プリパレーションなしにいきなりアラベスクなど、音楽的な喜びにあふれたショルツらしい振付。女性二人の緻密なバレエの肉体と、リフトし続ける男性ダンサーの胆力を至近距離で見ることができた。

プログラム最後はマルコ・ゲッケの『Mopey』。(04年)。C・P・E・バッハの曲を使ったソロ作品だが、ダンサーが途中、何度も袖に入り、無人舞台が読点のように出現するのが面白い。今回の酒井主演は女性初となる快挙。男性の動物的な力強さとは対照的に、繊細で可愛らしい動きを見せる。2月の『火の鳥のパ・ド・ドゥ』(ゲッケ)や、同じ動物系ソロの『瀕死の白鳥』に比べると、まだ酒井らしさを出しているとは言えないが、踊り込むうちにハードな重みが加わるかもしれない。今後も酒井のコンテンポラリー・ソロ開拓に期待する。(3月21日昼 新国立劇場小劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2927(H26.6.1号)初出

 

*ゲッケの『Mopey』は、すでに女性ダンサーによって踊られているらしい。YouTube では男性ダンサーしか見られず。異ヴァージョンあり。(6/2)

 

★[バレエ]  井上バレエ団『眠りの森の美女』

井上バレエ団が創立45周年記念公演として、チャイコフスキー三大バレエを連続上演した。その掉尾を飾ったのが古典バレエの最高峰、『眠りの森の美女』全三幕である。芸術監督関直人による改訂は、本来あるべきマイムをできる限り残すと同時に、シンフォニック・バレエの世紀である20世紀の息吹を古典に吹き込むというもの。バレエ団のシンプルなスタイルが生み出す童話のような味わいに、スピード感が加わる独自の版が出来上がった。一幕ローズアダージョとオーロラのソロは、婿選びのパ・ダクションとして本来の味わいを残している。また王と王妃がこれほど演技をするのを見たことがない(マイムは小牧バレエ団版経由)。指導には元デンマーク王立バレエ団のペトルーシュカ・ブロホルム、パ・ド・シス指導に佐々木想美が加わっている。

オーロラ姫は島田衣子と宮嵜万央理のWキャスト、王子はパリ・オペラ座のエマニュエル・ティボー。島田の回を見た。島田は昨夏の『白鳥の湖』で、古典では初めて内面化された踊りを見せた。今回は体調も万全、一幕の少女らしさ、二幕の小悪魔的魅力、三幕の晴れやかさと、幼さを個性とする中にも成熟を覗かせている。07年以来ゲスト出演を重ねているティボーは、初々しい少年から成熟した男性へと変貌を遂げた。オペラ座らしい正確な技術に美しいスタイルを持つ、まさに『眠り』の王子そのものだった。

リラの精の西川知佳子はバレエ団のシンプルなスタイルを代表する踊り手。ほのぼのとした味わいながらも風格を感じさせる。真っ直ぐな踊りと演技だった。一方カラボッスは藤野暢央、ご馳走である。女装の艶やかさ、雄弁なマイムで場を一気にさらう。王と王妃の森田健太郎、藤井直子も、仲良く濃密な存在感を示して、舞台に厚みを加えた。青い鳥パ・ド・ドゥの田中りな、土方一生は伸びやかな踊り、パ・ド・カトルの菅野やよひ、速水樹里、源小織、荒井成也は見応えがあった。

指揮は福田一雄。いつもながら一音一音が立つドラマティックな指揮で舞台を牽引した。演奏はロイヤルチェンバーオーケストラ。(2月22日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』N0.2925(H26.5.1号)初出(5/1)

 

★[バレエ]  アメリカン・バレエ・シアター『マノン』

標記公演を見た(2月28日昼夜、3月1日 東京文化会館)。 まず思ったのが、1月の東京バレエ団ロミオとジュリエット』と同じく、東京シティ・フィルの演奏がよいということ。両者とも上から見たせいかもしれない。現在進行中のパリ・オペラ座バレエ団公演もシティ・フィルだが、やはりいい演奏。なぜ? これまでこんなには思わなかった。12年に宮本文昭音楽監督になったことと関係があるのだろうか(宮本は団員の労働条件がかわいそう、みたいなことを言っていた、ケルンのオーボエ奏者時代と比べてだと思うが)。

『マノン』は3キャスト別々の指揮者だった。連投させないためだろうか。中でもヴィシニョーワ=ゴメス組のオームズビー・ウィルキンズが素晴らしい(ABTの音楽監督)。新国立の『マノン』再演時、新編曲者のマーティン・イエーツが振ったが、それよりもよかった。繊細でダイナミック、音楽を隈なく表現している。いつも微妙になるイエーツ挿入の間奏曲でも、納得のいく演奏だった(他の2人の時は、同じ奏者でもそうではなかった)。舞台も演奏にふさわしい出来だったこともあり、相乗効果があったのかも。

演出はジュリー・リンコンと内海百合。団員は芝居が巧いが、演出はあまり濃密さがない。新国立の初演時、酒井はなが「つつかれた」と言うモニカ・パーカーとパトリシア・ルアンヌに比べると、切迫感なし。新国立再演時はカール・バーネットとルアンヌだったが、新編曲だったせいか清潔な印象。ただし寝室のパ・ド・ドゥで、男女が順に同じ振りをするところは、男が女の真似をしていることがよく分かった。今回は分からず。

セミオノワとコリー・スターンズ、ケントとボッレ、ヴィシとゴメスの順で見た。セミオノワはパートナーが違っていれば(ゴメスだったら)、もっと感情が出せたかもしれない。脚の演技はギエムを思わせる。ケントとボッレはずーっと水色の感じ。感情の刻みが浅いが、自分の踊りを貫いて、と言うか、それしか出来ないけど完璧に練り上げられていて、文句のつけようがない。ピューリタン伝統内のケントと、アポロのようなボッレ(天に腕を突き上げるところ)。似たもの同士に見えた。ヴィシは初めて諸手を挙げていいと思った(アンナ・カレーニナはひどかった)。このために生まれてきたんだと思った。少し品のないところ(老人の財布を覗くところ)は妙なリアリティ。役作りをしていないと思わせるほど、自然な造形。沼地も演じてないように見えた。ゴメスの誠実な懐深いサポートが可能にさせたのだと思う。フォーゲルがどこかで言っていたが、『マノン』のパートナリングは他とは比べものにならない程の密度が必要で、別の人と踊っているのをパートナーに見られると、浮気しているような気になる、らしい。小林紀子バレエ・シアターの島添亮子も、もう一度テューズリーと踊らせたかった。 島添のマノンは体の美しさが抜きん出ている。今回そう思った。特に二幕のソロは誰よりも素晴らしい。(2/28)

 

★[バレエ]  谷桃子バレエ団『リゼット

谷桃子バレエ団が四年ぶりに貴重なレパートリー『リゼット』を上演した。62年にスラミフ・メッセレルとアレクセイ・ワルラーモフがゴルスキー原振付版を移植。豊かなマイム、素朴な踊りが前近代的な味わいを醸し出す、牧歌的喜劇バレエである。当時は楽譜がなく、音楽監督福田一雄が、プティパ=イワノフ版に遡るゴルスキー版(ヘルテル曲)のピアノ譜からオーケストレーションを行い、アシュトン版のランチベリー曲や南仏民謡を追加編曲して、独自の谷桃子福田一雄)版を作り上げた。振付はメッセレルのものが保存され、本家では失われた19世紀の香りを残すボリショイ・バレエ版を垣間見ることができる。

今回は新体制になって初めての、そして核となる芸術監督望月則彦を失って初めての『リゼット』上演。主役に若手を起用し、新演出ではないにもかかわらず照明まで変えて臨んだ意欲的な舞台だったが、前回に比べると芝居の間合いや切れがやや鈍い。祝祭的な時空間を作る福田一雄の指揮を欠いたこともあるが、全体を見通す芸術監督の不在が要因だろう。

主役のリゼットとコーラには、再演組の永橋あゆみ、三木雄馬と、初役組の齊藤耀、酒井大、母マルセリーヌには樫野隆幸と岩上純の配役。初日の永橋は美しいクラシックのラインと透明感のある佇まいが魅力。一幕の芝居は少し上品過ぎたが、二幕パ・ド・ドゥの風格、三幕の結婚を夢見るマイムやパ・ド・ドゥの清らかさで持ち味を発揮した。一方の三木はこれまでの強面技巧派の仮面をかなぐり捨てて、自然な芝居、役の踊りで新境地を拓いた。二幕パ・ド・ドゥの三木の笑顔には感動すら覚えた程。永橋との呼吸もよく、クラシックの醍醐味も感じさせた。

二日目の齊藤は小柄ながらエネルギッシュにはじける演技、役になりきった踊りで主役デビューを飾った。二幕パ・ド・ドゥの見せ方はまだ十全とは言えないが、娘役に適したダンサーの誕生を確実にした。対する酒井は確かな技術を持ち、役柄にも合っていたが、役の彫り込み、パートナーとしてのあり方はこれからだろう。

リゼットの母マルセリーヌは物語を束ねる要、実際の主役である。初日の樫野は女らしく色気のある西洋的な女形芸、二日目の岩上は博多にわかを思わせる地の女形芸、共にはまり役である。再演の岩上は突拍子もないおかしさと、情の深い母性を結びつけた点で、大先輩小林恭の跡を追う。その至芸と肩を並べる日を楽しみにしたい。

金持ちのぶどう園主ミッショーにはゆったりとした陳鳳景と、軽妙な川島春生、頭の弱いその息子ニケーズには、無垢な魂を感じさせる山科諒馬と、活発で動きの面白い中村慶潤が当たり、主役と共に、初日のノーブルな雰囲気、二日目のコミカルな雰囲気の形成に貢献した。村娘のツートップ林麻衣子と黒澤朋子、三浦梢と穴井宏実が、バレエ団の淑やかな踊りを体現した他、コーラの友人に安村圭太と牧村直紀の新人が加わって、ダイナミックな踊りを披露した。アンサンブルの清潔な踊りと表情豊かな演技は相変わらず。布目真一郎の公証人、脇塚力の秘書の演技にも笑わされた。

シアターオーケストラトーキョー率いる井田勝大は両日とも、一幕は慎重、二幕から三幕にかけて躍動感あふれる指揮を見せる。福田の後継者として今後の活躍を期待する。(3月1、2日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2924(H26.4.21日号)初出(4/22)

 

★[バレエ]  パリ・オペラ座バレエ団『ドン・キホーテ

パリ・オペラ座バレエ団が昨年に引き続き来日した。演目はヌレエフ版『ドン・キホーテ』(81年)と、ノイマイヤー版『椿姫』(78、06年)。どちらもオペラ座の現在を映す代表的なレパートリーである。そのうちの前者を見た。

ヌレエフの振付は、ブルノンヴィル・スタイルから遡ったフランス派へのオマージュに彩られている。バットリー、ロン・ド・ジャンブの多用、アン・ドゥ・ダン回転はもちろん、左右両脚によるトゥール・アン・レールやピルエットが主役には課される。ブルノンヴィル・スタイルにおいては全体の調和と、高難度の技を容易く見せる玄人らしさが要求されるが、ヌレエフ振付の場合は、全力で遂行しないと追い付けない程の過剰なパが詰め込まれているため、これ見よがしに踊る余裕さえ与えられない。

フランス派の優雅さをなぜ追求しないのだろうか。それとも過剰に歪む装飾的なバロックの美を求めているのだろうか。ランチベリーの編曲も同程度の装飾性を帯びて、古典バレエの様式から外れている。その編曲を以ってしても、テンポを揺らさないと踊れない過密な振付である。

キトリはスジェのマチルド・フルステ、バジリオはエトワールのマチアス・エイマンという似合いの二人。フルステーの繊細な肉体から繰り出される強靱なテクニックは驚異。両脚ポアントからのアラベスクを当然のように実行する。エイマンもフランス派の脚で次々と難題をクリアした。オペラ座ダンサーにしか踊れない振付への義務感さえ感じさせる。ソリストからアンサンブルまで楷書のような足技。床をつかむ、払う、がくっきりと見える。男女の若手アンサンブルにとって、ヌレエフ振付はドリルのようなものかも知れない。

エスパーダのヴァンサン・シャイエの格好良さ、踊り子のサブリナ・マレムの小粋な踊りに加え、ドン・キホーテのギョーム・シャルロー、サンチョ・パンサのシモン・ヴァラストロ、ガマーシュのシリル・ミティリアン、ロレンツォのアレクシス・サラミットらマイム役が、自然な演技で舞台を盛り上げた。指揮はケヴィン・ローズ、演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。(3月14日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2927(H26.6.1号)初出

 

*もう一つの演目、ノイマイヤー版『椿姫』も見たが、ハンブルク・バレエの時と同じ、作品そのものがいいと思えなかった。観客との意思疎通を望んでいないような、閉じこもった感じ。コレクター気質だろうか。ノイマイヤー本人の感情が感じられない。趣味は伝わるけど。ダンサーが喜んで踊るのが、よく分からない。(6/2)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメンツ』

標記公演を見た(3月18、19、23日 新国立劇場中劇場)。ジェシカ・ラングの新作『暗やみから解き放たれて』、ハンス・ファン・マーネンの『大フーガ』(71年)、バランシンの『シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメンツ』(72年)によるトリプル・ビルである。

3回見て3回とも感じたのは、劇場内に気が回っていないということ。ビントレーが組んだこれまでのトリプル・ビルと比べると、ダンサーの発する熱量が観客の手前で止まっている。パリ・オペラ座、Kバレエカンパニー、ピナ・バウシュ、アーキタンツと重なって、客席はガラガラだったが、それだけのせいではないような気がする。

ラングの作品は、日本で日本人ダンサーが初演することが枷となっているような気がした。東日本大震災がどうしても関わってくる。成仏する前の魂が、白いドーナツ状の浮遊体となって上下する。最後は上昇し、人々は明るい浄土に向かって歩いていく。ラングの他の作品は一部しか見たことがないので、作風の比較は難しいが、一つ一つのムーヴメントが意味に引きずられて、動きそのものの強度に物足りなさを感じた。せっかくオリジナルを作って貰ったのに申し訳ないが(語彙がクラシック主体なのは、ダンサーに当てはめてのことだろうか)。ダンサーたちが奥に向かって歩いたので、こちらの息が向こうへ吸い込まれるような気がした。二日目キャストの本島美和、湯川麻美子が、抽象的な断片から物語を汲み取っていた。さすがベテラン。

『大フーガ』も二日目キャストの男性陣(トレウバエフ、福岡雄大、小口邦明、清水裕三郎)で作品がよく分かった。トレウバエフは武道(合気道?)をやっていたと思うが、その重心の低さと重い切れ味にマーネンのニュアンスが出ていた。福岡は言うまでもなくコンテの王様、巧すぎるほど。小口も石山雄三作品でめちゃくちゃ巧かったが、今回もそう。清水は濃厚なニュアンスを出していた。変な作品。女性は白塗り、花魁のような髪飾り。6番ポジションが内股のように見える(日本の脚)。すり足歩行あり。男女ともに伏し目がちで、目力は使えない。低い重心のプリエ多用もあり、全体に日本的な感じ。変な作品だった。西洋人がやるとまた違うのかも。

『シンフォニー・イン・スリー・ムーブメンツ』がどうしても面白い。天才バランシン。ムーヴメント、フォーメイションは誰にも真似ができない面白さ。脚を閉じで横っ飛びを、例えば今現在、バレエ作品で誰かが振り付けたとしても、奇を衒ったとしか言われないと思うが、バランシンがやると絶対的な振りになる。こうでしかありえないから。確信があるから。ストラヴィンスキーの音楽をCDで聴くと、重苦しく悲劇的なのに、バランシンは平気でやり過ごして、明るくエネルギッシュな作品を作る。でも盟友。だから盟友なのか。対角線に並んだ16人の美女が、ユニゾン、カノンで踊る破格のフォーメイションを、ビントレーは新国ダンサーで見たかったのかも。(4/12)

 

★[バレエ]  Kバレエカンパニー『ラ・バヤデール』新作

標記公演を見た(3月24日 オーチャードホール)。 まず久しぶりに聴いたミンクスの音楽に魅了された。プログラムによると、オリジナルの痕跡を最も忠実に残していると思われる2009年ケンブリッジ出版のピアノ譜に当たり、グリゴローヴィッチ版やランチベリー版を参考にして、独自の版を作り上げたとのこと(楽譜の修正作業は、音楽監督福田一雄を中心とした音楽スタッフによる)。

演出の熊川哲也は「プティパ復元版(ヴィハレフ版)を基に試行錯誤しながら削ぎ落としていくと、どうしてもマカロワ版に似てくる。方向性は近いが同じことはしない。」と語る(プログラム)。二幕構成の一幕は、寺院の外、ラジャの宮殿、宮殿の庭、二幕は寺院の中、影の王国、寺院の中、崩壊した世界となっている。演出で目についた点は、一幕苦行僧の踊りが多い、バレエダンサーではない肉付きのよい僧侶たち(カンフーをやりそうな迫力、婚約式にも象使いで登場)、宮殿の初っ端にチェスをする友人たちの踊り(チェスを指しながら踊る)、婚約式のディヴェルティスマンは壺の踊りがなく太鼓の踊りがある、花籠はソロルが渡す、二幕寺院の中でソロルが阿片を吸った時、奥の金の神像がチラと動く、ニキヤを追う自分を見るソロル(身代わり使用)、影群舞の間をソロルが縫うように歩く、ソロルが夢から覚めないまま、ガムザッティは白蛇(ニキヤの化身)にかまれて死ぬ、寺院崩壊後、瓦礫の中で金の神像がソロを踊る、手前から白い布が翻り、スロープを覆う、その上をニキヤに向かってソロルが歩いていく、天上から白いスカーフが二人の間にかかる等。またニキヤの一幕ソロ(2つ)が少し短縮されている。影の山下りは、ゆっくりめのテンポ。Kバレエはいつもアップテンポなので、意外だった。

美術はディック・バード。新国立劇場バレエ団の『アラジン』と『火の鳥』、スターダンサーズ・バレエ団の『くるみ割り人形』では、童話の絵本のようなタッチが特徴的だったが、今回はもっとリアルで混沌とした迫力がある。影のシーンはオーロラかラビスラズリのような黒とブルーの色合い。終幕は大地がうねる混沌とした風景。直前の公演紹介ドキュメンタリーでバードは、影のシーンのために巨大な罌粟の花の原画を提示していた(阿片の連想?)が、熊川がこれではニキヤの影ではなく、罌粟の妖精に見えると却下していた。恐らく熊川の要望をかなり汲んだ美術なのではないだろうか。

ニキヤの日向智子は繊細で丁寧な踊り、ソロルの池本祥真はよく開いた脚で、美しく躍動感にあふれた正確なヴァリエーションを見せた。はまり役だろう。ブロンズ・アイドルの益子倭、マグダヴェヤの井澤諒、パ・ダクシオンの福田昂平を始めとする男性ダンサーの技術の高さと、女性ダンサーの音楽性はKバレエの特徴である。ダンサーが定着しないのが不思議なところだが、外に出た元Kバレエダンサーは、あちこちでバレエ団の教育レヴェルの高さを証明している。(3/31)

 

★[ダンス]  アイザック・エマニュエル『ANICONIC』

標記公演を見た(3月26日昼 STスポット)。なぜ見たかと言うと、主催が舞踊批評家の武藤大祐だから。どのような作品を持ってきたのか、興味があったから。

フロントアクトとして、出演者の一人スルジット・ノンメイカパムによるソロ『One Voice』があった。スルジットはインドのマニプル州出身。主要言語はマニプリ語。ミャンマーに接しているので、東南アジアの文化も混在している。かつては王国だったが、現在はインド連邦の州となる。インド軍による人権侵害、インド本国の搾取による貧困など問題を抱える(スルジットの他公演『Calling』のチラシより)。本作は「拷問」をテーマとし、来日に際して、マニプル州のNGO「人間から人道へ―トラウマと拷問に関する超域文化センター」の助成があった(本公演のプログラムより)。

スルジットが椅子に座り、前には電気スタンド。男性の写真を手に持ち、祈るような身振りをする。拷問で亡くなった人への哀悼だろうか。その後立ち上がり、ほぼ定位置で様々な動きをする(人差し指で自分の胸を正面から突き刺すなど)。時折、伝統舞踊の手や足の動き、腰を落とすフォルムが見えて、その美しさに驚く。なぜコンテの道に入ったのだろう。最後は着ていたシャツを椅子に掛け、自分は客席に座り、拍手をした(意味は理解できなかったが)。

『ANICONIC』ではスルジットはじっと仰向けになったり、うつ伏せで反り返り、シーソー動きをしたり、水を飲んで吐いたりと、一ダンサーに徹していた。主催者武藤の「スルジットがもし来日できなかったら、自分が出演するしかないと思っていた」というツイッターを読んでいたので、いちいちこれは武藤でもできる、とか確認しながら見てしまった。一部、二部はそれなりにできるかなと思ったが、三部の水を飲んで吐くのは難しいような気がした。体全てを捧げなければできないから。

