2016年公演評

★[バレエ] 日本バレエ協会関東支部神奈川ブロック『白鳥の湖

日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックが、第32回自主公演として『白鳥の湖』全四幕を上演した。演出は橋浦勇。同ブロックにはこれまで『シンデレラ』と『眠れる森の美女』を振り付けている。今回の『白鳥の湖』は、氏の舞踊美学の全てを注ぎ込んだ、言わば集大成。所縁のある貝谷八百子版、小牧バレエ団のスタイル、英国ロイヤルバレエ旧版の演出を随時取り入れた、自伝的演出とも言える。

演出の特徴としては、振付全般に見られる内的必然性、マイムの優美なスタイル、ダンサー出し入れの美的・合理的裏付けが挙げられるだろう。さらにベンノの存在の大きさ。王子が内面を吐露する一幕ソロには踊りで介在、二幕アダージョでは王子をサポート(ロイヤル版)、三幕では王子の誤認を正そうとする。学友の域を超えた親友のような結びつき。本来なら王子の死を見届ける役回りだろう。

他に、一幕の貴族と農民の区分けの明確さ、左右両回りを重視する身体のシンメトリー、白鳥フォーメイションのすっきりとした美しさなど、演出・振付上の美学が、全編に刻まれている。終幕はオデット、王子自死の後、ロットバルトが倒れ、白鳥たちが残される。ドゥミ・ポアントで歩み出て、向こう向きに座り、静かに羽ばたきを続ける白鳥たち。音楽も、ハープの余韻を残す静謐な終わり方だった。

主役の王子ジークフリートには、ベテランの域に入った清水健太。落ち着いた優雅な佇まい、舞台を掌握する懐の深さ、ノーブルでパトスに満ちた踊り、対話のようなパートナリングが揃った、円熟の王子だった。 オデットには若手の佐藤愛香、オディールには経験豊富な樋口ゆりという適役が配された。佐藤はラインの美しさはもちろん、振付の全てに細やかな感情が入る。清潔なオデットだった。一方、樋口は鮮やかな脚線を駆使して、濃厚で華やかなオディールを造型。コーダでは清水と横並びで、脚技満載の火花を散らす踊り合いを易々とやってのけた。

脇役も適材適所。橋本直樹の献身的で情熱あふれるベンノ、高岸直樹の高貴で大きさのあるロットバルト、尾本安代の貫禄の王妃、佐藤禎徳の賑やかなヴォルフガング、荒井英之の愛らしい道化等が、橋浦演出を支えている。 橋本とトロワを組んだブロックの綾野友美、山本晴美の優雅なスタイル、確かな技術が素晴らしい。白鳥群舞は一人一人が意志を持って運命を受け入れている。ソテ・アラベスクの入場は、明るい哀しみに包まれていた。

音楽アドバイザーは福田一雄、音楽構成は江藤勝己。指揮の御法川雄矢が、俊友会管弦楽団からドラマティックな音楽を引き出している。(1月10日 神奈川県民ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2/15)

 

★[バレエ] 谷桃子バレエ団『眠れる森の美女』

谷桃子バレエ団が恒例の新春公演を行なった。演目はバレエ団初の『眠れる森の美女』。演出・振付は昨年の『海賊』に引き続き、元キーロフ・バレエのプリンシパル、エルダー・アリエフ、監修は同じくイリーナ・コルパコワである。

アリエフ版『眠り』は『海賊』同様、隅々までアリエフの血が通っていた。まずはスタイルの徹底。『海賊』はソビエト色が濃厚だったが、『眠り』はプティパ時代の優美で調和のとれたスタイルに統一されている。芝居も大仰さを避け、自然体。マイムはセルゲーエフ版を基にしているため少な目だが、舞踊が突出することもなく、まるで水が流れるように物語が進行する。

主な改訂は、一幕の編み物シーンを間奏曲に変えた他、一幕ワルツ、二幕パ・ダクション、三幕「シンデレラとフォルチュネ王子」が新たに振り付けられた。ワルツは農民たちの楽しげな様子がよく伝わる牧歌的な味わい、パ・ダクションは幻影のオーロラ姫と王子が通常よりも接近し、しっとりと愛を歌い上げる。「シンデレラと王子」は、物語が明確に伝わるクラシック・パ・ド・ドゥの傑作。『海賊』同様、愛のパ・ド・ドゥに、アリエフの優れた振付手腕が発揮された。

主役キャストは3組。その初日を見た。オーロラ姫の永橋あゆみは、理想的な造型。踊りに透明感があり、優美で自然。調和、気品、慎ましさを体現する。二幕ソロでは、難度を上げたアンシェヌマンで、幻想的な燦めきを表現した。触れることのできないイデアの世界を、コントロールされた肉体で現出させる離れ業を成し遂げている。

デジレ王子の三木雄馬は、ワガノワ仕込みの端正な踊りを披露。パートナーとの対話がもう少し望まれるが、ノーブルなスタイルをよく意識した王子像だった。

リラの精の佐々木和葉は、元来ロマンティックな美しいラインの持ち主。徒に大きさを見せるのではなく、体から滲み出るそこはかとないムードで、世界を統合した。オーロラと共に、アリエフ(またはコルパコワ)の『眠り』解釈の非凡さを示す象徴的存在である。一方、カラボス役のゲスト舘形比呂一は、柄としては適役であり、よく健闘していたが、アリエフ演出のエッセンスを伝えるには至らなかった。

フロリナ姫の齊藤耀と青い鳥の牧村直紀、シンデレラの山口緋奈子と王子の酒井大がみずみずしい踊りで、5人の妖精、宝石の精、森の妖精たちが生き生きとした踊りで、バレエ団の実力と層の厚さを証明している。指揮は河合尚市、演奏は東京ニューシティ管弦楽団。(1月15日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2/15)

 

★[ダンス] 西岡樹里×濱田陽平@『無・音・花』横浜ダンスコレクション

「若手振付家の発掘と育成」、「コンテンポラリー・ダンスの普及」を目的とする横浜ダンスコレクションが21年目を迎えた。今回から、従来の振付家コンペティションと受賞者公演に加え、オープニングプログラム、3カ国のアジア・セレクション、さらに日本・フィンランド・ダブルビルが組まれ、アジアのダンスプラットフォームにふさわしい陣容が整えられた。オープニングプログラムの『無・音・花』は、コンペティションの過去の受賞者、チョン・ヨンドゥの振付。4人のダンサーも同じくコンペティション出場者から選ばれている。同コレクションの歴史と成果を示す作品と言える。

共同演出には現代美術家丸山純子。もぎり入口からフォワイエに至る長い通路の所々に、身の丈50㎝程の白い造花が咲いている。芥子のような風情。銀色の錘で、地面からいきなり直立する。舞台には楕円ドーナツ状の白い花畑、ライトの加減で宙に浮いているようにも見える。近づくと複数の花弁の中に、「こけし」の文字や、赤、緑の色。手提げポリ袋から作られたこの「無音花~Silent Flower」から、作品の標題は採られた。

構成は二部に分かれ、間にチョン自身のソロが入る。前半はパク・ジェロクの音楽(太鼓のドーンにピアノのミニマルな音)が示す通り、韓国伝統舞踊のニュアンスが濃厚。戸沢直子、中原百合香、西岡樹里、濱田陽平とチョンの5人が、静かに出入りし、ソロ、デュオ、トリオをゆるやかに踊る。韓国舞踊の内向きの動き、前後開脚ストレッチ、中腰片脚立ち、片手を床に付いた横臥フォール、スパイラル回転、などを組み合わせたシークエンスを繰り返す。膨らませた右腕を内側に振る、右手、右脚を外側に回転させ、体幹を左に引く、といった韓国舞踊のニュアンスが、アスレティックな動きに優雅な質感を与えている。

続いて無音でチョンの内省的ソロ。ざっくりとした動きにチョンの素朴さ、大きさが滲み出る。太極拳のような体の溜め、狂言風の中腰、中腰片脚立ちに実質がある。途中、瞑想を促すような音楽が流れると、白い花が蓮に変異した。

後半は西岡と濱田のデュオから。一本の花にピンスポットが当たり、密やかな空気を醸し出す。胡座をかいた濱田の上に西岡が座り、横抱きになる図。濱田が立ったまま西岡の上に乗り、そのまま西岡の胴に脚を巻き付かせてのけぞる男女逆転の図。跪いた濱田の首の後に西岡が座り、バランスを取って立ち上がる軽業風。再び座った西岡を首に乗せたまま、濱田が象のように立ち上がり、奥へと歩く図。水滴音と電子音が微かに響くなか、互いの呼吸を測る、親密な体の対話が連続した。 西岡のコンテンポラリー・ソロの後、4拍子のミニマルなピアノ曲で、チョンを除く4人が中腰でくねるように歩く。くるり反転や片脚立ちをはさみ、韓国舞踊を思わせる八の字回りや、後歩きを加えて、心地よいリズムを生み出す。濱田、戸沢、中原、西岡の順に袖に入り、フェイドアウト

丸山の白い花は、芥子のように瞑想へと誘い、蓮と化して浄土を思わせる。死を内包するリサイクル(再生)のシンプルな花は、アジアの伝統と繋がるふくよかな中腰に、深い呼吸を伴うチョンの振付と呼応して、静かなエネルギーを発散し続けた。

チョンの振付には踊り手を、さらには観客を解放する力がある。一瞬たりとも身体と乖離しない正攻法の清々しさ。そこに洗練を加えたのが、西岡と濱田だった。共に音楽性に優れるが、西岡は音楽を生き、濱田は音楽を表現する。西岡の宮廷の女官を思わせる優美な体、首と腕の雄弁さ、中腰の色気、濱田の動線の美しさ、腕のしなやかさ、デュオでの親密な体が、振付の可能性を拡大し、日韓共同の意義を深めている。

2016年1月23日、24日昼夜  横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール 美術・演出:丸山純子、振付・演出・出演:チョン・ヨンドゥ、音楽:パク・ジェロク、照明:丸山武彦、音響:牛川紀政、衣裳:田村香織、主催:公益財団法人横浜市芸術文化振興財団、助成:平成27年文化庁国際芸術交流支援事業、日韓文化交流基金  *『ダンスワーク』73(2016春号)初出(8/7)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『ラ・シルフィード

新国立劇場バレエ団が13年ぶりにブルノンヴィル版『ラ・シルフィード』を上演した。同版はデンマーク・ロイヤル・バレエ団の初演以来、多少の変遷はあるにしても、途切れることのないレパートリーで、19世紀ロマンティック・バレエの貴重な遺産となっている。ブルノンヴィル版の主たる魅力は、大胆で輝かしい男性舞踊、練り上げられたマイム、闊達な民族舞踊にある。腕を使わない跳躍や脚技は、リール共々、強い体幹と脚力をダンサーに要求、コンパクトに切り詰められた独特のマイムも、上演のハードルを上げる。

主役は4キャスト。ジェイムズは覇気あふれる福岡雄大、ロマンティックな奥村康祐、美しい井澤駿、と個性を発揮したが、最もブルノンヴィルのニュアンスを伝えたのは菅野英男だった。雄弁なマイム、晴れやかなソロ、勇壮なリール。何よりもM字形のグラン・プリエを見せたのは菅野一人である。絵に描いたようなジェイムズだった。

シルフィードは出演順に、妖しい誘惑者の米沢唯、清潔な妖精の細田千晶、無邪気な妖精の長田佳世、コケティッシュな妖精の小野絢子と、これも実力と個性を発揮。中でも長田は、パを微塵も感じさせない生きた動きで、妖精の繊細さ、はかなさを体現した。

脇役で唯一ブルノンヴィルのマイムを見せたのが、エフィの堀口純。感情もこもっている。またマッジの本島美和が、深い役作り、音楽的なマイム、舞台を掌握する力で、終生の当たり役を手に入れた。W配役の男性マッジ高橋一輝も、力強い演技で存在を主張。意外な所では、若手のフルフォード佳林が、慈愛あふれるアンナを造型した。

ソリストからアンサンブルまで、ダンサー達は初めてのメソッドを前によく健闘したが、現地指導者が入らなかったせいか、前回ほどには、ブルノンヴィルの息吹を感じさせるパフォーマンスとはならなかった。

同時上演は、ラフマニノフの音楽(編曲ギャヴィン・サザーランド)にウエイン・イーグリングが振り付けた『Men Y Men』(09年、ENB)。初演は『ジゼル』の同時上演作だったため、9人の男性ダンサーをアルブレヒトに見立てた振付が施されている。アラベスクを読点にソロを始めるシークエンスが面白い。15分と短く、前座のような作品だが、自らの作家性よりも、ダンスール・ノーブルの美学をダンサーに伝えたいという、振付家の熱い気持が先行する後味のよい作品だった。 指揮はギャヴィン・サザーランド、管弦楽は東京交響楽団。厚みのある音作りだが、もう少し叙情性が加われば、さらに舞台を牽引できたかも知れない。(2月6日昼夜、7日、11日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2965(H28.3.15号)初出(3/18)

 

★[ダンス] 横浜ダンスコレクション『グロウリング Growling

標記公演を見た(2月10日 象の鼻テラス)。横浜ダンスコレクションのアジア・セレクション[韓国]の枠組みで、日韓ダンス交流プロジェクトの5回目に当たる。上演時間1時間10分の前半は、ソウルダンスコレクション2014受賞振付家のキム・ジウクと、横浜ダンスコレクションEX2015選出振付家のタシロリエによる二つのソロ、休憩を挟んで後半は、二人によるデュオという構成だった。

面白かったのはキムのソロ。デュオはその面白さを確認するためにあった。冒頭、汚れたスーツ姿の男が、背中を見せている。こちらを向くと、シェーヴィングクリームで顔が覆われていた。スーツから物を取り出して床に置く。その間、カラスのカアーだか、牛のモーだかに宗教曲風の音楽が流れている。カミテ奥の床にはRELIGIONのブロック。キムは上着を脱いで、床の物ともどもブロックに向かって押し込み、REの文字のみを残した(その前に顔を拭っている)。最初はややグロテスクな体形と汚れた衣装に引き気味だったが、ソロ後半の電子音の踊りからグッと惹きつけられた。ただ跳ぶだけ、ロボット系のクキクキ動き、イグアナorオオトカゲ動き(デュオの方だったか)の一挙手一投足に、強烈な思考を感じる。ストリート系の動きで実存を感じさせるダンサーを初めて見た。デュオではタシロへのパトスの投げかけが嵩じて、呪術のような熱さが動きに加わる。終幕の、体で机を測る動きは、研ぎ澄まされた知性とパトスのあり得ない融合だった。やはり韓国人と日本人の違いを考えてしまう。途中、山崎広太の踊り狂いを思い出しはしたが。

TPAMとの共通プログラムだったので、西洋人関係者が客席前列に陣取っていた。キムのソロが中盤にかかると、その中の女性一人が、体を震わせ始めた。隣の女性が背中をさすっている。以前、青山円形で、黒田育世の自分の脚を蹴るソロを見ていた時、韓国人の女性ダンサーが泣きじゃくっていたのを思い出した。先の女性は、次のソロになるとケロッとして、デュオの時分にはいなくなっていたが。(2/10)

 

★[ダンス] アイザック・イマニュエル『風景担体~LANDSCAPE CARRIER』@TPAM

標記公演を見た(2月13日夜 横浜・BankART Studio NYK 1F kawamata hall)。前回はSTスポットの狭い空間で、至近距離から動きを見ることができたが、今回は、簀子を壁面、天井にぎっしり敷き詰め、荷重(坪)20tと赤書きされた巨大な2本の柱が突っ立った空間である。消臭されているとは言え、物質が体全体に迫ってくる。柱の間から(中央部カミテ寄り席)、映像と、四角く切られた土間での動きを見る。

作品は4部から成る(部ではなく跡、trace と表示)。イマニュエルが過去に作った作品を構成したもので、映像の「遺棄された衣服を着る男」、「背負った鏡で風景を見せる男」、「長靴を背負う女」(福島麻梨奈と共作)、「荷物を背負って歩く男」を、それぞれ生身のイマニュエル、生実慧、福島麻梨奈、安藤朋子がソロで引き継ぐ形式だった。中央土間のソロと同時に、脇でも別の人がうっすらと動く(見えなかったりする)。ほとんどが向こう向きか横向きのうつむいた動き。安藤のみが正面の印象を与える。さらに言えば演技をしている。

跡4では、荷物を運び、自ら荷物となって横たわる安藤に、他の3人が簀子を背負って加わり、荷物の上に倒れ込む。さらに簀子を横長に立てて、こちらへと乗り越え、向き直って、安藤もろとも奥へと荷物を押しやる。最後は4人が向こう向きの幽霊立ちで、フェイドアウトした。

動きで印象に残るのが、跡1のイマニュエルのブリッジと、動きの寸止め。白井剛を思い出す。さらに終幕の簀子越え。最近「ダンスがみたい!新人シリーズ」で、ベテラン貞森裕児の素晴らしい梯子逆さ下りを見たばかりだが、それに匹敵する逆さ体だった。

シークエンスとしては、元倉庫の空間と呼応する簀子の終幕が圧倒的に生きていた。1時間物も作れそうだ。演出に寸分の狂いもなく、美意識に溺れることもなく、ストイックに身体追求する真面目な作品だったが、空間が凄すぎた。どうしてもミニマルな感じが残る。映像は跡4がミステリアスで面白かった。

もう一つ違和感があったのが、福島以外は土足だったこと。コンクリートの土間だから? 運ぶ人だから? ここに西洋人だから?を持ってくるのはおかしいだろうか。土足の舞踏の体。隔靴掻痒の感があるが、何か別の局面に至るのだろうか。(2/23)

 

★[バレエ][ダンス] 新国立劇場バレエ団「DANCE to the Future 2016

新国立劇場バレエ団が恒例の団員創作公演「DANCE to the Future」を開催した。今回は、団のオリジナル作品『暗やみから解き放たれて』(J・ラング振付、14年)を組み合わせた3部構成。舞台を小劇場から中劇場に移している。アドヴァイザーは前回同様、平山素子。企画発案者だったビントレー前芸術監督の暖かい孵卵器のような雰囲気は払拭され、作品を作り切る、自分を出し切ることへの厳しさが公演全体に漂っている。劇場の大きさもさることながら、平山のフリーランスとしての経験がそうさせたのだろう。

全7作が並んだが、クリエイティヴィティの点では、貝川鐵夫のソロ作品『カンパネラ』がずば抜けている。キリアン、ドゥアトの文脈下にあるが、貝川にしかできない有機的な音楽解釈、それを動きに変換する際の「無意識」の大きな関与が独自性を強めている。初めて聴くようなリスト、初めて見るような動き。初日を踊った宇賀大将の清々しい男らしさ、二日目、貝川自身の全てを出し尽くした踊りが素晴らしかった。

振付の点で個性を発揮したのは、福田圭吾の『beyond the limits of…』と、小口邦明の『Fun to Dance~日常から飛び出すダンサー達~』。福田の音楽性豊かなハードでスタイリッシュな振付語彙、小口のバーレッスンに始まる小気味よいリズム感覚。前者では寺田亜沙子の美しい肢体、後者では小野寺雄の鮮烈な踊りが印象深い。8人と6人のダンサーそれぞれの個性を生かし、尚かつエンターテイメント性にも優れた二作品だった。

一部、二部の幕開けは共に女性讃歌。髙橋一輝の『Immortals』と、原田有希の『如月』である。髙橋作品は、リヒターが再構築したヴィヴァルディの『四季』をバックに、女神のような盆小原美奈を6人の男性ダンサーが崇める。盆小原の艶のある美しいラインが印象的。一方、原田作品は7人の女性ダンサーが、原初的な女性合唱と苛烈な現代音楽で、女性の生々しい業を描き出す。共に神話の世界に遡るスケールの大きさがあった。

様々なスタイルの作品を作ってきた宝満直也は、優れたコンテンポラリー・ダンサー五月女遥とのデュオ作品『Disconnect』を発表。フェイドアウトを多用する暗めの空間で、男女のすれ違いをスタイリッシュに描く。早廻しのような高速の動きに特徴があった。

最後は米沢唯の『Giselle』。ジゼルのソロ曲で、初日は小野絢子、二日目は自身が踊る。先行者としてはマッツ・エックを踊るギエムが想像されるが、そうした社会的擦り合わせなしに作っているようだ。自分の中の塊を外に出すことに主眼を置き、さらに小野に対しては己自身に肉薄するよう、剥き出しになることを要求している。

団オリジナルの『暗やみから解き放たれて』は、東日本大震災津波に呑まれた多くの人々を追悼するレクイエムである。海の底で波に揺られながら生と死の狭間を生きている人々。ドーナツ状の白いぼんぼりが魂のように、また雲のように上下して、時の経過を表す。終幕、人々は暗やみから逃れ、明るい死の世界に向かって歩き始める。

瞑想的な音楽、美的な照明の美しい作品だが、やや散漫な印象を受ける。初演時セカンド・キャストが示したような解釈が加われば、日本のバレエ団が踊る意義はさらに深まると思われる。(3月12、13日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2968(H28.6.1号)初出(5/31)

 

★[バレエ] 日本バレエ協会『眠れる森の美女』

日本バレエ協会が都民芸術フェスティバル参加作品として、K・セルゲーエフ版『眠れる森の美女』を上演した。同版の特徴は、マイムを舞踊化し、音楽性や詩情を重視した点にある。ヴィハレフ復元版や英国系の版よりも登場人物が少なく、ややコンパクトな改訂版と言える。復元振付・振付指導はマリインスキー劇場バレエ団レペティトゥール・教師のマヤ・ドゥムチェンコ。一月に谷桃子バレエ団が『眠り』を上演した際、監修のコルパコワ、演出・振付のアリエフは、ロマンティック・バレエのスタイルを選択したが、マリインスキーの後輩ドゥムチェンコは、ワガノワ・スタイルで指導している。

主役、ソリストは全て3キャスト。新国立劇場バレエ団の新旧ダンサー、Kバレエカンパニーの元ダンサーが主要な役を占めて、全体のレヴェルアップが図られた。

初日のオーロラ姫は酒井はな。古巣の新国立で体に入ったマリインスキーの振付に、独立以後の様々な経験、現在の解釈が加わった酒井独自の造型である。終幕後、ドゥムチェンコが片膝を付いてレヴェランスしたことでも、その芸術的探究の深さは明らかである。一幕は以前と変わらぬ初々しさだが、体の捌きは前よりも鋭く、二幕では能のメソッドを生かし、体を殺した動きで幻想性を表現。三幕は気合いの入った華やかな明るさが特徴だった。一つ一つのパに、酒井の息詰まるような精緻な刻印が押されている。

二日目マチネは、元Kバレエカンパニーの松岡梨絵。リラの精のイメージが強く、動きの精度はカンパニー時代ほどには戻っていないが、主役として堂々と華やかな舞台作りだった。同ソワレは、新国立の小野絢子。英国系イーグリング版での作り込まれたオーロラ像が印象に新しいが、ドゥムチェンコの指導が合っていたのか、自分に即した自然なオーロラだった。一幕の愛らしさ、二幕の無心、三幕の輝かしさ。完璧な踊りが、目的ではなく、役作りの手段となっている。

デジレ王子初日は、ロマンティックな奥村康祐(新国立)。ノーブルな立ち居振る舞いをよく心掛けている。二日目マチネは、ダンスール・ノーブルの橋本直樹(元K)。踊りの美しさは当然、パートナーや周囲とのコミュニケーションに暖かさと大きさがある。橋本の舞台だった。同ソワレは、新国立の福岡雄大。小野同様、自分に即して、スポーティな資質を生かしている。剣がよく似合い、悪を打ち破って小野の元に駆け寄るたくましさ。決まったパートナーならではの自然な出会いだった。

リラの精には新国立のゴージャスな堀口純、美しいラインの寺田亜沙子が参加、適役であることを示したが、二日目マチネの平尾麻実が、腕を広げるだけで世界に秩序と調和を与えて、善の精を体現した。カラボスには妖艶な西島数博、踊りの切れで見せるトレウバエフ(新国立)に加え、京劇風女形の敖強が、役の性根を完璧に捉えた演技で、舞台を圧倒した。

フロリナ王女と青い鳥は、若手の塩谷綾菜と髙橋真之、中堅の今井沙耶と酒井大、ベテランの奥田花純と菅野英男が、それぞれ高レヴェルの踊りを披露。特に、若い塩谷の品格と身体コントロールには目を奪われた。

脇役にはベテラン勢を揃え、協会公演の底力を示したが、3回のうち最もアンサンブルを感じさせたのは、二日目マチネだった。プロローグから調和の取れた雰囲気が漂い、群舞も心なしか揃っている。新国立勢が一週間前までコンテンポラリー・ダンスを踊っていた影響が、或いはあったかも知れない。

指揮はアレクセイ・バクラン。演奏はジャパン・バレエ・オーケストラ。在京オケから、バレエ音楽に精通したメンバーを集めて編成された。(3月19日、20日昼夜 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』N0.2968(H28.6.1号)初出(5/31)

 

★[ダンス]山崎広太『暗黒計画1~足の甲を乾いている光にさらす~』 @ 踊りに行くぜ !! Ⅱ vol.6(2016年3月26日昼 アサヒ・アートスクエア)

山崎広太が日本で日本人ダンサーと共に作った作品を見るのは、久し振りの気がする。ニューヨークを拠点にしてからも、様々なソロ作品、様々な客演作品、セネガル、韓国、アメリカで地元のダンサーに振り付けた作品、日本の体育大生に振り付けた作品を、東京で見ることができたが、自ら選んだ日本人ダンサーとの、デュオ以外の作品は、『Night on the grass』(02年、03年)以来なのではないか。「暗黒」と「舞踏」にフォーカスし、合田成男に捧げられたこの作品は、土方巽へのオマージュだった。

出演は笠井瑞丈、武元賀寿子、西村未奈、山崎広太(プログラム掲載順)。山崎が時折マイクを手に喋り、残る3人がソロ、デュオ、トリオをゆるやかに、且つ激しく踊る形式。山崎は客席の背後で、民謡も歌う。山崎の11回に及ぶ発話は、意味を伝える言葉から始まり、意味を伝えない言葉を挟んで、最後は詩へと昇華した。土方の『病める舞姫』をテクストにしたソロ公演を、長年プロデュースしてきた(wwfes)山崎にとって、言葉は踊りを生む契機であり、踊りそのものでもあるのだろう。

作品は舞踏譜を使いながらも、圧倒的な生成感に満たされていた。その時その場で動きが生み出される。ダンサーが存在の底の底まで見せられるのは(武元の諧謔は別として)、山崎の暖かい気が舞台全体を包容しているからだろう。武元の狂った老女のような、それでいて透徹した眼差しを宿した涼やかな体。笠井の華やかで透明なアウラに包まれた熱い青年の体。笠井と西村の清潔な兄妹デュオは、山崎作品に繰り返される理想の関係である。

山崎自身は袖で思わず体を動かしながら、終盤には、シーアの『Bird set free』と『Alive』をバックに、西村と並列して明暗デュオを踊った。西村にはピンスポット、自らは薄闇で。二人が戦ってきたニューヨーク生活を思わせる、壮絶なデュオである。背後には武元と笠井が亡霊のように佇み、二人の歴史を見守っている。山崎の肉厚の体から迸るエネルギー。阿波踊り(女踊り)のような、タップのような上下動あり。かつての低重心は見当たらない。一方、手足の長い西村は腰高の舞踏。透明無垢の輝きを放って、壊れた人形になる。二人の刻苦勉励、アメリカでの戦いが、並列のデュオだからこそ、胸に迫った。

作品を作るために考える作家が多いなかで、山崎は常日頃考えていることが最終的に作品になる、真正のアーティストである。それゆえ作品には、常に山崎の現在の反映がある。メランコリックな『Night on the grass』から、解放のエネルギーにあふれた『暗黒計画1』までの13年。舞踏を人生の核として生きる山崎の姿は、学生服を内なる日本として抱え持つ、文化服装学院先輩の山本耀司とオーバーラップする。

 

*山崎の言葉(手書きメモからの抜粋) 「資本主義社会の背後に暗黒がある・・・考え事をしているとき、体は暗黒・・・なぜこの人はこう動くんだろう、そこに尊厳を感じる・・・湿気は暗黒の雰囲気・・・土方さんから、オイ青年、と呼ばれた、酔って寝ていたら、いつの間にか土方さんが布団に入っていて、ずっと寝言を喋っている、子どもは闇をむしって喰う、それが暗黒、土方さんも同じようにして暗黒舞踏を作った・・・足が海鞘のように膨れた、足の甲をかわいた光にさらすと、腫れが引いた、金色の物が降りてきて・・・」

振付:山崎広太、出演:笠井瑞丈、武元賀寿子、西村未奈、山崎広太 音楽:菅谷昌弘 衣裳:山崎広太 技術監督:關秀哉 舞台監督:渡辺武彦 照明:伊藤雅一 音響:齋藤学 プロデューサー:佐東範一 プログラム・ディレクター:水野立子 主催:文化庁NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク  *『ダンスワーク』74(2016夏号)初出(7/6)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ

標記公演を見た(5月3、4、5、7日 新国立劇場オペラパレス)。改訂振付はアレクセイ・ファジェーチェフ。ゴルスキー版の流れを汲む簡潔な演出。あまり辻褄合わせをせず、キャラクター色の強い踊りと古典バレエの見せ場を、ダイナミックに繋ぐ(辻褄が合い、19世紀の香りがするのはヴィハレフ版)。梶孝三の明るいフラットな照明は、「踊り自体を見せる」という信念に基づいている。今では貴重な照明アプローチだ。

今回は全体に品のよい仕上がりだった。主役、ソリストの技術が保証され、必ずしも熟練とは言えないが、全員芝居が徹底されている。何よりも、東京フィル率いるマーティン・イェーツの指揮が素晴らしかった。ミンクス(他)の音楽が、これほど気品にあふれたことがあっただろうか。2幕カスタネットの踊り(カルメンシータ)の曲が、耳に付いて離れない。

主役は3組。米沢唯と井澤駿の初日は、米沢の座長芝居が際立った。踊りながら、パートナーや周囲を牽引し、舞台を作り上げていく。米沢の集中力は映画女優田中絹代を、演出力は舞台女優の杉村春子(小津組の4番バッターでもある)を思わせる。隅々まで神経の行き届いたライン、代名詞となった回転技、全身を使ったコミュニケーションも素晴らしく、古典ダンサーとして成熟の一途を辿っている。井澤はすくすくと成長し、あるべき姿を目指している。『ロミオとジュリエット』で二人がどのような変異を遂げるのか、楽しみ。

小野絢子と福岡雄大は、磨き抜かれた3幕アダージョに、二人の長い歴史を感じさせた。1幕での小野は、大きく見せようとする意識がやや透けて見える。山椒は小粒でもぴりりと辛い。日本バレエ協会『眠れる森の美女』では、小野、福岡とも伸び伸びと踊っていた。ロシア人指導者と息が合ったのか、あるいはアウェイの方が気持ちが楽なのだろうか。

木村優里と中家正博は、中家の正統的才能に目を奪われた。牧阿佐美バレヱ団に入団した時も、逸材であることは明らかだったが、今回の古典全幕主役で、本物だったことが証明された。正確なポジションが生み出すラインの美しさ、行き届いた技術、サポートを含む優れたパートナーシップ、さらに観客に開かれた舞台姿勢。踊りは優雅で力強く、ゆったりとした中にも、厳しさがある。バレエ団男性ダンサーの配置を組み替える才能である。一方、木村は1幕では何か迷いが感じられたが、2、3幕のチュチュ姿は華やかな大きさを誇った。3月のチャコット主催『バレエ・プリンセス』(伊藤範子演出・振付)では、白雪姫の内面を表す苦悩のソロを踊り、ドラマティックな資質が明らかになった。今後、マノンや椿姫のような役どころが予想される。

今回は主役3キャストを含め、配役を読み解く面白さがあった。大原監督がダンサーをどのように捉えているか、どのように育てようと思っているか(小柴富久修のエスパーダ!)がよく分かる。一方で、立ち役は初役が多く、さすがに、前回の山本隆之(ドン・キホーテ)、吉本泰久(サンチョ・パンサ)、古川和則(ガマーシュ)、輪島拓也(ロレンツォ)が作り出したような、即興的自在さを感じさせるには至らなかった。4人全員が舞台経験を積んだ、味のあるダンサーだからこそ可能な演劇空間。キャラクターのプリンシパルダンサーを抱える余裕が、国立のバレエ団にもないことは、残念というしかない。

初役でも爆発的面白さを見せたのが、ロレンツォの福田紘也。さらにフルフォード佳林が超脇役と言えるロレンツォ妻役で、見せ場を作った。二人とも持って生まれた才能があるのだろう。初役ではないが、八幡顕光のサンチョ・パンサは、一分の狂いもなく音楽とシンクロする動きが素晴らしかった。

街の踊り子・長田佳世の美しい体、同じく寺田亜沙子の美しいライン、メルセデス・本島美和は公爵夫人でも周囲に祝福を与えた。役を生きている。カスタネットの堀口純、森の女王の細田千晶ははまり役。エスパーダの小柴は、踊りの切れはこれからだが、ユーモアがあり、相手と対話のできる点が長所。キューピッドの広瀬碧は愛らしく、小キューピッドとの呼吸合わせに優れていた。中家のボレロは理想形。牧で踊ったエスパーダ(初役時)を思い出させた。また、ベテラン江本拓の粋で美しいトレアドールは、男性ダンサーの模範である。(5/16)

 

★[ダンス] アキコ・カンダ・ダンスカンパニー『愛のセレナーデ』

標記公演を見た(5月15日16時 東京芸術劇場シアターイースト)。カリスマ・ダンサーだったアキコ・カンダが亡くなり、残された高弟たちが、そのレパートリーを守ると同時に、新作を発表している。構成・演出の市川紅美は、ジャック・ルーシェ編曲のバッハで『遥かの道へ』、森比呂美はラフマニノフで自演ソロ『遠い声』。市川作品は、グレアムのボキャブラリーを駆使したバランシン張りのシンフォニック・ダンス。今回は床を使わず、細かいステップを刻み込んだ振付で、ベテラン達にはやや困難な作品に思われた。そうした中、唯一茶髪の若手ダンサーが、市川振付の機微をよく捉えて、作品の全貌を明らかにした(彼女は『愛のセレナーデ』にも出演したが、カーテンコールでは涙ぐんでいる様子も)。音楽性と運動性に優れた市川作品は、若手を鍛えるのに最適だと思う。一方の森作品は、アキコの抒情性を受け継いだ、ベテランならではの味わいだった。

アキコ作品は、83年の『愛のセレナーデ』(音楽:クレイダーマン)と93年の『牧場を渡る鐘』(音楽:ケテルビー)。前者は群舞、デュオ、ソロの10曲で構成され、途中フラメンコ調の振付が入る、情感を重視した昨品。10年後の『牧場』では、アキコの鋭い音楽性が際立った。グレアムの語彙が多く用いられているせいか、ダンサーたちは踊り込むにつれて、体が無意識に動き始め、巫女のような高揚感を身にまとう。観客にもそれが伝染し、劇場は祭儀的な空間に変貌した。

カンパニーの公演を見るたびに思うのは、グレアム・メソッドの威力。バレエの空間使いが基本にあるが、斜めやスパイラルの動き、床との親密性が、内側からの感情を生み出しているようだ。 Martha Hickmanによるグレアム・メソッドのクラス(YouTube動画)では、床を使った動きが、ヨガや座禅を連想させる。斜めの動きは東南アジアの踊りを、片脚を回しながら座り込む動きは太極拳を思わせる。ヒックマンは小太鼓でリズムを取りながら指導、ダンサー達にはストイックな修行者といった趣がある。他の映像ではピアノを使い、感情を表に出すようなクラスもあったので、何が正統なのか分からないが。ピラティスとの関連も言われ、ネイティヴ・アメリカンのダンスとコンセプトが近いとの指摘(Siobhan Scarry)もある。グレアム・メソッドの持つ祭儀性は、東洋起源の動きと関係しているのだろうか。(5/24)

 

★[ダンス] 柳下規夫×能藤玲子@現代舞踊協会

標記の二人が共演した訳ではなく、ここ2回の現代舞踊協会公演で、衝撃を受けたダンサー兼振付家を並べたのだ。柳下規夫は「男たちが描く愛と調和の時代」(3月17日 東京芸術劇場プレイハウス)、能藤玲子は「モダンダンス5月の祭典」(5月20日 めぐろパーシモンホール)。柳下は藤井公・利子門下の異端児、能藤は邦正美門下の正統派と両極だが、現代舞踊(協会)のアイデンティティを外部に知らしめる才能である。

柳下作品『冷たい満月』は、副題が「ニジンスキーの影に翔る」。自らをニジンスキー、古典バレエダンサーの川口ゆり子をカルサヴィナに見立て、コール・ポーターの音楽で、魔訶不思議な世界を紡ぎだす。柳下は2014年「ダンス・アーカイヴ in JAPAN」(新国立劇場)において、大師匠の小森敏振付作品『タンゴ』を洒脱に踊って、融通無碍の境地を示したが、今回はあまり動かず、病を得た後のニジンスキーのように微笑みながら佇むことで、同境地を実現した。金盥をかぶる、タイツが股引に見える点も魅力。白雪姫のようなドレスをまとった川口は、かつてのハリウッド女優のようなゴージャスな雰囲気を漂わせながら、柳下の振付を正面から実行した(ポアント使用)。腕使いのみで『薔薇の精』の物語を伝えることができる。その真摯な踊りは、大ベテランとなった今でも、新たな挑戦を続けていることの証である。周囲の女性ダンサーたちは、ピカソ風のふくよかな体型。牧神となった柳下を母のように見守る。振付はジャズ・ダンス風だが、気合を入れない、風になびくような踊り方。常に観客と正対するのも変わっている(柳下作品そのものがそう)。ダンサーたちの柳下に対する尊敬の念は、千石イエスと方舟の女性たちを思い出させる。生きることと踊ることが一致する、柳下の細胞が行きわたった作品だった。

能藤作品『霧隠れ』は、山下毅雄の音楽(『魔の女たち』オリジナル曲、80年)を使用。ギリシャ悲劇を思わせる原初的な情念の世界を、研ぎ澄まされた空間・時間構成で立ち上げる。語彙はモダンダンスのみ。美意識という甘い言葉を退ける、能藤の知と感覚のすべてが肉化された作品。能藤は女を、ただ歩を進めるだけで顕した。表現主義舞踊の粋。舞踏とも、現代能とも言えるが。ミノタウロスのような男を追い、全身で怒号する。そのフォルムの強さ。男には武術風の低重心振付を、コロスの女たちには、気の統一されたソリッドな振付を施している。手触りが石の肌のような作品。モダニズムの極致だった。(5/27)

 

★[バレエ] ボリショイ・バレエ in シネマ『ジゼル』

標記映画を見た(6月4日 ル・シネマ1 2015年10月収録)。グリゴローヴィチ版『ジゼル』は初めてだった。主な改訂は、貴族とお供の者がステップを踏みながら登場する点。貴族の優雅な行進は、グリゴローヴィチの好むところだが、演劇的必然性がなく、ドラマを支える振付とは言えない。ただグリゴローヴィチの刻印が押されているというだけ。だが、ザハロワのジゼル造形からは、ボリショイ(またはマリインスキー)の伝統が脈々と流れていることが感じられた。ウラノワからセメニャカに伝えられた細やかな演出・振付を、ザハロワが体現している(ように見える)。一幕の慎ましやかな演技は、これまでのザハロワには見られなかったアプローチ(ジゼルは未見だが)。一挙手一投足が役に奉仕している。二幕の大きいエクステンションは、役柄と懸け離れているとは言え、好きに踊っていた頃からすると、殊勝な踊りに見える。

最も衝撃を受けたのが、二幕のウィリになる瞬間だった。ミルタにレヴェランスしてアラベスク・ターンをする際、通常はいきなり両腕を広げるが、ザハロワはアン・バから徐々に腕を広げていった。羽化するように、翼が広がるように。ウィリ変態を視覚化した、説得力のある振りだと思う。もう一つは演出面。二幕、シモテ手前にジゼルの石の十字架が置かれ、ジゼルは墓石(すっぽん)から出入りする。新国立のマリインスキー版でも最初の頃は、すっぽんや滑車など、機械仕掛けを踏襲して、19世紀の雰囲気を醸し出していた(ワイヤーはなし)。来季『ジゼル』でのすっぽん復活を願う。

ザハロワの演技が変わったと思ったのが、前回のボリショイ・バレエ来日の時。グリゴローヴィチ版の『白鳥の湖』を踊り、こってりと濃厚なオデット=オディールを見せた。そして今回の細やかな演技。ウーリン総裁就任と軌を一にするが、何か関係があるのだろうか。ザハロワのジゼル造形は行き届いていた。だが一方で、どこかアンナチュラルなものも感じられた。芸術的要請、内的必然性よりも、外的な要請を想像させる。殊勝な演技と思わせるところに、ザハロワの自然との乖離がある。

ウクライナカップルとなったアルブレヒトのポルーニンは、色悪風の魅力がある。英国ロイヤル仕込みの繊細な演技と丁寧なサポートは、パートナーとしての強力な武器。二幕アントルシャの高さと持続に、狂気を滲ませた。他の役でも見てみたい。(6/8)

 

★[映画] 阪本順治『団地』

標記映画を見た(6月10日14:50 新宿シネマカリテ)。見終えたあと、ボーっとした。人間、生と死、がまるごとそこにある。そして何よりも監督が役者を愛している。自分の映像美学を優先するために役者を駒のように扱う監督、とは対極にある阪本監督が、同時代にいる、と思うだけで嬉しくなる。

ネタバレになるので言えないが、終盤から結末にかけて、「それでいいのか」と言いたくなるほど浪花節だ。大楠道代藤山直美の対話は、『顔』(2000年)における同じ二人の対話と呼応して、人生を賭けた切実さを帯びる。ありえない結末にしても、映画全体が壊れてもいいから、登場人物たちをこのように遇してやりたかったのだろう。

映画評論家の宇田川幸洋は「終盤は、SFに転調する。くわしくはかかないが、そこからが長く、ウェットで、そこまでのコメディーのいい風味をすべて帳消しにするまで、なくもながの世界観(異世界観?)のリクツをならべる。オチで遊びすぎて、元も子もなくなった。」(『日本経済新聞』2016.6.3 夕刊)と書いていて、阪本の浪花節を真っ向から否定する。阪本監督は、それでもいいと思っただろう。藤山直美岸部一徳大楠道代石橋蓮司の4人にあて書きして、存在の底にまで降りていく対話・会話をさせたかっただけだ。結末はどうころんでもいいのだ。

藤山直美は、時折画面からはみ出て、強力な気を放つ。藤山の気の飛ばしを監督がドキュメントした、とも言える。藤山はテレビの対談番組で、舞台との大きな違いは、まばたき、と答えた。映画ではまばたきはしない。舞台では、まばたきをする。「まばたきは脳内の情報処理と密接に関わっている」と阪大の脳科学者、中野珠実准教授(『日本経済新聞』2016.6.12)。まばたきをするとリラックス時に活動する脳の領域が活発化する。「まばたきは脳に入る情報に区切りをつけて、新たな展開に備えられるようにする役割を果たしているのではないか」(中野)。即興・アドリブが命の舞台では、まばたきは重要。監督のフレームに入る映画では、不要? その場ではなく、その世界に入る集中力が必要なのだろう。(6/13)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『アラジン』①

牧阿佐美芸術監督時代、デヴィッド・ビントレー前監督が、同団に初めて振り付けた作品。2008年初演時には、カール・ディヴィスのカラフルな音楽(宝石組曲、5音音階の懐かしいメロディなど)と、それを完璧に視覚化し、精緻でウイットに富んだ演出を施したビントレーの才能に驚かされた。(予算の関係で?)やや尻すぼみになりはしたが、ディック・バードのクリエイティヴな美術も。成熟した才能がぶつかり合うマグマのようなエネルギーを感じた。

2011年再演時は 3.11 の一ヶ月半後。劇場が再開されて初めてのバレエ公演だった。老若男女が東日本大震災の衝撃で窒息しそうな体を、束の間忘れることができた。当時、劇場で配られたビントレー監督のメッセージを抜粋する。

"Those who have lost homes and loved one's must feel many years away from the solace and healing that only time can bring, but the prayers and thoughts of all of us, safely delivered from the earthquakes worst, are with them....The dancers and I have been longing to get back on stage and dance for you and we hope that the charming and humorous story of Aladdin and his Priness, and their triumph over dark and sinister forces, has brought a much needed revival of your spirits after the recent tragedy."

3度目の今回は、作品に流れるシンプルな愛(アラジンとプリンセス、親子の愛)と、移民の子が姫と結ばれるプロットに、ビントレーの信念、信仰を見た気がした。『パゴダの王子』でも、男女の愛ではなく、兄妹の愛を描いたように、ビントレーの愛は、エロスよりもアガペが上位にあるように思われる。アラジンとプリンセスのパ・ド・ドゥは、初々しい恋の始まり、晴れやかな結婚式、途中にアクロバティックな再会のデュエットを挟んで、最後は満ち足りた平安の踊りで終わる。奪い合う愛ではなく、慈しみ合う愛が最後に描かれるのだ。

アラジンとプリンセスの出会いの場面には、一つの謎がある。アラジンが持っていたリンゴをプリンセスに投げると、姫は臣民の女性から捧げられた花束を落として、リンゴを受け止める。女性からすると悲しい行為だが、ビントレーはなぜこのような演出を施したのだろう。姫としての心得を捨てさせるほどの衝撃だったのか。裏目読みかもしれないが、エロスを選択すると、臣民への愛が疎かになることを冷徹に描いたのか。当の姫達の解釈を聴いてみたい。

親子の愛情は、一幕、洗濯板(!)で洗濯をする母のもとに、突然アラジンが帰還する場面によく表れている。二人はアラジンの冒険を、振り真似を交えて追体験する。ダイヤモンドの女踊りをアラジンが踊り、母も続いて踊る楽しさ。『パゴダの王子』の皇帝と道化のパ・ド・ドゥ(親子ではないが)に匹敵する、名場面だと思う。

アラジンを移民にしたのは、中国色の強い音楽と、日本人の描くアラジン像との整合性を図った結果だが、現在の世界状況を予見したような設定だった。ビントレー監督の英国での本拠地、バーミンガムも移民が多く、当地での上演を考慮に入れて、アラビア国の中国人移民としたのではないか(違うと言われそうだが)。移民の子がその国の姫と恋仲になり、魔神の力を借りて皇帝を説得し、二人はめでたく結婚に至る。その後、二人は自力で試練を乗り越え、最後は魔神を解放して、平和な国を築く。そこには、移民側の文化であるライオン・ダンスやドラゴン・ダンス、真紅の幡が翻る。ビントレーの世界平和への祈りを象徴する奇跡的な場面と言える。

演出面で改めて素晴らしいと思ったのは、砂丘が一瞬にして消え(19世紀的トリック)、洞窟の入り口が上方に見える場面。その中でプリンセス・バドル・アルブダル(満月の中の満月)がアラベスクするのを、マグリブ人とアラジンは、「客席に向かって」眺める。アラジンが洞窟の穴へとよじ登り、後姿のシルエットを見せて、こちらに振り向いた瞬間、財宝の洞窟が目前に広がる。劇場を熟知した緻密な想像力の賜物。(7/1)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『アラジン』②

標記公演を見た(①の続き)。配役で最も驚いたのは、井澤駿のジーン。元々ビントレーは本来のジーン像とは反対に、小柄で個性の強いダンサーをイメージして振り付けをした(早い回転技、細かいステップの連続)。初演の吉本泰久や再演の福田圭吾はこのタイプ。初演の中村誠は妖しさで勝負したが・・・井澤は、海老蔵のようなヌーっとした存在感で勝負。アラジンと母の目前に浮かぶ登場シーンは、怖ろしいまでの迫力があった。「俺は寝ていたのに、目がパッチリ覚めた。誰が起こしたのだー」のマイムを初めて見た気がする(母は、アラジンですぅ、と答えていた)。総踊りの終幕は井澤が場をさらって、主役のような印象を後に残した。当日と最終日には、高崎市長の後援会婦人部が大型バス数台で乗り付け、劇場は帝劇や明治座のような雰囲気に包まれたが、群馬出身の井澤と関係があるのだろうか。

ジーン初日には肩幅の広い池田武志が配され、異人ぶりを発揮した。大原芸監は、振付との齟齬はあるにしても、大きいジーンでやらせてみたかったのだろう。2回目の福田は、人柄の良さが滲み出る、人間味あふれる役作り。プリンセスとの心からの合掌挨拶が、目に焼き付いている。

主役キャストは3組。福岡雄大のアラジンと小野絢子のプリンセスは適役。見た目のバランスもよく、美しい踊りを披露した。ビントレー振付はパ数が多く、古典美を追求するのが難しい(以前『テイク・ファイヴ』で、菅野英男が古典と同じような精度で振付を実行したら、怪我をした過去がある)。福岡は初演時よりもやんちゃ度は低くなったが、難度の高い振付に美しさを加えて、バレエ団の要としての気概を示した。

奥村康祐と米沢唯は、細やかな演劇性が特徴。米沢の生きた演技は、常に舞台を注視させる。ややサポートに不安を残す相手パートナーだったが、恐れを微塵も見せず、輝かしい踊りに終始した。奥村は母子再会シーンや「砂漠の風」女性アンサンブルに囲まれる時、居心地が良さそうに見える。ダイヤモンドの振り真似を誰よりも美しく踊った。もう少し体力、筋力のアップを期待したい。

八幡顕光と奥田花純は、ビントレーの音楽性を隈なく実現した。八幡が冒頭、踊り出した途端に、振付の句読点がはっきりする。完璧なタイミングに、指揮のポール・マーフィも俄然乗り気になり、その結果、我々は、カール・デイヴィスの魅力を十二分に味わうことができた。役を作ったダンサーだけあって、振りの意味がよく伝わる。奥田は音楽を生きる力、踊りのダイナミズム、勇敢な舞台姿勢に美点がある。特に再会のアクロバティックなパ・ド・ドゥは、躍動感にあふれた。踊る喜びを最も感じさせた組。

公演途中からではあったが、感情豊かな菅野英男のマグリブ人、コミカルで情の深い楠元郁子と丸尾孝子のアラジン母、鷹揚なサルタン 貝川鐵男、初演時よりアラジン友人の江本拓は、最後の縦回転こそ簡略化したが、生き生きと美しい踊りを見せた。

宝石たちは適材適所。ルビーの長田佳世はロシアのゴージャスなプリマそのもの。奴隷の中家正博の濃厚な踊りと共に、ディヴェルティスマンの核となった。サファイア本島美和の美しさ、木村優里の豪華さ、研修所2期生3人組も活躍。中でも寺田亜沙子は美しい肢体で、エメラルドやジーン・アンサンブルを牽引した。東京フィルの演奏にも満足。(7/3)

 

★[演劇] 鈴木忠志×中村雄二郎『劇的言語』増補版

標記対談集を読み終えた(2016年6月15日)。昨年末、SCOTの公演時に購入し、少し読みかけて積んでおいたのを、ようやく読み終えたのだ。長年続いた様々なことが終わり、脳がリセットされたため。

『劇的言語』自体は1977年に白水社から刊行、増補版は1999年、朝日文庫朝日新聞社)の形で出版された。対談はいずれもその前年に行われ、最初の対談時は、鈴木37歳、中村51歳、2回目が59歳と73歳である(誕生日計算なし)。最初の対談がやはり面白い。一部、覚えとして抜き書きする(全て鈴木の言葉)。

  • 生活のほうが演劇を真似るということも、昔はいろいろあったようです。例えば初代の中村富十郎が舞台上を内股で歩くことをはじめて考えだした・・・それ以前は女性も外股歩きだったらしい。(p.20)
  • うちの劇団員に・・・舞台にバケツを置いて、そこに小便してみろと。これがなかなかできない。最初に集中がいるんですね。スタニスラフスキーの言う公開の孤独、つまり他人の注視のなかでも孤独になって集中しなきゃ小便はできない・・・ただしそこから、観客の前で実際に小便することがタブーや制度に反対する、価値のある演技なり行為になると考えてしまうのは・・・落とし穴なんですね。小便する演技が役者に課せられたとするときに、観客を前にした舞台上でほんとうに小便しうる役者が、小便を出さないで小便したとき、「小便する演技」が成立する。演技論として僕はそう思うのです。観客の前で小便ができないのに小便の真似をするというのは、自分軀のなかにある制度と批評的に関わっていない、ただの空真似です。しかし、舞台で小便をすること自体に価値があると言っているのじゃない。それができる集中にまで行っていて、それをフィクショナルに再構成する。それが僕の言う演技なわけです。(pp.27-28)
  • 舞台というものは明らかに現実空間です。そこは現実の軀がそのまま移行しているのですから、僕の考えでは、舞台で行われることは「変身」ではなくて「顕身」なんですね。(p.31)
  • 能の詞章なんかは、何を言っているのか分からないけれども、感じだけは分かる。つまり、一義的な意味は伝えてこないけれども、比喩とかイメージの連続みたいなもので、全体としてある感覚を分からせる。音声でもそうなんですね、ある台詞を意味として伝えるのじゃなくて、むしろ音色で伝える。(p.38)
  • 歌舞伎の場合でも空間の拡大はたいへんなものでしょう。国立劇場のような広い舞台になっちゃって、昔は例えば駆ける芸であったものが、今では舞台の中央から花道までほんとうに駆けるわけです・・・(歌舞伎の成立期の舞台は)間口二間から三間。幕末には八、九間になったと言われてますね。(pp.46-47)
  • スタニスラフスキーは、一応はリアリズムと言われるチェーホフを背景にして、そのシステムをつくったのですね・・・そのために彼のシステム全体が古風なリアリズムに見られたのですが、スタニスラフスキーが言っていることはそうじゃない。俳優が舞台で、自分のなかの潜在的なものを開いて飛躍するための滑走路を提供するのだ、というのがスタニスラフスキーのシステムの狙ったことなんです。潜在意識というものは変に人為的に近づくと、意識的になって貧しいものになる。だからそれを貧しくしないあらゆる方法を講じておいて、あとは神様の助けを借りるしかない。つまり、インスピレーションを得る方法である、と言っているのです。インスピレーションを得るためには、肉体というのは偶然性の強いものだから、考え方とか訓練法を厳密にしていかなければだめだということで、分析的な方法論を提出したわけです。(pp.52-53)
  • 近代劇でもチェーホフの場合などは、全員がコロスであるという構造ですね・・・全員がコロスで、それが奏でるシンフォニーの全体をチェーホフは狙っている。無関係の関係が一つの全体を形づくっている。全体としてはコロスが黙って座っているだけで出てくるような印象へと持っていった。うんとおしゃべりをしつつ結果としては沈黙の言語と言える一点に収斂させたという意味では、チェーホフ劇の登場人物はコロスですね。(p.79)
  • ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、明らかにコロスですね・・・チェーホフ以後どんどんヒーローを消していったという過程があって、現代は本来はコロスの芝居しかあり得ないと思うのです。(p.80)
  • 一般に演劇は祭式から出てきたと言われていますね。現実的にはコロスは英雄の墓の前で行われた民衆の鎮魂歌舞で、その歌舞のうちに死んだ英雄がお面を被って生き返るんだという説があるわけでしょう。つまり、その点では、能の構造に似ているわけですが、実際の舞台のほうからギリシャ劇の成立の事情を考える、柳田国男的に言えば、逆に、信仰を等しくせざる者が出てきたときに、初めて観客が成立し、だからまた必然的に舞台意識というものが成立するわけですよね。(p.81)
  • ヒーローを表現するときに、媒体としてコロスが出てくるのじゃないかという気がする・・・アイスキュロスは、オイディプースを絶対に書きたいのです。ところがオイディプースをそのまま書いていくことには、ある危険な感覚があるだろうと思うのです・・・アイスキュロスなりソポクレスがオイディプースとかアガメムノンを書いていくときに、その作家自身にすでに共同性からはずれているという自覚があると思う。(pp.82-83)
  • 不条理演劇が、内面の危機感とか孤独感とか、生存するだけで感ずるような一つの直観なりある感覚を、イメージとして舞台上に実現させようとするとき、俳優自体はオブジェでいいわけです。ベケットの芝居でも別役実の芝居でも、俳優が言っている一語一語には、それ自体としては意味がない。ある時間が流れ終わった瞬間に、その時間が、作家の危機感なり疎外感なり、アイデンティティーの亀裂といったものの信憑性を観客に感じさせられればいい。俳優はそのための道具立てであり、オブジェであるわけです・・・俳優たちが自分をオブジェ化する、自己物化する演技によって、作家の潜在的な直観の深さというか、無意識なものを全体として出そうとする。そういう意味で不条理劇は俳優に舞台上ではコロス的に存在することを要求している。(p.84)
  • (中村―アントナン・アルトーが、一所懸命に肉体の復権を強調するでしょう。日本人から見るとどうしてあんなに強調しなければならないのか分からないところがある。)その肉体というのも、バリ島の例を出したり、演劇をペストにたとえたりするのですが、どうも僕らが感じる演劇上の身体とか肉体とはちょっと違うのですね。演劇論はいろんな人が書いているけれども、身体や肉体にまで関わった演技論がほとんどない。また、渡辺守章さんが指摘しているように、俳優個人の回想録ふうのものはあっても日本の芸談のようなものは全然ないらしい。一方、日本には、正宗白鳥の言葉を借りれば、演劇史はあっても戯曲史がない。この場合の演劇史というのは芸能史のことで、芸能という側面の強い歴史はあるけれども戯曲のほうの歴史はないということなんですね。演劇といえば型とかしゃべり方の歴史が重要な位置を占めている。(pp.88-89)
  • ポーランドの演出家グロトフスキーが日本に来たときに、国民性の特徴を表すもので演劇にとってもっとも重要なものは何か、と僕に訊いたわけです。僕はそれに対して、行為の美意識であると答えた。日本人の場合、倫理意識と行為の型とはかなり強く結びついているでしょう。一つの行為のあり方が美しくあること、それがその人間の倫理意識を表すし、精神状態を反映しているという見方が、ついこの間まであった。(p.93)
  • 日本人の肉体表現には、苦痛に対する哲学みたいなものがあるような気がします。能でも、ずっと立っているとかずっと座り続けているとか、中腰のままでいたりする・・・肉体というものを苦痛で追い込んでいって、意識を非常に明晰に追及していった果てに、それが無意識に、つまり全身的に転化する。全身的な何かを顕在化させる肉体的な方法として、苦痛というものが考えられていたのではないか。(p.102)
  • 呪術的なものの残影が一時期、歌舞伎役者などに残っていて、自分の肉体を対象化して、リフレインに耐えるようにそのこと自体を遊ぶ。つまり肉体のなかで、コントロールしながら越境して戻ってくる。人為的なヒステリー症状や憑依状態を起こすわけです・・・本当の歌舞伎役者はファシズムなんかに対する抗体を持った人なんですね、僕に言わせれば。(p.104)
  • 西洋演劇で言うアンサンブルというのは、日本語で言えば息=呼吸が合うということだと思うのです。日常でも親しい人間同士だと・・・相手の存在のリズムが分かる。それが息が合っているということで、舞台でもそういう表現が必要なわけです・・・演出家が外側からリズム的に強制しても本当のアンサンブルはできない。外面は同じでも、ちょっとしたことが違う。生命のフクラミのようなものが欠けてくる。それぞれが相手の存在のリズムをさぐりながら瞬間に同時にハッと行ったときに、表現がアタリになるのです。(pp.109-110)(6/20)

 

★[バレエ] 英国ロイヤル・バレエ団『ロミオとジュリエット』『ジゼル』

標記公演を見た(3月29、31日 ロイヤル・オペラハウス / 6月18、22、24、26日 東京文化会館)。配役は日程順に、オシポワ(G)とゴールディング(A)、ヌニェス(G)とムンタギロフ(A)、オシポワ(J)とゴールディング(R)、ヌニェス(G)とムンタギロフ(A)、オシポワ(G)とゴールディング(A)、カスバートソン(G)とボネッリ(A)。オシポワをよく見ているのは、面白いダンサーだと思っているから。ボリショイ時代からロマンティック・バレエには定評があったが、生で見たのは、『明るい小川』や『パリの炎』パ・ド・ドゥなど、バリバリ踊る演目だった。アレクサンドロワと並んで、脚の筋肉に目が行ったものだ。そんな人がジゼルではどうなるかと思い、またジュリエットは、ロンドンでのジゼルを見て、どうなるかと思って見ることにした。ムンタギロフは、新国立のシーズン・ゲスト・プリンシパルなので、所属バレエ団での舞台を見ておきたかったから。カスバートソンは、ジュリエットの評判がよく、唯一英国人の主役なので、見た方がよいと思って見た。

やはり、ダントツでオシポワが面白い。一瞬たりとも目が離せない。ジュリエットにしても、ジゼルにしても、体がほぐれ、役を生きている。ジュリエットが仮死するときには、本当に体が痙攣していた。作り込まれた演技も素晴らしいと思うが、生きた体をバレエで見られるのは、もっと素晴らしい(つまりとんでもなく技術があるということ)。

演出について。マクミラン版『R&J』のマキューシオが、道化に近いのが気になったのと(もっと知的でシニカルでは)、ライト版のジゼル自殺。剣で突いてから亡くなるまでのシークエンスが長く、少し不自然な感じがした。ヌニェスが血まみれのマイムをやっていたので、そう思ったのかもしれない。それからバチルドの造形。ベルタが「娘は踊ると死ぬのです」のマイムをした直後、バチルドが「踊りなさい」と言って、ジゼルの一幕ソロが始まる。あまりに非情では。本来のバチルド像(初演版台本)からも懸け離れている。

ベルタのウィリ・マイムは、カルサヴィナ由来とのこと。現地では、クリステン・マクナリーのマイムにブラボーが飛んだ。英国人はマイムが好きなのだと、改めて思った。

印象に残ったダンサーは、パ・ド・シスのジェイムズ・ヘイ、モイナのオリヴィア・カウリー、ズルマのベアトリス・スティックス=ブルネルとヤスミン・ナグディ(両者美しい黒髪)。ミルタは現地で見たヌニェスが素晴らしかった。

演奏は、現地で映像収録を行なったロイヤル・オペラハウス管弦楽団が、圧倒的だった。コンマスを初め、個々の楽器のトップがソリスト級の腕前。音楽だけでも満足させられる。指揮のワーズワースは、踊りに合わせるタイプだが、二幕のウィリ達のアラベスク交差は怖しく早く、その飛び交う姿を想像させた。(7/8)

 

★[バレエ] バレエシャンブルウエスト「トリプル・ビル」

標記公演を見た(6月19日 オリンパスホール八王子)。八王子を拠点とするバレエシャンブルウエストの地域密着型公演。今回は、前回の舩木城作品に続き、田中祐子の新作を地元の人々に紹介する。創作に力を入れる同団らしい企画である。メインは日舞とバレエのコラボレーション『時雨西行』、さらに古典バレエの幕抜粋『ライモンダ第3幕』が上演された。美しい衣装のオープニングも加わったが、田中作品の深刻なテーマとバランスを取るためだったのだろう。

田中祐子振付の『あやとり』は、八王子出身の作家、篠田節子の『長女たち』を基にした作品。認知症の母と、娘の姉妹、そのフィアンセたちに、コロス、子供時代の姉妹と友達を踊る子役が登場する。母は仮面を付けているが、途中コロスによって外され、症状が出る前の生き生きとしたソロを踊る。子供たちを見守る優しい姿も。現在の母は、恐怖にさいなまれ、あてどなく歩き回る。母に寄り添う長女とフィアンセ。母が眠りにつくと、長女は呆然と座り、幕となる。

原作は未読のため、構成などの工夫は分からないが、観客に分かりやすい自然な展開だった。最後はモダンダンス風に詠嘆で終わり、年輩層が受け入れやすい日本的な終幕である。振付語彙はコンテンポラリーの入ったモダン系。少し説明的に思える部分もあったが、長女とフィアンセの瑞々しいデュオ、母の認知症のソロ、母と長女とフィアンセのトロワは、見応えがあった。母・吉本真由美の存在の根底が揺るがされた踊り、フィアンセ・土方一生のたくましい青年ぶりが印象的。冒頭、舞台左右に張られた何本ものあやとりの糸を切って落とすなど、美術・照明は広い舞台によく対抗している。

18年前に清里フィールドバレエで初演された『時雨西行』は、バレエ部分を今村博明・川口ゆり子、邦舞を藤間蘭黄が振り付けている。宗次郎(『大黄河』より)の悠然と流れる無国籍民族音楽が、洋舞と邦舞を違和感なくまとめる。作品の核は、江口の君を踊った川口。その美しい日本的所作、遊女から普賢菩薩への変化を可能にする聖性は、他のダンサーの代替を許さない。西行 中村梅玉との立会い、互いの話(ソロ)を聴く佇まいは拮抗し、パ・ド・ドゥに等しいエネルギーの交換があった。実際に江口の君とパ・ド・ドゥを踊る「心」には、逸見智彦。初代の今村からノーブルな踊りを引き継いでいる。

最終演目『ライモンダ第3幕』は、改訂振付を今村・川口が担当(主役のパ・ド・ドゥは、牧阿佐美バレヱ団のウエストモーランド版より)。優美なマズルカが印象深い。ライモンダには松村里沙、ジャン・ド・ブリエンヌは元Kバレエカンパニーの橋本直樹。松村は、輝かしいライモンダ・ダンサーだった川口の指導を受けて、行き届いた踊りを見せる。古典主役としてはさらに、パ・ド・ドゥを二人で踊る意識、空中でのフォルム、劇場空間を掌握する大きさが望まれる。一方の橋本は、本来のノーブルで溌剌とした踊りよりも、少し控えめなスタイルを踏襲しているようだ。パートナーとのコミュニケーションはいつも通りよく努めていた。

中央線での帰途、隣席の中高年女性二人が、出口で配られた花束を手に『たまにはバレエもいいかなと思って。楽しかったね』と語らっていた。(6/22)

 

★[バレエ] NBAバレエ団『死と乙女』

標記公演を見た(6月29日13時 北とぴあ)。3本立てで、どれにも和太鼓が入っている。公演としては「和太鼓とバレエの饗宴」といった趣。興味深かったのは、林英哲の太鼓が洗練され、直のエネルギーを感じさせなかったことである。4人の弟子たちも、和太鼓にありがちな、男気をまき散らすような立ち居ふるまいがなかった。新垣隆(作曲・ピアノ)、舩木城(振付)と組んだ新作『死と乙女』でも、林の太鼓(鼓のような音を響かせたりする)は、ストイックで、社会化(?)されている。新垣の方は、ダンスとのコラボレーションのため、テンポなど抑制していたと思うが、自分の快感原則に身を委ねた個所が多々見受けられた。打楽器奏者はテンポの要なので、ストイックにならざるを得ないのだろうか。

新垣の曲は、『カルミナ・ブラーナ』のような主旋律に、ストラヴィンスキーショパンシューベルト、サティなどの引用・パスティーシュを加え、変拍子を多用した激烈な音楽。舩木の振付傾向も激烈なので(ストラヴィンスキーの『春の祭典』で和太鼓とコラボしたかったらしいが、編曲の許諾が難しいので取りやめたとのこと)、合うはずだが、オリジナル曲による初演ということで、まだ音楽の腑分けが十分でない印象を受けた。一方、エゴン・シーレの『死と乙女』をモチーフに、衣装や化粧でグロテスクな美を作り出し、シーレの人物像を真似た性的な仕草を加えるなど、振付自体には舩木の意図がよく表れている。いつものように過呼吸や痙攣あり。女(岡田亜弓)にキスされて、男(久保綋一)が倒れるシーンが象徴するように、伝統的な死神と乙女とは異なり、全員が死の側にいる感じを受ける。ただこのままでは「俺はこれがやりたいんだ」という舩木の熱意が伝わるだけで、なぜシーレに惹かれるのかまでは分からない。性的な仕草も、公序良俗への反抗に過ぎないように見える。昨年のバレエシャンブルウエストでは、先行の舞台作品を援用した立体的な(社会化された)作品を、激烈に作っていたことを考えると、今回のような自分の世界を、説得力を持って作品化することがいかに難しいか、改めて思わされた。

ダンサーは適材適所の配役で、成長を促されている。林作品を彩った若手の阪本絵利奈の伸びやかな姿態、『ケルツ』(振付:ライラ・ヨーク)再演での佐々木美緒の情感、同じく大森康正の美しく切れ味鋭い踊り、髙橋真之の闊達な踊りが印象深い。ゲスト・バレエマスターには、元松山バレエ団の鈴木正彦を迎え、男性ダンサーのレヴェルアップを図っている。昨年の『ドン・キホーテ』でも、鈴木が大森のバジルを指導し、他団では現在見られないような細かな振付を施した。強力な助っ人誕生だ。(6/30)

 

★[バレエ][ダンス] Noism『ラ・バヤデール』

標記公演を見た(7月1日 KAAT神奈川芸術劇場 ホール)。新潟3公演を経て、神奈川3公演、続いて兵庫2公演、愛知1公演、静岡2公演、鳥取1公演と、全国を回る。演出:金森穣、脚本:平田オリザ、振付:Noism1、音楽:ミンクス、笠松泰洋、空間:田根剛、衣装:宮前義之、木工美術:近藤正樹、出演:Noism1&2、奥野晃士、貴島豪、たきいみき(以上SPAC)という重量級のコラボレーション。ただし振付は金森ではない。Noism1のダンサーたちに振り付けさせたのは、芸術的な試みなのだろうか。あるいは教育的な試みなのだろうか。金森が最終的に仕上げているせいか、金森の語彙を際立って外れる振付は見当たらなかった。ただしカリオン族の女性達の、バレエのパを多く組み込んだ踊りには意外性がある。全体に、金森単独振付の時のような、生きた音楽性を感じさせたのは、二幕の所謂「山下り」の場面からだった。

金森の演出は、鈴木忠志へのオマージュにあふれる。冒頭に登場する老人ムラカミは、鈴木のリア王のごとく、看護師に付き添われ、車椅子に乗ったまま舞台を見守る。物語は狂人の回想、という形である。終幕には登場人物たちが、鈴木メソッドのバレエ歩きで、塔の周りを回る。また能の橋掛かりをイメージしたという、両袖に通じる斜線の道の出入りも、鈴木流の歩行で行われ、振付にも随時取り入れられている。加えてSPACの俳優たちの、意味よりも強度を重視する発話法。鈴木ファンからすると、この作品は、舞踊が加わった鈴木作品に見えるかもしれない。

平田オリザの脚本は、プティパの『ラ・バヤデール』の舞台を、満州国と思われる幻の国に置き換えたもの。金森の意見を取り入れながら6稿(3月現在)を重ねたとのことで、平田の意図がどこまで残されたのかは分からないが、設定と部族の命名だけでも面白い。物語は、オロル帝国とヤンパオ帝国に挟まれたマランシュ帝国が舞台。五族協和の名のもと、5つの民族と馬賊が皇帝プーシェに仕える。カリオン族(朝鮮族)、メンガイ族(モンゴル族)、マランシュ族(満州族)、オロル人(ロシア人)、ヤンパオ人(日本人)、馬賊が、それぞれ水色、銀色、黄土色+こげ茶色、紫色、白色、赤紫の衣裳を身に着けて、民族の誇りを示す。皇帝は人形を配し、ヤンパオ人の傀儡であることを視覚化した。

平田の芝居は、絶妙な間合いと語り口で、発話する登場人物の実存を浮かび上がらせるのが特徴。鈴木メソッドは真逆にある。平田の言葉をSPACの俳優が喋る、という興味深さはあるが、平田の幻の国への想い、それを子孫に伝えたいという切実な気持ちが、平田芝居で見た(と想像する)ほどには、残らなかった。翻って、平田の芝居のように発話した場合、舞踊とのコラボは可能だろうか。例えば、ガムザッティとニキヤのマイムに相当する、フイシェン(たきい)とミラン(井関佐和子)の場面。フィシェンの「木槿の咲く国へ帰りなさい」を、現代劇リアリズムでやると、ミランのマイムに拮抗できるのか。いずれにしても、平田ファンにとっては、馴染みにくい舞台だっただろう。

バレエファンにとっては、『ラ・バヤデール』の筋書き通りに話が進み、カリオン族などはバレエ色濃厚な振付でもあったので、面白かったのではないか。「山下り」は縦一列に並んだミランの12の影が、鋭く両腕を開きながら、左右に分かれる。プティパ振付の残像が相乗効果となり、また宮前の美しい衣裳(今回はダンサーのラインを考慮した)も加わり、コンテンポラリー・ダンスによる画期的なバレエ・ブランとなった。

ミランの井関は、前回公演の『カルメン』再演から、脱皮した印象。周囲との距離を図り、演技の計算(いい意味で)を感じさせるようになった。今回も、存在感を見せながらも、一歩引いた演技で、美しいミランを造形した。ただ、パートナーが金森や小尻健太だった場合(『愛と精霊の家』のように)、さらに高次に止揚された身体を見せたかもしれない。(7/9)

 

★[バレエ] 小林紀子バレエ・シアター『ソリテイル』『二羽の鳩』

標記公演を見た(7月3日 新国立劇場中劇場)。二作とも、ステージングがジュリー・リンコンからアントニー・ダウスンに変わって初めての再演。『ソリテイル』(56年)は、一人ぼっちの少女が友達と遊ぶことを夢見て、想像の世界に浸るが、最後は再び一人ぼっちになり、孤独の淵に沈むという、マクミランの自画像とでも呼ぶべき初期作品(マクミラン自身は91年、「この作品はハッピーエンディング」と語っているが)。今回、孤独があまり強調されず、作品全体が少女の楽しい一人遊びに終わったのは、主演の高橋玲子の資質によるものだろう。

一方、『二羽の鳩』(61年)の印象が前回と大きく異なったのは、明らかにダウスンの演出に起因する。アシュトンの牧歌的なロマンティシズムよりも、人間の暗部をえぐり出すマクミラン風リアリズム、青年と少女の和解のパ・ド・ドゥよりもジプシーの濃厚な踊りが前面に出る。ダウスンが『マイヤリンク』のルドルフを当たり役としていたことと、こうした演出傾向は、どこかで繋がっているのではないか。青年の裏切りへと至るざわついた感情のやりとりと、ジプシー達の青年に対する暴力的な翻弄は、アシュトン・スタイルの域を超えたリアリティがあった。

主演の島添は、リンコンによって『ソリテイル』主役に抜擢され、『インヴィテーション』、『マノン』と、マクミラン・ダンサーのステップを歩んできた。リンコンによって育まれ、自らの緻密な音楽性と結びついた深い情感は、美しい踊りと共に、島添の美点である。こうした島添の美質を引き出すには、ダウスンの演出はあまりにドライでシニカルに思われる。今回はアシュトン・バレエであった分だけ余計に、二者の齟齬が感じられた。

前回2005年の『二羽の鳩』評を、アップしてみる。青年はロバート・テューズリーだったが、故障降板。当日初めて代役を知らされた。

小林紀子バレエ・シアター秋公演は、アシュトン作品『レ・パティヌール』(37年)と『二羽の鳩』(61年)のダブル・ビル。音楽的で小気味のよいアシュトンのスタイルが、その魅力を全開にした。 アシュトンの振付は音楽と不可分の関係にある。今回の成功の大きな要因は、渡邊一正の指揮にあると言っても過言ではない。マイヤベーアとメサジェの音楽の隅々まで、渡邊独得の暖かみのある息吹が吹き込まれ、踊りとともに疾駆する。渡邊の音楽によって、アシュトンが極東の地で蘇ったと言える。

二つ目の要因は、所属ダンサーの好演もさることながら、新国立劇場バレエのダンサーを始めとする客演陣の力である。一週間前には、イギリスの中堅振付家ビントレーによる現代的な振付を踊っていたとは思えないほど、スタイルを強く意識した踊りを見せた。

三つ目は、『二羽の鳩』の若者で急遽代役に立った新国立劇場ソリストの山本隆之だろう。山本は日常(ボヘミアンではあるが)と異界(ジプシーキャンプ)を行き来するロマン主義的ヒーローを、アルブレヒトジークフリート、ヨハン(こうもり)といった蓄積を全て注ぎ込み、なおかつ軽やかに演じている。この作品の主役が実は若者であることを、山本の肉体は明らかにした。アシュトンも喜んだのではないか。

黒鳥のシーンを思わせる、ジプシーの女(斉藤美絵子)とその恋人(中尾充宏)とのパ・ド・トロワや、グラン・アダージョに相当する、少女(島添亮子)との清らかな和解のパ・ド・ドゥで、山本は優れたパートナーぶりを見せる。仲直りの象徴である白鳩とのコミュニケーションも抜群。白鳩を肩に階段を下りてくる姿には、絵画から抜け出たような古典的な美しさがあった。当日まで代役告知がなかったのが残念なほどのはまり役である。

少女の島添は一幕のコケティッシュな演技ももちろんよかったが、本領はやはり二幕の悲しみのソロと、和解のアダージョだろう。繊細で高貴なラインに、豊かな感情が息づいている。ドメスティックな鳩を踊る島添を見ながら、この人の白鳥を見たいと強く思った。寓話ではなく、真のドラマをその肉体は要求している。

『レ・パティヌール』でのスケートの身振り(二十世紀初期の時代性を感じさせる)や、『二羽の鳩』での鳩の身振りといったカリカチュアは、極めてイギリス的なディタッチメント(感情超越)を作品に与えている。『二羽の鳩』一幕最後の愁嘆場でも、アンサンブルが両肘を鳩の羽のように後ろに引きつけて、悲しみの中にも上質のユーモアを醸し出していた。

ジプシーアンサンブルを率いる大森結城のダイナミズムと、佐々木淳史の鮮烈な踊りが印象に残る。管弦楽は、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。(11月13日 ゆうぽうと簡易保険ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2683(H18.1.21号)初出(7/12)

 

★[バレエ][ダンス] クライム・リジョイス・カンパニー第1回公演

標記公演を見た(7月7日 メルパルクホール)。クライム・リジョイス・カンパニーとは、優れたダンサー・振付家である坂本登喜彦・高部尚子が、2015年に設立したカンパニーのこと(高部のたかは、本来ははしごだか)。一風変わった名前だが、公演プログラム掲載のうらわまこと氏の文章から、クライムは登る、リジョイスは喜ぶで、坂本登喜彦の下の名から採ったことが分かった。高部の夫への愛を窺わせる命名。カンパニーは「唯一無二の世界を創出するバレエ作品の創作・上演を目指す」。

演目は、坂本振付の『Feeling Grieg』(2016ver.)、高部振付の『Transparency』(初演)、佐多達枝振付の『父への手紙』(1993年)の3作品。佐多作品は、坂本・高部が初演し、今回も出演している。

坂本作品は、グリーグ組曲『ホルベアの時代から』を使用したシンフォニック・バレエ。西野隼人と真鍋明香里をソリストに、8人の女性ダンサーがアンサンブルを踊る。西野にはノーブルな憂いを含んだソロ、西野と真鍋には、台詞の掛け合いのようなゆったりとしたパ・ド・ドゥが振り付けられている。音楽性よりもむしろドラマ性を重視した作舞で、長調よりも短調アレグロよりもアダージョに、坂本のドラマティックな資質が生かされた。たなびく雲のような美術は河内連太。

高部作品は、打って変わってバレエの語彙を含むコンテンポラリー・ダンス。美術も高部が担当。音楽はAOKI takamasaによるミニマル・ミュージック。紗幕と3枚の白スクリーンで題名の『透明』を示唆し、3脚の椅子を使った3人一組の3つのグループが、ユニゾンで踊ったり、ばらけたりする。高部所属の谷桃子バレエ団から男性3人、女性6人が集結、バレエダンサーにしか踊りこなせない難度の高い振付を、切れ味よく踊り抜いた。山科諒馬、安村圭太が、振付をよく理解した鋭い動きで、ソリストとしての存在感を示している。

高部の振付はこれまで、舞踏風ダンス、シンフォニック・バレエなどを見てきたが、コンテンポラリーは初めて。さらにカンパニー・デラシネラ風の素早いマイム動きの導入もあり、高部の動きそのものに対する探究心の強さに改めて気付かされた。振付は一見、よくあるように見えるが、一時も目を離すことができない。つまり高部の思考が、隅々まで漲っているのである。ミニマルでもストラヴィンスキーでも、高部の音楽的精度は同じ。ここまで音楽を腑分けする能力は、シチェドリン音楽でアンナ・カレーニナを踊った、ロパートキナくらいしか思い浮かばない(振付はラトマンスキーだが、明らかにロパートキナの音楽性)。緻密な音楽性に加えて、高部のもう一つの特徴は「過剰さ」にある。今回は、構成がよくまとまったせいもあり、そこまでやるのか、という過剰さは影を潜めている。

佐多作品は、3回目の上演。カフカの同名作(手紙)を河内が台本化、音楽はグレツキスクリャービンリゲティ、ペルトを小森昭宏が選曲した。美術・衣装は前田哲彦。小森の選曲、前田の空間で、作品の半分が作られていると言ってもよいほど、隙のない時空構成である。

トタンの幕がガタガタと上がると、白い部屋の中央に白のベッドが置かれている。その上方には、百合の花のような形をした白い大型照明器具(?)。バックのシモテ上には、トタン幕同様、小さい窓ライトが当てられ、主人公「私」の閉塞状況を示している。衣裳は、「私」が黒のズボンを穿いている以外は、全員白。コロスの女性6人のみがポアントを使用した。

河内の台本は、ベッドに眠る「父」への、「私」の葛藤と苦悩を中心に、「フィアンセ」や「友人」、さらには一種道化の役割をする「メイド」を加えて、人間関係の様々な局面を描く。原作と異なるのは、母が登場せず、父がフィアンセを「私」から奪うという妄想が加わった点。父と子の戦いが分かりやすくなったと同時に、舞踊的な見せ場を作るという効果があった。ただしカフカの分かりにくい自意識の感触は薄らいでいる。

佐多の振付は、モダンバレエの可能性を突き詰めたもの。コロスにはニジンスカの『結婚』のエコーが、メイドの強張ったメルヘン調の動きには、マッツ・エックとの同時代性が息づいて、ダンス・クラシックの語彙に表現主義的要素が加わった、モダンバレエの極北を示す。世代を超えて再演されるにふさわしい作品と言える。

主役の「私」には坂本。ロマンティックなダメ男ぶりが板についている。全身を使った苦悩の表現は塩辛く、そこに坂本のクールな特徴がある。友人・足川欣也(ノーブル!)とのデュオは、二人の長い歴史を感じさせた。

メイドの高部は自在。音楽的な鋭敏さはもちろん、動かない時でも、常にその体になりきる点に、舞台人としての凄みを感じさせる。初役の作間草は、彼女のために作られたとさえ思われるほど、官能的なフィアンセだった。身体を投げ出す思い切りのよさは相変わらず。張り切った美脚も健在だった。また要の父には演技派の堀登。原作の圧倒的な存在感とは異なる、明るく、ややコミカルな役作りは、佐多のカリカチュアを実践した結果なのだろう。

3作とも、振付家の想いがこもった力強いトリプル・ビル。佐多作品の継承については、坂本・高部の芸術的意志を感じさせた。(7/15)

 

★[バレエ] 東京シティ・バレエ団『白鳥の湖

標記公演を見た(7月9、10日 ティアラこうとう大ホール)。2年ぶりの『白鳥の湖』。石井種生版の特徴は、ストイックなまでに抑制されたスタイルと、四幕の劇的パ・ド・ドゥにある。終幕は高速フラッシュと替え玉を利用して、オデットが人間の姿に戻る結末を採用する。前回に続き、演出を金井利久が担当。ゲスト・バレエマスターにローラン・フォーゲル、民族舞踊指導に小林春恵を招いての上演だった。前回から加速したのは、かつての抑制されたスタイル(四幕はスタティックとさえ思われた)が排され、踊り自体の充実を重視するようになった点。言わば固有の文化よりも、グローバルな精神に重きをおく姿勢である。以前はあまりに禁欲的に思われたスタイルだったが、それが石井版のアイデンティティだったのかもしれない。

初日の主役は黄凱と志賀育恵、二日目はキム・セジョンと中森理恵。フォーゲルの指導は、黄の役作りにおいて最も発揮されたのではないか。これまでの絶対的な美しいラインと、気品あふれる鷹揚な演技に、王子の内面の深化が加わって、正統派ジークフリードの完成を見ることができた。惜しむらくは、技術の衰えを隠さなかったこと。正直と言えばそうだが。

志賀は身体の彫琢が極限に達している。これまで踊りの激しさとなって表れたパトスが、現在は動きのきらめき、ひらめきとなって表れている。繊細な腕使い、鮮やかな脚技が生み出す、水晶のように透明な動き。その内部には日本的心情が隠されている。昨年の1幕ジゼルは浴衣姿を想像させたが、今回も上方舞のような情緒を漂わせる和風のオデットだった。艶やかさに、悪戯っ子のような愛らしさを滲ませるオディールも、魅力にあふれる。

二日目のキム・セジョンは、美しい脚線を持つ王子タイプだが、フォーゲルの指導をまだ消化し切れていないように見える。音楽との呼応が感じられなかった。一方中森は、端正な白鳥姿に安定した技術を披露。役作りにも自分ならではの彫り込みを施して、ドラマティック・ダンサーとしての可能性を示した。

王妃は貫禄の高木糸子、ロートバルトはベテラン李悦と中堅の石黒善大。道化の三間貴範(9日)はよく動き健闘、岡田晃明(10日)は、踊り、役作り共に完成されている。パ・ド・トロワは、初日の岡博美・清水愛恵・中弥智博が、スタイルを心得た実質的な踊りを見せた。ディヴェルティスマンでは、スペイン 濱本泰然の美しさ、チャルダッシュ 岡のゴージャスな迫力、同じくチョ・ミンヨン(9日)の男らしさ、同じく高井将伍(10日)の飄々とした人間性が印象深い。クラシカルで音楽性に優れたナポリの松本佳織と玉浦誠は、トロワで見たかった気がする。

指揮の井田勝大は、本拠地同様、自分の音楽を出すようになった。グラン・アダージョは少しテンポが遅すぎて、バイオリンの主旋律が崩れそうになったが。演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。主催は、9日が公益財団法人東京シティ・バレエ団、10日が公益財団法人江東区文化コミュニティ財団ティアラこうとう。(7/20)

 

★[ダンス] カンパニーデラシネラ『ロミオとジュリエット

標記公演を見た(7月15日 東京芸術劇場シアターイースト)。この作品は、2011年9月28日に、世田谷ものづくり学校でも見ている。元教室が舞台。2、3mの至近距離から、子供椅子に座って見た記憶がある。今回は機構の整った劇場。照明・音響・衣裳、演出の細部は変わっていたが、実質は変わらず。小野寺修二の傑作だと思う。

構成・選曲の素晴らしさは言うまでもない。マイム、ダンス、発話を含む演技という、異なる表現形態の繋ぎ目を見せない、練度の高い演出がすごい(他の作品ではダンスが突出することもあった)。さらに、役者のマイム・ダンス・演技の強度を、同レベルにする指導力も。加えて小道具の扱い。ルパージュと共有するローテク志向は、劇場マジックへの愛である。小さい人形・馬・家・喋る胸像などを、生身の肉体と地続きに存在させる力がある。

前回同様、最も驚かされたのが殺しの場面。ティボルトのマキューシオ殺しは、マキューシオの持つトマトを、ティボルトがおもちゃの剣で突き刺すことで表す。ロミオのティボルト殺しは、ティボルトが持っていたキャベツを、ロミオがメチャメチャに千切ることで表す(直前にティボルトは、キャベツを昂然とむしって食べている)。天才の発想。

終幕、ベッリーニ『ノルマ』の清冽なアリアが流れる中、息絶えるロミ・ジュリ。客席ではすすり泣く声も。カラフルなリボンが四方から床に投げられると、二人は立ち上がり、全員でフリスビーを投げ合って、生から死に向かって疾走した二人を祝福するように終わる。

出演者は、ジュリエットとマキューシオ以外は前回と同じ。ロミオの斉藤悠は、持ち前の気品に若者の不安定さを滲ませて、はまり役。ジュリエットの崎山莉奈はしっかりしたお嬢様、パリスとマキューシオの王下貴司は、発声がやや上ずっていたが、観客との繋ぎ役をにぎやかに務めた。神父とキャピュレットの大庭裕介は自在、意識が丹田にある。乳母の藤田桃子も、もちろん自在。前回は「ホニャラガ」を連発し、台詞を端折っていたが、今回は、小声で喋る技を駆使して、乳母の滑稽味を見せる。客席のくしゃみに節度を保って反応するのは、いかにもももこん。小型ティボルトの小野寺は、疲れ知らず。キャベツのむしり喰いのみで、ティボルトの不敵な性格を表した。

直前まで学校巡回公演に参加し、25回ほぼ連日の過酷なスケジュールをこなしている。通常の演劇よりもはるかにきつい気がするが、これほど面白い芝居を見ることができた子供たちは、幸せだと思う。(7/22)

 

★[バレエ] 松崎すみ子@バレエ団ピッコロ55周年記念発表会

標記発表会を見た(7月16日 練馬文化センター)。ほぼ5時間に及ぶ記念発表会。定番のパ・ド・ドゥやヴァリエーションに加えて、松崎すみ子の振付作品が随時入り、最後に松崎えりの振付を一部加えた『カルミナ・ブラーナ』が上演された。今回は昨年亡くなられた夫君、松崎康通氏の追悼発表会でもあった。康通氏によるメルヘンチックなプログラム表紙絵が素晴らしい。人間、妖精、動物が楽しげに、自由な時間を生きている。夫君のこうした世界をバックに、松崎は作品を思う存分作っていたのか、と思わされた。

男女PDD「春風にのって」や少女デュエット「姉妹」には、松崎のポジティヴな世界観がよく表れている。踊る子供たちも、まず存在が肯定され、その上で、松崎の振付に導かれて、愛にあふれた世界を作り出している。いわゆる児童舞踊の達者さは全くなく、自然に身の丈で踊る。結果として、その子供の最もよい所が引き出され、観客はイデアのような子供らしさ、少女らしさを舞台で見ることになる。現在を肯定する松崎の真っ直ぐな視線、人間そのものを愛する松崎の力を、改めて感じた。

カルミナ・ブラーナ』は、作品の原点に立ち返ったような祝祭的空間だった。大人から子供まで、音楽に乗って次々に踊る。篠原聖一、堀登、小原孝司によるベテラントリオは、それぞれの個性である、美しさ、クリティカルな動き、大きさを発揮。篠原、堀と組んだ菊沢和子の江戸前の味わい(ブルノンヴィルが合いそう)、中村えみと小原の情感豊かなパ・ド・ドゥなど、振付の妙味も味わうことができた。松崎えりと増田真也のパートは毛色が異なるが、それさえも包み込むのが松崎の世界。磁場を作る太陽のような存在と言える。

発表会には、下村由理恵(篠原作品)、西田佑子・黄凱(『白鳥の湖』第2幕)、交流のあるベルギーのジョゼ・ニコラ・バレエスタジオ生たち(創作『Swan Lake』より)が参加し、55周年を華やかに祝った。(7/26)

 

★[バレエ] 井上バレエ団『コッペリア

標記公演を見た(7月24日 文京シビックホール)。関直人版『コッペリア』の特徴は、優れた音楽性に裏打ちされた踊りの数々。民族舞踊から、クラシック・ヴァリエーションまで、関独自の音取り、音楽解釈が散りばめられている。終幕のギャロップでは、踊る者、見る者全てを巻き込む、熱風のようなエネルギーが劇場に充満し、帰路の足取りを軽やかにした。

バランシンの影響を受けた関の作品は、古典改訂であっても、シンフォニック・バレエの要素が顔を覗かせることがあるが、本作は、ロマンティック・バレエの形式を重視し、マイムを多く残している。関の優れた音楽性を舞踊で体験し、細やかなマイムで演劇性を味わえる、理想的な『コッペリア』と言える。

主役は2組。初日のスワニルダは宮嵜万央里、フランツは荒井成也、二日目は西川知佳子、中ノ目知章(ドイツ国デュッセルドルフ歌劇場・デュイスブルク歌劇場バレエ団ソリスト)、その二日目を見た。久しぶりに、井上らしい主役を見た気がする。かつての藤井直子ほどには苛烈ではないが、自分を数に加えない、自己放棄する西川のあり方は、井上のプリマの伝統に則っている。藤井は巨大なオーラで舞台と客席を覆っていたが、西川は無意識の真空とでも言うような、不可思議な求心力を発揮した。パ・ド・ドゥではパートナリングの問題か、滞る部分が見受けられたが、それを物ともせず踊り切ったことは、藤井にも見られた主役にふさわしい美徳である。

中ノ目は、一度見たら忘れられない強烈な個性の持ち主。長身で脚長。正統的技術を持ちながら、熱さをまき散らすようなキャラクター色の強い踊りを見せる。ソロルとか、彼のために作られた物語バレエの主役(何かとんでもなくドラマティックな役柄)を踊りそうな気がする。

コッペリウスの本多実男は、ノーブル寄りの役作り。1幕の可愛らしいスワニルダ友人、ノーブル系を揃えたフランツ友人、チャルダッシュの福沢真璃江、中尾充宏のスタイルを心得た溌剌とした踊りが印象深い。2幕では中国人形の桑原智明が、開脚ジャンプで場を盛り上げ、3幕では、原田秀彦市長が取り仕切って、ディヴェルティスマンを開催。戦いの荒井英之、土方一生、貫渡竹暁のゲスト陣が、爽快な踊りを見せた。団員は関振付の素晴らしさを十全に伝えている。

ロイヤル・チェンバーオーケストラ率いる冨田実里は、前奏曲こそどうなることかと思ったが(ホルンの重奏部分のせいで)、ドリーブの闊達なエネルギーを舞台に滞りなく送り込んだ。(7/30)

 

★[バレエ] 日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」

標記公演を見た(8月3日 新国立劇場オペラパレス)。文化庁公益社団法人日本バレエ協会が主催する「全国合同バレエの夕べ」が、今年も開催された。文化庁・次代の文化を創造する新進芸術家育成事業の一環である。全国の若手ダンサーに、オーケストラ演奏での古典バレエや多様な創作物を踊る機会を与え、同時に新進振付家に作品発表の場を与える、有意義な企画と言える。通常は2日公演のところ、今年は会場の都合で1日のみ。6支部、東京地区、本部出品の合計8作品は例年よりも少な目だが、依然として復興途上にある東北支部が、3年ぶりに参加し、内外で活躍するダンサーの現在を披露するなど、充実のプログラムだった。

今回は古典3作に対し、コンテンポラリー・ダンス4作と逆転現象が起きた(本部は恒例となった『卒業舞踏会』)。クラシック・ベースの創作はなく、全体に二極化した印象。まずは存在感を高めたコンテンポラリーから、上演順に、中国支部の『Nutella』(振付・キミホ・ハルバート)。バッハ、マイケル・ナイマン、ロバート・モーランの音楽をバックに、日常を慈しむ風景が15人の女性ダンサーによって描かれる。ハルバート初期の作品で、優れた音楽解釈、健康的なユーモア等、振付家の美点が生きている。若いダンサーにとって、コンテンポラリーの語彙に、地続きの感覚、等身大の踊りで取り組める入門好適作品。

信越支部の『Fly to moon, after me』(振付・高部尚子)は、2013年山梨国民文化祭で初演された。20人の女性ダンサーが、オーウェン・バレットの激しい現代曲で、立石勇人の宇宙的映像をバックに踊る。振付には、クラシック・ダンサーでなければ踊れない容赦ない技巧が含まれ、振付家の技巧家としての側面を思い出させる。だが何よりも、音楽を腑分けするその細かさ、鋭さ。変拍子の曲を自在に動きに変換する力がある。フォーメイションには幾何学的な計算を見せる一方、音楽を入れた体が、動きたいように動く、ある意味野蛮な振付で、圧倒的なパトス、訳の分からなさが充満。終盤は高部独特の過剰さに満ち満ちていた。

九州北支部の『Eat me, Eat me』(振付・大島匡史朗)は、15人の女性ダンサーと大島自身が踊るスケールの大きい作品。フォルムで見せるモダン系のパートと、発話を導入するコンテ系のパートが組み合わさっている。若いダンサーに自らの言葉で語らせる試みは、彼女たちにとって大きな経験となるだろう。ただし、ダンスそのものの魅力は、大島と女性一人が並列して踊った場面で発揮された。こうした求心力のある部分を、もう少し見たかった気がする。

九州南支部の『The Absence of Story』(振付・島崎徹)は、題名に反して、物語を濃厚に感じさせる作品。ブラームスのバイオリン・ソナタで、紫と茶の膝下丈ドレスを着用した14人の女性ダンサーが踊る。衣裳からも分かるように、モダンダンスの色合いが濃厚。ただし、一見モダン回帰と思わせながら、コンタクトを取り入れ、コンテの語彙を加えたハイブリッド・ダンスである。言わばオーガニック・グレアムといった趣。音楽と呼吸が完全に一致し、互いに気を発しながら踊るので、体によい踊りに見える。フォルムは美しいが、形だけではない。大地のエネルギーと直結した強靭な美しさがある。

古典3作は、幕開けの東北支部『パキータ』(改訂振付・佐藤茂樹)から。BRB所属の淵上礼奈と、ネバダ・バレエシアター所属の田辺淳を主役に、2人の女性ソリスト、アンサンブルが、明るく華やかな踊りで日頃の成果を披露した。淵上の堂々たる存在感、田辺の切れ味鋭い正統派ヴァリエーションが、支部のダンサー育成力を物語る。2人のソリストも魅力あふれるヴァリエーションを見せた。

関東支部の『ドン・キホーテ』第二幕より‘夢の場’(再振付・指導・西山裕子)は、ドルシネアに工藤彩奈、森の女王に西櫻子、キューピッドに江田有伽という布陣(ドン・キホーテ役は省略)。工藤は美しい体の持ち主。ミスが惜しまれるが、主役にふさわしい輝きで舞台を統括した。西の大きさ、江田の行き届いた踊り、優雅さを意識したアンサンブルと、全体に丁寧な作り。ダンサー西山の抜きん出た特徴である素晴らしい音楽性が、さらに反映されていたらと思う。

東京地区の『海賊』より‘花園の場’(改訂振付・本多実男)は、メドーラに平田沙織、グルナーラに清水愛恵、オダリスクに根岸莉那、青島未侑、斎藤ジュンという布陣。平田はもう少し強度が欲しいが、美しいラインでたおやかなメドーラを造形、清水は、メドーラの犠牲となる人の好い役どころが合っている。オダリスクでは第3ヴァリエーションが実力を発揮。アンサンブルを含め、全体に伸びやかで明るく、踊りが大きい。観客の呼吸が楽になる、ベテランらしい舞台作りだった。

最終演目は本部出品の『卒業舞踏会』(原振付・リシーン、改訂振付・ロング、指導・早川惠美子、監修・橋浦勇)。ドラティ編曲のヨハン・シュトラウスが強力な推進力を誇る、優雅で軽やかな一幕物。年ごとの配役が楽しみな、バレエ協会の貴重なレパートリーである。老将軍には、正確な踊りにコミカルな演技が生えるマイレン・トレウバエフ、女学院長は母性的でグラマラスな樫野隆幸が務めた。ラ・シルフィードの寺田亜沙子、スコットランド人の奥村康祐が、ロマンティシズムを奏で、鼓手の惠谷彰が、熟練の妙技を見せる。第一ソロの宮崎たま子は爆発的演技を、第2ソロの平尾麻美は、逢引きするようには見えないが、しっかり者の役どころを押さえている。愛らしい無窮動の星野姫を始め、若手・中堅ダンサーが一丸となって、夏の祝祭的な公演を締めくくった。 指揮は、舞曲の熱いパワーを舞台に注ぎ込んだ福田一雄、演奏はシアター・オーケストラ・トーキョーによる。(8/10)

 

★[ダンス][その他] 西岡樹里+中間アヤカ@「トヨタコレオグラフィーアワード」

標記コンクールを見た(8月6日 世田谷パブリックシアター)。最後の「トヨタ」ということもあったが、主な動機としては、西岡樹里、中間アヤカが出演したため。西岡は、1月の横浜ダンコレの『無・音・花』(振付:チョン・ヨンドゥ)で初めて見て、その優美な踊りに引き込まれた。中間は、高知県立美術館制作『ZERO POINT』(振付:ダレン・ジョンストン)のリハーサル見学で見て、他のダンサーとは全く異なる内発的な踊りに惹かれた。さらに、その滑らかな踊りと意識の集中が、先の西岡と酷似していた。見学後、中間に尋ねてみると、共に神戸のDance Boxが主催する「国内ダンス留学@神戸」の一期生であることが分かった。

西岡は伝統舞踊を思わせる優雅な様式美、中間は野性的な奔放さを個性とし、それぞれ神戸女学院大学ランバート・スクールと出自も異なるが、踊りの質は同じ。と言うことは、共通する「国内ダンス留学」の影響なのだろうか。カリキュラムには舞踏、コンテンポラリー・ダンスが並び、日本人ダンサーの可能性が追求されている。今回の上野愛実振付『under』においても、印象は変わらなかった。西岡は四方に飛び散るような鋭いソロを踊ったが、優美さは相変わらず。中間は何をするか分からない危険な香りを発散させた。

コンクールの作品傾向は、デジタル系、ストリート系、洋物志向。上野のみが分からないことをぐずぐずやっていて、何をやっているのかじっと見てしまった(2人のダンサーを確認する必要もあったが)。

審査員の中に批評家はいない。すべて劇場、美術館等のプロデューサー。ゲスト審査員にようやく実演家が入る。単純に考えると、振付家たちは、まず劇場のコンテンツであることを目指してしまうのではないか。商品を作ってしまうのではないか。自分を売ってしまうのではないか。現在面白い(または理想的な)審査員陣容を整えるなら、まず乗越たかおと武藤大祐を入れること。二人の戦いから、とんでもない振付才能が生まれると思う。(8/7)

 

★[バレエ] 橘秋帆(牧阿佐美)@第42回「日本ジュニアバレエ公演」

標記公演を見た(8月13日 文京シビックホール)。主催は公益財団法人橘秋子記念財団。牧阿佐美は現在、新国立劇場バレエ研修所の他、橘バレヱ学校、日本ジュニアバレヱ、A.M.スチューデンツ、牧阿佐美バレエ塾と、5つの教育機関に携わる教育者だが、今回の公演では、振付家としての牧に注目した。

第二部『サーカス・ヴァリエーション』(音楽・湯浅譲二)と『クラシカルシンフォニー』(音楽・プロコフィエフ)の2作。初演年は記載されていないが、動きの奔放さから、牧の若い時期の作品であることが分かる。変拍子を含む現代曲を溌剌と動きに変え、そこに生き生きとした喜びを感じさせる。上体の思いがけないアクセント、ポアントを細かく使うアレグロの早さに、牧振付の特徴が覗える。

第一部の『行進曲』は、ウォルトンエルガーヨハン・シュトラウスワーグナーの行進曲を使用した4部構成。振付は橘秋子、牧が改訂を施している。第二部作品に比べると、空間の使い方が大きく(作品の性格も異なるが)、橘秋子の構成力と世代の差を感じさせる。牧は当然、母の作品に対抗して、振付を行なってきたのだろう。フォーメイションを含む空間構成よりも、自分の身体に即した音楽的振付に、快感を感じているように見える。牧自身は、モダンな空間構成を模索してきたと言うかもしれないが。

今月末の牧阿佐美バレヱ団新作『飛鳥』は、秋子の『飛鳥物語』を土台に、牧が改訂演出・振付をする新作。母と子のどのようなコラボレーションが見られるのか、また母に対する牧の思いがどのように表れるのか、注視したい。(8/14)

 

★[バレエ] 牧阿佐美バレヱ団新制作『飛鳥』

標記公演を見た(8月27日 新国立劇場オペラパレス)。本作は、1957年初演の『飛鳥物語』(台本・振付:橘秋子)を基に、牧阿佐美が改訂演出・振付を行なった、言わば親子合作の創作全幕である。山野博大氏によると初演当時、バレヱ団の母体である橘バレヱ学校では、教科に舞楽を取り入れていた。初演版は、舞楽指導者の宮内庁楽部楽長・薗広茂が雅楽を編曲、橋本潔が美術を担当したという(プログラム掲載文より)。その後、62年に片岡良和のオリジナル音楽、三林亮太郎の美術で、プロローグとエピローグ付き三幕四場のグラン・バレエに改訂され(同文)、65、69年に再演、76年に牧が振付改訂を行い、86年の再演を経て、今回の二幕版に至っている。

音楽は片岡(音楽監督福田一雄)、美術監督は洋画家の絹谷幸二、映像演出はZERO-TEN(代表:榎本二郎)、照明デザインは沢田祐二、衣装デザインは石井みつる(オリジナルデザインより)と牧、振付アシスタントはイルギス・ガリムーリンという布陣。装置は神棚と宮司の座る椅子のみ。後はプロジェクション・マッピングを用いて、情景を転換する。3幕から2幕へ圧縮したことと、常に変容する映像を用いたことにより、モダンでスピーディな新版となった。

片岡の音楽は日本的なリリシズムを基調とし、雅楽管弦楽編曲やピアノを含む、幅広く変化に富んだバレエ音楽だった。日本オリジナルのバレエ音楽として、山内正の『角兵衛獅子』、湯浅譲二の『サーカス・ヴァリエーション』と共に、バレヱ団の貴重な財産と言える。

ZERO-TEN演出の映像は、絹谷のサイケデリックな龍の絵、山里の絵を中心に、62年の三林美術を基にした情景、宇宙的、俯瞰的な抽象図が、音楽に合わせて繰り広げられる。水泡が浮かび上がる様やホタルの乱舞、滝、雲など、自然と密着した映像が多く、森林浴のような効果があった。二幕の舞姫ソロのバック、若草+灰+群青色のグラデーションは、奈良の自然を思わせて素晴らしい。榎本代表の言葉、「映像は、舞台セットのみならず、時にそれは音楽に寄り添い包み込むような柔らかい表現であり、あるいはパフォーマンスと連動したシャープな表現であり、音楽とパフォーマーとの間を自由に行き来しながら変形していくものです。その映像がもたらす無形の刺激こそが、舞台に一体感を生む上で、大きな役割を果たすと思っています」(プログラム)が、そのまま実行された高レベルの演出。「見るための映像」から「体験して経験する映像」への進化を、自立した芸術メディアとして目の当たりにした。

牧の演出は、時間的な速さを強調したモダンなもの(橘版は未見だが、『角兵衛獅子』から推測すると、骨太な構成と空間的なスケールの大きさが特徴だったと思われる)。振付はバランシンに影響を受けた世代らしく、速い足技を含むアレグロに特徴がある。一幕のディヴェルティスマン、二幕の竜の饗宴とも、工夫を凝らした踊りの数々だった(ベジャール風の雄竜アンサンブルあり)。一方、演劇的流れの点では、一幕最後の愁嘆場に分かりにくさが残った。本来は演劇よりも音楽に親和性を持つ振付家だと思う。

物語は飛鳥時代の都が舞台。竜神を祀る宮の舞姫、兄妹のように育った若者、竜神竜神を愛する黒竜が、愛と嫉妬のドラマを紡ぐ。神に仕える舞姫という点では『ラ・バヤデール』、黒竜との対比では『白鳥の湖』、終幕の舞姫と若者による瀕死のパ・ド・ドゥは『マノン』を連想させるが、舞姫の所作や心境には、日本的な土壌が反映されている。

主役は、飛鳥時代の国際性を踏まえて、ロシア人が勤めた。舞姫の春日すがる乙女には、スヴェトラーナ・ルンキナ(カナダ・ナショナル・バレエ団プリンシパル)、若者の岩足にはルスラン・スクヴォルツォフ(ボイショイ・バレエ団プリンシパル)。二人はすでに『白鳥の湖』でゲスト出演を果たしている。竜神にはバレヱ団の菊地研が配された。

ルンキナは元々繊細な抒情性が持ち味だったが、今回はさらに磨きがかかり、一幕の榊を持って踊る神聖なソロは、日本人かと見まがうほどだった。グラン・プリエから八の字を描く独特の脚の踊りを丁寧にこなし、上体の楚々とした佇まいに、神に仕える身の気高さを加えて、竜神の妻に選ばれた舞姫の心境を表した。元牧バレリーナ・川口ゆり子のストイックな抒情性を思い出させる。二幕の竜神の妃としての踊りは、やや弱さが見られたが、岩足の愛の象徴であるこぶしの枝を持って踊る哀切なソロでは、本領を発揮した。対するスクヴォルツォフは、ゆったりとした大きな踊りに優れたパートナーシップを備えたボリショイらしいダンスール・ノーブル。誠実な人柄が役と合っている。

菊地の竜神は、天を治める大きさよりも怒りや厳しさに重点を置いた役作り。力強く伸びやかな黒竜の佐藤かんなとは、ロットバルトとオディールのような相性の良さを見せた。佐藤は独立した意志のある踊りが素晴らしかった。

竜剣の舞と金竜を踊った青山季可の、隅々まで神経の行き届いた主役の踊り(カーテンコールでのゲストに対する心配りも)、日高有梨とラグワスレン・オトゴンニャムの美しいパ・ド・ドゥ、清瀧千晴の晴れ晴れとした回転・跳躍技、清瀧が要となった二つのトロワ(織山万梨子と阿部裕恵、須谷まきこと太田朱音)の充実が印象深い。

逸見智彦、森田健太郎、塚田渉、京當侑一籠の清々しい舞楽、保坂アントン慶(祭司)、坂西麻美(宮司)の引き締まった演技も加わり、バレヱ団の底力を示す新版初演だった。

デヴィッド・ガーフォースの指揮と東京フィルの演奏が、片岡音楽を生き生きと蘇らせる。コンマス・三浦章宏の抒情的なソロが素晴らしかった。(8/31)

 

★[ダンス] 現代舞踊協会「夏期舞踊大学講座」

標記講座を見学した(9月3、4日 国立女性教育会館)。今年はエミール・ジャック=ダルクローズとルドルフ・ラバンという興味深い取り合わせ。モダンダンスとコンテンポラリー・ダンスを考える上で、重要な身体思想家である。

開講式は、妻木律子研究部部長の進行で、正田千鶴研究部担当常務理事が挨拶をした。「自分は大学を出ていないので、コンプレックスがある。それで舞踊大学と名付けた。皆さんはこの二日間、自分を捨てて、講座に臨んでください」と檄。因みに、閉講式では「最初に自分を捨てて、と言いましたが、それは終わり。これまで習ったことはもう過去のこと。全部忘れて、自分に戻ってください(概要)」と、正田氏でなければ言えない言葉で締めくくった。

一日目は「ダルクローズ(リトミック)の講話と実技」が午前・午後に行われた。講師は折田克子、山口晶子、講師補佐は早川ゆかり、熊谷乃里子、男性一人。音楽家で小林宗作からリトミックを習った山口氏が、簡潔に理論を話し、折田氏が実技を指導する。受講生は中学生から70代までの30人強。特別ゲストダンサーの元Noism&元フォーサイス・カンパニーの島地保武も加わり、リズムを呼吸と共に体で表す。二人組になったり、大きな円を描いたり、最後は各自の選曲でグループに分かれ、創作を行なった。

ダルクローズのリトミックを、石井みどり折田克子が舞踊に適した形にしたとのことで、いわゆるリトミックよりも、体操に近い印象を受けた。折田氏によれば「手は二拍子で、足が三拍子というのもある。アウフタクトも」とのことだが、一日で習得できるテクニックではないので、受講生は一端に触れたという感じではないか。

指導する折田氏の美しい体が最も印象的だった。どこにも力が入っていない自然体の身体。武道家と違うのは、すっくと立っていること。やはりダンサーの体なのだ。体の切り返しはミリ単位で鋭く、東洋人舞踊家の究極の姿を見た。

二日目は午前に、ラバン研究家の大貫秀明氏による「ラバン理論講話」と、日本舞踊家でラバンセンター留学経験のある西川箕乃助氏による「ラバン体験講話」があった。大貫氏は図入りのハンドアウトを用意。動画も使用しながら、ラバンの生涯とスペース理論を中心に語った。途中、ダンサーによる模範演技も入り、分かりやすくて面白い講話だった。一方、西川氏は素手で勝負。留学の経緯や、授業の様子、ラバンの影響を実演家らしく、率直に語る。当初は、ラバンの影響について否定的だったが、質疑応答などを経て、やはり影響はあったということを徐々に認められた(と思う)。

昼休憩に機会があったので、お二人に質問をした。大貫氏には、前日予習したことでの疑問。「ラバンは神秘主義に惹かれる面と、メディア=動きそのものを分析する面と両方あるが、それはどういうことか」。大貫氏「それは不思議でも何でもない。両面あるということ。ロンドンではいまだにラバンの神秘主義を継承した集団が残っている。ラバンセンターはフリーメーソンとラバンの関わりには言及しないが」。予習した神秘主義としては、スーフィ・イスラム、バラ十字、グルジェフとの類似、フリーメーソンユングが挙がっていた(International Encyclopedia of DANCE, Oxford UP)。大貫氏の講話では、さらにシュタイナーの名前も。一方、メディア分析を残すためのノーテーションへの興味は、パリ時代に始まっていたという(大貫氏の講話―フイエの舞踊譜を研究した)。ただしラバノーテーションの確立は、弟子のアン・ハッチンソンによるとのこと。講話ではプラトンの正八面体、正六面体、正二十面体を用いたラバン理論の説明があったが、神秘主義とメディア分析の合体のようなものだろうか。因みに大貫氏は、柔道と空手の経験者とのこと。

西川氏には、昨年の「西川会」で見た清元『青海波』(振付:西川箕乃助)について質問。「10人の女性舞踊家が踊る群舞作品の出し入れやフォーメイションに、洋舞の影響を感じたが、ラバンと関係があるのか」。西川氏「関係はない」とのことだった。作品については当ブログ(2015.10.30)参照。「元々日舞には群舞というものはない。戦後新しい局面を求めて、モダンダンスとの交流があったが、現在の自分の考えでは、古典を大切に継承していきたいと思っている」(西川氏の講話)。

二日目の午後は、受講生31人がソロを披露することになった。それに対し講師の方々がコメントを寄せる予定だったが、大貫氏の提案(?)で、観客席に集った舞踊家、批評家が手分けして、2、3人を担当することになった。受講生のソロも個性があって面白かったが、舞踊家(と批評家)のコメントも面白かった。コメントと自分の舞踊信念が直結している。最後に大貫氏が講評を述べて、新たに5人の受講生を選出。5人によるインプロ創作を鮮やかな手際で指導された。続いて、中村しんじ氏進行で、折田、西川、大貫、島地4氏による丁々発止の鼎談。会場からの質問も活発に行われた。

ゲストダンサーの島地は、2日間にわたり、会場の体育館(残念ながら冷房・扇風機なし)を浮遊していた。一日目夜には、受講生との交流もあったのだろう。帰国当初は、体がやや強張っていたが、徐々にほぐれて、本来の柔らかな体に戻りつつある。Noismに入る前、師匠の加藤みや子作品で砂まみれになり、黄粉もちのように柔らかく踊っていた姿を思い出した。(9/6)

 

★[バレエ][ダンス] ラバン×フォーサイス@譲原晶子著『踊る身体のディスクール

標記著作は、2007年に出版された舞踊研究書である(春秋社)。以前にも目を通し、その時はバレエ用語の変遷に興味が向かったが、今回は、先日の夏期舞踊大学講座で、ラバンの専門家とフォーサイス・ダンサーが同時に居合わせたことの意味を確認するために、読み返した。示唆を受けた箇所を、抜書きする。

  • バレエ・パントマイムの時代に、さまざまな身体の立ち姿が舞踊作家によって構成されるようになり、「アチチュード」の概念がバレエにおいて重要な位置を占めるようになった。すると、それまでは他者に対して「身を控える」ことを意味していた「エファッスマン」や身体の自然の法則と考えられていた「オポジション」が、「アチチュード」を造形するための重要な概念となっていった。しかし、これらの概念は次第に、「体軸を捻る」という造形法つまり「エポールマン」の概念に集約されていき、ここから「クロワゼ―エファッセ」は二〇世紀のバレエに引き継がれ、バレエの姿態造形の基本概念となっていった。(pp.186-7)
  • フォーサイスは、エポールマンを「捻り torsion, counter turning, counter twisting」という言葉で説明している。彼は、エポールマンをベースにした複雑なねじれの連鎖をバランシン・テクニックから学んだ、と述べている。バランシン、フォーサイスは、エポールマンを「絞りによる造形技法」と捉えることによって二〇世紀の抽象バレエを先導した代表的振付家である・・・現在バレエのクラスでは、エポールマンは、古典の表現法として、そして抽象的身体の造形技法すなわちバレエの身体を操るテクニックとして、二重の意味で教えられている。(pp.189-90)
  • フォーサイスは「エポールマンとは、頭、手、足の関係であり、相対するねじり、ひねりをきっちりと規定する・・・こうしたバレエ固有のフォルムをつくるのに意識を集中すれば、多幸 euphoria 状態に達するであろう。私は多幸瞑想のようなものとしてこれを教わった」と述べている。(p.194)
  • ラバンは表現主義とともに抽象舞踊の確立を目指していた。しかし、「内なる精神体験」を表現しようと、舞踊のメディア自身すなわち舞踊家自身がそれに浸れば、自らが踊りを構成しようという態度とは裏腹に、極度な主観主義へと陥る危険性がある・・・その一方で、記譜法に対する興味は、人々の「動きそのもの」への関心、「作品構成」への関心を高めた。譜に記し構成しようという態度は、舞踊が主観主義から脱却していくための道筋を開いた。(p.205)
  • 「譜を書いて舞踊を創作する」という方法論の研究を先駆けて手がけたのは、ポストモダンダンサーたちであった。彼らはまず作曲家ジョン・ケージの影響を受けたのだが、彼らの活動で指導的役割を果たしていた音楽家、ロバート・ダン Robert Dunn(1926-1996) はラバンの理論を学んでおり、「シュリフト・タンツ(書かれた舞踊)は舞踊を発見するための方法であり、ラバンのアイデアで重要なのはタンツ・シュリフト(舞踊記譜法)ではなくシュリフト・タンツ」と述べている。(p.226
  • 振付家フォーサイスが開発したのは舞踊用語の体系であった。創作の道具として使用されるという点、しかも即興のためのツールになるという点、これまで取り上げてきたポストモダンダンサーたちの譜と、果たす役割はおなじである。フォーサイスは、古典バレエのシステムにラバンの理論を取り入れて、独自のバレエ言語体系を構築した。彼の言語体系がバレエとラバンの理論の混成であるということは、フォーサイスのバレエ言語の中心概念、「ジェネレータ generator」と「モディファイア modifier」という用語に、そのまま表れている・・・フォーサイスは、身体から動きを引き出すためのしかけのことを「ジェネレータ」と呼んだ。それは、ラバンの「空間」あるいはポストモダンダンサー達が設定した「ルール」と同じである。フォーサイスは、ラバンが考案した仮想立体「ラバン・キューブ Laban cube」を、重要なジェネレータの一つとしてあげている。(pp.235-6)
  • フォーサイスのバレエ言語が古典バレエと大きく異なる点は、ジェネレータの存在にある。古典バレエでは、核となる動きは、「パ」というポジティヴな動きによって与えられ、それに変形操作が加えられる。これに対してフォーサイス・バレエでは、核は「ジェネレータ」というネガティヴな枠組みであり、そこから多様な動きが立ち上げられる。前者は舞踊語彙あるいは特定の動きの素材を創作の前提にしているのに対して、後者はそれを前提としていない。ジェネレータを基に創作を始めるというフォーサイスのやり方は、ラバンそしてポストモダンダンサーという系譜において成熟していった、二〇世紀舞踊の方法論的遺産である。(p.237)
  • 譜や言葉で実演者に指示を与えるのには二つ方法がある。一つは「手続き」を指示する方法、もう一つは「結果」を指示する方法。古典バレエは、パという慣習化された動きを舞踊語彙としてもち、バレエ・ダンサーは、パの名前をいわれれば特定の動きの「結果」を生み出せるように日頃から訓練されている。一方、「コンポウズド・インプロヴィゼーション composed improvisation」では「手続き」のみが記され「結果」は記されない。「結果」は、実演者によって創作されることが求められている。「結果」未定のまま「手続き」のみを指示すること、これがポストモダンダンサーやフォーサイスが譜や言葉を通して行なってきたことである・・・こうした方法論は、身体を表現メディアとする舞踊芸術にとって、とくに有効なのである。というのは、振付家が「手続き」を投げかけ、舞踊家から「結果」が引き出されるとき、それは身体に投げかけられ身体から引き出される。そこからは何が引き出されるのか本当に分からない。楽器は特定の使用目的に即してつくられているから、使い方も限定されているし、出せる音も限定されている。しかし身体は人がつくったものではないし、使用目的もない。舞踊の場合、「手続き」と「結果」の間のギャップには、身体というメディアの無目的性が横たわっている。(pp.240-1)

*本文中の引用には註が付いていたが、省略した。(9/12)

 

★[バレエ] 谷桃子バレエ団「貴女の人生に、“Bravo”谷桃子追悼公演

標記公演を見た(9月23日 めぐろパーシモン大ホール)。バレエ団創立者でプリマ・バレリーナだった谷桃子は、昨年4月26日に94歳の生涯を閉じた。前年の8月26日には、厚い信頼で結ばれた舞台パートナー、小林恭を失っている(享年83歳)。葬儀で、声を振り絞るようにして弔辞を述べた谷の姿が、今でも思い出される(葬儀場には、谷と同じ年の10月3日に逝去された藤井修治氏の姿もあった)。

プログラムは、谷振付の『ラプソディ』、『瀕死の白鳥』、『リゼット』、伊藤範子振付の『追憶』、『ジゼル』第2幕(谷桃子版)の5作。創作が2本入った点に、古典と創作を両輪に活動してきたバレエ団の特徴が表れている。伊地知優子氏の言葉、「谷桃子の豊かな表現力は、天性の素質に加え、現代舞踊から入った舞踊歴にも起因するように思います。」(プログラム掲載文)は示唆的だった。谷の出自と、バレエ団から多くの振付家が輩出されたことは、無関係ではないと思う。

公演に先立ち、ロビーで関係者(山野博大、福田一雄、齊藤彰、八代清子、天野陽子、石井清子、鈴木和子)によるトークショーが、映像を交えながら行われた。印象的だったのは、谷の最初の生徒で、後に独立分裂し、東京シティ・バレエ団の創立に加わった石井清子の話。「地方巡業の時、谷先生が、公演が終わったら温泉に行こうかとおっしゃって、二人で行ったことがよい思い出。『ジゼル』のパ・ド・シスを踊っていた時、谷先生のジゼルを抱きかかえるパヴロワ先生が、私の膝に乗っかっていて重い、という思いを覚えている」。また山野博大氏は、「谷さんの引退公演『ジゼル』の相手役を、バレエ団最若手の三谷恭三に指名したのは、谷さん自身と聞いている。三島由紀夫台本の『ミランダ』(明治百年記念)は、谷さんの曲馬団スターを、魚河岸のあんちゃんたちが取り囲む作品。橘秋子と石田種生の振付。再演してほしい」。福田一雄氏「作曲は戸田邦雄です」等。

公演では、最初に谷の舞台写真を映像で流し、最後は、舞台後方に掲げられた谷の写真に向かって、出演者全員が一礼し、拍手(Bravo)を送る演出で締めくくられた。

創作2本は師弟コンビによる。谷作品『ラプソディ』(1977年、ラフマニノフ曲)は、白いショート・スカートの女性15人が踊るシンフォニック・バレエ。月明かりを思わせる青白い照明(足立恒)の下、トップの雨宮準を中心としたシンメトリー・フォーメイションが、厳粛で慎ましい儀式を思わせる。『ジゼル』、『白鳥の湖』、『ラ・バヤデール』のバレエ・ブランを援用し、プティパへのオマージュを捧げる一方、スタイルはモダンなバランシン風。音楽性よりも、構成やフォーメイションへの意志が前面に出た作品だった。『ロマンティック組曲』と共に、レパートリー保存を期待したい。

谷桃子の激情は、弟子の演出・振付法に引き継がれたのかもしれない。伊藤作品『追憶』(2015年、ドビュッシーショパン曲)は、師を月になぞらえ、その光に包まれて、22人の黒衣の男女(女性は後に白ドレス)が踊るドラマティックな作品。竹内菜那子と檜山和久をトップに、男女の愛、男性の孤独など、様々な感情が舞台を席捲する。振付家・伊藤の特徴は、振付の個別性よりも、動きから激情へと持っていく力、さらにそれを畳み掛ける強度にある。音楽理解(音楽「解釈」よりももっと音楽に接近している)とドラマを結び付け、感情の渦を次から次へと生み出していく。最後は、師に花を捧げて、逆立つ波のようなフォーメイションで劇的に終わった。演出家としての伊藤の美点は、クラシック&モダンのスタイルを熟知し、それに沿って、ダンサーから、自分を超える演技、普遍的な感情を引き出す点にある。伊藤作品に出演するダンサーたちは、自らの全てを舞台に投入し、役に奉仕することになる。ドラマを知るスタイル主義者として、今後、古典改訂に力を発揮すると思われる。

古典3作は、谷の好んだ作品。佐々木和葉による『瀕死の白鳥』、齊藤耀、三木雄馬、アンサンブルによる『リゼット』抜粋、佐藤麻利香、今井智也、齊藤拓、赤城圭、林麻衣子、アンサンブルによる『ジゼル』第2幕が、谷に捧げられた。『ジゼル』は故高田信一氏の編曲を、指揮の福田一雄氏が復活させた。最後のドラマティックな幕切れに加え、アルブレヒト登場、ウィルフリードとのやりとりも再現したとのこと。振付は谷桃子版。ドラマトゥルギーに基づく考え抜かれた演出・振付を、現役世代が説得力をもって実現した。特に齊藤が演じたヒラリオンの造形は魅力的。振付も随所で異なるが、現行版よりも演出家の手を感じさせる。高田氏編曲の谷版全幕復元を期待したい。(9/29)

 

★[バレエ] ミラノ・スカラ座バレエ団『ドン・キホーテ

標記公演を見た(9月24日 東京文化会館)。ミラノ・スカラ座は1980年にヌレエフ版を導入した。パリ・オペラ座は1981年に導入しているので、こちらの方1年早い。同じヌレエフ版でも、スカラ座の方は、演技が自然。演者の体の力が抜けている(以前スカラ座の『ジゼル』を見たとき、「自然食のようだな」と思ったことがある)。グァッテリーニによると、「(スカラ座は)ヌレエフの明確な承諾のもと、イタリアの伝統喜劇コンメディア・デッラルテの色彩に染めあげながら、このクラシック作品と取り組むことに情熱を燃やした。」(プログラム)。ソビエト・バレエでは添え物になってしまったマイムが、それ自体楽しめる「ご馳走」に戻っている(ヴィハレフ版もマイム重視だが、もっと音楽に即している)。ボードヴィル・バレエの趣があった。

踊りの統一感や技術の高さでは、オペラ座の方が優れている。ただし、ヌレエフの振付を完璧にこなすことに、オペラ座ダンサーは重責を感じているようで、ヌレエフ独特の過剰な装飾音符が、それこそ過剰に目に焼き付いてしまう。スカラ座ダンサーは、装飾それ自体を楽しんでいるように見えた。そのため、ヌレエフの意図、ブルノンヴィルの技巧的側面をクラシック・バレエに組み込むことが、自然に行われている。

昨年今年と、ラトマンスキーが『眠れる森の美女』と『白鳥の湖』を復元したが、現地レポートでは、スピード感と細かいフットワークについて触れている。ラトマンスキーはデンマーク・ロイヤル・バレエに一時所属し、ブルノンヴィル・スタイルを習得しているが、マイムを含め、そこからロマンティック期から古典期に至るバレエの復元に関して、インスピレーションを得ていることは想像に難くない。元々プティパとブルノンヴィルは、同じ流派である。

付け加えると、谷桃子バレエ団が導入したアリエフ版の『海賊』と『眠れる森の美女』は、主にラトマンスキーの復元作業に影響を受けていると思われる。『海賊』はラトマンスキーとブルラカのボリショイ版を引用し、『眠り』はロマンティック・スタイルを採用している(後者はマリインスキー・バレエで口伝されてきたはずだが、スタイルの変遷があった)。

キトリのニコレッタ・マンニは、大柄で技術も高い。スカラ座ダンサーと言うよりも、グローバルな規格に合ったダンサー。ミルタにも配役されているように、ややクールな持ち味である(今春、牧阿佐美バレヱ団の『ノートルダム・ド・パリ』にゲスト出演した際も、愛情を直接表現しないタイプに見えた)。英国ロイヤル・バレエで活躍するような気がする。 バジルのクラウディ・コヴィエットは、初めて見たが、背中が柔らかく、脚が手のように雄弁。アン・ドゥダン回転の美しさには目を奪われた。ただ、左右両回転のトゥール・アン・レールは、さすがに準備がなく、本人も不本意だっただろう(左右両回転できるのは、現在オペラ座ダンサーのみ? 新国立劇場バレエ団ダンサーたちも、4人中3人のジェイムズが両回転したが)。

アントニーナ・チャプキーナの愛くるしいドリアードの女王(脚が雄弁)、ドン・キホーテからガマーシュまでのキャラクターダンサーは言うまでもなく、立ち役の人々の自然派演技、トレアドール達の無心など、どれもこれも楽しかった。(9/30)

 

★[ダンス] 先週見たダンサーたち

9月28日~10月2日の公演で見たダンサーについて、メモしておきたい。

  • 木原浩太@現代舞踊協会「時代を創る」(9月28日 さくらホール)

ダンサー木原の魅力は、圧倒的な身体能力と的確な作品理解にある。今回の自作ソロでも、頭が付くかと思わせるぎりぎりのブリッジ、ドゥミ・ポアントでゆっくりしゃがむなど、体の柔らかさ、強さに加え、一手で踊りとなる細分化された体を見せつけた。ミニマル・ミュージックをフレーズで切り取るところにも非凡さが。作品のモダニズムに通じる雰囲気は、出演したアーカイヴ公演の影響だろうか。

  • 山村友五郎@西川箕乃助の会『彼の岸の花』(9月29日 国立劇場小劇場)

箕乃助は『二人椀久』と、『身替座禅』の後日譚である標記作品を、会の演目に選んだ。二作共に過剰な演技に走らず、品格ある踊りで二枚目と三枚目を演じ分けている。7月の五耀會公演で、山村流の振付を5人で踊る趣向があったが、山村の分かりにくい、振りともつかぬ、存在感で見せる踊りを、箕乃助と花柳寿楽が、エポールマンありの古典舞踊に見事に変換させたことを思い出す(藤間蘭黄と花柳基は演技から入るアプローチ)。中央に陣取った友五郎は、なめらかな中腰で、悠然と芯を舞った。今回は怖い奥方役。ぬーっと座る鵺のような存在感。踊りの妙味、演技の凄みが、飄々としたおかしみに変わるのは、上方の技?