作品は質が高く、面白かった。一部、二部は白井剛を思い出した。物、空間、動きの切り取りが理系に思える。だが三部は白井にはできないだろう(唾交じりの水浸しで尻移動、背中移動あり)。作品の全てを見ることができたのは、エマニュエルの思考に曇りがないから。プラス、自由な空間でもあった。そこに居て楽しいと思えた。エマニュエルの思考が体と乖離していないから?(3/28)

 

[バレエ][ダンス]  NHKバレエの饗宴2014」

「NHK バレエの饗宴2014」が開催された(主催 NHK、NHKプロモーション)。今年で三回目となるこの企画は、国内のバレエ団と優れたゲストダンサーが一堂に会する貴重な機会である。さらに、日本のバレエ団の現在を映像記録として残し、観客層の拡大にも寄与するなど、日本のバレエ文化の底上げに大きく貢献している。今年の演目は、古典バレエの一幕抜粋、シンフォニック・バレエ、ロマンティック・バレエのパ・ド・ドゥ、コンテンポラリー・ダンスのデュオと、バラエティに富む組み合わせだった。

幕開きはスターダンサーズ・バレエ団による『スコッチ・シンフォニー』。メンデルスゾーンの同名曲を使ったバランシン作品は、ロマンティック・バレエをベースに置きながらも、意表を突く作舞で独自の音楽解釈を炸裂させる。林ゆりえ、吉瀬智弘の若手主役が、柔らかい踊りで物語性を喚起し、男女アンサンブルは音楽性と清潔な足技で、バレエ団と振付家の濃密な関係を証明した。

続いてはコンテンポラリー・ダンサー島地保武とバレエダンサー酒井はなのユニット、アルトノイによる『3月のトリオ』。バッハの無伴奏チェロ組曲(演奏・古川展生)をバックに、島地はフォーサイスと武術を組み合わせたハードな振付を男らしく、酒井はややバレエ寄りの振付をポアントで生き生きと踊った。一貫して島地の迎合しない野生的な空間での、離れたデュオだった。

休憩を挟んだ第2部は、ベジャールダンサーの首藤康之と、キリアンダンサーの中村恩恵が、独特の存在感を発揮した『The Well-Tempered』から。バッハの平均律(演奏・若林顕)を用い、スタイリッシュな照明を駆使する美しいデュオである。踊りは二人の手の内に留まるが、観客の目に優しい、よく出来たコンサート・ピースだった。

続いては神戸市を本拠とする貞松・浜田バレエ団の『ドン・キホーテ』第一幕。男女アンサンブルからマイム役、子役までバレエ団が勢揃し、アットホームな舞台を作り上げる。キトリの瀬島五月は圧倒的な存在感と演技で、バジルのアンドリュー・エルフィンストンは大きく伸びやかな踊りで中心を務め、ドン・キホーテの岩本正治サンチョ・パンサの井勝らと共に、祝祭的な古典バレエの空間を形成した。

二部の最後は元英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル吉田都と、シュツットガルト・バレエ団プリンシパルのフィリップ・バランキエヴィッチによる『ラ・シルフィード』からパ・ド・ドゥ。バットリーの多いハードなブルノンヴィル・スタイルに両ベテランが挑戦。吉田の清潔で軽やかな踊りと、バランキエヴィッチの重厚で激しい踊りは見応えがあった。

第三部は元ライプツィッヒ・バレエ団芸術監督ウヴェ・ショルツの『ベートーベン交響曲第7番』を東京シティ・バレエ団が踊って、華麗な饗宴を締め括った。ショルツのシンフォニック・バレエはバランシンに比べると、少し田舎くさく暖かみがある。バランシンが音楽を軽やかに超越して、華やかな語彙をエネルギッシュに繰り出す視覚派なのに対し、ショルツは音楽をじっくり味わった後、身体(皮膚)感覚を通して一つ一つ振付を紡いでいるように見える。特に音楽に沿ったシークエンスの素直な繰り返しは、何とも言えない滋味を醸し出す。志賀育恵の磨き抜かれた美しい体(特に脚)によるアダージョが素晴らしい。また玉浦誠の切れの良い正確な踊りが作品の鋭いアクセントとなった。古典の様式を踏まえたアンサンブルは音楽性にも優れ、振付家の意図を十全に伝えている。

フィナーレは全員が踊りながら登場し、吉田を中心とした華やかなカーテンコールで幕となった。演奏は大井剛史指揮、東京フィルハーモニー交響楽団。(3月29日 NHKホール) *『音楽舞踊新聞』No.2927(H26,6,1号)初出(6/2)

 

[バレエ][ダンス]  杉並洋舞連盟第24回「創作舞踊&バレエ」

杉並洋舞連盟の「創作舞踊&バレエ」が24回目を迎えた(共催・杉並区教育委員会、杉並区文化団体連合会)。コンテンポラリーダンス、モダンダンス、古典バレエによるトリプル・ビル。全て合同作品である。

幕開けは、自身優れたダンサーでもある鈴木竜振付の『LUDUS』。ラテン語で「遊戯」や「訓練」の意。バレエ出身の15人の少女達がコンテンポラリーの語彙で踊る。照明、音楽構成(シューベルトショパン、J・ホプキンズ)は洗練されている。特に一旦幕を下げた後、全員がレオタード・シルエットでバレエのポジションを繰り返しながら奥に向かう終幕は印象的。ダンサーたちはそれぞれの個性を生かした衣裳(武田久美子)に身を包み、振付を自分の感覚で吸収している。バレエダンサーにとって教育的であると同時に、作品としても面白い、クリエイティヴな空間だった。

続いては、モダンダンスの大ベテラン河野潤振付の『帰ってきたピーターパン』。大小の子ども達が、制服少女、野球やサッカー少女、アイドル風少女となって、『あまちゃん』の音楽やヒップホップの曲に合わせて、元気一杯に踊る。合間にピーターパンとティンカーベルのデュオや、フック船長のマイム、タコの着ぐるみダンスが舞台を彩る。見る方も楽しいが、踊る方の楽しさがそれ以上に伝わる、エネルギー満タンの舞台だった。

最後は、登坂太頼演出・再振付による『ドン・キホーテバルセロナの賑わい~』。二幕仕立てで、ドン・キホーテがキューピッドに矢を射られるプロローグが付く。一幕はナイフ狂言までをまとめ、二幕の結婚式ではドン・キホーテが神父の役目。エスパーダとメルセデスボレロに続き、ドルシネアと森の女王のソロが加わったグラン・パで幕となる。街の踊り子達がトレアドールの振りを担当。以前男性がキューピッドを踊るのを見たが(つまりトラヴェスティを解消)、それとは逆に、プティパ時代のように男装の女性トレアドールを、どうせなら見てみたかった。

キトリはWキャストで二日目は佐藤桂子。技術があり、踊り方も演技も十分に心得ているが、やや模範演技のような感じ。もう少し胸襟を開いたら、祝祭感が増したかもしれない。対するバジルは元Kバレエダンサーの橋本直樹。美しくコントロールされた踊り、品のある演技、舞台マナーが素晴らしい。はまり役だった。エスパーダの登坂、メルセデスの出口佳奈子も同じ。執行伸宜のノーブルなドン・キホーテ、営野翔一の技巧派サンチョ・パンサ、保坂アントン慶の苦み走ったロレンツォ、染谷野委のおとぼけガマーシュが、一貫した演技でドラマの立ち上げに貢献した。(3月30日 セシオン杉並) *『音楽舞踊新聞』No.2925(H26.5.1号)初出(5/1)

 

[バレエ]  NBAバレエ団「スプリングバレエフェスティバル」

NBAバレエ団恒例の「スプリングバレエフェスティバル」が開催された。演目は『ライモンダ』第三幕抜粋、舩木城振付『beyond』(新作)、ライラ・ヨーク振付『Celts』。古典、コンテンポラリー、モダンという充実したトリプル・ビルである。

幕開けの『ライモンダ』は、バレエ団の技術と様式性が試される古典の試金石。純粋な古典バレエを見るのは新体制となって初めてだが、アンサンブルは華やかな上体、粘りのあるコントロールされた脚、観客へのアピールで統一され、美しいグラン・パ・クラシックを紡ぎ出すことに成功した(音源は改善を望む)。

久保綋一芸術監督になって一年半が経過、芸術的基準が団によく浸透している。ライモンダの田澤祥子は確かな技術と行き届いた踊りで、古典の主役を見事に務めた。一方ジャン・ド・ブリエンヌの貫渡竹暁はスター性があり、はまり役と言えるが、もう少し技術面での落ち着きが望まれる。新本京子、米津萌を始め、ソリストたちの踊りのニュアンス、押し出しの良さが際立っていた。

続く舩木作品はバレエ団としては二作目に当たり、久保監督の信頼の厚さを窺わせる。ライコー・フェリックス、ムーン・ドッグ、ヨハン・ヨハンソンの曲を使用。男性は上半身裸に黒パンツ、女性はピエロのような白塗りにふわふわ衣裳、またはワンピース、チュチュも。振付はクラシックを基礎に、床を使う動き、日常的身振り、発話が組み合わされている。マッツ・エックを思わせる低い重心の動きや、病的な痙攣が織り交ぜられ、過呼吸で幕を閉じるなどの一面もあるが、全体的にはムーヴメント追求の楽しさにあふれた熱量の高い作品である。久保の重厚でドラマティックなソロ、峰岸千晶の病的なソロ(少しクラシック寄りかも)、大森康正の抜き身の日本刀のようなソロ、田澤の巧さ、小林由枝の存在感が印象深い。李民愛は動きを全て自分のものにする、一度ソロを見てみたいダンサー。

最後の『Celts』は、ケルティック・ダンス、アメリカン・モダンダンス、バレエ、土俗的な戦士ダンスの混淆。再演らしくダンサーの動きがよくこなれている。初演時にはアザラシ状態で両脚を上げる女性アンサンブルがアメリカ人(?)に見えたが、今回は油が抜けて日本人に見えた。初演時に急な代役を見事にこなした高橋真之の伸びやかなグリーン、端正な大森と明晰な竹内碧のレッド、サポートに徹した泊陽平と美しいラインの佐々木美緒によるブラウン・アダージョ、適材適所だった。アンサンブルは体全体を使って思い切り踊り、アメリカン・バレエの醍醐味を伝えている。(4月5日 なかZEROホール) *『音楽舞踊新聞』No.2927(H26.6.1号)初出(6/2)

 

★[バレエ]  コデマリスタジオ第49回「コデマリコンサート」

コデマリスタジオの「コデマリコンサート」が49回目を迎えた。三部構成の第一部は、スタジオ生が日頃の成果を披露する発表会、第二部はタンゴ、バレエ、モダンの創作小品集、第三部はスタジオ全員で『ロミオとジュリエット』のリハーサルを舞台化した『追想』。主宰大竹みかの美意識に貫かれた一夕だった。

第一部では古典のパ・ド・ドゥに、大竹振付の児童向け『絵本はゆ*れ*る』と、成年女性向け『あこがれ』が上演された。前者はドボルザーク曲で可愛らしく、後者はショスタコーヴィチピアノ曲で美しく踊られる。特に『あこがれ』は、大竹の香り高い気品と、深い音楽性が、清冽なフォーメイションで視覚化された名品。スタジオ生の中には回転も儘ならぬ人もいたが、それでも作品の本質は伝わってきた。他に『海賊』パ・ド・ドゥにゲスト出演した鈴木裕の端正な踊りとダイナミックなリフト、新井光紀のサポートで『白鳥の湖』グラン・アダージョを踊った河邊優の行き届いた踊りが印象深い。

第二部の前半は「VIVA TANGO!!!」の題名の下、3つの小品が上演された。安藤雅孝振付『I am Woman』は大竹=安藤組を中心に5組の男女が踊るタンゴ作品。大竹の磨き抜かれた洒脱なラインを、安藤の深い情念が包み込むデュオが素晴らしい。続く大竹振付の『Tango del Gatto』は、若い女猫たちがチュチュで踊る上品なショーダンス風の作品。猫の手の振りが可愛い。最後の『Leonora’s Song…restart』はアルゼンチンタンゴの名手竹原弘将の振付で、竹澤薫と竹原が踊る。竹澤はポアントなので垂直のラインが入る。伸びやかで優雅なタンゴだった。

第二部後半は長谷川秀介振付の『星月夜』と『memento mori』。前者はメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』で杉本芸録が踊るクラシカルなソロ。後者はドビュッシーの『月の光』に乗せて、長谷川が師の本間祥公と踊るモダン作品。「死を忘れるな」という題名がモノクロの舞台に反映される。シンメトリーの動きで近づき、ボールルームダンスのポジションで組む男女。モダンのベテラン本間はクラシックのラインも持ち、なおかつ体の隅々にまでニュアンスを込めることができる。二人が見つめ合うだけでドラマが立ち上がった。

第三部の『追想』は大竹の原案、安藤の構成・振付。プロコフィエフ曲を使用し、一部分江藤勝己のピアノ演奏が流れる。ジュリエットを踊ったばかりの大竹が、カーテンコールで喝采を受ける場面から舞台は始まる。そのレヴェランスの素晴らしさ。大竹の舞台人としての真率さが伝わってくる。年月が過ぎ、大竹はバレエ団の団長として若手ダンサー(壁谷まりえ)を育てる日々。そこに恋人だった男性(吉田隆俊)とその教え子(新井)がリハーサルにやってくる。かつての自分たちを若い二人に投影するベテラン二人。安藤バレエマスターによるバーレッスンに続き、『ロミオとジュリエット』の名場面がコンパクトに綴られる。

ジュリエットの壁谷、ロミオの新井は共にはまり役。大人全員で踊る「騎士の踊り」には迫力があった。ピアノ版がいつの間にかオケ版に切り替わり、リハーサルと本番の間が夢のように移ろうなど、演出には面白い着想が散見された。幼児から大人までスタジオ全員が出演する前提のため、発表会風の場面もあったが、安藤の演出が行き渡った作品だった。(4月6日 メルパルクホール) *『音楽舞踊新聞』N0.2925(H26.5.1号)初出(5/1)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ファスター』『カルミナ・ブラーナ

新国立劇場バレエ団が芸術監督デヴィッド・ビントレーの作品で二本立て公演を行なった。12年初演の『ファスター』と、95年初演の『カルミナ・ブラーナ』である(共にBRB初演)。前者はロンドン・オリンピックに因んだ新作、後者は05年に新国立が導入し、08年の同団初振付作品『アラジン』や、10年の芸術監督就任への端緒を開いた記念碑的作品である。

幕開けの『ファスター』は昨年の『E=mc2』とほぼ同じスタッフによる。M・ハインドソンの委嘱曲―後期ロマン派、原始主義音楽、ミニマルミュージックのエネルギッシュな複合体―に、ビントレーの音楽性が隈無く反応し、変拍子の微細な極みまで振りが付けられている。ハインドソンの新曲とがっぷり四つに組むことが、ビントレーの現在の興味なのだろう。

アスリートの運動やフォルムをモチーフにした具象的な振付、怪我に苦しむ女性選手と、それを支える男性選手の表現主義的なパ・ド・ドゥ、全員走り+競歩のデジタルなフォーメイションによる三部構成。ダンサー達のアスリートの側面を鍛えることがビントレー監督の目標の一つだったが、まさにそのものズバリの作品である。

パ・ド・ドゥ担当の「闘う」はWキャスト。初日の小野絢子・福岡雄大はラインの美しさと双子のようなパートナーシップ、二日目の奥田花純とタイロン・シングルトン(BRB)はダイナミックな切れ味と苦悩の深さで、振付の両面を体現した。「投げる」福田圭吾の力感、「跳ぶ」本島美和の美しいフォルム、同長田佳世の意識化された脚、同菅野英男の盤石のサポート、また「マラソン」五月女遥の優れた音楽性と細かく割れた身体、同竹田仁美の幸福感あふれるランナーズ・ハイも印象的。ダンサー達は危険と隣り合わせのミリ単位のフォーメイションを、音楽と寸分違わず走り続けて、ビントレーの4年にわたる薫陶の結果を明らかにした。

カール・オルフが37年に発表した劇的カンタータカルミナ・ブラーナ』の舞踊化はビントレーの宿願だった。今回はバレエ団三度目の上演。オーケストラ、声楽ソリスト、合唱団がピットに集結し、大音量を響かせるのが公演の大きな魅力である。中世の遍歴神学生の歌を、60年代英国の神学生3人が追体験するという演出。神学生の黒詰め襟や、黒髪おかっぱ頭が頻出するせいで、日本人の我々にも妙な懐かしさを感じさせる。3人はそれぞれ、ダンスホール、ナイトクラブ、売春宿で未知の体験を繰り広げるが、全ては失望に終わる。運命の女神フォルトゥナの掌の上で弄ばれただけだったのだ。ハイヒールを履いて目隠ししたフォルトゥナの重心の低い踊り、神学生たちの空手の型に似た踊りが作品の表徴、真似をしたくなるほど格好いい。

フォルトゥナはWキャスト。三度目の湯川麻美子は鮮烈な動きと気迫のこもった演技で、はまり役に円熟味を加えている。神学生3の長身シングルトンを相手に、平然と姐御風の啖呵を切ってみせた。一方、初役の米沢唯はあどけなさを残すものの、運命の女神そのものだった。役を生きている。冒頭の踊りは線が細いが、ゴムのように伸びる感触を振付に加味。赤ドレス・ソロや、福岡(神学生3)とのパ・ド・ドゥはなぜか和風、四畳半の匂い。福岡の肉体が清潔だったせいか、出征前の兵士と娼婦のようにも。エスパーダと街の踊り子で組んだ際の丁々発止を思い出した。

神学生1では、菅野の純朴さ、奥村康祐の甘さ、小口邦明の真面目、神学生2では、八幡顕光の技巧、福田の熱い存在感、古川和則の自在な演技を楽しむことができた。また空手の型では、福岡、福田、小口に見る喜びがあった。トレウバエフを筆頭に、不良青年たちの活きのいい踊りが、ビントレー時代の挽歌のように響く。もう羽目を外すことは許されないのだ、と。

ソリスト歌手は安井陽子、高橋淳、萩原潤。新国立劇場合唱団と東京フィルがP・マーフィ指揮の下、舞台を強力に支えた。(4月19、20、25日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No2928(H26.6.11号)初出(6/12)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団「プリンシパル・ガラ」

牧阿佐美バレヱ団「プリンシパル・ガラ」が文京シビックホールで開催された。母体の公益財団法人橘秋子記念財団と、文京区及び公益財団法人文京アカデミーが事業協定を結んだ記念公演である。「プリンシパル・ガラ」と銘打たれた通り、バレエ団の主役級、青山季可、吉岡まなみ、京當侑一籠、菊地研、中家正博、清瀧千晴が顔を揃えたが(伊藤友季子は故障で降板)、バレエ団初演作を若手に宛てるなど、若手お披露目公演のニュアンスも強い。二部構成の前半は、バレエ団の貴重なレパートリー『コンスタンチア』、後半は有名なコンサート・ピースが5本続けて上演された。

『コンスタンチア』(36、44年)はアメリカの優れたダンスール・ノーブルで振付家のW・ダラーによる作品。バランシンと協力して創った『コンチェルト』を後に改訂したものである。ショパンの『ピアノ協奏曲2番』に乗せて、ショパンと憧れの歌手コンスタンチア、恋人ジョルジュ・サンドの関係が心象風景のように描かれる。コンスタンチアの青山、ショパンの京當、サンドの吉岡は役をよく把握、アンサンブルは叙情的なスタイルときめ細やかな音楽性で統一されていた。ドラマよりも音楽を強調するのがバレエ団の特徴。シンフォニック・バレエの趣が強かった。

後半は、米澤真弓と清瀧による『パリの炎』パ・ド・ドゥ、日高有梨とラグワスレン・オトゴンニャムによる『ジゼル』第二幕よりグラン・パ・ド・ドゥ、織山万梨子と中家による『エスメラルダ・パ・ド・ドゥ』(B・スティーヴンソン振付、団初演)、中川郁、塚田渉、清瀧による『ワルプルギスの夜』(ラヴロフスキー振付、団初演)、そして青山と菊地、バレエ団による『ドン・キホーテ』第三幕抜粋である。

青山のプリマとしての貫禄と観客を祝福する笑顔が素晴らしい。また米澤の正確な技術、織山のコケットリー、中川の伸びやかさと、若手女性陣が個性を発揮し、今後に期待を抱かせた。茂田絵美子、久保茉莉恵は主役級だが、今回はアンサンブルのレベルアップ役に徹している。男性陣の行儀のよいサポートも団の特徴。清瀧の爽快な跳躍、塚田の豪快なリフトと踊りも印象深い。

ティーヴンソンの『エスメラルダ・パ・ド・ドゥ』オリジナル版など、後半には興味深いプログラムも含まれるが、クラシックのみのせいか、構成がやや単調に思われた。今後、文京区民にどのような作品を提供するのか、ロマンティック・バレエからコンテンポラリー作品まで踊ってきたバレエ団として、その文化的啓蒙に期待が高まる。(4月21日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』No2928(H26.6.11号)初出(6/12)