小林聡美も出演したが、どちらかと言えば映像の女優。アップに慣れていて、きれいに見せることから逃れていない。片桐は献身的な舞台。劇団時代を全く見ていないので想像でしか言えないが、こういう少年だか何だか分からない過剰なヒトだったのでは。自分をその場に突き出す速度・強度は、常に狂気に達している。訳の分からないヘンテコ踊りを、もっと見たかった。と言うか、それこそを見たい。対する藤田ももこんは、台詞を喋らなかったかのような集中した身体(丹田に意識あり)。台詞が意味を伝えるのではなく、音のかたまりとしてある(台詞の身体化?)。何事にも動じない強い肚の持ち主だが、ポジティブな存在感はなく、対象との間に常に一定の距離がある(観客とも)。マイム役者としての矜持、節度なのだろう。

コンテンポラリー・サーカスから生まれた作品。ボワテルはサーカス学校出身。ヨブ記を題材にしているので、不条理な場面が続出する。それをクラウン芸でやってのける。途中、サーカス芸人(アーティスト?)らしい、宙返り等を駆使した躍動感あふれるダンスの見せ場があったが、その直前の、「突っ立ったまま後頭部から倒れる」という室伏鴻ばりのアクションが面白かった。室伏を見ているのだろうか。同じ不条理組でも演劇派のジョセフ・ナジとは違い、こちらはクラウン芸とダンスシーンに温度差がある。クラウン芸は観客との交渉が不可欠。ダンスシーンは見せるのみ。芸劇の観客は、ヌーボー・シルクに慣れているのか、反応はよかったが、それでもクラウン芸の場面は、文化の機微に触れる難しさを感じさせた(フランス語台詞の壁もある)。

首藤の本質は、被虐的なエロティシズムにある。だが、中村との間でそれが発揮されることはない。中村の地母神のような巨大な母性が、首藤を支配してしまうから。事によると、カマキリのメスでもあるから。中村の演出は円熟味を増している。本人はオフィーリアとガートルードを演じたが、後者は気品と色気、可愛らしさもあり、はまり役だった。オフィーリアをもし他の誰か(新国立の小野絢子とか)が演じたら、あるいはハムレット首藤の演技に火が付いたかもしれない。ダンサー中村の凄みは、自らの強固な自我を揺るがす他者の振付で発揮されると思う。自分の振付では、自分を越えられない。(10/8)

 

★[ダンス] 勅使川原三郎×山下洋輔『UP

標記公演を見た(10月7日 東京芸術劇場プレイハウス)。構成・振付・美術・照明は勅使川原三郎、出演は勅使川原、佐東利穂子、山下洋輔(プログラム表記順)。勅使川原の演出は、相変わらず冴えている。繊細な薄闇や、大胆な逆光シルエットなど、照明の素晴らしさは言うまでもない。今回は高貴で野蛮なバルタバスばりの馬遣いが加わった。佐東と馬が刻む2拍子、3拍子に、山下のピアノが呼応し、緊迫感あふれるデュオが生み出される。ピアニスト、馬、ダンサーのこの座組みは、海外公演等の可能性を秘めていると思う。 一方、フリージャズの覇者、肘打ち奏法で有名な山下を招くからには、勅使川原自身の踊りも相応の変化を見せるだろうと予想していた。だが残念ながら、こちらの方も相変わらずだった。ジャム・セッションとは相互の呼吸を量り、意識が相手の体に入り込んで、自分の身体が変容するもの。これまでにない自分が立ち現れるものだと思うが、いつも通りの踊りである。山下のテンポの変化に、勅使川原の体はすぐさま反応する。あるいは、踊りで山下を挑発する。しかし、勅使川原の意識が相手に向かって流れ出したり、踊りの質が変わるようなことはなかった。

勅使川原の踊るデュオが、相手が誰であろうと、心身ともに触れない(触れたとしても相互的ではない)デュオであることは、必然なのかもしれない。予定調和、つまり美を目指すには、即興的要素は排除されなければならないから。

山下はプロとして、演出家の意図に極力沿っていた。つまり駒に徹していた。最後に破壊衝動の片鱗を垣間見せたが、終始、洗練されたピアノだった。途中、少なくとも2人の中高年男性が退室した。駒に徹する山下を、見るに忍びなかったのだろう。終演後は指笛とブラボーの嵐だったが。(10/11)

 

★[バレエ] バレエシャンブルウエスト『コッペリア

標記公演を見た(10月8日 オリンパスホール八王子)。『コッペリア』の魅力は、まずドリーブの音楽。ワルツを始めとする舞曲の素晴らしさ、リリカルなメロディ、ドラマティックなオーケストレーションなど、聴く喜びを常に与えるバレエ音楽である。二つ目は「脚のバレエ」であること。版によって多少の違いはあるが、フランス派の細かい脚技が残されている。見る方にとっては楽しく、踊る方にとって苦しいのは、ブルノンヴィル・スタイルと同じ。ロシア風の大技がもたらす爽快感はないが、じわじわと心が浮き立つ幸福感を味わえる。三つ目は、人形が人間に変わる「奇跡のバレエ」であること。もちろんスワニルダはコッペリアの振りをして、コッペリウスを騙しているのだが、舞台上では実際に、体の変容を見ることができる(これを演技で行なうか、体の質を変えて行なうかは、ダンサーの技量、体がいかに細分化されているかによる)。四つ目はマイムの面白さ。演技派の腕の見せ所が随所にある。

今回の上演では、作品のこうした魅力がよく伝わってきた。末廣誠指揮、東京ニューシティ管弦楽団の、豊かでダイナミックな音楽、スワニルダ・吉本真由美の、爪先まで神経の行き届いた正確な足使い、一幕の愛らしい吉本とやんちゃなフランツ・橋本直樹の恋模様に、二幕コッペリウスの切実な願いを含んだコミカルな遣り取り(コッペリウスのジョン・ヘンリー・リードはノーブル系のアプローチを予想したが、やや軽めの造形だった)、さらにオークネフのメルヘン的な美術も加わり、地元八王子の人々はバレエの多様な魅力を堪能したと思う。子供たちの「アハハ」という反射的笑いは、一幕よりも二幕で多発した。一幕での主役二人の演技は、呼吸も合い、体全体に感情が息づいていたが、子供たちにとっては動きの面白さが、笑いのツボだったのだろう。

ベテラン、中堅が要所を締めるなか、「祈り」の伊藤可南、「戦い」の村井鼓古蕗の若手が、伸びやかな踊りで目を惹いた。若いコールドたちの美しいポージングも壮観。スクールの教育の質を窺わせる。(10/12)

 

★[ダンス] フィリップ・ドゥクフレ『コンタクト』

標記公演を見た(10月28日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)。ゲーテの『ファウスト』をモチーフにしたミュージカル、と言っても、いつものドゥクフレらしい眩惑的かつ奇天烈なイメージの氾濫あり、純粋なダンス・シーンありで、音楽的要素の強いドゥクフレ作品という感じ。その場で演奏が入るため、フラメンコのような音楽と踊りの一体感がある。ノスフェル(超高音の出るロック歌手・ギタリスト)とピエール・ル・ブルジョワ(作曲家・チェリスト)の音は、増幅・フィードバックされて、二人とは思えない音の洪水を作り出す。ただし生音で聴いてみたいと思う時もあった。狂言回し風のメフィストフェレスを軽妙に演じたステファン・シヴォの渋いギター、野性味あふれるマルガレーテのクレマンス・ガリヤールは、ピアノを弾く姿も野性的だった。背中の肩甲骨がダンスのように躍動する。パリ国立高等音楽・舞踊学校卒のジュリアン・フェランディは、丸まっこい体躯の面白さと柔らかさもさることながら、天から神々が降りてくるバロック・オペラ風シーンで、カウンターテナーの美声も披露した(音楽学科を卒業?)。全員が踊れて、歌えて、芝居できて、時に楽器もできる、高度な舞台人のコミュニティが舞台に出現し、それだけで楽しかった。

ドゥクフレのインスピレーションの源は、ミュージカル映画やキャバレーショー、構成主義の美術(バレエ)など。その中で、胸打たれたのは、ピナ・バウシュへのオマージュだった。『コンタクト』はピナの『コンタクトホーフ』から採ったと言う。老若男女が楽しく踊るイメージ。ただしドゥクフレは、ピナのラインダンスをラテン的に換骨奪胎し、ドイツ的な悲劇性を払拭している。ユートピアのような人間関係のみが後味として残る、夢のようなラインダンスだった。(11/2)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『ロメオとジュリエット』

標記公演を見た(10月29、30日、11月3日 新国立劇場オペラパレス)。新国立はマクミラン版『R&J』を01年に初演、今回で4度目の上演となる。その特徴は、まずシンプルであること。余計な背景説明を省いて、若い二人の恋と死に焦点を当てる。先行版のラヴロフスキー版、クランコ版が演劇的であるのに対し、暗転やクローズアップの手法を用いるマクミランの演出法は、映画的と言える。肉体の絡まる官能的なパ・ド・ドゥは、マクミラン振付の表徴。プログラム(今季から無料配布、ただし配役表が主要キャストのみとなった)によれば、マクミランは1940~50年代、初期のローラン・プティ作品などフランスのバレエ、アメリカのジェローム・ロビンズ作品、英国演劇のジョン・オズボーンの舞台に傾倒した(マクミラン公式サイトより)。動きそのものを追求する振付姿勢、パ・ド・ドゥの官能性は、プティの影響もあるのだろうか。

カール・バーネットとパトリシア・ルアンヌを招いた演出は、細かく行き届いていた。前回よりも動きがくっきり見える。フェンシングの場面、舞踏会も見応えあり。またマーティン・イェーツの気品あふれる指揮が、東京フィルの弦の美しさを十二分に引き出していた。金管も健闘。美術が以前よりもよく見えるようになったのは、気のせいだろうか。

主役は、二日目ロミオ役の井澤駿が故障降板したため、完全なWキャストになった。井澤はパリス役も降板。パリスはシングル・キャストに、またベンヴォーリオは最初からシングル、キャピュレット夫妻もシングルと、手堅い布陣だった。大原監督のマクミラン作品に対する敬意の表れと考えられるが、全体的に見ると、6回公演としては、やや彩りに欠ける配役という印象。なおプリンシパルの八幡顕光は、今回出演がなかった。

初日のジュリエットとロミオは小野絢子・福岡雄大、二日目は米沢唯・ワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル)という組み合わせ。小野・福岡は絵に描いたようなロミ&ジュリだった。いつものように振付のニュアンスをよく研究し、稽古を重ねてきたのが分かる。初日のせいか、所々、振付を正確に踊るという意識が見え隠れしたが、2回、3回と踊るにつれて、自然な流れになっていったのではないだろうか(未見)。

一方、米沢・ムンタギロフは、まず役の体となり、結果として振付を踊るというアプローチ。いわゆるマクミランの濃厚な色合いよりも、東洋風のあっさり、すっきりした舞台だった。米沢は、『ジゼル』の時にも思ったが、恋の喜びよりも、別れ、裏切り(乳母)、絶望といった悲劇の方に、親和性があるようだ。つまり悲劇から逆算しての恋。ムンタギロフとの出会いも、恋人というより、自分を理解する分身との出会いのように見える。それほど孤独が深いということだろうか。

小野にも言えることだが、先輩の酒井はなが恋の場面で見せてきた、生の喜び、エロスの迸りといったものが、二人とも希薄である。さらに言えば、小野は肉体を、美を表す手段として使い、米沢は精神を表す手段として使っている。バレエが演劇と大きく異なる点は、肉体の顕現。アラベスク一つ、デヴェロッペ一つで、見る者の人生を変えることができる。手段ではなく目的としての肉体が、バレエダンサーの最終目標ではないか。つまりフェティッシュとしての肉体。

新国立の『R&J』史上、最強の組み合わせは、森田健太郎のロミオ、熊川哲也のマキューシオ、山本隆之のベンヴォーリオだった(もちろんジュリエットは酒井)。彼らの音楽的に統一された「マスク」、キャラクターに即した的確な演技を超えることは難しいだろう。そうだとしても、マキューシオ(福田圭吾、木下嘉人)、ベンヴォーリオ(奥村康祐)が彼らの最高の演技をしたとは言い難い。再演の福田は自分なりの工夫があったが、他は演出の手が入っていないように見えた。

全体で最も印象に残ったのは、キャピュレット夫人の本島美和。貴婦人らしい美しい立ち姿は言うまでもない。ジュリエットの優しい母として、やや人の好い夫(貝川鐵男)を見守る妻として、ティボルトの愛情深い叔母として、その場を生きている。ティボルトの死体を抱く姿は、聖なるピエタそのものだった。

中家正博の抜き身のような鋭いティボルト、菅野英男の兄のようなティボルト、渡邉峻郁の貴族らしいパリス、丸尾孝子のふくよかな乳母、輪島拓也の情熱的なロレンス神父、またモンタギューも悠々と演じた古川和則の、古ダヌキのような司祭、長田佳世&寺田亜沙子率いる娼婦連が脇を固めた。輪島の真剣な祈り、古川の懐の深すぎる祝福は、舞台の幅を大きく広げている(古川は、哲学者のようなロットバルトを演じていたので、大公や家庭教師もできるだろう)。(11/9)

 

★[バレエ][ダンス] 後藤早知子60th Anniversary Performance『スライス・オブ・ライフ』標記公演を見た(10月31日 渋谷文化総合センター大和田さくらホール)。後藤早知子の記念公演だが、酒井はなのリサイタルでもある。後藤の酒井へのオマージュと、酒井の後藤への敬意が形になった公演。

作品は、ロマンティックな映像を交え、ジャズダンスや軽妙なコンテのコントも挟みつつ、ある女性ダンサーの一生を描いていく。R・シュトラウス『4つの最後の歌』に沿って、20代(春)を高比良洋、30代(夏)を宮河愛一郎、40代(秋)を山本隆之、50代(夕映え)を森田健太郎と、4人のパートナーと踊り継ぐ。いずれもサポート巧者だが、山本と森田は、酒井のバレエ人生に深く関わったパートナーとして、別格だった。山本のサポートはそれ自体美しく、森田のサポートは姫を全力で護る騎士のごとく。

山本とのパ・ド・ドゥは、二人の新国立での歴史の結実だった。相手を知り尽くしたサポート、シンメトリーや兄妹を思わせる同質の愛、さらに、経験を経た今の二人にしか出せない成熟した味わい。見る者の感情をかき立てるエロティックな高揚は、二人のデュエットの表徴である。一方、森田とのパ・ド・ドゥでは、森田の暖かいオーラが酒井をスッポリと包んで、子供に戻ったような安らかな愛が育まれる。互いに水をすくい合う場面、森田の分厚い胸にそっと手を置く酒井の満ち足りた顔。死に向かう前の束の間の安らぎが、二人を包み、舞台は終わる。

酒井の艶のある薫り高い体は、R・シュトラウスによく合っていた。永遠を感じさせる肌理細やかなパの遂行、細胞の一つ一つが生きている、危険で異質な体。美と実存を一致させることを、酒井は常に目指してきたのだろう。森田と踊った熱帯のように熱い『R&J』、山本と踊った双子のように親密な『R&J』を思い出す。舞台を見た当時は、その価値が分かっていなかった。(11/17)

 

★[バレエ] 日本バレエ協会「バレエクレアシオン」

標記公演を見た(11月5日 メルパルクホール)。文化庁平成28年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業の一環で、主催は文化庁公益社団法人日本バレエ協会。バレエを基盤とした振付家を育成する、貴重な場となっている。

今年度は3人の振付家による作品が上演された。幕開きは、東京シティ・バレエ団所属の中弥智博による『Synapse』。ワーグナーから始まり、ケルト系音楽、ハイドン弦楽四重奏という音楽構成(だったと思う、プログラムに作曲家と作品名を記載してほしい)。ソリスト男女3組に女性16人のアンサンブルが踊る。前半はマッツ・エック風のややグロテスクなコンテンポラリー語彙を多用し、後半のハイドンでは、キリアン風のネオクラシカルな振付に変わる。男女とも群青色のロングスカート(男性は上半身裸)を穿いていたが、前半よりも後半部の振付に合っていた。中弥の個性が生かされたのも、やはり後半部。音楽と振りの関係が密接になり、音楽から動きが導き出されているのがよく分かる。アラベスク、プリエの美しさ、ユニゾンの儀式性。橋本直樹の成熟した肉体が中心となり、音楽で統一されたクラシカルなコミュニティが出現した。

二作目は下村由理恵振付『氷の精霊』。トゥオマス・カンテリネン、エンヤ、カール・ジェンキンスを巧みに楽曲構成し、透明な氷の柱を背景に、26人の女性ダンサーが氷の精たちの激しさ、厳しさ、怖しさを踊る。最後は「レクエイム」が流れるなか、実際に幼子が登場。精霊たちの氷のような感情が溶けて、慈しみ深い愛や優しさに到達し、天国へと至る姿で終わる。途中垣間見られた金子優をいじめる物語が、いつの間にか立ち消えたが、どういう意図だったのだろうか。女性の持つ様々な感情が、下村自身の体から生み出された情熱的な動きにより、ダイナミックに視覚化された。

最後は、谷桃子バレエ団所属の伊藤範子による『ホフマンの恋』。オッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』の精髄を抜き出し、1時間の枠に収めた物語バレエである(14年 世田谷クラシックバレエ連盟初演)。伊藤版の優れた点は、ホフマンのミューズを天使に置き換え、自らの羽をホフマンに与えて詩を書かせる、というエピソードを加えたこと。地上では友人ニクラウスとなり、ホフマンを愛情深く見守る。天使時のバットリー多用や、ニクラウス時のグラン・ジュテ・アン・トゥールナンなど、女性のズボン役の魅力を存分に発揮させる(伊藤なら、プティパを含む19世紀バレエのトラヴェスティを再現できると思う)。またアリアを楽器に置き換える編曲選択も魅力があり、オッフェンバックの音楽を堪能することができた。何よりも優れているのは、キャラクターに沿った振付と演技指導。深い音楽理解に基づくドラマティックな振付、物語を熟知した的確なマイムは、伊藤が物語バレエの非凡な作者であることを示している。

ホフマンには初演時と同じ、浅田良和。この作品が浅田へのオマージュと取れるほど、魅力にあふれる。ロマンティックな詩人、情熱的な(時に滑稽なまでの)青年、愛情深い誠実な恋人、美女に翻弄される破滅的な男を、フランス風エレガンスと、力強く技量の高い踊りで演じ分ける。機敏なバットリー、正確でエネルギッシュなマネージュ、大胆な大技、そして情熱的なパートナーでもあった。

対するオランピアには宮嵜万央里、アントニアには佐藤麻利香、ジュリエッタには酒井はなという布陣。それぞれが適役だが、その中で、ベテランの酒井がゴージャスな肢体を惜しげもなく披露して、バレエの醍醐味を現前させた。ジュリエッタとしての演技もさることながら、その場に立つ肉体の凄み。ラインは絶対的フォルムと化し、ア・ラ・スゴンドのデヴロッペでは、あまりに濃密で粘度の高い動きに、時が止まったかと思われた。クラシック・ダンサー本来の体を、久々に見た気がする。同時に、酒井のあるべき姿を引き出した振付家の手腕にも、思いが至った。

浅田同様、初演キャストの堀登は、何もかも心得た的確な演技とクリティカルな動きで舞台を引き締め、ニクラウス(天使)・堀沢悠子は、清潔な演技と高い技術で、舞台に救いの光を与え続けた。アンサンブルの踊りも容赦なく仕込まれて、伊藤の一晩物への期待を大きく高めている。(11/11)

 

 

★[バレエ][ダンス] 新国立劇場バレエ団「ダンス・トゥー・ザ・フューチャー2016 オータム」

標記公演を見た(11月18、19、20日 新国立劇場小劇場)。今年3月、中劇場で同名企画が上演されたが、再び小劇場に戻っている。ただ、これまでとは異なり、「生え抜き振付家による作品集」の趣。レベルの揃った6作品(4振付家)に、ピアノ・トリオ(日替わり)との即興、という興味深いプログラムが組まれた。一晩の公演としては充実し、観客も満足していたが、振付家を育成する、所属ダンサーに別の角度から光を当てる、といった本来の趣旨からはやや遠ざかった。こうした面を、例えば、ダンサー主催のスタジオ・パフォーマンス等で補うことはできないだろうか。成田遥の踊りや、小柴富久修のコミカル面は、同僚ダンサーの作品で見ることができた。

三部構成の第一部は、貝川鐵夫の『ロマンス』(音楽:ショパン)から。小野絢子をトップとする女性5人が、ベージュのハイネック・レオタードで踊る。冒頭の脚線美、柔らかいロン・ド・ジャンブなど、女性の美しさを見せつけるが、背面を見せた途端、大きく開いたレオタードから、細かく割れた傷のような筋肉が目に跳びこんで、美の背後にある厳しい鍛錬、苦しみが露わになる。筋肉はねじれ、歪み、静止するが、再び柔らかな動きへと戻る。最後はなぜか美しい正座で終わる。なぜかは、貝川自身も分からないだろう。そこに貝川の才能の秘密がある。振付は相変わらず高度に音楽的。貝川自身の体に音楽を通すとこうなる、という振付。ピアノの音の細かい襞まで、振りを付ける。小野がそれを繊細に身体化した。レパートリー化を期待したい。

二作目も同じく貝川の『angel passes』(音楽:ヘンデル)。『メサイア』からテノールのアリアを選び、男性ソロを振り付けた。当初は井澤駿と小野寺雄のWキャストだったが、井澤の故障でシングルに。クラシックをベースに、四方を指さす輝かしいソロである。天使と小野寺は合っていると思うが、なぜか光のような踊りを見せないままに終わった。実力を発揮できていない。

三作目は木下嘉人の『ブリッツェン』(音楽:マックス・リヒター)。弦の繰り返しが徐々に高まる美しい音楽をバックに、米沢唯、池田武志、宇賀大将が踊る。言わば正統派のコンテンポラリー作品である。木下の体にはコンテの語彙が入っており、それが音楽と共に自然に流れ出る、といった印象。コンセプト・構成も明快、いつでも舞台作品を作り出せる(と思わせる)。米沢はコンテの経験を色々積んできて、自分の表現の枠に取り込めるようになった。白シャツ、黒ブルマ、白靴下がよく似合う。池田のたくましいリフト、宇賀の鋭い振付解釈が揃い、音楽に身を委ねて見ることができた。

第二部は宝満直也の『Disconnect』(音楽:マックス・リヒター)から。レクイエムのような悲痛な音楽で、五月女遥と宝満自身が踊る。コンセプトは繋がれないこと。2倍速のような動きが、繋がることへの切望を示している。ただし、再演作で、舞台が狭くなったこともあるのか、振付が独立して見えた。つまり五月女と宝満の体から、繋がれないことの絶望が読み取れなかった。二人とも一人で生きていけるように見える。もし本島美和と貝川が踊ったら、と夢想する。マッツ・エックの『ソロ・フォー・トゥー』に匹敵する作品になるのではないか。

二作目は福田紘也の『福田紘也』(音楽:三浦康嗣、Carsten Nicolai、福田紘也)。中央にテーブルと屑籠、カミテ奥には俯いて椅子に座る福田。カミテ袖から原健太がビニール袋を手に歩いてくる。五分の一ほど入ったボトル・コーラを四隅に、半量入ったボトルをテーブルに置いて、袋を屑籠に捨て、立ち去る。トイレを流す音がして、福田が立ち上がる。コーラに手を伸ばし、次々に飲み干す。最後のテーブルの一本をどうしたものか。時報の「12時をお知らせします」と同時にテーブルの上で、右肩倒立。その後、パソコンを立ち上げる音や洗濯機の音をバックに、ストリート系語彙を含む鋭い動きで、コーラに向けて葛藤を表す。ついに最後は半量ボトルを2回に分けて飲み干し、バタリと仰向けに倒れる。自分をソロで踊るには、遠くから自分を見るユーモアが必要だろう。コンセプトは明快、動きのダイナミズム、人を喰った音源、原健太遣いなど、超面白い。正に福田紘也。

三作目は宝満の『3匹の子ぶた』(音楽:ショスタコーヴィチ)。小野絢子の妹ぶた、八幡顕光の長男ぶた、福田圭吾の次男ぶた、池田の脚のキレイな悪いオオカミが、ショスタコの怖ろしい音楽に乗って踊る。プログラムの「幼い頃、子ぶたのようだったので親近感があります。」(小野)は、『ダンスマガジン』(2015年6月号)で検証済みだ。宝満は4人のダンサーの本質を見抜き、クラシック語彙にキャラクター色を加えて振付を行なった。音楽と物語を完全に一致させる的確かつ力強い振付である。ウィットに富んだ天性のコメディエンヌとしての小野の魅力が、これほど発揮されたことがあっただろうか。彼女を主役とするコメディを見てみたい。可愛らしい八幡長男、ロマンティックな福田次男は、ベテランの蓄積を惜しみなく投入して、舞台に身を捧げている。池田のオオカミはゴージャス。跳躍に色気があった。「子供のための」公演にぴったりだと思う。

第三部は即興。ダンサーは米沢、貝川、福田(圭)、木下嘉人、福田(紘)、宝満。アドヴァイザーに中村恩恵を迎えて、即興の手法が伝達された。触れ合わないコンタクト・インプロのような動きや、動きを持たない米沢への演技指導など、中村作品を思わせる場面が散見された。

音楽側は、監修とオーボエ他の演奏(全日)を笠松泰洋が担当。初日のピアノは中川俊郎、フルートに木ノ脇道元、二日目のピアノはスガダイロー、ヴァイオリンに室屋光一郎、三日目のピアノは林正樹、アコーディオンに佐藤芳明。笠松が全体を見て、演奏や表情で指示を出すが、ピアニストのタイプで、即興の傾向が決まるように思われた。初日は中川がキレ気味だったので、ダンサー達もハチャメチャ志向、二日目のスガはダンサブルな音楽を紡いだため、踊りのバトルが、三日目の林は音を聴かせるタイプのため、しっとりと情景を見せる場面が多くなった。

動きを作れるダンサーの中に米沢を配したことで、ダンスバトルに終始する危険が回避された。米沢は徒手空拳でその場にいなければならない。相手の動きに反応する、演技で相手を挑発するなど、演劇性重視のパフォーマンス。それに対して、音楽性重視、踊りたい人だったのは、貝川。二日目のヴァイオリンに嬉々として反応し、三日目の情景描写に、手拍子とスタンピングで強引に対抗した。音楽が鳴っていたら、まず動く人なのだ。

米沢をよく見てケアしていたのは、木下と宝満。コンタクトの経験があり、なおかつ全体の構成を見る人々。ただし木下は向日性で懐が深く、宝満は感情を表に出さない。少しニヒルに見える。福田兄弟は、ここでも人柄の良さを発揮。相手の気持ちを先に考えてしまう。圭吾は初日と三日目は最後に犠牲となり、二日目には、米沢をおぶって歩いた、キリストのように。紘也はトリックスター的な動きを、全体を見守りながら差し挟む。二人とも愛情の深さでは抜きんでていた。 もし米沢が男性と同じ衣裳だったら、どうだったか。子供のように踊っていたのではないか。もっと無意識のレベルで、対話ができたのではないか。動きと音楽のみのセッションになったのではないか。いろいろ考えさせられた刺激的なパフォーマンスだった。(11/23)

 

★[ダンス][オペラ] 東京文化会館眠れる美女

標記公演を見た(12月10日 東京文化会館大ホール)。東京文化会館開館55周年・日本ベルギー友好150周年記念公演。川端康成の原作をクリス・デフォートの音楽、ギー・カシアスの演出、エンリコ・バニョーリ&アリエン・クレルコの美術(バニョーリは照明も)でオペラ化した作品。台本はカシアス、デフォートにドラマトゥルクのマリアンヌ・ヴァン・ケルホーフェン。2009年5月8日にベルギー王立モネ劇場で初演された。今回見た理由は、まず川端の原作であること、江口老人に長塚京三、女に原田美枝子と好みの役者が配され、さらに初演ダンサーの伊藤郁女が出演するからだった(振付のシェルカウイは理由に入らず)。

開演直前、公立の文化会館としては、細川俊夫音楽、平田オリザ台本・演出の『海、静かな海』(2016年1月24日 ハンブルグ州立歌劇場)を持ってくる方がふさわしいのでは、と思ったりしたが、開演してすぐに、優れた舞台だと分かり、集中して見ることができた。美術は巨大な雪見障子と畳、障子が上下に開閉し、伊藤が宙吊りで動くのを見せる。紅葉、霙、雨の映像を投影。老人と女主人は役者と歌手(バリトン、ソプラノ)の二人一組、眠れる美女は伊藤とコーラスの4人が担当した。指揮はパトリック・ダヴァン、管弦楽は東京藝大シンフォニエッタ。音楽は武満/細川とブリテンを合わせたような現代曲で、途中なぜかバロック風の曲が挟まれる。常套的ではなく、正攻法に作られた音楽だった。演出も日本的な間を違和感なく取り入れ、役者の動き、歌手の動きも静か。改めてオペラの伝統の厚みを思い知らされる。新作オペラが演劇と同じように当たり前に作られている。

老人のオマール・エイブライム、女のカトリン・バルツが素晴らしい歌を聴かせる。しかし原作の湿度は、歌唱に反映されない。類型的な歌い方。長塚と原田も洋風(当たり前か)。原田の衣裳はロングドレスだったが、第一夜は長い裾を担ぎ、第二夜は右腕に引っかけ、第三夜は裾を曳いて、長塚を絡め取った。長塚は知的。声に色気があり、大きい舞台に耐える佇まいだった。

伊藤は、上方に吊られて、力技を見せていた。一人位相が違うのは、演出意図か、それとも言葉なしに体を使うダンサーゆえか、または肉体野獣派の伊藤ならではか。第二夜で前転し続けるところや、第三夜のレスリング風の床遣いなど、下の舞台への批評に見える。平気に動く野蛮さ。美しく洗練された舞台を、自らの肉を差し出して、現実に繋ぎとめる要となった。(12/13)

 

★[ダンス] スザンヌ・リンケ「ドーレ・ホイヤーに捧ぐ」FT2016

標記公演を見た(12月9日 あうるすぽっと)。ドイツ表現主義舞踊の伝統を守るリンケ(トリーア市立劇場舞踊芸術監督)によるトリプル・ビル。標題のホイヤーとは、1911年ドレスデンに生まれ、1968年ベルリンで自死したモダン・ダンサー・振付家表現主義舞踊とタンツテアターをリンクさせる重要な役回りを担った。戦前はヴィグマンのグループで踊り、戦後は西ドイツに渡り、ハンブルグ州立歌劇場のバレエカンパニーを率いたが、カンパニーをモダンダンスグループに変えることに失敗し、フリーで踊り始める。クロイツベルク作品や、ヴィグマンの『春の祭典』リメークで犠牲役を踊り、自身の解釈を加えた。その後ヴィグマンのアレンジでニューヨークやニューロンドンで公演、アルゼンチンやブラジルではソロ作品が熱狂的に受け入れられた。一方、当時の東西ドイツでは、モダンダンスの発展や保存は排除されていたため、ホイヤーの活動が注目を集めることはなかった。批評家には評価されていたものの、『Affectos Humanos』(1962)を最後に自殺。87年に、リンケとアリーラ・ジーゲルトが同作を再構築し、ホイヤーの功績に光を当てた。(<span class="deco" style="font-style:italic;">International Dictionary of Modern Dance</span>, St. James Press)

上演作品は、『人間の激情 Affectos Humanos』(1962/87)、『アフェクテ』(1988)、『イフェクテ』(1991)。面白かったのは、やはりホイヤーの振付を再構成した『人間の欲望』。性別が分からないベテランのレナーテ・グラツィアディ(ラボーアグラス・ベルリン)の実演と、ホイヤー自身の映像を交互に見せる。実演には補遺が含まれているのだろう。振付は、東南アジアの伝統舞踊や五禽戯を思わせる動き、スペイン舞踊、パ・ド・ブレや手や体の震えなど、原初的な動きが満載。グラツィアディの長い腕と大きな手が、ホイヤーの動きのみを追求した振付(意味の反映ではなく)を再生成する。グラツィアディはバレエの基礎を窺わせるが、同時にドミニク・メルシ(ヴッパタール舞踊団)を思わせる脱力的な超越性を備えている。なぜこのようなダンサーが生き残っているのだろうか。もちろんピナ・バウシュとの共通性もあるのだが。もう一度、グラツィアディを見てみたい。(12/13)

 

★[バレエ] 新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

標記公演を見た(12月17, 18, 19, 23昼夜, 24, 25日 新国立劇場オペラパレス)。99年バレエ団初演、10回目のアシュトン版『シンデレラ』である。デヴィッド・ウォーカーの美術(87年 英国ロイヤル・バレエ)、沢田祐二の照明が、陰影に富んだ繊細な美を表現する。炉辺の暖かい家庭的雰囲気、小姓を従えた妖精たちが踊るロココ調自然風景、華やかな宮殿、星空のバルコニー、それぞれが素晴らしい。さらに指揮のマーティン・イェーツが、濃淡の微妙に織り合わさったプロコフィエフの美しい音楽を、東京フィルと共に紡ぎ出した。音楽のみで満足できる十全な演奏だった。

今回は、振付指導にマリン・ソワーズ(Malin Thoors)を招き、パワフルな舞台を展開。ウェンディ・エリス・サムスの指導時には、アシュトンの詩的な側面が強調され、緻密に練り上げられたドラマが舞台に息づいたが、ソワーズの演出では、全員が主役の如き熱演。マズルカはバランシン張りにフルに踊られ、脇役も全力投球、舞台の全てを見ることができた。諧謔味も以前より増して、英国風のエクセントリシティが際立っている。あちこちで同時に芝居をするので、毎回発見があるが、今回は、一幕のダンスレッスンの後、教師が義理の姉娘に振りを付ける場面(カミテ)、二幕のナポレオンかつら事件の後、ナポレオンに父親が質問をする場面(カミテ)、二幕のシンデレラ・ソロのマネージュが、最初は四角、二回目が丸、ということに気が付いた。

シンデレラには、小野絢子、米沢唯、長田佳世、柴山紗帆、池田理沙子、王子には、福岡雄大、井澤駿、菅野英男、渡邉峻郁、奥村康祐。いずれもスタイル、技術に秀でた主役ばかり。四季の精、王子の友人も総じてレベルが高く、クラシック作品を上演するバレエ団として、充実期を迎えつつある。

小野のアシュトンらしい細かいフットワーク、コミカルな可愛らしさと清潔なオーラ、米沢の自然な芝居、クラシック時の能を思わせる身体+岸田劉生の「デロリ」感、長田の自然な感情表現、生きた脚、時空間を生み出すパの遂行、柴山の清潔でクラシカルな踊り、池田のコケティッシュな可愛らしさ。キャリアでは末っ子の池田は、小野、米沢の深い役作り、長田、柴山のクラシック技法の追求を、逆説的に明示する。現在、地の魅力で舞台を務めているが、今後どのようなアプローチを見せるのか、見守りたい。

長田は今回の舞台で退団となった。長田の魅力は、クラシカルに分節された肉体にあった。パ・ド・ブレやアラベスクのみで、感情を伝えることができる。隅々まで意識化された脚は、『白鳥の湖』で、またコンテンポラリーの『Who is “Us”?』(振付:中村恩恵)で魅力を発揮した。特に後者では、森下洋子の全盛時の脚を思わせたほど。音楽と一体化した踊りに、持ち前の誠実さが加わり、常に気持ちのよい舞台を作り出した。舞台に立つことの掛け替えのなさをいつも心に置いていたのは、カーテンコールでの深いレヴェランスによっても知ることができる。昨年、金平糖の精で見せた無私の境地、今年のルビーのゴージャスな踊りは、ダンサーとして円熟の極み。心を込めたシンデレラと共に、長田が辿り着いた最終ステージである。

王子(出演順)の福岡は、踊りの切れと小野との強力なパートナーシップ、井澤はスケールの大きいダイナミックな踊り、菅野は半ばバレエマスターに見えたが(友人達への視線)、長田の最後をサポートする役目を果たした。初役の渡邉はノーブルなスタイルを体現。パートナーへの気配りも万全で、ダンスール・ノーブルとしてのみならず、ドラマティックな役どころにも期待を抱かせる。奥村は、新人の池田を支える優しい王子だった。

第二の主役、義理の姉たちは、一幕活性化の鍵を握る重要な役である。小口邦明と宝満直也の初役コンビ、古川和則と高橋一輝の再演コンビが重責を担った。前者は動きの切れ、後者はコミカルな演技で見せる。小口は優しさ、宝満は女形の味わい(美人)、古川はキャラクター化した全人格、高橋は哀しげな笑顔で、舞台の要となった。全員が芝居を楽しんでいる。

仙女は、本島美和の円熟の役作りが抜きん出ている。背中で芝居ができる役者。細田千晶は美しい踊りに包容力が加わり、初役の木村優里は万全の踊りと存在感で、大物ぶりを発揮した。父親には、真率な演技で父の愛情を示した輪島拓也。道化・福田圭吾の愛情深い献身、同じく木下嘉人のウイットに富んだ役作り、ナポレオン・小野寺雄の動きの美しさも印象深い。クラシカルな踊りでは、柴山(春の精)、奥田花純(秋の精)、中家正博(王子友人)。また新人の浜崎恵二朗がティボルト系ノーブルな踊りを見せて、王子友人への抜擢に応えた。(12/28)

 

★[バレエ] 12月のバレエ公演

12月のバレエ公演について、短くメモをする。

松山バレエ団くるみ割り人形』(12月2日 東京文化会館

清水哲太郎版。東京文化会館に移って、美術(川口直次)の豪華さが生きるようになった。舞台上の人数の多さも気にならなくなり、振付自体の創意工夫、面白さが目に見えるようになった。清水のエネルギーが文化会館の広い空間に見合っているのだろう。クララは森下洋子、王子は刑部星矢。国宝のような森下を、若く長身の刑部が丁寧にサポートする。堂々たる王子ぶりで、華やかな存在感もあるが、サポートに全神経を使うためか、ヴァリエーションが流れがちに。自分の才能を大切にして欲しい。森下はかつてのような異空間を作り出す局面はなかったが、精妙な腕使いは相変わらず。個性を超えた絶対的なラインは、現在でも森下にしか見ることができない。バレエ団は若手も育ち、明るい雰囲気。刑部の功績は大きい。

NBAバレエ団「Stars and Stripes」(12月3日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

ダレル・グランド・ムールトリー振付『Essence of the Enlightened』(30分)、平山素子振付『あやかしと縦糸』(40分)、バランシン振付『Stars and Stripes』(30分)によるトリプル・ビル。ムールトリー作品はクラシック・ベース。両袖から走る、跳ぶ、ポーズして崩れるなど、アスレティックな魅力にあふれる。女性はポアント。竹田仁美の身体能力、大森康正の研ぎ澄まされた技、関口祐美の華やかさが印象的。ぎりぎりまで身体を使う点が、バランシンを思わせる。バレエ団に合った作品。対する平山作品は、モダン・コンテンポラリーの色合いが濃厚。床の動きを多用し、固まるフォーメイション等を見せる。ニジンスキー、サープなど、先行作品の影響を思わせる動きもあり、バレエダンサーに様々な動きをさせたいという、振付家の意図が窺える。ただし音楽構成に山場が二つあり、さらに平山の緻密な音楽性を生かす方向にないアプローチだったため、意気込みを見せるに終わった感がある。妖怪化粧のため、ダンサーを判別できないのも難点。簾状ロープの使い方は面白かった。バランシン作品は、スーザの行進曲を使用したアメリカンバレエ。軍服で踊られ(女性はチュチュ)、行進、敬礼あり。コール・ド・バレエと軍隊の近似を思わせる。グラン・バットマン、ポアント歩きなどバランシン語彙も見受けられるが、むしろ、シンプルな動きとフォーメイションで作品を構成する職人技に驚かされる(プティパと共通)。どのシークエンスも面白いのは天才ならでは。米津萌の正確な脚技に魅了された。

●井上バレエ団『くるみ割り人形』(12月11日 文京シビックホール

関直人版。見ているうちに自然と体が動く。関の振付もシンプルだが、誰にも真似できない音楽解釈の反映がある。さらに、日劇で培った(?)祝祭性。フィナーレの盛り上がりは必至。同ホールに移った頃は、照明が暗く、フレーベル少年合唱団の登壇タイミングも気になったが、現在では、照明が美術を美しく照らし、合唱団の扱い(拍手を含む)も適切になった。P・ファーマーの暖かく、心に沁みるような美術を満喫できる。ゲスト王子は浅田良和。金平糖の精=源小織よりも、雪の女王=西川知佳子との方が、浅田の長所である気品が滲み出る。西川の集中、献身ゆえだろう。あしぶえの踊り・越智ふじのの完璧なスタイル、花のワルツ・井野口美沙の躍動感あふれる音楽的な踊りが印象的。

●バレエシャンブルウエスト『くるみ割り人形』(12月16日 オリンパスホール八王子)

今村博明・川口ゆり子版。オークネフの豪華な美術が、同ホールの舞台でよく生かされている。橋本尚美とジョン・ヘンリー・リードの金平糖の精と王子、吉本真由美の葦笛、松村里沙の花のワルツ、深沢祥子のアラブと、ベテラン勢が要所を締めるなか、雪の女王(石川怜奈)やアンサンブルには若手を起用。伸びやかかつダイナミックな踊りで、客席をエネルギーの渦に巻き込んだ。帰途、読んでいた竹内敏晴の『ことばが劈かれるとき』の中に、「どうも都心の学校の子はこえが小さいし、はずまない。八王子あたりの郊外の子が、声がしっかりして朗らかで大きい。」とあり、踊りもそうなのだと思った(因みに、竹内敏晴は米沢唯の父。米沢を知る以前に勧められて購入したが、抵抗感があって読み進められず、この日ようやく読了した)。 江本拓がハレーキン(他日は王子配役)で、クラシックのお手本を示している。明晰な踊りに両回転トゥール・アン・レールあり。またフリッツの川口まりが、美しい脚でトラヴェスティの魅力を発散させている。サポート場面ではエルスラー姉妹を連想させたほど。

●牧阿佐美バレヱ団『くるみ割り人形』(12月17日夜 文京シビックホール

松山、井上、シャンブル同様、牧の場合も上演会場が変わって、舞台のスケール感が増した。デヴィッド・ウォーカーの美術、ポール・ピヤントの照明が一層生える。共催が文京シビックホールということもあり、かつてのアットホームな肌理細かい踊りが、開かれた踊りに変わっている。金平糖の精は日高有梨。古風な佇まい、ラインの美しさは相変わらずだが、自分を出せるようになり、華やかさが加わった。『飛鳥』の銀竜でも組んだ美しい王子、ラグワスレン・オトゴンニャムとの相性もよい。黒竜をダイナミックに踊った雪の女王の佐藤かんなは、抑制の効いた踊りで場を支配。青山季可の花のワルツ(昼は金平糖)、茂田絵美子のアラブ、安部裕恵の棒キャンディ、甥の橋本哲至など、ベテランから若手まで見応えある踊りを見せた。熱血アレクセイ・バクランが、オケ同様、児童合唱団にまで渾身の指揮。フィナーレの盛り上がりも素晴らしかった。

●バレエ団ピッコロ『メアリー・ポピンズ』(12月22日 練馬文化センター

恒例のクリスマス公演(32回目)。同時上演は、同じ松崎すみ子による『鳥』と、松崎えり作品『norte』。前者は小原孝司の親鳥を中心に、子鳥達が両翼となって羽ばたくフォルムが印象的。親鳥の翼下から飛び出して、橋本直樹と西田佑子が愛のパ・ド・ドゥを踊る。小品ながら、羽ばたきの示す生命力と、親子の確執を経ての独立物語が、力強く迫る。橋本の入魂の演技、西田のたおやかな肢体が作品の核を作った。えり作品は再演。増田真也とのデュオは、スタイリッシュな男女の愛を描く。だが、えりの本質はそこにあるのだろうか。多人数作品で見せた、性別を超えた友愛の踊りが思い出される。『メアリー・ポピンズ』は、映画のサントラを使用。物語を知らない人でも、楽しさは伝わってくる。早口長大語の「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」がかかると、客席からは必ず手拍子が起こる。舞台上の子供たちも自然体なら、客席の子供たちも自然。ポピンズのマジカル装置は舞台本来のローテクだが、子供たちはすぐに物語に入り込む。世界は良きところ、を信じさせる、すみ子パワーの力である。その前に、まず松崎がポピンズの世界に入り込んでいるのだろう。標題役の下村由理恵は、映画の同役J・アンドリュースの口跡そのままのクリスピーな踊り。世界を変える指導力(?)がある。バートの橋本の力も大きい。いつ何時でもバートとして存在。暖かい人柄と美しくダイナミックな踊りが、下村を力強くサポートする。これほど肩車の自然なダンサーが他にいるだろうか。小原のバンクス氏、菊沢和子のバンクス夫人は大小名コンビ。小出顕太郎は相変わらず献身的、清潔な「不思議な人」だった。さらに堀登(頭取)のツボを押さえた演技の素晴らしさ。動きからキャラクターが立ち上がる稀有なダンサーである。

洗足学園音楽大学谷桃子バレエ団クラス『白鳥の湖』(12月29日 洗足学園前田ホール)

谷桃子版。多少の省略はあるが、全幕の醍醐味あり。谷版の特徴は、すべての動きにドラマに沿った理由づけがあること。現在は単なるパ・ド・ドゥになっている「黒鳥」も、パ・ダクションで演じられた。その濃厚な演技に思わず引き込まれる。白鳥アンサンブルのアラベスク入場は、他団とアクセントが異なり、日本的な味わい。腕使いにも独特の動きが加わる。終幕では白鳥たちの強い意志が印象深い。ドラマを生きることが、谷の団是なのだろう。王子の齊藤拓は、ブランクを全く感じさせない美しい踊り。女性を生かすサポート、控えめな所作は、伝統的ダンスール・ノーブルそのものである(現在では齊藤にしか見ることができない)。対する佐藤麻利香は、磨き抜かれた身体に高い技術で、正統的オデット=オディール像を作り上げた。特にオディールの艶やかさは素晴らしい。視線の力強さ、濃厚な演技に、谷の伝統の刻印がある。ダブルを最後まで入れたフェッテは、その楚々とした風貌とは裏腹に力強く、背後に隠されたパトスを思わせた。中村慶潤の献身的な道化、伊藤大地の大柄なロットバルト、二羽の白鳥の井上栞、森本悠香、ロシアの山口緋奈子など、若手の台頭も見ることができた。(12/31)

 

★[バレエ][ダンス] 2016年公演総括

2016年(含15年12月)の洋舞公演を振り返る(上演順)。

今年は2作の重要な復元・改訂が行われた。江口隆哉の『プロメテの火』(プロメテの火実行委員会・現代舞踊協会)と橘秋子の『飛鳥物語』(牧阿佐美バレヱ団)である。前者は伊福部昭、後者は片岡良和によるオリジナル曲。前者の歌舞伎舞踊、後者の舞楽導入は、日本の洋舞史を考える上で興味深い。橘作品は娘の牧阿佐美が改訂、『飛鳥』と名を改め、身体を取り囲むプロジェクション・マッピングを用いて、新たな舞台演出の方向性を示した。他に、谷桃子の立体的なシンフォニック・バレエ『ラプソディ』(谷桃子バレエ団)が、追悼公演で復元されている。以下はジャンル別の回顧。

[国内振付家・クラシック]

  • 佐々保樹『火の鳥』(東京小牧バレエ団)―音楽性とチューダー直伝の心理描写に優れる
  • 松崎すみ子『幻想のメリーゴーランド』(バレエ団ピッコロ)―音楽と融合し、爆発的なエネルギーを発散
  • 橋浦勇『白鳥の湖』(日本バレエ協会神奈川ブロック)―濃密な内的ドラマを鋭い美意識で描く
  • 鈴木稔『白鳥の湖』&『迷子の青虫さん』(スターダンサーズ・バレエ団)―音楽性に優れた子供向けダブル・ビル
  • 関直人『コッペリア』(井上バレエ団)―ドリーブ音楽を独自の音取りで切り取る(誰にも真似できない)+祝祭性
  • 牧阿佐美『飛鳥』(牧阿佐美バレヱ団)―母橘秋子の構成力にスピーディな音楽性で対抗
  • 伊藤範子『ホフマンの恋』(日本バレエ協会)―優れた音楽性・文学性・演出力で、オペラの精髄をバレエ化
  • 熊川哲也『ラ・バヤデール』(Kバレエカンパニー)―演出・美術への明確なビジョンを実行に移す

[海外振付家・クラシック]

  • エルダー・アリエフ『眠れる森の美女』(谷桃子バレエ団)―バレエ・スタイルへの歴史的視野と独創的古典振付を合致させた
  • デヴィッド・ビントレー『アラジン』(新国立劇場バレエ団)―アラビアンナイト移民問題をリンク、人類融和を祈る

[国内振付家・モダン&コンテンポラリー]

  • 貝川鐵夫『カンパネラ』(新国立劇場バレエ団)―初めて聴くリスト、初めて見る動き、音楽の塊
  • 柳下規夫『冷たい満月』(現代舞踊協会)―破天荒なニジンスキー讃歌、ジャズと金盥を使う
  • 山崎広太『足の甲を乾いている光に晒す』(踊りに行くぜ ‼ Ⅱ)―破天荒な土方巽讃歌、米ポップスで舞踏を踊る
  • 能藤玲子『霧隠れ』(現代舞踊協会)―ギリシャ悲劇を思わせる時空間に自らの気を充満させた
  • 金森穣『ラ・バヤデール』(Noism)―プティパの名バレエ・ブランを、コンテンポラリー語彙で書き換えた
  • 高部尚子『Transparency』(クライム・リジョイス・カンパニー)―音楽的精度の高さ、確信に満ちた動きの追求(一瞬たりとも目が離せない)
  • 小野寺修二『ロミオとジュリエット』―戯曲の読みの深さ、発話と動きの自在な往還、今季最高の『ロミ&ジュリ』
  • 島崎徹『The Absence of Story』(日本バレエ協会)―ハイブリッド・モダンダンス=体によいオーガニック・ダンス
  • 大植真太郎『忘れろボレロ』(C/Ompany)―禁欲的な肉体は修行僧のよう、断崖絶壁に自らを(他人も)追い込む
  • 福田紘也『福田紘也』(新国立劇場バレエ団)―自分を踊れるディタッチメント=ユーモアあり、コーラを思い切り飲む
  • 宝満直也『3匹の子ぶた』(新国立劇場バレエ団)―自分の外に作品を創ることができる、小野絢子ぶたの可愛らしさ

[海外振付家・モダン&コンテンポラリー]

  • マルコ・ゲッケ『火の鳥』(アーキタンツ)―東洋武術を含むオリジナル言語を創出、優れた音楽性と出し入れの感覚
  • ウヴェ・ショルツ『春の祭典』(アーキタンツ)―映像と実像ダンサーの異なるのが苦しいが、ショルツのもう一つの(真の)声
  • マッツ・エック『バイ』(シルヴィ・ギエム〈ライフ・イン・プログレス〉)―ギエムが唯一、自分に嘘をつかなくてすむ振付家フォーサイスと共に20世紀最高の振付家

[女性ダンサー]

長田佳世の金平糖の精、永橋あゆみのオーロラ、西岡樹里(チョン・ヨンドウ)、酒井はなのオーロラ、小野絢子のオーロラ、米沢唯のキトリ、木村優里の森の女王、長田のルビー、ナターリヤ・オシポワのジュリエットとジゼル、井関佐和子のミラン、高部尚子のメイド、志賀育恵のオデット=オディール、スヴェトラーナ・ルンキナの春日野すがる乙女、青山季可の金竜、矢内千夏のキャンドル、本島美和のキャピュレット夫人、酒井のジュリエッタ、小野(宝満直也)、番外(映像):米沢のオーロラ、木村の白雪姫、長田のリラの精

[男性ダンサー]

山本隆之のベルリオーズ、刑部星矢のジークフリード、菅野英男のジェイムズ、宇賀大将(貝川鐵夫)、橋本直樹のデジレ、福岡雄大のデジレ、中家正博のバジル、八幡顕光のアラジン、井澤駿のジーン、クラウディオ・コヴィエッロのバジル、大森康正のアリ、橋本のフランツ、江本拓のフランツ(pdd)、中家のティボルト、浅田良和のホフマン、山本雅也のソロル、番外(映像):浅田のデジレ、高岸直樹のヴィラン(トラヴェスティ)(12/1)

2015年公演評

★[ダンス][バレエ]  新国立劇場バレエ団「Dance to the Future ~Third Steps ~」

新国立劇場バレエ団が3回目の団員創作公演を行なった。「Dance to the Future ~Third Steps ~」である。ビントレー前芸術監督の企画を、平山素子をアドヴァイザーに迎えて継続させた。前回までは作品選択、指導、プログラム構成にビントレーの息吹が行き渡り、公演全体がビントレーの作品であると同時に、団員のサンクチュアリともなっていたが、今回は平山道場の趣。自らの処女作をプログラムに加え、創作の先輩としての自分と競わせる厳しさが漂った。

個性を確立し、ダンサーを十分に生かして踊らせたのは、貝川鐵夫と福田圭吾だった。貝川の『Chacona』(バッハ曲)は堀口純を紅一点に、輪島拓也、奥村康祐、田中俊太朗が踊る。ドゥアトへの傾倒を思わせる濃密なエロティシズム(男性デュオあり)と、貝川独自の鮮烈な音楽性が舞台に横溢する。何よりも動きに肉体を通した喜びがあった。

福田の『Phases』はグノーの「アヴェ・マリア」とライヒを組み合わせ、叙情性とミニマルな動きを交互に見せる作品。美しいマリアの寺田亜沙子を菅野英男が美しくサポートする。ライヒでは福田振付の代弁者、五月女遥を中心に丸尾孝子、石山沙央理、成田遥が切れの良い踊りで、福田の鋭い音楽性を体現した。

多人数作品は他に、公演の最初と最後を飾った宝満直也『はなわらう』(高木正勝曲)と、小口邦明『Dancer Concerto』(ブラームス曲)。前者は、アポロンのような福岡雄大と翳りのない米沢唯の可愛らしいデュオを中心に、全体が明るく微笑んでいるような作品。後者は細田千晶をトップに、小口世代がソロをバトンタッチしていく親密なシンフォニック・バレエだった。

デュオ作品は広瀬碧『水面の月』(久石譲曲)と、高橋一輝『The Lost Two in Desert』(G・プリヴァ曲)。ドッペルゲンガーのような川口藍と広瀬のたゆたう女性デュオに、盆子原美奈の巧さを前面に出した粋な男女デュオである。 ソロはトレウバエフ『Andante behind closed curtain』(D・クレアリー曲)と、平山『Revelation』(J・ウィリアムズ曲)。前者は、幕が降りた後のプリマの苦悩を、ペーソスを滲ませたグロテスクな踊りで表現。湯川麻美子の虚構度の高い踊りが印象深い。

かつてザハロワが、その研ぎ澄まされたラインで機能美を主張した『Revelation』(招待作品)には、小野絢子と本島美和が挑戦した。両者ともザハロワとは異なるアプローチ。初日の小野は物語を構築し、振付に感情を乗せる方法。叙情的だが、作品に向けて自分を解き放つには至らなかった。一方本島の踊りには、研修所時代の自作ソロから現在までを走馬燈のように蘇らせる深さがあった。振付・構成の解釈は的確。動きの強度、鮮烈なフォルムに、ヴッパタール・ダンサーのような剥き出しの実存を感じさせた。(1月16、17日、新国立劇場小劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2943(H27.2.15号)初出(2/14)

 

★[バレエ]  神奈川ブロック『シンデレラ』

日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックが設立35周年を記念して、『シンデレラ』を上演した。音楽はプロコフィエフ、演出・振付は夏山周久による。夏山版は、土台のザハーロフ版に、難度の高いソロとコミカルな味わいを加えたもの。王子登場以降の、友人やピエロを交えた闊達な踊りに見応えがあった。序盤は演技が多く、難しい場面が続くが、継母役の冨川祐樹が新国立劇場での経験を生かして、舞台を牽引した。品が良く、母親らしい暖かさにあふれた女形で、新境地を拓いている。

主役のシンデレラには樋口ゆり。確かな技術、清潔な脚技に、親密な雰囲気を漂わせて、慎ましやかなシンデレラを造型した。対する王子は清水健太。共に元Kバレエカンパニーの精鋭である。清水は規範に忠実な美しい踊りに覇気を加え、回転技の多いボリショイ版の勢いを体現した。女性を美しく見せるパートナーだが、この版に多用されるアクロバティックなサポートも果敢に実行、熟練の王子役であることを証明している。

ないがしろにされながらも妻を見守る気の弱い父親には、ベテランの小原孝司。姉娘の大滝よう、妹娘の朝比奈舞は踊り、芝居共に達者だった。仙女・山田みきの気品、ピエロ・荒川英之のきれいで可愛気のある踊り、舞踊教師・浅田良和の切れの良さなど、脇役陣も充実。四季の精(浅井蘭奈、飛沢由衣、岩崎美来、寺田恵)を始め、ブロックのダンサー達も日頃の研鑽の成果を伸び伸びと披露した。

指揮は前回同様、冨田実里。新国立劇場バレエ公演で副指揮者等を務める新鋭である。舞台とよく呼応し、俊友会管弦楽団から、プロコフィエフの胸に迫る美しさを引き出している。(1月18日 神奈川県民ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2943(H27.2.15号)初出(2/14)

 

★[バレエ][ダンス]  「青山バレエフェスティバル~LAST SHOW~」

国立児童館「こどもの城」が2月1日、老朽化を理由に閉館した。それに伴い、併設の青山劇場と青山円形劇場も閉館を余儀なくされた。長年、バレエやコンテンポラリー・ダンスの足場となってきた劇場である。特に円形劇場は、その独特の空間から多くの実験的作品を生み出している。

一方の青山劇場では、開館翌年の86年から2000年まで毎年「青山バレエフェスティバル」を、その後は不定期に「ローザンヌ・ガラ」を開催してきた。特に前者には、当時のプロデューサー、故高谷静治氏の「バレエダンサーにコンテンポラリー・ダンスを踊らせたい」という思いが強く反映されている。海外で活躍する日本人ダンサーと国内ダンサーが団体の枠を超えて一堂に会する、クリエイティヴなフェスティバルだった。

その「青山バレエフェスティバル」の「LAST SHOW」が劇場最後の公演となった。フェス所縁のダンサー、振付家が久々に集い、劇場との別れを惜しむ。公演は二部構成。共に最初は多人数作品、続いてデュオやソロ、トリオが並ぶ面白いプログラミングである。

第一部幕開けは、矢上恵子振付の『組曲PQ』。関西男性バレエダンサー集団〈PDA〉の面々が、矢上の超高密度の振付を嬉々として踊る。文化を共有する者の喜びがひしひしと伝わる伝統芸能のような作品だった。続いて栗原ゆうと中家正博による正統派『ダイアナとアクティオン』、行友裕子と堀内充によるロマンティックな『Flower song』(振付・堀内)、酒井はなと西島数博による濃厚な『シェヘラザード』(振付・西島)と、デュオが並び、第一部の最後を佐多達枝の名作『ソネット』が飾った。95年初演組の髙部尚子、足川欽也、坂本登喜彦が、バレエダンサーとしての成熟の形を示している。

第二部幕開けは、西島改訂の『ライモンダ』グラン・パ・クラシック。西田佑子、横関雄一郎の磨き抜かれたクラシック・スタイルが素晴らしい。男女4組のアンサンブルも高難度の振付を見事にこなしていた。続いて小尻健太と渡辺レイによる小尻作品『not Yet』、酒井によるゲッケ作品『Mopey』、キミホ・ハルバートと佐藤洋介によるハルバート作品『MANON』、井関佐和子による金森穣作品『Under the marron tree』と、コンテンポラリーが並び、最後は下村由理恵と佐々木大による『ロミオとジュリエット』バルコニーのパ・ド・ドゥ(振付・篠原聖一)で締め括られた。

「バレエダンサーの踊るコンテンポラリー・ダンス」の現在の成果としては、酒井の繊細なニュアンスあふれる闊達なソロ、井関の鍛え抜かれた身体が生み出す実存的ソロが挙げられるだろう。高谷氏の喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。(1月30日 子どもの城 青山劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2945(H27.3.15号)初出(3/13)

 

★[ダンス]  日本昔ばなしのダンス」

標記公演を見た(2月1日 彩の国さいたま芸術劇場大練習室)。下司尚実振付『いっすんぼうし』と近藤良平振付『ねずみのすもう』の二本立て。練習室なので座席が組んであり、地続きで見る楽しさがある。必ず子供連れという想定からか、座布団の置き方が狭く、大人3人が並ぶと(実際そうだった)身動きが取れない。左は親子連れで、業界風の父親が娘のために来ている感じ(始まる前、隣には母親がいて、次には娘、それから父親に変わった)。右は30代初めの文化系青年で、役者の演技にいちいち受けていた。これほど反応のいい人は、ダンス系ではなかなかいない(後から伊丹アイホールの人だと分かった)。

下司(しもつかさ)作品は、昔ばなしをそのまま辿っていく正統派。小柄な佐々木富貴子が針の刀を持って、勇ましく跳ね回り、美形の鈴木美奈子と下司が、爺婆になったり、姫と鬼になったりして、物語の枠を作る。一寸法師は奥の小舞台で動き、爺婆たち二人は手前の地面で、あたかもそこに一寸法師がいるかのような演技をする。その演技が上手いので、奥の一寸法師が頭の中で合成されて、一緒にいるように錯覚する。果たして子供たちはどうだっただろうか。

下司はシャイ。ご飯を盛る手つきが素晴らしかった。子供を授かるよう、爺婆が神社にお参りをし、二礼二拍手一礼するシークエンスが何度も繰り返されるが、その度に、子供たちの声が上がる。少し前、WWFesプレイベントのシンポジウムで、山崎広太が「初詣で人々が参拝しているのを見ていると、踊りに見える」と言ったのを思い出した。下司に戻すと、小道具が背面のカーテンからマジックのように飛び出てきたり、袂から(?)出てきたりと、扱いに切れがある。求める効果に向かって脳を使い切った演出だった。

近藤作品は再演。物語は解体され、近藤のイメージが氾濫する。鎌倉道彦、藤田善宏、山本光二郎の百戦錬磨、強者どもが、肉体の全てを捧げて近藤の振付を遂行する。その迫力はトラウマとなるほど子供たちを圧倒するだろう。子供たちにはまだ分からない世界をそのまま提示し、子供たちに背伸びさせるような、高踏的な作品だった。(2/7)

 

★[バレエ]  東京バレエ団『眠れる森の美女』

標記公演を見た(2月8日 東京文化会館)。2006年にベルリン国立バレエ団で初演されたマラーホフ版の導入。プロローグと第1幕、第2幕と第3幕をそれぞれ続けて上演し、休憩を挟んで2時間半の短縮版である。プロローグと第1幕の間に幕前で、カラボスとリラ、小さなオーロラが寸劇をするが(パノラマ使用)、確かハイデ版にあったような記憶がある。第3幕のシンデレラとフォーチュン王子のデュエット、アポテオーズでのカラボス登場は、ヴィハレフ復元版の影響かもしれない(ヴィハレフ版アポテオーズの雲間に、カラボスが顔を出していた記憶がある)。オーロラは薔薇の棘に刺されて眠る設定に変更されている。しかし、カラボスの予言後も薔薇の生け垣が舞台に残されているので、破綻していると言えば言える。

オーロラの川島麻実子は丁寧で、少し和風の感じ。きっちりした先生に教えられてきたことが分かる。デジレの岸本秀雄は、ややカジュアル。元気の良い青年タイプに見えた。沖香菜子のパッショネットなカナリアの精も目立ったが、最も驚かされたのは、河谷まりあサファイアオペラ座の脚だった(ハンブルク・バレエ学校だけど)。無意識に踊ってしまう脚。キトリの友人の時、バジルとぶつかったのを見たが、さもありなん。なにしろ踊ってしまうので。オーロラ友人のアンサンブルでも一人、踊りがずれていた、と言うか、本当に踊っていた。怪我で降板したジュリエットも、踊っていればすごく良かっただろう。何をやらかすか、楽しみなダンサー。(2/14)

 

★[コンサート][ダンス]  柳本雅寛@「佐藤俊介の現在」

標記公演を見て、聴いた(2月14日 彩の国さいたま劇術劇場音楽ホール)。バロック、モダン両方のヴァイオリニスト佐藤俊介のソロに、ダンサー柳本雅寛が絡み、田村吾郎が演出するコンサート。演目はビーバーのパッサカリアに始まり、バルツァー、プロコフィエフJ.S.バッハ、と来て、バルトークで折り返し(袖で演奏しているのかと思ったら、ホールのあちこちから音が聞こえるので、増幅かなと思う、しかし途中で佐藤が舞台に出てくると、白から黒シャツに着替えていて、弾いてないのに音がするので、録音だと分かった)、そしてイザイ、プロコフィエフ、イザイ、J.S.バッハシャコンヌで終わった。

よくありがちな音楽とダンスのコラボではなく、すべての動きに理由づけがある。佐藤が音を奏でている時に、柳本が小道具を動かす、歩き回る、動き回る、足音をさせる。コンサートの禁じ手をあえてやることで、こちら側の体がほぐれ、聴取する領域が広がる感じになった。

柳本は懐が深く、常に相手の身体を包容する、珍しいダンサー。佐藤はアンファン・テリブル。初っ端から圧倒された。何の留保もなく、才能がある、と言い切れる気持ちよさ。暗やみで(つまり暗譜で)弾く。柳本に引っ張られながら、柳本をころがしながら、柳本に抑えられながら、寸分の狂いなく弾く。シャコンヌは前半、形而上学を排した疾走する音楽、技巧の鋭さに神業かと思う。終盤シモテのライトが着くと、一瞬ミスタッチ、柳本が入ってくるとそれに向けて開いた演奏になった。つまり神業よりもコミュニケーションを良しとする弾き手なのだ。

柳本は佐藤の凄さを分かっているのだろうか。もちろん体で理解はしていると思うが。これほどの音楽で踊れるのは、柳本の人徳だろう。人間が人間と出会ったということ。(2/18)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団「TOKYO CITY BALLET LIVE 2015」

東京シティ・バレエ団恒例の「TOKYO CITY BALLET LIVE」が、大ホールに場所を移して開催された。上演順に、石井清子、小林洋壱、中島伸欣の座付き振付家作品、さらにゲスト振付家としてレオ・ムジックを招いての創作集である。座付きの良さはダンサーを知り抜いていること、ゲストの良さはダンサーの意外な側面を引き出すことにある。創作を重視するバレエ団の意気込みを感じさせるプログラムだった。

幕開けの石井版『ボレロ』は84年初演。シティの女性団員が、軒並み踊ってきた歴史的作品である。女の情念がこもった美しいライン、和風のニュアンスが滲む腕のみの踊り、クライマックスに向けての民族舞踊的一体感が、定着したレパートリーの力強さを示していた。

小林振付『Without Words』は、マーラーの「アダージェット」を用いたデュオ作品。足立恒(照明)のブルーグレーがニュアンスの深い空間を作る。チョ・ミンヨンの控え目な男らしさ、佐々晴香の情感豊かで明晰な踊りに、力みのない等身大の関係が映し出される。日常性を手放さない美的な作品だった。

同じデュオでも中島の『鏡の中で』(ペルト曲)は、まずコンセプトありき。白い襞のある布を背景に、白のオールタイツに黒テープを巻き、頭を白く固めた志賀育恵と黄凱が踊る。ただし美的というよりは内的。何か熱いものがあって、こうでなければならないという中島の思いが迸る。それが何かはよく分からないが。中島の体臭が充満する創造的な作品だった。

ムジック振付『死と乙女』は、ヴィターリの「シャコンヌ」とシューベルトの『死と乙女』を用いたドラマティックな作品。男女共に黒ずくめの衣裳で、前半はポアントで踊る。バロックの濃厚な退廃美から、自然に立脚するロマンティシズムへの振り幅は、前作『crash the lily』でも覗えたムジックの個性である。

大石恵子の情念、佐々のダイナミズム(リフトされまくりだった)、キム・セジョンの美しいライン、高井将伍の飄々とした男っぽさ、玉浦誠の切れ味の鋭さと、個性を生かした主役の踊りに、全力疾走のアンサンブルが加わり、会場をめくるめく陶酔感で包んだ。大人っぽいゴージャスな女性陣は、創作を踊り継いできた同団の美点である。(2月15日 ティアラこうとう大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2947(H27.4.15号)初出(4/14)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ラ・バヤデール』

標記公演を見た(2月17、21、22日 新国立劇場オペラパレス)。牧阿佐美版『ラ・バヤデール』の特徴は、ニキヤとソロルが冥界で結ばれない点と、太鼓の踊りがない点。後は概ね伝統的な演出を踏襲している。特に優れているのが、アリステア・リヴィングストンの美術と照明。幕開けや幕を繋ぐ場面で、ランチベリーの編曲に合わせて、黒と銀の森が上下に開閉する。こうした美術と音楽の同期は、他の版では見たことがない。恐らくリヴィングストンのアイデアが反映されていると思われる(今回のプログラムには名前の記載がない、理由は不明)。

3キャストを見て、震撼させられたのは米沢唯(初日ガムザッティ、最終日ニキヤ)。ガムザッティ時の体の美しさ、最小限の身振りで最大限のエネルギーを発散する。体全体に艶があり、伝統芸能のようなトロみを後に残した。一方のニキヤに変わると、米沢の思考が氾濫した。最初のソロは巫女そのもの。そのまま神社で踊っても差し支えない心的境地。逢引き、ガムザッティとのやりとり、恨み節は当然のレヴェルだが、バレエ・ブランには驚かされた。米沢本来の大きさになり(これまで小さく見えていた)、古典の気品が漂う。つま先まで神経が行き届いたからだろう。最後の山登りは慈愛に満ちていた。誰もしていない解釈。ニキヤは許しているのに、ソロルが付いていけなかったという結末。

米沢はこれまで内容を注視するあまり、踊りのスタイルを等閑視する傾向があった。結果、古典もバランシンもコンテも同じ踊り方になる。最初の頃は意識の集中で身体の質を変えており(もちろん誰にもマネできない身体表現)、いつもびっくりして見ていたが、それだけでは表現の幅が限られる。スタイルの把握は社会化を意味する。大劇場の主役をやる以上、必要だっただろう。

今回は小野絢子のニキヤと米沢のガムザッティという贅沢な組み合わせを見ることができた。大原永子芸監の采配。これまでガムザッティは演技、見た目がぴったりでも、二幕で観客を緊張させる(大丈夫か)場合が多かった。初めて対等のライバル関係を見た気がする。小野も体を大きく使うことが不自然ではなくなり(ムンタギロフの高さもあるか)、何よりも、自分の解釈を超えたパフォーマンスに、粛然とさせられた。作品に自分を投入している。供物としての踊りだった。小野と米沢が互いに影響しあっていること、正反対の資質だが、高い精神性を共有する二つの才能が、同時期にバレエ団にいることの幸福を思った。第2キャストの長田佳世、菅野英男、本島美和の組は、舞台自体がなぜか低血圧、理由は分からず。

男性では、福岡雄大ソロル、貝川鐵夫のラジャー、輪島拓也のトロラグヴァ、福田圭吾のマグダヴェヤ、奥村康祐の黄金の神像、女性では、長田のガムザッティ、柴山紗帆の第1ヴァリエーション、原田舞子のつぼの踊りが印象深い。ファキール、兵士達は大柄になり、見ごたえがあった(プログラムに名前の記載なし)。

一幕バヤデールの踊り、ジャンペの踊り、三幕影のコール・ド・バレエは、牧時代に比べると揃っていないが、生き生きと踊っている。大原芸監の趣味だろう。

熱血指揮者アレクセイ・バクランが、東京交響楽団の厚みのある、熱い演奏に満足していた。バクランはフェッテ関係の速度に容赦ないが、最終日、米沢の一幕ソロにやられた様子。そこからは米沢の呼吸にすべてを合わせていた。オケが先走っても関係なく。バレエを熱烈に愛している指揮者。(2/24)

 

★[バレエ]  スターダンサーズ・バレエ団『ジゼル』

スターダンサーズ・バレエ団が創立50周年を記念して、ピーター・ライト版『ジゼル』を上演した。共催は文京シビックホール(公益財団法人文京アカデミー)。ライト版の特徴は、動きの全てに意味付けがあり、細やかなドラマの流れが目に見える点にある。ヒラリオンとベルタのセリフが聞こえるようなマイムに始まり、バチルド、クーランド公、狩猟長の闊達な演技など、レパートリーの定着を裏付ける仕上がりだった。

森の詩人ピーター・ファーマーの墨絵のような美術と淡い色合いの衣裳が、繊細なロマンティシズムを醸し出す。ただし大きいホールに変わったせいか、以前よりも照明が暗めに感じられた。

ジゼルは初日が林ゆりえ、二日目が新人の西原友衣菜、アルブレヒトはそれぞれ吉瀬智弘とゲストの浅田良和が勤めた。その初日を見た。林はライトに見出され、19歳でジゼルを踊った逸話の持ち主。一幕の情熱的少女から、母性でアルブレヒトを包む終幕までの真情あふれる演技、鋭い音楽性に裏打ちされた一拍伸びるラインが記憶に鮮やかである。今回は中堅らしい落ち着いた演技。特に狂乱の場面ではよく練り上げられた解釈を見せた。ただ全体に手の内に納まった印象が残る。林らしい疾走するジゼルを期待したい。

対する吉瀬は、やんちゃ系の王子として、また無意識の牧神として個性を発揮してきた。今回も時折やんちゃな気質を覗かせたが、全体的には真っ直ぐ育った貴族の子息。堂々たる佇まい、癖のない明晰な踊りで、器の大きいアルブレヒトを造型した。

脇も充実。大野大輔の肚の据わったヒラリオン、天木真那美の切り返し鮮やかなバチルド、なぜか大きく見える東秀昭のクーランドと、演技を見る楽しみがあった。ミルタの佐藤万里絵は肌理細かい艶のある踊り、ウィリ達は周囲に合わせると言うよりも、個人で音を取る自立したダンサー集団だった。

テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ率いる田中良和が、舞台に寄り添った指揮でドラマ作りに貢献している。(2月28日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』No.2946(H27.4.1号)初出(3/28)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団『眠れる森の美女』

牧阿佐美バレヱ団が、都民芸術フェスティバル参加作品として、ウエストモーランド版『眠れる森の美女』を上演した。82年バレエ団初演の重要なレパートリーである。

同版は英国系の流れを汲み、マイムを保存。昨年、新国立劇場バレエ団が初演したイーグリング版とは、言わば兄弟関係にある。ウエストモーランド版では、妖精の招待リストを何人もが確認するのに対し、イーグリング版ではリストの確認に邪魔が入る。「目覚めのパ・ド・ドゥ」でも、ウ版の古典的な振付に対し、イ版では情熱的なモダンバレエの振付。改訂者の資質もあろうが、時代の流れを感じさせる細部の違いが、興味深い。

オーロラ姫には、バレエ団を代表する伊藤友季子と青山季可、フロリモンド王子には、マリインスキー・バレエのデニス・マトヴィエンコと、前回カラボスの菊地研が配された。伊藤は何よりも音楽性を重視。演技はあっさりと、踊りはこれ見よがしでなく、するすると水のように推移する。一幕の少女らしさ、二幕の幻想的はかなさ、三幕の気品と演じ分けてはいるが、核は音楽と一体化した隙のない身体である。古典の形式美を追求するアプローチだった。

一方、青山は物語性を重視。古典バレエの演劇的側面を読み込み、一挙手一投足に心を込める。常に相手との、さらには観客とのコミュニケーションを目指すので、観客は青山と共に旅をし、その身体から微笑を受けたような心持ちになる。両者共ベテランの域、考え抜いた舞台だった。

王子のマトヴィエンコは若々しい激情を個性としてきたが、さすがに落ち着いた演技。マイムの品格を初めて出した気がする。三幕コーダでは勢いあるマネージュで、かつての片鱗を覗わせた。一方、菊地は二幕ソロに力みがあったが、徐々に王子の雰囲気を醸し出し、さらには不敵な笑みを浮かべるに至った。三幕マネージュとピルエットは華やか。少しカラボス色が滲む王子だった。

リラの精はベテランの吉岡まな美と、久保茉莉恵。吉岡は全てを見通す統率力と、長いラインが繰り出すシャープな踊り、久保は全てを見守る包容力と、調和の取れた香り高い踊りが特徴。ソロはそれぞれロプホフ版とプティパ版を踊った。

カラボスの保坂アントン慶、フロレスタン24世の逸見智彦、王妃の吉岡と塩澤奈々が、個性を生かした演技を見せた他、依田俊之が愛情深いカタラブットを演じて出色だった。

清瀧千晴のブルーバードははまり役。また清瀧、日高有梨、坂爪智来、中川郁の金・銀・宝石アンサンブル、中家正博・栗原ゆうのブルーバード組、塚田渉の猫、元吉優哉の狼など、ディヴェルティスマンは見応えがあった。リラのおつきと花輪の踊りはジュニアだったが、バレエ団の総合力を示す上演だったと言える。

大ベテランのデヴィッド・ガーフォースが、東京ニューシティ管弦楽団から細やかなニュアンスの音楽を引き出している。(2月28日、3月1日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2948(H27.5.1号)初出(4/28)

 

★[バレエ]  日本バレエ協会コッペリア』2015

日本バレエ協会が都民芸術フェスティバル参加公演として、ヴィハレフ復元のプティパ版『コッペリア』を上演した。ドリーブの幸福感あふれる音楽、華やかな民族舞踊、ホフマン原作の闇に無邪気な恋物語を絡めた喜劇作品である。

サン=レオン初演版は最後のロマンティック・バレエと言われるが、プティパ版は、サン=レオン振付の香りを残した古典バレエ。三幕「時のワルツ」は幾何学的なフォーメイションを描き、ディヴェルティスマンは高難度の古典ソロで構成される。特に曙、祈り、フォリーのソロは主役級の振付、ブルノンヴィル風のフランツ・ソロ(N・セルゲイエフ振付)も難度が高い。

主役のスワニルダには、一幕のフランス風脚技、二幕の人形振りと演技、三幕の古典技法と、高い技倆が要求される。下村由理恵、法村珠里、志賀育恵(出演順)が果敢に挑戦、フランツにはそれぞれ、芳賀望、浅田良和、橋本直樹の元Kバレエ・トリオが出演した(芳賀は元新国立でもある)。

初日の下村は全幕を通じて、スワニルダのあるべき姿を見せることに成功した。自在な脚技、自然な演技、崇高なアダージョ。改めてオールラウンドのバレリーナであることを思い知らされた。相棒の芳賀は、フランツ気質。「楽しくやろうよ」が信条である。破格の明るさ、華やかなスター性、豪快な踊りが、舞台に熱風を吹き込んだ。

二日目マチネの法村は、モスクワ仕込みの伸びやかなラインと大きな踊り、華やかな容姿、地を生かした演技で、楽々とドラマを立ち上げた。友人達とのアンサンブルも抜群。アダージョの見せ方にはさらなる工夫が望まれるが、最もロシア・バレエの味わいが濃厚だった。対する浅田は、法村の娘らしさに見合ったロマンティックな青年。やや憂いを秘めた役作り、切れ味鋭いソロが印象深い。

ソワレの志賀は、東京シティ・バレエ団で同役を踊り込んでいる。小柄だがエネルギーにあふれ、繊細な腕使いと脚技、コミカルな演技で、生き生きとしたスワニルダを造型した。対する橋本は、パートナーシップに長けたダンスール・ノーブル。志賀との演技のやりとり、ソロでの清潔な脚技が素晴らしかった。

コッペリウスもトリプルキャスト。マシモ・アクリの伝統的マイムが繰り出す滑稽な味、桝竹眞也の人形に命を吹き込もうとする狂おしい野望、アレクサンドル・ミシューチンのペーソスあふれる老人と、それぞれ技巧派、ロマンティック、正攻法の舞台に沿ったアプローチだった。

ソリストはバレエ協会ならではの才能を集めたが、中でもフォリー・星野姫のエネルギーに満ちた踊り、祈り・榎本祥子の場を支配する踊りが強烈な印象を残した。マズルカチャルダッシュ・アンサンブルはベテランを交えて厚みがある。一方、時のコール・ド・バレエは若手主体。プティパのシンプルな振付を神妙に踊っていた。

指揮はアレクセイ・バクラン、演奏は東京ニューシティ管弦楽団。(3月7日、8日昼夜 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2946(H27.4.1号)初出(3/18)

 

★[オペラ][バレエ]  新国立劇場オペラ『マノン・レスコー』+バレエ公演のオケについて

標記公演を見た(3月9日 新国立劇場オペラパレス)。プッチーニのオペラ。2011年3月に予定されていたが、東日本大震災が直前に起こり、上演中止になった。指揮者を除いてほぼ同じ座組みを目指したので、4年後になったらしい。バレエの「ダイナミック・ダンス」も中止になったが、こちらは2013年1月に上演されている。その際、ゲネプロを一般公開して義援金を募るなど、芸術監督ビントレーの被災地への思いが強く感じられた。今回は表立っての言及はなし。観客もあまり感慨がなさそう。