 

 

★[オペラ]  新国立劇場『カヴァレリア・ルスティカーナ』『道化師』

標記公演を見た(5月14日 新国立劇場オペラパレス)。新制作。演出のジルベール・デフロ、美術・衣装のウィリアム・オルランディ、照明のロベルト・ヴェントゥーリが素晴らしい。デフロはベルギー・フランドル地方生まれ。ブリュッセルで学んだ後、ミラノ・ピッコロ劇場でG・ストレーレルに師事している。『道化師』の劇中劇(コメディア・デラルテ)の巧みな演出は当然のことながら、二作全編を通して、音楽に寄り添い、歴史に敬意を払う、献身的な演出だった。作品のあるべき姿を回復させる。美術も照明も同じ。特に照明の繊細さ、これ見よがしのなさに感動した。レナート・バルンボの指揮、東京フィル、新国立劇場合唱団も素晴らしく、久々に演出と音楽が一致した気持ちの良い公演だった。

なぜブログに書こうと思ったかと言うと、旅回り芸人の一団にアクロバットカップル(天野真志、Bila Olga)がいたから。天野は89年生まれ、群馬県みどり市にある沢入国際サーカス学校卒業、Olga は81年生まれ、ウクライナ国立サーカス学校卒業で、沢入の講師とのこと。劇中観客に囲まれて、二人が超絶技巧リフトを次々に繰り広げる。最初はバレエダンサーかと思って見ていたが、途中から女性がとんでもなく柔らかい体で、男性がザンパノ(フェリーニの『道』)のような力自慢に見えたことから、違う気が。プログラムを見ると、アクロバットとあった。ロシア風リフトの一つ一つが清々しく、大道芸人らしい古風なペーソスも感じさせる。デフロの演出が入っているのだろう。(5/20)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団「ラフィネ・バレエコンサート」

東京シティ・バレエ団が恒例の「ラフィネ・バレエコンサート」を催した(主催・公益財団法人江東区文化コミュニティ財団)。創作バレエ2作、間に古典パ・ド・ドゥ集を挟んだ三部構成。多彩なプログラムで、地元江東区民に舞踊の喜びを提供している。

創作はベテランと若手振付家の競演となった。石井清子の『ジプシーダンス』と、小林洋壱の『Dance lives on』である。最終演目の石井は得意のキャラクターダンスで、ジプシー音楽(ロビーラカトシュとアンサンブル)をドラマティックに視覚化した。

石井振付の特徴は鋭い音楽性と、濃厚な演技を溶かし込んだキャラクターダンスにある。今回も女性ダンサーの妖艶な身振り、男性ダンサーの美しく粋なラインが、ロマ達の暗いパトスを浮き彫りにした。情感たっぷりのパ・ド・ドゥを踊った若林美和と黄凱、男性アンサンブルを率いた佐藤雄基、練達の女性アンサンブルが石井世界を具現。石田種生、金井利久の創作物と共に、バレエ団の貴重な財産である。

バレエ団現行の座付き振付家はバレエマスターの中島伸欣。その濃密なパ・ド・ドゥは、中島の身体から生み出された一つの奇跡である。今回幕開け作品を担当した小林の美点も、自らの体臭を感じさせる等身大のパ・ド・ドゥにある。

『Dance lives on』はマイケル・ジャクソン他をクラシカルに編曲した音楽で、男女群舞が踊る(生演奏・1966カルテット)。ジャズダンスやモダンダンスの語彙をクラシックに組み込んで、現代性を加味しようとした振付だが、残念ながら音楽と拮抗するだけの、またバレエダンサーに見合うだけの強度を備えているとは言い難かった。見せ場のパ・ド・ドゥも、小林の身体を感じさせないままに終わっている。もう少し個性の追求を期待したい。ダンサーでは、パ・ド・ドゥ薄井友姫の爽やかさ、同じく高井将伍の動きの巧さ(ムーンウォークの素晴らしさ!)、アンサンブル松本佳織の優れた音楽性が印象的だった。

古典パ・ド・ドゥ集は3組。『ラ・フィユ・マル・ガルデ』より第三幕のグラン・パ・ド・ドゥを中森理恵と岸本亜生、『ダイアナとアクティオン』を佐合萌香と内村和真、『白鳥の湖』より黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥを佐々晴香と黄が踊った。いずれも適役で、それぞれ牧歌的、古典的、劇的なパ・ド・ドゥの面白さを味わうことができた。(5月25日 ティアラこうとう大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2928(H26.6.11号)初出(6/12)

 

★[バレエ][ダンス]  PDA東京公演『ZERO』

標記公演を見た(5月29日 シアターコクーン)。PDAは Professional Dancers' Association の略で、樫野隆幸を会長に戴く男性バレエグループ。関西近辺のダンサー達だが、名古屋の人も。今回が初の東京お目見えだった。 バレエ作品は日本ではまだ古典中心のため、女性ダンサーに活躍の場が多い。例外は東京バレエ団ベジャール物)、Kバレエカンパニー(熊川物)、新国立劇場バレエ団(ビントレー物)。関西のバレエダンサーのレベルは高く、男性達をもっと踊らせたいというのが、設立理由だろうか。今回は余興として、ローザンヌとユースアメリカグランプリで一位を取った、二山治雄が出演、浅野郁子振付のコンテンポラリー・ソロと、ソロルのヴァリエーションを踊った。

本編は3作、すべて創作物だった。幕開けの篠原聖一振付『Thread』は、蜘蛛の糸の意。プロコフィエフのピアノ協奏曲(?)とポール・サイモンの歌を組み合わせて、男性(当たり前だが)11人が踊る。末原雅広を中心とする猿軍団の中に、糸ならぬ太いロープで佐々木大が降りてくる。末原と佐々木の対決や何やかやが、プロコフィエフの曲想に合わせて集団に湧き起こる。地獄谷温泉に女装の猿など、盛り沢山の展開。振付は猿歩きを基本に、クラシックの華やかなパが繰り出される。最後は佐々木が上に上がって終わる。なぜ猿にしたのか。これが大阪色なのか。篠原のノーブルなスタイルはクラシックの場面で見ることができたが、グループとのこれまでの経緯を知らないので、呆気にとられるばかりだった。

真中は島崎徹の『Patch Work』。ガムラン風や民族音楽風の音楽で、男性11人が踊る。パッチワークなので、筋はなく、腹ばいで腕を伸ばし、床を爪でカツカツと叩く動きが始まりと終わりにある。動きは島崎が一から作ったもの。所々モダンダンスを思わせる風もあるが、規範はこれといってなく、分析しようとすると疲れるが、身を任せると面白い。特に男性デュオは肉と肉とのぶつかり合いで見ごたえあり。他の二作にデュオがないので、余計に目立った。最後の挨拶は、浅い蹲踞の姿勢から、一人づつひょいと立ち上がる。面白い。勤務先の神戸女学院のイメージとうまく結びつかない。グレアムも教えているそうだが。

最後は矢上恵子の『ZERO』。バッハの『ミサ曲ロ短調』とミニマルな音楽を組み合わせ、特攻隊をモチーフに創った作品。15人の男性ダンサーが、スタイリッシュな踊りを繰り広げる。以前に比べるとやや穏やかになった感も。それでも男性ならではのエネルギーが終始炸裂し続ける。クリエイティヴな動きに圧倒されるが、作品自体の規格はショーダンスにある。観客を熱く鼓舞する形式。そこが島崎と対照的なところだ。

主役の山本隆之は、矢上のスタジオ出身。手の内に入った振付を、ミリ単位の音感で鮮やかに踊る。以前新国立の『R&J』初演時に、森田のロミオ、熊川のマキューシオ、山本のベンヴォーリオで「マスク」を踊ったことがあるが、あれほど音楽性に秀でた3人組を見たことがない。山本はノーブルな佇まい、ドラマ及び振付の深い解釈、盤石のサポートが美点とされるが、優れた音楽性を加えなければならなかった。

これだけの作品とダンサーを結び付け、纏め上げる樫野会長の手腕は言うまでもないが、一方で振付家としての(もちろんダンサーとしての)手腕も優れている。昨年「全国合同バレエの夕べ」で発表した『コンチェルト』は、その精緻なフォーメイションと動きの瑞々しさが素晴らしかった。女性アンサンブルだったので、今度は同じ振付で男性アンサンブルを見てみたい。(5/22)

 

★[バレエ][ダンス]  ラ ダンス コントラステ『ノア』

標記公演のゲネプロを、主催者のご厚意により見ることができた(6月7日 アサヒ・アートスクエア)。3人の振付作品を、白髭真二の体が蝶番となって繋いでいく形式。構成は中原麻里、振付は中原、大岩淑子、青木尚哉による。全体を通して感じたことは、ダンサーのレベルの高さ。アトリエ公演なので若手主体だと思われるが、クラシックの美しいラインとコンテンポラリーの動きが、矛盾なく同居している。

中原は、音楽解釈とドラマを濃密に結びつける優れたバレエ創作家。今回の筋立てはいま一つ分かりにくかったが、動きから感情が流れ出る。女性アンサンブルの丁寧な踊り、細野生の美しいラインとドラマティックなサポートに目を奪われた。細野が右肘をグイと引くと、女性たちが倒れるシークエンスが面白い。前回の『ジゼル』で細野は情感あふれるヒラリオンを演じた。踊りの美しさのみならず、ドラマを作れる貴重な男性ダンサー。

大岩作品はヴァイオリンとパーカッションの生演奏で。一人の女性が病に倒れるが、快復し、皆で少女のように音楽に乗って走り回る。パーカッショニストが遅れたため、大岩が担当していたが、その音に魅了された。振付家は打てるものなのか。もちろん振付家が最も音楽を把握しているに決まっているのだが。ずっと聴いていたかった。以前埼玉の公演で、ヴァイオリンの生演奏にダンサーたちが緩急をつけたバレエのアンシェヌマンを実行し、異化的空間を作り出すというコンセプチュアルな大岩作品を見たことがある。その後、バレエ協会の公演では、ヴァイオリンにブラジル・パーカッションを加えた生演奏(今回と似た組み合わせ)で、ダンサー達が音楽に乗って踊る作品を見た。ヴァイオリニストはいずれも梅原真希子さん。ずっと以前の埼玉では、『牧神の午後』の音楽で女性が爬虫類のように動く、やはりコンセプチュアルな作品を見たことがある。こうやって見ると、流れとしてはコンセプチュアルから、音楽を謳歌する方向にあるような気がする。

青木作品は、舞踏の影響を受けた日本のコンテンポラリー作品を思い出した(山崎広太とか)。踊らない、少しコンタクトがある、歩くことに重きが置かれている等。三点倒立もあり(女性が)。ライトもスタイリッシュ。シモ手で伊藤さよ子が激しく踊る。ここまで激しく踊るのは初めてのような気がする。青木本人がデュオで見せるユーモアは、一瞬だけ。Noism以前、Noism時代、Noism以後と、洗練されていったダンサー青木。振付家としては、Noism以前に根っこがあったのか。 ダンサー達は中原のバレエ美、大岩の野性味、青木の日本風を、完全に踊り分けている。スタジオの教育力に驚くと共に、クリエイションの場としてのスタジオの可能性を見た気がした。(6/10)

 

★[ダンス]  新国立劇場「ダンス・アーカイヴ in Japan」

標記公演を見た(6月7、8日 新国立劇場中劇場)。制作協力は現代舞踊協会。面白かった。『日本の太鼓』(振付:江口隆哉)を除いて、現在のダンスとして見ることができる。ダンサーがそのように踊っているからだろう。

最も面白かったのは、小森敏振付の『タンゴ』。藤井利子が振り移しをし、柳下規夫が踊った。イサーク・アルベニスの『Tango in D』に乗って、白髪の柳下が踊る。登場した時点で、既に只者ではなかったが、斜め前方へステップを踏んだ途端に、柳下の世界となった。音楽は思い出せるのに、振付は思い出せない。ただひたすら、その飄々とした動きを注視するのみだった。小森振付の特徴は分からないまま。それでもいいと思わせる喜びがあった。

もう一つは平山素子と柳本雅寛振付の『春の祭典』。ストラヴィンスキー自身が編曲した二台のピアノ版の生演奏が素晴らしい(土田英介、篠田昌伸)。二人だけで踊るため、ピアノ演奏のみを聴く場面が出てくるが、今回は幸福だった。平山は体力的にきつそうに見えたが、いささかも手を緩めない。パートナーは大貫勇輔に変わり、アクロバティック(H・アール・カオス的、マクミラン的)なデュオが変質した。柳本は包容力があるので、平山は姫になれたが、大貫は容赦のない男。自らも輝き、相手を挑発するので、対等のデュオになった。作品の可能性が広がった感じ。ただ、誰がこれを踊れるだろうか。新国立の奥田花純くらいしか、思い浮かばない。昨年の『ボレロ』を見て、平山の見方が分かった気が。音楽的にとんでもなく細かいところが、ビントレーと共通するのだろう。(6/12)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『パゴダの王子』

新国立劇場バレエ団がビントレー版『パゴダの王子』を再演した。4年間務めたビントレー芸術監督の最終演目である。自身が才能を見出し育てたダンサー達が、総出で花道を飾った。初演は東日本大震災の8ヶ月後、2011年11月。離散した家族が数々の試練を乗り越えて再会し、国が健康を取り戻すというプロットは、バレエ団と共に震災を経験したビントレー監督の“祈り”だった。直接間接に被災した観客の心を慰め、勇気づける、劇場本来の役割を敢然と担った作品である。

今回は1月のBRB初演を経て、新国立オリジナルの優れたレパートリーとして立ち現れた。自然と深く結びついたブリテンの神秘的なバレエ音楽国芳、モリス、ビアズリーを引用したレイ・スミスの繊細な切り紙細工装置と美しい渦巻きチュチュ、沢田祐二のシックな照明、そしてビントレーの知的で深い音楽理解に基づく自在な振付と、ドラマトゥルギーに則った的確な演出が、21世紀の古典全幕を創り出した。

緩やかな袴姿でのトゥール・アン・レール、男女が互い違いのグラン・バットマンで奥に向かうフィナーレは、日本産バレエの象徴。幕開けの甕棺葬、子役を使った情緒あふれる昔語り、杖術での戦いが、観客の日常とバレエを違和感なく結びつける。ビントレーの日本への熱いオマージュが、バレエ団の貴重な財産を生み出した。

さくら姫、王子、皇后エピーヌの主役キャストは3組。そのいずれもが持ち味を発揮し、作品の多面的な可能性を明らかにしている。初日と最終日を飾った小野絢子、福岡雄大、湯川麻美子は、クリーンな技術を誇るファンタジー組。小野の可愛らしいユーモア、福岡の輝かしい若武者ソロ、湯川の怖ろしい突き抜けた存在感が、作品本来のお伽噺の味わいを醸し出す。終幕の美しい兄妹パ・ド・ドゥは、ビントレーが育てた稀有なパートナーシップの出発点だった。

二日目と三日目夜の米沢唯、菅野英男、本島美和は重厚なドラマ組。役柄の拠って来る所を考え抜き、そこに自らの実存を反映させる。米沢の視野の広い緻密な演技、妹への愛情を全身で表現するサラマンダー菅野のその場を生きる力、継子を憎まざるを得ない苦悩を滲ませる、本島の複雑な演技。この作品が『眠れる森の美女』の変奏であることを思い出させた。

三日目昼の奥田花純、奥村康祐、長田佳世は踊る喜びを感じさせるダンス組。共にパトスが強く、踊りの熱量が加算されて目眩くフィナーレに突入する。奥田の神経が行き届いた踊り、サポートに課題を残すが奥村の若々しい踊り、長田のダイナミズムが、三者初役の舞台を成功させた。

皇帝の山本隆之はノーブルで力強く、トレウバエフは誠実で少しコミカル。老いのペーソスを出すにはまだ体が若いが、持ち味を十全に発揮した。舞台の核となる道化には、暖かく思いやりのある福田圭吾と、シンデレラの義姉で達者な所を見せた髙橋一輝。前任者吉本泰久の献身性は福田、芸を見せるやり方は髙橋が受け継いでいる。

例によって女性アンサンブルが美しい。大和雅美率いる「星」、寺田亜沙子、堀口純率いる「泡」、「炎」の4人等、見応えがあった。男性陣はソリストを含め、どこか空ろな様子(二日目、最終日未見)。フィナーレは男女揃って躍動感あふれる踊りで、華やかに幕を閉じた。

芸術監督デヴィッド・ビントレーの功績は、第一に『パゴダの王子』というバレエ団オリジナル作品を創ったこと、さらにバレエ・リュス、バランシン、サープ作品、自作を組み合わせて、高度に批評的なトリプル・ビルを打ち出したこと、またダンサー個々の才能を育てることで、バレエ団を有機的な集団に変えたこと、そして団員の創作発表の場を作ったことにある。文学、音楽に造詣が深く、ダンサーと観客への愛情に満ち、劇場の社会的責務を可能な限り実践した、優れた芸術監督だった。

指揮はビントレー監督と共に劇場に尽くしたポール・マーフィー、演奏は東京フィル。三浦章宏のヴァイオリン・ソロが心に沁みた。(6月12日、14日昼夜 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2931(H26.7.11号)初出(7/10)

 

★[ダンス]  フィリップ・ドゥクフレ『パノラマ』とコンドルズ

標記公演を見た(6月13日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)。『パノラマ』はこれまでの自作を再構成した作品。サーカスのような銀のアーチが二本、両袖には楽屋の化粧台が見える。変てこな行進や、強力ゴム(ロープ?)で吊られた男女の空中デュエットなど懐かしい。道化マチュー・パンシナのシルエット芸(手で動物を作る)を見ながら、そして変なコンタクトを見ながら、5月24日に同じ劇場で見たコンドルズを思わずにはいられなかった。 開演前、劇場のギャラリーでドゥクフレのカンパニーとコンドルズの同時写真展を見て、乗越たかおの両者を繋ぐ文章を読んだから、ではなく、劇場体験として。『パノラマ』がコント集のような構成なので、余計似ていると思ったのだろう。違う点は、コンドルズの『ひまわリ』がこの劇場に来る人のために創られたオリジナルであること。以前、新国立劇場オペラ部門の芸術監督だったトーマス・ノヴォラツスキーが、「このプロダクション(何か忘れた)は、新国立劇場に足を運ぶ皆さんのために創られたのです」と必死に強調していたのを思い出した。つまり来日公演を喜ぶ日本人の傾向を、何とか変えようとしていたのだ。

同じポエジーでも、ドゥクフレがフランス的な(?)エスプリの披露に終始するのに対し、近藤良平には常にペーソスを帯びた感情の拡がりがある。ドゥクフレの身体分割がバレエを基本とし、近藤はあらゆる体がOK、という図式と関係があるような気がする。(6/15)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団『ドン・キホーテ

牧阿佐美バレヱ団がプリセツキー版『ドン・キホーテ』を上演した。バレエ団初演は89年、代々のプリマが踊り継ぐ、練り上げられたレパートリーである。古風な趣を湛えているのが、幕ごとのレヴェランス。幕前でマタドール達が並んで見得を切るなか、登場人物たちが次々とレヴェランスをする。ジプシー達も同様、森の妖精たちは幕を上げてのご挨拶だった。客席との交感が増大し、劇場の持つ祝祭性をさらに高める効果がある。一幕のジプシー子役(もう少し芝居を入れて欲しいが)の活躍も19世紀の名残。子役の参加で舞台に「世界」が現出した。

主役はWキャスト。初日のキトリは日高有梨、バジルは菊地研、二日目は青山季可と清瀧千晴、その二日目を見た。爽やかな風が吹き渡るような『ドン・キホーテ』。青山のプリマとしての責任感、周囲を祝福する笑顔、困難に挑む勇気が、一挙手一投足、場面ごとに輝きを与えている。役解釈はさりげなく実行。難技を春風のようにすっきりと、音楽とたゆたうように収める。ふとした仕草にも気品が漂い、古典ダンサーとして円熟期を迎えているのが理解された。

対する清瀧はもはや若手とは言えない年齢。明るい性格と伸びやかなグラン・ジュテで舞台を活気づけるが、踊りに磨きをかける時期に入っている。自らの並外れた才能を開花させる義務が、清瀧にはある。

街の踊り子には、音楽的で美貌とプライドのある伊藤友季子、迎えるエスパーダには適役の中家正博。今回は初役時よりも野性味が減り、持ち味の躍動感が抑えられている。ワガノワ仕込みの大きな踊りを維持して欲しい。

森の女王 久保茉莉恵の周囲を自然な息吹で包み込む大きさ、酒場の踊り子 田中祐子の臈長けた美しさ、ジプシーの女 吉岡まな美のパトスに満ちた踊り、キトリの友人 米澤真弓の手堅さ、織山万梨子の艶っぽさ、町の女たち 茂田絵美子の正確なポジションの美しい踊りが印象深い。

ドン・キホーテは保坂アントン慶、ガマーシュは逸見智彦、キトリの父は森田健太郎。森田と逸見はドン・キホーテ、保坂はガマーシュとキトリ父も配役可の、贅沢な立ち役組である。森田の熱血父が舞台を席捲した。サンチョ・パンサは高々と投げ上げられる上原大也が担当。またジプシーの首領とファンダンゴのラグワスレン・オトゴンニャムが、マイムの鮮やかさとラインの美しさで一際目を惹いた。

男女アンサンブルは音楽性と抑制的なスタイルで統一されている。演奏は、アレクセイ・バクラン指揮、東京ニューシティ管弦楽団。(6月15日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2932(H26.8.1/11号)初出 (8/3)

 

★[ダンス]  Noism『カルメン』新制作

標記公演を見た(6月20日 KAAT神奈川県芸術劇場)。この劇場は客席の傾斜がきつく、前に迫り出す感じ。客席出口も迷路のようで、劇場自体がぎゅっと詰まった印象がある。Noismの覇気、熱気と見合っている気がする。

カルメン』はメリメ原作、ビゼーのオペラ台本から、演出・振付の金森穣が独自の台本を作った。原作の学者を外枠に、カルメン、ホセ、ミカエラ、マヌエリータ、リュカス、ロンガ、ドロッテ、フラスキータ、メルセデス、ガルシア等が入り乱れる。ホセと同郷の男ロンガ(原作)が、傷心のミカエラ(オペラ台本)を慰める場面は金森版でしか見られない。謎の老婆が、学者と物語の中を繋ぐ点も。学者はSPACの専属俳優、奥野晃士が担当し、鈴木メソッド(だと思うが)の発声で原作を語る。途中講談風にも。語りの時には、白幕に映されたシルエット劇で筋を分かりやすく見せる。外枠を作ることは以前もやっていたが、物語を語るのは初めてかもしれない。身体性のある発話なので、ダンサーと拮抗し、単なる解説者で終わってはいないが。最後は白マントをかぶって老婆の振りをしたカルメンに、猛スピードで小説を書かされていた。物語中の高密度の振付を考えると、発話者のいない方がすっぱりときれいな舞踊作品になると思う。が、きれいにしたくはないのだろう。

演出はこれまでやってきたことを出し尽くしている。以前は演出そのものが目的化している場合があり、未消化に思えることもあったが、今回は物語と全て直結している。円熟味を感じさせた。振付は圧倒的。コンテンポラリーでこれほど感情の乗った鮮烈なソロ、パ・ド・ドゥを、誰が作れるだろう。カルメン、ホセ、ミカエラ、リュカスのソロ、カルメンとホセ、ミカエラとホセのパ・ド・ドゥは、コンサート・ピースにできる仕上がり。それが一つの作品で幾つも見られるのだ。ホセがガルシアを殺した後の、カルメンとの花のパ・ド・ドゥは、井関佐和子と中川賢という役そのままのダンサーを得て、鬼気迫る愛と戦いのパ・ド・ドゥとなった。最後に、黄色い小さな発泡スチロールのミモザが天から降り注ぐ。腐れ縁のどうしようもない愛、切るに切れない関係のクライマックス。ホセに刺される寸前、井関カルメンは黒髪のヘアーを脱ぎ捨てる。ホセにすべてを捧げたのだろうか。そこで終わるはずもない金森版。井関は学者に小説を書かせ、中央に集まる人々に向かい、振り向いて葉巻の煙をフッと吐くのである。

井関のパフォーマンスについては言うことがない。足指を開いてどしどし歩く。蹲踞して退く。豹のようにしなやかで獰猛な四つん這い。中川と四つん這いで始めるパ・ド・ドゥ! カルメンの精髄。マッツ・エックのカルメンが鈍く見える。これほど四肢の隅々まで肉体が分割され、しかもエネルギーが常駐しているダンサーを見たことがない。サポーターズの会報の対談で、「(井関さんは)金森さんの言うことは何でも受け入れるという、一番ミカエラ的な存在であるというイメージがありますが。」という相手の言葉に、金森は「大きな間違いです! なんなら俺がホセですから(笑)」。

金森はプログラムのインタヴューで興味深い裏話を披露している。NDT2からリヨン・オペラ座・バレエ団に移籍した時、丁度エックの『カルメン』をやることになっていた。初演のホセはアジア人だったので、NDT2の先輩たちは「お前がホセをやるよ」と言い、自分もその気になっていたが、エックからは同時上演の『Solo for Two』を踊ってほしい、自分にとって重要な作品なんだ、と言われたという話。驚いた。以前リヨンの来日公演でこの作品を見て、西洋人(北欧人?)のこの深い孤独は、日本人には踊れないと、どこかで書いたので。踊っていたのだ、金森が。そして賞も貰っていたのだ(何の賞だろう)。井関との『Solo for Two』を見てみたい! でもエックを踊らなくても、自分で作れる。ミモザのパ・ド・ドゥをどこかのガラで見せてほしい。 [追記]金森が『Solo for Two』を踊って貰った賞は「K de Lyon」(高橋森彦氏のご助言で判明)。(6/21)

 

★[バレエ]  バレエシャンブルウエスト「トリプル・ビル」

バレエシャンブルウエスト第72回定期公演は、シンフォニック・バレエ、コンテンポラリー・ダンス、物語バレエを組み合わせたトリプル・ビル。異なる3ジャンルを、団員達がいかに踊り分けるかに注目が集まる。

幕開けの『バレエインペリアル』は、ロッシーニの『セミラーミデ』序曲に振り付けられたクラシカルな作品(振付・今村博明、川口ゆり子)。橋本尚美と正木亮を中心に、4組の男女と女性アンサンブルが晴れやかな舞を繰り広げる。ロッシーニ特有の急きたてるようなクレシェンドや、驚愕のフォルテから、今村好みのアレグロ等が見られるかと思ったが、クラシックの様式性を重視する、ゆったりとした振付だった。この場合、プリマの位置にある橋本は、かつてキトリで見せた抑えた統率力で、さらに場を引き締める必要があっただろう。若手にバレエ団のスタイル徹底を図るための、規範的な作品と言える。

舩木城振付の『カウンターハートビーツ』は世界初演。舩木は4月にも他団で新作を発表したばかりである。今回はミニマルな曲を使った、よりスタイリッシュな作品。斜線ライトを多用し、赤ライトを瞬時入れる等、工夫を凝らした照明空間である。ダンサーは女性5人、男性4人。クールなフォーメイションが音楽に沿って展開され、途中、松村里沙とジョン・ヘンリー・リードの濃密なパ・ド・ドゥが見所を作る。終盤は、ダンサー達が「死」、「孤独」、「病」、「怒り」等と発語しながら歩き回り、過呼吸の振りも。リードが松村にキスをした途端、上から黒幕が塊で落ちる。思う存分振り付けたエネルギッシュな作品だが、前作に続き、病的な場面がやや唐突に思われる。果たして舩木本来の個性や資質と合致するものだろうか。

最後はバレエ団の重要なレパートリー、『フェアリーテイルズ』。アイルランドの老画家が息子夫婦と孫達に、若き日の想い出―森で出会った沢の精に、生きる力を与えられた―を語る、3景から成る妖精物語である。民俗音楽、ドビュッシープロコフィエフのエコーを含む石島正博の雄弁なバレエ音楽、古典の形式を取り入れた今村・川口の音楽的な振付、スケールの大きいオークネフの美術が、格調高い物語バレエを形成する。

画家の母に似た沢の精には川口。登場するだけで空気がみずみずしくなる。アクロバティックなリフトも回避しないので、途中ヒヤリとする場面もあったが、その透明な佇まい、無垢なラインは、川口にしか出せない代替不能な個性である。ベテランとなった二人の教え子、画家の逸見智彦と、心の陰の吉本泰久とのトロワは、逸見の大きさ、吉本の献身が川口を支え、心にしみる場面となった。逸見のノーブルなマイム、吉本の鋭い踊りも素晴らしい。

妖精たちも実力派揃い。土方一生の音楽性、吉本真由美の愛らしさが印象深い。画家の孫達、川口まりと松村凌の行儀のよい踊りはバレエ団のスタイルの象徴。全体の仕上がりも良く、バレエ団を支えるレパートリーであることが確認された。

末廣誠指揮、東京ニューシティ管弦楽団演奏のロッシーニと石島は、メリハリがあり情感豊か。音楽を聴く喜びがあった。(6月22日 オリンパスホール八王子) *『音楽舞踊新聞』No.2932(H26.8.1/11号)初出(8/3)

 

★[バレエ]  Kバレエカンパニー『ロミオとジュリエット

Kバレエカンパニーが創立15周年記念の一環として、熊川版『ロミオとジュリエット』全二幕(09年)を上演した。音楽はプロコフィエフである。熊川版の特徴は、やはり男性ダンサーの踊りが多いこと。ロミオ、マキューシオはもちろん、ベンヴォーリオ、パリス、ティボルトも踊って、自らの心情や感情を吐露する。振付は高難度。二幕のマンドリンダンスもソリスト級が技を競う。

プロット面では、ジュリエットの従姉ロザラインが準主役に格上げされている。朝早くから(夜遅くまで?)友達を引き連れて街中を歩いたり、町の娘と取っ組み合いの喧嘩をしたり、敵方モンタギュー家の若者(ロミオ、ベンヴォーリオ)と戯れたり、親戚のティボルトと同士のような愛情で結ばれたり、全てが姐御肌。振付も男勝りのステップが与えられる。その結果、ジュリエットはより淑やかに、キャピュレット夫人は貞淑な妻で愛情深い母として描かれることになった。ここに、振付家熊川哲也のこだわりがあったのかも知れない。

上演3回目を迎えて、ドラマの推移は自然になり、主役から脇役に至るまで演技が練り上げられている。英国ロイヤル・バレエで主役を歴任したスチュアート・キャシディ副芸術監督のサポートは大きい。主役は4組、その内の神戸里奈、池本祥真組を見た。

神戸はドラマティックと言うよりもリリカル。ラインは慎ましく、終始抑制された動きで淑やかさを醸し出す。もう少し感情を出してもよいと思われるが、薬を飲む前の演技には緊迫感があり、演出に沿って計算された役作りなのだろう。対する池本は若々しさを前面に出した自然な役作り。よく開いた美しいアラベスクが、ロミオの感情を雄弁に物語る。横軸回転してアラベスクで立つ難技遂行の鮮やかさ。佇まいにも芯が通っている。ソロルと共にはまり役と言える。

マキューシオは酒匂麗、ティボルトはニコライ・ヴィュウジャーニン、ベンヴォーリオは益子倭、ロザラインは白石あゆ美、パリスは川村海生命が、全力で勤め上げた。キャピュレット卿のキャシディは華やかでノーブル、夫人の酒井麻子はゴージャスで感情豊か。キャピュレット家の若者 杉野慧、ヴェローナの娘 井上とも美、ジュリエットの友人 佐々部佳代の演技と踊りが一際目を惹いた。アンサンブルは技術的にレベルが高く、音楽的にも統一されている。

福田一雄指揮、シアターオーケストラトーキョーが、熱くドラマティックな音楽で舞台を支えている。(6月28日 オーチャードホール) *『音楽舞踊新聞』No.2932(H26.8.1/11号)初出(8/3)

 

★[バレエ]  石神井バレエ・アカデミー「バレエ・ラビリンス」

石神井バレエ・アカデミーが一昨年に続き、「バレエ・ラビリンス」を上演した(練馬区文化振興協会舞台芸術支援事業)。今回は、第一部が「バレエの始まりから今日まで」、第二部が『眠れる森の美女』第3幕という構成。演出・振付はアカデミーの山崎敬子、バロックダンス振付は、アカデミー講師の市瀬陽子が担当した。バレエの歴史を踊りで辿る、啓蒙色豊かな企画である。

第一部幕開けは、リュリ曲「アポロンのアントレ」(振付・フイエ)。村山亮が優雅な上体と鮮やかな脚技で、バロックダンスのスタイルを体現した。フレックスでの素早いプティ・バットマン、ロン・ド・ジャンブして半回転するなど、脚の美しい軌跡に目が奪われる。続く2作もバロックダンス。ルベル曲、市瀬振付の「ダンスさまざま」は、現代のダンサー達とルイ14世時代の貴婦人達が交錯し、同じ振付を踊る面白い趣向。レオタードでのバロックダンスが新鮮だった。市瀬自身の踊る「スペインのフォリアによる即興演奏」では、バロックギター竹内太郎の情熱的な演奏で、フイエとペクールの振付が現代に蘇る。後半ではカスタネットを使用、奔放なスペイン舞踊だった。

続いてはロマンティック・バレエの時代。「アレグレット」(クラウス曲)では、ロマンティック・チュチュの女性9人が、バレエシューズで『パ・ド・カトル』風に踊る。さらにルコック曲の「ワルツ」では、青木淳一、細野生、土橋冬夢が、ペローのように軽やかに跳躍、細かい足捌きを披露した。ロマンティック・バレエの重要な遺産であるブルノンヴィル版『ラ・シルフィード』は、その独特の音取りが舞踊の快楽を強く喚起する傑作。山口麗子と坂爪智来が二幕パ・ド・ドゥを踊った。坂爪はロマンティックな演技と優れたパートナーぶりが際立つジェームズ。本家でも省略されがちな両回転のトゥール・アン・レールを実行した(先行の男性3人組も同じく)。

続いてはクラシック・バレエの技法を使った20世紀の作品。タリオーニ版『ラ・シルフィード』を改訂上演したグゾウスキー自身の作品『グラン・パ・クラシック』。超絶技巧とシックな味わいを特徴とする。厚木彩の鮮明なパと、石田亮一の爽やかさが印象深い。最後にモダンダンスの技法を取り入れたモダン・バレエ「For you」。『眠れる森の美女』プロローグの妖精たちの踊りをモダンの語彙に変換する。振付家の個性を見せるのではなく、スタイルの変遷を示す創作アプローチだった。

第二部は吉田都と齊藤拓を主役に迎えての『眠れる森の美女』第三幕。王(村山)と王妃(南雲久美)が口火を切る本格的なサラバンドを幕開けに、ディヴェルティスマン、パ・ド・ドゥ、フィナーレ、アポテオーズと続く。吉田のオーロラ姫は英国ロイヤル・バレエ仕込み。輝かしい存在感、力みのない自然な踊り、パの鋭い切れ味。それでいて重厚さを感じさせるのは、振付の歴史的な蓄積によるものだろう。対する齊藤は、吉田を美しく支える王子。ノーブルなソロで気品のあるデジレ像を造型した。

フロリナ王女、西田佑子の行き届いた踊り、リラの精、厚木の胆力、宝石の精、細野の音楽性、青い鳥、上原大也のバットリー(最後のアントルシャは原曲のまま長い)など、主役を含めたゲスト陣が持ち味を十全に発揮して、古典バレエの空間を舞台に現出させた。

バロックダンスに始まるバレエのスタイルの変遷を、実際に踊り(振付)の形で確認することができた貴重な公演。福田一雄のバレエへの愛情に満ちた熱い指揮が、舞台を大きく支えている。演奏は東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団。(7月5日 練馬文化センター大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2934(H26.9.11号)初出(9/13)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団『ロミオとジュリエット

東京シティ・バレエ団が江東区との芸術提携20周年を記念して、オリジナル版『ロミオとジュリエット』全二幕を上演した。初日がバレエ団、二日目が江東区文化コミュニティ財団ティアラこうとうの主催である。同版の初演は09年、今回が三度目に当たる。構成・演出・振付は中島伸欣、アンサンブル振付は石井清子。両者の長所である文学性と音楽性を巧みに組み合わせ、独自の版を作り上げている。

最大の特徴は大公のテーマを前面に出し、運命の女達をプロットに深く関与させて(二幕)、死の匂いを舞台に充満させたことだろう。一幕はティボルトの死まで。「マスク」は省略、「バルコニー」と「広場」を繋げて、リアルな時間感覚を反映させている。

ロミオの登場が舞踏会直前なのは、他版にない遅さだが、両家の争いからロミオが外れている点を強調したかったのだろう。終幕、二人の亡骸を包むように広がる銀幕に、かつてのH・アール・カオスの美意識が思い出された。

中島の二つのパ・ド・ドゥは秀逸だった。セリフが聞こえてくる。「バルコニー」ではジュリエットにキスされたロミオがでんぐり返る。「寝室」では床を使った動きで、苦悩の深さを表す。その一つ一つが中島の身体から生み出された、内的必然性を帯びた動きだった。一方、ジプシーの女達を筆頭に、石井振付のキャラクターダンスが舞台を盛り上げる。二人の振付家の性向が時に舞台を二分することもあるが、今回は物語の枠内で収まって共作の効果を上げていた。

ロミオとジュリエットはWキャスト。初日は黄凱と志賀育恵、二日目は共に初役の石黒善大と中森理恵。その二日目を見た。石黒のロミオは暖かみのある存在感と、優れたパートナーぶりが特徴。常に相手に反応する懐の柔らかさは、主役として貴重な資質と言える。対する中森は長い手脚で、肝の据わったジュリエットを造型。無垢な少女らしさは少し難しそうだったが、恋に落ちてからは役が腹に入り、悲劇を十全に生きた。中島のジュリエット像が見えた気がする。

マキューシオの高井将伍は動きの切れも良く、皮肉屋で知的な面を強調した造り、対するティボルトの李悦は、鋭さと重厚さを兼ね備えている。キャピュレットの青田しげる、夫人の岡博美、パリスの春野雅彦、ヴェローナ大公の佐藤雄基と演技巧者が揃い、演劇性の高い舞台を構築した。例によって土肥靖子を始めとするジプシー達、若林美和率いる運命の女達が、濃厚な踊りを見せる。岸本亜生アルレッキーノとコロンビーヌ達の溌剌とした踊りも見応えがあった。

福田一雄編曲版を、井田勝大が端正に指揮。演奏は、バレエ団と同じく芸術提携団体の東京シティ・フィルが担当した。(7月13日 ティアラこうとう大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2937(H26.11.11号)初出(10/31)

 

★[ダンス]  長谷川六パフォーマンス『素数に向かうM』『透明を射る矢M』

六本木ストライプハウスでの「TOKYO SCENE 2014」の一環。米人報道写真家トーリン・ボイドの日本風景をバックに飾ったパフォーマンス企画である(企画・制作:PAS東京ダンス機構、後援:ストライプハウス、助成:PAS基金)。『素数に向かうM』(7月16日昼)は、深谷正子の構成・振付で長谷川がソロを踊る。『透明を射る矢M』(7月18日)はヒロシマをテーマにした連作で、上野憲治とのダブル・ソロ。両作ともストライプハウスの中地下ギャラリーで行われた。芋洗坂に面した幅広い窓から、昼間は陽光が、夜は街灯が降り注ぐ。道行く人の顔も。(もう一作『そこからなにか』というソロ作品もあったが、見ることができなかった。)

素数』は深谷の構成が入ったかっちりした作品。外光が入るので弛緩するかと思ったが、もちろん長谷川の身体は外部条件とは無関係にそこに存在する。4つの背の高いティーテーブルの上に、折り畳み式鏡が横向きに置かれている。長谷川も鏡を持って登場。両手で鏡をまさぐりながら佇む。左手首にはいつものように時計。両脇に袋状のポケットが着いた黒い麻のワンピース。脹脛と足が見える。その足に惹きつけられた。右足には土踏まずあり。左足は外反母趾で土踏まずが中にめり込んでいる。その不具合は個性を突き抜けて、絶対的フォルムにまで昇華している。左右の足が生み出す密やかなステップ―太極拳の弓歩のような柔らかさ―を凝視してしまった。

途中、両脚を肩幅に立ち、両手で胸を押さえ、次に頭を押さえ、顔の前で両肘下腕をくっつけ、そうして両肘を脇に引きつけてから、思い切り息(気)を飛ばすシークエンスが繰り返された。「ハッ」。その度に長谷川の気がギャラリーに充満し、愉快な気分に。深谷の振付とのことだが、長谷川の武術に馴染んだ体が生かされていた。最後はエラ・フィッツジェラルドの弾力のある歌に合わせて、体を揺らす。観客席のみやたいちたろう君(1歳)に手を振りながら、機嫌よく終わった。剣道(?)、モダンダンス、能、舞踏、オイリュトミー、太極拳、バレエ他が混淆された肉体。その運用を見るだけで喜びを感じる。

『透明』の方は、今回『夏の花』(原民喜)を読む場面がなかった。バッハ、忌野清志郎、ビリー・ホリディを長谷川がCDで流す。上野とは絡まず、それぞれがヒロシマを思いながら動きを見出していく(泳ぐ動きは共通していた)。上野は分節化された肉体ではないが、生の、豪華な存在感がある。少し長谷川を見過ぎていたのが残念。長谷川があまり既製のダンサーと組まないのは、生の味が欲しいからだろうか。 長谷川の演出は、作品と言うよりも「場」を作ったという印象。そのため、地下で行われる次の公演の観客が、窓を覗きながら建物に入ってくるのが、よく見えた。全体に小ぎれいな女性が多い。うなじの美しい女性が窓の向こうで人待ちしているのと、直下で行われているパフォーマンスを同時に見ることになる。舞踊評論家 山野博大氏も通行人の中に。外に開かれたギャラリー公演ならではの面白さだった。(7/16)