初めて聴く『マノン・レスコー』は、いわゆる「マノン」の世界ではなく、プッチーニの世界だった。ひたすら男女が愛を歌う。ああプッチーニだなあと思いながら聴いた。マスネの『マノン』も見たことあるが、デ・グリューの神学校生活の場面があり、もっとストイックだった気がする(もちろんマクミランの『マノン』が、自分の中のいわゆる「マノン」の世界)。

聴き終えて、家路につき、夜寝るまで、すごく快復した気持ちに。プッチーニはそれほど好きではないのに。東京交響楽団の豊かな音が充填されたからだと思う。知人によると、指揮者がもっと弦を揺らさないとプッチーニではないとのことだが、文句はない。前日まで、日本バレエ協会の『コッペリア』を、東京ニューシティ管弦楽団で聴いていたので。

指揮はアレクセイ・バクラン。 東京ニューシティは、東京小牧バレエ団公演では内藤彰が必ず指揮をして、音楽的に満足のいく舞台をお膳立てするのだが、今回のバレエ協会公演では、調子がよくなかった。一番の見せどころで、ヴィオラ・ソロが舞台を助けているとは言えなかった。また東京フィルのチェロが首席奏者に入っている。よくあることなのか。

バクランは、2月17~22日に新国立劇場バレエ団『ラ・バヤデール』を振り、東響のあまりの熱演に狂喜していたが、その後、2月28日と3月1日にバレエ研修所で東京フィル(未見)、3月7日と8日昼夜に日本バレエ協会コッペリア』で東京ニューシティ、3月14~22日に新国立劇場バレエ団「トリプル・ビル」で東京フィルを振る、というスケジュールだった。東京のオケ状況について、感想を聞いてみたい。(3/17)

 

★[バレエ][ダンス]  新国立劇場バレエ団「トリプル・ビル」

標記公演を見た(3月14、15日 新国立劇場中劇場)。19日に三日目を見るが、初日、二日目の感想を一先ず。

演目上演順はバランシンの『テーマとヴァリエーション』、ドゥアトの『ドゥエンデ』、ロバート・ノースの『トロイ・ゲーム』。初め時間割を見たとき、驚いた。ドゥアト、ノース、バランシンの順だと思っていたので。実際見てみると、ノースのスポーティであっけらかんとした作品がおかしく、さっぱりした気持ちで家路についた。大原永子芸監の江戸っ子気質がこの順番を生み出したのかと思ったが、ノースを踊ると後は疲れて踊れないという、物理的な理由だと気が付いた。

トリプル・ビルと言えばビントレー監督。音楽的、歴史的に考え抜かれた作品選択と、享受者への身体作用を考慮した上演順に驚かされた。一方、大原監督の良さは、的確な配役、ダンサーを十分に踊らせること、観客の視点に立って作品選択をすることである。

初っ端の『テーマ』は、主役二人をコリフェ、アンサンブルが取り巻くグラン・パ形式。メランコリックなアダージョと終幕の輝かしいポロネーズが、古典バレエの記憶を呼び覚ます。アダージョは姫とカヴァリエの踊り(王子と言うより)、ポロネーズは次々と男性ダンサーが加わって、めくるめく大団円になる。凡庸な振付家なら、最初から男性を出しただろう。先日のプティパ版『コッペリア』(日本バレエ協会公演)の入れ代わり立ち代わりするコーダを見ていて、バランシンのこれでもかと追い立てる終盤は、ここから来たのだと改めて思った。つまりプティパがすでにスポーティであり、過剰であるということ。

初日の主役は小野絢子と福岡雄大。5列目から見てしまったので、筋肉のきしみまで聞こえそうだった。きっちりとバランシンスタイルを見せていたが、アダージョは情感を醸し出すには至らず。アシュトンのパキパキ・アダージョは良かったのだが。福岡はカヴァリエのあり方を身に付けなければ。二日目は米沢唯と菅野英男。指揮のバクランは、米沢にすっと寄り添う。米沢のテンポ。スタイルはバランシンよりも古典に近い。アダージョは目と目を見かわし、ほのぼのとした暖気が客席を覆う。最後までほのぼのだった。稀有なパートナーシップだと思う(菅野は踊りが少し崩れた、節制しなければ)。

コリフェの配役は順当。奥田花純、柴山紗帆が玄人っぽい。江本拓、貝川鐵男の両ベテランが楽しそうに踊っているのに対し、期待の王子、井澤駿は超控えめ。小柴富久修のカヴァリエとしてのあり方、原健太の熱い存在感も印象に残る。

ドゥアトの『ドゥエンデ』は、ドビュッシーの音楽に振り付けられた現代の牧神物。ニジンスキー『牧神の午後』の引用もあるが、より自然と密着している。レパートリー作りではなく、本当に作りたいものを作っていると思う。4つのパートの最後は人文字。象形文字のようだが、何か知りたい。ドゥアトが指導に来た初演時には、ダンサーが緊張でガチガチだった記憶が。今は伸びやか。本島美和の決然としたフォルムの美しさ、輪島拓也のビロビロとしたオーラ(好きなことをやっている喜びも)、小口邦明のソリッドな味、福岡、福田圭吾、池田武志のダイナミズム、奥田の精度の高い動きが印象深い。

『トロイ・ゲーム』は古代ギリシアの装いで、スポーツや試合をするコンセプトの作品。マチズモ満載、男性8人×2組は筋トレをして体を作っているが、肉と肉のぶつかり合いよりも、どちらかと言うと高校生のやんちゃな遊びに見える。一人一人のソロがあり、配役もビシッと決まっているので、男性ダンサーの個性がよく分かった。と言うか、個性を出せているダンサーを見る喜びがあった。振付はものすごくきついけど、顔見世のような作品。やはり井澤は王子。動きにきらめきがある。柴山といい、加藤大和といい、ソリスト入団の3人は、体の彫琢がずば抜けている。(3/15)

 

★[ダンス]  アーキタンツ・スタジオパフォーマンスvol.9 『最後の聲』

バレエ、コンテンポラリー・ダンス、能のクラスやワークショップを運営するスタジオアーキタンツが、縁の深い香港在住振付家ユーリ・ンの新作を上演した。同スタジオは、ンのバニョレ国際振付賞受賞作『Boy Story』の美術に携わったスタッフにより設立されている。昨年3月の「ARCHITANZ 2014」公演では、この受賞作の再演を見ることができた。

今回の『最後之聲』は、ンが芸術監督を務める香港のアカペラ・グループ「ヤッポシンガーズ」(一舗清唱)と、オーディションで選んだ「コラボレイターズ」によるアカペラとダンスの公演。振付・演出はン、音楽監督は「ヤッポシンガーズ」の共同芸術監督ウン・チャクイン、さらにアーティスティック・アソシエイトとして、富士山アネットの長谷川寧が加わった。

上演場所は同スタジオ。長方形スタジオの長い方を正面とする平舞台で、客席も横長に組んである。舞台には5本のマイク、奥の鏡には、透明のビニールで流れる雲のような模様が描かれ、その下に18個の椅子が置かれている。客が席に納まると、男声の場内アナウンス。携帯などの注意事項を聞くともなしに聞く。しばらくすると、妙な具合に言葉が増殖しているのに気が付いた。「奇声はかたくお断りいたします、涙はかたくお断りいたします、カラオケはかたくお断りいたします、ミネラルウォーターはかたくお断りいたします」。ここに至って初めて、これが作品のテキストであることが分かった(後に、作品の自己言及アナウンスであることが判明)。

歌手4名、ダンサー18名がそれぞれマイクとグラスを持って入場する。黒ずくめのパーティ・ドレスやジャケットに、血の気のないグロテスクな化粧。「ヤッポ」の男性4人が、ヴォイス・パーカッションを含むアカペラで全8曲を歌う。その歌に呼応して、ダンサー達は声を出しながら様々なフォーメイションやシチュエーションを作る。合間にアナウンス。ダンサー達の動きは日常的な身振りの延長だった。いわゆるダンス風の動きではなく、声を出す、歌う、歌と連動することが、ンの現在の振付なのだろう。

声と身体の関係は、多くのダンサーが試みるところである。例えばバニョレの先輩、山崎広太は、言語化される前の未分化の言葉を発しながら踊る。あるいは誰かが物語る空間の中で、その言葉に寄り添うように踊る。あるいはポップスの歌詞とユニゾンするように踊る。他者に振り付ける時も同じ。いずれにしても、声と個々の身体の関係は即興的に追求される。

ンの場合は、アカペラという精緻な歌唱形式をバックに、ダンサー達の動きが理性的に統一されている。ダンサー達は動きながら歌を唄い、奇声を発し、男女関係の片鱗を動きでなぞるが、個々の身体がほどけて自らを主張することはない。唯一の例外は、白井さち子によるミネラルウォーターの瓶を持ったソロ。重心の低いなめらかな踊りは、ンの演出を突き抜ける強度があった。

アカペラと協同する公演は、もちろん芸能的な音楽の快楽を伴う。その一つに、中国語と日本語のデュエットがあった。ラウー・チャンと田中蕗子が歌う愛の歌である。日本語は訳詞のはずなのに、なぜか言葉の音がしっくりくる。中国語の意味は分からないのに、二人の濃密な感情のやり取りが伝わってくる。日本語の作詞者は、場内アナウンスと、もう一つのアナウンスのテキストを書いたアーティスティック・アソシエイトの長谷川である。

長谷川のもう一つのアナウンスとは、玉音放送のアレンジだった。「朕」という自称そのままに、男性ダンサーがテキストを読む。聞き覚えのある文章が微妙に編集されている。玉音放送を読む、しかもアレンジされていることに強い衝撃を受けた。ただしその意図は掴めなかった。長谷川の考えが明らかになったのは、振付家音楽監督、出演者全員によるポスト・パフォーマンス・トークにおいてである。

この作品は題名通り、「最後の声」をコンセプトとしている。ダンサー達には、「三日後に声が出なくなったらどうしますか」という課題が与えられ、それぞれの回答を基に作品が作られたことが、トークで分かった。長谷川には、「日本で一番有名なラジオ・アナウンスメント」を基にしたテキストが課された。そして彼は玉音放送を選ぶ。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終わらせた「最後の声」だから。

さらに長谷川はデュエットの訳詞について、驚くべき発言をした。空耳で作ったと言うのだ。『タモリ倶楽部』で有名なあの空耳である。つまりチャンの歌詞を聴いて、その音に近く、内容にふさわしい日本語を当て嵌めて、歌詞を作ったのだ。中国語と日本語のデュエットに違和感がなかったはずである。

香港の振付家が香港のアカペラ・グループを連れてきて、日本人ダンサーとワークショップを行う。そこに日本の場という楔を打ち込んだのが、長谷川だった。作品に自己言及するアナウンスの過剰さ、玉音放送を日本人による一つのテキストとして捉えアレンジする知的度量、空耳で作詞する大胆不敵。そして本人がこれらを当然と見なしていることに、計り知れない才能を感じた。

トーク中、ユーリ・ンは、右足の小指を左足の親指と人差し指で裏返しに挟んで、楽しそうだった(当然裸足)。白井のソロと、この足指のにぎりが、この夜味わった数少ない身体的快楽だった。

「ヤッポシンガーズ」は優れたアカペラ・グループである。ダンス公演と思わなければもっと虚心に音楽を楽しめたかも知れない。アンコールには、中国の歌謡曲を歌った。二胡などの中国楽器を口まねする。それまでのどの曲よりも、心に沁みた。昨年の『Boy Story』再演で見た、中国歌謡でのバーレッスンを思い出す。細胞レヴェルで身体に音が入ってくる様が、二重写しになった。

2015年3月20日、21日昼夜 スタジオアーキタンツ(3月20日取材) 文化庁委託事業「平成26年度文化庁戦略的芸術文化創造推進事業」 振付:ユーリ・ン(伍宇烈)、音楽監督:ウン・チャクイン(伍卓賢)、照明デザイン:瀬戸あずさ、音響:金子伸也、主催:文化庁、株式会社アーキタンツ、制作:株式会社アーキタンツ

 

*本評は、ある媒体用に書いたものだが、諸般の事情でブログに載せることにした。(5/12)

 

★[バレエ]  谷桃子バレエ団『海賊』

谷桃子氏の訃報を聞いた。谷さんの姿を最後にお見かけしたのは、昨年の9月4日。最愛のパートナーだった小林恭氏の葬儀の席だった。全身を振り絞るようにして弔辞を述べられた。美しく気品に満ちた外見からは想像もできないほどの激しい情熱の持ち主だった。舞台は拝見できなかったが、振付作品『ロマンティック組曲』は、『レ・シルフィード』を凌ぐ素晴らしさ。バレエ団のレパートリーに残して欲しい。標記公演をご覧になっていたかどうか。もしご覧になっていたら、永橋あゆみの開花を喜ばれたことと思う。

 

谷桃子バレエ団が待望の新作を発表した。元キーロフ・バレエで活躍したエルダー・アリエフ改訂振付の『海賊』(全二幕)である。監修者イリーナ・コルパコワの強力な推薦によって実現した。

アリエフ版は間奏曲を含め、古典バレエらしい端正な音楽構成が特徴。プティパ振付を残しつつ、余計な枝葉を切り落として、コンラッドとメドーラの愛を中心に据える。一幕ハープとフルートによる叙情的な出会いのパ・ド・ドゥ、「活ける花園」での美しいアダージョ、二幕ハーレムでの切迫したデュエット、洞窟でのクラシカルな「海賊のパ・ド・ドゥ」。どれもが確かなドラマトゥルギーに則って配置されている。「花園」をコンラッドの夢とする設定は、『ラ・バヤデール』と共通、メドーラがジゼルのように去っていく夢の幕切れも、深い余韻を残した。アリエフの美意識、経験が隅々まで生かされた、血の通った改訂だった。

バレエ団はワガノワ仕様に変化。男女共、伸びやかなラインと明確な視線を身に付けて、空間を大きく使っている。バレエ団の長所である芝居心や、コール・ド・バレエの古風な娘らしさも失われていない。最大の成果は、プリマの永橋あゆみが可能性の全てを引き出されて、本来の姿へと辿り着いたことである。

連日メドーラを踊った永橋は、はまり役。美しいラインにエネルギーが宿り、明晰なパが踊りに強度を加える。アリエフの高度な要求によって、永橋の可能性の中心だった気品と豊かな感情の融合が実現された。初日パートナーの今井智也も、役の性根を的確に掴み、自分を超えた挑戦する踊りを見せた。終幕ソロ(通常アリのソロ)も凛々しいまま、コンラッドの踊りだった。永橋二日目のコンラッドは三木雄馬。初日はランケデムで出演したが(二日目は今井)、持ち味の正確で鋭い踊りは、コンラッドの方で発揮された。

もう一組は初日ソワレの檜山和久と佐藤麻利香。序盤は緊張気味で、ドラマを伝えるには至らなかったが、「海賊のパ・ド・ドゥ」で一気にはじける。佐藤のアダージョの気品、加速する回転技が素晴らしい。檜山は雰囲気のあるダンサーだが、コンラッドではなく、アリに見えたのが残念。

ギュリナーラはメドーラの身代わりとなる気の好い女性。連日出演の雨宮準は確かな技術もさることながら、コンラッドと逃げるメドーラを、哀しげに見送る姿が、抜擢の加藤未希は生き生きとした踊りが印象的だった。

イード・パシャ岩上純の音楽的で奇天烈な動き、同じく近藤徹志の太っ腹な滑稽味、芸術監督の齊藤拓を始めとする海賊たちのキャラクター・ダンスも、このバレエ団らしい味わいだった。

河合尚市は舞台に大きく寄り添った指揮で、東京フィルを牽引。弦、管ともに素晴らしく、間奏曲を堪能した。(3月21日昼夜、22日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2948(H27.5.1号)初出(4/28)

 

★[ダンス]  白河直子@笠井叡『今晩は荒れ模様』 (2015年3月26日 世田谷パブリックシアター

舞踏、オイリュトミーを基盤とする笠井叡が、女性ダンサー6人に新作を振り付けた。出演順に黒田育世、寺田みさこ、森下真樹、上村なおか、白河直子、山田せつ子。笠井はプログラムで次のように述べている。「6名はそれぞれの全く異なった感性、才能、資質、身体性、キャリアを有しております。共通しているのは、それぞれが舞台に立つ以前に、そのカラダそれ自体がダンス作品であるという、ダンサー主義の極北にいる人達である、ということです」。

さらに「戦争とは、過去の男性文化の最も醜悪な遺物です。これを乗り越え、歴史に新しい地平を拓くのは、すべての文化、民族をつなぐことの出来る女性の生命的な力であると、私は確信しています」と続く。芸術的意義だけでなく社会的意義を視野に入れることが、今の笠井には重要なのだろう。笠井は冒頭、合間、終幕に登場し、ダンサーを呼び込む狂言廻しを担った。 幕開けは笠井。白スーツで客席右端から颯爽と登場する。回転しては倒れ、中腰で天と地を指さす。膝曲げアラベスク、笑いながらの片脚立ち、その間、歌うように言葉を発する。「頭と太陽は間もなく燃え尽きるでしょう、黒い太陽が輝き始めるでしょう、白は黒です、闇は闇、黒は黒だ、いくよー」と、最後は駄洒落で締めて、客席左端に座った。それに応えて、黒い皮の胸当てに黒チュチュ、裸足の黒田育世が、ハイハイしながら奥から出てくる。

黒田はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番1楽章をバックに、力一杯踊り始めた。笠井が冒頭に見せたものと同じ振りを見せる。天と地を分離させる仕草、中腰アラベスク、中腰アチチュードなど。黒田は内股でクラシックのパを力みかえって実行する。カエル手の突っ張り、裸足のスタンピングが、相撲の四股や歌舞伎の荒事を思わせる。相撲取りのような力みが、笠井の黒田解釈なのだろう。

ラフマニノフの叙情的な2楽章は、寺田みさこに捧げられた。肌色のレオタード、銀のTバック、銀のトウシューズを身に付け、生まれたての子鹿のような体を晒す。ルルヴェがこれほど繊細に、また永遠を思わせる時間の中で行われたことがあっただろうか。立ち上がることの奇跡。クラシカルに分割された美しい体に、舞踏という細胞液が満たされて、寺田本来の姿が顕現する。舞踏への捧げ物だった。

3楽章は黒田と、水色のドレスに裸足となった寺田が絡む。黒田の力感と寺田の体の美しさ。油と水、黒い太陽と月。同じクラシック・バレエから始まった肉体の彫琢が、これほど違う体を生み出すとは。ラフマニノフの有名なメロディが寺田の肢体にまとわりついて、東洋的な妖しさを舞台に充満させる。笠井の思考の現在性を覗わせる強烈なデュオだった。

続いて森下真樹と上村なおかが登場。水色と金、水色とピンクの宇宙服のようなお揃いを着て、シュニトケ弦楽四重奏を踊る。シンメトリーの位置関係を多用し、同じ振りを当てたのは、二人が似通った容貌の持ち主だからだろう。ただし個性は対照的。直線的で太棹のような森下と、ニュアンスの色濃い細棹の上村。同じ振りを踊ることで、却って個性が浮き彫りになった。黒田と寺田が笠井の振付を「生きた」のに対し、この二人は振付を忠実に実行する。笠井の振付意図が前面に出た、抽象性の高いデュオだった。

そして満を持してのプリマ登場。薄紫のライトに照らされ、ドレス姿の白河直子が現れる。笠井のアンシェヌマンが見られるが、全く異次元の踊り。研ぎ澄まされた美しい腕、鍛え抜かれた筋肉質の体が、大島早紀子と共に作り上げた呼吸法によって突き動かされ、一気に異空間を作り出す。音楽はマーラー交響曲第5番1楽章、葬送行進曲。白河の全身全霊を傾けた音楽への深い感応が、マーラーの持つ人間存在の苦悩を白い炎のように噴出させた。笠井は白河にのみ、逆光ライトを与えている。何もかも捨て去った剥き出しの生、捧げ尽くす体、犠牲の子羊がそこにいた。

最後はベテラン山田せつ子。銀のおかっぱに白ワンピース姿で登場する。ノイズやピアノ、水滴音(音楽:かしわだいすけ)をバックに、自分の中の少女を愛おしむように踊る。笠井の振付が識別できないほど自然だった。少し自意識が匂ったが、笠井とのデュオになると外向きに変わる。笠井が山田の腹を背後から触れた途端、一気にエネルギーが外に出た。笠井は青年、山田は少女。時空を超えた無垢なデュオである。シューベルトの『冬の旅』終曲で再びソロに。少女の一人遊びがシルエットとなって大きく映し出される。最後は自ら影となり、奥へとゆっくり歩いていった。

大団円はM・トランスのシンセサイザー曲。笠井は赤いチュチュに頭飾り、チュール付きのサンバ風衣裳でノリノリの踊り。6吊りの袖幕から出演者が登場し、ハチャメチャに踊って幕となった。笠井の振付を、出自の異なる6つの体が取り入れては押し戻す実験的作品。最も激しい化学反応を起こしたのは、寺田みさこだった。ダンス・クラシックの無意識の体を、笠井が念入りに耕したかに見える。舞踏にとって新たなヴィーナスの誕生だった。

2015年3月26、27、28、29日 世田谷パブリックシアター 構成・演出・振付:笠井叡、衣裳:萩野緑、照明:森下泰、サウンドオペレーター:角田寛生、音響技術:尾崎弘征、舞台監督:寅川英司、制作:髙樹光一郎、プロデューサー:笠井久子、主催:一般社団法人天使館、提携:公益財団法人せたがや文化財団、世田谷パブリックシアター、後援:世田谷区  *『ダンスワーク』70(2015夏号)初出(7/26)

 

★[バレエ]  杉昌郎・関直人『ゆきひめ』@井上バレエ団「アネックスシアター」

杉昌郎・関直人振付の『ゆきひめ』を見た(4月4、5日 世田谷パブリックシアター)。小泉八雲の『雪女』を基に、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の1幕前奏曲と「愛の死」を用いた1幕物。井上バレエ団創立者井上博文が72年、杉昌郎に日舞版のバレエ・ブランを依頼。初演は若者のみがバレエダンサーだった。83年に関直人がバレエ版を作り、その後、ゆきひめのみを日本舞踊家が踊る版も作られた。今回はバレエ版で、初日ゆきひめが日本舞踊家の花柳和あやき、二日目が田中りな、若者は両日とも荒井成也が踊った。

冒頭、両手から、白い半透明の「かつぎ」をかぶったロマンティック・チュチュの雪の精たちが入ってくる。二人、三人と、一見ランダムに入るように見えて、ここしかないというタイミング、場所で止まる(日舞のフォーメイション風)。また一斉に「かつぎ」を翻して諸肌を見せたり、「かつぎ」を広げて壁を作ったりと、日舞の衣装遣いが見え隠れする。音楽と振りの関係も、リズムを逐一合わせるのではなく、楽想と感情を合わせる日舞風のやり方。バレエ版には日舞版のニュアンスがかなり入っているように思われる。

一方、ワーグナーの濃密な音楽を完全に使い切ることができたのは、関の抜きんでた音楽性によるものだろう(日舞版は未見だが)。音楽を体に入れると、自然に振付・フォーメイションがこぼれ出る。井上博文の実験性とバレエ・ブランという、バレエ団のアイデンティティに深く関わる優れたレパートリーだった。

初日ゆきひめの和あやきは高密度の踊り。切り詰められた動きで感情の襞を表す。一つの手に無数の動きが集約されているのが分かる。若者を取り殺そうとした時の晴れやかなフォルム、若者が雪女のことを口にした時の体の豹変。カーテンコールまで緊密な体だった。二日目の田中は精霊風の造形だったが、ゆきひめの凄みを出すには若過ぎたかもしれない。

一方、若者の荒井が新境地を拓いた。もともと技巧派として活躍していたが、これほど濃厚なパトスを出せるとは思わなかった。関直伝の正統派ダンスール・ノーブル。あくまで女性を立てるあり方は、現在ではほとんど見ることができない(NYCBには残っている、国内ではこの間まで齊藤拓で見られた)。伝統的な様式として受け継いで欲しい。(4/11)

 

★[バレエ]  コデマリスタジオ第50回「コデマリコンサート」

コデマリスタジオ恒例の「コデマリコンサート」が、第50回を迎えた。第一部は『くるみ割り人形』。スタジオ主宰の大竹みかが師と仰ぐ、貝谷八百子ゆかりの演目である。第二部は小品を集めたコンサート。最後はレハールの『メリー・ウイドウ』を用いた『ジョイフル・ウイドウ』で、記念の会を締め括った。

第一部の『くるみ割り人形』は「クララの夢」と題し、真夜中の「戦い」から「雪の国」、「お菓子の国」、「終曲」まで、クララの経験を軸に描いていく。曲順を入れ換えるなど変更もあるが、音楽的には自然な仕上がりだった。

ドロッセルマイヤーには大竹の盟友、吉田隆俊を迎え、スタジオ生や貝谷の学園生、系列の生徒たちが総出演。幼児から大人まで、日頃の成果を精一杯披露するなか、吉田が悠々と舞台を仕切り、安藤雅孝、長谷川秀介、新井光紀、増田真也の常連ゲスト陣が献身的に脇を支えた。場をさらったのが、ねずみの看護婦さんの大竹。少しの登場で舞台が華やいだ。

第二部コンサートは9曲。大竹の新作は、ヴィヴァルディの『四季』による『ヴァイオリン・コンチェルト』だった。白いドレスの女性6人が、牧歌的な喜び、嵐のような激しさ、清澄な祈りを踊り継ぐ。振付、フォーメイションは音楽と完全に一致、さらに新鮮な感触を加えている。大竹固有の深い音楽性の表れだった。河邊優、壁谷まりえが、振付の勘所をよく伝えている。

5曲振付の安藤は、様々な人間模様を巧みに描き分けたが、幕開けの『大地の果てから』が野心作。白いドレスの大竹が、安藤、長谷川、新井、増田を従えて踊る。安藤が大竹を激しくリフトし、ソリッドでモダンなテイストの大竹像を見せることに成功した。

スタジオ出身の千田郁子による超セクシーな一人ルンバ、竹澤薫と竹原弘将による濃厚なアルゼンチンタンゴ、そして竹原を二人が取り合うカーテンコールは、粋な大人の味わい。コデマリスタジオの個性の一端である。

コンサートの締めは、大竹の思い入れ深い『ジョイフル・ウイドウ』。愛らしい未亡人を大竹、友人のマルグリートには懐の深い吉田が女装で扮する。共に気品のある舞台姿である。有名な「ヴィリアの歌」を大竹利一が熱唱し、教え子の秦万実がマミーナ役を情感たっぷりに演じた。最後は、民族衣裳を着たチャルダッシュの子ども達、出演者全員が大竹を囲んで、華やかな幕切れとなった。(4月5日 メルパルクホール) *『音楽舞踊新聞』No.2949(H27.6.1号)初出(6/2)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『こうもり』

新国立劇場バレエ団がローラン・プティの傑作『こうもり』(79年、02年団初演)を上演した。今回で5度目。3人の芸術監督が導入・選択したことになる。ヨハン・シュトラウスの幸福な音楽(編曲 ダグラス・ガムレイ)を、隈無く振り付けられる人間はプティ以外にいないだろう。音楽に貴賤なしを実践し、破天荒な振付を平気でやってのける点は、バランシンと双璧である。

主役キャストは4組。そのいずれもが魅力的な組み合わせだった。ベラ役初日の小野絢子は、生来のユーモア、気っ風の良さを前面に出したアプローチ。プティの語法を誰よりも正確に視覚化する一方で、そのあり方は、3月のオーロラ姫と同様、シンボル、イコンと化している。ヌードのパ・ド・ドゥは舞踊への供物そのもの。存在の凄みを感じさせた。前監督の予言を、現監督が実現させた形だ。

ヨハンはABTのエルマン・コルネホ。小野のラインを出すにはやや小柄だったが、マキシムの迫力あるソロ、マチズモ全開による異物感は刺激的だった。ウルリックには驚きの福岡雄大。最終日にはヨハンを演じ、三枚目と二枚目を演じ分ける成熟を見せた。前者では小野、後者では引退する湯川麻美子に、全力で献身した。踊りの精度、覇気も素晴らしく、何よりも苦み走ったいい男だった。

第二キャストの米沢唯はコミカルでアットホームな雰囲気。メイド今村美由起との電話コントは、抱腹絶倒だった。菅野英男の亭主関白(はまり役)にも、「仕方がない」とあきらめムード。パ・ド・ドゥはアヴァンチュールというよりも、母性的な優しさにあふれる。観客を引き込む、共感力の高い舞台だった。

第三キャストの本島美和は、成熟した人妻の魅力。クールな年下夫の井澤駿に、切ない投げキッスを送る。パ・ド・ドゥでは豪華な肢体にフランス風エレガンスを漂わせた。井澤は高い技術と美しいラインを駆使したソロ、安定したサポートが魅力。ウルリックは人間味あふれる福田圭吾が、持ち味を発揮した。

最終日は湯川の引退公演。福岡ヨハンに、超絶技巧ウルリックの八幡顕光が加わり、最後の舞台を盛り立てた。湯川は演じるのではなく、そこに存在した。パ・ド・ドゥの振り一つ一つを味わうように踊る。ヨハンを操る手つきは最小限。福岡が喜んで跳んで回って、それに応える。指揮者のアレッサンドロ・フェラーリも、湯川の全身全霊を傾けた踊りを感じ取り、渾身のクライマックスを贐に捧げた。

湯川はフォルトゥナ、『E=mc2』の巫女、『アポロ』のレト、『パゴダの王子』のエピーヌと、ビントレー時代に大きく開花した。ベラ役で示した舞台を背負う気概、責任感は、後輩への遺言である。

寺田亜沙子のクールでモダン、今村のコミカル、益田裕子の初々しさと、メイドは3者とも演技を見る喜びがあった。ギャルソン、踊り子、チャルダッシュ、警察署長、黒髪・燕尾服の男性陣、ドレス姿の女性陣、仮面舞踏会と、一コマ一コマが楽しく、音楽の喜びを伝えている。

フェラーリは、素晴らしい序曲で観客をハレの世界に引き入れる。シュトラウスの粋な味わいを東京フィルから引き出し、舞台への愛情も兼ね備えた指揮者だった。(4月21、25昼夜、26日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2950(H27.6.15号)初出(6/15)

 

★[コンサート][ダンス]  佐藤俊介萩原麻未@「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2015」

佐藤俊介(ヴァイオリン)と萩原麻未(ピアノ)を標記音楽祭で聴いた。共演した訳ではなく、別個の公演。前者はバッハの『ヴァイオリン協奏曲第2番』と『2つのヴァイオリンのための協奏曲』、後者はラヴェルの『高貴で感傷的なワルツ』『ラ・ヴァルス』と、ジェフスキの『ウィンズボロ・コットン・ミル・ブルース』(5月2、4日 東京国際フォーラムB7、G409)。両者ともダンサーに匹敵する身体性の持ち主だった。

佐藤は今年2月、柳本雅寛と組んだ動き回るコンサートを聴いて(見て)驚いたばかり。柳本に引っ張られたり、寝転がったりしても音程が崩れない。子供の頃から歩きながら練習していた(←叱られていた)成果とのこと。体幹がしっかりしていて全身の力が抜けているので、運弓がダンスのように見える。こちらの体もほぐれる。今回はオーヴェルニュ室内管弦楽団との共演だが、指揮者がいるのに、後ろを振り向いて、団員と濃密なコンタクトを取っていた。コンチェルト・ケルンとオランダ・バッハ協会のコンマスをしているので、その癖が出たのだろうか。違う気がする。コンタクトを取りたい人。『2つの』ではイレーヌ・ドゥヴァルと共演したが、まだ学生の彼女を指導しているように見えた(彼女がまたガチガチのフォーム)。いずれも超絶技巧を駆使しているのに、これ見よがしではなく、一陣の風が吹き抜けたような演奏。バロックの装飾音符が、ジャズの即興のように、みずみずしいエネルギーを帯びて生み出される。つまり固定化された名演奏を目指していない。その時その場にいる人々と、音楽を分かち合いたいだけなのだ。自然体のステージマナーを見て、なぜか熊川哲也を思い出した。嘘がつけないタイプ。超絶技巧が何かに捧げられているという点で。

萩原は狭い空間だったので、ラヴェルの繊細なワルツよりもジェフスキの肘打ち奏法が合っていた(音がワンワンしてラヴェルに聞こえなかった)。座席が萩原の背後だったため、ジェフスキの串団子が延々並んでいるような譜面と、萩原の肘打ちをしっかり見ることができた。綿工場で働く労働者のブルース。機械音を和音の強打で表し、時折肘打ち奏法で轟音を作る。見ていて、黒田育世を思い出した。裸足でスタンピングし、四肢を突っ張らかす黒田。自分の脚を蹴り続ける黒田と、子供の頃、親が止めるまでピアノを弾き続けていた萩原が重なる。弾きたい、打ちたいという萩原の思いのみが後に残った演奏。(5/19)

 

★[ダンス]  アキコ・カンダダンスカンパニー「連星」

標記公演を見た(5月9日 東京劇術劇場シアターイースト)。アキコ・カンダというカリスマ・ダンサーの亡きあと、カンパニーはグレアム・メソッドを駆使する創作集団に戻った。特に市川紅美作品は、グレアムの語彙が明確で、エッジの効いた動きが特徴。音楽性にも優れる。アキコの情感や抒情性に傾いた作風は、グレアム影響下から脱して、独自の道を歩んできた結果だが、市川作品は、グレアムの普遍性に触れようとする。その語彙の神秘的な魔力。踊る女性たちが巫女に見える。原初的な祭儀性ではなく、深層心理のようなモダンな祭儀性だが。 ダンサーたちはベテランから中堅まで登場。市川作品はハードなので、踊り切れないベテラン勢もいるが、それでいいのだろう。つまり作品の完成度よりも、全員が踊ることに意味があるのだろう。

 

★[ダンス]  国立劇場「能狂言の舞踊」

標記公演を見た(5月23日 国立劇場)。五耀會のメンバー、西川箕乃助、花柳寿楽、花柳基、藤間蘭黄、山村友五郎が出演、女優の鈴木保奈美がナビゲーターを務めた。鈴木はこの5年ほど、西川流を習っているとのこと。アフタートークの司会ぶりから、芸(術)の目利きであり、信奉者であることが分かった。

これまで見た五耀會の公演は、流派の越境に面白みがあったが、今回はその家に伝わる真っ向、正攻法の演目を並べた。結果、5人の個性が際立つ公演になった。

出演順に、山村友五郎は地唄『菊慈童』(山村愛伝承)。能の『枕慈童』を原典とした義太夫節(1756)を、地唄に移したもので、後半になぜか傾城の口説きが入る。歌詞や振りのテクスト比較はできないので、単にダンスとして見た訳だが、舞踏に近かった。腰を落としたまま舞う。体全体が撓んで、長身の友五郎がそうとは見えない。ほとんど同位置を保ったまま、体の質を変えるだけで異空間を作る。もし座敷で見たら(そんな贅沢なことはありえないが)、体ごと持って行かれるだろう。不思議な腰だった。

西川箕乃助は長唄『七騎落』。能の同名曲を基にした西川扇藏による創作物(1984)である。物語は古今変わらない日本人の心情に沿ったものだが、現代風に男性群舞があり、美術も抽象化されて、観客の想像力を刺激する。西川流の実力者たちの中に一人、藤間流の蘭黄が頼朝で入った。興味深かったのが、實平の箕乃助と蘭黄が主従ユニゾンを踊る場面。西川流のコンパクトで求心的な見えに対し、藤間流の見えは華やかでオーラが広がる。バレエで言えば、デンマーク派対ロシア派。ついでにブルノンヴィル(デンマーク)の細かい技巧は、花柳流だろうか。

花柳寿楽長唄『釣狐』。狂言の同名曲を基に二世壽楽が振付をした(1960)。歌舞伎舞踊の「釣狐物」とは異なり、九世三宅藤九郎から狐の技を学んだとのこと。これまで見た寿楽は、しっとりした二枚目を控えめに演じる、だったが、今回は面を付けて、杖を突く老僧となり、端々に狐の軽やかな身振りと口跡を示す熟練の舞踊手だった。体全体から飄々とした滑稽味と哀愁を漂わせる。陶然とした。

花柳基は常盤津長唄『身替座禅』。狂言『花子』を藤間勘右衛門が振付、1909年に六代目尾上菊五郎と七代目坂東三津五郎で初演された。運動神経抜群の基の右京と、蘭黄の玉の井ははまり役。蘭黄は立役の凄みを垣間見せながら、情が深く嫉妬深い奥方を大きく演じた。頼朝では気品が勝り、近代的自我を感じさせたのと対照的。本来は情念の人なのかも知れない。もし山村流を踊ったらどうなるだろうか。

最後は5人全員で清元『蜻蛉洲祭暦』。先ごろ急逝した藤間蘭景のために、1979年に書き下ろされた作品で、神世から現在までの日本の祭りを写実的に描く。5人のしめやかな踊りが蘭景を偲ぶようだった。

日本舞踊の普及を目指しているのか、字幕付きだったが、『菊慈童』では字幕を見ることができなかった。体を注視しなければならなかったから。他の作品で見ることができたのは、演劇性が強かったからだろうか。(5/26)

★[ダンス][その他]  第5回全日本健身気功・太極拳練功大会

標記大会に参加した(5月28日 国立競技場代々木第二体育館)。区立体育館で教わっている先生関連の大会。もちろん団体出演で、200名ぐらいが24式太極拳を行う、そのうちの一人。片脚立ちが上手くいかなかった。

出演した後は、観客席で様々な団体の演技を見た。太極拳は360度回るので、円形競技場のどこからでも見られる。大体一人二人練達者がいて、その人を見たり、技の違いを見たりした。最後に中国人老師の表演があった。北京体育大学の教授や大学院生、日本で長年指導している先生が、気功や太極拳を見せる。大学教授は確かに行き届いて巧いと思うが、ダンスとしては、日本で指導している陳ソン先生の太極拳が素晴らしかった。広い空間を飄々とあやつり、360度に清潔な気をまき散らす。見た後は、おいしい物を食べた気分になった。

この丸い空間に置いてみたいと思ったのは、先日見た、日舞の山村友五郎、舞踏の山崎広太、鈴木ユキオ。彼らには正面性があるので360度とは行かないかもしれないが、色んな気を発すると思う。

昨年、全日本武術太極拳選手権大会を見た際、長拳南拳といった超絶技巧駆使の派手な拳より、自選太極拳の方が、最終的には面白いと思った。創作舞踊のようにその人となりが滲み出る。最後は悟りの境地に至るのだろう。(5/30)

 

★[オペラ]  カイヤ・サーリアホ『遥かなる愛』 (演奏会形式)

標記公演を聴いた(5月28日 東京オペラシティコンサートホール)。東京オペラシティ同時代音楽企画「コンポージアム2015」の一環。なぜ聴こうと思ったかと言うと、女性作曲家であることが一つ。もう一つは、6月に同じフィンランドのテロ・サーリネンのダンス公演を見るから(エサ=ペッカ・サロネンの楽曲使用)。ついでにフィンランドを代表する女性画家ヘレン・シャルフベックの展覧会にも行くことになった。

『遥かなる愛』は2000年、ジェラール・モルティエの依頼によりザルツブルグ音楽祭で初演された。題材は12・13世紀フランスの「遥かなる愛」伝説。オック語で愛の詩を綴るトルバドゥールの一人、ジョフレ・リュデルの物語である。筋書きを読んだとき、トルバドゥールや十字軍が出てくるので『ライモンダ』を思い出した。あと『トリスタンとイゾルデ』も。

リュデルはバリトン、愛の対象クレマンスはソプラノ、二人を繋ぐ巡礼の旅人はメゾ・ソプラノが歌う。演奏会形式なので映像のみの演出(ジャン・バティスト・バリエール)。チェス盤やイスラム幾何学模様にモザイクをかけ、歌手の顔を同時撮影して組み合わせる。渦巻き状で切れ目のない神秘的な音楽と、ピタリと同期する。東京交響楽団と東京混声合唱団の生音に、エレクトロニクスを絡めているらしいが、よく分からなかった。ただ一か所、巡礼の旅人が歌うリュデル作詞の愛の歌が、妙にビブラートがかかって鮮烈な印象を残した(エレクトロニクス?)。これがオペラの原型となった『遠ク』だろうか。『遥かなる愛』の4年前に初演された女声とエレクトロニクスの曲で、オック語で歌わせ、その仏訳と英訳の語りを電子的に操作して、原詩を包むオーラのように響かせた、らしい(プログラム)。

指揮はエルネスト・マルティネス=イスキエルド、バリトンは与那城敬、ソプラノは林正子、メゾは池田香織。与那城は、トルバドゥールで領主という役どころや音楽の質を、あまり理解していないようだった。林は神秘的というよりも情熱的、池田は音楽をよく理解していた(サーリアホを聴いたことがないのに、なぜ言えるのだろう、舞台芸術の不思議)。 同じ演奏会形式でもよいから、歌手を揃えて、もう一度聴いてみたい。(6/2)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖

新国立劇場バレエ団が、大原永子芸術監督就任シーズン、最後の演目を上演した。06年初演、7回目の牧阿佐美版『白鳥の湖』(K・セルゲイエフ版に基づく)である。大原監督は古典バレエへの回帰と共に、演劇性重視を指導の要としてきた。今回の『白鳥』では、古典様式、民族舞踊、マイムがかつてなく行き届き、薫陶の成果を覗わせている。3人のオデット=オディールも、それぞれ和風、西欧風、ロシア派と、個性を十全に発揮、若手の台頭も知らしめた充実の舞台だった。

初日の米沢唯は、役を考え抜いた上でその場を生きるタイプ。オデットは当初、何を目指しているのかよく分からなかったが、悪そのものであるオディール造型、ロートバルト死後に見せた、憑き物が落ちたような表情から、悪魔によって白鳥に変えられた人間の苦しみを、身体的に生きていたのだと分かった。破格のアプローチだが、有無を言わさぬ思考の強度と、それを実行する熱量の高さがある。

二日目の小野絢子は叙情的な白鳥、気品あふれる妖艶な黒鳥を的確に演じ分けた上で、さらに運動的快楽をも供給する。パートナーの福岡雄大と共に、古典バレエの様式性、演劇性、パの純度を追求するいわば求道者。時に「きっちり」という声が聞こえる部分もあったが、古典ダンサーとして王道を歩んでいる。

最終日の長田佳世は白鳥を踊るための四肢を備えたダンサー。美しい腕が繰り出す柔らかな羽ばたき、完璧に意識化された脚が永遠のアラベスクを描き出す。バレエを神聖なものとするロシアの教育に、長田の誠実さが合致して、宗教性を漂わせる舞台を作り上げた。

王子はそれぞれ、英国ロイヤル・バレエのワディム・ムンタギロフ、福岡、奥村康祐。ムンタギロフは、ロシアの身体に英国の教育が施された理想的なダンスール・ノーブル。自然体の演技、規範に則った踊りが素晴らしい。米沢に呼応することはできなかったが、一貫した役作りだった。

福岡は今回、優雅だった。心得た演技、正確な美しいソロで、責任感あふれる突き詰めた舞台を見せた。一方、奥村は前回よりもさらに若く、夢見がちになった。ロマンティックな資質を強調したのだろうか。

ロートバルトは演技派3人。貝川鐵夫のダイナミズム、輪島拓也の熱血、古川和則の哲学者のような威厳と、個性を楽しませた。特に古川の立体的な役作りは、牧版の弱点を補っている。例によって道化の八幡顕光、福田圭吾、小野寺雄が、音楽的超絶技巧、人間的な暖かさ、洗練された演技と踊りで、宮廷場面を献身的に支えた。

ベテランでは、チャルダッシュの大和雅美、丸尾孝子、トレウバエフ、貝川が豊かな味わい。大和はさらに、小さい4羽の白鳥を率いて音楽的なアンサンブルを作り出した。ナポリ・江本拓の美しい脚技、家庭教師・内藤博の老練な演技も素晴らしい。

若手では、井澤駿の華麗な踊り、池田武志の覇気ある踊り、柴山紗帆の品格ある踊り、また来季入団する木村優里の大物ぶりが印象深い。

演奏は東京フィル。熱血アレクセイ・バクランが全力で指揮をしたが、残念ながら、『白鳥』の華であるオーボエ、さらに金管も不調。余程の過密スケジュールなのだろうか。(6月10、11、14日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2952(H27.7.15号)初出(7/15)

 

★[ダンス][バレエ]  NBAバレエ団『HIBARI』

標記公演を見た(6月13日 メルパルクホール)。美空ひばりの生涯を、ダンス、歌、ナレーション、芝居、生前の映像で綴る。『悲しき口笛』、『リンゴ追分』から、『真赤な太陽』、『悲しい酒』、『愛燦燦』、『人生一路』など、最後に『川の流れのように』でカーテンコールが行われた。全15曲、1時間10分の作品。

美空ファンが駆けつけているのか、映像に対して、拍手と合いの手のような歓声が上がる。その異様な興奮の中で、和央が宝塚仕込みのスレンダーな姿態で、凛々しいナレーションと歌を、バレエ団がダンスと芝居を見せる。リン・テイラー・コーベットの構成・演出は、映像の使い方など、こなれていて巧み。但し、振付はオリジナリティを追求する方向にはなく、ダンスのみを取り出すと物足りなさが残る。音楽解釈の反映も、もっとあってしかるべきと思う。しかし作品全体から、誠実さ、真摯さといったコーベットの資質が感じられて、胸が熱くなった。ダンサーも適材適所で使われている。特に『悲しい酒』の関口祐美、『愛燦燦』の大森康正は、本来の美質が十全に生かされている。何よりも、コーベットが関口を見出したことが嬉しい。

カーテンコールで観客は総立ちになった。必ずしも美空ファンではないような。昨年の『ドラキュラ』でも総立ちだったが、その客が付いているのだろうか。だとしたら、久保綋一芸術監督の力である。 帰り道、清々しい気持ちで大門まで歩いた。ダンサー達が、日本人として当然踊るべき曲を踊り、個々の持てる力を発揮していたから。全国ツアーを組めばいいと思う。(6/15)

 

★[バレエ]  バレエシャンブルウエスト「トリプル・ビル」

バレエシャンブルウエストが第74回定期公演を行なった。昨年に続き、船木城の創作を含むトリプル・ビルである。

幕開けの船木振付『Thousand Knives』(11年)は、12年にNBAバレエ団でも上演された作品。坂本龍一のアジア的な音楽に、今回はスタイリッシュな照明(成瀬一裕・あかり組)と衣裳(萩野緑)が加わり、よりネオクラシカルな色彩を深めている。主役を踊った山本帆介(サンフランシスコ・バレエ団)の成熟した男の魅力、力強く美しいラインが作品を牽引。土方一生の若々しく切れ味鋭いパ、松村里沙のハードな味わい、楠田智沙の厚みも際立った。バレエ団がレパートリー化しうる完成された作品である。

第二部は『海賊』より「花園」(振付・今村博明、川口ゆり子)。オダリスクの踊りを加え、バレエ団女性陣の実力を披露する構成である。メドーラの橋本尚美は気品に満ちたエポールマンで、古典のあるべき姿を伝える。回転技には少し苦しんだが、一つ一つのパに涼やかなきらめきがあった。ギュリナーラ・深沢祥子の美しさも健在。オダリスク・藤吉千草の風格、斉藤菜々美の切れ、柴田実樹の伸びやかなラインと行き届いた踊り、さらにスタイルの統一された誠実なアンサンブルが、バレエ団の育成力を物語っていた。

最後は船木の新作『Tale』(40分)。昨年の『カウンターハートビーツ』は作家性を前面に出し、バレエ団を使ったという印象だったが、今回はダンサーのために振り付けている。さらに大ベテランの今村と川口を中心に据えたことで、作品に幅と奥行きがもたらされた。翻って、弟子に新作を振り付けられた二人は、師匠冥利に尽きるだろう。

7場のうち最も心に刻まれたのは、やはり川口の踊りだった。今村と少し組んだ後、正木亮とエック風のデュオを踊る(音楽・ペルト)。逆さになって脚を開閉しながらリフトされる姿が新鮮だった。エックのデュオが孤独と絶望に彩られるのに対し、船木のデュオには、郷愁やものの哀れといった自然と密着した感情が伴う。川口の少女を思わせる透明感と、風にそよぐような受け身の身体性が、或いはそう思わせたのかも知れない。

一方今村は、教え子の吉本泰久、土方とのユニゾンで、抜きん出て美しい踊りを披露した。終幕には、ダンサー一人一人に抱きとめられながら、最後には川口と出会う、オルフェオのような劇的歩行を見せている。

高山優と山本による叙情的な白鳥風デュオ、松村とジョン・ヘンリー・リードによるハードな黒鳥風デュオ、楠田と男性3人による激しいカルテットと、表情の異なる力強い振付が並ぶ。バレエ団にコンテンポラリー・バレエ作品を提供できる振付家が誕生した。(6月20日 オリンパスホール八王子) *『音楽舞踊新聞』N0.2952(H27.7.15号)初出(7/15)

 

★[ダンス]  テロ・サーリネン・カンパニー『MORPHED』

標記公演を見た(6月21日 彩の国さいたま芸術劇場)。昨年、埼玉舞踊協会の招きで、日本人ダンサーに新作を振り付けたテロ・サーリネンが、自らのカンパニーを率いて来日した。作品は同じく2014年初演。特権的なダンサーのソロに緻密な群舞、フォーメイションを付けるという点では共通するが、埼玉舞踊協会の場合は、東洋的身体(舞踏、推手)や、アフリカン・ダンスのような足踏みなど、土俗的な要素が多く含まれていた。

今回は、まずエサ=ペッカ・サロネンの音楽があった。『無伴奏ホルンのための演奏会用練習曲』(00年)、『フォーリン・ボディーズ』(01年)、『バイオリン協奏曲』(09年)。直球正攻法、清潔で凛々しい。初演時には作曲家の指揮で、生演奏されたとのこと。恐らくは全く異なるダンス受容体験になっただろう。今回はCD録音という完璧な演奏、アンプを通しての音量のため、音楽の存在感がダンスを圧倒する場面が多かった。

ダンサーは男性8人。異なる出自とのことで、振付語彙が特別のジャンルを思わせることはない。冒頭は歩行。4重の正方形を互い違いに2人づつ歩く。シモテに中心を移したり、斜めの変形を作ったり。ポストパフォーマンス・トークで、曼荼羅を描いていたと分かった。僧侶やビジネスマンの歩行と言っていたが、実際には兵隊か服役囚のように見えた。さらに時計の針のような隊形を作ったり、三方に垂らされた太いロープと絡んだり。時々細かなフォーメイションを作ってハッとさせたり(通常は作り込まないようなところで)。

ロープで群舞、というと先例があるが、サーリネンのロープは太く実直。船や海を思わせる。同じく振付も真っ直ぐ。クールであることに価値を置いていない。農作業が、最後には神事に至るような感じ。

ダンサーたちはマッチョな外見だが、静かな印象がある。汗の匂いがしない。男性性からの解放が着地点だから? それともサーリネンの特徴? それともフィンランドの土地柄?

最初に白のベストになったユッシ・ノウシアイネンの、深い精神性を思わせる武術家のようなソロ、鳶色の長いソバージュ頭でブリッジをした、ペッカ・ロウヒオの実存的ソロが素晴らしかった。二人のクリエイティヴな踊りが、唯一音楽と拮抗している。

サーリネンの才能を感じさせた、と言うよりも、サーリネンの思いを受け取った公演。(6/23)

 

★[バレエ]  東京小牧バレエ団「スター・ガラ2015」

東京小牧バレエ団がボストン・バレエの精鋭を招いて、「スター・ガラ2015」を開催した。バレエ団の常連ゲストで、ボストン・バレエ所属のアルタンフヤグ・ドゥガラーと、菊池宗団長のプロデュースによる。

第一部は『ジゼル』第二幕。佐々保樹の演出・振付は、プティパに遡る物語性を有していた。形骸化した振付に、本来の言葉を蘇らせている。ミルタが十字架を怖れる場面、ウィリの対角フォーメイションが鮮烈だったが、特にアルブレヒトの終幕は、深い嘆きを感じさせて、他版にはない説得力があった。佐々は優れた黒鳥のパ・ダクションも振り付けている。古典バレエの物語性に光を当てる貴重な上演だった。

ジゼルにはボストン・バレエのプリンシパル、倉永美沙。艶のある体に柔らかな腕使いで、コケティッシュな魅力を発散させた。アントルシャの力強さ、跳躍の鋭さも素晴らしい。アルブレヒトはドゥガラー。少しナルシスティックに見えたが、ノーブルな官能性を漂わせた。

ミルタの市河里恵も、長年ボストンで活躍。死霊にしてはやや情熱的に過ぎると思われたが、ダイナミックな個性を十全に発揮した。ドゥ・ウィリの長者完奈と金子綾が、消え入るようなラインでバレエ団の長所を体現。ウィリたちは団員とオーディション選抜者の混合のため、スタイルの統一には至らなかったが、密やかな佇まいは共有していた。

第二部はコンサート形式。『海賊』パ・ド・トロワ、『ラ・バヤデール』パ・ド・ドゥ、『ドン・キホーテ』グラン・パ・ド・ドゥと、ヴァル・カニパロリ、ユーリ・ヤノウスキー、ジェフリー・シリオによる創作5曲。古典では、『ドン・キホーテ』を溌剌と踊った倉永と、同じく超絶技巧を控え目に見せたシリオが、圧倒的な存在感を示した。創作ではシリオの2作。自身が踊った武術家のようなソロ、ドゥガラーの官能性を引き立てる『of Trial』が印象深い。

人種、体型、舞踊スタイルの異なる10人が、情熱を込めて踊り継いだ一時間半。人種の坩堝ならではの実験性、新しいスタイルの導入などを目前にできたアット・ホームなコンサートだった。(6月26日 新宿文化センター) *『音楽舞踊新聞』No.2952(H27.7.15号)初出(7/15)

 

 

★[オペラ][バレエ]  NISSAY OPERA 2015 ロッシーニランスへの旅

標記公演を聴いた(7月3日 日生劇場)。ロッシーニが好きで、アルベルト・ゼッダ(先生)の軽やかで生命力あふれる指揮が好きだから。ロッシーニの、近代的自我や自己表現などを突き抜けた超絶技巧、人生の肯定感は、バレエのブルノンヴィル作品と共通する。アジリタ駆使の超絶歌唱は、プリパレーションなしのブルノンヴィル・ソロと同じ。正確な技術がなければ、歌(踊り)にならないところも。

ランスへの旅』のゼッダ先生の解説。「この困難極まりないオペラを演奏できるキャストを集めるには、2つのやり方がある。世界中から選り抜きのロッシーニ歌手を集結させるか、或いはこのスコアを前に、延々と共に稽古をする覚悟のある若い歌手たちに委ねるかのどちらかである。十分に意欲のある若い歌手は、上手いか下手かのどちらかであって、可もなく不可もないということは決してない。月並みな才能こそが、ロッシーニの音楽にとっては最悪の状況を引き起こすのである」(プログラム)。つまり突き抜けなければいけないということ。小手先ではだめなのだ。

この作品は1825年6月19日、パリ・イタリア劇場で初演された。初演の2週間前にフランス国王シャルル十世の戴冠式がランスであり、祝意を示すための公演だった。終盤に各国から集まった貴族、騎士がお国の歌(らしきもの)を(イタリア語で)歌う。もちろんアジリタ駆使。その最後に聴きなれた曲が鳴った。『眠れる森の美女』のアポテオーズである。チャイコフスキーが古謡『アンリ四世讃歌』を引用したもの。『ランスへの旅』はフランス国王讃歌なので、ロッシーニも使ったということか。30人位の歌手が一斉に歌う讃歌は素晴らしかった。ロッシーニテノールの片鱗を窺わせたのは、山本康寛。突き抜けようとしていた。

来年、新国立劇場バレエ団がブルノンヴィルの『ラ・シルフィード』を上演する。楽しみなのが男性ソロ。両回転トゥール・アン・レールを決行するかどうか。井澤駿は先日の『白鳥の湖』トロワで、江本拓以来の両回転をこなしていたので確実だろう。

ブルノンヴィルの曜日のクラスで、グラン・プリエからピルエットするのを見たことがある。反対に、フォーキンの『ル・カルナヴァル』には、ピルエットから胡坐になるアルルカン・ソロがある。19世紀には当然の技だったのだろうか(後者はフォーキンの創作?)。いずれにしても、現在の技術とは質の異なる職人的な難技があったのだろう、両回転を含めて。ラトマンスキーの『眠れる森の美女』復元で主役を踊ったヴィシニョーワは、何ということもない踊りなのに、すごく疲れたと言っていたらしい。どういうことなのか、早く見てみたい。(7/4)

 

★[ダンス]  長谷川六『闇米伝承』追記あり

標記公演を見た(7月10日 ストライプハウスM)。東京ダンス機構主催「TOKYO SCENE 2015」の一環である。作・演出・装置・出演は長谷川六。衣装(装置としての衣服)製作は奥野政江。照明はカフンタ。と書いて、照明に気付かなかったことに気付いた。照明効果は無意識に刷り込まれている。あるべき照明の姿。

昨年は、道路に面した半円を描く大ガラス窓を背景にし、行き交う人々が見える舞台設定だったが、今回はギャラリー中央にある階段がバック。壁には高島史於による70年代の写真が並ぶ。花柳寿々紫、藤井友子、三浦一壮、矢野英征、畑中稔の霊に囲まれて踊る形。

カミテ通路から長谷川が登場。留袖をリフォームした長い衣装、右手には杖、ではなく竹刀、左手には紫の花束。盲目のオイディプスか、能役者の佇まい。竹刀がよく似合っている。ついさっきまで受付でにこやかに微笑んでいたのが、一瞬で本来の体に統一される。つまりどこでも集中できるということ。足袋のような白い靴下をはき、地面を選びながら静かに動く。床の中央には三枚の畳んだ着物。その前で、長谷川は体と対話しつつ、フォルムを変えていく。竹刀を斜めにしたり、両の手で捧げ持ったり。その腕の美しさ(左前腕裏には丸い痣がある)。様々な身体技法を経てきた果てに獲得された美しさである。一瞬一瞬フォルムを切り取り、体の位相を変える手法は、能に由来するのだろうか。気の漲りは穏やかだが、見る者の中に確実に堆積して、ふと気が付くと涙が流れていた。

『闇米伝承』という題の下に、「母親の箪笥から着物が一枚、また一枚消え、四人の子供のいのちを繋いだ」とある(ちらし)。母の着物を思い、父の竹刀を使った舞。そこにバッハの無伴奏チェロ組曲を流すところが、モダニスト長谷川。一方、張りつめた神事のような瞬間ののち、それを破壊するかのごとく、母の着物を両腕に巻きつけてぶん回すのが、ポストモダニスト長谷川。最後は『ケ・サラ』を「70年代を思って歌い」、終わりとなった。 「昨日膝を痛めて歩きづらいので、父と祖父の使った竹刀(剣道の師範だった)を杖に使いました」と挨拶。花束も「今朝頂いたもの」だった。完全な自由を垣間見られる時間。人間は自由なのだと思い出させるパフォーマー

 

*長谷川六氏より「着物を振り回すのは、乱拍子、唄を歌ったのは、シテは謡うので」とのご指摘を頂いた。全て能にある要素で創られていたということ。(7/12)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団『ジゼル』

東京シティ・バレエ団恒例の夏公演は『ジゼル』全二幕。演出・振付は金井利久。今回はゲストバレエマスターに元シュツットガルト・バレエ団プリンシパルのローラン・フォーゲルを招いた。

金井版の特徴は、主役から脇役、端役まで、役の性根が入っていること。ラッパ手が本当に先触れとして吹いているのを、初めて見た気がする。洋風をなぞるのではなく、日本人の自分を通過する入り方のため、演技にはどこか新劇風の味わいがある。様式的には少し過剰かも知れないが、事情を唯一知るウィルフリードの演技から、ジゼルとバチルドの出会ってはならない関係が、改めて浮き彫りになった。

ジゼルは初日が志賀育恵、二日目が中森理恵、アルブレヒトは黄凱とキム・セジョン、その初日を見た。志賀は、かつてのあふれんばかりのエネルギーがクラシック技法で統制され、透明で緻密な体にさらに磨きがかかった。繊細な腕、生き生きとした脚。アルブレヒトへの想いが、ドゥミ・ポアントから全身に逆流する。また裏切りを知った後、ネックレスを捨てて倒れる時の脱力が素晴らしい。明るいはかなさが浴衣姿を連想させる、和風のジゼルだった。

黄は長年のパートナーの志賀が相手とあって、かつてのようなクールな面差しではなく、愛情に満ちた兄のようなアルブレヒトだった。本調子の技巧とはいかなかったが、剣を構える姿の神々しい美しさは相変わらず。はまり役である。

ヒラリオン役チョ・ミンヨンの熱血ながら抑えた演技、ミルタ・清水愛恵の地に足のついた演技、ベルタ・長谷川祐子の滋味あふれる演技、クーランド公(青田しげる)、バチルド(坂本麻実)、貴族達のわきまえた演技が、舞台に厚みを加える。

ペザントは森絵里と岸本亜生が明るさを振りまいた。村娘、村男の様式に則った溌剌とした踊り、ウィリ達のおっとりした踊りは、バレエ団の個性である。

井田勝大指揮、東京シティ・フィルの演奏は、もう少し乗りがあってもと思うが、端正で行儀がよかった。(7月11日 ティアラこうとう大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2957(H27.10.15号)初出(10/17)

 

★[バレエ]  井上バレエ団 『シンデレラ』

井上バレエ団恒例の夏公演は、プロコフィエフ音楽、関直人振付の『シンデレラ』全3幕。6年ぶりの上演である。美術・衣裳は、王宮を森の中に作ってしまう森の詩人ピーター・ファーマー。妖精の白い衣裳や、緑と紫を基調とする淑女のドレスが、背景の森に美しく溶け込んでいる。回転する映像など、舞台に寄り添う照明(立川直也)も効果的だった。

関版の特徴は、何よりも音楽的な振付にある。叙情的なパ・ド・ドゥ、高度なクラシック・ソロ、華やかで清潔なキャラクター・ダンス、エネルギッシュな群舞、それぞれに心浮き立つ音楽的喜びがある。特に時の精は、四肢を時計の針のように使い、鋭いフェッテで掟の厳しさを強調する名振付である。

また「アモローソ」大団円の後に、「舞踏会出発」のワルツで総踊りを加え、さらに幕が降りてからも、幕前で継母と義姉妹が掃除をするオチを付けるなど、観客にポジティヴなパワーをこれでもかと与える。バレエ団のシンプルなスタイルと関のエネルギーが組み合わさったフェアリー・テイル、唯一無二の『シンデレラ』である。

シンデレラは初日が宮嵜万央里、二日目が田中りな(所見日)、王子はチェリャビンスク国立オペラ・バレエ劇場バレエ団所属の秋元康臣が両日を勤めた。

中堅の域に入った田中は、前半やや硬さが見られたものの、舞踏会から戻ったソロ、王子との再会の踊りは感情にあふれ、体全体から晴れやかなエネルギーを発散した。バレエ団のスタイルもよく体現している。対する秋元は、国内時代とは全く様変わりしていた。長い手足を豪快に使い、生き生きと野性味さえ感じさせる。本来はこのように踊りたかったのだろう。

一方王子の小姓、荒井成也は、今春再演された関の傑作バレエ・ブラン『ゆきひめ』で若者を踊り、古風なノーブル・スタイルを継承したが、今回も美しい踊りと、献身的な演技で存在感を示している。

仙女(大島夏希)、四季の精(阿部真央、速水樹里、山下さわみ、源小織)、時の精(矢杉朱里)を初め、妖精たちや星の精が織り成す幻想的な風景が美しい。継母・福沢真璃江のゴージャスな踊り、義姉妹・樫野隆幸、安齋毅の渾身の演技、さらに中尾充宏を始めとする男性ゲスト陣が、舞台を大いに盛り立てた。

指揮は、新国立劇場バレエ団で副指揮者として活躍する冨田実里。ロイヤルチェンバーオーケストラから、プロコフィエフの豊かな弦の響きを引き出している。来季ENBの客演指揮者として、『ロメオとジュリエット』、『海賊』、『くるみ割り人形』を振る予定。自分の音楽を持つ貴重な指揮者である。(7月26日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』N0.2957(H27.10.15号)初出(10/17)

 

★[バレエ]  有馬龍子記念京都バレエ団『ロメオとジュリエット』

フランス派スタイルを信奉する有馬龍子記念京都バレエ団が、久々の東京公演を行なった。プロコフィエフ音楽、ファブリス・ブルジョワ振付の『ロミオとジュリエット』全幕である。主要キャスト8人に、エトワールを含む現旧パリ・オペラ座ダンサーを配した破格の座組。これはオペラ座の演劇空間を日本で実現しようとした主宰者の、芸術的情熱によるものである。

振付のブルジョワは現パリ・オペラ座メートル・ド・バレエ。前回12年の『ドン・キホーテ』では、キューピッドのトラヴェスティを解いて、男性ダンサーを配し、自然体のマイムを基調に、装飾音符のようなフランス風足技を随所に散りばめた。

今回もまずマイムの内発性に目を奪われた。音楽と一致していることはもちろん、登場人物の内面から動きが生み出されている。大仰ではなく自然。その頂点がキャピュレ卿のシリル・アタナソフだった。ブルジョワ演出の創意として、冒頭と終幕に、書斎で娘の思い出を綴るキャピュレ卿が登場する。机に座る身じろぎ一つしない形、それだけで悲劇の全てを物語った。最小限の動きで最大限の感情を生み出すマイム、遠くから見守るパートナリングは、舞台芸術家が辿り着く最高の境地である。

演出は隅々まで血が通っている。赤のキャピュレ家には情熱的な振付、緑のモンテギュ家には端正な振付、舞踏会の客人入場にも細やかな芝居が付いた。舞踏会でロミオの赤いシャツの胸元を開いて、その名を知るジュリエットの哀しみの仕草は、悲劇の微かな予兆。軽やかな日常の積み重ねがいつの間にか悲劇に至った。

ロミオにはエトワールのカール・パケット。必ずしも本調子ではなかったが、豊かな舞台経験と献身的なサポートで、ジュリエットを包み込むように支えた。エロイーズ・ブルドンは長い四肢を鋭角的に操る闊達なジュリエット。ロミオとの恋が始まった途端に、繊細な身体になり、後は情熱の赴くまま悲劇を突っ走った。

キャピュレ夫人のモニク・ルディエールは、夫に寄り添い、娘を気遣う愛情深い佇まいが素晴らしい。パリスにはノーブルなクリストフ・デュケンヌ、ティバルトには暗い情熱に満ちたピエール=アルチュール・ラヴォー、ベンヴォリオには正統派ヤニック・ヴィトンクール、そしてアクセル・イーボが、知的で品格あるマキューシオを、清冽なエネルギーを持って生き抜いた。アルレッキーノの仕草が見せるエスプリ、死に至る芝居の自然さに、オペラ座の底力を見た。

本多恵子の乳母、大野晃弘のヴェローナ大公、ロザランの藤川雅子を始めとするバレエ団側も、ゲスト陣と溶け込む優れた役作りを見せる。マキューシオ友人の奥村康祐、西岡憲吾、鷲尾佳凜の美しいスタイル、フォークダンス若手男女の清潔なスタイル、舞踏会のエレガントなアンサンブルなど、ブルジョワ薫陶の成果は明らかだった。

指揮の江原功が、ロイヤルチェンバーオーケストラからドラマティックな響きを引き出している。(8月2日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2956(H27.10.1号)初出(10/1)

 

★[バレエ]  谷桃子バレエ団『Fascination Concerto Triple』

標記公演を見た(8月16日 DDD AOYAMA CROSS THEATER)。舞台と客席が近い空間で、迫力あるバレエパフォーマンスを見せる T-CONNECTION シリーズの3回目。

演出・振付は坂本登喜彦、作曲・音楽監修・演奏は打楽器奏者のYAS-KAZ、映像は立石勇人。踊り、音楽、映像が高いレベルで噛み合った作品。シンデレラの靴をモチーフに、3人の男性ダンサーの魅力を隈なく見せることに力点がある。坂本の振付は、ダンサーの本質をえぐり出すダンサー批評だった。

三木雄馬は、『夏の夜の夢』のパックやギリシア神話のエロスのような無垢な少年。振付は高度な技術を織り込んでいるが、持ち味であるロシア風のダイナミズムはなく、繊細で両性具有のようなニュアンスを帯びる。清潔な肌合いは、三木の踊りで初めて見る要素だった。

今井智也は、金髪でダイナミックな踊り。牧神のように無意識の部分を拡大したエネルギッシュな青年だった。行儀のよい舞台を多く見てきたが、自分を突き抜ける破天荒なタイプだったのか。

齊藤拓は、ダークでエロティックな男。胸から脚にかけての美しいラインが、鋭利な刃物のようにきらめく(首に巻いた白いスカーフが、美しい胸を隠して残念だったが)。いつかストイックなタンゴを踊って欲しい。ずっと王子役を担ってきたが、本来はマクミラン作品にあるような暴力性が似合うダンサー。誰か齊藤のために創ってはくれないだろうか。来年の『眠り』ではダウエルに倣って、女装のカラボスを演じて欲しかったのだが。(8/17)

 

★[映画]  荒井晴彦監督『この国の空

標記映画を見た(8月22日 シネリーブル池袋)。なぜ見たかと言うと、荒井晴彦の映画だから。97年の『身も心も』以来の監督作品。『遠雷』や『Wの悲劇』などは、荒井の脚本と知らずに見ていたが、阪本順治監督の『KT』や『大鹿村騒動記』は荒井脚本だと思って見た。『映画芸術』の編集人時代、自らの原稿を年下の編集者に掲載拒否される事件があったが、それを金井美恵子が愛情を込めてエッセイにしていたことを思い出す。

本作は、荒井が長年温めていた高井有一の原作を、戦後70年の節目にようやく映画化できた作品。日常と非日常が綯い交ぜになった戦時下の生活を描き、最後に茨木のり子の詩『わたしが一番きれいだったとき』の朗読で終わる。一見メッセージ性の強い作品に見えるが、やはりエロスを核とするいつもの荒井作品。ショットはすべて内発的。こう撮りたい、こうでなければという監督の思いが、画面全体から伝わってくる。日本の夏の闇、湿気と冷気、蚊の音、虫の音、風の音、木々の音。今にも夏の匂いが漂ってきそうだ。『KT』の時も、日本の夏の闇が、物語の筋と関係なく挿入されていた。この日本の自然(身体を含む)に対する濃やかな感覚は、恐らく日本近代文学によって培われたものだろう。性愛の場面も文学的。微妙な心身の変化、体温の上昇まで事細かに描写される。