 

★[バレエ]  「アリーナ・コジョカル ドリーム・プロジェクト2014」Aプロ

標記公演を見た(7月22日 ゆうぽうとホール)。Bプロは見ず。 前回はコボー主導でデンマーク色が強かったが、今回はいつものNBS公演だった。マクレーの超絶技巧、吉田都の自在、ムンタギロフの優美など、ちょこちょこ感想はある。が、何よりもコジョカルの特異さに改めて驚かされた。何を踊ってもコジョカル。そういうダンサーはこれまでもいた。いわゆるスター。しかし、コジョカルの場合は、不完全、未完成を物ともせず、踊りたいように踊る。踊ることへの衝迫が尋常ではない。以前、「私はリハーサルから100%で踊るので、相手が疲れてしまう」みたいなことをどこかのインタヴューで言っていた。あのポアント音の高さ。普通は音を立てないようにコントロールすると思う。何百回と注意されたことだろう。特にロイヤルでは事細かに言われたのではないか。

コボーがサポートした『白鳥の湖』の第二幕が、最もコジョカル的だった。古典の動きが、今生まれたように踊られる。その生成感の強さ。もちろん規範からは外れている。しかし、その規範も歴史的なもので、絶対的ではない。踊りへの衝迫なくして、何がバレエだろうか。日本では志賀育恵がそのように踊ってきた(ポアント音はしないが)。(7/28)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『しらゆき姫』

新国立劇場バレエ団がこどものためのバレエ劇場として、『しらゆき姫』(09年)を上演した。これまでの中劇場からオペラパレスに場を移し、レヴェルアップしての再々演である。構成・演出は三輪えり花、音楽構成は福田一雄、振付は小倉佐知子、監修は牧阿佐美による。

三輪の構成・演出はディズニー映画に準拠しながらも、しらゆき姫の清い心を強調し、子供達への教訓をラブ・ロマンスの中に潜ませている。結末も継母が改心し、母娘がダブル・アダージョを踊るバレエらしい大団円に変更した。子供のためとあってナレーションも多いが、舞踊の見所は全く損なわれていない。かわいいキノコのお家や狼男(?)の衣裳が魅力的な石井みつるの美術、子供達の心を水先案内する杉浦弘行の照明、四方から音の聞こえる渡邊邦男の音響も加わり、オペラパレスに深いドイツの森が出現した。

何よりもバレエを熟知した福田の音楽構成が素晴らしい。ヨハン・シュトラウス2世の『騎士パスマン』と『シンデレラ』からの選曲。シュトラウスらしい晴れやかなワルツ、マズルカポルカギャロップが、物語の流れに沿って、または裏切って、巧みに構成されている。陰惨になりがちなお妃の悪巧みもコミカルに処理されて、終始心浮き立つシュトラウス・バレエの、プティ版『こうもり』に続くレパートリー化である。

小倉の振付は、難度の高いクラシック、華やかなキャラクターダンス、床を使うモダンダンスが、登場人物に応じて、適切に振り分けられている。特にしらゆき姫の古典的なソロ、お妃の濃厚なソロは魅力的だった。

キャストは主役のしらゆき姫に小野絢子、米沢唯、長田佳世、細田千晶。王子はそれぞれ福岡雄大、林田翔平(菅野英男の故障降板により代役)、奥村康祐、林田。お妃は本島美和、堀口純、寺田亜沙子。鏡の精ミラーは小柴富久修、宝満直也。いずれの組も個性を生かし、子ども達の心に届く演技を心掛けていた。中でも本島のお妃は、演技に幅があり、作品に奥行きを与えている。

お妃のお付き、動物や小鳥を踊った女性陣のレヴェルの高さは言うまでもないが、男性若手から中堅に移ろうとしている林田の落ち着き、小柴のノーブルで妖しい存在感、森の精池田武志のダイナミックな踊り、道化高橋一輝の視野の広い演技は、来季の古典作品を支える大きな戦力になる。

来季幕開け『眠れる森の美女』の前哨戦のような公演。4年間ビントレー作品に鍛えられたおかげで、ダンサー達は演技、踊り共に掌中に収めて、公演のレヴェルアップに大きく貢献した。(7月25日朝昼、26日朝昼 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2933(H26.9.1号)初出(9/3)

 

★[バレエ]  日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」

日本バレエ協会平成26年度「全国合同バレエの夕べ」を二日にわたり開催した。文化庁「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である。今年も9支部、1地区が12作品を出品し、本部恒例の『卒業舞踏会』が両日上演された。この企画は新進の振付家及びダンサーの育成を主眼とするが、同時に日本各地の創作家の現在を確認できる利点がある。創作物は8作、若手からベテランまで創意に富んだ作品が並んだ。

ベテラン・中堅作家の内、九州勢が対照的な作品を上演した。伊藤愛(いとし)の『MASQUERADE』(九州北支部)と、日高千代子の『夕鶴 悲恋に染まる紅の空』(九州南支部)である。前者はハチャトリアンの曲で、仮面を小道具にヨーロッパの瀟洒な雰囲気を醸し出す。ダンサーの出入り、フォーメイションの複雑さに伊藤の優れた音楽性が窺われた。一方後者は、琴、笛、ピアノによる邦楽を用いて、「鶴の恩返し」をバレエ・ブランに昇華させる。勝田零菜の美しいつう、小濱孝夫の深みのある与兵が、情感豊かな日本バレエの核となった。

中堅組の矢上恵子、篠原聖一、島崎徹は、5月に行われたPDA(関西を中心とする男性バレエダンサー集団)東京初公演と同じ振付メンバー。関西支部の矢上は、ラヴェルの『ボレロ』他を用いた『Cheminer』(進んでいく、の意)。愛弟子の福田圭吾を軸に、20人の女性がジャズダンス、モダンダンス、ブレイクダンスを混淆させた独自の振付で、エネルギッシュ且つ華やかな舞台を繰り広げた。

関東支部の篠原は、ファリャの曲でスペイン情緒満載の『スペイン舞曲』。女性群舞は時にユニゾン、時に小グループで踊らせるが、その扱いにややニヒルな感触が残る。篠原のノーブルな個性は、中尾充宏と女性2人の親密なトリオ、芳賀望のクールなソロで発揮された。

中国支部の女性36人に振り付けた島崎の『ALBUM』は、少女から大人になる過程を、F・マーティン他の音楽で描く。二つのグループが互い違いで左右に揺れるフォーメイションは、ミニマルであると同時に自然な息吹を感じさせる。振付と島崎の身体に乖離がないからだろう。若いダンサーにとって、「経験」となる作品だった。

若手作家では、坂本登喜彦、岩上純、石井竜一が個性を競った。東京地区の坂本作品『Route Passionate...』は、M・ドアティのシンフォニック・ジャズ風現代音楽と、宇宙や自然を無機的な色調で描いた立石勇人の映像とのコラボ作品。映像も現代的な振付(ポアント使用)も音楽を色濃く反映している。長尺のため、途中単調になる所もあったが、坂本のダンサーへの愛情、スタイリッシュな美意識が強く感じられた。

同じく東京地区の岩上作品『FANATIQUE』は、ドヴォルザークのスラブ舞曲を用いたクラシック作品。振付家の陽気な音楽性が炸裂する。永橋あゆみと浅田良和のアダージョは美しく、男性4人の超絶技巧は鮮やか。舞台を共同体に変える統率力がある。甲信越支部の石井作品『ヴァイオリン協奏曲』はブルッフの同名曲に付けたシンフォニック・ダンス。後藤和雄、冨川直樹に女性ソリスト3人と女性群舞が、エイリー風の語彙で踊る。大曲をそつなく舞踊化しているが、もう少し振付家の刻印を期待したい。

古典作品は4作。地域の特徴が出たのは、沖縄支部の『パキータ』(改訂振付・長崎佐世)。生き生きとした脚、明確なバットリー。一人一人が自分の人生を踊っている。主役の長崎真湖は技術を見せない澄んだ踊りだが、もう少し覇気があってもよかっただろう。同じく『パキータ』の関東支部(改訂振付・丸岡浩)は、上体を大きく使った華やかな踊りの樋口ゆりと、端正な菅野英男が中心。アンサンブルは明るく規律があり、よく揃っていた。

北陸支部は『レ・シルフィード』(改訂振付・坪田律子)。ソリスト(岩本悠里、土田明日香、石谷志織)、アンサンブル共、ロマンティック・スタイルをよく身に付けている。マズルカの法村圭緒は、絵に描いたようなダンスール・ノーブルだった。山陰支部の『コッペリア第一幕』は、『シルヴィア』の曲を加え、アシュトン版『リーズの結婚』の引用も含む変わり種(振付・中川亮)。中川リサのスワニルダ、男性陣の技術の高さが目立つ、賑やかな一幕だった。

両日トリの『卒業舞踏会』は早川惠美子指導の道場。女学院長は、繊細な女らしさが自然に滲み出る田中英幸、老将軍は茫洋とした雰囲気の長谷川健。第2ソロの寺田亜沙子、第1ソロの大場優香、鼓手の二山治雄、本来のフェッテ競争を実現した佐野基と津田佳穂里が強烈な印象を残した。指揮の福田一雄がシアターオーケストラトーキョーを引き連れて、舞台に多大なエネルギーを供給している。(7月29、31日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2933(H26.9.2号)初出(9/3)

 

★[ダンス][バレエ]  Project LUCT「Rising Sun」

東日本大震災復興支援を目的とする芸術家団体Project LUCTが、初のバレエ・ガラ「Rising Sun」を開催した。本団体は、海外在住の日本人ダンサーと音楽家から構成され、被災地と次世代ダンサー支援を組み合わせた活動を行なっている(アーティスティック・リーダーはノルトハウゼル都市同盟劇場所属の片岡直紀)。

幕開けは石川啄木の『一握の砂』を基にした創作『The handful of sand』。被災地岩手へのオマージュとして創られた。片岡の構成、ロビーナ・ステヤー、櫻井麻巳子、片岡の振付で、男女8人が踊る。ラヴェルドビュッシーショパン他のピアノ曲(演奏・横路裕子)と、岩手の風景や啄木の歌の映像、コンテンポラリー・ダンスを組み合わせた緩やかなコラボレーションである。小さな砂山に向かう啄木(片岡)のリアルな姿が、客席と舞台の架け橋となった。

第二部はガラ・コンサート。奥村彩(オランダ国立バレエ)による『瀕死の白鳥』、櫻井(ギーセン州立劇場)とステヤー(リューネブルグ州立劇場)の『死と乙女』(振付・ステヤー)、甘糟玲奈(ロシアカレリア劇場)と関祐希(スロベニア国立オペラ劇場)による『ラ・シルフィード』、佐々木七都(ニュールンベルグ州立劇場)による『Threads』(振付・シモネ・エリオット)、沼田志歩と梶谷拓郎の『BOTTOM OF THE SKY』、片岡と研究生の『Moon Shine』(振付・リタ・ドゥボスキー)、門沙也加(ニュールンベルグ州立劇場)による『Ave Maria』(振付・ゴヨ・モンテロ)、奥村と山田翔(オランダ国立バレエ)による『海賊』というプログラム。

それぞれが震災時に海外にいて感じ、考えたことを、自己表出の礎としている。他方で、日本在住では諸般の事情で難しいダンサーとしての成熟過程を、個々に見ることが出来た。クラシックでは奥村の絶対的な責任感、コンテンポラリーでは、佐々木の振付理解と細かく分節化された体の濃密な動き、門の実存を賭けたデズデモーナなど。彼らの肉体が、日本の文化的現況を照らし出している。

今回の公演には、関東への避難を余儀なくされている被災者180名が招待された。また収益金の全額(85,551円)が釜石市市民文化センター再建のために寄附される。今後は『一握の砂』を持って被災地を廻るツアーが予定されている。(8月1日 セシオン杉並) *『音楽舞踊新聞』No.2935(H26.10.1号)初出(10/5)

 

★[バレエ]  谷桃子バレエ団若手育成公演『ジゼル』

谷桃子バレエ団の若手育成公演「New Passion Wave」が二回目を迎えた。第一回は12年の『白鳥の湖』。今回はバレエ団の魂とも言うべき『ジゼル』。谷桃子版は通常よりも役の掘り下げが深く、若手にとっては大きなチャレンジである。裏方スタッフにも中堅若手を起用し、オーケストラも、指揮者河合尚市の指導する学生主体オケ(尚美学園大学)を採用。研究成果を発表する熱気あふれる公演となった。

今回の『ジゼル』は新人公演とは言え、バレエ団プリンシパルの齊藤拓が芸術監督となって、また指導陣が変わって初めての上演である。最大の変化はアンサンブル。これまではクラシカルな様式性や女性らしい淑やかさを特徴としてきたのに対し、今回の公演では、村娘は村娘のように踊っている。キャラクター重視の指導法なのだろうか。

キャストは2組。初日のジゼル植田綾乃は、大柄で伸びやかな肢体の持ち主。ラインのコントロールアダージョの見せ方はこれからだが、自然体の演技、二幕での情熱あふれる踊りに、今後の可能性を窺わせた。二日目の佐藤麻利香は主役経験もあり、期待通りの出来栄え。技術の確かさ、役どころをよくわきまえた演技は申し分ない。ただ主役デビューの『シンデレラ』に比べると、本来出せるはずのパトスが滞っている。諸事情はあると思うが、早く殻を脱して欲しい。

アルブレヒト初日の今井智也はベテランの域に入りつつある。新人の植田をよくサポートし、齊藤監督の薫陶か、ロマンティックなスタイルを以前よりも身に付けている。一方、佐藤と組んだ檜山和久は、美しいラインとクールな風貌が特徴。初役とあって、感情の表出やアダージョの見せ方に課題を残すが、強い個性を感じさせた。

ヒラリオンの安村圭太は頭脳派、須藤悠は激情派。先輩近藤徹志の腹の入りようには及ばないものの、力演だった。ミルタ初日の松平紫月ははまり役。二日目の江原明莉共々、バレエ団のミルタ造型指導は優れている。また新人公演を脇で支えたのが、クーランド大公の陳鳳景、バチルド姫の林麻衣子、男女貴族と、ベルタの日原永美子である。貴族達のゆったりとした佇まい、ベルタの愛情が主役を暖かく包み込んだ。

定期公演では主役からアンサンブルまで3キャストを組める大所帯ゆえ、こうした新人発掘の試みは貴重。チケット価格も低く設定され、バレエに馴染みのない観客導入にも成功している。(8月15、16日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2935(H26.10.1号)初出(10/5)

 

[ダンス]  池田扶美代『Cross grip × Tryout 2』

標記トライアウトを見た。ワーク・イン・プログレスのようなもの(8月16日 スタジオアーキタンツ)。

前半はライヒの曲で、ローザスでよく見た〝規則正しい偶然性〟の動き、中間はペルトで片脚立ち座禅を含む振付、後半はバッハでソロ、デュオ、トリオを取り混ぜる。ダンサーは池田、畦地亜耶加、木原浩太、川合ロン。

この4人の体が全部違う。池田はクラシックベースで、手を上げる動きにもラインが入る。ソロではローザス風のナルシスティックな少女性が立ち上り、来し方を思わせた。畦地は何ら技法が入っていないように見えて、実は鍛錬された体。一瞬たりとも動きがラインに乗っ取られることがない。常に自分の体。内側からの動き。日舞や舞踏を思わせた(伊藤キム笠井叡に師事)。木原は驚くべきダンサー。池田振付のあるべき形を瞬時に実現できる。同時に自分の体でもあり、今後50か60になった時、凄いことになっているかもしれない。川合はどちらかと言うと、形から入るタイプだろうか。エネルギーが外向きなのは池田と同じ。二人が大汗をかいているとき、木原、畦地は汗の気配すら感じさせない。日本のモダン=コンテンポラリー・ダンスの可能性を見たような気がする。(8/17)

 

★[バレエ]  東京小牧バレエ団『牧神の午後』他

東京小牧バレエ団が、日本・モンゴル国文化取極締結40周年記念として、『牧神の午後』、『イゴール公』、『ペトルウシュカ』を上演した。上海バレエ・リュスのソコルスキー版を小牧正英が日本に移植した、歴史的価値の高い作品群である。モンゴル人ダンサーのレヴェルの高さ、日本人若手ダンサーの活躍が目立つ公演だった。

『牧神の午後』はソコルスキー版がそのまま残されているとのこと。パリ・オペラ座版に比べると、ニンフたちの動きがおっとりして、より自然に見える。牧神を踊ったアルタンフヤグ・ドゥガラーははまり役。獣性は控え目で、植物的な伸びやかさ、特有の湿り気がある。周東早苗の貫禄十分なニンフと、闊達な戯れを見せた。

イゴール公』はロシアの伝統的演出(イワノフ版?)とフォーキン版を、両方踊った小牧が組み合わせたもの。佐々保樹の改訂振付により、高度な技術とスタイルの徹底が実現されている。中央アジアの平原やオアシス、パオを描いたドロップ、迫力ある混声合唱(東京合唱協会)も、作品のスケールアップを後押しした。 主役のフェタルマには新人の清水若菜を抜擢。動きの切れがよく、小柄な体から火のようなエネルギーが迸る。適役だった。隊長のビヤンバ・バットボルト、副隊長のガンツオジ・オトゴンビヤンバ率いる武士たちも勇壮で、よく統率されている。スラブ娘 長者完奈のしっとりした情感、ポロヴィッツィ娘 藤瀬梨菜の涼やかさ、イゴール公 原田秀彦の凛々しさが印象深い。

ペトルウシュカ』は一場、四場の「広場」を小牧が改訂し、二場、三場の「人形の部屋」はフォーキン=ソコルスキー版を踏襲したとのこと。人形を部屋に蹴りこむ、見せ物師の大きな長靴が面白い。ペトルウシュカはドゥガラー、バレリーナは金子綾、ムーア人はバットボルトという配役。3人形は現行版よりも人間味にあふれる。ペトルウシュカの嘆きも自然な感情の流れに沿ったもので、ニジンスキー神話に毒されていなかった。

「広場」の女性アンサンブルはこのバレエ団ならではの素朴な味わい。男性アンサンブルは音取りが揃わなかったが、力強い踊りだった。アクロバットの清水、街の踊り子の藤瀬が大道芸の情緒を醸し出す。見世物師のグリゴリー・バリノフは久しぶりの登場で、明晰なマイムを披露した。

内藤彰指揮、東京ニューシティ管弦楽団が、ドビュッシーボロディンストラヴィンスキーを生き生きと演奏し、舞台作りに大きく貢献した。(8月23日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2937(H26.11.11号)初出(10/31)

 

★[ダンス]  黒沢美香『薔薇の人―deep―』

標記公演を見た(8月27日夜 横浜氏大倉山記念館ホール)。黒沢を見るのは何年か振り。たぶん『roll』くらいまで見ている。今回見ようと思ったのは、4月にお父さんの輝夫氏がお亡くなりになり、5月の現舞公演でそのお父さんの映像を見たから。

中年女のような幼児のような肉体は相変わらず、その上に昭和の濃厚な顔が乗っている。着物を着せて寺山修司の舞台に放り込みたいような肉体。両胸には赤塚不二夫のぐるぐる巻きが描かれている。ポストモダンダンスだが、肉体のせいで舞踏にも見えるところが、黒沢の可能性の中心だろうか。

途中の寸止めアンシェヌマンがやはり面白かった。以前、パの胎生のような動きを見たのを思い出した。一通り踊って、最後は思い入れをして終わった(1時間)。黒沢がゆっくり退室しようとした時、入り口付近に座っていた舞踏評論家の合田成男氏が、三回大きな拍手をした。黒沢退出。その後、空間が固まったかのように、誰も身じろぎせず、無音。1分程たってから(長いと思ったけど、たぶん1分くらい)、拍手があり、黒沢が戻ってきてレヴェランス。あるいは黒沢が戻ってくる気配があって、拍手だったかもしれない。一方、合田氏は拍手した後、少しして立ち上がり、帰ろうとしたが、黒沢と鉢合わせになり、スタンディング・オベーション。黒沢も目で挨拶したようだった。

あれは何だったのか。合田氏の拍手に全員が飲み込まれたのか。空間の気がほどけた時は、はっきり分かったので、全員が同じ身体状況にあったのだと思う。木の円柱が寄せ木の天井を支える、特異なホールだったからかも。能舞台や土俵のように、部屋の中に屋根があるみたいな。(8/28)

 

★[ダンス]  さいたまゴールド・シアター×瀬山亜津咲『KOMA'』

標記公演を見た(8月28日 彩の国さいたま芸術劇場小ホール)。一年前のワーク・イン・プログレスとは全く異なる感触の作品に仕上がっている。前回はリハーサル室、今回は小ホールという条件を差し引いても、その違いは大きい。

前回は瀬山が役者(平均年齢75歳)の側に寄り添って、その人生を解きほぐした印象だった。さらに瀬山自身がピナ・バウシュの空間で感じていた齟齬や違和を梃子にして、日本の体を追求する意図が感じられた。何よりも、演出に瀬山の実存が刻印され、作品に一回性の輝きがあった。

今回、役者たちは作品の駒になり(十分に訓練され、その責を果たしている)、日本の体は1エピソードに縮小、定型化された。その結果、確かに作品としてのまとまりがよくなり、再演可能にもなった。ピナの手法に軽やかな現代性を付加した作品として、一応成功したと言えるかもしれない。

ただし演出家瀬山の美点は影を潜めている。パートナーのファビアン・プリオヴィルが演出・振付補として加わったからだろうか(選曲にハードな音楽が増えたことはその影響だろう)。最も違和を感じたのは、最高齢者高橋清による大野一雄張りの手のダンス(手本役付き)。これは高橋の人生から生み出されたものだろうか。また瀬山の調整室からの呼びかけ、特に最後のストレッチのインストラクションは、彼らの日常風景の再現にもかかわらず、演出家と役者の支配関係を端的に表して、鼻白む思いだった。瀬山の個性とは相反している。

ワークショップから作品への移行過程で、演出家が非情になるのはもちろん当然のこと。ピナ・バウシュの母性と絡み合ったサディスティックな演出を経験してきた瀬山が、同じ轍を踏むのも理解できる。が、あのワーク・イン・プログレスの「あづさ」コールを思うと、あの空間の生のエネルギーを思うと、作品化の意味を考えずにはいられない。

唯一、作品の駒に見えて駒とならなかったのが、遠山陽一。人が行きかう中、両手で顔を拭い、片腕を拭い、脚を触り、反転して同じことを繰り返す。お風呂で体を洗う動きが、強度と速度を増しながら連続する。そして天からの水の滴を、裸の背中に受けるのである。全てを受け止める肉体の静けさ。遠山が一歩一歩 歩んできた人生の集積が、その背中にあった。(8/31)

 

★[バレエ]  東京バレエ団「創立50周年祝祭ガラ」

標記公演を見た(8月31日 NHKホール)。マラーホフ、ルグリ、ギエムというNBSと関係の深いダンサーをゲストに迎えて、バレエ団が多彩なレパートリーを披露する。全体の印象は、ゲスト中心主義だった東バも、徐々に変わりつつあるのかなあというところ。沖香菜子がバレエ団を背負って立つような気がする。また、もう少し筋肉が欲しいが、梅澤紘貴が、東バでは珍しくアダージョを作れる男性ダンサーなので。二人はノイマイヤーの『スプリング・アンド・フォール』を踊った。見たことがあるような、ないようなと思いながら見ていたが、梅澤が前方に両腕を真っ直ぐに差し出し、そこに沖が後ろ向きに入るリフトを見て、見たことがあると思った。首藤康之が斎藤友佳理を、まるで板のごとく受け止めるショットが蘇ったので。音がしたような気がする。高岸直樹を除いて、サポートの上手い男性ダンサー(主役級)は少なかった。因みにこれと同じリフト(というかサポート?)は、クランコの『オネーギン』第3幕PDDでも見られた。ルグリと吉岡美香が踊ったが、オネーギンのニヒリズムはラテン系には難しいのではないか。マッキーの氷のような情熱が妥当な解釈に思える。個人的には、山本隆之に踊って欲しかった。酒井はなと。

ギエムは『ボレロ』を感じよく踊っていた。若い男の子たちを引き連れて、何か機嫌よく。体操少女のようだった。ホールを揺るがす拍手やブラボーを、素直に受け止め喜びながらも、どこか別の境地にいるような感じ。誠実な舞台だったと思う。(9/3)

 

★[ダンス]  森嘉子『PADRES』(舞踊作家協会連続公演No.176)

標記公演を見た(9月2日 ティアラこうとう小ホール)。森嘉子の東京新聞制定舞踊芸術賞受賞記念公演。芸術監督に森、企画は雑賀淑子と加藤みや子。森と雑賀は、高田せい子の高弟である彭城秀子の弟子。それぞれの道を歩んだのち、偶然公演で出会い、旧交を温めた仲である。加藤は森の弟子で、森が渡米したのちは、藤井公の預かりとなった。森と雑賀はその加藤のスタジオで、舞踊評論家の山野博大氏を司会役に対談も行なっており、本企画は加藤の師匠孝行の色合いが強い(山野博大編著『踊る人にきく』参照)。

森の舞台は気になっていたが、残念ながら今回が初めての舞台。病気明けで、現在80歳という前情報によるイメージは、完全に覆された。上腕の張りのある筋肉、鍛え抜かれた背中、鋭いサパテアード。優雅で力強い、洒脱なダンサーだった。弟子の加藤とデュオを見せる場面では、両者の対照が明らかになる(加藤は森の所ではポアントで踊り、藤井の所ではモダンダンスを踊った)。森の研ぎ澄まされたフォルムの厳しさと、加藤の全能感あふれる少女性、暖かいエネルギーは、役どころである厳しい母親と奔放な娘そのもの(ロルカ原作、加藤作『白い壁の家』より)。アフロ・ジャズダンスとモダンダンスという師弟が歩んだ道の違いにも思いが至った。

また加藤の弟子である木原浩太がソロを踊った。フォルムと内的エネルギーの両方を兼ね備えたダンサー。今回は脚のバランスの美しさに目を奪われた。(9/8)

 

★[バレエ]  小林恭氏を追悼する

優れたバレエダンサー兼振付家だった小林恭氏の葬儀に参列した(2014年9月4日 青山葬儀所)。8月19日、肝不全のため死去。享年83歳だった。

小林氏は47年に石井漠に師事。49年谷桃子バレエ団に入団し、東京バレエ学校でワルラーモフとメッセレルに師事した。70年小林恭バレエ団を設立(山野博大編著『踊る人にきく』参照)。晩年の舞台にしか接していないが、『リゼット』のマルセリーヌは見ることができた。洋物の女装役ではなく、博多にわかや関西喜劇を思わせる和風の女形。最少の振りで溜めを作り、空気を動かす。糸繰りの見事さ、突拍子もない動きが、娘への愛情と結ばれて、濃密な人情喜劇を作り上げる。演出家としては、常に弱者の視点から物語を読み直す、バレエ界にあっては珍しい存在だった。

葬儀では、まず献花ならぬ献杯から始まった。数々の舞台写真や衣装が並ぶなか、遺影の下に置かれたご遺体に、参列者が一人一人ショットグラスのウイスキーを傾け、ご冥福を祈る。お酒の好きだった故人にふさわしい告別なのだろう。喪主の小林貫太氏の挨拶に続き、長年のパートナーだった谷桃子氏と、一番弟子の佐藤勇次氏の弔辞。谷氏の心を振り絞るような別れの言葉、佐藤氏の「先生の弟子となって、本当に幸せでした、先生のヒラリオンは世界一です。」という熱い言葉は、恭氏に届いたと思う。全員揃っての献杯の音頭は、団員を代表して榎本晴夫氏が執り行った。

以下は2006年に書いた公演評。

小林恭バレエ団56回目の定期公演はフォーキン三部作。『韃靼人の踊り』『ペトルーシュカ』『シェヘラザード』と群舞が男女ともに活躍する作品が並ぶ。民衆の力とその悲しみを力強く描き出す、このバレエ団ならではのラインナップである。小林演出の特徴は、ドラマを深く掘り下げる際、その解釈に自身の実存が色濃く反映する点にある。いわゆるフォーキン原作の再現ではない。イデアは外部にではなく、小林の内側にある。それが独りよがりにならないのは、小林の歴史認識が広範で深く、しかも更新されているからだろう。その認識を作品にぶつけながら演出するため、作品は常に生きている。

この公演の翌日、インペリアル・ロシア・バレエによる『シェヘラザード』と『韃靼人の踊り』を見る機会を得たが、復元と言われる『シェヘラザード』は作品の輪郭を伝えはするものの、ドラマを生起させることはなかった。主役二人が形式を通して役にアプローチするタイプのダンサーだったことも原因の一つだろう。小林版『シェヘラザード』は、ゾベイダと奴隷がかつて愛し合った仲という独自の解釈を採っており、官能よりも純愛に重きが置かれている。にもかかわらず、奴隷を踊った後藤晴雄の肉体はニジンスキーの無意識の官能性を想起させ、下村由理恵はゾベイダの妖艶と気品を肉体に刻み込んで、濃密な感情のドラマを生き抜いている。

また小林版『韃靼人(ポロヴェツ人)の踊り』では、異民族に囚われたイーゴリ公の憂いと、それを慰めんとする奴隷チャガの痛切な想いが明確に描かれる。このため、単にキャラクターダンスの勇壮なディヴェルティスマンに留まらない、一大叙事詩の広がりを持っている。前田新奈のチャガがイーゴリ公に向けた踊りは、同じ境遇の者に捧げられた深い哀れみと悲しみに満ちていた。いかにも前田らしい濃厚なパトスが、エネルギーの粒となって流れ出す。それを受け止め、しかし拒絶するほかないイーゴリ公の苦悩と憂いは、小林貫太が立ち姿のみで表現した。ボロディンの憂愁に満ちた力強い音楽は、むしろ日本人の舞台によって新たな生命を勝ち得ている。

ペトルーシュカ』は当たり年で、今年三つの国内バレエ団が上演したが、ペトルーシュカのドラマが生きられたのはこの小林版のみだった。群衆はおとなしめで演技の練り上げにやや物足りなさを残す。しかしペトルーシュカの小林貫太が、ニジンスキーの「メタモルフォーシス」を思わせる入魂の演技を見せている。ぶらぶらと脱力したペトルーシュカの両手に、弱者の哀しみが放たれる。無垢な心で踊り子を恋し、ムーア人を怖れ、ついには切り殺される哀れさ。麦わらに戻る瞬間が見えるようだった。亡霊となって人形師をあざ笑った後、ダラリと垂れ下がる上体がすばらしい。人の心をもった人形の哀しみが凝縮されていた。

中村しんじの人形師は胡散臭く懐が深い。踊り子はやはりプリマの役どころ。前田の強度で締まる。ムーア人の窪田央は少しおとなしいが愚かしさはよく出た。人形劇の幕開けで三者が下肢のみを動かす場面は鮮烈だった。フォーキンの精神が小林恭の息遣いによって蘇った瞬間である。

三作品ともに適材適所。独自の解釈にもかかわらず登場人物の原型が保たれているのは、役柄とダンサー双方に対する小林の理解の深さによる。とくに下村由理恵と後藤晴雄はこの空間で本質を露わにした。下村の肌理細やかな肉体、柔らかくまといつくようなシェネは驚異。後藤は何の留保もなく肉体の美しさを誇示しうる。ニジンスキーの狂気と重なるロマンティックな肉体だった。

大神田正美と大前雅信の大小コンビが献身的に舞台を支える。小林恭の出番は僅か。貴重な芸をもっと見たい。磯部省吾指揮、東京ニューシティ管弦楽団が、エネルギッシュな舞台と拮抗する力強い音楽を作り出した。(2006年10月14日 ゆうぽうと簡易保険ホール)(9/6)

 

★[ダンス]  Dance New Air 2014 片桐はいり@『赤い靴』

小野寺修二の演出で、片桐はいり、Sophie Brech、藤田桃子、小野寺が出演した(9月12日 青山円形劇場)。『赤い靴』と言えば、ダンスとの関連から、当然アンデルセンの『赤い靴』を考えなければいけなかったのに、なぜか「赤い靴~履いてた~女の子」だとばかり思って、舞台に臨んだ。始まると、かつて読んだアンデルセンの断片が次から次へと出てくる。小野寺の文芸物の一つだったのだ。

原作はキリスト教の教訓色が強いが、そうした色合いはなく、赤い靴と靴屋にまつわるエピソードが多かった。片桐の靴検品の鋭い眼差しは、モギリの高場で培ったのだろうと思ったり。そもそも片桐を見るために、青山円形に向かったのだ。前日、日経の「SECRETS」というコラムで、片桐の一問一答に腹を抱えて笑ったばかり。最後の質問「生まれ変わったら何になりたい」に対して、「笠智衆」と答えていたので、片桐の動き、演技に笠の残像が付き纏った。体の全てに嘘がない。動きはもちろん、足指、ふくらはぎ、手などの細部に至るまで、借り物でない。動きを見るだけで陶然とする役者は現代物では少ない。変な連想だが、飯田蝶子を思い出した。何をやっても様になる、ディシプリンのある役者。片桐の場合はそこに実存の深みが加わる。コメディに悲劇を差し込むことも、不条理劇を軽くも重くもなく、そのまま演じることもできる。自分にとっては、山崎広太と同じ位置にある身体芸術家。(9/16)

 

★[ダンス]  片桐はいり@『赤い靴』Dance New Air

標記公演評をアップする。本日(2016.7.2)放映された、NHKEテレのスイッチインタビュー「片桐はいりVS甲野善紀」に感動したため。甲野は片桐を「五指に入るほど、誠実な人」と語った。

「ダンストリエンナーレトーキョー」を引き継いだ「Dance New Air」の開幕公演。マイム出身の小野寺修二(おのでらん)が演出を手掛ける。出演は小野寺、片桐はいり、Sophie Brech、藤田桃子(ももこん)。

小野寺は不条理劇と接近する自作に加え、数々の文芸作品を舞台化してきた。カミュの『異邦人』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』等。手法は小説・戯曲の重要な場面を抜き出し、ロベール・ルパージュと共有するローテク趣味を駆使して、詩的に再構成するというもの。元役者のホンの読み込みは鋭く、勘所がえぐり取られて抽象化=永遠化される。ロミオがマキューシオの敵を討つシーンは、プラスチックの桶に入ったキャベツをグシャグシャにする行為に置き換えられた。

今回はアンデルセンの『赤い靴』が原作。憧れの赤い靴を手に入れたが、勝手に踊るようになった赤い靴を、自分の足ごと切る決意をする少女カーレンが主人公である。踊ることの恍惚と、その反倫理性、反社会性が、キリスト教の教訓的童話に昇華されている。舞台人になろうとしたアンデルセン自身の内面が、色濃く反映しているものと思われる。

小野寺の演出は、テキストの引用や靴工房の登場はあるが、原作のキリスト教色は排除され、「赤い靴」を巡るファンタジーが発話と身体運動によって展開される。赤い制服を着た小野寺は妖精(座敷童)のような存在。女性3人が原作の登場人物や靴工房の職人に、入れ代わり立ち代わり扮して、赤い靴への想いを募らせる。 舞台の要となったのは片桐はいりだった。その動きの鋭さは、小野寺作品『異邦人』ですでに証明済みである。一本欠けた三本脚のテーブルに片手をついて、ブルブルと痙攣する怪演が強烈に目に焼き付いている。円形劇場の客席は舞台を少し見上げる格好。目の先には片桐のふくらはぎがあった。ずっしりと筋肉の付いた、なぜか懐かしい脚。Brechはダンサー脚、ももこんは可愛い脚だが、片桐のは生活者の脚である。少しひんやりした、木の廊下とアッパッパの似合う脚だ。

それに比べて手の繊細さは、並みの舞踊家をはるかに凌ぐ。靴工房で靴を検品するときの、しなやかで知的な手つき。そしてその眼差しの鋭さ。片桐は自著『もぎりよ今夜も有難う』(2010年、キネマ旬報社)で、映画館のもぎりをしていた頃のことをエッセイに書いている。当時、銭湯の番台のような受付台を「たかば」と呼んでいたが、片桐は、その番台からもぎりが「鷹のように眼光鋭く映画館の平和を見張る」ので、「鷹場」だと思っていたらしい(実際は高場とのこと)。靴を矯めつ眇めつする眼光の鋭さは、このもぎり時代のエピソードを思い出させる。

「平和」も片桐のキーワードである。今回の作品の中で「あなたにとって一番大切なものは?」と問われた時の片桐の答えが、「平和・・・皆が心穏やか~に暮らしている、と言うか」だった。前掲の「鷹のように眼光鋭く平和を見張る」と、この答えを突き合わせてみると、片桐の精神の形が明らかになる。つまり動きの尋常ならざる強度が、「平和」というラディカルで身近な目標を常に指し示しているのである。生活者の脚と知的な手と鷹の目の合体。世界と対峙する時の奇矯なまでのラディカルさは、おそらく幼少時のキリスト教環境に由来するものだろう。アンデルセン原作の踊ることの恍惚と反社会性を、誰よりも理解しているのではないか。初めて『白鳥の湖』を生で見たあと、グルグル回りっぱなしだった片桐。子ども時代の夢は「バレリーナ」で、生まれ変わったら「笠智衆」になりたいというアンケートの答え(『日本経済新聞』2014.9.11)は、まさに『赤い靴』のカーレンそのものである。 動き自体はもちろん、足指、ふくらはぎ、手、顔の表情に至るまで、片桐の嘘のない体に魅了され、圧倒された舞台だった。

2014年9月12~15日 青山円形劇場(12日所見) 演出・出演:小野寺修二 出演:片桐はいり、Sophie Brech、藤田桃子 美術:Nicolas Buffe テキスト:山口茜 照明:吉本有輝子 音響:井上直裕 衣裳アドバイザー:堂本教子 舞台監督:シロサキユウジ *『ダンスワーク』68(2014冬号)初出(2016.7/2)

 

 ★[バレエ]  日本バレエ協会関東支部埼玉ブロック『白鳥の湖

日本バレエ協会関東支部埼玉ブロックが結成35周年を記念して、『白鳥の湖』全幕を上演した。演出・改訂振付は東京バレエ学校出身で、助教師としても活躍した木村公香。縁の深いゴルスキー=メッセレル版を原版としている。

木村演出の美点は、セリフの聞こえる緻密なマイム、特徴を明確に打ち出したキャラクターダンス、闊達な音楽性にある。振付そのものは東京バレエ団の現行版とほぼ同じだが、二幕グラン・アダージョでのアンサンブルの動きを、主役に寄り添う穏やかな振付に変えたため、東京バレエ団版よりも主役への集中が容易になった。

オデット=オディールには、埼玉ブロックにゲスト出演を重ねる酒井はな、王子は新国立劇場バレエ団の奥村康祐という適役の二人が配された。長年同役を踊り込んできた酒井は、臈長けた美しさを身に纏っていた。これまでは自らの解釈をパトスの力で前面に押し出す息詰まるオデットだったが、今回は解釈を内に秘め、形の美しさで感情を表している。現在の境地を隈無く映し出す、酒井らしい生の魅力も健在。オディールは豪華で輝きにあふれている。フェッテは美しく気品に満ちたシングルだった。

奥村は若くロマンティックな王子、はまり役である。前半の憂愁、後半の喜びを、ノーブルな立ち居振る舞いで素直に演じきった。少しマザコン風の味付けもある。

脇役も適材適所。王妃の西川貴子は、新国立劇場バレエ団の同役でも優れた演技を見せたが、木村演出が入り、一段と風格が増した。ロットバルトの敖強(谷桃子バレエ団)は切れ味鋭い踊りと力強い演技で、道化の大森康正(NBAバレエ団)は折り目正しい踊りと献身的な演技で、ヴォルフガングの原田秀彦はノーブルな佇まいで、舞台に厚みを加えている。

またパ・ド・トロワで、淑やかな伊地知真波、クラシカルな榎本祥子をサポートした酒井大の覇気ある踊り、スペイン檜山和久の美しくスタイリッシュな踊り、スタイルをよく心得た男性アンサンブルと、谷桃子勢が舞台の底力となった。

ブロック所属のソリスト、アンサンブルは、一、三幕のキャラクターダンスで生き生きとした踊りを披露。白鳥群舞は必ずしも揃ってはいなかったが、音楽と心を一つにして踊る喜びを感じさせた。(9月14日 川口総合文化センター リリアメインホール) *『音楽舞踊新聞』No.2937(H26.11.11号)初出(10/31)

 

[ダンス][バレエ]  山野博大編著『踊るひとにきく』を読む

山野博大編著『踊るひとにきく』をほぼ読了した(人名録がまだ)。発行日は2014年5月31日、発行所は株式会社 三元社、定価は本体4200円+税。全部で411頁の大著である。

この本の特徴は、踊る人に語らせていること。山野氏だったら、これまでの公演評、プログラムや雑誌に書かれた文章、弔辞、「二〇世紀舞踊の会」の檄文等をまとめて、戦後洋舞史を辿ることができたと思う。が、そうはせず、新たに「日本の洋舞一〇〇年」を書き下ろした上で、洋舞のダンサー、振付家、批評家との鼎談やインタヴューをメインに持ってきた。日本洋舞界へ長年寄り添ってこられた山野氏の、献身的で深い愛情が感じられる構成である。

「日本の洋舞一〇〇年」では、私淑された光吉夏弥氏の教えを我々に残している。

 