役者はほぼ揃っていたが、主役の二階堂ふみの台詞回しが、荒井の世界を壊していた。なぜ演技指導をしなかったのか。長谷川博己池部良の系譜、知的で色気がある)との濡れ場でも、二階堂がセリフを言うや否や、コメディかパロディになってしまう。『朝日新聞』のインタヴューによれば、「あれは僕(荒井)じゃない。二階堂が成瀬巳喜男小津安二郎監督を勉強してきたんじゃないか。高峰秀子原節子のしゃべり方をね」(2015,8,21夕刊)。 もちろん監督は、二階堂が高峰や原とは異なるタイプの女優だと言わなければならなかった。それ以前に、身体と台詞の乖離を指摘しなければならなかった。台詞のない時の二階堂はアップに耐える女優である。自分の生地を生かした台詞回しをすれば、こんなおかしなことにはならなかったと思う。残念。(8/26)

 

★[バレエ]  小林紀子バレエ・シアター『グローリア』他

小林紀子バレエ・シアター第108回公演は、マクミラン日本初演作品『グローリア』を含むトリプル・ビル。同時上演は同じくマクミランの『ソワレ・ミュージカル』と、小林改訂の『ライモンダ』第三幕である。

80年、英国ロイヤル・バレエで初演された『グローリア』は、第一次世界大戦で婚約者と弟を失ったヴェラ・ブリテンの自伝に触発され、フランシス・プーランクの同名曲に振り付けられた。合唱とソプラノ・ソロによる輝かしい神への讃美は、戦死した兵士と、かつて彼らと共に生き、今は精霊となって彼らを慰撫する女達へのレクイエムに姿を変えた。

マクミランの振付は、死後の世界を描くためにリフトを多用。複雑なパートナリングは、『マノン』のエロティシズム喚起とは対照的に、霊性を醸し出すために使われる。兵士たちの重く疲れた身体が、透明で軽やかな女達を掬い上げる。特に主役パ・ド・ドゥにおける女性のラインは、超人的な美しさだった。

主役女性は島添亮子。磨き抜かれたラインと優れた音楽性で、精緻なパ・ド・ドゥを作り上げた。『マノン』や『コンチェルト』を踊ってきた経験が十分に生かされている。リフト時の神経の行き届いた体が比類ない。

男性主役はゲストのエステバン・ベルランガ(スペイン国立ダンスカンパニー)とロマン・ラツィック(ウィーン国立歌劇場バレエ)。島添を支えて健闘したが、もし日本人のみの座組にした場合、作品の持つ普遍性がより明らかになり、追悼の趣もさらに増したのではないか。

ソプラノ國光ともこの濃密な歌唱と、武蔵野音楽大学合唱団の力強い歌声が、作品に強度を与えていた。

『ライモンダ』第三幕は、他幕のヴァリエーションを加えたグラン・パ。ハンガリアン・プリンシパルの出番が多く、最後の大見得も、ライモンダとジャンの主役と並列される。 ライモンダは高橋怜子。美貌で、日焼け(?)した二の腕が艶めかしさを伝える。まだ「腹が据わった」とは言えないが、自立した踊りに近づいている。ジャンは大柄なラツィックが勤めた。

新国立劇場バレエ団で長年踊ってきた大和雅美の、音楽性豊かな楷書のヴァリエーションが心に残る。男性ゲスト陣も美しい踊りを披露した。

指揮はポール・ストバート、演奏は東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。(8月23日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2958(H27.11.11号)初出

 

*『ソワレ・ミュージカル』について触れなかったのは、再演作ということもあるが、最終場面で、女性主役がフェッテを出来なかったから。そのことで作品全てが壊れてしまった。技術的に出来ないのではなく、精神的に追い込まれてだと思う。主役がフェッテ自体出来なくなるのを、2回見たことがある。やはり世界が瓦解したような衝撃を感じた。フェッテとは何か。単なる技術に留まらない、何かを象徴するパなのだろう。観客にとっては、技術的な見どころであると同時に、主役の精神性を感じる場面でもある。輝かしいオーラ、エネルギーで観客を祝福する、アナニアシヴィリの全盛期のフェッテを思い出す。またアニエス・ジローが、男性ダンサー4人(だったか)をフェッテでぶん回すプティ作品を思い出す。フェッテの象徴性を剥ぎ取り、動きの面白さのみを抽出した、プティの天才がなせる技だった。(11/3)

 

★[バレエ][ダンス]  日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」

文化庁及び公益社団法人日本バレエ協会主催「全国合同バレエの夕べ」が、二日にわたり開催された。「平成27年文化庁次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である(協力・公益財団法人新国立劇場運営財団)。今回は岡本佳津子会長が就任して初めての公演。7支部、東京地区、本部による12演目が並んだ。公演の性質上、若手ダンサーが多数出演するが、発表会風の作品はほぼ皆無。ダンサーのレベル及び、支部の制作意識が向上したせいだろう。一般の観客が日本バレエを概観し、なおかつ楽しめる公演に成長した。

古典5作、創作6作。例によって本部のリシーン作品『卒業舞踏会』が両日のトリを勤める。古典から上演順に、関東支部の『ラ・バヤデール』より「婚約の宴」(再振付・冨川祐樹)。主役経験豊富な福岡雄大ソロル)と日向智子(ガムザッティ)が、高度なソロと情感豊かな演技を見せる。やはり古典はバレエの華。若いアンサンブルがプティパ振付を経験する意義も大きい。中部支部はレガット兄弟の『フェアリー・ドール』2場より(再振付・エレーナ・レレンコワ、監修指導・岡田純奈)。標題役の山本佳奈を中心に、ピエロの河島真之、水谷仁、各国の人形たちが、可憐な人形ぶりと、清潔なクラシック・スタイルを披露した。

東京地区の『ワルプルギスの夜』はラヴロフスキーの振付に横瀬三郎が手を加えたもの。3人のニンフがバレエ・ブラン仕立てで淑やかに踊る。バッカナーレの狂躁よりも牧歌的雰囲気が優るのは日本人ならでは。浅田良和のバッカスと、樋口ゆりのアリアーヌも慎ましやかな情緒を漂わせた。北陸支部の『パキータ』(改訂振付・坪田律子)は、土田明日香の情熱的なパキータと、法村圭緒のノーブルなリュシアンの組み合わせ。法村は登場するだけで舞台に気品が満ちあふれる。端正なソロが素晴らしかった。アンサンブルも技術・スタイルをよく身に付けている。トロワの巻孝明は未来のノーブル候補。

一方、創作はクラシックからコンテンポラリー・ダンスまで多彩だった。北海道支部Jewelry symphony』(振付・石川みはる)は、ビゼー交響曲ハ長調から3つの楽章を用いたシンフォニック・バレエ。パステルのチュチュが美しく、出演者全員の練習成果がよく分かる振付だった。東京地区の『スケルツォ』(振付・今村博明、監修・川口ゆり子)は、ブラームスのピアノ生演奏にゴージャスな衣裳で踊るロマンティックなネオクラシック。本島美和とJ・H・リードのエレガンスが際立つ。対して中国支部の『ピアノ・ブギ・ウギ』(振付・貞松正一郎)は、ジャズやフォークダンスを取り入れた音楽的で闊達な作品。貞松自身、パ・ド・ドゥでは相変わらずのダンスール・ノーブルぶりを発揮した。

関西支部の『Zero Body』(振付・島崎徹)は、Z・キーティングの土俗的なミニマル音楽に乗せて、9人の少女が踊るコンテンポラリー・ダンス。照明(立川直也)と絡み合った幾何学的フォーメイション、低重心のハードでオーガニックな振付が、ミニマルな陶酔感をもたらした。同じく四国支部の『in the Air』(振付・青木尚哉)は、ダンス・クラシックを取り入れたスタイリッシュなコンテンポラリー・ダンス。ダンサー青木の持ち味である脱力コミカル系ではない、あくまで正統的な振付を、24人の少女が踊り切った。

異色作は関東支部の『THE SWAN』(演出・振付・西島数博)。『白鳥の湖』第二幕に手を付ける胆力を見せた。永橋あゆみのオデット、高比良洋の王子、新村純一のロットバルトという適材適所に、白鳥と黒鳥が絡む。隊形、出入りの整理はこれからだが、ロットバルト中心のダークな美意識と鋭い音楽性が、新たな第二幕を創出した。

恒例の『卒業舞踏会』では、マイレン・トレウバエフの元気な老将軍、江藤勝己の自然体且つ母性的な女学院長、志賀育恵の繊細なラ・シルフィード、江本拓の美しいスコットランド人、天性のコメディエンヌ齊藤耀の即興第1ソロなど、適材を楽しむことができたが、最大の驚きは、即興第2ソロ初日の奥田花純が物語を生きて、作品にドラマティックな局面を与えたことである。

シアターオーケストラトーキョー率いる福田一雄が、舞台を包容するパワフルな指揮で、公演に大きく貢献した。(8月28、30日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2956(H27.10.1号)初出(10/1)

 

★[バレエ]  東京バレエ団「横浜ベイサイドバレエ」

標記公演を見た(8月29日 象の鼻パーク 特設ステージ)。「DANCE DANCE DANCE @ YOKOHAMA 2015」の一環でもある。プログラムは、ブラスカ振付『タムタム』、ワシリーエフ版『ドン・キホーテ』第1幕より、ベジャール振付『ボレロ』。Wキャストの二日目だった。

最も驚かされたのは『ドン・キホーテ』の上野水香。昨年の全幕では演技に難があったのが、今回は全く払拭されている。ローラン・プティ以降、指導者なしの状態だったが、ようやく適切な指導者が見つかったのだ。斎藤友佳理芸術監督の演出も素晴らしい。全幕では気付かなかった細かい演技の流れを、間近で見ることができた。特にメヌエットに至るマイムの細やかさ! 以前NBAバレエ団のヴィハレフ版で、19世紀に繋がる演劇性に驚いたことがあるが(ブルノンヴィル作品のような)、今回はそれよりも闊達で明るい。ペテルブルクとモスクワの違いだろうか。

斎藤監督は8月に就任して早速、秋元康臣、宮川新大という才能をバレエ団に引き入れた。秋元はボリショイで学び、宮川はジョン・クランコ・スクールでペーストフに学んだ(ドイツの高校を卒業できるところだったが、ペーストフのクラスを受けるために休学したと聞く)。たとえベジャールを踊るにしても、クラシック・スタイルは基本。公演回数の多いバレエ団として、正統派ダンサーを採用するのは望ましい方向だと思う。上野の例を見るまでもなく、斎藤監督にはダンサーを育てる力がある。今回のキャスティングとダンサーのパフォーマンスを見て、その感をさらに強くした。

現在公立では、新国立劇場バレエ団の大原永子監督、民間ではNBAバレエ団の久保綋一監督が、演出とダンサー育成の点で際立っているが、そこに斎藤監督が加わった模様。先の二人は欧米のバレエ団でダンサー人生を全うした。つまりバレエ団のレパートリー展開と、ダンサーの成熟過程を熟知する。斎藤監督は東京バレエ団に所属しながら、モスクワの舞踊大学を首席で卒業したエリート。日本のバレエ団の実情とロシアバレエのレベルを熟知する。三人に共通するのは、振付はせず、二代目という点。ダンサーが正当に生かされるバレエ団がまた一つ増えた。(8/30)

 

★[ダンス]  Noism 0 『愛と精霊の家』

標記公演を見た(9月4日 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館)。「新潟インターナショナルダンスフェスティバル2015」(芸術監督:金森穣)の一環。他に韓国の大邱市立舞踊団、中国香港の城市当代舞踏団が参加した(未見)。金森監督によれば、「新潟は鎖国時代にも北前船などで中国、韓国と交流してきた。中韓との関係が冷え切っている現在、大陸に隣接する唯一の政令指定都市である新潟が、本来の姿である国際交流を再構築していくことは、新潟で文化に携わる者の責務であると感じている」(プログラム)。この作品は同時に、新潟市のアートフェスティバル第3回「水と土の芸術祭」参加作品でもある。

『愛と精霊の家』は、『シアンの告白』の一部と『Under the marron tree』を内包する(原案の『シアンの家』は未見)。金森はアフタートークで、作品の方向性を「パーソナルなものから、普遍的なものへ」拡大させたと語っていたが、根底にはやはりダンサー井関佐和子への愛がある。井関は、 イヨネスコの『椅子』を暗唱する奥野晃士(SPAC)相手のエロティックな人形ぶり、ダンス教師役・山田勇気との初々しいダンスレッスン、金森とのコミカルな新婚ぶり(映像)、小尻健太との大人の愛、さらに妊娠、流産を経ての愛の深まり、そして幼女から老女までを包括する『Under the marron tree』を踊り抜いた(各場、チャイコフスキー5番、ラヴェル『亡き王女のパヴァーヌ』、ショスタコーヴィチの「ワルツ」、シェーンベルクの『浄夜』、マーラーの「アダージェット」を使用)。女性の一生分を踊った形。

これほど高密度で深い踊りを捧げられ、それに応え得る日本人ダンサーが他にいるだろうか。金森の振付は音楽の本質をえぐり、なおかつ輝きを与えるもの。ダンサーには音楽性のみならず、自らの実存の底に到達することが要求される。山田の誠実で愛情深い教師ぶり、小尻の鋼のような男性性と強い包容力が、井関の達成を支えている。

金森自身は冒頭に踊ったと思う(全員黒スーツに黒帽子を被っているので、誰が誰か分からなかった)。最初、その切れの良さ、鮮やかさから井関かと思ったが、力強い覇気が体中にあふれ、金森かなと思い、右脚を振り上げて跳躍後、胡坐で着地した瞬間に確信した。「パーソナル」を避けるために、井関とのパ・ド・ドゥを作らなかったのだろうか。二人が踊るマッツ・エックの『ソロ・フォー・トゥー』、金森の『カルメン』パ・ド・ドゥを、いつか見てみたい。

イヨネスコの『椅子』は、ベジャールがマリシア・ハイデとノイマイヤーに振り付けた作品。奥野の暗唱は、その独特の語り口から、内容よりも身体性を感じさせるものだったが、最後の言葉、「それでもわしは、これほどまでに、同じ皮に包まれ、同じ墓に埋められ、わたしたちの古びた肉で、同じ蛆虫をやしない、いっしょに腐りたかった」(安堂信也訳)は、これを選んだ振付家の肉声として心に響いた。金森による井関への愛の讃歌。(9/14)

 

★[美術]  新潟市美術館

標記美術館に行った(9月5日)。Noism 0 の公演『愛と精霊の家』(感想は9月16日に既出)を見た翌日。丁度「ラファエル前派展」をやっていたが、それは見ないで、常設展示「HI, STORIES!」を見た。ピカソ草間弥生、カリエール、ルドン、エルンスト、アンソニー・グリーンと見ていくうちに、よくある地方美術館の有名作家羅列展示ではなく、統一された美意識の下に選択展示されていることが分かった。当たり前と言えば当たり前のことだが。日本人作家(森川ユキエ、橋本龍美、猪爪彦一、川口起美雄)やソフィア・リデトの写真、高松次郎野田哲也といった既知の作家の作品まで、全体が生き物のように有機的な秩序を保っている。そしてそこに付された学芸員星野立子)の柔らかな文章。市民の目線を意識し、新しい価値観へと誘うような、愛情と責任感にあふれた解説文だった。

美術館を設計した前川國男関連の展示もあった。美術館のシックでモダンな佇まい、落ち着いたインテリアに、初めて訪れた場所とは思えなかった。その理由は、すでに前川の建築に親しんでいたから。東京文化会館東京都美術館国立西洋美術館新館。自然の庭、自然食系のカフェを含め、居るだけでゆったりとした気持ちになる(居るだけで落ち着かなかったのは、兵庫県立美術館)。カフェでベーグルとスープのセットを食べた。おいしかった。

荷物を美術館のロッカーに入れて、日本海を見に向かった。昨日まで川の町だと思っていたが、美術館から元砂丘を越えて、日本海が見えた瞬間、海の町でもあることが分かった。砂防林の松林、昔風の海そばの木造家屋。碁盤状の町から、歩いて海に行ける! 金森穣と Noism はこういうところで創作活動していたのだ。(9/17)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団『くるみ割り人形

都内有数のバレエ会場、ゆうぽうとホールが、15年9月一杯で閉館した。33年の長きにわたってホールに親しんできた牧阿佐美バレヱ団は、年末の『くるみ割り人形』を一足早めて、ホールに別れを告げた。バレヱ団の母体、橘秋子記念財団による補助金問題報道に揺れた一週間だったが、舞台はいつも通りのレベルの高さ。主役はもちろん、マイム役から子役まで、指導の行き届いた老舗の味だった。

バレヱ団創立60周年記念公演の第3弾となった『くるみ割人形』は、総監督三谷恭三の演出・改訂振付による。ドロッセルマイヤーが広間の壁から登場し、その甥が活躍するなど、演出の面白さに加え、デヴィッド・ウォーカーの美術とポール・ピヤントの照明が相乗的に作り上げる豪華で繊細な空間は、他版にはない魅力である。一幕の雪混じりの月光、広間の暖かい燭台の灯り、二幕の豊饒を意味する黄金の照明など、何度見ても素晴らしい。

主役トリプル・キャストのうち、最終回の中川郁と清瀧千晴を見た。中川は6月の『リーズの結婚』に続き、初役の主役。物怖じしない伸びやかな踊り、翳りのない明るいオーラで、舞台に新風をもたらした。清瀧も、いつもながらの高い跳躍に、今回は落ち着いた王子ぶりを見せる。爽やかなカップルだった。 ドロッセルマイヤーはノーブルなラグワスレン・オトゴンニャム。その甥の細野生が、切れのある美しい踊りと安定したサポートで、またくるみ割り人形の今勇也が、鮮烈なアラベスクで存在感を示した。

今回花のワルツ配役の青山季可は、にこやかな佇まいに隙のない動きで貫禄の踊り。他日金平糖の精を踊った織山万梨子の凛とした美しさも印象深い。実力派の茂田絵美子(雪の女王)、久保茉莉恵(アラブ)は、残念ながら本調子とは言えなかった。

最後はカーテンコール無し。「33年間、ありがとう」の横断プレートを掲げ、ホールに感謝を捧げて幕が降りた。練達の指揮者デヴィッド・ガーフォースが、東京オーケストラMIRAIから、豊かで暖かみのある音を引き出している。(9月6日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2957(H27.10.15号)初出(10/17)

 

★[ダンス]  鈴木ユキオ・川村美紀子・ケイタケイ@「ダンスがみたい! 17 ~春の祭典~」

標記ダンサーによる公演を見た(それぞれ 7月31日、8月21日、8月23日 d-倉庫)。12人のダンサーがストラヴィンスキーの『春の祭典』で作品を作る途方もない企画。『春の祭典』を舞踊化する場合(元々舞踊音楽だが)、リズムと、物語性(生贄選び)を重視する傾向が強い。例外は平山素子。音楽を俯瞰的に捉え、振付によって音楽の構造を感じさせた。音楽分析もさることながら、音楽を深く感受する資質によるものだろう。

鈴木は、第1部で『春の祭典』にまつわる様々な映像をクリップ。無数のボール紙のファイルを積み重ね、そこに映写した。映像をカットするリズムは音楽とシンクロする。鈴木自身は積み重ねたファイルを、煉瓦を運ぶように、両脇に置いていく。スカートから見える脹脛の充実。1部と2部の間で、作品の解説を自らマイクで喋る。慣れていて、面白い。第2部、ようやく踊りが始まる。安次嶺菜緒とのデュオ。裸になったり、見得を切ったり。だが身体を感じさせたのは、1部のファイル運びの方。2部では思考が前に出て、体が消えてしまった。踊りながらモノになる、無意識になることと、知的な演出や社会性とは、相容れないのだろうか。鈴木の脹脛を信用する。

川村は、客席を車座にして、中央で踊った。つまり生贄として。裸で始まり、裸で終わる。服を着て踊る本編の前後に「川村」がいた。踊りは音楽に合わせて、何か習得言語のような、「川村」とは乖離したやり方。服の間から覗く下っ腹のぷるぷる、太ももの脂肪分が、ダンサーらしからぬ野放図な生活を想像させる。踊り自体は、行儀のよい、初々しい踊りだった。

ケイタケイは弟子達と共に。本編前後に儀式を付け加えた。ストラヴィンスキーとは関係なく、ボーっと心地よく見ていられる。ダンサーたちが心と体によいことをしているので、こちらも体がほぐれるのだろう。ケイタケイはいつものように、田舎の妖精。田んぼや畑にいて、お百姓さんを助けるかわいい妖精。終演後、ラズ・ブレザーがケイの手を掲げると、本気で怒って手を下げた。帰路、秋風の吹くなか、盆踊りの音を聞きながら、日暮里の裏通りを気持ちよく歩いた。(9/12)

 

★[バレエ][ダンス]  日本バレエ協会関東支部埼玉ブロック「バレエファンタジー

日本バレエ協会関東支部埼玉ブロックが、28回目の「バレエファンタジー」を開催した。芸術監督は矢野美登里。矢野の作る空間の中で、若手育成と創作推進の目的は今回も果たされた。

ブロックのジュニア達が踊るオープニング作品は、菊池紀子振付の『breath…息吹き』。プロコフィエフの『古典交響曲』を細部まで読み込んだ生き生きとした振付と、クラシック・スタイルの徹底指導により、音楽そのものを楽しめるシンフォニック・バレエの域に達している。

スタジオ作品は6作。上演順に、石塚彩織振付『ミトウロク/Unregistered』(大岩静江バレエスタジオ)は、ミニマルな電子音にドビュッシーピアノ曲を差し挟むコンテンポラリー・ダンス。面白い振りも散見されたが、子ども達にとっては少しドライな作風だったかも知れない。山田沙織、伊東由里振付『アディエマス』(井上美代子バレエスタジオ)は、身体能力の高いダンサー達を一致団結させた、エネルギー発散系のジャズダンス作品。標題となった作曲家、アディエマスの音楽には合唱も入るため、ミュージカルのような高揚感があった。

休憩を挟んで、田口裕子振付『タンゴ』(伊藤京子バレエスタジオ)は、ピアソラの名曲『リベルタンゴ』から始まる。粘り気のある足遣い、スタイリッシュなデュオの動きが、タンゴの暗いニュアンスを引き出す。主役の関口祐美が土橋冬夢相手に、しっとりとした大人の踊りを披露した。続く矢嶋美紗希振付『水の戯れ』(マリエバレエ)は、ラヴェルの同名ピアノ曲に振り付けられた。水色の衣裳を身につけた5人の女性が、水そのものと化して踊る美しい作品。

一方、腰塚なつ子振付『スラブ民謡の主題によるヴァリエーション』(同バレエアトリエ)は、少女8人と若者一人が繰り広げる牧歌的青春模様。花柄チュチュが楽しい。最後は新井悠汰を中心に8人が円を作り、前後開脚して新井を讃美した。スタジオ作品最後は、宮内麻衣子振付『WHITE』(HAGAバレエアカデミー)。22人の女性ダンサーが黒いホルダーネックにチュールのスカート、お団子ヘアで踊るコンテンポラリー作品。気怠い大人っぽさを作風とするが、子ども達が少し置いてけぼりになったような気もする。

合同作品は中尾充宏改訂振付の『コッペリア』第3幕より。冒頭、市長の代わりに「祈り」の鈴木瑠華が全体を統括し、最後は結婚の祝福も与える演出。振付は、長年ブルノンヴィル・スタイルを学んできた中尾らしく、早いテンポで細かいステップが繰り出される。ロマンティック・バレエに近い祝祭的雰囲気で作品は大いに盛り上がった。

スワニルダの戸田有紀は、やや緊張気味ながら、確かな技術とおっとりした娘らしさを、フランツの清水健太はベテランらしい行き届いたサポートに、情熱的な若々しい踊りを披露した。

「祈り」の鈴木の気品、「婚礼」の奥山あかりの鮮やかなライン、「戦い」の中川杏奈のアマゾネスぶりを始め、ブロックの若手が一丸となって中尾の振付に立ち向かい、ドリーブ音楽の喜びを伝える。男性ゲスト、吉田邑那の華やかさ、荒井成也の切れの良い踊りも舞台をバックアップ。ブロックの高校生、「婚礼」の永堀智也のノーブルなスタイルも印象的だった。(9月13日 さいたま市民会館おおみやホール) *『音楽舞踊新聞』N0.2957(H27.10.15号)初出 (10/17)

 

★[ダンス]  川村美紀子新作『まぼろしの夜明け』

標記公演を見た(10月9日 シアタートラム)。夜はロベール・ルパージュの『針とアヘン』を見て、その実存と結びついた精緻な演出に唯々圧倒されたが、心が喜んだのは川村作品。やらかした、という感じ。チラシには「ヒトは、どれくらい踊れるだろう?」とあり、「限界まで踊ってみたい」ともあったので、80分間6人の男女が踊り狂って、スタンディング(客席がそうなっている)を強いられている我々も、最後には踊らされるのではないか、という一抹の不安があった。丁度風邪をひいていたし、どうしたものかと思ったが、見ることにした。

最後列を除いて客席を取り払い、広い四角の空間が作られている。天井には数個のミラーボール。中央にはお立ち台。6人の人間が白い薄物に覆われて横たわっている。観客はぐるりを取り囲み、ダンサー達を見つめる。様々な音楽、人の声、リズムを刻む電子音が、寄せては返す波のように続く。ダンサーは動かない。時折足の親指を動かすくらい。時計を見ると40分経過。体力温存策?

1時間たって、ようやく直立に向けて体を起こし始めた。目前のダンサーは、あおるような音楽に駆られて、立ち上がろうとする。立っている観客からすると、「頑張れ」と言いたくなる。しかし力尽きて、再びうつ伏せになる。思わず笑ってしまった。最後の最後に全員が立ち上がり、海のかなたを見つめた。暗転。6人は再び横たわっている。拍手の隙を与えず、終了。

川村は「太い」と思った、体ではなく、魂が。全く踊らなかったが、動かないだけで、実は踊っていました、と言うかもしれない。ノンダンスなどと洒落たものではなく、やらかしたった、とか、バカヤロー、という感じの舞台。一瞬ゾンビかとも思ったが、それにしては健康的。生まれる前の子供のような無垢な存在感があった。川村は最後に立ち上がった。幼女のような乳臭さが漂う。それも一瞬だけで、すぐに暗闇になった。

スタンディングの効用。最初は壁に寄りかかっていたが、だんだん前のめりになり、腕組みして仁王立ちになった。音楽、空間に身を委ねる。じっと目の前の体を見る。そして応援する。座った時よりも、全身での空間享受になる。そしてダンサーを見ない自由もある。もし踊らない作品だと知っていたら、ここまでダンサーの体を注視しただろうか。今動くか、今動くか、と思いながら、80分が過ぎた。面白かった。もちろん踊れるダンサーがじっとしているから、見ていられたのだ。(10/13)

 

★[バレエ][ダンス]  牧阿佐美バレヱ団『ジゼル』『牧神の午後』

牧阿佐美バレヱ団創立60周年記念公演第4弾は『ジゼル』。改訂振付は牧自身による。同時上演はドミニク・ウォルシュ振付『牧神の午後』(09年)。ロマンティック・バレエ、コンテンポラリー・バレエの両者が共に異界に取材する、絶妙なダブル・ビルだった。

『牧神の午後』はウォルシュのニジンスキー讃歌。おぼろ月夜に竹が二本、裸身の男が一人佇む。左肩を前にプリエ、前方に伸ばした右足を左手で掴む。ウォルシュが触発されたロダンニジンスキー・フォルムが、至る所で繰り返される。スタティックな平面動きのニジンスキー版が、動物的なエロスであふれるのに対し、ウォルシュ版は植物的な動きの連続。日本的美意識さえ感じさせる。ニンフのねっとりしたポアント運びは、花魁の歩行を思わせた。

牧神には、クラシカルに分節された肉体美を誇るラグワスレン・オトゴンニャム。なめらかな東洋の体が静かなエロティシズムを漂わせる。牧神仲間、元吉優哉とのデュオ、リードニンフの田中祐子との絡みも静謐。ベテラン田中の優れた振付解釈が、上演のバックボーンとなった。

牧演出の『ジゼル』は、マイムの保存、ワイヤー使用など、原点に遡る古典の風格がある。同時に、一幕アンサンブルでは闊達な男性舞踊を取り入れて、モダンでスピーディな味わいも加わった。

ジゼルはベテランの域に入った青山季可。一幕の明るく控え目な少女、二幕の愛情に満ちた霊的存在を、青山にしかできないやり方で生き抜いた。日頃からジゼルのように生きていると思わせる自然な佇まい。一幕ソロがこれほどまで、ジゼルその人によって踊られたことがあっただろうか。相手と常に真のコミュニケーションに努め、己を空しくするそのあり方は、主役の極北である。

アルブレヒトは菊地研。正攻法で真っ直ぐの踊り。役に全身全霊を捧げている。ヒラリオンはノーブルなオトゴンニャムが勤めた。ミルタの久保茉莉恵は、ウィリの女王としての冷徹さよりも、人間時代の熱い情熱を思わせる役作りで、舞台を大きく支配。ズルメ日高有梨の夢見がちなラインも印象深い。

ペザント・パ・ド・ドゥは織山万梨子と清瀧千晴。垢抜けた折り目正しい踊りで、存在感を示した。また、クーラント公の保坂アントン慶を始めとするマイム役が、わきまえた演技で舞台を大きく支えている。

指揮のウォルフガング・ハインツは、村人アンサンブルのテンポが速過ぎたものの、東京オーケストラMIRAIを駆使し、引き締まった音楽作りで舞台に貢献した。(10月15日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』No.2960(H27.12.1号)初出(12/1)

 

★[ダンス]  第67回「西川会」

標記公演を見た(10月27日第二部 歌舞伎座)。都合で清元『三社祭』までを拝見。もちろん洋舞を見るように見たのだが、興味深かった演目は、清元『青海波』と荻江『松・竹・梅』。 前者は西川箕乃助振付。10人の女性が男役と女役(?)に分かれて踊る群舞作品。途中デュオ、トリオなどが入る。背景は銀屏風で、男役は濃い紫の着物、女役は薄紫の着物で裾を引き、白地に水色の波模様の扇を全員が持つ。美術の洗練に息をのんだ。

振付は詞章を反映していると思うが(分からない)、様式的で、抽象化されたシンフォニック・バレエのように見ることができた。途中、グレアム・メソッドのアキコ・カンダダンスカンパニーを、何故か思い出した。全員が一つの様式に身を捧げ、舞踊家として日々精進していると感じさせたからだろう。女性舞踊家が女らしさに頼らず、男性舞踊家と同じように道を究めていける流派なのだろうか。アキコのカンパニーを思い出させたもう一つの理由は、フォーメイション、ダンサーの出し入れに、洋舞に通じる快楽を感じたからかも知れない。

後者は西川扇藏振付。箕乃助(松)がいつの間にか舞台に座っている。その完全無欠の佇まいに驚かされた。研ぎ澄まされた体の線(着物の線)、一分の隙もない動きに、踊りというよりも、武道の型を見せられたような気がした。清冽でしかも円満な境地。 西川流のスタイルは、これ見よがしでなくストイック。芝居に寄りかからず、動きの追求を行なっている。様式性の滋味を味わえる、清々しい舞踊空間だった。(10/30)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ホフマン物語

新国立劇場バレエ団の新シーズンが開幕した。演目はピーター・ダレル版『ホフマン物語』(72年、STB)。プロローグ・エピローグ付き、全三幕のグランド・バレエである。

作品はオッフェンバックのオペラ『ホフマン物語』を母胎とするが、ランチベリーが大幅に編曲を施して、ランチベリー版とも言える堅固な音楽構成を誇る。一幕のメヌエットやガヴォット、二幕のモーツァルトピアノ曲、ロシア風グラン・パ・ド・ドゥ、三幕の有名な舟歌に加え、スパイスの効いたソロ曲等、耳に残るメロディが多い。

ダレルの振付はバレエの様式を年代順に追うもの。一幕の宮廷舞踊とコメディ、二幕のロマンティック・バレエとクラシカル・バレエ、三幕のモダン・バレエ。プロローグには3つの男性ヴィルトゥオーゾ・ソロが含まれるが、エピローグと共に、ミュージカルの趣を持つ。観客との地続き感を大切にしたのだろう。

オペラのニクラウス(ミューズ)を省略したことは、ホフマンの詩人としての性格付けを曖昧にし、幕切れの芸術讃歌を、悪魔に翻弄された人間の悲嘆へと矮小化することになるが、全体を見れば、堅固な音楽構成と、視野の広い、一種啓蒙的な振付の合体は、オペラハウスに適した作品と言える。川口直次の装置、前田文子の衣裳、沢田祐二の照明も互いに相性が良く、作品の魅力拡大に貢献した。

配役は適材適所。ホフマン初日の福岡雄大は、酔っぱらいの老け役には覇気がありすぎて、リアリティを欠いたが、幻想シーンの切れ味鋭いクラシック・ソロ、三幕のマゾヒスティックな苦悩の踊りで長所を発揮した。二日目の菅野英男は、力みのない自然体演技と、何でも来いのサポート力で、悠揚迫らぬホフマン像を造型。特に酔っぱらいの場面では懐の深いユーモアを漂わせた。三幕の十字架攻撃が最もはまっていたのも菅野。最終日の若手、井澤駿にとっては、3人のパートナー、老け役等、チャレンジングな役柄である。サポートに力を取られて、いつもの華麗な踊りは影を潜めたが、老け役を含む芝居には才能を発揮。ピアノを弾く姿はロマンティックだった。

一方、ホフマンを取り巻く女性陣も主役経験豊富な強者。二役を演じた米沢唯は、5回公演全てに出演する強行軍だったが、芸術への情熱が嵩じて死に至るアントニア、熱いエネルギーが迸る魔性のジュリエッタを、自らの分身のごとく気持ちよさそうに演じている。アントニアの小野絢子はパートナーの福岡共々、幻想シーンが本領。プリマのオーラが広がる磨き抜かれたロシア風ソロが素晴らしかった。

ジュリエッタの本島美和は、本島の来し方を思わせる演技。ジュリエッタがなぜ高級娼婦になったのか、ダーパテュートとの深い関係までも感じさせる、奥行きのある造型だった。オリンピアの長田佳世は、自動人形のメカニズムを追求。細かく分節された正確な動きで、人形の愛らしさの裏に潜む、もの悲しさを抽出した。一方の奥田花純は、ホフマンから見たオリンピアという解釈。少し動きが流れる部分もあったが、愛らしい演技だった。

ホフマンを操る一人4役の悪魔的人物には、冴え渡る動きと色気を見せたトレウバエフ、大きく暖かみのある貝川鐵夫が好演。ホフマンの現在の恋人、ラ・ステラの本島と堀口純も役どころを押さえている。

ホフマン友人には新旧の3人組。中でも奥村康祐と木下嘉人のバットリー対決は見応えがあった。また、召使い・八幡顕光、福田圭吾のラディカルな動きは、ベテランならではの創意にあふれる。新加入の抜擢もあり、バレエ団は新たな局面に突入した模様だ。 ポール・マーフィー率いる東京フィルは、金管木管、弦、全てが充実。舟歌には陶然とした。(10月30日、31日昼夜、11月1、3日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2964(H28.3.1号)初出(2016.3/2)

 

★[ダンス]  第二回「花柳寿楽舞踊會」

標記公演を見た(11月3日 国立劇場小劇場)。演目は長唄『二人椀久』と、長唄『安達ケ原』。前者は寿楽の父、二世花柳錦之輔の振付により、片岡孝夫(現仁左衛門)と坂東玉三郎が初演した。後者は寿楽の祖父、二世花柳壽楽の振付。曲は、二世杵屋勝三郎が明治三年に作曲したもので、詞章は多くを能によっているとのこと(プログラム)。

『二人椀久』の寿楽は、出の場面から憂いと狂おしさが入り混じった体だった。今回の公演のため指導に当たった仁左衛門は、自らの初演時、監修者の先代壽楽より「踊り手になってはいけない。椀屋久兵衛が戯れていなければいけない」と、厳しく言われたという(プログラム)。その通り、ただ体が揺蕩っているように見えた。愛情深い松山太夫片岡孝太郎との連れ舞いは、一転して愛らしく、喜びにあふれる。太夫の幻が消えた後の嘆きの姿は美しく、二枚目の気品が備わっていた。

一方『安達ケ原』は、前シテの老女が素晴らしかった。ちんまりと畳まれた体、宙に吊られたような枯れた動き。5月に見た『釣狐』を思い出した。二枚目よりも、老け役を演じる方が、寿楽の体が喜んでいるような気がする。その工夫が楽しく、それを見ている方も楽しかった。鬼女になってからは、体を起こし、能のような足運び。癇の強い突き抜けた眼差しで性格を表す。ワキの阿闍梨祐慶は花柳基。真っ直ぐな精神、実直な踊りで、鬼女を退治する。最後の晴れ晴れとした立ち姿が爽快だった。資質の異なる二人が、阿吽の呼吸で立ち回る面白さ。楽しかった。(11/3)

 

★[ダンス]  ARICA+山崎広太『Ne ANTA』 (2015年11月5日 シアタートラム)

演劇集団ARICAと舞踏の山崎広太が、ベケット原作『Ne ANTA』を再演した。初演は2013年森下スタジオ。演出の藤田康城は、ベケットのテレビ用脚本(66年BBC)を舞台化するにあたり、大きな改変を施している。一つは、声のみの出演である女性を実際、舞台に登場させたこと。もう一つは、主人公の男が行なう動作(ベッドから窓、扉、戸棚を経て、ベッドに戻る)を、6回繰り返させ(ベッド→窓→冷蔵庫→扉→ベッドに変更)、結果として、クローズアップされた俳優の表情の代わりに、動きで主人公の意識の推移を表したことである。さらに、テレビカメラを俳優に向かって10㎝づつ、9回前進させよ、というベケットの指示に対し、藤田は奥の壁を手前に動かす、逆転の手法を採っている。

山崎演じる中年男は、頭の中で聞こえる様々な声に苛まれる人。ルーティンの動作は、部屋に誰もいないか、誰かが入ってこないか確かめるためである。男は声の主を一人一人「精神的に」絞め殺してきた。今聞こえる女の声(安藤朋子)は、愛について、薄紫の服を着た女の自死について、男を責め立てる。息を吸いながら途切れとぎれに、怨霊のように。後半、安藤が可視化されることにより、孤絶したベケット的空間が、死霊と戯れる祝祭的空間へと変換された。

冒頭、ベッドに座っている山崎。微塵も動かないが、体の内側では、定型から絶えず逃れていることが分かる。意識の集中もなく、無意識でもなく、空間を吸い込んだブラックホールのような体である。さらには、不具の体、麻痺の体、老いの体が出現し、山崎の舞踏に対する現時点での回答を見た気がした。初演時に比べると、動きに洗練が見られるのも、山崎の方向性を示すものだろう。日舞の体を取り入れた「踊らない踊り」、ルーティンの歩行、顔の踊りに、サラリとした涼やかさがある。扉への踊り狂いも、かつては低重心の粘り腰、フランシス・ベーコンを思わせるねじり込みや歪みがあったが、今回はタップのようなカジュアルな上下動を伴って、アメリカン・ポップスへの傾倒を思い出させた。

ニューヨーク在住のため、本人主宰のwwfes 以外で、山崎の踊りに接する機会は少ない。ベケットの言葉が触媒となって、山崎の現在を見ることができた、貴重な公演だった。

演出:藤田康城、テクスト協力:倉石信乃、出演:安藤朋子、山崎広太、照明デザイン:岩品武顕、音響空間デザイン:堤田祐史、衣裳デザイン:安東陽子、舞台監督:川上大二郎、鈴木康郎、制作:須知聡子 助成:芸術文化振興基金  *『ダンスワーク』72(2015冬号)初出(2016.7/6)

 

★[ダンス][バレエ]  テアトル・ド・バレエ・カンパニー「ダンス・ボザール」

名古屋市を本拠とするテアトル・ド・バレエ・カンパニーが、秋恒例の「ダンス・ボザール」を開催した。バレエ団の常任振付家、井口裕之の4作品を見せる意欲的な公演である。

幕開きは、井口が指導に当たる志学館高等学校ダンス部の『Shaking Auk』。冒頭、ウミガラス達が足元に卵を抱える様子が描かれ、そこからバスケット・ボールのような卵(ボール)の攻防が繰り広げられる。複雑なフォーメイション、互いに組んでの動き、重く低い動きなど、生徒達にとってハードルの高い教育的作品だった。

続いては今年の「バレエコンペティション21」の受賞者二人。コンテンポラリー部門シニア第1位受賞の畑戸利江子が、美しいバレエのパと動物的動きを融合させた、ダイナミックな『春の祭典』(振付・井口)を披露。また振付部門第3位受賞の川原美夢が、自らの思いや感情を等身大で綴った『Atomatitoo』を、伸びやかに踊った。

前半の最後は井口の再演作『DOLL』。ラグタイムやバッハを組み合わせた緻密な音楽構成で、人形たちと人形使い、すなわちダンサーと振付家の関係を描く。人形使い(井口)と、彼が溺愛する美しい人形(浅井恵梨佳)とのパ・ド・ドゥ、人形使いと、彼にラブコールする情熱的な人形(植杉有稀)とのデュオが素晴らしい。エロティックとコミカルの両方を具体化できる井口の才能が明らかだった。最後は人形たちに見放された人形使いが、ペトルーシュカのようにくずおれて、振付家の哀感を漂わせた。

後半は新作『コロッセオ』。古代ローマの女性剣闘士を描いた物語コンテンポラリー・ダンスである。最強の女性剣闘士(服部絵里香)が、一人紛れ込んだ弱い男性剣闘士(高橋大聖)の面倒を見る中に、恋に落ちる。女性の内省的なソロ、情熱的なパ・ド・ドゥを挟んで、最後は二人が闘うことに。女性が勝ち、とどめを刺せずにいる所を、男性がその手を取って自らを刺す悲劇に終わる。

井口の音楽性、肉体フォルムの造型センス、コメディを含むドラマへの感性が結集した作品。アルビノーニ、ヴィヴァルディ、カゼッラ、シャリーノ等、イタリア新旧作曲家の音楽が、物語の場面を繋いでいく(最後の試合場面のみショスタコーヴィチを使用)。

服部の優れた振付解釈が加わった音楽的パ・ド・ドゥ、剣闘士のスポーティな訓練、コミカルな疑似試合など見せ場が多く、特に、古代ローマ時代の音楽を再現した「シンフォニア」によるアンサンブルが素晴らしかった。アジア的な太鼓、笛、弦、声に呼応して、二次元フォルム、狂言を思わせるすり足挙げが繰り出され、音楽と振付の幸福な一致を見ることができた。

今回は音楽構成で物語を語らせる手法だったが、もし男女同数に振り付ける条件が整えば、さらに物語に傾斜した演出も可能になるかも知れない。(11月7日 名古屋市芸術創造センター) *『音楽舞踊新聞』No.2961(H28.1.1/15号)初出(2016.1/8)

 

★[バレエ][ダンス]  シュツットガルト・バレエ団「シュツットガルトの奇跡」&『オネーギン』

標記公演を見た(11月18、23日 東京文化会館)。現在ただ今はマリインスキー・バレエを見ているのだが。

今回の来日公演で思ったことは、シュツットガルト男性ダンサーの過酷さ。ガラの「シュツットガルトの奇跡」でクランコ作品を5つ見たが、どれも超アクロバティックなサポートの連続である。これを体得しなければ、バレエ団で生き残れないのだと思った。クランコが衝撃を受けたボリショイ・バレエの作品よりも、クランコ作品の方が、パートナリングは高度で複雑になっているのではないか。主役は当然、ソリスト級でも難度が高く、気のせいか、皆上腕が太く、下半身もがっしりしている。フォーゲルなど、普通のバレエ団なら楽ちんの主役だろうが、ここでは常にチャレンジングな男性パートが待っていて、気が抜けることはないだろう。

バランキエヴィッチ、ザイツェフ、マッキー、ラドメーカーがいなくなり、レイリーだけが残っている。彼の『オネーギン』を見たが(もちろんオネーギン・タイプではない)、振付、演技を、指導された通りに細かく演じていて、胸が熱くなった。伝統を継承しているということ。前回は情熱的なグレーミンに魅了された(グレーミン・タイプでもないと思うが)。

ガラはなぜか『ドン・キホーテ』のパ・ド・ドゥで締めるNBS形式。直前までは、クランコと、シュツットガルトが生んだ振付家たちの作品を取り混ぜて上演する緻密なプログラムだった。上階はガラガラだったので、どうせなら本来の形で上演して欲しかった。作品ではイツィック・ガリリの『心室』と、マルコ・ゲッケの『モペイ』が面白かった。前者はフォーゲルとレイリーの男性デュオ。ベートーヴェンの『月光』を使った脱力系、脱官能的振付。新国立劇場バレエ団の井澤駿と原健太で見たいと思った。『モペイ』はダンサーの固有性よりも、振付自体の面白さが勝る。音楽(C.P.E.バッハ)から生み出された有機的な動きは、結果としては面白いが、受け狙いではない。他者の介在しない内的必然性がある。福岡雄大で見てみたい。(11/30)

 

★[バレエ]  マリインスキー・バレエ来日公演

ロシアの誇るマリインスキー・バレエが三年ぶりに来日した。バランシンの『ジュエルズ』(67年、99年)、グリゴローヴィチの『愛の伝説』(61年)、ラヴロフスキーの『ロミオとジュリエット』(40年)、セルゲーエフ版『白鳥の湖』(50年)という充実のラインナップ。中でも『愛の伝説』は初演版としては、本邦初公開になる。

メリコフの音楽、ヒクメットの台本、ヴィルサラーゼの美術によるグリゴローヴィチ初期作品は、すでに彼独自の様式性を備えていた。フォルム重視のパ・ド・ドゥ、ポアントによる民族舞踊、勇壮な行進やシンメトリーの大見得といった華やかな装飾的振付。外に曲げられた直角の手首は、優美な古典的調和への強烈な反抗である。女王、その妹、宮廷画家による三角関係のドラマが、壮大なページェントの口実に思われるほど、踊りと肉体フォルムが氾濫する。マリインスキーの男女ダンサー達は、大きさ、力強さに、洗練を加えて、本家の意地を示した。

テリョーシキナの姐御肌女王。グラン・ジュテ・アン・トゥールナンの浮遊が素晴らしい。妹には愛くるしいシリンキナ。宮廷画家のシクリャローフは、終盤に故障降板したが、力強い大きな踊りで、かつての爽やかな青年のイメージを覆した。宰相のズヴェレフ、托鉢僧のピィハチョーフも重厚な存在感にあふれる。

今回の来日を通して最も驚かされたのは、バレエ団が有機的に統合されたことだった。これまではマリインスキーの伝統という名の下に、個々の指導者が作品を統括しているように見えたが、今回はファテーエフ芸術監督の意向がステージングと配役に反映され、コール・ド・バレエの隅々まで、指導者の目が行き届いている。

象徴的だったのが、クリスティーナ・シャプランとサンダー・パリッシュの主役起用。二人とも輝きはあるが控え目。シャプランはポアントが強くないことで、却って肉体に微妙な襞が生じ、陰翳の濃い感情を体に溜めることができる。見ているこちらが吸い込まれそうな呼吸の深さだった。パリッシュは、英国ロイヤル・バレエのコール・ドからファテーエフによって引き抜かれた不思議な経歴の持ち主。まだ押し出しは弱いが、ノーブルな美しさがある。

ダンサー育成の繊細さはステージングにおいても共有される。ラヴロフスキー版『ロミオとジュリエット』の様式的な演技とフォルム重視の踊りが、振付への緻密な解釈が加わることで、生き生きとした自然な演技と感情豊かな踊りに変貌を遂げている。バルコニーのパ・ド・ドゥは細やかな愛の対話に、秘密結婚の儀式的フォルムは、祈りそのものに昇華した。

こうした変化はバレエ団の西欧化なのだろうか。それともロシア・スタイルへの先祖返りなのだろうか。いずれにしてもマリインスキー・バレエが高性能集団であることを、かつて無く認識させられた来日公演だった。(11月26日 文京シビックホール、11月28日、12月2日、5日昼夜 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2016/2/15)

 

★[ダンス]  ナハリン×米沢唯×ギエム

『ダンスマガジン』でオハッド・ナハリンのインタビューを読んだ(2016年1月号)。聴き手は三浦雅士(話はそれるが、NHKの『サラリーマンNEO』で、三浦そっくりの役者池田鉄洋が、三浦役を演じていたことを書き留めておく)。 元に戻って、面白かったのは、ナハリンが鏡を嫌いだということ。「私はダンスを始めたのが遅かったですから、鏡に自分の姿を写してみるという考えはありませんでした。私は鏡を見るのが好きになれなかったのです。ところが、ベジャールのもとでは男性はみな孔雀のように自分の姿を鏡に写して見ていたのです・・・私たちは鏡を使わずに練習します。鏡を使うことを許していないのです。壁を見、相手を見ることでさまざまなことを感じ取る。自分の外部を感じるのです。そして自分を感じる。」

ダンサーが鏡を見るのは必須だが、自分を疎外することにもなる。バットシェバ舞踊団を見ていて、複雑な振りをしても、ダンサーが自分を保っているのが不思議だった。自分でいることが気持ちよさそうに見えるし、見ている方も気持ちがいい。しかしパフォーマンスについて何かを言う気にはなれない。見せるために踊っているように見えないから(辛うじて作品化されているものもあるが)。

以前、新国立劇場バレエ団の米沢唯が、「子供のころから本が好きで、近視になった。高校の頃、レッスンでメガネを掛けて鏡を見たら、自分のラインが汚いのに驚いた」といったようなことを語っていて、さもありなんと思った。つまり自分を疎外しないで踊っていたのである。そのことが今でも、米沢を唯一無二のダンサーに仕立てている。

もしギエムがパリ・オペラ座バレエ学校に入らなかったら(体操選手になっているだろうが)、似たようなことが起こったのではないか。米沢の好きなジゼル・ダンサーがギエム、と言うのも、よく理解できる。ギエムは引退後やりたいことに、アーチェリー、太極拳、陶芸を挙げている。全て精神性の高いものだ。米沢の父、竹内敏晴が弓道をやっていたことを思い出した。(12/18)

 

★[ダンス]  whenever wherever festival 2015 山川冬樹×山崎広太『感応する身体』 (2015年12月11日 森下スタジオB)

舞踏の山崎広太が、ホーメイ歌手で現代美術家山川冬樹と共演した。山崎が毎年主催する「whenever wherever festival」の一環である。今年の主題は「不可視の身体」。キュレーターを4人立て、その中の生西康典が企画した。

スタジオにはフェスティバル共通のインスタレーション(木内俊克)が設置されている。長方形の空間に楕円を描く浮遊物。木や透明プラスチックの板、長細い布が、金属の釣り具によって中空に浮く。山川はそこに裸電球付シンバルをぶら下げ、あちこちにマイクやスピーカーを仕込み、スタジオ中央の壁際にスタンドマイクや打楽器、シャベル、笙などの楽器を置いた。山川の出で立ちは上半身裸、スキニーパンツ、腰まで届く長髪、山崎は白の柔らかな長袖シャツにパンツ。

共演は最初から不穏な空気に包まれた。山川の作る薄暗い空間(中央のシンバル照明を地上20㎝程に設置)は、山崎の身体を神秘的に見せていたが、突然山崎は照明盤に突進し、明かりを付ける。少し踊っては消し、急に部屋から出ては戻るなど、空間への苛立ちを隠さない。それでも山川の作る音(ホーメイ、シャベルの打音、シンバルの蹴り、心臓の鼓動、頭蓋骨の打音等を、増幅、フィードバック)に何とか寄り添う気配を示しながら、そこに踊りを介入させようとする。

山崎が体で距離を測ろうとしていたのに対し、山川はあくまでマイペースで音を作る。さらには四つん這い走りや、狼の咆哮まで繰り出して、対話のないまま、出たとこ勝負が続く。山川がガラスの照明をぶん回し、それが山崎の頭に当たった時が、潮の分かれ目だった。山崎は「テメェ、やりやがったなー」と叫んで山川の腹に突撃。「パフォーマーは相手に触れてはいけない、そうじゃないすかっ」と納めて、歩き始めると、山川がその背中にぴったりくっついて歩く。さらに遠吠えする山川の体を、山崎が両手で象って和解した。山川の笙(生音)に山崎がしっとり踊る場面が、唯一、正気のコミュニケーションだった。山川はその後、脚立から天井の梁につかまり、中空の板に乗って揺さぶる。梁を伝って端から端へ。山崎は腰に手を当てて、「注意してください、落ちるかもしれません」。天井ライトの側に小動物のように蹲る山川。山崎の「僕はまだやりたいんですが、(彼が)降りられないので、これで終わりにしていいですか、生西さん」で終わりになった。

山崎は対話のできない相手に、ストレスを感じていただろう。いつものように踊りが深まり、観客と共にどこかへ旅をすることはなかった。一方、山川は喜んでいたのではないか。山崎の喃語付の突っ張り踊り、四方へ広がるクネクネ踊りに、自分の野生や狂気の蓋が開いたのではないか。子どものように喜んで、次から次へと色んなことをやってみて、最後は天井に登ってしまった。

見終わって、即興であっても(だからこそ)、ダンサーがいかに伝統や様式を前提としているか、体を使っていかに高度なコミュニケーションを行なっているかを、改めて思い知らされた。山川のマイペースは美的、山崎の対話を求めての苛立ちは倫理的、その対立は明らかだった(フェス最後のトークで、山崎自身はこれを「モダニズムポストモダン」と称したが)。

今回の“ディスコミュニケーション”を顕現させたのは、山崎の舞踊に対する真摯な姿勢と、懐の深い糊のような身体があったればこそである。誰がこれ程までに「破れた場」を作れるだろうか。

キュレーター:生西康典 出演:山崎広太、山川冬樹 空間デザイン:木内俊克、山川冬樹 音楽:山川冬樹 主催:ボディ・アーツ・ラボラトリー 助成:公共財団法人セゾン文化財団、芸術文化振興基金  *『ダンスワーク』73(2016春号)初出(2016.7/6)

 

★[バレエ]  テアトル・ド・バレエ・カンパニー深川秀夫版『コッペリア

名古屋市を本拠とするテアトル・ド・バレエ・カンパニーが、芸術監督の深川秀夫による『コッペリア』を上演した。深川版の特徴は、牧歌的世界に魔術的な存在を投入したこと。自ら演じるコッペリウスをドロッセルマイヤーのごとく、世界を支配する人物に設定している。最後はバルコニーに登場して皆を見守り、彼らの挨拶を受ける幕切れである。

マイムの舞踊化、ディヴェルティスマンの抽象化など、モダンでスピーディな演出だが、一方で「曙」をトロワのアダージョで見せるなど、古風な伝統も顔を覗かせる。深川の欧州経験の一端を見た思いだ。振付は高難度。特にスワニルダはアン・ドゥダン回転のソロが多く、三幕コーダまで全編踊り詰めである。

コッペリウスを踊った深川は、軽やかなステップに洒脱な演技で物語を牽引。脚のラインの鮮やかさが、華麗な技巧を誇った往時を偲ばせる。スワニルダの畑戸利江子、フランツの西岡憲吾に対する視線に、技術を受け継ぐ者への深い愛情が感じられた。

畑戸は芝居心たっぷりのお転婆娘。大胆なフレックス足がよく似合う。鮮烈な足技、遠心力のある5回転+四方向フェッテ、踊り続けても息切れしないタフネス。難技をあっさりやってのける舞台マナーは、深川の薫陶によるものだろうか。一方西岡は、美しいライン、清潔な踊り、確かな技術の揃ったダンスール・ノーブル。爽やかなフランツだった。

オーディションで選ばれた8人のスワニルダ友人の練度の高さ、永田瑞穂の気品に満ちたアダージョ(曙)、梶田眞嗣、長谷川元志等、男性ゲストダンサーの覇気あふれる踊りが、隅々まで深川の息吹が行き渡った独自の『コッペリア』を支えている。演奏は河合尚市指揮、セントラル愛知交響楽団。(12月17日 愛知県芸術劇場大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2016.2/15)

 

★[演劇][ダンス]  SCOT『エレクトラ』『鈴木演出教室』

標記公演を見た(12月19、21日 吉祥寺シアター)。SCOTの公演は思い出したように見ていたが、途中で出たり、鈴木忠志トークの方が、公演そのものよりも印象に残っていたりで、よく分からない演出家だった(SCOTが Suzuki Company of Toga であることを今回初めて知ったくらい)。なぜ足を運んだかというと、Noizm の金森穣が私淑しているので、それを確かめに行ったのだ。

金森は鈴木の演劇理論と、日本の身体を取り入れたメソッドに大きな影響を受けている。だが本質的には、金森の方が戯曲・台本を生かす演出家であり、それに即した振付ができる(当たり前)振付家だと思う。

今回も公演やメソッド(それはそれで面白かったが)よりも、鈴木の言葉や身体の方が、印象に残った。チャンバラごっこをしていた男の子と、明晰な理論家が、それぞれ純粋な形で鈴木の中にいる。祖父が義太夫の師匠だったことと、その後の知的教育を、何とか融合させようとしてきた果ての姿。鈴木の歌舞伎や、能の声色、体の切れは凄まじかった。「ギリシャ悲劇は体をセンターに置いて、神に向かって喋る。チェーホフは少し斜めに、別役や平田(オリザ)は並んで、任侠物(と言ったのか聞こえなかったが)は、斜め後ろから喋る」を、声と身体の質を変えて模範演技した。その真っ直ぐなエネルギーと華やかなオーラ。鈴木が SCOT のスターなのだと思った。それを証明するように、客席には着物姿の奥様たちが当たり前のようにいる。やはり義太夫の血筋なのだろうか。鈴木の理論については現在、中村雄二郎との対談集『劇的言語』を読んでいる最中。(12/22)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形

標記公演を見た(12月19、22、23、26昼夜、27日 新国立劇場オペラパレス)。いつも通り、全キャストを見る強行軍だったが、体のほぐれる自然な観劇体験。大原芸監による有機的な配役と細かいステージング、指揮者バクランの繊細な音楽作りがその理由だろう。

牧阿佐美版は、クララと金平糖の精を分ける伝統的な演出に、ワイノーネンのアンサンブル振付、牧自身の音楽的なディヴェルティスマン、ダニロワ直伝の二幕アダージョを組み合わせたもの。美術のオラフ・ツォンベックのコンセプト(クララが新宿副都心のマンションから、20世紀初頭のドイツへワープし、再び戻ってくる)は、東京所在国立劇場のレパートリーにふさわしい。ツォンベックは衣装のスタイルをタイタニック沈没(1912年)より少し前に設定。その洗練されたモダニズムは、エルキュール・ポアロのテレビ版を思い出させる。個人的には「花のワルツ」の衣装(と装置)が、理屈抜きに好き。子どもの頃、児童文学を読んで憧れたような舞踏会ドレスだ。ツォンベックは「このバレエを通して、人間の持つ内面的美しさ、平和や調和といった美質を描きたい」と語っている(09年初演プログラム)。

また『くるみ』初登場のバクランは、「『くるみ割り人形』には、非常に精神性の高い曲が散りばめられています。だから、音楽家や指揮者は、心に偽りや不誠実があると弾けません。序曲や第1曲は子どもの世界を描いた曲です。子どもは心がとても清らか。ですから我々大人も、子どものようなピュアな心で演奏しなければいけません」と語っている(『The Atre』2016年1月号)。当然ダンサー達も、以上のような心持で演じなければならない。

金平糖の精は5人。全員が技術に秀で、主役としての器もある。ただ無心、無私ということで言えば、筆頭は長田佳世。米沢唯が命がけの献身、柴山紗帆が微細なクラシカル・スタイルの実践で、その後に続く(誰よりも細かい)。木村優里は大きく、華やかで、プリマの風格があるため、小野絢子はずっと矢面に立たされてきたせいか、本来の自分と乖離しがちなため、上記の条件からは外れる(両者ともパフォーマンス自体には何の問題もない)。

小野は今後、自分に即した踊りを追求するよう、方向転換すべきだ。江戸前のシャキシャキ感、キュートでチャーミングな持ち味を生かす方へ。周囲の期待に応えることを止めて、あるべき自分ではなく、今の自分を愛して欲しい。バーミンガム出発前日のオデット=オディール、転倒した後にバリバリ踊ったシルヴィア、コルネホに翻弄されても押し返したベラが、本来の小野。「カカカ」と笑う鉄火肌オディールが忘れられない。

今回最も音楽を感じさせたのは、ドロッセルマイヤーの貝川鐵夫。ツリーが大きくなる場面では、貝川の体を通してチャイコフスキーの音楽が流れた。江本拓のワルツソリストは、繊細なエポールマンが素晴らしい。まさにクラシカルな体。同様にハーレキンの美しい爪先も。また輪島拓也扮する夜会老人のリアリティ+ユーモア、原健太の無意識の存在感、八木進のコメディセンス、宇賀大将の明るさ、女性では川口藍のワルツソリストが印象深い。東京フィルは、6月の『白鳥の湖』とは打って変わった充実ぶり。バクランの緻密な解釈を具現した。(12/30)

 

[バレエ]  東京小牧バレエ団『火の鳥』『憂愁』

東京小牧バレエ団が創作物のダブル・ビルを企画した。佐々保樹振付『火の鳥』と、菊池唯夫・宗振付『ショパン賛歌~憂愁』である。

佐々版『火の鳥』(92年)は、「小牧正英のエスプリ」を受け継いだ新版。概ねフォーキン版に沿った場面展開だが、カッチェイ手下の踊りをクラシック語彙に変えた点に、大きな違いがある。スピーディな舞踊場面は現代的。だが一方で、視線や繊細な腕使いにより、登場人物の感情を表出させる手法も駆使する。心理の襞に分け入るこのアプローチは、佐々がチューダー門下であることを思い出させた。

火の鳥の倉永美沙(ボストン・バレエ団プリンシパル)は、艶やかで気品ある佇まい。爽やかなイワン王子のアルタンフヤグ・ドゥガラー(同団セカンド・ソリスト)と情熱的なパ・ド・ドゥを繰り広げた。金子綾の情緒細やかなツァーレブナ、田中英幸の存在感あふれるカッチェイも素晴らしい。男女アンサンブルも佐々のストイックなスタイルを体現している。

同時上演の『憂愁』は、ショパンのピアノ生演奏(一部チェロが参加)と美しい映像を背景に、放浪の青年(李波)を主人公としたロマンティックな物語が展開される。青年が精霊たちを夢に見るバレエ・ブランが素晴らしい。振付はアラベスクとパ・ド・ブレのみだが、フォーメイション、首の傾げ方、腕の伸ばし方で、静かな詩情が生み出される。ポアント音は聞こえず。5月の『ジゼル』第二幕を思い出した。

一方青年が、既に結婚していた元許嫁(周東早苗)に出会う夜会は、女性の淑やかさと、男性のノーブルなエスコートが特徴。周東の情感、娘・藤瀬梨菜の純朴、サロンの主人・原田秀彦の粋、その妻・森理世(07年ミス・ユニバース)の美貌が印象深い。ピアノ演奏は斎藤龍、チェロは豊田庄吾が担当した。(12月20日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2962(H28.2.1号)初出(2016.2/9)

 

★[バレエ]  松崎すみ子バレエ公演『幻覚のメリーゴーランド』

バレエ団ピッコロ主宰の松崎すみ子が、8年ぶりに個人のバレエ公演を催した。『幻覚のメリーゴーランド』、『鳥』(共に94年)の再演に、松崎えりのコンテンポラリー作品『vulcanus』を加えた創作集である。

『幻覚のメリーゴーランド』はベルリオーズの半生を描いた作品。円形劇場のような階段と、後半降りてくる銀色の半円天井飾り(美術・前田哲彦)が、作品世界を大きく規定。ロマンティックな主題に様式的な枠組を与え、作品に深度を加えている。ベルリオーズの『幻想交響曲』を中心にシューベルト、現代曲、ロックなどを組み合わせた選曲が素晴らしい。音楽を体で味わい尽くし、音楽と融合する松崎(すみ子)の才能を、遺憾なく発揮させる音楽構成だった。

主役の作曲家を志す青年には、新国立劇場バレエ団の山本隆之。女性に囲まれても男性に囲まれても独特の色気を発散する。ロマンティックな主題や音楽に自己を完全に没入させられると同時に、主役として舞台を冷静に掌握し、作品を推進させる力量がある。さらにサポートの凄さ。倒れながらのサポートもさることながら、サポート自体を踊りに昇華させる能力は、現在山本にしか見ることができない。阿片吸引や指揮ぶりも鮮やか。

青年が憧れる女優には下村由理恵。気高いオーラに包まれた女優と、幻想シーンの蠱惑的な女奴隷の両方を、完璧に演じる。また下村を奪う友人役には佐々木大。大技満載のダイナミックなソロで個性を発揮した。

ミック・ジャガーのような死神・篠原聖一の貫禄のソロ、手下の黒ずくめの男・能美健志の、阿波踊りのような妖しい手つきを加えた切れ味鋭いソロが、青年を死へと誘う。音楽の精・西田佑子の清潔な踊り、主人を見守る小出顕太郎の道化道の素晴らしさ。常連大神田正美の存在感も破格だった。黒タイツのシンフォニック・バレエシーンを含め、松崎のクリエイティブなエネルギーが爆発した名作である。

同時上演はピアソラを使った『鳥』。小原孝司の親鳥を中心に、左右4人が鳥の羽ばたきを象るフォーメイションが面白い。西田と橋本直樹のしっとりとしたパ・ド・ドゥ、小出顕太郎のコミカルな場面が、作品に膨らみを与えている。

松崎えり作品は、増田真也とのデュオ。様々な局面を見せてきた二人の踊りだが、今回は照明も含めて美的である。ただし、デュオの妙味であるコンタクトによる身体の変化や、松崎のオーガニックな空間構成が(照明との絡みで)見られなかったのは残念だった。(12月23日 東京芸術劇場プレイハウス) *『音楽舞踊新聞』No.2963(H28.2.15号)初出(2016.2/15)

 

★[バレエ][ダンス]  「2015年バレエ総括」

2015年バレエ公演を振り返る(14年12月を含む)。 今年は芸術監督の力について考えさせられた。昨年就任した新国立劇場バレエ団の大原永子芸術監督、就任3年目の久保綋一NBAバレエ団芸術監督、今年就任の斎藤友佳理東京バレエ団芸術監督である。前二者は海外で現役生活を全うし、大原はバレエミストレスも経験。後者はロシア国立舞踊大学院バレエマスター及び教師科を、首席で卒業という経歴である。三者に共通するのは、優れた演出力(久保は振付も)、的確な配役、ダンサーの可能性を伸ばす指導力である。

大原は新加入ダンサーの即時抜擢など、一貫した芸術的基準の下に、平等でダイナミックなダンサー采配を続けている。『ラ・バヤデール』では、小野絢子、米沢唯、福岡雄大のトップスリーを組ませ、技術的にも演劇的にも高度な舞台を演出した。テレビ放映された『白鳥の湖』は、マイム役から民族舞踊に至るまで、国立の名にふさわしい格調の高さを誇っている。

久保のバレエ団改革は、まず観客のために舞台を作ることだった。公演数の増加に加え、ダンサーの技術・演技の向上も目覚ましく、若者に開かれたバレエ団に成長させた。創作では『HIBARI』、古典では『ドン・キホーテ』で成果を上げている。

斎藤はワシーリエフ版『ドン・キホーテ』の舞踊譜を作ったことで有名だが、芸術監督になってからの同版は、さらに磨きがかかった。音楽性と演劇性の融合した細やかなマイム、主役ダンサーの役作りの深化は、明らかに斎藤の手に拠るものである。

劇場付属・給料制ダンスカンパニーを長年維持している金森穣Noism芸術監督は、アジアの身体とダンス・クラシックを結び付けた『Training Piece』(『ASU』第一部)、童話に現代批評を投影した『箱入り娘』、井関佐和子讃歌『愛と精霊の家』を創作した。『Training Piece』はバレエ団のレパートリーに最適。

海外来日公演では、ファテーエフ芸術監督下のマリインスキー・バレエが変貌を遂げた。古典、ソビエト・バレエに、演劇性重視の緻密な解釈を加え、現代のレパートリーとして蘇らせている。

国内振付家はベテラン健在。関直人(杉並洋舞連盟、井上バレエ団)の音楽性、佐々保樹(東京小牧バレエ団)の演劇性は他の追随を許さない。コンテンポラリー系では、オーガニックな島崎徹(日本バレエ協会)、スタイリッシュな井口裕之(テアトル・ド・バレエ・カンパニー)、音楽的な貝川鐵夫(新国立劇場バレエ団)、激烈な舩木城(バレエシャンブルウエスト)が、バレエ界に新たなレパートリーを提供。

海外振付家では、チューダー(スターダンサーズ・バレエ団)、クランコ(シュツットガルト・バレエ団)、ダレル(新国立劇場バレエ団)、マクミラン小林紀子バレエ・シアター)という英国の系譜を概観できた他、ヴィハレフ(日本バレエ協会)、アリエフ(谷桃子バレエ団)、ブルジョワ(京都バレエ団)が、それぞれマリインスキー・バレエパリ・オペラ座バレエ団の伝統を、演出・振付で伝えている。

女性ダンサーは、上演順に、酒井はな(ゲッケ)、井関佐和子(金森)、米沢唯のガムザッティ、永橋あゆみのメドーラ、小野絢子のベラ、長田佳世のオデット=オディール、志賀育恵のジゼル、島添亮子(マクミラン)、青山季可のジゼル、本島美和のジュリエッタ。番外は長谷川六、白河直子と寺田みさこ(笠井叡)。

男性ダンサーは、芳賀望のフランツ、井澤駿(ノース)、福岡雄大のヨハン、齊藤拓(坂本登喜彦)、小尻健太(金森)、山本隆之(チューダー)、大森康正のバジル、ラグワスレン・オトゴンニャム(ウォルシュ)、菅野英男のホフマン。番外はベケットを踊った山崎広太。

海外ゲストでは、小野絢子に大きさを与えたムンタギロフ、同じく小野の規範の殻を破ったコルネホが印象深い(新国立)。 今年はKバレエカンパニーの熊川哲也芸術監督が専属オケを作って10年、同音楽監督福田一雄は指揮活動60年を迎え、その記念コンサートも開催された。 *『音楽舞踊新聞』No.2961(H28.1.1/15号)初出(2016.1/8)

2014年公演評

★[バレエ]  日本バレエ協会アンナ・カレーニナ

日本バレエ協会が都民芸術フェスティバル参加公演として、プロコフスキー版『アンナ・カレーニナ』を上演した。79年にオーストラリア・バレエで初演。各国のバレエ団が採用し、日本国内では同協会(92、98年)、法村友井バレエ団(06、09年)の上演がある。今回の監修は、法村友井の法村牧緒、振付指導は同じく杉山聡美が担当した。

プロコフスキー版の優れた点は、絶妙な場面転換(アンナ・ソロ後のラディカルな無音の幕切れ!)と、創意とユーモアにあふれる演出(握手から手に口づけへの移行、指輪のシークエンス、息子の「あれ誰?」を逸らすアンナ)にある。そこに高難度のパ・ド・ドゥ、豊かなキャラクターダンス、可愛らしい子役の見せ場が、物語の流れに沿って巧みに配置される。スケート・アンサンブルが団子から一気に四方へ広がるフォーメイションは振付家の闊達な性格の象徴。チャイコフスキーの叙情的な音楽も加わり、都民に優れた舞台芸術を提供する、本フェスティバルにふさわしい作品選択だった。

キャストは3組。主役のアンナには下村由理恵、瀬島五月、酒井はな、恋人のウロンスキーには佐々木大、アンドリュー・エルフィンストン、藤野暢夫の配役。初日の下村は、考え抜かれた緻密な演技、振付の機微に迫る精度の高い踊りが目を惹いた。特に二幕のパ・ド・ドゥは、下村本来の叙情的な味わいが全開した優れたアダージョである。アプローチの全てが身体化された訳ではないが、完璧を目指した果敢な舞台だった。パートナー佐々木はノーブルを意識してか、抑えた演技と踊り。下村をよく支えたが、もう少し情熱を見せても良かったかもしれない。

二日目マチネの瀬島は座長芝居の風格。ゆったりと構え、全てを引き受ける大きさがある。演技は自然体。自分の間で踊り、音楽をよく聴かせた。長身のエルフィンストンはノーブルな佇まい、これ見よがしのない演技、素直な踊りで、ドラマの輪郭を形作った。夫婦阿吽の呼吸が味わい深い。

最終回の酒井は、汽車を降りた瞬間から劇場全体の視線を一身に集める。マクミランの『マノン』や『ロミオとジュリエット』を踊ってきたドラマティック・バレリーナの本領である。舞踏会パ・ド・ドゥの前デヴロッペから仰け反り、素早く脚を降ろすシークエンスでは、激情の爆発を唯一表現。無音で歩く難しい幕切れも、完全に空間を支配した。その場を生きるエネルギーの強さ、磨き抜かれたラインによる鮮烈なアンナ造型である。対する藤野は立体的な役作りをする優れたパートナー。その情熱的資質は近衛騎兵大尉によく合っている。今回は演出の方向性もあるのか、やや控え目な表現だった。

アンナの夫カレーニンは妻を寝取られる高級官僚という難しい役どころ。森田健太郎、原田公司、小林貫太がそれぞれの長所を生かした役作りで健闘したが、法村友井バレエ団公演(新国立劇場)における、柴田英悟の鮮やかな記憶を払拭するには至らなかった。

ソリストでは、レーヴィン持ち役のノーブルな今村泰典、ダイナミックで華のあるエカテリーナの今井沙耶、切れ味鋭いロシアの踊りの末原雅広、美しいラインのパ・ド・シス今井大輔と、関西勢の活躍が目立った。また副智美、浅田良和、橋本直樹、小山憲の元Kバレエカンパニー勢も、プロらしい意識の高い踊りで舞台を支えている。

アンサンブル、立ち役、子役の全員が、生き生きとした踊りと演技でプロコフスキーの世界を形成。単一バレエ団の求心力には当然及ばないが、様々なメソッドのダンサーが心を一つにして舞台作りをする醍醐味を感じさせた。

演奏は江原功指揮、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。初日は抑え気味だったが、最終回ではダイナミックな音作りでドラマを牽引した。(1月11、12、13日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2919(H26.2.21号)初出(2/24)

 

★[ダンス]  Noism01『PLAY 2 PLAY―干渉する次元』

標記公演を見た(1月24日 KAAT 神奈川芸術劇場)。07年の作品を改訂したもので、初演ダンサーは井関佐和子一人。今回は振付の金森穣もダンサーとして加わった。

シアター1010で見た記憶とはかなり違った印象。客席が向い合せになっているのは同じだが、もっと互いに近かったような気がする。半透明の三角柱9本を挟んで、シンメトリーにダンスが行われていたような。旗揚げ作品『SHIKAKU』の時と同じように、すべてを見ることができない解放感があった。今回は劇場の構造もあって、向かいの客席も舞台装置のような感じ。さらに記憶と違うのは、ルイーズ・ルカヴァリエ並みの聖なる怪物と化した井関が中心になっていること。男でも女でもあり、不可侵の存在へと成長している(妙な連想だが、佐々木大の両性具有感と似ている)。金森と踊る圧倒的なデュオでは女、その他の男と組む時は中性、女と組む時(踊る時)は男。NDT2での音楽的で勘のいい少女の踊りから、美しく力感のある大人の踊りへ。日本人コンテンポラリー・ダンサーの一つの達成だろう。対する金森は同じく抜きんでたダンサー。空間を一気に変えることができる。見た目、踊りの精度、華が揃ったスターダンサー。金森と井関のデュオは、このまま時を止めて保存しておきたい歴史の結節点である。

振付はかつての無機質な人工美から、濃厚なエロティシズムを帯びるようになった。キリアンもドゥアトもそうだけど、集団が持続するとエロティックになっていくのだろうか。ダンサーたちはかつての島地保武、青木尚哉、平原慎太郎、宮河愛一郎と比べると、振付への抵抗感が少ない。ほとんどがバレエの肉体で、金森のニュアンスを出すことができるし、複雑なパートナリングもこなせるため、作品としてはまとまるが、金森の一人勝ちのようにもなる。女性ダンサーは井関を前に、個性を出すことは難しいだろう。

金森の作品を見ることは、金森が日本の舞踊界で孤軍奮闘している姿を見ることでもある。劇場付舞踊団を初めて一から作った男(給料制のプロのバレエ団は熊川哲也が作っている)。両者ともダンサーの職場を日本で作りたいという思いから、個人の力量でカンパニーを作り上げた。金森はその後、日本の文化行政の問題点を認識、どのような方向で劇場文化を定着させたらよいのか考え続けてきた(Noism設立10周年記念会見―Noismサポーターズ会報24号参照)。現状ではNoismの後に続くカンパニーは現れず、依然としてダンサーたちはプロのダンサーになるために海外に流出しているが、当のNoismには台湾のダンサーLin Yi Chienが加わった。「2009年の台湾『NINA』公演を見て、Noismスタイルにすごく惹かれた。とても刺激的で独自の舞踊観があり、大きな挑戦ができると思った。国立台北芸術大学を卒業し兵役を終え、入団できてとてもハッピー。がんばりたい。日本語勉強中」(同会報)。(1/25)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団『白鳥の湖

東京シティ・バレエ団が都民芸術フェスティバル参加公演として、伝統の石田種生版『白鳥の湖』(70年)を上演した。石田版はセルゲーエフ版に準拠、四幕での日本的美意識に沿った独自の白鳥隊形が大きな特徴である。終幕のオデットと王子の静謐なデュエットが、白鳥達の巻き貝のようなフォーメイションの核となる構図が美しい。最後はブルメイステル版同様、愛の力で魔力に打ち勝ち、オデットが人間の姿に戻る結末である。

今年は石田の三回忌に当たり、没後初めての『白鳥』上演になる。演出は初演時から出演の金井利久が担当、加えて民族舞踊指導に小林春恵、指導にレイモンド・レベックを招いた。以前は古典的な様式美を前面に出す抑制された演出だったが、今回はそこに溌剌とした動きと躍動感あふれる民族舞踊が加わり、バランスの取れた上演となった。またヴィジュアル面も刷新。衣裳は小栗菜代子、装置は横田あつみ、照明は足立恒。美しく格調高い衣裳に、陰翳の深い舞台空間がマッチしている。

主役はWキャスト。初日のオデット=オディールには志賀育恵、二日目は若生加世子、ジークフリード王子は黄凱とユニバーサル・バレエのオム・ジェヨンの配役。初日の志賀と黄を見た。志賀はこれまでの体がはじけるような奔放さが型に収まり、繊細な腕使いと美しい脚線が目に見えるようになった。その上でなお、羽ばたきは生き生きと力強い。ポーズの美を追求するのではなく、動きの留めとしてのポーズがある。運動の快楽を感じさせる稀有な踊りだった。対する黄はラインの美しさが健在。志賀との呼吸もよかったが、役ではなく素で立っている。踊りの切れも以前程ではなく、そこだけ空虚な時間が流れていたのが残念。ロートバルトの小林洋壱はノーブルで大きさもあったが、もう少し鋭さが望まれる。

道化の玉浦誠の美しく切れのよい踊りと献身的な演技が、舞台を大きく活気づける一方、王妃の安達悦子は、王女がそのまま后になったような愛らしさと、少しそそっかしさも見せて舞台に生気を与えた。初役だろうか。パ・ド・トロワ大内雅代、佐合萌香、内村和真のレヴェルの高い踊り、三羽の白鳥佐々晴香の気っ風のいい江戸前の踊りが印象深い。キャラクターダンスでは、特にチャルダッシュマズルカの切れと撓めが素晴らしかった。井田勝大指揮、東京ニューシティ管弦楽団は、行儀のよい演奏だった。(1月25日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2920(H26.3.1号)初出

 

*王子の黄凱は大陸的な鷹揚さを持つ、稀にみるダンスール・ノーブルである。時折舞台への誠実さに欠ける場合があり、今回がそうだった。公演翌日、某発表会で完璧なまでの美しい踊りを見せていた分、辛口評になった。(3/13)

 

★[ダンス]  テロ・サーリネン『MESH』@埼玉舞踊協会

標記公演を見た(2月2日夕 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)。埼玉舞踊協会がフィンランド振付家テロ・サーリネンに委嘱した新作である(国際交流アドヴァイザー 立木燁子)。 オーディションで選ばれたダンサーは、男性9人、女性17人。一ヶ月の稽古期間を経て、世界初演となった。幕が上がると、上手床に縦長のライトが奥に伸び、笠井瑞丈が客席に背を向けて立っている。黒い暗幕の切れ目から明かりが射している格好。中央にソリスト集団、下手一列にアンサンブルが並ぶ。照明は横ライト使用のやや暗め、音楽は弦(琴や三弦の響きに似る)と男声合唱(読経に似る)。笠井は「在る」のみだったが、その他は常に作り出されたムーヴメントを実行しており、久しぶりに真正のダンス作品を見た気がした。

懐かしさは笠井の佇まいのせいかもしれない。父(叡)とは違った清潔なオーラ。常に居ることへの真摯な姿勢。笠井が歩き、消え、再び現れ、最後には色とりどりのフラッシュ・ライトを電流のように浴びて、しなやかな肢体を慎ましく剝き出しにした。笠井のいる空間で、二つのアンサンブルが隊形を変え、時に鈴木竜の土俗的なソロ、女性二人の推手デュオを交え、踊り継いでいく。東洋武術の呼吸やアフリカ風の足踏みが、西洋的な空間構成と合体し、東西の融合があっさりと実現した。本来は日本人舞踏家がやるべき仕事だと思う(山崎広太がかつてやっていたが)。 レパートリー化すべき作品。埼玉舞踊協会は創作を重んじる集団として、今後もこうした企画を続けるべきだろう。(2/4)

 

★[バレエ]  東京バレエ団×ノイマイヤー版『ロミオとジュリエット

標記公演を見た(2月7、8、9日 東京文化会館大ホール)。

3公演を見て最も心に残ったのは、ベンジャミン・ポープ指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の演奏だった。在京主要オケの一軍が、本気で全力を尽くしたらこうなるという演奏。これまで指揮者はよくてもオケの技量不足、または本気なしの演奏に諦め半分だったが、バレエ公演でもやればできるのだ。弦、金管木管とも素晴らしく、トランペットの輝かしさ(最終日は疲れが出たが)に惚れ惚れした。秘密結婚のホルンもメロディが聞こえる。なぜ? ポープの腕? NBS主催だから? 2010年パリ・オペラ座来日公演の『ジゼル』(NBS主催)でも、東京フィルが国内バレエ団公演では聴いたことのないようなヴィオラ・ソロを弾いて、なぜ? と思ったことがある。せめて新国立のピットでは同じレヴェルであって欲しい。ついでに言うと、東京フィルの定期で聴いた『R&J』組曲版では、素晴らしいトランペットの咆哮があったのに、直後の新国立『R&J』公演では無残だったことがある。

もう一つ思ったことは、ゲストを含め3キャスト(エレーヌ・ブシェ=ディアゴ・ボアディン、沖香菜子=柄本弾、岸本夏未=後藤晴雄)を見たが、技量や資質の差はあってもあまり印象が変わらないということ。ノイマイヤーが全ての動きに細かい意味付けをしているので、個々の解釈の余地がないのだろう。ジュリエットもマクミラン版ほど成長しないし、運命に飲み込まれた若い二人がそのまま死んだという感じ(悲劇的でない、と言うかノイマイヤーにとっては生きること自体が悲劇なのかも)なので、ダンサーの腕の見せどころは他版よりも少ない気がする。他の作品同様、ノイマイヤーの演出振付が主役なのだ。

振付はモダンダンスの力強いフォルムと、クラシックの素朴なアンシェヌマンを使い分ける。前者はキャピュレット家の舞踏会、後者はロミオとジュリエットの恋の場面。ジュリエットはモダン系の動きをなかなか習得できないが、ロミオに恋した途端に、内面から湧き出る踊りをクラシックの語彙で踊る。つまりクラシックの方が自然ということ。若い二人のデュエットの特徴はユニゾン。近くで、または遠く離れて子供のように同じパを踊る。ブルノンヴィル作品に通じる素朴な喜びがある。離れたパ・ド・ドゥの後、ジュリエットが左右の袖に向かって互い違いに走る場面は、この版の表徴。二人とも躓き、転び、でんぐり返る。生(なま)の若さが要求される版である。ロレンス(托鉢修道士)も従来より若くロマンティックな造形だった。

ジュリエットはみずみずしく、ロミオは肉厚で体温が高いダンサーが配役されている。普通は松野乃知のようなタイプがロミオだと思うが(ベンヴォーリオに配役)。3組のなかでは、沖の音楽性豊かなジュリエット、後藤晴雄の無謀なロミオが印象深い(サポートは相変わらず荒い)。が最も強烈な存在感を放ったのは、キャピュレットの高岸直樹。舞踏会のエネルギッシュな踊り、妻や娘を抱っこするときの大きな包容力。バレエ団全体が高岸の支配下にあるようだった。今後もマッチョなバレエ団であり続けるのだろう。

 

*以下は2009年に来日したデンマーク・ロイヤル・バレエ団の公演評。

デンマーク・ロイヤル・バレエ団が新芸術監督ニコライ・ヒュッベの指揮の下、9年ぶりに来日した。演目はブルノンヴィルの『ナポリ』とノイマイヤーの『ロミオとジュリエット』(以下『R&J』)である。デンマーク・ロマンティックバレエとモダンバレエの組み合わせは絶妙だった。両作ともイタリア(ナポリヴェローナ)を舞台とする若い二人の恋愛物語であり、聖人(聖母マリア、聖ゼーノ)の日を中心に托鉢僧(フラ・アンブロシオ、ローレンス)が活躍する。『R&J』の聖ゼーノの日は歴史好きのノイマイヤーが採り入れた設定だが、そのおかげで、両作とも老若男女の跪いて祈るシーンを見ることができた。祈る姿にこれほど真実味を感じさせるバレエ団は他にはないだろう。キリスト教信仰に裏打ちされたブルノンヴィル作品を、絶えることなく踊り続けてきたデンマーク・ロイヤルならではの名場面である。

二作のうちデンマーク・ロイヤル色を強く感じさせたのは、意外にもノイマイヤー作品だった。通常の版よりも多くの子役が投入されていること、30年踊り継がれたことで、演技の様式性がノイマイヤーのニュアンスを完全に払拭するほどデンマーク化されていることが原因だろう。『R&J』は振付家が29歳の時の作品。自分のスタイルを確立しようともがく若々しいエネルギーに満ちあふれている。ドラマの枠組や演出はクランコなどの先行作品に準じるが、聖ゼーノの祭日や、僧ローレンスの薬草摘み、『ハムレット』を思わせる旅芸人、疫病から逃れる人々など、ノイマイヤーらしい細かいリアリティが随所に埋め込まれている。

振付は音楽に自然に寄り添いつつもモダンダンスのグロテスクな語彙を取り入れて、独自の動きを追求している。ジュリエットとパリス、キャピュレット夫妻によるパ・ド・カトルは、リモンの『ムーア人パヴァーヌ』を想起させた。マイムがなく全て踊りで表現されているにもかかわらず、舞踊というより演劇に近い感触を得るのは、子役を含めたダンサーの全員がすみずみまで演技しており、踊り自体に感情の裏付けがあるからだろう。技巧や造形美のみを見せる部分は皆無。片手をくの字に曲げる独特の挨拶も、極めて自然な身振りへと消化されている。

デンマーク独自の強いパトスを含む切り詰められた演技様式は、ヴェローナ大公ポール=エリック・ヘセルキルが体現した。立ち姿のみで役を表現、稲妻のような一振りで世界を瓦解させることができる。こうした円熟のキャラクター・ダンサーはもちろん、子役に至るまで、彼らにはバレエダンサーよりも「舞踊に秀でた舞台人」という名称がふさわしい。十九世紀劇場文化の残り香がこのバレエ団にはある。

同団は優れた男性ダンサーを世界に供給してきたが、ヨハン・コボー(英国ロイヤルバレエ団)を最後に途絶えている。その中で、『ナポリ』ではジェンナロのトマス・ルンドが正統的ブルノンヴィル・スタイルを披露、タランテラのモーテン・エガトがジャン=リュシアン・マソに似た劇場人としての色気を漂わせた。またテレシーナ役ティナ・ホイルンドの真っ直ぐな演技、レモネード売りフレミング・リベアを始めとするキャラクター・ダンサーの伝統芸も健在だった。『R&J』では第二キャストながら、クリスティーナ・ミシャネックの生々しいジュリエット、グレゴリー・ディーンの絵から抜け出たようなパリス、クリスチャン・ハメケンの若々しい托鉢僧が印象的だった。

グラハム・ボンドが東京シティ・フィルを率いて素晴らしいプロコフィエフを聴かせている。ただし、カーテンコールでオーケストラの団員が観客に顔を見せないまま指揮者やダンサーに拍手するのは、演奏家のあり方として疑問である。(5月15、23日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2788(H21.7.1号)初出

 

*なお東京シティ・フィルは現在、カーテンコールにおける観客の拍手に正面から応えている。(2/11)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖

新国立劇場バレエ団が二年ぶりに牧阿佐美版『白鳥の湖』(06年)を上演した。来季の予定にも入る定着したレパートリーである。牧版はバレエ団先行のセルゲーエフ版を改訂したもので、プロローグのオデット白鳥変化、三幕ルースカヤの追加、四幕デュエットの削除、ロートバルトの溺死が主な変更点。ルースカヤの高難度の振付はソリストの見せ場を増やしたが、デュエットがなく、ロートバルトが自ら溺死する(ように見える)四幕は、劇的要素にやや欠けると言わざるを得ない。結末をプティパ=イワノフ版に戻すか否かを含め、再考の余地が残されている。

ピーター・カザレットの装置・衣裳は繊細で美しく、沢田祐二の照明も独自の幻想美学を舞台に紡ぎ出す。白鳥群舞の透明感は沢田にしか出せない味だろう。ただし、一時改善されたロートバルトへの照明が再び落とされている。貝川鐵夫、古川和則、輪島拓也の工夫を凝らした役作りが照明美学の犠牲になるのは、バレエ作品として本末転倒ではないだろうか。

主役は4組。出演順に小野絢子と福岡雄大、米沢唯と菅野英男、堀口純とマイレン・トレウバエフ、長田佳世と奥村康祐の配役。小野と福岡はBRBの『パゴダの王子』ゲスト出演のため、一回のみの登場だった。小野はこれまでの緻密に練り上げてきた役作りを一度捨てて、素手で勝負している。白鳥は音楽に沿ってあっさりと、黒鳥は妖艶で伝法な味わい。持ち前の大物感を遺憾なく発揮した。カカカと笑う様がこれほど似合うダンサーはいない。対する福岡はやはり本来のパートナーだった。クリーンな技術に同士のような阿吽の呼吸。王子らしい立ち居振る舞いにウヴァーロフ指導の成果が見えた。

米沢(二回目所見)は前回、気で覆われて見えなかった体が見えるようになった。物語解釈はセリフが聞こえるほど細かく、しかも実存を感じさせる瞬間がある。黒鳥にはふくらみと艶が加わって、二年間の経験を実感させた。『火の鳥』が縁で小野共々(福岡も)Tezukaのストラップになったが、二人が今後どのような道を歩んでいくのか見守りたい。米沢の王子は菅野。落ち着いた演技で舞台を統率した。踊りのクラシカルな美しさも際立っており、盤石のサポートで米沢を支えている。

ベテランの域に入った堀口は、牧阿佐美の美意識に沿った大人の雰囲気を持つダンサー。本来なら美しい上体で日本的情緒を奏でるはずだったが、脚が本調子ではなかったのが残念。対するトレウバエフもどこか乗り切れず、実力発揮とは行かなかった。

最終日の長田は円熟の踊り。ロシアバレエの粋を生きた形で見ることができた。ポジションの正確な美しさは言うまでもなく、パの全てにこれまでの人生が滲み出る。全身を貫く深い音楽解釈と、目の前のパに向き合う誠実さに粛然とさせられた。パートナーの奥村は、山本隆之以来のバレエ・ブランが似合う王子。ロマンティックな情感を終始漂わせ、ヴァリエーションも役の踊りになっている。ドラマティック・バレリーノだったのか。

ソリストではロートバルト3人組を始め、王妃の西川貴子、湯川麻美子、道化とナポリの八幡顕光、福田圭吾、トロワの両回転江本拓等、ベテランが順当に活躍する一方、道化の小野寺雄、トロワの小柴富久修、スペインの林田翔平と小柴、ナポリの原健太、マズルカの池田武志等、若手男性陣の躍進が目立った。またルースカヤの本島美和と細田千晶がそれぞれ、パトスのこもったダイナミックな踊りと、繊細できらめく立体的な踊りで、牧振付の神髄を示している。

男女アンサンブルはクラシックスタイルを身に付けた上で、活気にあふれる。白鳥群舞も個の意志を感じさせる力強さがあった。演奏は、うなり声でオケを鼓舞するアレクセイ・バクラン指揮、東京交響楽団。(2月15、21、22、23日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2926(H26.5.21)初出(5/24)

 

★[バレエ]  ABTラトマンスキー版『くるみ割り人形

アメリカン・バレエ・シアターが三年ぶりに来日、ラトマンスキー版『くるみ割り人形』、マクミランの『マノン』、「オールスター・ガラ」ABプロを上演した。この中から『くるみ割り人形』初日を見た。

09年よりABTのアーティスト・イン・レジデンスを務めるアレクセイ・ラトマンスキーは、19世紀ロシア及びソビエト時代の作品を蘇演する他、各国のバレエ団に新作を提供している。振付の特徴は自らのダンサー時代と同じ、技倆を誇るのではなく、目の前の素材に誠実であること。それぞれのバレエ団の歴史と現在に適した作品形態を選択している。今回の『くるみ割り人形』(10年)はブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックとの提携作品。バレエを見たことのない地域住民や、地元の小学校との交流を重視した演出である。 退屈しがちな一幕は通常よりも早いテンポで踊りを減らし、芝居のようにスピーディに展開する。子ども達の動きは踊りというよりも、感情を直接表現する身振り。今回はKバレエ・スクールが担当したが、地元小学生を考えての振付だろう。二幕ディヴェルティスマンは、一幕の乳母がアラブ風の遣り手婆さん(金平糖の精)となって統括。バレエに馴染みのない人にも分かるように物語仕立てだった。子役のクララとくるみ割り人形が仲良くそれらを見物し、パ・ド・ドゥはクララの理想を投影した王女と王子(大人)が踊る。最後は夢から覚めたクララがくるみ割り人形を抱いて幕となる。

振付は闊達なモダンを縦横に駆使する一方、クラシック場面ではフェッテ・アン・ドゥダンなど、高難度の振付が施され、バレエファンの目を楽しませる。王子ソロはタランテラ本来のテンポ、台本にある蜜蜂を花のワルツに組み込み、くるみ割り人形の姉たちに葦笛を踊らせるなど、歴史を重んじるラトマンスキーらしい演出も散見された。

初日の王女と王子はヴェロニカ・パールトとマルセロ・ゴメス。パールトの素朴でダイナミックな踊りと、ゴメスの暖かく包み込むような騎士ぶりは、アメリカ社会に向けて開かれた作品の性質とよく合っている。ドロッセルマイヤーのヴィクター・バービー、金平糖の精のツォンジン・ファン、家令のアレクセイ・アグーディン等のマイム役や、クララのアデレード・クラウス、くるみ割り人形のダンカン・マクイルウェイン、子ねずみのジャスティン・スリオレヴィーンの子役、また葦笛の加治屋百合子等のディヴェルティスマン・ダンサーも全力で作品に貢献し、スターダンサーを擁するABTのもう一つの側面を披露した。 演奏はデイヴィッド・ラマーシュ指揮、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。(2月20日 オーチャードホール) *『音楽舞踊新聞』No.2928(H26.6.11号)初出(6/12)

 

★[ダンス][バレエ]  スタジオアーキタンツ「ARCHITANZ2014 3月公演」

バレエ、コンテンポラリーダンス、能のオープン・クラスやワークショップを運営するスタジオアーキタンツは、国際的ネットワークを生かした実験的作品を、能楽堂や自スタジオで上演してきた。今回は新国立劇場に場所を移しての公演。2月のアレッシオ・シルヴェストリン、マクミラン森山開次、マルコ・ゲッケによるプログラムに続き、3月公演でも、ユーリ・ン、ウヴェ・ショルツ、ナチョ・ドゥアト、ゲッケという目配りの利いた作品が並んだ。中でも香港バレエ団所属ダンサーが踊るユーリ・ンとドゥアトの2作品は、東洋人がバレエを踊ることの精神的亀裂を考える上で示唆的だった。

幕開けのユーリ・ン作『Boy Story』は、98年バニョレ国際振付賞受賞作の再演。スタジオアーキタンツ設立のきっかけとなった記念碑的作品でもある。テーマは97年の香港返還。冒頭、赤い婚礼衣装に身を包んだ男が立っている。入れ違うように、パンツ一丁の男が登場。三点倒立をして横に倒れる。ハワイアン、加山雄三、ブラザーズ・フォーをバックに、高比良洋、江上悠の日本人を含む6人の男性ダンサーが、ギターの口パク、膝歩き、組体操、カンフーの動作を繰り広げる。細部まで動きがコントロールされているのは、呼吸法によるものだろう。 途中、赤い衣裳の男がそれを脱ぎ捨て、黒スーツ姿に変身、中国の歌でバーレッスンする。西洋の規範を東洋の体に折り合わせていく過程が、リ・ジャボーという優れたダンサーによって見事に身体化される。中国の歌を体に入れるときの、細胞レヴェルの喜びが直に伝わってきた。ユーリ・ン青春時代の身体を通した思考と試行錯誤が、ゆったりと流れる呼吸で纏められた、東洋の体への愛おしみにあふれる作品だった。

一方のドゥアト作『Castrati』(02年)は、ヴィヴァルディのカストラート声楽曲を使用。黒い衣裳を身につけた8人の男性ダンサーがカストラートの集団となって、肌色シャツの少年を組織に引きずり込む。音楽とエロティシズムが同居するドゥアトの特徴がよく表れている。男性集団の力強いユニゾン、少年の痙攣する繊細な動き。プリエ多用の重心の低い動きや力感を、ウェイ・ウェイを始めとする香港バレエ団ダンサーたちが見事に体現、少年の詩情あふれるソロと悲劇的な結末を、シェン・ジェの物語性を帯びた体が密やかに綴った。ドゥアトの世界が肉体美と共に現出する中で、その体に刻まれる暴力性とユーリ・ン作品の親密な体の対照が浮き彫りになる。ダンサーたちの肉体の艶、輝きはン作品にあった。

ショルツ作品はシューマンの同名曲を使った『The Second Symphony』(90年)からアダージョの抜粋。酒井はなとアレクサンダー・ザイツェフ、西田佑子とヤロスラフ・サレンコによるWアダージョである。女性二人が手を繋いだまま、流れるようにリフトされる絵画のようなフォルムが美しい。プリパレーションなしにいきなりアラベスクなど、音楽的な喜びにあふれたショルツらしい振付。女性二人の緻密なバレエの肉体と、リフトし続ける男性ダンサーの胆力を至近距離で見ることができた。

プログラム最後はマルコ・ゲッケの『Mopey』。(04年)。C・P・E・バッハの曲を使ったソロ作品だが、ダンサーが途中、何度も袖に入り、無人舞台が読点のように出現するのが面白い。今回の酒井主演は女性初となる快挙。男性の動物的な力強さとは対照的に、繊細で可愛らしい動きを見せる。2月の『火の鳥のパ・ド・ドゥ』(ゲッケ)や、同じ動物系ソロの『瀕死の白鳥』に比べると、まだ酒井らしさを出しているとは言えないが、踊り込むうちにハードな重みが加わるかもしれない。今後も酒井のコンテンポラリー・ソロ開拓に期待する。(3月21日昼 新国立劇場小劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2927(H26.6.1号)初出

 

*ゲッケの『Mopey』は、すでに女性ダンサーによって踊られているらしい。YouTube では男性ダンサーしか見られず。異ヴァージョンあり。(6/2)

 

★[バレエ]  井上バレエ団『眠りの森の美女』

井上バレエ団が創立45周年記念公演として、チャイコフスキー三大バレエを連続上演した。その掉尾を飾ったのが古典バレエの最高峰、『眠りの森の美女』全三幕である。芸術監督関直人による改訂は、本来あるべきマイムをできる限り残すと同時に、シンフォニック・バレエの世紀である20世紀の息吹を古典に吹き込むというもの。バレエ団のシンプルなスタイルが生み出す童話のような味わいに、スピード感が加わる独自の版が出来上がった。一幕ローズアダージョとオーロラのソロは、婿選びのパ・ダクションとして本来の味わいを残している。また王と王妃がこれほど演技をするのを見たことがない(マイムは小牧バレエ団版経由)。指導には元デンマーク王立バレエ団のペトルーシュカ・ブロホルム、パ・ド・シス指導に佐々木想美が加わっている。

オーロラ姫は島田衣子と宮嵜万央理のWキャスト、王子はパリ・オペラ座のエマニュエル・ティボー。島田の回を見た。島田は昨夏の『白鳥の湖』で、古典では初めて内面化された踊りを見せた。今回は体調も万全、一幕の少女らしさ、二幕の小悪魔的魅力、三幕の晴れやかさと、幼さを個性とする中にも成熟を覗かせている。07年以来ゲスト出演を重ねているティボーは、初々しい少年から成熟した男性へと変貌を遂げた。オペラ座らしい正確な技術に美しいスタイルを持つ、まさに『眠り』の王子そのものだった。

リラの精の西川知佳子はバレエ団のシンプルなスタイルを代表する踊り手。ほのぼのとした味わいながらも風格を感じさせる。真っ直ぐな踊りと演技だった。一方カラボッスは藤野暢央、ご馳走である。女装の艶やかさ、雄弁なマイムで場を一気にさらう。王と王妃の森田健太郎、藤井直子も、仲良く濃密な存在感を示して、舞台に厚みを加えた。青い鳥パ・ド・ドゥの田中りな、土方一生は伸びやかな踊り、パ・ド・カトルの菅野やよひ、速水樹里、源小織、荒井成也は見応えがあった。

指揮は福田一雄。いつもながら一音一音が立つドラマティックな指揮で舞台を牽引した。演奏はロイヤルチェンバーオーケストラ。(2月22日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』N0.2925(H26.5.1号)初出(5/1)

 

★[バレエ]  アメリカン・バレエ・シアター『マノン』

標記公演を見た(2月28日昼夜、3月1日 東京文化会館)。 まず思ったのが、1月の東京バレエ団ロミオとジュリエット』と同じく、東京シティ・フィルの演奏がよいということ。両者とも上から見たせいかもしれない。現在進行中のパリ・オペラ座バレエ団公演もシティ・フィルだが、やはりいい演奏。なぜ? これまでこんなには思わなかった。12年に宮本文昭音楽監督になったことと関係があるのだろうか(宮本は団員の労働条件がかわいそう、みたいなことを言っていた、ケルンのオーボエ奏者時代と比べてだと思うが)。

『マノン』は3キャスト別々の指揮者だった。連投させないためだろうか。中でもヴィシニョーワ=ゴメス組のオームズビー・ウィルキンズが素晴らしい(ABTの音楽監督)。新国立の『マノン』再演時、新編曲者のマーティン・イエーツが振ったが、それよりもよかった。繊細でダイナミック、音楽を隈なく表現している。いつも微妙になるイエーツ挿入の間奏曲でも、納得のいく演奏だった(他の2人の時は、同じ奏者でもそうではなかった)。舞台も演奏にふさわしい出来だったこともあり、相乗効果があったのかも。

演出はジュリー・リンコンと内海百合。団員は芝居が巧いが、演出はあまり濃密さがない。新国立の初演時、酒井はなが「つつかれた」と言うモニカ・パーカーとパトリシア・ルアンヌに比べると、切迫感なし。新国立再演時はカール・バーネットとルアンヌだったが、新編曲だったせいか清潔な印象。ただし寝室のパ・ド・ドゥで、男女が順に同じ振りをするところは、男が女の真似をしていることがよく分かった。今回は分からず。

セミオノワとコリー・スターンズ、ケントとボッレ、ヴィシとゴメスの順で見た。セミオノワはパートナーが違っていれば(ゴメスだったら)、もっと感情が出せたかもしれない。脚の演技はギエムを思わせる。ケントとボッレはずーっと水色の感じ。感情の刻みが浅いが、自分の踊りを貫いて、と言うか、それしか出来ないけど完璧に練り上げられていて、文句のつけようがない。ピューリタン伝統内のケントと、アポロのようなボッレ(天に腕を突き上げるところ)。似たもの同士に見えた。ヴィシは初めて諸手を挙げていいと思った(アンナ・カレーニナはひどかった)。このために生まれてきたんだと思った。少し品のないところ(老人の財布を覗くところ)は妙なリアリティ。役作りをしていないと思わせるほど、自然な造形。沼地も演じてないように見えた。ゴメスの誠実な懐深いサポートが可能にさせたのだと思う。フォーゲルがどこかで言っていたが、『マノン』のパートナリングは他とは比べものにならない程の密度が必要で、別の人と踊っているのをパートナーに見られると、浮気しているような気になる、らしい。小林紀子バレエ・シアターの島添亮子も、もう一度テューズリーと踊らせたかった。 島添のマノンは体の美しさが抜きん出ている。今回そう思った。特に二幕のソロは誰よりも素晴らしい。(2/28)

 

★[バレエ]  谷桃子バレエ団『リゼット

谷桃子バレエ団が四年ぶりに貴重なレパートリー『リゼット』を上演した。62年にスラミフ・メッセレルとアレクセイ・ワルラーモフがゴルスキー原振付版を移植。豊かなマイム、素朴な踊りが前近代的な味わいを醸し出す、牧歌的喜劇バレエである。当時は楽譜がなく、音楽監督福田一雄が、プティパ=イワノフ版に遡るゴルスキー版(ヘルテル曲)のピアノ譜からオーケストレーションを行い、アシュトン版のランチベリー曲や南仏民謡を追加編曲して、独自の谷桃子福田一雄)版を作り上げた。振付はメッセレルのものが保存され、本家では失われた19世紀の香りを残すボリショイ・バレエ版を垣間見ることができる。

今回は新体制になって初めての、そして核となる芸術監督望月則彦を失って初めての『リゼット』上演。主役に若手を起用し、新演出ではないにもかかわらず照明まで変えて臨んだ意欲的な舞台だったが、前回に比べると芝居の間合いや切れがやや鈍い。祝祭的な時空間を作る福田一雄の指揮を欠いたこともあるが、全体を見通す芸術監督の不在が要因だろう。

主役のリゼットとコーラには、再演組の永橋あゆみ、三木雄馬と、初役組の齊藤耀、酒井大、母マルセリーヌには樫野隆幸と岩上純の配役。初日の永橋は美しいクラシックのラインと透明感のある佇まいが魅力。一幕の芝居は少し上品過ぎたが、二幕パ・ド・ドゥの風格、三幕の結婚を夢見るマイムやパ・ド・ドゥの清らかさで持ち味を発揮した。一方の三木はこれまでの強面技巧派の仮面をかなぐり捨てて、自然な芝居、役の踊りで新境地を拓いた。二幕パ・ド・ドゥの三木の笑顔には感動すら覚えた程。永橋との呼吸もよく、クラシックの醍醐味も感じさせた。

二日目の齊藤は小柄ながらエネルギッシュにはじける演技、役になりきった踊りで主役デビューを飾った。二幕パ・ド・ドゥの見せ方はまだ十全とは言えないが、娘役に適したダンサーの誕生を確実にした。対する酒井は確かな技術を持ち、役柄にも合っていたが、役の彫り込み、パートナーとしてのあり方はこれからだろう。

リゼットの母マルセリーヌは物語を束ねる要、実際の主役である。初日の樫野は女らしく色気のある西洋的な女形芸、二日目の岩上は博多にわかを思わせる地の女形芸、共にはまり役である。再演の岩上は突拍子もないおかしさと、情の深い母性を結びつけた点で、大先輩小林恭の跡を追う。その至芸と肩を並べる日を楽しみにしたい。

金持ちのぶどう園主ミッショーにはゆったりとした陳鳳景と、軽妙な川島春生、頭の弱いその息子ニケーズには、無垢な魂を感じさせる山科諒馬と、活発で動きの面白い中村慶潤が当たり、主役と共に、初日のノーブルな雰囲気、二日目のコミカルな雰囲気の形成に貢献した。村娘のツートップ林麻衣子と黒澤朋子、三浦梢と穴井宏実が、バレエ団の淑やかな踊りを体現した他、コーラの友人に安村圭太と牧村直紀の新人が加わって、ダイナミックな踊りを披露した。アンサンブルの清潔な踊りと表情豊かな演技は相変わらず。布目真一郎の公証人、脇塚力の秘書の演技にも笑わされた。

シアターオーケストラトーキョー率いる井田勝大は両日とも、一幕は慎重、二幕から三幕にかけて躍動感あふれる指揮を見せる。福田の後継者として今後の活躍を期待する。(3月1、2日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2924(H26.4.21日号)初出(4/22)

 

★[バレエ]  パリ・オペラ座バレエ団『ドン・キホーテ

パリ・オペラ座バレエ団が昨年に引き続き来日した。演目はヌレエフ版『ドン・キホーテ』(81年)と、ノイマイヤー版『椿姫』(78、06年)。どちらもオペラ座の現在を映す代表的なレパートリーである。そのうちの前者を見た。

ヌレエフの振付は、ブルノンヴィル・スタイルから遡ったフランス派へのオマージュに彩られている。バットリー、ロン・ド・ジャンブの多用、アン・ドゥ・ダン回転はもちろん、左右両脚によるトゥール・アン・レールやピルエットが主役には課される。ブルノンヴィル・スタイルにおいては全体の調和と、高難度の技を容易く見せる玄人らしさが要求されるが、ヌレエフ振付の場合は、全力で遂行しないと追い付けない程の過剰なパが詰め込まれているため、これ見よがしに踊る余裕さえ与えられない。

フランス派の優雅さをなぜ追求しないのだろうか。それとも過剰に歪む装飾的なバロックの美を求めているのだろうか。ランチベリーの編曲も同程度の装飾性を帯びて、古典バレエの様式から外れている。その編曲を以ってしても、テンポを揺らさないと踊れない過密な振付である。

キトリはスジェのマチルド・フルステ、バジリオはエトワールのマチアス・エイマンという似合いの二人。フルステーの繊細な肉体から繰り出される強靱なテクニックは驚異。両脚ポアントからのアラベスクを当然のように実行する。エイマンもフランス派の脚で次々と難題をクリアした。オペラ座ダンサーにしか踊れない振付への義務感さえ感じさせる。ソリストからアンサンブルまで楷書のような足技。床をつかむ、払う、がくっきりと見える。男女の若手アンサンブルにとって、ヌレエフ振付はドリルのようなものかも知れない。

エスパーダのヴァンサン・シャイエの格好良さ、踊り子のサブリナ・マレムの小粋な踊りに加え、ドン・キホーテのギョーム・シャルロー、サンチョ・パンサのシモン・ヴァラストロ、ガマーシュのシリル・ミティリアン、ロレンツォのアレクシス・サラミットらマイム役が、自然な演技で舞台を盛り上げた。指揮はケヴィン・ローズ、演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。(3月14日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2927(H26.6.1号)初出

 

*もう一つの演目、ノイマイヤー版『椿姫』も見たが、ハンブルク・バレエの時と同じ、作品そのものがいいと思えなかった。観客との意思疎通を望んでいないような、閉じこもった感じ。コレクター気質だろうか。ノイマイヤー本人の感情が感じられない。趣味は伝わるけど。ダンサーが喜んで踊るのが、よく分からない。(6/2)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメンツ』

標記公演を見た(3月18、19、23日 新国立劇場中劇場)。ジェシカ・ラングの新作『暗やみから解き放たれて』、ハンス・ファン・マーネンの『大フーガ』(71年)、バランシンの『シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメンツ』(72年)によるトリプル・ビルである。

3回見て3回とも感じたのは、劇場内に気が回っていないということ。ビントレーが組んだこれまでのトリプル・ビルと比べると、ダンサーの発する熱量が観客の手前で止まっている。パリ・オペラ座、Kバレエカンパニー、ピナ・バウシュ、アーキタンツと重なって、客席はガラガラだったが、それだけのせいではないような気がする。

ラングの作品は、日本で日本人ダンサーが初演することが枷となっているような気がした。東日本大震災がどうしても関わってくる。成仏する前の魂が、白いドーナツ状の浮遊体となって上下する。最後は上昇し、人々は明るい浄土に向かって歩いていく。ラングの他の作品は一部しか見たことがないので、作風の比較は難しいが、一つ一つのムーヴメントが意味に引きずられて、動きそのものの強度に物足りなさを感じた。せっかくオリジナルを作って貰ったのに申し訳ないが(語彙がクラシック主体なのは、ダンサーに当てはめてのことだろうか)。ダンサーたちが奥に向かって歩いたので、こちらの息が向こうへ吸い込まれるような気がした。二日目キャストの本島美和、湯川麻美子が、抽象的な断片から物語を汲み取っていた。さすがベテラン。

『大フーガ』も二日目キャストの男性陣(トレウバエフ、福岡雄大、小口邦明、清水裕三郎)で作品がよく分かった。トレウバエフは武道(合気道?)をやっていたと思うが、その重心の低さと重い切れ味にマーネンのニュアンスが出ていた。福岡は言うまでもなくコンテの王様、巧すぎるほど。小口も石山雄三作品でめちゃくちゃ巧かったが、今回もそう。清水は濃厚なニュアンスを出していた。変な作品。女性は白塗り、花魁のような髪飾り。6番ポジションが内股のように見える(日本の脚)。すり足歩行あり。男女ともに伏し目がちで、目力は使えない。低い重心のプリエ多用もあり、全体に日本的な感じ。変な作品だった。西洋人がやるとまた違うのかも。

『シンフォニー・イン・スリー・ムーブメンツ』がどうしても面白い。天才バランシン。ムーヴメント、フォーメイションは誰にも真似ができない面白さ。脚を閉じで横っ飛びを、例えば今現在、バレエ作品で誰かが振り付けたとしても、奇を衒ったとしか言われないと思うが、バランシンがやると絶対的な振りになる。こうでしかありえないから。確信があるから。ストラヴィンスキーの音楽をCDで聴くと、重苦しく悲劇的なのに、バランシンは平気でやり過ごして、明るくエネルギッシュな作品を作る。でも盟友。だから盟友なのか。対角線に並んだ16人の美女が、ユニゾン、カノンで踊る破格のフォーメイションを、ビントレーは新国ダンサーで見たかったのかも。(4/12)

 

★[バレエ]  Kバレエカンパニー『ラ・バヤデール』新作

標記公演を見た(3月24日 オーチャードホール)。 まず久しぶりに聴いたミンクスの音楽に魅了された。プログラムによると、オリジナルの痕跡を最も忠実に残していると思われる2009年ケンブリッジ出版のピアノ譜に当たり、グリゴローヴィッチ版やランチベリー版を参考にして、独自の版を作り上げたとのこと(楽譜の修正作業は、音楽監督福田一雄を中心とした音楽スタッフによる)。

演出の熊川哲也は「プティパ復元版(ヴィハレフ版)を基に試行錯誤しながら削ぎ落としていくと、どうしてもマカロワ版に似てくる。方向性は近いが同じことはしない。」と語る(プログラム)。二幕構成の一幕は、寺院の外、ラジャの宮殿、宮殿の庭、二幕は寺院の中、影の王国、寺院の中、崩壊した世界となっている。演出で目についた点は、一幕苦行僧の踊りが多い、バレエダンサーではない肉付きのよい僧侶たち(カンフーをやりそうな迫力、婚約式にも象使いで登場)、宮殿の初っ端にチェスをする友人たちの踊り(チェスを指しながら踊る)、婚約式のディヴェルティスマンは壺の踊りがなく太鼓の踊りがある、花籠はソロルが渡す、二幕寺院の中でソロルが阿片を吸った時、奥の金の神像がチラと動く、ニキヤを追う自分を見るソロル(身代わり使用)、影群舞の間をソロルが縫うように歩く、ソロルが夢から覚めないまま、ガムザッティは白蛇(ニキヤの化身)にかまれて死ぬ、寺院崩壊後、瓦礫の中で金の神像がソロを踊る、手前から白い布が翻り、スロープを覆う、その上をニキヤに向かってソロルが歩いていく、天上から白いスカーフが二人の間にかかる等。またニキヤの一幕ソロ(2つ)が少し短縮されている。影の山下りは、ゆっくりめのテンポ。Kバレエはいつもアップテンポなので、意外だった。

美術はディック・バード。新国立劇場バレエ団の『アラジン』と『火の鳥』、スターダンサーズ・バレエ団の『くるみ割り人形』では、童話の絵本のようなタッチが特徴的だったが、今回はもっとリアルで混沌とした迫力がある。影のシーンはオーロラかラビスラズリのような黒とブルーの色合い。終幕は大地がうねる混沌とした風景。直前の公演紹介ドキュメンタリーでバードは、影のシーンのために巨大な罌粟の花の原画を提示していた(阿片の連想?)が、熊川がこれではニキヤの影ではなく、罌粟の妖精に見えると却下していた。恐らく熊川の要望をかなり汲んだ美術なのではないだろうか。

ニキヤの日向智子は繊細で丁寧な踊り、ソロルの池本祥真はよく開いた脚で、美しく躍動感にあふれた正確なヴァリエーションを見せた。はまり役だろう。ブロンズ・アイドルの益子倭、マグダヴェヤの井澤諒、パ・ダクシオンの福田昂平を始めとする男性ダンサーの技術の高さと、女性ダンサーの音楽性はKバレエの特徴である。ダンサーが定着しないのが不思議なところだが、外に出た元Kバレエダンサーは、あちこちでバレエ団の教育レヴェルの高さを証明している。(3/31)

 

★[ダンス]  アイザック・エマニュエル『ANICONIC』

標記公演を見た(3月26日昼 STスポット)。なぜ見たかと言うと、主催が舞踊批評家の武藤大祐だから。どのような作品を持ってきたのか、興味があったから。

フロントアクトとして、出演者の一人スルジット・ノンメイカパムによるソロ『One Voice』があった。スルジットはインドのマニプル州出身。主要言語はマニプリ語。ミャンマーに接しているので、東南アジアの文化も混在している。かつては王国だったが、現在はインド連邦の州となる。インド軍による人権侵害、インド本国の搾取による貧困など問題を抱える(スルジットの他公演『Calling』のチラシより)。本作は「拷問」をテーマとし、来日に際して、マニプル州のNGO「人間から人道へ―トラウマと拷問に関する超域文化センター」の助成があった(本公演のプログラムより)。

スルジットが椅子に座り、前には電気スタンド。男性の写真を手に持ち、祈るような身振りをする。拷問で亡くなった人への哀悼だろうか。その後立ち上がり、ほぼ定位置で様々な動きをする(人差し指で自分の胸を正面から突き刺すなど)。時折、伝統舞踊の手や足の動き、腰を落とすフォルムが見えて、その美しさに驚く。なぜコンテの道に入ったのだろう。最後は着ていたシャツを椅子に掛け、自分は客席に座り、拍手をした(意味は理解できなかったが)。

『ANICONIC』ではスルジットはじっと仰向けになったり、うつ伏せで反り返り、シーソー動きをしたり、水を飲んで吐いたりと、一ダンサーに徹していた。主催者武藤の「スルジットがもし来日できなかったら、自分が出演するしかないと思っていた」というツイッターを読んでいたので、いちいちこれは武藤でもできる、とか確認しながら見てしまった。一部、二部はそれなりにできるかなと思ったが、三部の水を飲んで吐くのは難しいような気がした。体全てを捧げなければできないから。

作品は質が高く、面白かった。一部、二部は白井剛を思い出した。物、空間、動きの切り取りが理系に思える。だが三部は白井にはできないだろう(唾交じりの水浸しで尻移動、背中移動あり)。作品の全てを見ることができたのは、エマニュエルの思考に曇りがないから。プラス、自由な空間でもあった。そこに居て楽しいと思えた。エマニュエルの思考が体と乖離していないから?(3/28)

 

[バレエ][ダンス]  NHKバレエの饗宴2014」

「NHK バレエの饗宴2014」が開催された(主催 NHK、NHKプロモーション)。今年で三回目となるこの企画は、国内のバレエ団と優れたゲストダンサーが一堂に会する貴重な機会である。さらに、日本のバレエ団の現在を映像記録として残し、観客層の拡大にも寄与するなど、日本のバレエ文化の底上げに大きく貢献している。今年の演目は、古典バレエの一幕抜粋、シンフォニック・バレエ、ロマンティック・バレエのパ・ド・ドゥ、コンテンポラリー・ダンスのデュオと、バラエティに富む組み合わせだった。

幕開きはスターダンサーズ・バレエ団による『スコッチ・シンフォニー』。メンデルスゾーンの同名曲を使ったバランシン作品は、ロマンティック・バレエをベースに置きながらも、意表を突く作舞で独自の音楽解釈を炸裂させる。林ゆりえ、吉瀬智弘の若手主役が、柔らかい踊りで物語性を喚起し、男女アンサンブルは音楽性と清潔な足技で、バレエ団と振付家の濃密な関係を証明した。

続いてはコンテンポラリー・ダンサー島地保武とバレエダンサー酒井はなのユニット、アルトノイによる『3月のトリオ』。バッハの無伴奏チェロ組曲(演奏・古川展生)をバックに、島地はフォーサイスと武術を組み合わせたハードな振付を男らしく、酒井はややバレエ寄りの振付をポアントで生き生きと踊った。一貫して島地の迎合しない野生的な空間での、離れたデュオだった。

休憩を挟んだ第2部は、ベジャールダンサーの首藤康之と、キリアンダンサーの中村恩恵が、独特の存在感を発揮した『The Well-Tempered』から。バッハの平均律(演奏・若林顕)を用い、スタイリッシュな照明を駆使する美しいデュオである。踊りは二人の手の内に留まるが、観客の目に優しい、よく出来たコンサート・ピースだった。

続いては神戸市を本拠とする貞松・浜田バレエ団の『ドン・キホーテ』第一幕。男女アンサンブルからマイム役、子役までバレエ団が勢揃し、アットホームな舞台を作り上げる。キトリの瀬島五月は圧倒的な存在感と演技で、バジルのアンドリュー・エルフィンストンは大きく伸びやかな踊りで中心を務め、ドン・キホーテの岩本正治サンチョ・パンサの井勝らと共に、祝祭的な古典バレエの空間を形成した。

二部の最後は元英国ロイヤル・バレエ団プリンシパル吉田都と、シュツットガルト・バレエ団プリンシパルのフィリップ・バランキエヴィッチによる『ラ・シルフィード』からパ・ド・ドゥ。バットリーの多いハードなブルノンヴィル・スタイルに両ベテランが挑戦。吉田の清潔で軽やかな踊りと、バランキエヴィッチの重厚で激しい踊りは見応えがあった。

第三部は元ライプツィッヒ・バレエ団芸術監督ウヴェ・ショルツの『ベートーベン交響曲第7番』を東京シティ・バレエ団が踊って、華麗な饗宴を締め括った。ショルツのシンフォニック・バレエはバランシンに比べると、少し田舎くさく暖かみがある。バランシンが音楽を軽やかに超越して、華やかな語彙をエネルギッシュに繰り出す視覚派なのに対し、ショルツは音楽をじっくり味わった後、身体(皮膚)感覚を通して一つ一つ振付を紡いでいるように見える。特に音楽に沿ったシークエンスの素直な繰り返しは、何とも言えない滋味を醸し出す。志賀育恵の磨き抜かれた美しい体(特に脚)によるアダージョが素晴らしい。また玉浦誠の切れの良い正確な踊りが作品の鋭いアクセントとなった。古典の様式を踏まえたアンサンブルは音楽性にも優れ、振付家の意図を十全に伝えている。

フィナーレは全員が踊りながら登場し、吉田を中心とした華やかなカーテンコールで幕となった。演奏は大井剛史指揮、東京フィルハーモニー交響楽団。(3月29日 NHKホール) *『音楽舞踊新聞』No.2927(H26,6,1号)初出(6/2)

 

[バレエ][ダンス]  杉並洋舞連盟第24回「創作舞踊&バレエ」

杉並洋舞連盟の「創作舞踊&バレエ」が24回目を迎えた(共催・杉並区教育委員会、杉並区文化団体連合会)。コンテンポラリーダンス、モダンダンス、古典バレエによるトリプル・ビル。全て合同作品である。

幕開けは、自身優れたダンサーでもある鈴木竜振付の『LUDUS』。ラテン語で「遊戯」や「訓練」の意。バレエ出身の15人の少女達がコンテンポラリーの語彙で踊る。照明、音楽構成(シューベルトショパン、J・ホプキンズ)は洗練されている。特に一旦幕を下げた後、全員がレオタード・シルエットでバレエのポジションを繰り返しながら奥に向かう終幕は印象的。ダンサーたちはそれぞれの個性を生かした衣裳(武田久美子)に身を包み、振付を自分の感覚で吸収している。バレエダンサーにとって教育的であると同時に、作品としても面白い、クリエイティヴな空間だった。

続いては、モダンダンスの大ベテラン河野潤振付の『帰ってきたピーターパン』。大小の子ども達が、制服少女、野球やサッカー少女、アイドル風少女となって、『あまちゃん』の音楽やヒップホップの曲に合わせて、元気一杯に踊る。合間にピーターパンとティンカーベルのデュオや、フック船長のマイム、タコの着ぐるみダンスが舞台を彩る。見る方も楽しいが、踊る方の楽しさがそれ以上に伝わる、エネルギー満タンの舞台だった。

最後は、登坂太頼演出・再振付による『ドン・キホーテバルセロナの賑わい~』。二幕仕立てで、ドン・キホーテがキューピッドに矢を射られるプロローグが付く。一幕はナイフ狂言までをまとめ、二幕の結婚式ではドン・キホーテが神父の役目。エスパーダとメルセデスボレロに続き、ドルシネアと森の女王のソロが加わったグラン・パで幕となる。街の踊り子達がトレアドールの振りを担当。以前男性がキューピッドを踊るのを見たが(つまりトラヴェスティを解消)、それとは逆に、プティパ時代のように男装の女性トレアドールを、どうせなら見てみたかった。

キトリはWキャストで二日目は佐藤桂子。技術があり、踊り方も演技も十分に心得ているが、やや模範演技のような感じ。もう少し胸襟を開いたら、祝祭感が増したかもしれない。対するバジルは元Kバレエダンサーの橋本直樹。美しくコントロールされた踊り、品のある演技、舞台マナーが素晴らしい。はまり役だった。エスパーダの登坂、メルセデスの出口佳奈子も同じ。執行伸宜のノーブルなドン・キホーテ、営野翔一の技巧派サンチョ・パンサ、保坂アントン慶の苦み走ったロレンツォ、染谷野委のおとぼけガマーシュが、一貫した演技でドラマの立ち上げに貢献した。(3月30日 セシオン杉並) *『音楽舞踊新聞』No.2925(H26.5.1号)初出(5/1)

 

[バレエ]  NBAバレエ団「スプリングバレエフェスティバル」

NBAバレエ団恒例の「スプリングバレエフェスティバル」が開催された。演目は『ライモンダ』第三幕抜粋、舩木城振付『beyond』(新作)、ライラ・ヨーク振付『Celts』。古典、コンテンポラリー、モダンという充実したトリプル・ビルである。

幕開けの『ライモンダ』は、バレエ団の技術と様式性が試される古典の試金石。純粋な古典バレエを見るのは新体制となって初めてだが、アンサンブルは華やかな上体、粘りのあるコントロールされた脚、観客へのアピールで統一され、美しいグラン・パ・クラシックを紡ぎ出すことに成功した(音源は改善を望む)。

久保綋一芸術監督になって一年半が経過、芸術的基準が団によく浸透している。ライモンダの田澤祥子は確かな技術と行き届いた踊りで、古典の主役を見事に務めた。一方ジャン・ド・ブリエンヌの貫渡竹暁はスター性があり、はまり役と言えるが、もう少し技術面での落ち着きが望まれる。新本京子、米津萌を始め、ソリストたちの踊りのニュアンス、押し出しの良さが際立っていた。

続く舩木作品はバレエ団としては二作目に当たり、久保監督の信頼の厚さを窺わせる。ライコー・フェリックス、ムーン・ドッグ、ヨハン・ヨハンソンの曲を使用。男性は上半身裸に黒パンツ、女性はピエロのような白塗りにふわふわ衣裳、またはワンピース、チュチュも。振付はクラシックを基礎に、床を使う動き、日常的身振り、発話が組み合わされている。マッツ・エックを思わせる低い重心の動きや、病的な痙攣が織り交ぜられ、過呼吸で幕を閉じるなどの一面もあるが、全体的にはムーヴメント追求の楽しさにあふれた熱量の高い作品である。久保の重厚でドラマティックなソロ、峰岸千晶の病的なソロ(少しクラシック寄りかも)、大森康正の抜き身の日本刀のようなソロ、田澤の巧さ、小林由枝の存在感が印象深い。李民愛は動きを全て自分のものにする、一度ソロを見てみたいダンサー。

最後の『Celts』は、ケルティック・ダンス、アメリカン・モダンダンス、バレエ、土俗的な戦士ダンスの混淆。再演らしくダンサーの動きがよくこなれている。初演時にはアザラシ状態で両脚を上げる女性アンサンブルがアメリカ人(?)に見えたが、今回は油が抜けて日本人に見えた。初演時に急な代役を見事にこなした高橋真之の伸びやかなグリーン、端正な大森と明晰な竹内碧のレッド、サポートに徹した泊陽平と美しいラインの佐々木美緒によるブラウン・アダージョ、適材適所だった。アンサンブルは体全体を使って思い切り踊り、アメリカン・バレエの醍醐味を伝えている。(4月5日 なかZEROホール) *『音楽舞踊新聞』No.2927(H26.6.1号)初出(6/2)

 

★[バレエ]  コデマリスタジオ第49回「コデマリコンサート」

コデマリスタジオの「コデマリコンサート」が49回目を迎えた。三部構成の第一部は、スタジオ生が日頃の成果を披露する発表会、第二部はタンゴ、バレエ、モダンの創作小品集、第三部はスタジオ全員で『ロミオとジュリエット』のリハーサルを舞台化した『追想』。主宰大竹みかの美意識に貫かれた一夕だった。

第一部では古典のパ・ド・ドゥに、大竹振付の児童向け『絵本はゆ*れ*る』と、成年女性向け『あこがれ』が上演された。前者はドボルザーク曲で可愛らしく、後者はショスタコーヴィチピアノ曲で美しく踊られる。特に『あこがれ』は、大竹の香り高い気品と、深い音楽性が、清冽なフォーメイションで視覚化された名品。スタジオ生の中には回転も儘ならぬ人もいたが、それでも作品の本質は伝わってきた。他に『海賊』パ・ド・ドゥにゲスト出演した鈴木裕の端正な踊りとダイナミックなリフト、新井光紀のサポートで『白鳥の湖』グラン・アダージョを踊った河邊優の行き届いた踊りが印象深い。

第二部の前半は「VIVA TANGO!!!」の題名の下、3つの小品が上演された。安藤雅孝振付『I am Woman』は大竹=安藤組を中心に5組の男女が踊るタンゴ作品。大竹の磨き抜かれた洒脱なラインを、安藤の深い情念が包み込むデュオが素晴らしい。続く大竹振付の『Tango del Gatto』は、若い女猫たちがチュチュで踊る上品なショーダンス風の作品。猫の手の振りが可愛い。最後の『Leonora’s Song…restart』はアルゼンチンタンゴの名手竹原弘将の振付で、竹澤薫と竹原が踊る。竹澤はポアントなので垂直のラインが入る。伸びやかで優雅なタンゴだった。

第二部後半は長谷川秀介振付の『星月夜』と『memento mori』。前者はメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』で杉本芸録が踊るクラシカルなソロ。後者はドビュッシーの『月の光』に乗せて、長谷川が師の本間祥公と踊るモダン作品。「死を忘れるな」という題名がモノクロの舞台に反映される。シンメトリーの動きで近づき、ボールルームダンスのポジションで組む男女。モダンのベテラン本間はクラシックのラインも持ち、なおかつ体の隅々にまでニュアンスを込めることができる。二人が見つめ合うだけでドラマが立ち上がった。

第三部の『追想』は大竹の原案、安藤の構成・振付。プロコフィエフ曲を使用し、一部分江藤勝己のピアノ演奏が流れる。ジュリエットを踊ったばかりの大竹が、カーテンコールで喝采を受ける場面から舞台は始まる。そのレヴェランスの素晴らしさ。大竹の舞台人としての真率さが伝わってくる。年月が過ぎ、大竹はバレエ団の団長として若手ダンサー(壁谷まりえ)を育てる日々。そこに恋人だった男性(吉田隆俊)とその教え子(新井)がリハーサルにやってくる。かつての自分たちを若い二人に投影するベテラン二人。安藤バレエマスターによるバーレッスンに続き、『ロミオとジュリエット』の名場面がコンパクトに綴られる。

ジュリエットの壁谷、ロミオの新井は共にはまり役。大人全員で踊る「騎士の踊り」には迫力があった。ピアノ版がいつの間にかオケ版に切り替わり、リハーサルと本番の間が夢のように移ろうなど、演出には面白い着想が散見された。幼児から大人までスタジオ全員が出演する前提のため、発表会風の場面もあったが、安藤の演出が行き渡った作品だった。(4月6日 メルパルクホール) *『音楽舞踊新聞』N0.2925(H26.5.1号)初出(5/1)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ファスター』『カルミナ・ブラーナ

新国立劇場バレエ団が芸術監督デヴィッド・ビントレーの作品で二本立て公演を行なった。12年初演の『ファスター』と、95年初演の『カルミナ・ブラーナ』である(共にBRB初演)。前者はロンドン・オリンピックに因んだ新作、後者は05年に新国立が導入し、08年の同団初振付作品『アラジン』や、10年の芸術監督就任への端緒を開いた記念碑的作品である。

幕開けの『ファスター』は昨年の『E=mc2』とほぼ同じスタッフによる。M・ハインドソンの委嘱曲―後期ロマン派、原始主義音楽、ミニマルミュージックのエネルギッシュな複合体―に、ビントレーの音楽性が隈無く反応し、変拍子の微細な極みまで振りが付けられている。ハインドソンの新曲とがっぷり四つに組むことが、ビントレーの現在の興味なのだろう。

アスリートの運動やフォルムをモチーフにした具象的な振付、怪我に苦しむ女性選手と、それを支える男性選手の表現主義的なパ・ド・ドゥ、全員走り+競歩のデジタルなフォーメイションによる三部構成。ダンサー達のアスリートの側面を鍛えることがビントレー監督の目標の一つだったが、まさにそのものズバリの作品である。

パ・ド・ドゥ担当の「闘う」はWキャスト。初日の小野絢子・福岡雄大はラインの美しさと双子のようなパートナーシップ、二日目の奥田花純とタイロン・シングルトン(BRB)はダイナミックな切れ味と苦悩の深さで、振付の両面を体現した。「投げる」福田圭吾の力感、「跳ぶ」本島美和の美しいフォルム、同長田佳世の意識化された脚、同菅野英男の盤石のサポート、また「マラソン」五月女遥の優れた音楽性と細かく割れた身体、同竹田仁美の幸福感あふれるランナーズ・ハイも印象的。ダンサー達は危険と隣り合わせのミリ単位のフォーメイションを、音楽と寸分違わず走り続けて、ビントレーの4年にわたる薫陶の結果を明らかにした。

カール・オルフが37年に発表した劇的カンタータカルミナ・ブラーナ』の舞踊化はビントレーの宿願だった。今回はバレエ団三度目の上演。オーケストラ、声楽ソリスト、合唱団がピットに集結し、大音量を響かせるのが公演の大きな魅力である。中世の遍歴神学生の歌を、60年代英国の神学生3人が追体験するという演出。神学生の黒詰め襟や、黒髪おかっぱ頭が頻出するせいで、日本人の我々にも妙な懐かしさを感じさせる。3人はそれぞれ、ダンスホール、ナイトクラブ、売春宿で未知の体験を繰り広げるが、全ては失望に終わる。運命の女神フォルトゥナの掌の上で弄ばれただけだったのだ。ハイヒールを履いて目隠ししたフォルトゥナの重心の低い踊り、神学生たちの空手の型に似た踊りが作品の表徴、真似をしたくなるほど格好いい。

フォルトゥナはWキャスト。三度目の湯川麻美子は鮮烈な動きと気迫のこもった演技で、はまり役に円熟味を加えている。神学生3の長身シングルトンを相手に、平然と姐御風の啖呵を切ってみせた。一方、初役の米沢唯はあどけなさを残すものの、運命の女神そのものだった。役を生きている。冒頭の踊りは線が細いが、ゴムのように伸びる感触を振付に加味。赤ドレス・ソロや、福岡(神学生3)とのパ・ド・ドゥはなぜか和風、四畳半の匂い。福岡の肉体が清潔だったせいか、出征前の兵士と娼婦のようにも。エスパーダと街の踊り子で組んだ際の丁々発止を思い出した。

神学生1では、菅野の純朴さ、奥村康祐の甘さ、小口邦明の真面目、神学生2では、八幡顕光の技巧、福田の熱い存在感、古川和則の自在な演技を楽しむことができた。また空手の型では、福岡、福田、小口に見る喜びがあった。トレウバエフを筆頭に、不良青年たちの活きのいい踊りが、ビントレー時代の挽歌のように響く。もう羽目を外すことは許されないのだ、と。

ソリスト歌手は安井陽子、高橋淳、萩原潤。新国立劇場合唱団と東京フィルがP・マーフィ指揮の下、舞台を強力に支えた。(4月19、20、25日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No2928(H26.6.11号)初出(6/12)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団「プリンシパル・ガラ」

牧阿佐美バレヱ団「プリンシパル・ガラ」が文京シビックホールで開催された。母体の公益財団法人橘秋子記念財団と、文京区及び公益財団法人文京アカデミーが事業協定を結んだ記念公演である。「プリンシパル・ガラ」と銘打たれた通り、バレエ団の主役級、青山季可、吉岡まなみ、京當侑一籠、菊地研、中家正博、清瀧千晴が顔を揃えたが(伊藤友季子は故障で降板)、バレエ団初演作を若手に宛てるなど、若手お披露目公演のニュアンスも強い。二部構成の前半は、バレエ団の貴重なレパートリー『コンスタンチア』、後半は有名なコンサート・ピースが5本続けて上演された。

『コンスタンチア』(36、44年)はアメリカの優れたダンスール・ノーブルで振付家のW・ダラーによる作品。バランシンと協力して創った『コンチェルト』を後に改訂したものである。ショパンの『ピアノ協奏曲2番』に乗せて、ショパンと憧れの歌手コンスタンチア、恋人ジョルジュ・サンドの関係が心象風景のように描かれる。コンスタンチアの青山、ショパンの京當、サンドの吉岡は役をよく把握、アンサンブルは叙情的なスタイルときめ細やかな音楽性で統一されていた。ドラマよりも音楽を強調するのがバレエ団の特徴。シンフォニック・バレエの趣が強かった。

後半は、米澤真弓と清瀧による『パリの炎』パ・ド・ドゥ、日高有梨とラグワスレン・オトゴンニャムによる『ジゼル』第二幕よりグラン・パ・ド・ドゥ、織山万梨子と中家による『エスメラルダ・パ・ド・ドゥ』(B・スティーヴンソン振付、団初演)、中川郁、塚田渉、清瀧による『ワルプルギスの夜』(ラヴロフスキー振付、団初演)、そして青山と菊地、バレエ団による『ドン・キホーテ』第三幕抜粋である。

青山のプリマとしての貫禄と観客を祝福する笑顔が素晴らしい。また米澤の正確な技術、織山のコケットリー、中川の伸びやかさと、若手女性陣が個性を発揮し、今後に期待を抱かせた。茂田絵美子、久保茉莉恵は主役級だが、今回はアンサンブルのレベルアップ役に徹している。男性陣の行儀のよいサポートも団の特徴。清瀧の爽快な跳躍、塚田の豪快なリフトと踊りも印象深い。

ティーヴンソンの『エスメラルダ・パ・ド・ドゥ』オリジナル版など、後半には興味深いプログラムも含まれるが、クラシックのみのせいか、構成がやや単調に思われた。今後、文京区民にどのような作品を提供するのか、ロマンティック・バレエからコンテンポラリー作品まで踊ってきたバレエ団として、その文化的啓蒙に期待が高まる。(4月21日 文京シビックホール) *『音楽舞踊新聞』No2928(H26.6.11号)初出(6/12)

 

 

★[オペラ]  新国立劇場『カヴァレリア・ルスティカーナ』『道化師』

標記公演を見た(5月14日 新国立劇場オペラパレス)。新制作。演出のジルベール・デフロ、美術・衣装のウィリアム・オルランディ、照明のロベルト・ヴェントゥーリが素晴らしい。デフロはベルギー・フランドル地方生まれ。ブリュッセルで学んだ後、ミラノ・ピッコロ劇場でG・ストレーレルに師事している。『道化師』の劇中劇(コメディア・デラルテ)の巧みな演出は当然のことながら、二作全編を通して、音楽に寄り添い、歴史に敬意を払う、献身的な演出だった。作品のあるべき姿を回復させる。美術も照明も同じ。特に照明の繊細さ、これ見よがしのなさに感動した。レナート・バルンボの指揮、東京フィル、新国立劇場合唱団も素晴らしく、久々に演出と音楽が一致した気持ちの良い公演だった。