  • 舞踊の歴史は、書かれた批評によって日々作られていくものなのだというのが光吉夏弥の基本的な姿勢だった。批評は舞踊に対してそれなりの責任を負うという自覚なしに書くべきものではないという姿勢を常に崩さなかった。この歴史重視の姿勢が、彼を舞踊資料の整理という日々の作業に向かわせたのだと思う。私には「舞踊批評はそこで演じられているものを舞踊の歴史の中に正しく位置づける作業だ」と、いつも言っていた。(p.30)
  • 光吉夏弥という人は、どちらかというと人づきあいの悪い方で、舞踊家と親しくすることはほとんどなかった。私にも舞踊家と付き合うと、いざという時にずばりと書けなくなるから、気をつけた方がよいと、いつも云っていた。(p.30)
  • 光吉夏弥は、批評の読み方についても教えてくれた・・・海外の舞踊の様子は、向こうで出ている新聞の舞踊欄や舞踊専門の雑誌を読んで知る以外に方法がなかった。それを読む時に、書き手の癖をわきまえて読むのが光吉流だった・・・彼は批評家の書き癖をわきまえて読み、微妙な調整をほどこして、世界の舞踊の動向を「正しく」見抜くのだと言っていた。この批評を読むにあたっての微調整方式は、日本の同業のライターの書いたものを読む時にも役に立つ。(p.31)

 

最初の引用は、光吉の考える舞踊批評家の心構えと、批評のあるべき姿を伝える。二つ目の引用は批評家が心がけるべき態度だが、実は続けて「現代舞踊の江口隆哉や数人は例外で、渋谷の飲み屋での出会いを楽しんでいた。光吉、江口の両人ともお酒を飲まなかったが、店の常連の他の分野の人たちとの語らいを求めて通っていたのだろう。」とある。光吉と江口の交流は、後掲の鼎談でも触れられている。三つ目の引用は、上の二つ同様、山野氏の実践されるところである。本書の随所で、先輩批評家の癖を分析されており、そのユーモアたっぷりの筆致に何度も頬が緩んだ。おそらく現批評家の癖も密かに分析されていると思う。

一方、鼎談、インタヴューは、モダンダンスを軸に置いた日本洋舞史の貴重な一次資料である。新しい発見(もちろん自分にとって)や面白いエピソードが満載だった。そのいくつかを以下に挙げてみる。

 

  • 現代舞踊協会から津田信敏一派(若松美黄、土方巽を含む)が脱退したのは、山野氏の書いた協会批判の文章がきっかけだった。(p.125)
  • 若松美黄は、オリガ・サファイア・バレエのプリンシパルだった。(p.128)
  • バレエに対して一線を画していた宮操子が、「バレエは伝統の基本があって、それをやっていればなんとかなる。モダンダンスの場合は本当に帰るところが自分しかない。バレエは帰るところがあっていいな」と書いていた。(p.275 正田千鶴談)
  • 大野一雄笠井叡の不思議な師弟関係(月謝を取らない、食事、コーヒー、煙草、帰りの電車賃をくれる、劇場の借り賃まで払ってくれた)が示す大野の浮世離れした人柄。(p.293)
  • 佐多達枝の寸評「ベジャールが好きなのはなぜかというと、あの人はすごく踊りが好きな人だと思うんですよ。もちろんいろんな演出をやってますけど、もとはね、踊り馬鹿なんじゃないかなって感じるから好きなんです。だからノイマイヤーは嫌い。」。(p.312)
  • 大野一雄は江口・宮舞踊研究所に寝泊まりして踊っていたんだけど、江口より宮さんの稽古に出たかったと言っている」。(p.337 合田成男氏談)

 

若松美黄がのちに現代舞踊協会の会長になったことの歴史的な意味や、大野一雄土方巽のモダンダンスとの深い関わりが、当時関わった人々の生の言葉を読むことにより、朧気ながら分かった気がする。 巻末には、日本の舞踊史、世界の舞踊史、国内外の出来事をまとめた緻密な年表(安田敬氏作製)と、この本の元となった《ダンス=人間史》を企画した HOT HEAD WORKS ディレクターの加藤みや子による詳しいあとがきが付されている。(9/18)

 

★[バレエ]  東京バレエ団ドン・キホーテ

東京バレエ団が創立50周年記念シリーズの一環として、ワシーリエフ版『ドン・キホーテ』全二幕を上演した。振付指導は01年の初演時にキトリを踊った斎藤友佳理。公演前にはワシーリエフ本人も来日した。斎藤は振付を舞踊譜に書き起こし、再演を重ねるうちに変化した箇所を見直す作業を行なった(プログラム)。全体にダンサーたちが自然体の演技で、伸び伸びと踊ることができたのは、斎藤指導の賜物だろう。

ワシーリエフ版の特徴はメルセデスエスパーダが終幕までカップルとして踊り継ぎ、キトリの友人がグラン・パのヴァリエーションも踊ることで、全幕を通して親密な雰囲気が保たれる点にある。ガマーシュなどは婚礼にも参加して、踊りを踊ったりする始末。斜めのラインを多用した切れ味鋭い男性群舞、子供キューピッドの可愛らしい背景舞踊も、振付者の闊達な精神を物語る。

主役キャストは2組。当初予定されていたオブラスツォーワとホールバーグが故障のため、同じボリショイ・バレエのアナスタシア・スタシュケヴィチとヴャチェスラフ・ロパーティンが初日と三日目を踊り、二日目をバレエ団の上野水香と柄本弾が踊った。スタシュケヴィチは小柄でよく動く娘役タイプ。安定した技術にエネルギーが宿り、きびきびと愛くるしいキトリだった。対するロパーティンは同じく小柄だが、端正で品のある踊りが一際目を惹いた。献身的なサポートを含め、ロシア派の粋を見た気がする。

一方、バレエ団組は大柄な二人。上野の持ち味である鮮やかな脚線、盤石のバランスと回転技、強力なエネルギーは、終幕のグラン・パで最も発揮された。その豪華さは上野の非凡な才能の証明でもある。ただし、踊りの輝かしさに比べると、役へのアプローチ、演技の点で物足りなさが残る。内側からの役作りは、喜劇においても重要ではないか。前日エスパーダを踊った柄本は、それをはるかに上回る完成度で、初役バジルを踊り切った。エネルギーの出し方が役に沿っている。若手とは思えないタフネス、芝居の軸となる落ち着き、責任感に改めて驚かされた。

脇役も充実していた。存在感あふれる高岸直樹のエスパーダ、ノーブルな木村和夫ドン・キホーテ、コミカルな氷室友、岡崎隼也のサンチョ・パンサ、ゆったりと構える永田雄大のロレンツォ。中でも梅澤紘貴のガマーシュは、初演者吉田和人の無垢なガマーシュ像にも比肩する出来。細かい芝居とノーブルな味わいを結び付けている(他日バジル配役)。

女性陣も多彩。メルセデス奈良春夏の気っ風の良さ、ジプシー娘高木綾の狂気、ドリアード女王渡辺理恵の美しいライン、キトリ友人川島麻実子の和風、河谷まりあの自然体、乾友子の安定感、吉川留衣の繊細な気品と、それぞれが個性を十全に発揮した。

ドリアード・アンサンブルは音楽的で情感にあふれる(バレエミストレス・佐野志織)。クラシカルな場面が以前よりも味わい深くなった。指揮はワレリー・オブジャニコフ、演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。(9月19、20日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2940(H26.12.15号)初出(12/16)

 

★[ダンス]  山崎広太@「Tokyo Experimental Performance Archive」

標記公演を見た(9月23日 Super Deluxe)。主催は一般社団法人日本パフォーマンス/アート研究所(プロデューサー・小沢康夫)。通常の公演と違うのは、パフォーマンスを映像や写真で記録して編集、新たな映像作品としてネット上にアーカイブし、公開するという点。さらにパフォーマンスのコンテクストを言語化し、歴史的パースペクティブを新たにつくる、とのこと。アーツカウンシル東京の助成を受けている。パフォーマンスをリアルタイムでネット上に配信と、趣意書にはあるが、今回はなかったようだ。山崎の使用した音楽の著作権問題で、「配信時には別の音楽に差し替える」とのコメントが出されたから。

客席は対面式。真中の空き地でパフォーマンスが行われる。空き地の三方には映像カメラ4台、写真家一人が配置され、スタッフが場当たり(?)も行なった。こうした状況で山崎の踊りを見るのは初めて。どういう心持になったかと言うと、山崎の踊りが記録されるのを見ている野次馬、だった。さらに自分も映像に映り込むかもしれない、という変な緊張感。山崎との間に一皮も二皮も隔たりがあった。

山崎はいつもと同じ心境だったと言うかもしれない。踊りにはそれだけの強度があった。題は『ランニング』。冒頭は縞の着物に白い帽子で、正統派の舞踏。重い体、足指、手指の踊りだった。一指し舞うと、着物を脱ぎ捨て、黒いランニングと青い短パンになって、軽快にハチャメチャに踊る。音楽は全て歌の入った洋楽。音楽との呼応が強く、音楽とのデュオ、のような作品だった。昨年のベケット作『ネエアンタ』で見せた踊らない踊りや、日舞の胚胎はなく、発散する動きが多い。最後は再び溜める踊りに戻り、つま先立ち前傾バランスで終わった。

ランニングしている時に考えたことが反映されているのだろうか。終盤に山崎の意識が消えた時間があり、体が引き締まった、と言うか、統一された。目の前の肉体にこちらの意識が入り込む、いつもの山崎体験だった。

共演は音楽家、美術作家、パフォーマーの恩田晃。日常音の録音や、シンバルとビー玉、電子音で音を作っていることしか分からなかった。その場で音を作っているという意味ではパフォーマー、シンバルを並べているので美術作家、なのだろうか。(9/27)

 

★[ダンス]  宮城県寺崎の「はねこ踊」@「東北の芸能V―東日本大震災復興支援」

標記公演を見た(9月27日 国立劇場大劇場)。なぜ見ようと思ったかと言うと、岩手県の「鹿踊大群舞」が入っていたから。新国立の「ダンス・アーカイヴ」や伊福部昭のコンサートで、江口隆哉振付の『日本の太鼓』を見ていて、現物とどれくらい違うのか確認したかった。結果は、あまり変わらない、だった。音楽が太鼓のみだったので、神事のように見えたくらいで(江口作品にはドラマがあった)。

それより、もう一度見たくて、自分も踊ってみたいと思ったのが、宮城県寺崎の「はねこ踊」。直後に青森の有名な「ねぶた囃子」のハネトが登場したが、それが単調に見えるくらい、洗練された踊りだった。

姉さんかぶりと日の丸扇2本、赤い襦袢に水色の肌着、裾が割れるように着崩して、隙間から前垂れのようなものが見える。奇天烈な衣装。男女とも同じだった。その装いで、横二列になって(舞台だから?)跳ねる。手つきは複雑、足運びも繊細。なぜこういう動きをするのか理由は分からないが、体全体の運用が理に適っており、見ていて気持ちがいい。たぶん踊っていても気持ちが良く、無意識の喜びが感じとれる。後半では、動きがダイナミックになり、片足で距離を跳ねる伸びやかな動きが素晴らしかった。

トップの上戸彩似の美人が苦しそうに(つまり真剣に)踊っていて、よかった。おばさんたちの丸みを帯びた踊りや、長身、短身男の豪快な踊りも。共同体の息吹。どこそこの誰それさんがうまい、とか言う規模の集団だった。

ワークショップなんかでやると、人間回復に効果がありそうな踊りだと思う。自分も踊ってみたいが、別物になるだろうし、そもそも阿波踊りを全国でやるのをいいと思っていないので、言行不一致になるし。どうぜ踊るなら阿波踊りよりも、はねこ踊りを踊ればいいと思ったりした。(10/21)

 

★[バレエ]  Kバレエカンパニー『カルメン

Kバレエカンパニーが創立15周年記念公演第3弾として、ビゼー音楽の『カルメン』全二幕を新制作した。演出・振付は芸術監督の熊川哲也、舞台美術はオペラで活躍するダニエル・オストリング、衣裳は同じくマーラ・ブルーメンフェルド、照明は足立恒、編曲はK‐BALLET音楽のスタッフによる。オストリング美術の二棟の建物はいかにもオペラ風。抽象的だが乾いた土と木の質感で、メリメ原作の凄惨な愛の物語の器となった。

登場人物やストーリー展開はオペラに準拠する。唯一異なる点は、ホセがカルメンを短刀ではなく、ピストルで殺すこと。その即物的でドライな感触は、熊川のストイシズム、またはシャイネスに由来すると思われる。終幕、カルメンの亡骸を抱いて歩み去るホセの姿は、マクミランの『マノン』を想起させるが、そのままドラマティックに終わるのではなく、エスカミーリョの元気なメロディで幕を閉じるのも熊川らしい反転だった。ロマンティックな「花の歌」の代わりに、リリカルな「間奏曲」をホセの愛のテーマにした点にも、同じ嗜好を感じさせる。

振付は音楽的で高難度。縄で結ばれたホセとカルメンのパ・ド・ドゥや個々の性格を反映したソロに加え、りりしく揃った衛兵群舞、コミカルなジプシー群舞など、踊りの見せ場が多い。カルメンが踊る机の上に、次々と男達が跳び乗る振付は、熊川の面目躍如である。

4人のホセと5人のカルメンのうち、ベテラン神戸里奈と主役デビューの福田昴平を見た。神戸は音楽性豊かで、リリカルなタイプの踊り手だが、今回は全編を通して感情を出し切る渾身の演技を見せた。動きの質の高さ、絶妙の音取りに風格すら漂わせる。一方の福田は、若手とは思えないダークな男臭さを身に纏う。初主役で実力を十全に発揮できるのも、バレエ団の場数の多さ、厳しい指導ゆえだろう。

カエラ荒蒔礼子の涼やかさ、エスカミーリョ杉野慧の華やかさ、モラレス石橋奨也のグロテスクな役作り、そして何よりスニガを演じたスチュアート・キャシディの品格ある演技が素晴らしかった。立ち姿のみで役を表現できる。主役、脇役、アンサンブルまで、技術の高さと音楽性で統一された舞台。井田勝大指揮、シアターオーケストラトーキョーが若々しい音作りで併走している。(10月11日夜 オーチャードホール) *『音楽舞踊新聞』用に書いたが、掲載される気配がないので、遅ればせながらこちらにアップした。(2015.2/14)

 

★[ダンス]  テアトル・ド・バレエ・カンパニー「ダンス・ボザール」

塚本洋子主宰テアトル・ド・バレエ・カンパニーが、秋の定期公演として「ダンス・ボザール」を上演した。座付き振付家、井口裕之の作品を一挙に3作発表する、意欲的なプログラムである。

幕開けは、名古屋市至学館高等学校ダンス部に振り付けた『グラスホッパー』。同部は内外のダンス・ドリル選手権やダンスコンペティションで一位を獲得する強豪である。井口の振付は、ヒップホップを得意とする高校生達に重心の低いモダンダンスのフォルムを与え、内面性を加味するなど、新たな展開を図るものだった。続く特別上演「18thバレエコンペティション21」コンテンポラリー部門ジュニアとシニア一位受賞者、小澤早嬉と千田沙也加のモダンダンス・ソロと共に、カンパニーのダンサー達に新鮮な刺激を与えたことだろう。

前半の終わりはアルヴォ・ペルトの音楽を使用した『エメラルド』。井口自身と、前回のコンペティション受賞者、服部絵里香と伊東佳那子、カンパニー若手の畑戸利江子と永田瑞穂が、スタイリッシュなコンテンポラリー作品に挑戦した。井口の幅広い蓄積が後進に伝わるよう意図された、骨格の大きい作品である。井口と服部による推手のようなコンタクトやアクロバティックなリフト、伊東のしっとりしたソロ、畑戸と永田の鏡像デュオが印象深い。中でも服部は、井口振付を良く理解した鮮やかな動きで目を惹いた。

後半はモーツァルトの様々な楽曲を用いた喜劇的力作『ビッグベアー』。終盤は悲劇に転じるところが、モーツァルトの音楽世界と共通する。冒頭、井口がクマの着ぐるみで登場。「ガオー」と吠えると観客の子供達がゲハゲハ笑う。クマは、先の『エメラルド』で井口が転んだハプニングを繰り返して、自らを慰める。演出にはキリアンやフォーサイスといった先行者の影響が見られるが、井口はそれを完全に消化し、独自のクリエイティヴな作品を創り上げている。優れた音楽性が選曲・振付の細部に至るまで発揮され、ダンサーとの濃密な呼応が窺えるからである。

舞台のバックには白い布、右下に赤いペンキで何か描き殴られている。女性8人は古風な黒ビロードのワンピースにシニョン髪の女学生風。8つの主題に沿った振付は、クラシックのラインを生かしてはいるが、盆踊りや日常の動き(塩を撒く等)から踊りが派生するなど、コンテンポラリーの手法に基づいている。演出はペーソスを交えながらもコミカルが基本。ただし終幕、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が流れると、クマは赤い落書きの所に行き、女学生達はワンピースを前に掲げて登場。それを下に置くと、肌色のレオタードが血まみれになっている。バックに日本列島が浮かび上がり、福島が赤く染まる。赤いペンキは原発事故、「私たち」も傷を負っていたのだ。須藤有美のコミカルな芝居、ピアノ・コンチェルトで踊られる植杉有稀と浅井恵梨佳の美しいデュオ、同じくクマ(井口)の哀愁に満ちたソロが素晴らしい。

井口はモダンダンスから内的表現を、コンテンポラリーダンスから動きの生成を、バレエから繊細な音楽解釈を獲得してきた。それらが渾然一体となった『ビッグベアー』に、振付家としての成熟が垣間見える。(10月18日 愛知県芸術劇場小ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2939(H26.12.1号)初出(12/3)

  

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『眠れる森の美女』新制作

新国立劇場バレエ団の新シーズンが、新制作『眠れる森の美女』で開幕した。プロローグ付き全3幕、休憩を含めて3時間半のオーソドックスな版である。長年英国で活躍した大原永子新芸術監督は、新版を、英国ロイヤル・バレエの元プリンシパルで、オランダ国立バレエとENBの芸術監督を務めたウエイン・イーグリングに依頼した。

イーグリング版は英国系の流れを汲み、マイムを保存。リラとカラボスのせめぎ合いや、三幕キャラクテールの芝居の巧さが光る。新振付の一幕ワルツ、二幕王子のソロ(サラバンド使用)、三幕宝石のソロは品格があり、好ましく思われた。一方、プロローグの気品の精(二幕ガヴォット使用)の導入は、賛否を分けるかも知れない。ペロー原作(仙女8人)の反映、あるいはリラ中心のシンメトリー構図を意図したのだろうか。

また目覚めのパ・ド・ドゥ(間奏曲使用)は、アシュトンの気品よりもマクミランの情熱を思わせる振付だった。青白い闇の中、オーロラは寝間着を身に付け、最後はデジレと回りながら口づけをする。明らかにオーロラの性格から逸脱したイーグリングの強烈な一刷毛である。

トゥール・ヴァン・シャイクの青を基調とした衣裳は美的。ただし森の精の鮮やかな緑は、幻想的とは言えない。共に空間を作った川口直次の装置は豪華だが、天井があるせいか、空間の拡がりを感じられなかったのが残念。照明は新国立常連の沢田祐二が担当した。

バレエ団はビントレーの創作物から古典作品へ移行する過渡期にある。カラボスの本島美和、伯爵夫人の湯川麻美子、国王の貝川鐵夫、カタラビュートの輪島拓也の演技が、最も強い印象を与えたのは象徴的だった。

主役は4組。オーロラ姫は出演順に、米沢唯、小野絢子、長田佳世、瀬島五月(貞松・浜田バレエ団)。デジレ王子はそれぞれワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤル・バレエ)、福岡雄大、菅野英男、奥村康祐である。

初日の米沢は古典作品とは思えないほど、動きの生成感が強かった。振付・様式を一度咀嚼してから表に出している。様式は散文を詩に昇華する強烈な武器。今後も米沢の探究に期待したい。対する小野は、規範に対する意識が最も高いダンサー。ロイヤル系のアクセントを細かく刻んで、理想的なオーロラ姫を出現させた。「目覚め」の解釈も唯一、姫役からの逸脱を許していない。

長田は「目覚め」のみずみずしい音楽性、三幕ヴァリエーションの繊細さに本領があった。ただし、他の三大バレエで見せたロシア派の醍醐味を発揮するには至らず。本調子とは言えなかった。バレエ団側が初役揃いなら、ゲストの瀬島はオーロラを得意とする熟練者だった。ロイヤル系のコンパクトな動きで、主役の勤めを十分に果たしている。

ムンタギロフの優美、福岡のエレガントな凛々しさ、菅野は少し重かったが、精神性の大きいパートナー、奥村は森の場面のロマンティックな佇まいに優れる。「目覚め」のリスキーなサポートは福岡が成功させた。

カラボスの本島は、役に全人生を注ぎ込める境地にある。華やかさに内実を伴う得難い踊り手である。リラの精の寺田亜沙子はヴァリエーションの押し出しはまだ弱いが、演技に大きさがあった。

ソリストでは、ベテランの大和雅美がアメジスト、江本拓が猫、八幡顕光がトムで技倆を見せた他、新人の柴山紗帆が気品の精、井澤駿が青い鳥、加藤大和が猫で、持ち味を発揮した。また小口邦明の狼、小野寺雄のトム、池田武志のゴールドも印象深い。