なぜブログに書こうと思ったかと言うと、旅回り芸人の一団にアクロバットカップル(天野真志、Bila Olga)がいたから。天野は89年生まれ、群馬県みどり市にある沢入国際サーカス学校卒業、Olga は81年生まれ、ウクライナ国立サーカス学校卒業で、沢入の講師とのこと。劇中観客に囲まれて、二人が超絶技巧リフトを次々に繰り広げる。最初はバレエダンサーかと思って見ていたが、途中から女性がとんでもなく柔らかい体で、男性がザンパノ(フェリーニの『道』)のような力自慢に見えたことから、違う気が。プログラムを見ると、アクロバットとあった。ロシア風リフトの一つ一つが清々しく、大道芸人らしい古風なペーソスも感じさせる。デフロの演出が入っているのだろう。(5/20)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団「ラフィネ・バレエコンサート」

東京シティ・バレエ団が恒例の「ラフィネ・バレエコンサート」を催した(主催・公益財団法人江東区文化コミュニティ財団)。創作バレエ2作、間に古典パ・ド・ドゥ集を挟んだ三部構成。多彩なプログラムで、地元江東区民に舞踊の喜びを提供している。

創作はベテランと若手振付家の競演となった。石井清子の『ジプシーダンス』と、小林洋壱の『Dance lives on』である。最終演目の石井は得意のキャラクターダンスで、ジプシー音楽(ロビーラカトシュとアンサンブル)をドラマティックに視覚化した。

石井振付の特徴は鋭い音楽性と、濃厚な演技を溶かし込んだキャラクターダンスにある。今回も女性ダンサーの妖艶な身振り、男性ダンサーの美しく粋なラインが、ロマ達の暗いパトスを浮き彫りにした。情感たっぷりのパ・ド・ドゥを踊った若林美和と黄凱、男性アンサンブルを率いた佐藤雄基、練達の女性アンサンブルが石井世界を具現。石田種生、金井利久の創作物と共に、バレエ団の貴重な財産である。

バレエ団現行の座付き振付家はバレエマスターの中島伸欣。その濃密なパ・ド・ドゥは、中島の身体から生み出された一つの奇跡である。今回幕開け作品を担当した小林の美点も、自らの体臭を感じさせる等身大のパ・ド・ドゥにある。

『Dance lives on』はマイケル・ジャクソン他をクラシカルに編曲した音楽で、男女群舞が踊る(生演奏・1966カルテット)。ジャズダンスやモダンダンスの語彙をクラシックに組み込んで、現代性を加味しようとした振付だが、残念ながら音楽と拮抗するだけの、またバレエダンサーに見合うだけの強度を備えているとは言い難かった。見せ場のパ・ド・ドゥも、小林の身体を感じさせないままに終わっている。もう少し個性の追求を期待したい。ダンサーでは、パ・ド・ドゥ薄井友姫の爽やかさ、同じく高井将伍の動きの巧さ(ムーンウォークの素晴らしさ!)、アンサンブル松本佳織の優れた音楽性が印象的だった。

古典パ・ド・ドゥ集は3組。『ラ・フィユ・マル・ガルデ』より第三幕のグラン・パ・ド・ドゥを中森理恵と岸本亜生、『ダイアナとアクティオン』を佐合萌香と内村和真、『白鳥の湖』より黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥを佐々晴香と黄が踊った。いずれも適役で、それぞれ牧歌的、古典的、劇的なパ・ド・ドゥの面白さを味わうことができた。(5月25日 ティアラこうとう大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2928(H26.6.11号)初出(6/12)

 

★[バレエ][ダンス]  PDA東京公演『ZERO』

標記公演を見た(5月29日 シアターコクーン)。PDAは Professional Dancers' Association の略で、樫野隆幸を会長に戴く男性バレエグループ。関西近辺のダンサー達だが、名古屋の人も。今回が初の東京お目見えだった。 バレエ作品は日本ではまだ古典中心のため、女性ダンサーに活躍の場が多い。例外は東京バレエ団ベジャール物)、Kバレエカンパニー(熊川物)、新国立劇場バレエ団(ビントレー物)。関西のバレエダンサーのレベルは高く、男性達をもっと踊らせたいというのが、設立理由だろうか。今回は余興として、ローザンヌとユースアメリカグランプリで一位を取った、二山治雄が出演、浅野郁子振付のコンテンポラリー・ソロと、ソロルのヴァリエーションを踊った。

本編は3作、すべて創作物だった。幕開けの篠原聖一振付『Thread』は、蜘蛛の糸の意。プロコフィエフのピアノ協奏曲(?)とポール・サイモンの歌を組み合わせて、男性(当たり前だが)11人が踊る。末原雅広を中心とする猿軍団の中に、糸ならぬ太いロープで佐々木大が降りてくる。末原と佐々木の対決や何やかやが、プロコフィエフの曲想に合わせて集団に湧き起こる。地獄谷温泉に女装の猿など、盛り沢山の展開。振付は猿歩きを基本に、クラシックの華やかなパが繰り出される。最後は佐々木が上に上がって終わる。なぜ猿にしたのか。これが大阪色なのか。篠原のノーブルなスタイルはクラシックの場面で見ることができたが、グループとのこれまでの経緯を知らないので、呆気にとられるばかりだった。

真中は島崎徹の『Patch Work』。ガムラン風や民族音楽風の音楽で、男性11人が踊る。パッチワークなので、筋はなく、腹ばいで腕を伸ばし、床を爪でカツカツと叩く動きが始まりと終わりにある。動きは島崎が一から作ったもの。所々モダンダンスを思わせる風もあるが、規範はこれといってなく、分析しようとすると疲れるが、身を任せると面白い。特に男性デュオは肉と肉とのぶつかり合いで見ごたえあり。他の二作にデュオがないので、余計に目立った。最後の挨拶は、浅い蹲踞の姿勢から、一人づつひょいと立ち上がる。面白い。勤務先の神戸女学院のイメージとうまく結びつかない。グレアムも教えているそうだが。

最後は矢上恵子の『ZERO』。バッハの『ミサ曲ロ短調』とミニマルな音楽を組み合わせ、特攻隊をモチーフに創った作品。15人の男性ダンサーが、スタイリッシュな踊りを繰り広げる。以前に比べるとやや穏やかになった感も。それでも男性ならではのエネルギーが終始炸裂し続ける。クリエイティヴな動きに圧倒されるが、作品自体の規格はショーダンスにある。観客を熱く鼓舞する形式。そこが島崎と対照的なところだ。

主役の山本隆之は、矢上のスタジオ出身。手の内に入った振付を、ミリ単位の音感で鮮やかに踊る。以前新国立の『R&J』初演時に、森田のロミオ、熊川のマキューシオ、山本のベンヴォーリオで「マスク」を踊ったことがあるが、あれほど音楽性に秀でた3人組を見たことがない。山本はノーブルな佇まい、ドラマ及び振付の深い解釈、盤石のサポートが美点とされるが、優れた音楽性を加えなければならなかった。

これだけの作品とダンサーを結び付け、纏め上げる樫野会長の手腕は言うまでもないが、一方で振付家としての(もちろんダンサーとしての)手腕も優れている。昨年「全国合同バレエの夕べ」で発表した『コンチェルト』は、その精緻なフォーメイションと動きの瑞々しさが素晴らしかった。女性アンサンブルだったので、今度は同じ振付で男性アンサンブルを見てみたい。(5/22)

 

★[バレエ][ダンス]  ラ ダンス コントラステ『ノア』

標記公演のゲネプロを、主催者のご厚意により見ることができた(6月7日 アサヒ・アートスクエア)。3人の振付作品を、白髭真二の体が蝶番となって繋いでいく形式。構成は中原麻里、振付は中原、大岩淑子、青木尚哉による。全体を通して感じたことは、ダンサーのレベルの高さ。アトリエ公演なので若手主体だと思われるが、クラシックの美しいラインとコンテンポラリーの動きが、矛盾なく同居している。

中原は、音楽解釈とドラマを濃密に結びつける優れたバレエ創作家。今回の筋立てはいま一つ分かりにくかったが、動きから感情が流れ出る。女性アンサンブルの丁寧な踊り、細野生の美しいラインとドラマティックなサポートに目を奪われた。細野が右肘をグイと引くと、女性たちが倒れるシークエンスが面白い。前回の『ジゼル』で細野は情感あふれるヒラリオンを演じた。踊りの美しさのみならず、ドラマを作れる貴重な男性ダンサー。

大岩作品はヴァイオリンとパーカッションの生演奏で。一人の女性が病に倒れるが、快復し、皆で少女のように音楽に乗って走り回る。パーカッショニストが遅れたため、大岩が担当していたが、その音に魅了された。振付家は打てるものなのか。もちろん振付家が最も音楽を把握しているに決まっているのだが。ずっと聴いていたかった。以前埼玉の公演で、ヴァイオリンの生演奏にダンサーたちが緩急をつけたバレエのアンシェヌマンを実行し、異化的空間を作り出すというコンセプチュアルな大岩作品を見たことがある。その後、バレエ協会の公演では、ヴァイオリンにブラジル・パーカッションを加えた生演奏(今回と似た組み合わせ)で、ダンサー達が音楽に乗って踊る作品を見た。ヴァイオリニストはいずれも梅原真希子さん。ずっと以前の埼玉では、『牧神の午後』の音楽で女性が爬虫類のように動く、やはりコンセプチュアルな作品を見たことがある。こうやって見ると、流れとしてはコンセプチュアルから、音楽を謳歌する方向にあるような気がする。

青木作品は、舞踏の影響を受けた日本のコンテンポラリー作品を思い出した(山崎広太とか)。踊らない、少しコンタクトがある、歩くことに重きが置かれている等。三点倒立もあり(女性が)。ライトもスタイリッシュ。シモ手で伊藤さよ子が激しく踊る。ここまで激しく踊るのは初めてのような気がする。青木本人がデュオで見せるユーモアは、一瞬だけ。Noism以前、Noism時代、Noism以後と、洗練されていったダンサー青木。振付家としては、Noism以前に根っこがあったのか。 ダンサー達は中原のバレエ美、大岩の野性味、青木の日本風を、完全に踊り分けている。スタジオの教育力に驚くと共に、クリエイションの場としてのスタジオの可能性を見た気がした。(6/10)

 

★[ダンス]  新国立劇場「ダンス・アーカイヴ in Japan」

標記公演を見た(6月7、8日 新国立劇場中劇場)。制作協力は現代舞踊協会。面白かった。『日本の太鼓』(振付:江口隆哉)を除いて、現在のダンスとして見ることができる。ダンサーがそのように踊っているからだろう。

最も面白かったのは、小森敏振付の『タンゴ』。藤井利子が振り移しをし、柳下規夫が踊った。イサーク・アルベニスの『Tango in D』に乗って、白髪の柳下が踊る。登場した時点で、既に只者ではなかったが、斜め前方へステップを踏んだ途端に、柳下の世界となった。音楽は思い出せるのに、振付は思い出せない。ただひたすら、その飄々とした動きを注視するのみだった。小森振付の特徴は分からないまま。それでもいいと思わせる喜びがあった。

もう一つは平山素子と柳本雅寛振付の『春の祭典』。ストラヴィンスキー自身が編曲した二台のピアノ版の生演奏が素晴らしい(土田英介、篠田昌伸)。二人だけで踊るため、ピアノ演奏のみを聴く場面が出てくるが、今回は幸福だった。平山は体力的にきつそうに見えたが、いささかも手を緩めない。パートナーは大貫勇輔に変わり、アクロバティック(H・アール・カオス的、マクミラン的)なデュオが変質した。柳本は包容力があるので、平山は姫になれたが、大貫は容赦のない男。自らも輝き、相手を挑発するので、対等のデュオになった。作品の可能性が広がった感じ。ただ、誰がこれを踊れるだろうか。新国立の奥田花純くらいしか、思い浮かばない。昨年の『ボレロ』を見て、平山の見方が分かった気が。音楽的にとんでもなく細かいところが、ビントレーと共通するのだろう。(6/12)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『パゴダの王子』

新国立劇場バレエ団がビントレー版『パゴダの王子』を再演した。4年間務めたビントレー芸術監督の最終演目である。自身が才能を見出し育てたダンサー達が、総出で花道を飾った。初演は東日本大震災の8ヶ月後、2011年11月。離散した家族が数々の試練を乗り越えて再会し、国が健康を取り戻すというプロットは、バレエ団と共に震災を経験したビントレー監督の“祈り”だった。直接間接に被災した観客の心を慰め、勇気づける、劇場本来の役割を敢然と担った作品である。

今回は1月のBRB初演を経て、新国立オリジナルの優れたレパートリーとして立ち現れた。自然と深く結びついたブリテンの神秘的なバレエ音楽国芳、モリス、ビアズリーを引用したレイ・スミスの繊細な切り紙細工装置と美しい渦巻きチュチュ、沢田祐二のシックな照明、そしてビントレーの知的で深い音楽理解に基づく自在な振付と、ドラマトゥルギーに則った的確な演出が、21世紀の古典全幕を創り出した。

緩やかな袴姿でのトゥール・アン・レール、男女が互い違いのグラン・バットマンで奥に向かうフィナーレは、日本産バレエの象徴。幕開けの甕棺葬、子役を使った情緒あふれる昔語り、杖術での戦いが、観客の日常とバレエを違和感なく結びつける。ビントレーの日本への熱いオマージュが、バレエ団の貴重な財産を生み出した。

さくら姫、王子、皇后エピーヌの主役キャストは3組。そのいずれもが持ち味を発揮し、作品の多面的な可能性を明らかにしている。初日と最終日を飾った小野絢子、福岡雄大、湯川麻美子は、クリーンな技術を誇るファンタジー組。小野の可愛らしいユーモア、福岡の輝かしい若武者ソロ、湯川の怖ろしい突き抜けた存在感が、作品本来のお伽噺の味わいを醸し出す。終幕の美しい兄妹パ・ド・ドゥは、ビントレーが育てた稀有なパートナーシップの出発点だった。

二日目と三日目夜の米沢唯、菅野英男、本島美和は重厚なドラマ組。役柄の拠って来る所を考え抜き、そこに自らの実存を反映させる。米沢の視野の広い緻密な演技、妹への愛情を全身で表現するサラマンダー菅野のその場を生きる力、継子を憎まざるを得ない苦悩を滲ませる、本島の複雑な演技。この作品が『眠れる森の美女』の変奏であることを思い出させた。

三日目昼の奥田花純、奥村康祐、長田佳世は踊る喜びを感じさせるダンス組。共にパトスが強く、踊りの熱量が加算されて目眩くフィナーレに突入する。奥田の神経が行き届いた踊り、サポートに課題を残すが奥村の若々しい踊り、長田のダイナミズムが、三者初役の舞台を成功させた。

皇帝の山本隆之はノーブルで力強く、トレウバエフは誠実で少しコミカル。老いのペーソスを出すにはまだ体が若いが、持ち味を十全に発揮した。舞台の核となる道化には、暖かく思いやりのある福田圭吾と、シンデレラの義姉で達者な所を見せた髙橋一輝。前任者吉本泰久の献身性は福田、芸を見せるやり方は髙橋が受け継いでいる。

例によって女性アンサンブルが美しい。大和雅美率いる「星」、寺田亜沙子、堀口純率いる「泡」、「炎」の4人等、見応えがあった。男性陣はソリストを含め、どこか空ろな様子(二日目、最終日未見)。フィナーレは男女揃って躍動感あふれる踊りで、華やかに幕を閉じた。

芸術監督デヴィッド・ビントレーの功績は、第一に『パゴダの王子』というバレエ団オリジナル作品を創ったこと、さらにバレエ・リュス、バランシン、サープ作品、自作を組み合わせて、高度に批評的なトリプル・ビルを打ち出したこと、またダンサー個々の才能を育てることで、バレエ団を有機的な集団に変えたこと、そして団員の創作発表の場を作ったことにある。文学、音楽に造詣が深く、ダンサーと観客への愛情に満ち、劇場の社会的責務を可能な限り実践した、優れた芸術監督だった。

指揮はビントレー監督と共に劇場に尽くしたポール・マーフィー、演奏は東京フィル。三浦章宏のヴァイオリン・ソロが心に沁みた。(6月12日、14日昼夜 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2931(H26.7.11号)初出(7/10)

 

★[ダンス]  フィリップ・ドゥクフレ『パノラマ』とコンドルズ

標記公演を見た(6月13日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)。『パノラマ』はこれまでの自作を再構成した作品。サーカスのような銀のアーチが二本、両袖には楽屋の化粧台が見える。変てこな行進や、強力ゴム(ロープ?)で吊られた男女の空中デュエットなど懐かしい。道化マチュー・パンシナのシルエット芸(手で動物を作る)を見ながら、そして変なコンタクトを見ながら、5月24日に同じ劇場で見たコンドルズを思わずにはいられなかった。 開演前、劇場のギャラリーでドゥクフレのカンパニーとコンドルズの同時写真展を見て、乗越たかおの両者を繋ぐ文章を読んだから、ではなく、劇場体験として。『パノラマ』がコント集のような構成なので、余計似ていると思ったのだろう。違う点は、コンドルズの『ひまわリ』がこの劇場に来る人のために創られたオリジナルであること。以前、新国立劇場オペラ部門の芸術監督だったトーマス・ノヴォラツスキーが、「このプロダクション(何か忘れた)は、新国立劇場に足を運ぶ皆さんのために創られたのです」と必死に強調していたのを思い出した。つまり来日公演を喜ぶ日本人の傾向を、何とか変えようとしていたのだ。

同じポエジーでも、ドゥクフレがフランス的な(?)エスプリの披露に終始するのに対し、近藤良平には常にペーソスを帯びた感情の拡がりがある。ドゥクフレの身体分割がバレエを基本とし、近藤はあらゆる体がOK、という図式と関係があるような気がする。(6/15)

 

★[バレエ]  牧阿佐美バレヱ団『ドン・キホーテ

牧阿佐美バレヱ団がプリセツキー版『ドン・キホーテ』を上演した。バレエ団初演は89年、代々のプリマが踊り継ぐ、練り上げられたレパートリーである。古風な趣を湛えているのが、幕ごとのレヴェランス。幕前でマタドール達が並んで見得を切るなか、登場人物たちが次々とレヴェランスをする。ジプシー達も同様、森の妖精たちは幕を上げてのご挨拶だった。客席との交感が増大し、劇場の持つ祝祭性をさらに高める効果がある。一幕のジプシー子役(もう少し芝居を入れて欲しいが)の活躍も19世紀の名残。子役の参加で舞台に「世界」が現出した。

主役はWキャスト。初日のキトリは日高有梨、バジルは菊地研、二日目は青山季可と清瀧千晴、その二日目を見た。爽やかな風が吹き渡るような『ドン・キホーテ』。青山のプリマとしての責任感、周囲を祝福する笑顔、困難に挑む勇気が、一挙手一投足、場面ごとに輝きを与えている。役解釈はさりげなく実行。難技を春風のようにすっきりと、音楽とたゆたうように収める。ふとした仕草にも気品が漂い、古典ダンサーとして円熟期を迎えているのが理解された。

対する清瀧はもはや若手とは言えない年齢。明るい性格と伸びやかなグラン・ジュテで舞台を活気づけるが、踊りに磨きをかける時期に入っている。自らの並外れた才能を開花させる義務が、清瀧にはある。

街の踊り子には、音楽的で美貌とプライドのある伊藤友季子、迎えるエスパーダには適役の中家正博。今回は初役時よりも野性味が減り、持ち味の躍動感が抑えられている。ワガノワ仕込みの大きな踊りを維持して欲しい。

森の女王 久保茉莉恵の周囲を自然な息吹で包み込む大きさ、酒場の踊り子 田中祐子の臈長けた美しさ、ジプシーの女 吉岡まな美のパトスに満ちた踊り、キトリの友人 米澤真弓の手堅さ、織山万梨子の艶っぽさ、町の女たち 茂田絵美子の正確なポジションの美しい踊りが印象深い。

ドン・キホーテは保坂アントン慶、ガマーシュは逸見智彦、キトリの父は森田健太郎。森田と逸見はドン・キホーテ、保坂はガマーシュとキトリ父も配役可の、贅沢な立ち役組である。森田の熱血父が舞台を席捲した。サンチョ・パンサは高々と投げ上げられる上原大也が担当。またジプシーの首領とファンダンゴのラグワスレン・オトゴンニャムが、マイムの鮮やかさとラインの美しさで一際目を惹いた。

男女アンサンブルは音楽性と抑制的なスタイルで統一されている。演奏は、アレクセイ・バクラン指揮、東京ニューシティ管弦楽団。(6月15日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2932(H26.8.1/11号)初出 (8/3)

 

★[ダンス]  Noism『カルメン』新制作

標記公演を見た(6月20日 KAAT神奈川県芸術劇場)。この劇場は客席の傾斜がきつく、前に迫り出す感じ。客席出口も迷路のようで、劇場自体がぎゅっと詰まった印象がある。Noismの覇気、熱気と見合っている気がする。

カルメン』はメリメ原作、ビゼーのオペラ台本から、演出・振付の金森穣が独自の台本を作った。原作の学者を外枠に、カルメン、ホセ、ミカエラ、マヌエリータ、リュカス、ロンガ、ドロッテ、フラスキータ、メルセデス、ガルシア等が入り乱れる。ホセと同郷の男ロンガ(原作)が、傷心のミカエラ(オペラ台本)を慰める場面は金森版でしか見られない。謎の老婆が、学者と物語の中を繋ぐ点も。学者はSPACの専属俳優、奥野晃士が担当し、鈴木メソッド(だと思うが)の発声で原作を語る。途中講談風にも。語りの時には、白幕に映されたシルエット劇で筋を分かりやすく見せる。外枠を作ることは以前もやっていたが、物語を語るのは初めてかもしれない。身体性のある発話なので、ダンサーと拮抗し、単なる解説者で終わってはいないが。最後は白マントをかぶって老婆の振りをしたカルメンに、猛スピードで小説を書かされていた。物語中の高密度の振付を考えると、発話者のいない方がすっぱりときれいな舞踊作品になると思う。が、きれいにしたくはないのだろう。

演出はこれまでやってきたことを出し尽くしている。以前は演出そのものが目的化している場合があり、未消化に思えることもあったが、今回は物語と全て直結している。円熟味を感じさせた。振付は圧倒的。コンテンポラリーでこれほど感情の乗った鮮烈なソロ、パ・ド・ドゥを、誰が作れるだろう。カルメン、ホセ、ミカエラ、リュカスのソロ、カルメンとホセ、ミカエラとホセのパ・ド・ドゥは、コンサート・ピースにできる仕上がり。それが一つの作品で幾つも見られるのだ。ホセがガルシアを殺した後の、カルメンとの花のパ・ド・ドゥは、井関佐和子と中川賢という役そのままのダンサーを得て、鬼気迫る愛と戦いのパ・ド・ドゥとなった。最後に、黄色い小さな発泡スチロールのミモザが天から降り注ぐ。腐れ縁のどうしようもない愛、切るに切れない関係のクライマックス。ホセに刺される寸前、井関カルメンは黒髪のヘアーを脱ぎ捨てる。ホセにすべてを捧げたのだろうか。そこで終わるはずもない金森版。井関は学者に小説を書かせ、中央に集まる人々に向かい、振り向いて葉巻の煙をフッと吐くのである。

井関のパフォーマンスについては言うことがない。足指を開いてどしどし歩く。蹲踞して退く。豹のようにしなやかで獰猛な四つん這い。中川と四つん這いで始めるパ・ド・ドゥ! カルメンの精髄。マッツ・エックのカルメンが鈍く見える。これほど四肢の隅々まで肉体が分割され、しかもエネルギーが常駐しているダンサーを見たことがない。サポーターズの会報の対談で、「(井関さんは)金森さんの言うことは何でも受け入れるという、一番ミカエラ的な存在であるというイメージがありますが。」という相手の言葉に、金森は「大きな間違いです! なんなら俺がホセですから(笑)」。

金森はプログラムのインタヴューで興味深い裏話を披露している。NDT2からリヨン・オペラ座・バレエ団に移籍した時、丁度エックの『カルメン』をやることになっていた。初演のホセはアジア人だったので、NDT2の先輩たちは「お前がホセをやるよ」と言い、自分もその気になっていたが、エックからは同時上演の『Solo for Two』を踊ってほしい、自分にとって重要な作品なんだ、と言われたという話。驚いた。以前リヨンの来日公演でこの作品を見て、西洋人(北欧人?)のこの深い孤独は、日本人には踊れないと、どこかで書いたので。踊っていたのだ、金森が。そして賞も貰っていたのだ(何の賞だろう)。井関との『Solo for Two』を見てみたい! でもエックを踊らなくても、自分で作れる。ミモザのパ・ド・ドゥをどこかのガラで見せてほしい。 [追記]金森が『Solo for Two』を踊って貰った賞は「K de Lyon」(高橋森彦氏のご助言で判明)。(6/21)

 

★[バレエ]  バレエシャンブルウエスト「トリプル・ビル」

バレエシャンブルウエスト第72回定期公演は、シンフォニック・バレエ、コンテンポラリー・ダンス、物語バレエを組み合わせたトリプル・ビル。異なる3ジャンルを、団員達がいかに踊り分けるかに注目が集まる。

幕開けの『バレエインペリアル』は、ロッシーニの『セミラーミデ』序曲に振り付けられたクラシカルな作品(振付・今村博明、川口ゆり子)。橋本尚美と正木亮を中心に、4組の男女と女性アンサンブルが晴れやかな舞を繰り広げる。ロッシーニ特有の急きたてるようなクレシェンドや、驚愕のフォルテから、今村好みのアレグロ等が見られるかと思ったが、クラシックの様式性を重視する、ゆったりとした振付だった。この場合、プリマの位置にある橋本は、かつてキトリで見せた抑えた統率力で、さらに場を引き締める必要があっただろう。若手にバレエ団のスタイル徹底を図るための、規範的な作品と言える。

舩木城振付の『カウンターハートビーツ』は世界初演。舩木は4月にも他団で新作を発表したばかりである。今回はミニマルな曲を使った、よりスタイリッシュな作品。斜線ライトを多用し、赤ライトを瞬時入れる等、工夫を凝らした照明空間である。ダンサーは女性5人、男性4人。クールなフォーメイションが音楽に沿って展開され、途中、松村里沙とジョン・ヘンリー・リードの濃密なパ・ド・ドゥが見所を作る。終盤は、ダンサー達が「死」、「孤独」、「病」、「怒り」等と発語しながら歩き回り、過呼吸の振りも。リードが松村にキスをした途端、上から黒幕が塊で落ちる。思う存分振り付けたエネルギッシュな作品だが、前作に続き、病的な場面がやや唐突に思われる。果たして舩木本来の個性や資質と合致するものだろうか。

最後はバレエ団の重要なレパートリー、『フェアリーテイルズ』。アイルランドの老画家が息子夫婦と孫達に、若き日の想い出―森で出会った沢の精に、生きる力を与えられた―を語る、3景から成る妖精物語である。民俗音楽、ドビュッシープロコフィエフのエコーを含む石島正博の雄弁なバレエ音楽、古典の形式を取り入れた今村・川口の音楽的な振付、スケールの大きいオークネフの美術が、格調高い物語バレエを形成する。

画家の母に似た沢の精には川口。登場するだけで空気がみずみずしくなる。アクロバティックなリフトも回避しないので、途中ヒヤリとする場面もあったが、その透明な佇まい、無垢なラインは、川口にしか出せない代替不能な個性である。ベテランとなった二人の教え子、画家の逸見智彦と、心の陰の吉本泰久とのトロワは、逸見の大きさ、吉本の献身が川口を支え、心にしみる場面となった。逸見のノーブルなマイム、吉本の鋭い踊りも素晴らしい。

妖精たちも実力派揃い。土方一生の音楽性、吉本真由美の愛らしさが印象深い。画家の孫達、川口まりと松村凌の行儀のよい踊りはバレエ団のスタイルの象徴。全体の仕上がりも良く、バレエ団を支えるレパートリーであることが確認された。

末廣誠指揮、東京ニューシティ管弦楽団演奏のロッシーニと石島は、メリハリがあり情感豊か。音楽を聴く喜びがあった。(6月22日 オリンパスホール八王子) *『音楽舞踊新聞』No.2932(H26.8.1/11号)初出(8/3)

 

★[バレエ]  Kバレエカンパニー『ロミオとジュリエット

Kバレエカンパニーが創立15周年記念の一環として、熊川版『ロミオとジュリエット』全二幕(09年)を上演した。音楽はプロコフィエフである。熊川版の特徴は、やはり男性ダンサーの踊りが多いこと。ロミオ、マキューシオはもちろん、ベンヴォーリオ、パリス、ティボルトも踊って、自らの心情や感情を吐露する。振付は高難度。二幕のマンドリンダンスもソリスト級が技を競う。

プロット面では、ジュリエットの従姉ロザラインが準主役に格上げされている。朝早くから(夜遅くまで?)友達を引き連れて街中を歩いたり、町の娘と取っ組み合いの喧嘩をしたり、敵方モンタギュー家の若者(ロミオ、ベンヴォーリオ)と戯れたり、親戚のティボルトと同士のような愛情で結ばれたり、全てが姐御肌。振付も男勝りのステップが与えられる。その結果、ジュリエットはより淑やかに、キャピュレット夫人は貞淑な妻で愛情深い母として描かれることになった。ここに、振付家熊川哲也のこだわりがあったのかも知れない。

上演3回目を迎えて、ドラマの推移は自然になり、主役から脇役に至るまで演技が練り上げられている。英国ロイヤル・バレエで主役を歴任したスチュアート・キャシディ副芸術監督のサポートは大きい。主役は4組、その内の神戸里奈、池本祥真組を見た。

神戸はドラマティックと言うよりもリリカル。ラインは慎ましく、終始抑制された動きで淑やかさを醸し出す。もう少し感情を出してもよいと思われるが、薬を飲む前の演技には緊迫感があり、演出に沿って計算された役作りなのだろう。対する池本は若々しさを前面に出した自然な役作り。よく開いた美しいアラベスクが、ロミオの感情を雄弁に物語る。横軸回転してアラベスクで立つ難技遂行の鮮やかさ。佇まいにも芯が通っている。ソロルと共にはまり役と言える。

マキューシオは酒匂麗、ティボルトはニコライ・ヴィュウジャーニン、ベンヴォーリオは益子倭、ロザラインは白石あゆ美、パリスは川村海生命が、全力で勤め上げた。キャピュレット卿のキャシディは華やかでノーブル、夫人の酒井麻子はゴージャスで感情豊か。キャピュレット家の若者 杉野慧、ヴェローナの娘 井上とも美、ジュリエットの友人 佐々部佳代の演技と踊りが一際目を惹いた。アンサンブルは技術的にレベルが高く、音楽的にも統一されている。

福田一雄指揮、シアターオーケストラトーキョーが、熱くドラマティックな音楽で舞台を支えている。(6月28日 オーチャードホール) *『音楽舞踊新聞』No.2932(H26.8.1/11号)初出(8/3)

 

★[バレエ]  石神井バレエ・アカデミー「バレエ・ラビリンス」

石神井バレエ・アカデミーが一昨年に続き、「バレエ・ラビリンス」を上演した(練馬区文化振興協会舞台芸術支援事業)。今回は、第一部が「バレエの始まりから今日まで」、第二部が『眠れる森の美女』第3幕という構成。演出・振付はアカデミーの山崎敬子、バロックダンス振付は、アカデミー講師の市瀬陽子が担当した。バレエの歴史を踊りで辿る、啓蒙色豊かな企画である。

第一部幕開けは、リュリ曲「アポロンのアントレ」(振付・フイエ)。村山亮が優雅な上体と鮮やかな脚技で、バロックダンスのスタイルを体現した。フレックスでの素早いプティ・バットマン、ロン・ド・ジャンブして半回転するなど、脚の美しい軌跡に目が奪われる。続く2作もバロックダンス。ルベル曲、市瀬振付の「ダンスさまざま」は、現代のダンサー達とルイ14世時代の貴婦人達が交錯し、同じ振付を踊る面白い趣向。レオタードでのバロックダンスが新鮮だった。市瀬自身の踊る「スペインのフォリアによる即興演奏」では、バロックギター竹内太郎の情熱的な演奏で、フイエとペクールの振付が現代に蘇る。後半ではカスタネットを使用、奔放なスペイン舞踊だった。

続いてはロマンティック・バレエの時代。「アレグレット」(クラウス曲)では、ロマンティック・チュチュの女性9人が、バレエシューズで『パ・ド・カトル』風に踊る。さらにルコック曲の「ワルツ」では、青木淳一、細野生、土橋冬夢が、ペローのように軽やかに跳躍、細かい足捌きを披露した。ロマンティック・バレエの重要な遺産であるブルノンヴィル版『ラ・シルフィード』は、その独特の音取りが舞踊の快楽を強く喚起する傑作。山口麗子と坂爪智来が二幕パ・ド・ドゥを踊った。坂爪はロマンティックな演技と優れたパートナーぶりが際立つジェームズ。本家でも省略されがちな両回転のトゥール・アン・レールを実行した(先行の男性3人組も同じく)。

続いてはクラシック・バレエの技法を使った20世紀の作品。タリオーニ版『ラ・シルフィード』を改訂上演したグゾウスキー自身の作品『グラン・パ・クラシック』。超絶技巧とシックな味わいを特徴とする。厚木彩の鮮明なパと、石田亮一の爽やかさが印象深い。最後にモダンダンスの技法を取り入れたモダン・バレエ「For you」。『眠れる森の美女』プロローグの妖精たちの踊りをモダンの語彙に変換する。振付家の個性を見せるのではなく、スタイルの変遷を示す創作アプローチだった。

第二部は吉田都と齊藤拓を主役に迎えての『眠れる森の美女』第三幕。王(村山)と王妃(南雲久美)が口火を切る本格的なサラバンドを幕開けに、ディヴェルティスマン、パ・ド・ドゥ、フィナーレ、アポテオーズと続く。吉田のオーロラ姫は英国ロイヤル・バレエ仕込み。輝かしい存在感、力みのない自然な踊り、パの鋭い切れ味。それでいて重厚さを感じさせるのは、振付の歴史的な蓄積によるものだろう。対する齊藤は、吉田を美しく支える王子。ノーブルなソロで気品のあるデジレ像を造型した。

フロリナ王女、西田佑子の行き届いた踊り、リラの精、厚木の胆力、宝石の精、細野の音楽性、青い鳥、上原大也のバットリー(最後のアントルシャは原曲のまま長い)など、主役を含めたゲスト陣が持ち味を十全に発揮して、古典バレエの空間を舞台に現出させた。

バロックダンスに始まるバレエのスタイルの変遷を、実際に踊り(振付)の形で確認することができた貴重な公演。福田一雄のバレエへの愛情に満ちた熱い指揮が、舞台を大きく支えている。演奏は東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団。(7月5日 練馬文化センター大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2934(H26.9.11号)初出(9/13)

 

★[バレエ]  東京シティ・バレエ団『ロミオとジュリエット

東京シティ・バレエ団が江東区との芸術提携20周年を記念して、オリジナル版『ロミオとジュリエット』全二幕を上演した。初日がバレエ団、二日目が江東区文化コミュニティ財団ティアラこうとうの主催である。同版の初演は09年、今回が三度目に当たる。構成・演出・振付は中島伸欣、アンサンブル振付は石井清子。両者の長所である文学性と音楽性を巧みに組み合わせ、独自の版を作り上げている。

最大の特徴は大公のテーマを前面に出し、運命の女達をプロットに深く関与させて(二幕)、死の匂いを舞台に充満させたことだろう。一幕はティボルトの死まで。「マスク」は省略、「バルコニー」と「広場」を繋げて、リアルな時間感覚を反映させている。

ロミオの登場が舞踏会直前なのは、他版にない遅さだが、両家の争いからロミオが外れている点を強調したかったのだろう。終幕、二人の亡骸を包むように広がる銀幕に、かつてのH・アール・カオスの美意識が思い出された。

中島の二つのパ・ド・ドゥは秀逸だった。セリフが聞こえてくる。「バルコニー」ではジュリエットにキスされたロミオがでんぐり返る。「寝室」では床を使った動きで、苦悩の深さを表す。その一つ一つが中島の身体から生み出された、内的必然性を帯びた動きだった。一方、ジプシーの女達を筆頭に、石井振付のキャラクターダンスが舞台を盛り上げる。二人の振付家の性向が時に舞台を二分することもあるが、今回は物語の枠内で収まって共作の効果を上げていた。

ロミオとジュリエットはWキャスト。初日は黄凱と志賀育恵、二日目は共に初役の石黒善大と中森理恵。その二日目を見た。石黒のロミオは暖かみのある存在感と、優れたパートナーぶりが特徴。常に相手に反応する懐の柔らかさは、主役として貴重な資質と言える。対する中森は長い手脚で、肝の据わったジュリエットを造型。無垢な少女らしさは少し難しそうだったが、恋に落ちてからは役が腹に入り、悲劇を十全に生きた。中島のジュリエット像が見えた気がする。

マキューシオの高井将伍は動きの切れも良く、皮肉屋で知的な面を強調した造り、対するティボルトの李悦は、鋭さと重厚さを兼ね備えている。キャピュレットの青田しげる、夫人の岡博美、パリスの春野雅彦、ヴェローナ大公の佐藤雄基と演技巧者が揃い、演劇性の高い舞台を構築した。例によって土肥靖子を始めとするジプシー達、若林美和率いる運命の女達が、濃厚な踊りを見せる。岸本亜生アルレッキーノとコロンビーヌ達の溌剌とした踊りも見応えがあった。

福田一雄編曲版を、井田勝大が端正に指揮。演奏は、バレエ団と同じく芸術提携団体の東京シティ・フィルが担当した。(7月13日 ティアラこうとう大ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2937(H26.11.11号)初出(10/31)

 

★[ダンス]  長谷川六パフォーマンス『素数に向かうM』『透明を射る矢M』

六本木ストライプハウスでの「TOKYO SCENE 2014」の一環。米人報道写真家トーリン・ボイドの日本風景をバックに飾ったパフォーマンス企画である(企画・制作:PAS東京ダンス機構、後援:ストライプハウス、助成:PAS基金)。『素数に向かうM』(7月16日昼)は、深谷正子の構成・振付で長谷川がソロを踊る。『透明を射る矢M』(7月18日)はヒロシマをテーマにした連作で、上野憲治とのダブル・ソロ。両作ともストライプハウスの中地下ギャラリーで行われた。芋洗坂に面した幅広い窓から、昼間は陽光が、夜は街灯が降り注ぐ。道行く人の顔も。(もう一作『そこからなにか』というソロ作品もあったが、見ることができなかった。)

素数』は深谷の構成が入ったかっちりした作品。外光が入るので弛緩するかと思ったが、もちろん長谷川の身体は外部条件とは無関係にそこに存在する。4つの背の高いティーテーブルの上に、折り畳み式鏡が横向きに置かれている。長谷川も鏡を持って登場。両手で鏡をまさぐりながら佇む。左手首にはいつものように時計。両脇に袋状のポケットが着いた黒い麻のワンピース。脹脛と足が見える。その足に惹きつけられた。右足には土踏まずあり。左足は外反母趾で土踏まずが中にめり込んでいる。その不具合は個性を突き抜けて、絶対的フォルムにまで昇華している。左右の足が生み出す密やかなステップ―太極拳の弓歩のような柔らかさ―を凝視してしまった。

途中、両脚を肩幅に立ち、両手で胸を押さえ、次に頭を押さえ、顔の前で両肘下腕をくっつけ、そうして両肘を脇に引きつけてから、思い切り息(気)を飛ばすシークエンスが繰り返された。「ハッ」。その度に長谷川の気がギャラリーに充満し、愉快な気分に。深谷の振付とのことだが、長谷川の武術に馴染んだ体が生かされていた。最後はエラ・フィッツジェラルドの弾力のある歌に合わせて、体を揺らす。観客席のみやたいちたろう君(1歳)に手を振りながら、機嫌よく終わった。剣道(?)、モダンダンス、能、舞踏、オイリュトミー、太極拳、バレエ他が混淆された肉体。その運用を見るだけで喜びを感じる。

『透明』の方は、今回『夏の花』(原民喜)を読む場面がなかった。バッハ、忌野清志郎、ビリー・ホリディを長谷川がCDで流す。上野とは絡まず、それぞれがヒロシマを思いながら動きを見出していく(泳ぐ動きは共通していた)。上野は分節化された肉体ではないが、生の、豪華な存在感がある。少し長谷川を見過ぎていたのが残念。長谷川があまり既製のダンサーと組まないのは、生の味が欲しいからだろうか。 長谷川の演出は、作品と言うよりも「場」を作ったという印象。そのため、地下で行われる次の公演の観客が、窓を覗きながら建物に入ってくるのが、よく見えた。全体に小ぎれいな女性が多い。うなじの美しい女性が窓の向こうで人待ちしているのと、直下で行われているパフォーマンスを同時に見ることになる。舞踊評論家 山野博大氏も通行人の中に。外に開かれたギャラリー公演ならではの面白さだった。(7/16)

 

★[バレエ]  「アリーナ・コジョカル ドリーム・プロジェクト2014」Aプロ

標記公演を見た(7月22日 ゆうぽうとホール)。Bプロは見ず。 前回はコボー主導でデンマーク色が強かったが、今回はいつものNBS公演だった。マクレーの超絶技巧、吉田都の自在、ムンタギロフの優美など、ちょこちょこ感想はある。が、何よりもコジョカルの特異さに改めて驚かされた。何を踊ってもコジョカル。そういうダンサーはこれまでもいた。いわゆるスター。しかし、コジョカルの場合は、不完全、未完成を物ともせず、踊りたいように踊る。踊ることへの衝迫が尋常ではない。以前、「私はリハーサルから100%で踊るので、相手が疲れてしまう」みたいなことをどこかのインタヴューで言っていた。あのポアント音の高さ。普通は音を立てないようにコントロールすると思う。何百回と注意されたことだろう。特にロイヤルでは事細かに言われたのではないか。

コボーがサポートした『白鳥の湖』の第二幕が、最もコジョカル的だった。古典の動きが、今生まれたように踊られる。その生成感の強さ。もちろん規範からは外れている。しかし、その規範も歴史的なもので、絶対的ではない。踊りへの衝迫なくして、何がバレエだろうか。日本では志賀育恵がそのように踊ってきた(ポアント音はしないが)。(7/28)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『しらゆき姫』

新国立劇場バレエ団がこどものためのバレエ劇場として、『しらゆき姫』(09年)を上演した。これまでの中劇場からオペラパレスに場を移し、レヴェルアップしての再々演である。構成・演出は三輪えり花、音楽構成は福田一雄、振付は小倉佐知子、監修は牧阿佐美による。

三輪の構成・演出はディズニー映画に準拠しながらも、しらゆき姫の清い心を強調し、子供達への教訓をラブ・ロマンスの中に潜ませている。結末も継母が改心し、母娘がダブル・アダージョを踊るバレエらしい大団円に変更した。子供のためとあってナレーションも多いが、舞踊の見所は全く損なわれていない。かわいいキノコのお家や狼男(?)の衣裳が魅力的な石井みつるの美術、子供達の心を水先案内する杉浦弘行の照明、四方から音の聞こえる渡邊邦男の音響も加わり、オペラパレスに深いドイツの森が出現した。

何よりもバレエを熟知した福田の音楽構成が素晴らしい。ヨハン・シュトラウス2世の『騎士パスマン』と『シンデレラ』からの選曲。シュトラウスらしい晴れやかなワルツ、マズルカポルカギャロップが、物語の流れに沿って、または裏切って、巧みに構成されている。陰惨になりがちなお妃の悪巧みもコミカルに処理されて、終始心浮き立つシュトラウス・バレエの、プティ版『こうもり』に続くレパートリー化である。

小倉の振付は、難度の高いクラシック、華やかなキャラクターダンス、床を使うモダンダンスが、登場人物に応じて、適切に振り分けられている。特にしらゆき姫の古典的なソロ、お妃の濃厚なソロは魅力的だった。

キャストは主役のしらゆき姫に小野絢子、米沢唯、長田佳世、細田千晶。王子はそれぞれ福岡雄大、林田翔平(菅野英男の故障降板により代役)、奥村康祐、林田。お妃は本島美和、堀口純、寺田亜沙子。鏡の精ミラーは小柴富久修、宝満直也。いずれの組も個性を生かし、子ども達の心に届く演技を心掛けていた。中でも本島のお妃は、演技に幅があり、作品に奥行きを与えている。

お妃のお付き、動物や小鳥を踊った女性陣のレヴェルの高さは言うまでもないが、男性若手から中堅に移ろうとしている林田の落ち着き、小柴のノーブルで妖しい存在感、森の精池田武志のダイナミックな踊り、道化高橋一輝の視野の広い演技は、来季の古典作品を支える大きな戦力になる。

来季幕開け『眠れる森の美女』の前哨戦のような公演。4年間ビントレー作品に鍛えられたおかげで、ダンサー達は演技、踊り共に掌中に収めて、公演のレヴェルアップに大きく貢献した。(7月25日朝昼、26日朝昼 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2933(H26.9.1号)初出(9/3)

 

★[バレエ]  日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」

日本バレエ協会平成26年度「全国合同バレエの夕べ」を二日にわたり開催した。文化庁「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」の一環である。今年も9支部、1地区が12作品を出品し、本部恒例の『卒業舞踏会』が両日上演された。この企画は新進の振付家及びダンサーの育成を主眼とするが、同時に日本各地の創作家の現在を確認できる利点がある。創作物は8作、若手からベテランまで創意に富んだ作品が並んだ。

ベテラン・中堅作家の内、九州勢が対照的な作品を上演した。伊藤愛(いとし)の『MASQUERADE』(九州北支部)と、日高千代子の『夕鶴 悲恋に染まる紅の空』(九州南支部)である。前者はハチャトリアンの曲で、仮面を小道具にヨーロッパの瀟洒な雰囲気を醸し出す。ダンサーの出入り、フォーメイションの複雑さに伊藤の優れた音楽性が窺われた。一方後者は、琴、笛、ピアノによる邦楽を用いて、「鶴の恩返し」をバレエ・ブランに昇華させる。勝田零菜の美しいつう、小濱孝夫の深みのある与兵が、情感豊かな日本バレエの核となった。

中堅組の矢上恵子、篠原聖一、島崎徹は、5月に行われたPDA(関西を中心とする男性バレエダンサー集団)東京初公演と同じ振付メンバー。関西支部の矢上は、ラヴェルの『ボレロ』他を用いた『Cheminer』(進んでいく、の意)。愛弟子の福田圭吾を軸に、20人の女性がジャズダンス、モダンダンス、ブレイクダンスを混淆させた独自の振付で、エネルギッシュ且つ華やかな舞台を繰り広げた。

関東支部の篠原は、ファリャの曲でスペイン情緒満載の『スペイン舞曲』。女性群舞は時にユニゾン、時に小グループで踊らせるが、その扱いにややニヒルな感触が残る。篠原のノーブルな個性は、中尾充宏と女性2人の親密なトリオ、芳賀望のクールなソロで発揮された。

中国支部の女性36人に振り付けた島崎の『ALBUM』は、少女から大人になる過程を、F・マーティン他の音楽で描く。二つのグループが互い違いで左右に揺れるフォーメイションは、ミニマルであると同時に自然な息吹を感じさせる。振付と島崎の身体に乖離がないからだろう。若いダンサーにとって、「経験」となる作品だった。

若手作家では、坂本登喜彦、岩上純、石井竜一が個性を競った。東京地区の坂本作品『Route Passionate...』は、M・ドアティのシンフォニック・ジャズ風現代音楽と、宇宙や自然を無機的な色調で描いた立石勇人の映像とのコラボ作品。映像も現代的な振付(ポアント使用)も音楽を色濃く反映している。長尺のため、途中単調になる所もあったが、坂本のダンサーへの愛情、スタイリッシュな美意識が強く感じられた。

同じく東京地区の岩上作品『FANATIQUE』は、ドヴォルザークのスラブ舞曲を用いたクラシック作品。振付家の陽気な音楽性が炸裂する。永橋あゆみと浅田良和のアダージョは美しく、男性4人の超絶技巧は鮮やか。舞台を共同体に変える統率力がある。甲信越支部の石井作品『ヴァイオリン協奏曲』はブルッフの同名曲に付けたシンフォニック・ダンス。後藤和雄、冨川直樹に女性ソリスト3人と女性群舞が、エイリー風の語彙で踊る。大曲をそつなく舞踊化しているが、もう少し振付家の刻印を期待したい。

古典作品は4作。地域の特徴が出たのは、沖縄支部の『パキータ』(改訂振付・長崎佐世)。生き生きとした脚、明確なバットリー。一人一人が自分の人生を踊っている。主役の長崎真湖は技術を見せない澄んだ踊りだが、もう少し覇気があってもよかっただろう。同じく『パキータ』の関東支部(改訂振付・丸岡浩)は、上体を大きく使った華やかな踊りの樋口ゆりと、端正な菅野英男が中心。アンサンブルは明るく規律があり、よく揃っていた。

北陸支部は『レ・シルフィード』(改訂振付・坪田律子)。ソリスト(岩本悠里、土田明日香、石谷志織)、アンサンブル共、ロマンティック・スタイルをよく身に付けている。マズルカの法村圭緒は、絵に描いたようなダンスール・ノーブルだった。山陰支部の『コッペリア第一幕』は、『シルヴィア』の曲を加え、アシュトン版『リーズの結婚』の引用も含む変わり種(振付・中川亮)。中川リサのスワニルダ、男性陣の技術の高さが目立つ、賑やかな一幕だった。

両日トリの『卒業舞踏会』は早川惠美子指導の道場。女学院長は、繊細な女らしさが自然に滲み出る田中英幸、老将軍は茫洋とした雰囲気の長谷川健。第2ソロの寺田亜沙子、第1ソロの大場優香、鼓手の二山治雄、本来のフェッテ競争を実現した佐野基と津田佳穂里が強烈な印象を残した。指揮の福田一雄がシアターオーケストラトーキョーを引き連れて、舞台に多大なエネルギーを供給している。(7月29、31日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2933(H26.9.2号)初出(9/3)

 

★[ダンス][バレエ]  Project LUCT「Rising Sun」

東日本大震災復興支援を目的とする芸術家団体Project LUCTが、初のバレエ・ガラ「Rising Sun」を開催した。本団体は、海外在住の日本人ダンサーと音楽家から構成され、被災地と次世代ダンサー支援を組み合わせた活動を行なっている(アーティスティック・リーダーはノルトハウゼル都市同盟劇場所属の片岡直紀)。

幕開けは石川啄木の『一握の砂』を基にした創作『The handful of sand』。被災地岩手へのオマージュとして創られた。片岡の構成、ロビーナ・ステヤー、櫻井麻巳子、片岡の振付で、男女8人が踊る。ラヴェルドビュッシーショパン他のピアノ曲(演奏・横路裕子)と、岩手の風景や啄木の歌の映像、コンテンポラリー・ダンスを組み合わせた緩やかなコラボレーションである。小さな砂山に向かう啄木(片岡)のリアルな姿が、客席と舞台の架け橋となった。

第二部はガラ・コンサート。奥村彩(オランダ国立バレエ)による『瀕死の白鳥』、櫻井(ギーセン州立劇場)とステヤー(リューネブルグ州立劇場)の『死と乙女』(振付・ステヤー)、甘糟玲奈(ロシアカレリア劇場)と関祐希(スロベニア国立オペラ劇場)による『ラ・シルフィード』、佐々木七都(ニュールンベルグ州立劇場)による『Threads』(振付・シモネ・エリオット)、沼田志歩と梶谷拓郎の『BOTTOM OF THE SKY』、片岡と研究生の『Moon Shine』(振付・リタ・ドゥボスキー)、門沙也加(ニュールンベルグ州立劇場)による『Ave Maria』(振付・ゴヨ・モンテロ)、奥村と山田翔(オランダ国立バレエ)による『海賊』というプログラム。

それぞれが震災時に海外にいて感じ、考えたことを、自己表出の礎としている。他方で、日本在住では諸般の事情で難しいダンサーとしての成熟過程を、個々に見ることが出来た。クラシックでは奥村の絶対的な責任感、コンテンポラリーでは、佐々木の振付理解と細かく分節化された体の濃密な動き、門の実存を賭けたデズデモーナなど。彼らの肉体が、日本の文化的現況を照らし出している。

今回の公演には、関東への避難を余儀なくされている被災者180名が招待された。また収益金の全額(85,551円)が釜石市市民文化センター再建のために寄附される。今後は『一握の砂』を持って被災地を廻るツアーが予定されている。(8月1日 セシオン杉並) *『音楽舞踊新聞』No.2935(H26.10.1号)初出(10/5)

 

★[バレエ]  谷桃子バレエ団若手育成公演『ジゼル』

谷桃子バレエ団の若手育成公演「New Passion Wave」が二回目を迎えた。第一回は12年の『白鳥の湖』。今回はバレエ団の魂とも言うべき『ジゼル』。谷桃子版は通常よりも役の掘り下げが深く、若手にとっては大きなチャレンジである。裏方スタッフにも中堅若手を起用し、オーケストラも、指揮者河合尚市の指導する学生主体オケ(尚美学園大学)を採用。研究成果を発表する熱気あふれる公演となった。

今回の『ジゼル』は新人公演とは言え、バレエ団プリンシパルの齊藤拓が芸術監督となって、また指導陣が変わって初めての上演である。最大の変化はアンサンブル。これまではクラシカルな様式性や女性らしい淑やかさを特徴としてきたのに対し、今回の公演では、村娘は村娘のように踊っている。キャラクター重視の指導法なのだろうか。

キャストは2組。初日のジゼル植田綾乃は、大柄で伸びやかな肢体の持ち主。ラインのコントロールアダージョの見せ方はこれからだが、自然体の演技、二幕での情熱あふれる踊りに、今後の可能性を窺わせた。二日目の佐藤麻利香は主役経験もあり、期待通りの出来栄え。技術の確かさ、役どころをよくわきまえた演技は申し分ない。ただ主役デビューの『シンデレラ』に比べると、本来出せるはずのパトスが滞っている。諸事情はあると思うが、早く殻を脱して欲しい。

アルブレヒト初日の今井智也はベテランの域に入りつつある。新人の植田をよくサポートし、齊藤監督の薫陶か、ロマンティックなスタイルを以前よりも身に付けている。一方、佐藤と組んだ檜山和久は、美しいラインとクールな風貌が特徴。初役とあって、感情の表出やアダージョの見せ方に課題を残すが、強い個性を感じさせた。

ヒラリオンの安村圭太は頭脳派、須藤悠は激情派。先輩近藤徹志の腹の入りようには及ばないものの、力演だった。ミルタ初日の松平紫月ははまり役。二日目の江原明莉共々、バレエ団のミルタ造型指導は優れている。また新人公演を脇で支えたのが、クーランド大公の陳鳳景、バチルド姫の林麻衣子、男女貴族と、ベルタの日原永美子である。貴族達のゆったりとした佇まい、ベルタの愛情が主役を暖かく包み込んだ。

定期公演では主役からアンサンブルまで3キャストを組める大所帯ゆえ、こうした新人発掘の試みは貴重。チケット価格も低く設定され、バレエに馴染みのない観客導入にも成功している。(8月15、16日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2935(H26.10.1号)初出(10/5)

 

[ダンス]  池田扶美代『Cross grip × Tryout 2』

標記トライアウトを見た。ワーク・イン・プログレスのようなもの(8月16日 スタジオアーキタンツ)。

前半はライヒの曲で、ローザスでよく見た&#12317;規則正しい偶然性&#12319;の動き、中間はペルトで片脚立ち座禅を含む振付、後半はバッハでソロ、デュオ、トリオを取り混ぜる。ダンサーは池田、畦地亜耶加、木原浩太、川合ロン。

この4人の体が全部違う。池田はクラシックベースで、手を上げる動きにもラインが入る。ソロではローザス風のナルシスティックな少女性が立ち上り、来し方を思わせた。畦地は何ら技法が入っていないように見えて、実は鍛錬された体。一瞬たりとも動きがラインに乗っ取られることがない。常に自分の体。内側からの動き。日舞や舞踏を思わせた(伊藤キム笠井叡に師事)。木原は驚くべきダンサー。池田振付のあるべき形を瞬時に実現できる。同時に自分の体でもあり、今後50か60になった時、凄いことになっているかもしれない。川合はどちらかと言うと、形から入るタイプだろうか。エネルギーが外向きなのは池田と同じ。二人が大汗をかいているとき、木原、畦地は汗の気配すら感じさせない。日本のモダン=コンテンポラリー・ダンスの可能性を見たような気がする。(8/17)

 

★[バレエ]  東京小牧バレエ団『牧神の午後』他

東京小牧バレエ団が、日本・モンゴル国文化取極締結40周年記念として、『牧神の午後』、『イゴール公』、『ペトルウシュカ』を上演した。上海バレエ・リュスのソコルスキー版を小牧正英が日本に移植した、歴史的価値の高い作品群である。モンゴル人ダンサーのレヴェルの高さ、日本人若手ダンサーの活躍が目立つ公演だった。

『牧神の午後』はソコルスキー版がそのまま残されているとのこと。パリ・オペラ座版に比べると、ニンフたちの動きがおっとりして、より自然に見える。牧神を踊ったアルタンフヤグ・ドゥガラーははまり役。獣性は控え目で、植物的な伸びやかさ、特有の湿り気がある。周東早苗の貫禄十分なニンフと、闊達な戯れを見せた。

イゴール公』はロシアの伝統的演出(イワノフ版?)とフォーキン版を、両方踊った小牧が組み合わせたもの。佐々保樹の改訂振付により、高度な技術とスタイルの徹底が実現されている。中央アジアの平原やオアシス、パオを描いたドロップ、迫力ある混声合唱(東京合唱協会)も、作品のスケールアップを後押しした。 主役のフェタルマには新人の清水若菜を抜擢。動きの切れがよく、小柄な体から火のようなエネルギーが迸る。適役だった。隊長のビヤンバ・バットボルト、副隊長のガンツオジ・オトゴンビヤンバ率いる武士たちも勇壮で、よく統率されている。スラブ娘 長者完奈のしっとりした情感、ポロヴィッツィ娘 藤瀬梨菜の涼やかさ、イゴール公 原田秀彦の凛々しさが印象深い。

ペトルウシュカ』は一場、四場の「広場」を小牧が改訂し、二場、三場の「人形の部屋」はフォーキン=ソコルスキー版を踏襲したとのこと。人形を部屋に蹴りこむ、見せ物師の大きな長靴が面白い。ペトルウシュカはドゥガラー、バレリーナは金子綾、ムーア人はバットボルトという配役。3人形は現行版よりも人間味にあふれる。ペトルウシュカの嘆きも自然な感情の流れに沿ったもので、ニジンスキー神話に毒されていなかった。

「広場」の女性アンサンブルはこのバレエ団ならではの素朴な味わい。男性アンサンブルは音取りが揃わなかったが、力強い踊りだった。アクロバットの清水、街の踊り子の藤瀬が大道芸の情緒を醸し出す。見世物師のグリゴリー・バリノフは久しぶりの登場で、明晰なマイムを披露した。

内藤彰指揮、東京ニューシティ管弦楽団が、ドビュッシーボロディンストラヴィンスキーを生き生きと演奏し、舞台作りに大きく貢献した。(8月23日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2937(H26.11.11号)初出(10/31)

 

★[ダンス]  黒沢美香『薔薇の人―deep―』

標記公演を見た(8月27日夜 横浜氏大倉山記念館ホール)。黒沢を見るのは何年か振り。たぶん『roll』くらいまで見ている。今回見ようと思ったのは、4月にお父さんの輝夫氏がお亡くなりになり、5月の現舞公演でそのお父さんの映像を見たから。

中年女のような幼児のような肉体は相変わらず、その上に昭和の濃厚な顔が乗っている。着物を着せて寺山修司の舞台に放り込みたいような肉体。両胸には赤塚不二夫のぐるぐる巻きが描かれている。ポストモダンダンスだが、肉体のせいで舞踏にも見えるところが、黒沢の可能性の中心だろうか。

途中の寸止めアンシェヌマンがやはり面白かった。以前、パの胎生のような動きを見たのを思い出した。一通り踊って、最後は思い入れをして終わった(1時間)。黒沢がゆっくり退室しようとした時、入り口付近に座っていた舞踏評論家の合田成男氏が、三回大きな拍手をした。黒沢退出。その後、空間が固まったかのように、誰も身じろぎせず、無音。1分程たってから(長いと思ったけど、たぶん1分くらい)、拍手があり、黒沢が戻ってきてレヴェランス。あるいは黒沢が戻ってくる気配があって、拍手だったかもしれない。一方、合田氏は拍手した後、少しして立ち上がり、帰ろうとしたが、黒沢と鉢合わせになり、スタンディング・オベーション。黒沢も目で挨拶したようだった。

あれは何だったのか。合田氏の拍手に全員が飲み込まれたのか。空間の気がほどけた時は、はっきり分かったので、全員が同じ身体状況にあったのだと思う。木の円柱が寄せ木の天井を支える、特異なホールだったからかも。能舞台や土俵のように、部屋の中に屋根があるみたいな。(8/28)

 

★[ダンス]  さいたまゴールド・シアター×瀬山亜津咲『KOMA'』

標記公演を見た(8月28日 彩の国さいたま芸術劇場小ホール)。一年前のワーク・イン・プログレスとは全く異なる感触の作品に仕上がっている。前回はリハーサル室、今回は小ホールという条件を差し引いても、その違いは大きい。

前回は瀬山が役者(平均年齢75歳)の側に寄り添って、その人生を解きほぐした印象だった。さらに瀬山自身がピナ・バウシュの空間で感じていた齟齬や違和を梃子にして、日本の体を追求する意図が感じられた。何よりも、演出に瀬山の実存が刻印され、作品に一回性の輝きがあった。

今回、役者たちは作品の駒になり(十分に訓練され、その責を果たしている)、日本の体は1エピソードに縮小、定型化された。その結果、確かに作品としてのまとまりがよくなり、再演可能にもなった。ピナの手法に軽やかな現代性を付加した作品として、一応成功したと言えるかもしれない。

ただし演出家瀬山の美点は影を潜めている。パートナーのファビアン・プリオヴィルが演出・振付補として加わったからだろうか(選曲にハードな音楽が増えたことはその影響だろう)。最も違和を感じたのは、最高齢者高橋清による大野一雄張りの手のダンス(手本役付き)。これは高橋の人生から生み出されたものだろうか。また瀬山の調整室からの呼びかけ、特に最後のストレッチのインストラクションは、彼らの日常風景の再現にもかかわらず、演出家と役者の支配関係を端的に表して、鼻白む思いだった。瀬山の個性とは相反している。

ワークショップから作品への移行過程で、演出家が非情になるのはもちろん当然のこと。ピナ・バウシュの母性と絡み合ったサディスティックな演出を経験してきた瀬山が、同じ轍を踏むのも理解できる。が、あのワーク・イン・プログレスの「あづさ」コールを思うと、あの空間の生のエネルギーを思うと、作品化の意味を考えずにはいられない。

唯一、作品の駒に見えて駒とならなかったのが、遠山陽一。人が行きかう中、両手で顔を拭い、片腕を拭い、脚を触り、反転して同じことを繰り返す。お風呂で体を洗う動きが、強度と速度を増しながら連続する。そして天からの水の滴を、裸の背中に受けるのである。全てを受け止める肉体の静けさ。遠山が一歩一歩 歩んできた人生の集積が、その背中にあった。(8/31)

 

★[バレエ]  東京バレエ団「創立50周年祝祭ガラ」

標記公演を見た(8月31日 NHKホール)。マラーホフ、ルグリ、ギエムというNBSと関係の深いダンサーをゲストに迎えて、バレエ団が多彩なレパートリーを披露する。全体の印象は、ゲスト中心主義だった東バも、徐々に変わりつつあるのかなあというところ。沖香菜子がバレエ団を背負って立つような気がする。また、もう少し筋肉が欲しいが、梅澤紘貴が、東バでは珍しくアダージョを作れる男性ダンサーなので。二人はノイマイヤーの『スプリング・アンド・フォール』を踊った。見たことがあるような、ないようなと思いながら見ていたが、梅澤が前方に両腕を真っ直ぐに差し出し、そこに沖が後ろ向きに入るリフトを見て、見たことがあると思った。首藤康之が斎藤友佳理を、まるで板のごとく受け止めるショットが蘇ったので。音がしたような気がする。高岸直樹を除いて、サポートの上手い男性ダンサー(主役級)は少なかった。因みにこれと同じリフト(というかサポート?)は、クランコの『オネーギン』第3幕PDDでも見られた。ルグリと吉岡美香が踊ったが、オネーギンのニヒリズムはラテン系には難しいのではないか。マッキーの氷のような情熱が妥当な解釈に思える。個人的には、山本隆之に踊って欲しかった。酒井はなと。

ギエムは『ボレロ』を感じよく踊っていた。若い男の子たちを引き連れて、何か機嫌よく。体操少女のようだった。ホールを揺るがす拍手やブラボーを、素直に受け止め喜びながらも、どこか別の境地にいるような感じ。誠実な舞台だったと思う。(9/3)

 

★[ダンス]  森嘉子『PADRES』(舞踊作家協会連続公演No.176)

標記公演を見た(9月2日 ティアラこうとう小ホール)。森嘉子の東京新聞制定舞踊芸術賞受賞記念公演。芸術監督に森、企画は雑賀淑子と加藤みや子。森と雑賀は、高田せい子の高弟である彭城秀子の弟子。それぞれの道を歩んだのち、偶然公演で出会い、旧交を温めた仲である。加藤は森の弟子で、森が渡米したのちは、藤井公の預かりとなった。森と雑賀はその加藤のスタジオで、舞踊評論家の山野博大氏を司会役に対談も行なっており、本企画は加藤の師匠孝行の色合いが強い(山野博大編著『踊る人にきく』参照)。

森の舞台は気になっていたが、残念ながら今回が初めての舞台。病気明けで、現在80歳という前情報によるイメージは、完全に覆された。上腕の張りのある筋肉、鍛え抜かれた背中、鋭いサパテアード。優雅で力強い、洒脱なダンサーだった。弟子の加藤とデュオを見せる場面では、両者の対照が明らかになる(加藤は森の所ではポアントで踊り、藤井の所ではモダンダンスを踊った)。森の研ぎ澄まされたフォルムの厳しさと、加藤の全能感あふれる少女性、暖かいエネルギーは、役どころである厳しい母親と奔放な娘そのもの(ロルカ原作、加藤作『白い壁の家』より)。アフロ・ジャズダンスとモダンダンスという師弟が歩んだ道の違いにも思いが至った。

また加藤の弟子である木原浩太がソロを踊った。フォルムと内的エネルギーの両方を兼ね備えたダンサー。今回は脚のバランスの美しさに目を奪われた。(9/8)

 

★[バレエ]  小林恭氏を追悼する

優れたバレエダンサー兼振付家だった小林恭氏の葬儀に参列した(2014年9月4日 青山葬儀所)。8月19日、肝不全のため死去。享年83歳だった。

小林氏は47年に石井漠に師事。49年谷桃子バレエ団に入団し、東京バレエ学校でワルラーモフとメッセレルに師事した。70年小林恭バレエ団を設立(山野博大編著『踊る人にきく』参照)。晩年の舞台にしか接していないが、『リゼット』のマルセリーヌは見ることができた。洋物の女装役ではなく、博多にわかや関西喜劇を思わせる和風の女形。最少の振りで溜めを作り、空気を動かす。糸繰りの見事さ、突拍子もない動きが、娘への愛情と結ばれて、濃密な人情喜劇を作り上げる。演出家としては、常に弱者の視点から物語を読み直す、バレエ界にあっては珍しい存在だった。

葬儀では、まず献花ならぬ献杯から始まった。数々の舞台写真や衣装が並ぶなか、遺影の下に置かれたご遺体に、参列者が一人一人ショットグラスのウイスキーを傾け、ご冥福を祈る。お酒の好きだった故人にふさわしい告別なのだろう。喪主の小林貫太氏の挨拶に続き、長年のパートナーだった谷桃子氏と、一番弟子の佐藤勇次氏の弔辞。谷氏の心を振り絞るような別れの言葉、佐藤氏の「先生の弟子となって、本当に幸せでした、先生のヒラリオンは世界一です。」という熱い言葉は、恭氏に届いたと思う。全員揃っての献杯の音頭は、団員を代表して榎本晴夫氏が執り行った。

以下は2006年に書いた公演評。

小林恭バレエ団56回目の定期公演はフォーキン三部作。『韃靼人の踊り』『ペトルーシュカ』『シェヘラザード』と群舞が男女ともに活躍する作品が並ぶ。民衆の力とその悲しみを力強く描き出す、このバレエ団ならではのラインナップである。小林演出の特徴は、ドラマを深く掘り下げる際、その解釈に自身の実存が色濃く反映する点にある。いわゆるフォーキン原作の再現ではない。イデアは外部にではなく、小林の内側にある。それが独りよがりにならないのは、小林の歴史認識が広範で深く、しかも更新されているからだろう。その認識を作品にぶつけながら演出するため、作品は常に生きている。

この公演の翌日、インペリアル・ロシア・バレエによる『シェヘラザード』と『韃靼人の踊り』を見る機会を得たが、復元と言われる『シェヘラザード』は作品の輪郭を伝えはするものの、ドラマを生起させることはなかった。主役二人が形式を通して役にアプローチするタイプのダンサーだったことも原因の一つだろう。小林版『シェヘラザード』は、ゾベイダと奴隷がかつて愛し合った仲という独自の解釈を採っており、官能よりも純愛に重きが置かれている。にもかかわらず、奴隷を踊った後藤晴雄の肉体はニジンスキーの無意識の官能性を想起させ、下村由理恵はゾベイダの妖艶と気品を肉体に刻み込んで、濃密な感情のドラマを生き抜いている。

また小林版『韃靼人(ポロヴェツ人)の踊り』では、異民族に囚われたイーゴリ公の憂いと、それを慰めんとする奴隷チャガの痛切な想いが明確に描かれる。このため、単にキャラクターダンスの勇壮なディヴェルティスマンに留まらない、一大叙事詩の広がりを持っている。前田新奈のチャガがイーゴリ公に向けた踊りは、同じ境遇の者に捧げられた深い哀れみと悲しみに満ちていた。いかにも前田らしい濃厚なパトスが、エネルギーの粒となって流れ出す。それを受け止め、しかし拒絶するほかないイーゴリ公の苦悩と憂いは、小林貫太が立ち姿のみで表現した。ボロディンの憂愁に満ちた力強い音楽は、むしろ日本人の舞台によって新たな生命を勝ち得ている。