男女アンサンブルは生き生きとした踊り。初日のばらついた舞台も、中日の驚くべきハプニングを経て、最終日には求心力のある作品へと成長を遂げた。指揮はENB音楽監督のギャヴィン・サザーランド、演奏は東京フィル。(11月8、13、15、16日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2940(H26.12.15号)初出(12/16)

 

★[ダンス]  フォーサイス@L.A.DANCE PROJECT

彩の国さいたま芸術劇場が開館20周年を記念して、 L.A.DANCE PROJECT の公演を行なった(11月9日 同劇場大ホール)。今季よりパリ・オペラ座バレエ団芸術監督になったバンジャマン・ミルピエが主宰するカンパニーである。ミルピエの『リフレクションズ』(13年)、エマニュエル・ガットの『モーガンズ・ラスト・チャグ』(13年)、ウィリアム・フォーサイスの『クインテット』(93年)の三本立て。前二作はカンパニーが初演、『クインテット』は導入時に振付家が改訂している。

ミルピエの、エネルギーが前面に出ない静かなコンタクト作品、ガットのパトスを秘めた妙な味わいの作品、そしてフォーサイスの人間味あふれる自然な作品という組み合わせ。やはりフォーサイスは圧倒的だった。「フォーサイスはハード・バランシン」というギエムの言葉は、ポアントでフォーサイスを踊っての実感だと思うが、『クインテット』でもバランシンを思い出した。体自身が面白いと思う動きをやっている点で。ダンス・クラシックをベースに、こうやったら面白い、こう動くと異次元になる、というプロセスが、無意識に行われているように見える。

ブライヤーズの『Jesus Blood never failed me yet』が流れるなか、ダンサーたちが自分の身体を生かした有機的な動きを繰り広げる。見ているうちに、人肌の暖かさ、胸が締め付けられるような悲しみ、薄っすらとした希望が、じんわりと胸に溜まってくる。06年に同じ舞台で上演された『You made me a monster』を思い出した。客席は使用せず、観客は一列に並んで、舞台に上がる。フォーサイス自身も舞台に乗り、観客が紙細工を作るのを手伝う。妻がなくなった後、数年たって、遺品の中にあった人体模型を組み立て始めたフォーサイスは、ついにそれが何かの形になるのを知る。「それは、深い悲しみという模型だった」。つまり紙細工はフォーサイスの悲しみであり、作品自体が観客と共に行なう喪の儀式だったのだ。

ダンス・クラシックの自然な解体=延長はバランシン、実存の深さはマッツ・エックや、何故かトリシャ・ブラウンを連想させる。今のフォーサイスは分からないが、バランシンと同じく、時代を画する天才だったと思う。

ダンサーは、ガット作品に出演したチャーリー・ホッジスが抜きん出ていた。田村一行のような体つき。舞踏でも踊れそうだ。動きの全てに解釈を入れた上で、自分の匂いを付けている。魅力があった。(11/12)

 

★[ダンス]  野村真弓@現代舞踊新進芸術家育成project4「踊る」

現代舞踊協会主催、文化庁海外研修員による公演「踊る」を見た(11月14日 KAAT大スタジオ)。出演は清水フミヒト(H20年度アメリカ研修)、野村真弓(H19年度フランス研修)、米沢麻佑子(H18年度アメリカ研修)、二見一幸(H5年度フランス研修)。税金がどのように使われたかを知るうえで、意義深い公演だと思う(バレエ関係では、こういう企画はない)。

4人とも個性を発揮した作品作りだったが、唯一野村が違っていたのは、観客を身内と想定していない点。舞踊公演は大手を除いて、身内(親、友人、知人、関係者)が観客であることが多い。今回も例外ではなかったが、野村は一般の観客に向けて作品を作っていた。H・アール・カオスにいたことが理由の一つかもしれない。あるいは研修の成果か。

題は『Qualia』。本人と沼田志歩、長内裕美、菅原さちゑが踊る。途中、音楽に乗りすぎていると感じる部分もあったが、一つ一つの振りを一から考えている。しかも振付・フォーメイションに作為を感じさせなかった。それだけ考え抜かれ、練り上げられている。最後は現舞風フェイドアウトで終わった。ただし思い入れはなく、舞踏風に踊りながら。ダンサーたちは動きを全て自分のものにし、相互に有機的な関係を築いている。高いレヴェルで揃っていた。一人菅原が狂ったように踊っていて、じっと見てしまったが。どういう経歴だろうか。(11/15)

 

★[バレエ]  ボリショイ・バレエ

ボリショイ・バレエが2年ぶりに来日、グリゴローヴィチ版『白鳥の湖』と『ラ・バヤデール』、ファジェーチェフ版『ドン・キホーテ』を上演した。どれも19世紀のプティパ作品だが、前2作はマイムから舞踊へのモダン化を特徴とし、後者はボリショイの演劇性を生かす伝統的な改訂と、個性を分けている。アドリブかと思わせる自在な喜劇芝居にボリショイ本来の気風が感じられるが、心理重視、重厚な振付様式、美的フォーメイションを誇るグリゴローヴィチ作品も、一時代を築いた伝統として新たに生きられている。

特に興味深かったのがザハーロワのオデット=オディール。マリインスキー時代の、長い手脚を駆使した鮮やかなラインときらきら輝く演技が、張りのあるラインとアクセントの強い演技に取って代わっている。またモスクワ音楽劇場バレエ時代、絵に描いたようなダンスール・ノーブルだったセミョーン・チュージンが、ヴェトロフ薫陶の成果か、大きさ、ダイナミズムを旨とするボリショイ・ダンサーに変貌を遂げていた。「ボリショイの真のアーティストは、グリゴローヴィチ作品を2つ以上、踊っていなければならない」というアレクサンドロワの言葉(記者会見)の重みを思わされた。

今回注目の若手だったオリガ・スミルノワが故障降板のため、プリンシパルのエカテリーナ・クリサノワで3作品を見ることになった。クリサノワは生え抜きにも拘わらず、意外にもボリショイ風とは言えなかった。美しいラインを誇るマリインスキー移籍組とも、大劇場を掌握する剛胆なモスクワ姐御風とも、定型に身を委ね、場数によって成長していく抒情派とも異なる。やや小柄な体の一挙手一投足に、役への思考の痕跡を垣間見せ、なおかつ気品と真情にあふれる踊りである。繊細な腕使いも現在のボリショイでは異質。マイヨーの『じゃじゃ馬馴らし』初演組とのことだが、西欧の物語バレエで活きるタイプかも知れない。

他に女性では、『白鳥』トロワのクリスティーナ・クレトワ、ガムザッティのアンナ・チホミロワ、『ドン・キホーテ』のキャラクター・ソリスト勢が印象深い。男性では、ロットバルトのアルテミー・ベリャコフ、そしてバジル役ミハイル・ロブーヒンの明るい包容力と美しい脚が素晴らしかった。 若いコール・ド・バレエが後脚を跳ね上げる山下りは、ボリショイでしか味わえない爽快さ。厚みのある劇場管弦楽団の演奏(ハープ!)と共に、バレエ団の個性を十分に主張した来日公演だった。(11月20、26日 オーチャードホール 12月4、6日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2942(H27.2.1号)初出(2015.2/3)

 

★[美術][ダンス]  フェルディナント・ホドラー

標記展覧会を見た(11月21日 国立西洋美術館)。高校時代に大原美術館で『木を伐る人』を見て以来、好きな画家だった。画業を辿るのは初めて。ふんふんと見ていくと、『オイリュトミー』の題字が。ルドルフ・シュタイナーと関係があるのかと思いながら、次の部屋に行くと、エミール・ジャック=ダルクローズの「リトミック」の写真や彼のホドラー評が、参考資料として展示されていた。ホドラーの『昼』が、ジャック=ダルクローズの音楽と身体表現に影響を与えた可能性があるらしい。シュタイナーもジャック=ダルクローズもホドラーと同世代。同じ気運のなかで、生きてきたのだろうか。

画家ではやはりムンクに似ているなあと思う(同世代)。あとゴッホとか。途中で椅子に置いてある図録を見ていたら、『傷ついた若者』の参考図として、『ウィーン分離派展ポスター』が載っていたので驚いた。学生時代、机の前にずっと飾っていたお気に入りだったから。SECESSIONという文字の下に雲が描いてあって、一番下に傷ついた裸の若者が横たわる水色の絵葉書。一気に当時の気分を思い出した。

見ている時は、ふんふんだったが、見終わって体がほぐれているのに気が付いた。いいダンスを見た時と同じような感じ。一人のアーティストの個性に触れたから? 肉体を描いているから? 温泉効果とまでは行かないが、垢が取れたすっきりした気持ちになった。複数の画家を取り上げる美術館展では、なかなかこうはならない。(11/22)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

新国立劇場バレエ団が一年置き恒例の年末風物詩、アシュトン版『シンデレラ』(48年)を上演した。アシュトンのプティパ・オマージュ、古典作品の再解釈であり、物語性と儀式性が絶妙に絡み合う傑作である。前回は監修者ウェンディ・エリス・サムスの来日指導で、細やかなドラマの流れが再確認されたが、今回は、指揮者マーティン・イェーツの妥協を許さない音楽作りが舞台を主導した。

主役は4組(7回公演)。初日の小野絢子と福岡雄大は名実共に看板コンビとなった。小野は容姿、技術、音楽性の全てを生かし、アシュトン振付の機微を美しく視覚化する。福岡はアダージョも万全、ゆったりと華やかな王子だった。パートナーシップも光り輝いている。

二日目は米沢唯と菅野英男。米沢の全身全霊を捧げた踊りを、菅野が暖かく見守る精神性の高い組み合わせである。アモローソでは観客と地続きの静かな幸福感が劇場を包んだ。菅野はノーブルな姿を取り戻している。

三日目は長田佳世と奥村康祐(最終日所見)。長田は、誠実さが最後に報われることを身体化できるシンデレラ・ダンサー。音楽を生きる自然な踊り、鮮やかな足技、特に花開くようなデヴェロッペが素晴らしい。奥村は意外にも、他日配役のペーソスあふれる道化に精彩があった。

四日目の寺田亜沙子と井澤駿は共に初役。寺田は伸びやかなラインと芝居を楽しむ能力で、きらきらと輝くシンデレラを造型。新人の井澤は登場するだけで王子のオーラを発散する逸材だった。踊り、演技、サポートもクールにこなしている。

もう一方の主役、義理の姉たちは、組み合わせに違いはあるが前回同様、山本隆之と野崎哲也、古川和則と高橋一輝。華やか組と、ほのぼの面白組、それぞれ客席から笑いを勝ち取っている。

仙女の本島美和は圧倒的な存在感、堀口純は輝かしさ、細田千晶は少し線は細いが美しい踊りで、道化の八幡顕光は切れのよい踊り、福田圭吾は素直な献身性、奥村は観客とのコミュニケーション能力で舞台に貢献した。またウェリントン・貝川鐵夫の貫禄、ダンス教師・加藤大和の芝居っ気、床屋・宇賀大将の奇矯さが印象深い。

四季の精は、再演の夏の堀口、秋の奥田花純が個性を発揮したが、春の新人、柴山紗帆の音楽性、絶対的なフォルムには驚かされた。四季のいずれも踊れる気がする。

顔ぶれが変わった王子の友人、星の精、マズルカ・アンサンブルが安定した踊りで、作品の定着を示している。東京フィルはイェーツの真摯な姿勢に引っ張られて、緊張感あふれる演奏だった。(12月14、18、20、21、23日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2943(H27.2.15号)初出

 

*イェーツは楽譜を片時も離さず、舞台もほとんど見ていないようだったので、謹厳なタイプかと思ったのだが、実は『シンデレラ』は初めてだったらしい。ロイヤルで振っているのに、そんなことがあるのだろうか。(2015.2/14)

 

★[バレエ]  「2014年12月の公演から」

●牧阿佐美バレヱ団

三谷恭三版『くるみ割り人形』。音楽と呼応したウォーカー美術とピヤント照明による繊細な場面転換が素晴らしい。主役の青山季可は本調子とは言えなかったが、全身で微笑むような佇まい。清瀧千晴は、鮮やかな跳躍そのままに王子らしさを身に付け始めた。アラブの久保茉莉恵や細野生の甥を始め、男女共に子役から、ソリスト、アンサンブルまで見応えのある舞台だった。ガーフォース指揮、東京ニューシティ管弦楽団。(12月13日昼 ゆうぽうとホール)

 

東京文化会館主催「日本舞踊×オーケストラ」

オーケストラ演奏で日本舞踊を踊る企画第二弾。目玉は、吉田都が34人の男性舞踊家を従えて踊る『ボレロ』(振付・シルヴェストリン)だったが、バレエとの関わりで面白かったのは、前回『ペトルーシュカ』を振り付けた五條珠實の『ライラック・ガーデン』(ショーソン『詩曲』使用)。チューダー同名作を鹿鳴館時代に置き換えている。装置はなく(なぜか本作のみ)、4人の男女のドラマがコロスのような女性6人を背景に展開される。フォーメイションは洋舞形式。新派風のメロドラマだがウィットがあり、前作同様、日舞の動きを相対化する振付家の視線を窺わせた。園田隆一郎指揮、東京フィル。(12年13日夜 東京文化会館

 

●バレエシャンブルウエス

今村博明・川口ゆり子版『くるみ割り人形』。オークネフの豪華な美術を背景に、統一されたスタイルと確かな技術を持つダンサー達を間近に見ることが出来る。主役の松村里沙は、もう少し役作りを試みたいが、行き届いた踊り。正木亮はノーブルで献身的なパートナーだった。雪の女王・藤吉千草、花のワルツ・田中麻衣子、ハレーキン・吉本泰久、葦笛の川口まりと土方一生が、バレエ団のダイナミックで美しいスタイルを体現している。江藤勝己指揮、東京ニューシティ管弦楽団。(12月19日 八王子市芸術文化会館いちょうホール)

 

東京バレエ団

同団芸術スタッフ版『くるみ割り人形』。ワイノーネン版を基にした従来の版にプロジェクション・マッピングを掛けて、新しく蘇らせた。アクロバティックな要素を和風に変えた振付が、ほのぼのと懐かしい。主役の沖香菜子は伸びやかなラインと、開放的な芸風を持つ逸材。梅澤紘貴はノーブルなラインと、パ・ド・ドゥを作れる才能の持ち主。マラーホフの指導を受けて、晴れやかなアダージョを披露した。オブジャニコフ指揮、シアターオーケストラトーキョー。(12月20日 東京文化会館

 

●バレエ団ピッコロ

松崎すみ子版『シンデレラ』全二幕。松崎版の長所は、子供達が今現在を肯定されて、生き生きと踊る点、各国巡りと、王子と道化の道中(互いに疲れては、励まされる)の面白さにある。主役の下村由理恵は叙情性があり、適役のはずだが、残念ながら美質を発揮することはなかった。佐々木大も道化との対話に物足りなさを残す。やや重くなった空気を体を張って払拭したのが、道化の小出顕太郎。彼がいなかったら作品の良さも伝わらなかった。佐野朋太郎を始めとするアクリ門下が、イタリア派の明晰な踊りを披露し、演技でも貢献した。(12月25日 東京芸術劇場プレイハウス)

 

小林紀子バレエ・シアター

小林紀子版『くるみ割り人形』。雪と花のワルツにワイノーネン振付が残されている。振付の独自性よりも、コンパクトで品のあるスタイルが強調された版である。主役の高橋怜子は、これまで美しいお人形のような踊りだったが、あっけらかんとした中にも、何か人間味を感じさせるようになった。美しいアラベスク、繊細な腕使いはこれまで通り。ゲストはアントニーノ・ステラ(ミラノ・スカラ座)。後藤和雄のドロッセルマイヤー、冨川直樹のアラビアが、濃厚な色気を醸し出している。井田勝大指揮、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。(12月26日 メルパルクホール

 

キエフ・バレエ

マリインスキーともボリショイとも異なる、古風なロシア・スタイルを保持する。フォーキンの二作品を上演した。『レ・シルフィード』の精妙な腕使いと足音のしない繊細な足捌き、『シェヘラザード』のマイムの説得力、振付の音楽性、群舞のエネルギー、そしてゾベイダのフィリピエワと、金の奴隷プトロフの、役を生きる演技と踊りが素晴らしかった。それぞれがフォーキンの息吹を伝える演出である。ミコラ・ジャジューラ指揮、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団。(12月28日 オーチャードホール) *『音楽舞踊新聞』No.2942(H27.2.1号)初出(2015.12/13)

 

★[バレエ]  2014バレエ総評

2014年バレエ公演を振り返る(含13年12月)。今年最大の出来事は、デヴィッド・ビントレーが、新国立劇場バレエ団芸術監督の4年にわたる任期を終えたことである。ビントレーの功績は、優れたオリジナル作品『パゴダの王子』を創作したこと、批評的なトリプル・ビルを組んで、観客層の拡大を目指したこと、団員の可能性を伸ばす配役により、結果的にバレエ団を有機的な集団に変えたこと、団員創作の場を作ったことにある。文化行政の異なる地で、芸術監督の文化的、社会的な理想形を身をもって示した。

シーズン終盤に上演された『ファスター』、『カルミナ・ブラーナ』、『パゴダの王子』は、ビントレーの音楽性、文学性、ユーモア、誠実さの証しである。オリジナルの『パゴダ』、『アラジン』は当然だが、『カルミナ』、『ペンギン・カフェ』も再演を期待したい。新芸術監督の大原永子は、古典の頂点『眠れる森の美女』新制作でシーズンを開幕した。W・イーグリングによる英国伝統版の導入は、「英国スタイル」と「古典」というバレエ団の未来を予告している。

民間バレエ団では、各座付き振付家が個性を競った。シンフォニック・バレエとマイムが共存する関直人の『眠りの森の美女』(井上バレエ団)、独自の舞踊言語が祝祭性を喚起する清水哲太郎の『シンデレラ』(松山バレエ団)、身内から生み出されたパ・ド・ドゥを核とする中島伸欣の『ロミオとジュリエット』(東京シティ・バレエ団、部分振付・石井清子)、ラディカルな音楽性を誇る鈴木稔の『白鳥の湖』&『くるみ割り人形』短縮版(スターダンサーズ・バレエ団)、音楽的でイメージ造型が明確な熊川哲也の『ラ・バヤデール』と『カルメン』新制作(Kバレエカンパニー)である。

また谷桃子勢として、オッフェンバックの精髄を鷲掴みにし、ダンサーに注ぎ込んだ伊藤範子の『ホフマンの恋』(世田谷クラシックバレエ連盟)、エネルギッシュで機嫌の良い音楽性を持つ岩上純のシンフォニック・バレエ(日本バレエ協会、世田谷)が成果を上げた。メッセレル作品、高部尚子作品と併せて、団の柱として欲しい。

コンテンポラリー・ダンスでは、金森穣が新作『カルメン』で演出を集大成し、感情の迸る優れたソロ、デュオを創り上げた(Noism1×2)。またベテラン間宮則夫の傑作『ダンスパステル』(早川惠美子・博子バレエスタジオ)、島崎徹のオーガニックな『ALBUM』(日本バレエ協会)が印象深い。新国立劇場出身のキミホ・ハルバート(日本バレエ協会)、井口裕之(テアトル・ド・バレエ・カンパニー)、貝川鐵夫、福田圭吾(共に新国立劇場)も若手振付家としての手腕を発揮した。

海外振付家ではプロコフスキー(日本バレエ協会)、ノイマイヤー(東京バレエ団)、ラトマンスキー(ABT)の全幕上演ほか、チューダー(NBAバレエ団)、マクミラン小林紀子バレエ・シアター)、ピンク(NBA)の英国勢、バランシン(新国立劇場)、ショルツ(東京シティ)のシンフォニック・バレエ、ラング(新国立劇場)、ゲッケとユーリ・ン(スタジオアーキタンツ)、フォーサイス埼玉県芸術文化振興財団)のコンテンポラリー作品と、充実していた。

ダンサーでは、女性から上演順に一人一役で、酒井はなのアンナ・カレーニナ、志賀育恵のオデット、沖香菜子のジュリエット、長田佳世のオデット=オディール、林ゆりえの王女、湯川麻美子、米沢唯のフォルトゥナ、熊野文香の時の女王、青山季可のキトリ、井関佐和子のカルメン、長崎真湖(ティペット)、門沙也香(モンテロ)、島添亮子、喜入依里(マクミラン)、田澤祥子のルーシー、小野絢子のオーロラ、本島美和のカラボス。番外は片桐はいり(小野寺修二)。

男性では、梅澤紘貴の勘平、奥村康祐のジークフリート、浅田良和の黒の勇者、藤野暢央のカラボス、岩上純のマルセリーヌ、池本祥真のソロル、山本隆之のオーベロン、福岡雄大の神学生3、菅野英男のパゴダの王子、大森康正(チューダー)、法村圭緒の詩人、大貫勇輔のドラキュラ、風間無限の漁夫の魂。海外ではフランソンのグエン、ムンタギロフのデジレに規範があった。 *『音楽舞踊新聞』No2941(H27.1.1/15号)初出(12/29)