ペトルーシュカ』は当たり年で、今年三つの国内バレエ団が上演したが、ペトルーシュカのドラマが生きられたのはこの小林版のみだった。群衆はおとなしめで演技の練り上げにやや物足りなさを残す。しかしペトルーシュカの小林貫太が、ニジンスキーの「メタモルフォーシス」を思わせる入魂の演技を見せている。ぶらぶらと脱力したペトルーシュカの両手に、弱者の哀しみが放たれる。無垢な心で踊り子を恋し、ムーア人を怖れ、ついには切り殺される哀れさ。麦わらに戻る瞬間が見えるようだった。亡霊となって人形師をあざ笑った後、ダラリと垂れ下がる上体がすばらしい。人の心をもった人形の哀しみが凝縮されていた。

中村しんじの人形師は胡散臭く懐が深い。踊り子はやはりプリマの役どころ。前田の強度で締まる。ムーア人の窪田央は少しおとなしいが愚かしさはよく出た。人形劇の幕開けで三者が下肢のみを動かす場面は鮮烈だった。フォーキンの精神が小林恭の息遣いによって蘇った瞬間である。

三作品ともに適材適所。独自の解釈にもかかわらず登場人物の原型が保たれているのは、役柄とダンサー双方に対する小林の理解の深さによる。とくに下村由理恵と後藤晴雄はこの空間で本質を露わにした。下村の肌理細やかな肉体、柔らかくまといつくようなシェネは驚異。後藤は何の留保もなく肉体の美しさを誇示しうる。ニジンスキーの狂気と重なるロマンティックな肉体だった。

大神田正美と大前雅信の大小コンビが献身的に舞台を支える。小林恭の出番は僅か。貴重な芸をもっと見たい。磯部省吾指揮、東京ニューシティ管弦楽団が、エネルギッシュな舞台と拮抗する力強い音楽を作り出した。(2006年10月14日 ゆうぽうと簡易保険ホール)(9/6)

 

★[ダンス]  Dance New Air 2014 片桐はいり@『赤い靴』

小野寺修二の演出で、片桐はいり、Sophie Brech、藤田桃子、小野寺が出演した(9月12日 青山円形劇場)。『赤い靴』と言えば、ダンスとの関連から、当然アンデルセンの『赤い靴』を考えなければいけなかったのに、なぜか「赤い靴~履いてた~女の子」だとばかり思って、舞台に臨んだ。始まると、かつて読んだアンデルセンの断片が次から次へと出てくる。小野寺の文芸物の一つだったのだ。

原作はキリスト教の教訓色が強いが、そうした色合いはなく、赤い靴と靴屋にまつわるエピソードが多かった。片桐の靴検品の鋭い眼差しは、モギリの高場で培ったのだろうと思ったり。そもそも片桐を見るために、青山円形に向かったのだ。前日、日経の「SECRETS」というコラムで、片桐の一問一答に腹を抱えて笑ったばかり。最後の質問「生まれ変わったら何になりたい」に対して、「笠智衆」と答えていたので、片桐の動き、演技に笠の残像が付き纏った。体の全てに嘘がない。動きはもちろん、足指、ふくらはぎ、手などの細部に至るまで、借り物でない。動きを見るだけで陶然とする役者は現代物では少ない。変な連想だが、飯田蝶子を思い出した。何をやっても様になる、ディシプリンのある役者。片桐の場合はそこに実存の深みが加わる。コメディに悲劇を差し込むことも、不条理劇を軽くも重くもなく、そのまま演じることもできる。自分にとっては、山崎広太と同じ位置にある身体芸術家。(9/16)

 

★[ダンス]  片桐はいり@『赤い靴』Dance New Air

標記公演評をアップする。本日(2016.7.2)放映された、NHKEテレのスイッチインタビュー「片桐はいりVS甲野善紀」に感動したため。甲野は片桐を「五指に入るほど、誠実な人」と語った。

「ダンストリエンナーレトーキョー」を引き継いだ「Dance New Air」の開幕公演。マイム出身の小野寺修二(おのでらん)が演出を手掛ける。出演は小野寺、片桐はいり、Sophie Brech、藤田桃子(ももこん)。

小野寺は不条理劇と接近する自作に加え、数々の文芸作品を舞台化してきた。カミュの『異邦人』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』等。手法は小説・戯曲の重要な場面を抜き出し、ロベール・ルパージュと共有するローテク趣味を駆使して、詩的に再構成するというもの。元役者のホンの読み込みは鋭く、勘所がえぐり取られて抽象化=永遠化される。ロミオがマキューシオの敵を討つシーンは、プラスチックの桶に入ったキャベツをグシャグシャにする行為に置き換えられた。

今回はアンデルセンの『赤い靴』が原作。憧れの赤い靴を手に入れたが、勝手に踊るようになった赤い靴を、自分の足ごと切る決意をする少女カーレンが主人公である。踊ることの恍惚と、その反倫理性、反社会性が、キリスト教の教訓的童話に昇華されている。舞台人になろうとしたアンデルセン自身の内面が、色濃く反映しているものと思われる。

小野寺の演出は、テキストの引用や靴工房の登場はあるが、原作のキリスト教色は排除され、「赤い靴」を巡るファンタジーが発話と身体運動によって展開される。赤い制服を着た小野寺は妖精(座敷童)のような存在。女性3人が原作の登場人物や靴工房の職人に、入れ代わり立ち代わり扮して、赤い靴への想いを募らせる。 舞台の要となったのは片桐はいりだった。その動きの鋭さは、小野寺作品『異邦人』ですでに証明済みである。一本欠けた三本脚のテーブルに片手をついて、ブルブルと痙攣する怪演が強烈に目に焼き付いている。円形劇場の客席は舞台を少し見上げる格好。目の先には片桐のふくらはぎがあった。ずっしりと筋肉の付いた、なぜか懐かしい脚。Brechはダンサー脚、ももこんは可愛い脚だが、片桐のは生活者の脚である。少しひんやりした、木の廊下とアッパッパの似合う脚だ。

それに比べて手の繊細さは、並みの舞踊家をはるかに凌ぐ。靴工房で靴を検品するときの、しなやかで知的な手つき。そしてその眼差しの鋭さ。片桐は自著『もぎりよ今夜も有難う』(2010年、キネマ旬報社)で、映画館のもぎりをしていた頃のことをエッセイに書いている。当時、銭湯の番台のような受付台を「たかば」と呼んでいたが、片桐は、その番台からもぎりが「鷹のように眼光鋭く映画館の平和を見張る」ので、「鷹場」だと思っていたらしい(実際は高場とのこと)。靴を矯めつ眇めつする眼光の鋭さは、このもぎり時代のエピソードを思い出させる。

「平和」も片桐のキーワードである。今回の作品の中で「あなたにとって一番大切なものは?」と問われた時の片桐の答えが、「平和・・・皆が心穏やか~に暮らしている、と言うか」だった。前掲の「鷹のように眼光鋭く平和を見張る」と、この答えを突き合わせてみると、片桐の精神の形が明らかになる。つまり動きの尋常ならざる強度が、「平和」というラディカルで身近な目標を常に指し示しているのである。生活者の脚と知的な手と鷹の目の合体。世界と対峙する時の奇矯なまでのラディカルさは、おそらく幼少時のキリスト教環境に由来するものだろう。アンデルセン原作の踊ることの恍惚と反社会性を、誰よりも理解しているのではないか。初めて『白鳥の湖』を生で見たあと、グルグル回りっぱなしだった片桐。子ども時代の夢は「バレリーナ」で、生まれ変わったら「笠智衆」になりたいというアンケートの答え(『日本経済新聞』2014.9.11)は、まさに『赤い靴』のカーレンそのものである。 動き自体はもちろん、足指、ふくらはぎ、手、顔の表情に至るまで、片桐の嘘のない体に魅了され、圧倒された舞台だった。

2014年9月12~15日 青山円形劇場(12日所見) 演出・出演:小野寺修二 出演:片桐はいり、Sophie Brech、藤田桃子 美術:Nicolas Buffe テキスト:山口茜 照明:吉本有輝子 音響:井上直裕 衣裳アドバイザー:堂本教子 舞台監督:シロサキユウジ *『ダンスワーク』68(2014冬号)初出(2016.7/2)

 

 ★[バレエ]  日本バレエ協会関東支部埼玉ブロック『白鳥の湖

日本バレエ協会関東支部埼玉ブロックが結成35周年を記念して、『白鳥の湖』全幕を上演した。演出・改訂振付は東京バレエ学校出身で、助教師としても活躍した木村公香。縁の深いゴルスキー=メッセレル版を原版としている。

木村演出の美点は、セリフの聞こえる緻密なマイム、特徴を明確に打ち出したキャラクターダンス、闊達な音楽性にある。振付そのものは東京バレエ団の現行版とほぼ同じだが、二幕グラン・アダージョでのアンサンブルの動きを、主役に寄り添う穏やかな振付に変えたため、東京バレエ団版よりも主役への集中が容易になった。

オデット=オディールには、埼玉ブロックにゲスト出演を重ねる酒井はな、王子は新国立劇場バレエ団の奥村康祐という適役の二人が配された。長年同役を踊り込んできた酒井は、臈長けた美しさを身に纏っていた。これまでは自らの解釈をパトスの力で前面に押し出す息詰まるオデットだったが、今回は解釈を内に秘め、形の美しさで感情を表している。現在の境地を隈無く映し出す、酒井らしい生の魅力も健在。オディールは豪華で輝きにあふれている。フェッテは美しく気品に満ちたシングルだった。

奥村は若くロマンティックな王子、はまり役である。前半の憂愁、後半の喜びを、ノーブルな立ち居振る舞いで素直に演じきった。少しマザコン風の味付けもある。

脇役も適材適所。王妃の西川貴子は、新国立劇場バレエ団の同役でも優れた演技を見せたが、木村演出が入り、一段と風格が増した。ロットバルトの敖強(谷桃子バレエ団)は切れ味鋭い踊りと力強い演技で、道化の大森康正(NBAバレエ団)は折り目正しい踊りと献身的な演技で、ヴォルフガングの原田秀彦はノーブルな佇まいで、舞台に厚みを加えている。

またパ・ド・トロワで、淑やかな伊地知真波、クラシカルな榎本祥子をサポートした酒井大の覇気ある踊り、スペイン檜山和久の美しくスタイリッシュな踊り、スタイルをよく心得た男性アンサンブルと、谷桃子勢が舞台の底力となった。

ブロック所属のソリスト、アンサンブルは、一、三幕のキャラクターダンスで生き生きとした踊りを披露。白鳥群舞は必ずしも揃ってはいなかったが、音楽と心を一つにして踊る喜びを感じさせた。(9月14日 川口総合文化センター リリアメインホール) *『音楽舞踊新聞』No.2937(H26.11.11号)初出(10/31)

 

[ダンス][バレエ]  山野博大編著『踊るひとにきく』を読む

山野博大編著『踊るひとにきく』をほぼ読了した(人名録がまだ)。発行日は2014年5月31日、発行所は株式会社 三元社、定価は本体4200円+税。全部で411頁の大著である。

この本の特徴は、踊る人に語らせていること。山野氏だったら、これまでの公演評、プログラムや雑誌に書かれた文章、弔辞、「二〇世紀舞踊の会」の檄文等をまとめて、戦後洋舞史を辿ることができたと思う。が、そうはせず、新たに「日本の洋舞一〇〇年」を書き下ろした上で、洋舞のダンサー、振付家、批評家との鼎談やインタヴューをメインに持ってきた。日本洋舞界へ長年寄り添ってこられた山野氏の、献身的で深い愛情が感じられる構成である。

「日本の洋舞一〇〇年」では、私淑された光吉夏弥氏の教えを我々に残している。

 

  • 舞踊の歴史は、書かれた批評によって日々作られていくものなのだというのが光吉夏弥の基本的な姿勢だった。批評は舞踊に対してそれなりの責任を負うという自覚なしに書くべきものではないという姿勢を常に崩さなかった。この歴史重視の姿勢が、彼を舞踊資料の整理という日々の作業に向かわせたのだと思う。私には「舞踊批評はそこで演じられているものを舞踊の歴史の中に正しく位置づける作業だ」と、いつも言っていた。(p.30)
  • 光吉夏弥という人は、どちらかというと人づきあいの悪い方で、舞踊家と親しくすることはほとんどなかった。私にも舞踊家と付き合うと、いざという時にずばりと書けなくなるから、気をつけた方がよいと、いつも云っていた。(p.30)
  • 光吉夏弥は、批評の読み方についても教えてくれた・・・海外の舞踊の様子は、向こうで出ている新聞の舞踊欄や舞踊専門の雑誌を読んで知る以外に方法がなかった。それを読む時に、書き手の癖をわきまえて読むのが光吉流だった・・・彼は批評家の書き癖をわきまえて読み、微妙な調整をほどこして、世界の舞踊の動向を「正しく」見抜くのだと言っていた。この批評を読むにあたっての微調整方式は、日本の同業のライターの書いたものを読む時にも役に立つ。(p.31)

 

最初の引用は、光吉の考える舞踊批評家の心構えと、批評のあるべき姿を伝える。二つ目の引用は批評家が心がけるべき態度だが、実は続けて「現代舞踊の江口隆哉や数人は例外で、渋谷の飲み屋での出会いを楽しんでいた。光吉、江口の両人ともお酒を飲まなかったが、店の常連の他の分野の人たちとの語らいを求めて通っていたのだろう。」とある。光吉と江口の交流は、後掲の鼎談でも触れられている。三つ目の引用は、上の二つ同様、山野氏の実践されるところである。本書の随所で、先輩批評家の癖を分析されており、そのユーモアたっぷりの筆致に何度も頬が緩んだ。おそらく現批評家の癖も密かに分析されていると思う。

一方、鼎談、インタヴューは、モダンダンスを軸に置いた日本洋舞史の貴重な一次資料である。新しい発見(もちろん自分にとって)や面白いエピソードが満載だった。そのいくつかを以下に挙げてみる。

 

  • 現代舞踊協会から津田信敏一派(若松美黄、土方巽を含む)が脱退したのは、山野氏の書いた協会批判の文章がきっかけだった。(p.125)
  • 若松美黄は、オリガ・サファイア・バレエのプリンシパルだった。(p.128)
  • バレエに対して一線を画していた宮操子が、「バレエは伝統の基本があって、それをやっていればなんとかなる。モダンダンスの場合は本当に帰るところが自分しかない。バレエは帰るところがあっていいな」と書いていた。(p.275 正田千鶴談)
  • 大野一雄笠井叡の不思議な師弟関係(月謝を取らない、食事、コーヒー、煙草、帰りの電車賃をくれる、劇場の借り賃まで払ってくれた)が示す大野の浮世離れした人柄。(p.293)
  • 佐多達枝の寸評「ベジャールが好きなのはなぜかというと、あの人はすごく踊りが好きな人だと思うんですよ。もちろんいろんな演出をやってますけど、もとはね、踊り馬鹿なんじゃないかなって感じるから好きなんです。だからノイマイヤーは嫌い。」。(p.312)
  • 大野一雄は江口・宮舞踊研究所に寝泊まりして踊っていたんだけど、江口より宮さんの稽古に出たかったと言っている」。(p.337 合田成男氏談)

 

若松美黄がのちに現代舞踊協会の会長になったことの歴史的な意味や、大野一雄土方巽のモダンダンスとの深い関わりが、当時関わった人々の生の言葉を読むことにより、朧気ながら分かった気がする。 巻末には、日本の舞踊史、世界の舞踊史、国内外の出来事をまとめた緻密な年表(安田敬氏作製)と、この本の元となった《ダンス=人間史》を企画した HOT HEAD WORKS ディレクターの加藤みや子による詳しいあとがきが付されている。(9/18)

 

★[バレエ]  東京バレエ団ドン・キホーテ

東京バレエ団が創立50周年記念シリーズの一環として、ワシーリエフ版『ドン・キホーテ』全二幕を上演した。振付指導は01年の初演時にキトリを踊った斎藤友佳理。公演前にはワシーリエフ本人も来日した。斎藤は振付を舞踊譜に書き起こし、再演を重ねるうちに変化した箇所を見直す作業を行なった(プログラム)。全体にダンサーたちが自然体の演技で、伸び伸びと踊ることができたのは、斎藤指導の賜物だろう。

ワシーリエフ版の特徴はメルセデスエスパーダが終幕までカップルとして踊り継ぎ、キトリの友人がグラン・パのヴァリエーションも踊ることで、全幕を通して親密な雰囲気が保たれる点にある。ガマーシュなどは婚礼にも参加して、踊りを踊ったりする始末。斜めのラインを多用した切れ味鋭い男性群舞、子供キューピッドの可愛らしい背景舞踊も、振付者の闊達な精神を物語る。

主役キャストは2組。当初予定されていたオブラスツォーワとホールバーグが故障のため、同じボリショイ・バレエのアナスタシア・スタシュケヴィチとヴャチェスラフ・ロパーティンが初日と三日目を踊り、二日目をバレエ団の上野水香と柄本弾が踊った。スタシュケヴィチは小柄でよく動く娘役タイプ。安定した技術にエネルギーが宿り、きびきびと愛くるしいキトリだった。対するロパーティンは同じく小柄だが、端正で品のある踊りが一際目を惹いた。献身的なサポートを含め、ロシア派の粋を見た気がする。

一方、バレエ団組は大柄な二人。上野の持ち味である鮮やかな脚線、盤石のバランスと回転技、強力なエネルギーは、終幕のグラン・パで最も発揮された。その豪華さは上野の非凡な才能の証明でもある。ただし、踊りの輝かしさに比べると、役へのアプローチ、演技の点で物足りなさが残る。内側からの役作りは、喜劇においても重要ではないか。前日エスパーダを踊った柄本は、それをはるかに上回る完成度で、初役バジルを踊り切った。エネルギーの出し方が役に沿っている。若手とは思えないタフネス、芝居の軸となる落ち着き、責任感に改めて驚かされた。

脇役も充実していた。存在感あふれる高岸直樹のエスパーダ、ノーブルな木村和夫ドン・キホーテ、コミカルな氷室友、岡崎隼也のサンチョ・パンサ、ゆったりと構える永田雄大のロレンツォ。中でも梅澤紘貴のガマーシュは、初演者吉田和人の無垢なガマーシュ像にも比肩する出来。細かい芝居とノーブルな味わいを結び付けている(他日バジル配役)。

女性陣も多彩。メルセデス奈良春夏の気っ風の良さ、ジプシー娘高木綾の狂気、ドリアード女王渡辺理恵の美しいライン、キトリ友人川島麻実子の和風、河谷まりあの自然体、乾友子の安定感、吉川留衣の繊細な気品と、それぞれが個性を十全に発揮した。

ドリアード・アンサンブルは音楽的で情感にあふれる(バレエミストレス・佐野志織)。クラシカルな場面が以前よりも味わい深くなった。指揮はワレリー・オブジャニコフ、演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。(9月19、20日 ゆうぽうとホール) *『音楽舞踊新聞』No.2940(H26.12.15号)初出(12/16)

 

★[ダンス]  山崎広太@「Tokyo Experimental Performance Archive」

標記公演を見た(9月23日 Super Deluxe)。主催は一般社団法人日本パフォーマンス/アート研究所(プロデューサー・小沢康夫)。通常の公演と違うのは、パフォーマンスを映像や写真で記録して編集、新たな映像作品としてネット上にアーカイブし、公開するという点。さらにパフォーマンスのコンテクストを言語化し、歴史的パースペクティブを新たにつくる、とのこと。アーツカウンシル東京の助成を受けている。パフォーマンスをリアルタイムでネット上に配信と、趣意書にはあるが、今回はなかったようだ。山崎の使用した音楽の著作権問題で、「配信時には別の音楽に差し替える」とのコメントが出されたから。

客席は対面式。真中の空き地でパフォーマンスが行われる。空き地の三方には映像カメラ4台、写真家一人が配置され、スタッフが場当たり(?)も行なった。こうした状況で山崎の踊りを見るのは初めて。どういう心持になったかと言うと、山崎の踊りが記録されるのを見ている野次馬、だった。さらに自分も映像に映り込むかもしれない、という変な緊張感。山崎との間に一皮も二皮も隔たりがあった。

山崎はいつもと同じ心境だったと言うかもしれない。踊りにはそれだけの強度があった。題は『ランニング』。冒頭は縞の着物に白い帽子で、正統派の舞踏。重い体、足指、手指の踊りだった。一指し舞うと、着物を脱ぎ捨て、黒いランニングと青い短パンになって、軽快にハチャメチャに踊る。音楽は全て歌の入った洋楽。音楽との呼応が強く、音楽とのデュオ、のような作品だった。昨年のベケット作『ネエアンタ』で見せた踊らない踊りや、日舞の胚胎はなく、発散する動きが多い。最後は再び溜める踊りに戻り、つま先立ち前傾バランスで終わった。

ランニングしている時に考えたことが反映されているのだろうか。終盤に山崎の意識が消えた時間があり、体が引き締まった、と言うか、統一された。目の前の肉体にこちらの意識が入り込む、いつもの山崎体験だった。

共演は音楽家、美術作家、パフォーマーの恩田晃。日常音の録音や、シンバルとビー玉、電子音で音を作っていることしか分からなかった。その場で音を作っているという意味ではパフォーマー、シンバルを並べているので美術作家、なのだろうか。(9/27)

 

★[ダンス]  宮城県寺崎の「はねこ踊」@「東北の芸能V―東日本大震災復興支援」

標記公演を見た(9月27日 国立劇場大劇場)。なぜ見ようと思ったかと言うと、岩手県の「鹿踊大群舞」が入っていたから。新国立の「ダンス・アーカイヴ」や伊福部昭のコンサートで、江口隆哉振付の『日本の太鼓』を見ていて、現物とどれくらい違うのか確認したかった。結果は、あまり変わらない、だった。音楽が太鼓のみだったので、神事のように見えたくらいで(江口作品にはドラマがあった)。

それより、もう一度見たくて、自分も踊ってみたいと思ったのが、宮城県寺崎の「はねこ踊」。直後に青森の有名な「ねぶた囃子」のハネトが登場したが、それが単調に見えるくらい、洗練された踊りだった。

姉さんかぶりと日の丸扇2本、赤い襦袢に水色の肌着、裾が割れるように着崩して、隙間から前垂れのようなものが見える。奇天烈な衣装。男女とも同じだった。その装いで、横二列になって(舞台だから?)跳ねる。手つきは複雑、足運びも繊細。なぜこういう動きをするのか理由は分からないが、体全体の運用が理に適っており、見ていて気持ちがいい。たぶん踊っていても気持ちが良く、無意識の喜びが感じとれる。後半では、動きがダイナミックになり、片足で距離を跳ねる伸びやかな動きが素晴らしかった。

トップの上戸彩似の美人が苦しそうに(つまり真剣に)踊っていて、よかった。おばさんたちの丸みを帯びた踊りや、長身、短身男の豪快な踊りも。共同体の息吹。どこそこの誰それさんがうまい、とか言う規模の集団だった。

ワークショップなんかでやると、人間回復に効果がありそうな踊りだと思う。自分も踊ってみたいが、別物になるだろうし、そもそも阿波踊りを全国でやるのをいいと思っていないので、言行不一致になるし。どうぜ踊るなら阿波踊りよりも、はねこ踊りを踊ればいいと思ったりした。(10/21)

 

★[バレエ]  Kバレエカンパニー『カルメン

Kバレエカンパニーが創立15周年記念公演第3弾として、ビゼー音楽の『カルメン』全二幕を新制作した。演出・振付は芸術監督の熊川哲也、舞台美術はオペラで活躍するダニエル・オストリング、衣裳は同じくマーラ・ブルーメンフェルド、照明は足立恒、編曲はK‐BALLET音楽のスタッフによる。オストリング美術の二棟の建物はいかにもオペラ風。抽象的だが乾いた土と木の質感で、メリメ原作の凄惨な愛の物語の器となった。

登場人物やストーリー展開はオペラに準拠する。唯一異なる点は、ホセがカルメンを短刀ではなく、ピストルで殺すこと。その即物的でドライな感触は、熊川のストイシズム、またはシャイネスに由来すると思われる。終幕、カルメンの亡骸を抱いて歩み去るホセの姿は、マクミランの『マノン』を想起させるが、そのままドラマティックに終わるのではなく、エスカミーリョの元気なメロディで幕を閉じるのも熊川らしい反転だった。ロマンティックな「花の歌」の代わりに、リリカルな「間奏曲」をホセの愛のテーマにした点にも、同じ嗜好を感じさせる。

振付は音楽的で高難度。縄で結ばれたホセとカルメンのパ・ド・ドゥや個々の性格を反映したソロに加え、りりしく揃った衛兵群舞、コミカルなジプシー群舞など、踊りの見せ場が多い。カルメンが踊る机の上に、次々と男達が跳び乗る振付は、熊川の面目躍如である。

4人のホセと5人のカルメンのうち、ベテラン神戸里奈と主役デビューの福田昴平を見た。神戸は音楽性豊かで、リリカルなタイプの踊り手だが、今回は全編を通して感情を出し切る渾身の演技を見せた。動きの質の高さ、絶妙の音取りに風格すら漂わせる。一方の福田は、若手とは思えないダークな男臭さを身に纏う。初主役で実力を十全に発揮できるのも、バレエ団の場数の多さ、厳しい指導ゆえだろう。

カエラ荒蒔礼子の涼やかさ、エスカミーリョ杉野慧の華やかさ、モラレス石橋奨也のグロテスクな役作り、そして何よりスニガを演じたスチュアート・キャシディの品格ある演技が素晴らしかった。立ち姿のみで役を表現できる。主役、脇役、アンサンブルまで、技術の高さと音楽性で統一された舞台。井田勝大指揮、シアターオーケストラトーキョーが若々しい音作りで併走している。(10月11日夜 オーチャードホール) *『音楽舞踊新聞』用に書いたが、掲載される気配がないので、遅ればせながらこちらにアップした。(2015.2/14)

 

★[ダンス]  テアトル・ド・バレエ・カンパニー「ダンス・ボザール」

塚本洋子主宰テアトル・ド・バレエ・カンパニーが、秋の定期公演として「ダンス・ボザール」を上演した。座付き振付家、井口裕之の作品を一挙に3作発表する、意欲的なプログラムである。

幕開けは、名古屋市至学館高等学校ダンス部に振り付けた『グラスホッパー』。同部は内外のダンス・ドリル選手権やダンスコンペティションで一位を獲得する強豪である。井口の振付は、ヒップホップを得意とする高校生達に重心の低いモダンダンスのフォルムを与え、内面性を加味するなど、新たな展開を図るものだった。続く特別上演「18thバレエコンペティション21」コンテンポラリー部門ジュニアとシニア一位受賞者、小澤早嬉と千田沙也加のモダンダンス・ソロと共に、カンパニーのダンサー達に新鮮な刺激を与えたことだろう。

前半の終わりはアルヴォ・ペルトの音楽を使用した『エメラルド』。井口自身と、前回のコンペティション受賞者、服部絵里香と伊東佳那子、カンパニー若手の畑戸利江子と永田瑞穂が、スタイリッシュなコンテンポラリー作品に挑戦した。井口の幅広い蓄積が後進に伝わるよう意図された、骨格の大きい作品である。井口と服部による推手のようなコンタクトやアクロバティックなリフト、伊東のしっとりしたソロ、畑戸と永田の鏡像デュオが印象深い。中でも服部は、井口振付を良く理解した鮮やかな動きで目を惹いた。

後半はモーツァルトの様々な楽曲を用いた喜劇的力作『ビッグベアー』。終盤は悲劇に転じるところが、モーツァルトの音楽世界と共通する。冒頭、井口がクマの着ぐるみで登場。「ガオー」と吠えると観客の子供達がゲハゲハ笑う。クマは、先の『エメラルド』で井口が転んだハプニングを繰り返して、自らを慰める。演出にはキリアンやフォーサイスといった先行者の影響が見られるが、井口はそれを完全に消化し、独自のクリエイティヴな作品を創り上げている。優れた音楽性が選曲・振付の細部に至るまで発揮され、ダンサーとの濃密な呼応が窺えるからである。

舞台のバックには白い布、右下に赤いペンキで何か描き殴られている。女性8人は古風な黒ビロードのワンピースにシニョン髪の女学生風。8つの主題に沿った振付は、クラシックのラインを生かしてはいるが、盆踊りや日常の動き(塩を撒く等)から踊りが派生するなど、コンテンポラリーの手法に基づいている。演出はペーソスを交えながらもコミカルが基本。ただし終幕、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が流れると、クマは赤い落書きの所に行き、女学生達はワンピースを前に掲げて登場。それを下に置くと、肌色のレオタードが血まみれになっている。バックに日本列島が浮かび上がり、福島が赤く染まる。赤いペンキは原発事故、「私たち」も傷を負っていたのだ。須藤有美のコミカルな芝居、ピアノ・コンチェルトで踊られる植杉有稀と浅井恵梨佳の美しいデュオ、同じくクマ(井口)の哀愁に満ちたソロが素晴らしい。

井口はモダンダンスから内的表現を、コンテンポラリーダンスから動きの生成を、バレエから繊細な音楽解釈を獲得してきた。それらが渾然一体となった『ビッグベアー』に、振付家としての成熟が垣間見える。(10月18日 愛知県芸術劇場小ホール) *『音楽舞踊新聞』No.2939(H26.12.1号)初出(12/3)

  

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『眠れる森の美女』新制作

新国立劇場バレエ団の新シーズンが、新制作『眠れる森の美女』で開幕した。プロローグ付き全3幕、休憩を含めて3時間半のオーソドックスな版である。長年英国で活躍した大原永子新芸術監督は、新版を、英国ロイヤル・バレエの元プリンシパルで、オランダ国立バレエとENBの芸術監督を務めたウエイン・イーグリングに依頼した。

イーグリング版は英国系の流れを汲み、マイムを保存。リラとカラボスのせめぎ合いや、三幕キャラクテールの芝居の巧さが光る。新振付の一幕ワルツ、二幕王子のソロ(サラバンド使用)、三幕宝石のソロは品格があり、好ましく思われた。一方、プロローグの気品の精(二幕ガヴォット使用)の導入は、賛否を分けるかも知れない。ペロー原作(仙女8人)の反映、あるいはリラ中心のシンメトリー構図を意図したのだろうか。

また目覚めのパ・ド・ドゥ(間奏曲使用)は、アシュトンの気品よりもマクミランの情熱を思わせる振付だった。青白い闇の中、オーロラは寝間着を身に付け、最後はデジレと回りながら口づけをする。明らかにオーロラの性格から逸脱したイーグリングの強烈な一刷毛である。

トゥール・ヴァン・シャイクの青を基調とした衣裳は美的。ただし森の精の鮮やかな緑は、幻想的とは言えない。共に空間を作った川口直次の装置は豪華だが、天井があるせいか、空間の拡がりを感じられなかったのが残念。照明は新国立常連の沢田祐二が担当した。

バレエ団はビントレーの創作物から古典作品へ移行する過渡期にある。カラボスの本島美和、伯爵夫人の湯川麻美子、国王の貝川鐵夫、カタラビュートの輪島拓也の演技が、最も強い印象を与えたのは象徴的だった。

主役は4組。オーロラ姫は出演順に、米沢唯、小野絢子、長田佳世、瀬島五月(貞松・浜田バレエ団)。デジレ王子はそれぞれワディム・ムンタギロフ(英国ロイヤル・バレエ)、福岡雄大、菅野英男、奥村康祐である。

初日の米沢は古典作品とは思えないほど、動きの生成感が強かった。振付・様式を一度咀嚼してから表に出している。様式は散文を詩に昇華する強烈な武器。今後も米沢の探究に期待したい。対する小野は、規範に対する意識が最も高いダンサー。ロイヤル系のアクセントを細かく刻んで、理想的なオーロラ姫を出現させた。「目覚め」の解釈も唯一、姫役からの逸脱を許していない。

長田は「目覚め」のみずみずしい音楽性、三幕ヴァリエーションの繊細さに本領があった。ただし、他の三大バレエで見せたロシア派の醍醐味を発揮するには至らず。本調子とは言えなかった。バレエ団側が初役揃いなら、ゲストの瀬島はオーロラを得意とする熟練者だった。ロイヤル系のコンパクトな動きで、主役の勤めを十分に果たしている。

ムンタギロフの優美、福岡のエレガントな凛々しさ、菅野は少し重かったが、精神性の大きいパートナー、奥村は森の場面のロマンティックな佇まいに優れる。「目覚め」のリスキーなサポートは福岡が成功させた。

カラボスの本島は、役に全人生を注ぎ込める境地にある。華やかさに内実を伴う得難い踊り手である。リラの精の寺田亜沙子はヴァリエーションの押し出しはまだ弱いが、演技に大きさがあった。

ソリストでは、ベテランの大和雅美がアメジスト、江本拓が猫、八幡顕光がトムで技倆を見せた他、新人の柴山紗帆が気品の精、井澤駿が青い鳥、加藤大和が猫で、持ち味を発揮した。また小口邦明の狼、小野寺雄のトム、池田武志のゴールドも印象深い。

男女アンサンブルは生き生きとした踊り。初日のばらついた舞台も、中日の驚くべきハプニングを経て、最終日には求心力のある作品へと成長を遂げた。指揮はENB音楽監督のギャヴィン・サザーランド、演奏は東京フィル。(11月8、13、15、16日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2940(H26.12.15号)初出(12/16)

 

★[ダンス]  フォーサイス@L.A.DANCE PROJECT

彩の国さいたま芸術劇場が開館20周年を記念して、 L.A.DANCE PROJECT の公演を行なった(11月9日 同劇場大ホール)。今季よりパリ・オペラ座バレエ団芸術監督になったバンジャマン・ミルピエが主宰するカンパニーである。ミルピエの『リフレクションズ』(13年)、エマニュエル・ガットの『モーガンズ・ラスト・チャグ』(13年)、ウィリアム・フォーサイスの『クインテット』(93年)の三本立て。前二作はカンパニーが初演、『クインテット』は導入時に振付家が改訂している。

ミルピエの、エネルギーが前面に出ない静かなコンタクト作品、ガットのパトスを秘めた妙な味わいの作品、そしてフォーサイスの人間味あふれる自然な作品という組み合わせ。やはりフォーサイスは圧倒的だった。「フォーサイスはハード・バランシン」というギエムの言葉は、ポアントでフォーサイスを踊っての実感だと思うが、『クインテット』でもバランシンを思い出した。体自身が面白いと思う動きをやっている点で。ダンス・クラシックをベースに、こうやったら面白い、こう動くと異次元になる、というプロセスが、無意識に行われているように見える。

ブライヤーズの『Jesus Blood never failed me yet』が流れるなか、ダンサーたちが自分の身体を生かした有機的な動きを繰り広げる。見ているうちに、人肌の暖かさ、胸が締め付けられるような悲しみ、薄っすらとした希望が、じんわりと胸に溜まってくる。06年に同じ舞台で上演された『You made me a monster』を思い出した。客席は使用せず、観客は一列に並んで、舞台に上がる。フォーサイス自身も舞台に乗り、観客が紙細工を作るのを手伝う。妻がなくなった後、数年たって、遺品の中にあった人体模型を組み立て始めたフォーサイスは、ついにそれが何かの形になるのを知る。「それは、深い悲しみという模型だった」。つまり紙細工はフォーサイスの悲しみであり、作品自体が観客と共に行なう喪の儀式だったのだ。

ダンス・クラシックの自然な解体=延長はバランシン、実存の深さはマッツ・エックや、何故かトリシャ・ブラウンを連想させる。今のフォーサイスは分からないが、バランシンと同じく、時代を画する天才だったと思う。

ダンサーは、ガット作品に出演したチャーリー・ホッジスが抜きん出ていた。田村一行のような体つき。舞踏でも踊れそうだ。動きの全てに解釈を入れた上で、自分の匂いを付けている。魅力があった。(11/12)

 

★[ダンス]  野村真弓@現代舞踊新進芸術家育成project4「踊る」

現代舞踊協会主催、文化庁海外研修員による公演「踊る」を見た(11月14日 KAAT大スタジオ)。出演は清水フミヒト(H20年度アメリカ研修)、野村真弓(H19年度フランス研修)、米沢麻佑子(H18年度アメリカ研修)、二見一幸(H5年度フランス研修)。税金がどのように使われたかを知るうえで、意義深い公演だと思う(バレエ関係では、こういう企画はない)。

4人とも個性を発揮した作品作りだったが、唯一野村が違っていたのは、観客を身内と想定していない点。舞踊公演は大手を除いて、身内(親、友人、知人、関係者)が観客であることが多い。今回も例外ではなかったが、野村は一般の観客に向けて作品を作っていた。H・アール・カオスにいたことが理由の一つかもしれない。あるいは研修の成果か。

題は『Qualia』。本人と沼田志歩、長内裕美、菅原さちゑが踊る。途中、音楽に乗りすぎていると感じる部分もあったが、一つ一つの振りを一から考えている。しかも振付・フォーメイションに作為を感じさせなかった。それだけ考え抜かれ、練り上げられている。最後は現舞風フェイドアウトで終わった。ただし思い入れはなく、舞踏風に踊りながら。ダンサーたちは動きを全て自分のものにし、相互に有機的な関係を築いている。高いレヴェルで揃っていた。一人菅原が狂ったように踊っていて、じっと見てしまったが。どういう経歴だろうか。(11/15)

 

★[バレエ]  ボリショイ・バレエ

ボリショイ・バレエが2年ぶりに来日、グリゴローヴィチ版『白鳥の湖』と『ラ・バヤデール』、ファジェーチェフ版『ドン・キホーテ』を上演した。どれも19世紀のプティパ作品だが、前2作はマイムから舞踊へのモダン化を特徴とし、後者はボリショイの演劇性を生かす伝統的な改訂と、個性を分けている。アドリブかと思わせる自在な喜劇芝居にボリショイ本来の気風が感じられるが、心理重視、重厚な振付様式、美的フォーメイションを誇るグリゴローヴィチ作品も、一時代を築いた伝統として新たに生きられている。

特に興味深かったのがザハーロワのオデット=オディール。マリインスキー時代の、長い手脚を駆使した鮮やかなラインときらきら輝く演技が、張りのあるラインとアクセントの強い演技に取って代わっている。またモスクワ音楽劇場バレエ時代、絵に描いたようなダンスール・ノーブルだったセミョーン・チュージンが、ヴェトロフ薫陶の成果か、大きさ、ダイナミズムを旨とするボリショイ・ダンサーに変貌を遂げていた。「ボリショイの真のアーティストは、グリゴローヴィチ作品を2つ以上、踊っていなければならない」というアレクサンドロワの言葉(記者会見)の重みを思わされた。

今回注目の若手だったオリガ・スミルノワが故障降板のため、プリンシパルのエカテリーナ・クリサノワで3作品を見ることになった。クリサノワは生え抜きにも拘わらず、意外にもボリショイ風とは言えなかった。美しいラインを誇るマリインスキー移籍組とも、大劇場を掌握する剛胆なモスクワ姐御風とも、定型に身を委ね、場数によって成長していく抒情派とも異なる。やや小柄な体の一挙手一投足に、役への思考の痕跡を垣間見せ、なおかつ気品と真情にあふれる踊りである。繊細な腕使いも現在のボリショイでは異質。マイヨーの『じゃじゃ馬馴らし』初演組とのことだが、西欧の物語バレエで活きるタイプかも知れない。

他に女性では、『白鳥』トロワのクリスティーナ・クレトワ、ガムザッティのアンナ・チホミロワ、『ドン・キホーテ』のキャラクター・ソリスト勢が印象深い。男性では、ロットバルトのアルテミー・ベリャコフ、そしてバジル役ミハイル・ロブーヒンの明るい包容力と美しい脚が素晴らしかった。 若いコール・ド・バレエが後脚を跳ね上げる山下りは、ボリショイでしか味わえない爽快さ。厚みのある劇場管弦楽団の演奏(ハープ!)と共に、バレエ団の個性を十分に主張した来日公演だった。(11月20、26日 オーチャードホール 12月4、6日 東京文化会館) *『音楽舞踊新聞』No.2942(H27.2.1号)初出(2015.2/3)

 

★[美術][ダンス]  フェルディナント・ホドラー

標記展覧会を見た(11月21日 国立西洋美術館)。高校時代に大原美術館で『木を伐る人』を見て以来、好きな画家だった。画業を辿るのは初めて。ふんふんと見ていくと、『オイリュトミー』の題字が。ルドルフ・シュタイナーと関係があるのかと思いながら、次の部屋に行くと、エミール・ジャック=ダルクローズの「リトミック」の写真や彼のホドラー評が、参考資料として展示されていた。ホドラーの『昼』が、ジャック=ダルクローズの音楽と身体表現に影響を与えた可能性があるらしい。シュタイナーもジャック=ダルクローズもホドラーと同世代。同じ気運のなかで、生きてきたのだろうか。

画家ではやはりムンクに似ているなあと思う(同世代)。あとゴッホとか。途中で椅子に置いてある図録を見ていたら、『傷ついた若者』の参考図として、『ウィーン分離派展ポスター』が載っていたので驚いた。学生時代、机の前にずっと飾っていたお気に入りだったから。SECESSIONという文字の下に雲が描いてあって、一番下に傷ついた裸の若者が横たわる水色の絵葉書。一気に当時の気分を思い出した。

見ている時は、ふんふんだったが、見終わって体がほぐれているのに気が付いた。いいダンスを見た時と同じような感じ。一人のアーティストの個性に触れたから? 肉体を描いているから? 温泉効果とまでは行かないが、垢が取れたすっきりした気持ちになった。複数の画家を取り上げる美術館展では、なかなかこうはならない。(11/22)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

新国立劇場バレエ団が一年置き恒例の年末風物詩、アシュトン版『シンデレラ』(48年)を上演した。アシュトンのプティパ・オマージュ、古典作品の再解釈であり、物語性と儀式性が絶妙に絡み合う傑作である。前回は監修者ウェンディ・エリス・サムスの来日指導で、細やかなドラマの流れが再確認されたが、今回は、指揮者マーティン・イェーツの妥協を許さない音楽作りが舞台を主導した。

主役は4組(7回公演)。初日の小野絢子と福岡雄大は名実共に看板コンビとなった。小野は容姿、技術、音楽性の全てを生かし、アシュトン振付の機微を美しく視覚化する。福岡はアダージョも万全、ゆったりと華やかな王子だった。パートナーシップも光り輝いている。

二日目は米沢唯と菅野英男。米沢の全身全霊を捧げた踊りを、菅野が暖かく見守る精神性の高い組み合わせである。アモローソでは観客と地続きの静かな幸福感が劇場を包んだ。菅野はノーブルな姿を取り戻している。

三日目は長田佳世と奥村康祐(最終日所見)。長田は、誠実さが最後に報われることを身体化できるシンデレラ・ダンサー。音楽を生きる自然な踊り、鮮やかな足技、特に花開くようなデヴェロッペが素晴らしい。奥村は意外にも、他日配役のペーソスあふれる道化に精彩があった。

四日目の寺田亜沙子と井澤駿は共に初役。寺田は伸びやかなラインと芝居を楽しむ能力で、きらきらと輝くシンデレラを造型。新人の井澤は登場するだけで王子のオーラを発散する逸材だった。踊り、演技、サポートもクールにこなしている。

もう一方の主役、義理の姉たちは、組み合わせに違いはあるが前回同様、山本隆之と野崎哲也、古川和則と高橋一輝。華やか組と、ほのぼの面白組、それぞれ客席から笑いを勝ち取っている。

仙女の本島美和は圧倒的な存在感、堀口純は輝かしさ、細田千晶は少し線は細いが美しい踊りで、道化の八幡顕光は切れのよい踊り、福田圭吾は素直な献身性、奥村は観客とのコミュニケーション能力で舞台に貢献した。またウェリントン・貝川鐵夫の貫禄、ダンス教師・加藤大和の芝居っ気、床屋・宇賀大将の奇矯さが印象深い。

四季の精は、再演の夏の堀口、秋の奥田花純が個性を発揮したが、春の新人、柴山紗帆の音楽性、絶対的なフォルムには驚かされた。四季のいずれも踊れる気がする。

顔ぶれが変わった王子の友人、星の精、マズルカ・アンサンブルが安定した踊りで、作品の定着を示している。東京フィルはイェーツの真摯な姿勢に引っ張られて、緊張感あふれる演奏だった。(12月14、18、20、21、23日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2943(H27.2.15号)初出

 

*イェーツは楽譜を片時も離さず、舞台もほとんど見ていないようだったので、謹厳なタイプかと思ったのだが、実は『シンデレラ』は初めてだったらしい。ロイヤルで振っているのに、そんなことがあるのだろうか。(2015.2/14)

 

★[バレエ]  「2014年12月の公演から」

●牧阿佐美バレヱ団

三谷恭三版『くるみ割り人形』。音楽と呼応したウォーカー美術とピヤント照明による繊細な場面転換が素晴らしい。主役の青山季可は本調子とは言えなかったが、全身で微笑むような佇まい。清瀧千晴は、鮮やかな跳躍そのままに王子らしさを身に付け始めた。アラブの久保茉莉恵や細野生の甥を始め、男女共に子役から、ソリスト、アンサンブルまで見応えのある舞台だった。ガーフォース指揮、東京ニューシティ管弦楽団。(12月13日昼 ゆうぽうとホール)

 

東京文化会館主催「日本舞踊×オーケストラ」

オーケストラ演奏で日本舞踊を踊る企画第二弾。目玉は、吉田都が34人の男性舞踊家を従えて踊る『ボレロ』(振付・シルヴェストリン)だったが、バレエとの関わりで面白かったのは、前回『ペトルーシュカ』を振り付けた五條珠實の『ライラック・ガーデン』(ショーソン『詩曲』使用)。チューダー同名作を鹿鳴館時代に置き換えている。装置はなく(なぜか本作のみ)、4人の男女のドラマがコロスのような女性6人を背景に展開される。フォーメイションは洋舞形式。新派風のメロドラマだがウィットがあり、前作同様、日舞の動きを相対化する振付家の視線を窺わせた。園田隆一郎指揮、東京フィル。(12年13日夜 東京文化会館

 

●バレエシャンブルウエス

今村博明・川口ゆり子版『くるみ割り人形』。オークネフの豪華な美術を背景に、統一されたスタイルと確かな技術を持つダンサー達を間近に見ることが出来る。主役の松村里沙は、もう少し役作りを試みたいが、行き届いた踊り。正木亮はノーブルで献身的なパートナーだった。雪の女王・藤吉千草、花のワルツ・田中麻衣子、ハレーキン・吉本泰久、葦笛の川口まりと土方一生が、バレエ団のダイナミックで美しいスタイルを体現している。江藤勝己指揮、東京ニューシティ管弦楽団。(12月19日 八王子市芸術文化会館いちょうホール)

 

東京バレエ団

同団芸術スタッフ版『くるみ割り人形』。ワイノーネン版を基にした従来の版にプロジェクション・マッピングを掛けて、新しく蘇らせた。アクロバティックな要素を和風に変えた振付が、ほのぼのと懐かしい。主役の沖香菜子は伸びやかなラインと、開放的な芸風を持つ逸材。梅澤紘貴はノーブルなラインと、パ・ド・ドゥを作れる才能の持ち主。マラーホフの指導を受けて、晴れやかなアダージョを披露した。オブジャニコフ指揮、シアターオーケストラトーキョー。(12月20日 東京文化会館

 

●バレエ団ピッコロ

松崎すみ子版『シンデレラ』全二幕。松崎版の長所は、子供達が今現在を肯定されて、生き生きと踊る点、各国巡りと、王子と道化の道中(互いに疲れては、励まされる)の面白さにある。主役の下村由理恵は叙情性があり、適役のはずだが、残念ながら美質を発揮することはなかった。佐々木大も道化との対話に物足りなさを残す。やや重くなった空気を体を張って払拭したのが、道化の小出顕太郎。彼がいなかったら作品の良さも伝わらなかった。佐野朋太郎を始めとするアクリ門下が、イタリア派の明晰な踊りを披露し、演技でも貢献した。(12月25日 東京芸術劇場プレイハウス)

 

小林紀子バレエ・シアター

小林紀子版『くるみ割り人形』。雪と花のワルツにワイノーネン振付が残されている。振付の独自性よりも、コンパクトで品のあるスタイルが強調された版である。主役の高橋怜子は、これまで美しいお人形のような踊りだったが、あっけらかんとした中にも、何か人間味を感じさせるようになった。美しいアラベスク、繊細な腕使いはこれまで通り。ゲストはアントニーノ・ステラ(ミラノ・スカラ座)。後藤和雄のドロッセルマイヤー、冨川直樹のアラビアが、濃厚な色気を醸し出している。井田勝大指揮、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。(12月26日 メルパルクホール

 

キエフ・バレエ

マリインスキーともボリショイとも異なる、古風なロシア・スタイルを保持する。フォーキンの二作品を上演した。『レ・シルフィード』の精妙な腕使いと足音のしない繊細な足捌き、『シェヘラザード』のマイムの説得力、振付の音楽性、群舞のエネルギー、そしてゾベイダのフィリピエワと、金の奴隷プトロフの、役を生きる演技と踊りが素晴らしかった。それぞれがフォーキンの息吹を伝える演出である。ミコラ・ジャジューラ指揮、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団。(12月28日 オーチャードホール) *『音楽舞踊新聞』No.2942(H27.2.1号)初出(2015.12/13)

 

★[バレエ]  2014バレエ総評

2014年バレエ公演を振り返る(含13年12月)。今年最大の出来事は、デヴィッド・ビントレーが、新国立劇場バレエ団芸術監督の4年にわたる任期を終えたことである。ビントレーの功績は、優れたオリジナル作品『パゴダの王子』を創作したこと、批評的なトリプル・ビルを組んで、観客層の拡大を目指したこと、団員の可能性を伸ばす配役により、結果的にバレエ団を有機的な集団に変えたこと、団員創作の場を作ったことにある。文化行政の異なる地で、芸術監督の文化的、社会的な理想形を身をもって示した。

シーズン終盤に上演された『ファスター』、『カルミナ・ブラーナ』、『パゴダの王子』は、ビントレーの音楽性、文学性、ユーモア、誠実さの証しである。オリジナルの『パゴダ』、『アラジン』は当然だが、『カルミナ』、『ペンギン・カフェ』も再演を期待したい。新芸術監督の大原永子は、古典の頂点『眠れる森の美女』新制作でシーズンを開幕した。W・イーグリングによる英国伝統版の導入は、「英国スタイル」と「古典」というバレエ団の未来を予告している。

民間バレエ団では、各座付き振付家が個性を競った。シンフォニック・バレエとマイムが共存する関直人の『眠りの森の美女』(井上バレエ団)、独自の舞踊言語が祝祭性を喚起する清水哲太郎の『シンデレラ』(松山バレエ団)、身内から生み出されたパ・ド・ドゥを核とする中島伸欣の『ロミオとジュリエット』(東京シティ・バレエ団、部分振付・石井清子)、ラディカルな音楽性を誇る鈴木稔の『白鳥の湖』&『くるみ割り人形』短縮版(スターダンサーズ・バレエ団)、音楽的でイメージ造型が明確な熊川哲也の『ラ・バヤデール』と『カルメン』新制作(Kバレエカンパニー)である。

また谷桃子勢として、オッフェンバックの精髄を鷲掴みにし、ダンサーに注ぎ込んだ伊藤範子の『ホフマンの恋』(世田谷クラシックバレエ連盟)、エネルギッシュで機嫌の良い音楽性を持つ岩上純のシンフォニック・バレエ(日本バレエ協会、世田谷)が成果を上げた。メッセレル作品、高部尚子作品と併せて、団の柱として欲しい。

コンテンポラリー・ダンスでは、金森穣が新作『カルメン』で演出を集大成し、感情の迸る優れたソロ、デュオを創り上げた(Noism1×2)。またベテラン間宮則夫の傑作『ダンスパステル』(早川惠美子・博子バレエスタジオ)、島崎徹のオーガニックな『ALBUM』(日本バレエ協会)が印象深い。新国立劇場出身のキミホ・ハルバート(日本バレエ協会)、井口裕之(テアトル・ド・バレエ・カンパニー)、貝川鐵夫、福田圭吾(共に新国立劇場)も若手振付家としての手腕を発揮した。

海外振付家ではプロコフスキー(日本バレエ協会)、ノイマイヤー(東京バレエ団)、ラトマンスキー(ABT)の全幕上演ほか、チューダー(NBAバレエ団)、マクミラン小林紀子バレエ・シアター)、ピンク(NBA)の英国勢、バランシン(新国立劇場)、ショルツ(東京シティ)のシンフォニック・バレエ、ラング(新国立劇場)、ゲッケとユーリ・ン(スタジオアーキタンツ)、フォーサイス埼玉県芸術文化振興財団)のコンテンポラリー作品と、充実していた。

ダンサーでは、女性から上演順に一人一役で、酒井はなのアンナ・カレーニナ、志賀育恵のオデット、沖香菜子のジュリエット、長田佳世のオデット=オディール、林ゆりえの王女、湯川麻美子、米沢唯のフォルトゥナ、熊野文香の時の女王、青山季可のキトリ、井関佐和子のカルメン、長崎真湖(ティペット)、門沙也香(モンテロ)、島添亮子、喜入依里(マクミラン)、田澤祥子のルーシー、小野絢子のオーロラ、本島美和のカラボス。番外は片桐はいり(小野寺修二)。

男性では、梅澤紘貴の勘平、奥村康祐のジークフリート、浅田良和の黒の勇者、藤野暢央のカラボス、岩上純のマルセリーヌ、池本祥真のソロル、山本隆之のオーベロン、福岡雄大の神学生3、菅野英男のパゴダの王子、大森康正(チューダー)、法村圭緒の詩人、大貫勇輔のドラキュラ、風間無限の漁夫の魂。海外ではフランソンのグエン、ムンタギロフのデジレに規範があった。 *『音楽舞踊新聞』No2941(H27.1.1/15号)初出(12/29)

2013年公演評

★[バレエ]  冨田実里バレエ指揮デビュー

神奈川ブロック『ドン・キホーテ日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックの自主公演で、女性指揮者の冨田実里がバレエ指揮のデビューを果たした。 作品は『ドン・キホーテ』、オケは俊友会管弦楽団

冨田は国立音大ピアノ専攻卒、桐朋学園大学の指揮教室にて堤俊作より学ぶ。ロームミュージックファンデーション音楽セミナー指揮者クラスで、小澤征爾、湯浅勇治、三ツ石潤司の指導を受ける。バレエのリハーサルピアニストとしては、日本バレエ協会『眠りの森の美女』『ジゼル』『卒業舞踏会』、新国立劇場バレエ団『アラジン』『シンフォニー・イン・C』『火の鳥』『ペンギンカフェ』『マノン』等を担当した(プログラムより)。

オケは時々、ホケッと管がフライングしたりしたが、冨田の明晰で情熱あふれる指揮に、情熱で応えていた。ダンサーをよく見たメリハリあるテンポが気持ちよく、冒頭から舞台に引き込まれた。カーテンコールは、男性主役がエスコート。なぜか胸がじんとした。

演出は大ヴェテランの横瀬三郎。勘所を押さえた構成、力みのない演出、高難度のソロ振付、活気あふれるアンサンブル振付と揃っている。主役の樋口ゆり、浅田良和の元Kバレエコンビも、技術はもちろんのこと、主役の成すべきことを心得たプロらしい舞台。桝竹眞也のドン・キホーテ、岩上純のサンチョ・パンサ、マシモ・アクリのガマーシュと贅沢な配役で、演技そのものを楽しめる充実した公演だった。(1月13日 神奈川県民ホール)(1/17)

 

★[バレエ][ダンス]  新国立劇場バレエ団「ダイナミック・ダンス!」公開舞台リハーサル

明後日から上演の「ダイナミック・ダンス!」公開舞台リハーサルを見た(1月21日 新国立劇場中劇場)。 2011.3.11の影響で直前に上演中止となったプログラムである。参加者は東日本大震災の復興支援に500円以上の寄附を求められた。チャリティー・リハーサルということ。

リハーサルに先立って芸術監督ビントレーのお話。「先週、小野絢子と福島のバレエ学校に行ってきた。どれだけ震災の影響があり、どれだけ復興しているかを見るため。NHKのドキュメンタリーの一環。今日もカメラを担いだ男の人が付いて回るが、これは作品の一部ではないので(笑)。」

先週金曜日にメディア向けのシーズンラインアップ説明会と記者懇談会があった。その懇談会の席で、ピントレー監督がアウトリーチについて語ったことを思い出した。「BRBでは年間500もの企画を行なっている。学校、障碍者、また受刑者など様々なアウトリーチをやる。イスラムの学校の時は、女性ダンサーだけ行って、窓を目隠ししてやった。後で、生徒が今までで一番楽しかったと言うのを聞いて、嬉しかった。新国でもやろうとしたけど、とっかかりも作れなかった、残念。」 ビントレーの社会貢献、社会の福祉に関わる姿勢は、震災直後のBRB来日の際、すぐにチャリティー公演を行なったことでも明らかだった。本当は新国立が先陣を切らなければならないはずだが(国税で成り立っているのだから)。

ビントレーは『パゴダの王子』において、家族が団結することで、国が健康を取り戻す過程を描き、復興への祈りをこめた。日本の美術(国芳)と身体(能)を取り入れることは、震災前から決まっていたが、その日本へのオマージュがどれほど我々の慰めになったことか。さらに適材適所の配役をすることで、バレエ団を有機的な組織に変え、バレエ団と観客に希望をもたらした。あるべき芸術監督の姿。

リハーサルはビントレー作品『テイク・ファイヴ』。場当たりをファーストキャストが行ない、ファーストキャストの本番、ダメ出し、セカンドキャストの本番、と続いた(2時間超)。同じ振付を2キャストが続けて踊ることで、ダンサーの個性がよく分かる。それを監督が熟知していて、肯定していることも。ダンサーは伸び伸びと踊っている。 いつも、誰がこうとか、誰がああとか好きなことを言っているが、リハーサルとして見ると、ダンサーたちがいかに細かい動きを記憶し、遂行しているかを思い知らされる。音と渾然一体となる動きが、どれほどの微細な身体コントロールによって行われていることか。バレエダンサーは特殊技能者であり、職業として確立されるべき。モンゴルの国立ホーミー歌手は、過酷な仕事なので、年金支給までの就業期間が短い。それを思い出す。彼我の差はありすぎだけど。(1/22)

 

★[バレエ]  スペイン国立バレエ団

スペイン国立バレエ団来日公演Bプロを見た(2月6日 オーチャードホール) バレエ団と名がついているが、主にフラメンコ作品がレパートリー。75年生まれのアントニオ・ナハーロが芸術監督に就任して初めての来日だった(バレエ団としては6年ぶり)。 Bプロはバレエ団の代表的レパートリー『メデア』(84年)、『ファルーカ』(84年)、『ボレロ』(88年)に、昨年初演の『ホタ~《ラ・ドローレス》より』というプログラム。その『ホタ』が面白かった。

振付はピラール・アリソン。父ペドロ・アリソンが83年、国立バレエ団に振り付けた版を基に、サルスエラ『ラ・ドローレス』中の舞踊シーンに振り付けたもの。ホタはアラゴン地方の民族舞踊で、男女ともにリボンで足に結ぶエスパドリーユを履く(プログラムより)。カスタネットもフラメンコとは違い、中指ゴム。踊り自体も、地面を踏み鳴らすフラメンコとは違い、つま先やかかとで床を打つ。ひざ下はロン・ド・ジャンブのように回したり、斜めに交差させ、そのまま片足ジャンプしたりする(男)。足技の細やかさは、ヨーロッパのその他の民族舞踊を思わせるが、舞台仕様なのか、洗練されていて複雑だった。跳ねる系の舞踊。

ダンサーたちは、フラメンコとは真逆の踊りを楽しそうに踊っていた。フラメンコのパトスに満ちた重厚さ、ホタのエネルギッシュな明るさ、の両方を表現できなければならないのだろう。背の高い男性ダンサーが多く、『メデア』『ファルーカ』ではフラメンコのマチズモが炸裂した。(2/9)

 

★[バレエ][ダンス]  新国立劇場バレエ団「ダイナミック・ダンス!」

新国立劇場バレエ団が中劇場公演として「ダイナミック ダンス!」を上演した。バロック、ジャズ、ミニマル・ミュージックを堪能でき、配役の妙を味わえる、優れたトリプル・ビルである。

この公演は2011年3月に予定されていたが、直前に起きた東日本大震災のため中止となった経緯がある。バレエ団は今回の上演に先立ち、復興支援の寄附を入場料とする公開リハーサルを行なっている。

幕開きは、バッハの『二つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調』に振り付けられた『コンチェルト・バロッコ』(40年)。フレーズを絵にしたような美しいアダージョ、大胆な脚遣いと強烈なポアント・ワーク、腕繋ぎや通りゃんせを用いたフォーメイション、人体の集合フォルムなど、バランシン振付の面白さが凝縮されている。

二作目の『テイク・ファイヴ』(07年)は昨年末亡くなったブルーベックと、デズモンドの代表曲に、デヴィッド・ビントレーが精緻な振付を施した。変拍子ボサノヴァでは青春の爽やかなエネルギー、ブルースではその憂愁が、音楽と不可分の切れ味鋭いステップで描き出される。ジャズを子守唄に育ったビントレーの円熟の境地。50年代の若者の衣裳、ブルーを基調とする照明も作品世界を補強している。

最後の『イン・ジ・アッパー・ルーム』はトワイラ・サープの振付、フィリップ・グラスの委嘱曲、ノーマ・カマリの衣裳、ジェニファー・ティプトンの照明のコラボレーション。題名は聖書からの引用。冒頭の女性二人が、湯気のようなスモークと共に結界を作る。

振付はスニーカーの男女3組と、バレエの男女3組に分かれ、一人の女性がそれを行き来する。タップ、エアロビクス、ヨガ(?)と、バレエは同列。グラスの腹式呼吸のようなメロディ、延々繰り返されるリズムと、ダンサーを無意識へと駆り立てるハードな動きに、空間は溶解し、会場全体が朦朧体と化す。仕上がりはあまり関係なく、ダンサーが踊ったことに意味のある作品。

この異種三作は、音楽的にも振付的にも、地下水脈で繋がっている(サープのバランシン引用あり)。観客はまず視覚で喜び、変拍子に体を揺らし、最後には体全体が解きほぐされる。的確な作品選択、絶妙な上演順だった。

バランシンのアンサンブルを除いて、全てダブルキャスト。例外は急遽シングルになった原健太(サープ)。4日間5公演を踊り抜いた。

全作出演の小野絢子は、美しいラインを生かした繊細できらめく踊りをバランシンで披露。山本隆之の物語性を帯びた濃密なサポートを、受け止められた結果である。同じく全作の米沢唯は、ビントレー作品で4人の青年と軽やかに踊った。湯川麻美子との意外なダブル配役。米沢を自分に固執させまいとする、ビントレーの愛情だろう。

同じく全作組では、長田佳世が、音楽と一体となった男前の踊りをサープ作品で、また寺田亜沙子が透明感あふれるバランシンを披露した。

ビントレー作品で印象深かったのは、八幡顕光、福田圭吾、奥村康祐の超絶技巧組と、個性派古川和則が生き生きとした踊りを見せたこと。そして本島美和と厚地康雄のデュエット。本島の濃厚な情念と大きな存在感、厚地の爽やかな色気が大人の恋を描き出した。

サープ作品は参加することに意義があるのだが、やはり前回『プッシュ・カムズ・トゥ・ショヴ』で主演した福田は、体がほどけ、楽に呼吸をしている。またスタイル解釈に優れた厚木三杏が、サープ振付のイデアを提供した。音楽がくまなく聞こえる。若手の盆小原美奈の巧さ、原の緩さ加減も楽しかった。

演奏は、バッハがVn漆原啓子藤江扶紀、指揮大井剛史、新国立劇場弦楽アンサンブル。ブルーベックが荒武裕一朗、菅野浩、石川隆一、力武誠、ダンサーとの呼吸の一致はまさにジャズの醍醐味だった。(1月24、25、26夜、27日 新国立劇場中劇場)  『音楽舞踊新聞』No.2892(H25・3・1号)初出

 

*米沢唯について、なぜ評中のように思ったのか。実は公開リハーサルでは、『テイク・ファイヴ』の同名曲の最後は別の演出だった。米沢(湯川)が4人の青年と次々に踊り、最後は「トゥー・ステップ」で本命の女性とデュオを踊ることになる福岡(厚地)に、軽く振られるはずだった。米沢はそれを、深く振られ、がっくりと肩を落とした。三日後の本番では、「二人は明るく下手に去る」という演出に変更されている。このことから察するに、ビントレーは米沢に実存を反映させない配役を選んだのではないか。プロとして、引き出しを増やす、あるいは振付家に寄り添うことを期待したのではないか。

厚木三杏は振付・演出の可能性の中心を把握するダンサーである。クラシックからコンテンポラリーまで、その振付家の意図するところを百パーセント実現できる。米沢は振付を契機として、フィクションを自分で再構築する。そのためアブストラクトの場合は、踊りの密度は高くても、作品との乖離を感じさせる。厚木は振付家、米沢は演出家を父に持つが、そのことと関係があるのだろうか。(3/2)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ジゼル』

新国立劇場バレエ団がロマンティック・バレエの名作『ジゼル』を、7年振りに上演した。改訂振付はキーロフのK・セルゲーエフ、演出はシーズンゲスト・バレエマスターのデズモンド・ケリー(BRB)という、やや変則的な布陣である。

セルゲーエフ版はマイムを切り詰め、舞踊そのもので舞台運びを行なう。ケリーは枠組そのままに明確なマイム指導を加えることで、ドラマの細かい筋道を可視化した。前回指導の『ロメオとジュリエット』同様、アンサンブルが個人を生き切る全員参加型の舞台である。ウィリたちも伸びやか。古典的な様式性は後退したが、若い活気にあふれた舞台だった。

キャストは3組。ENB話題のコンビ、ダリア・クリメントヴァとワディム・ムンタギロフのゲスト組に、長田佳世と菅野英男、米沢唯と厚地康雄のバレエ団2組である(小野絢子、福岡雄大はBRB『アラジン』に出演のため不在)。

ベテランのクリメントヴァと若手のムンタギロフは、ほぼ20歳の年の差を全く感じさせない自然なパートナーシップを見せた。二人ともチェコとロシアという旧共産圏で生まれ、英国でキャリアを積み、教育を受けた共通点がある。優れた身体能力と正確な技術に、英国の細やかな演技指導が加わって、墨絵のような『ジゼル』を創り出すことに成功している。

クリメントヴァの透明で繊細な演技は、これ見よがしのないという言葉も不要。特に狂乱と二幕がすばらしく、その作意のなさは演技の一つの頂点を示している。じんわりと胸に迫るそこはかとない味わいに、カーテンコールは長く続いた。一方ムンタギロフも、佇まいのみでノーブルな育ちの良さを窺わせる。二幕の悠揚迫らぬ踊り、鮮やかなのに、銀ねずのような渋さがある。久々の英国系ダンスール・ノーブルである。

初日の長田は一幕の真情のこもった演技に持ち味を発揮した。素朴で初々しく真実味がある。二幕終幕の別れも、アルベルトへの想いが体全体から漂い流れた。ただ二幕の踊りは、情熱を内に秘めた方がよかったかも知れない。アルベルトの菅野も、誠実で一貫した役作り。清潔な佇まい、基本に忠実な踊りが、清々しい舞台を作り上げた。

バレエ団もう一人のジゼル米沢は、やはり俯瞰的な役作りを見せた。一幕は死者の昔語り、二幕が現在の姿に見える。終幕は能の身体。この世の者でないことを、演技ではなく境地で見せる。いわゆるバレエ的な表現ではないが、観客は米沢の舞台を、熱狂的に受け止めている。現在性を強く感じさせるからだろう。対する厚地は、意外にも濃厚な役作りだった。言い寄るアルベルト。少し硬さも見られたが、スレンダーな身体で、大きな踊りを披露した。

ミルタは3週間前まで「ダイナミック・ダンス!」でスニーカーを履いていた厚木三杏、本島美和と、2週間前まで『タンホイザー』のバッカナーレを踊っていた堀口純。厚木は全てに行き届いた演技と踊り、本島は存在感の大きさと統率力で二幕の要となった。堀口は美しいが、まだ男を取り殺す腹がない。

ハンスは、言葉の聞こえるマイムを見せたトレウバエフ、人情味あふれる古川和則、熱血輪島拓也という配役。バチルド湯川麻美子、ウィルフリード田中俊太郎、清水裕三郎ははまり役。4組の村人パ・ド・ドゥのうちクラシックの様式性を感じさせたのは、江本拓と細田千晶の二人だった。

指揮は井田勝大。ややタイトなコントロールだったが、的確なテンポに覇気ある指揮振りで、東京交響楽団の持ち味である重厚な音を引き出している。(2月17、20、22、23日 新国立劇場オペラパレス)  『音楽舞踊新聞』No.2895(H25・4・1号)初出(3/29)

 

★[バレエ]  NBAバレエ団「ディアギレフの夕べ」

NBAバレエ団がフォーキン振付の4作品を集めて、「ディアギレフの夕べ」を催した。再演の『ル・カルナヴァル』(10年)、『ポロヴェッツ人の踊り』(09年)、『ショピニアーナ』(09年)と、本邦初演『クレオパトラ』(09年)である。

再演3作は、適材適所の配役と、美的基準の明確な演出により、緻密な仕上がりだった。特に幕開けの『ル・カルナヴァル』は、ヴィハレフ復元の繊細な香りを、初演時よりも伝えている。シューマンの同名ピアノ曲に登場する人物(シューマンの分身、憧れの女性、妻、コメディア・デラルテの人達)が、音楽そのままに演じ踊る。マイムと踊りの情感が途切れることなく続き、シューマンの繊細な叙情性と激しい熱情に身を委ねることができた(オーケストラ編曲版による)。

アルルカンの貫渡竹暁の華やかな踊りが素晴らしい(初日・皆川知宏)。グラン・プリエからのピルエットを始め、軽い跳躍、指さしの決め技、そしてチャラチャラした色気、適役である。またピエロの大森康正(両日)は、白い長袖をゆったり膨らませて、心に沁みるペーソスを醸し出した。軽やかな跳躍と消え入るような退場が、残像となって舞台を彩る。

竹内碧(初日・小島沙耶香)のコロンビーヌを始め、女性陣も適役。パンタロン役ジョン・ヘンリー・リード(両日)が、優れた演技で舞台を引き締めた。バレエ・リュスの重要な遺産。音楽の魅力にあふれた貴重なレパートリーである。

二作続けて上演された『ポロヴェッツ人の踊り』と『ショピニアーナ』もヴィハレフ復元。それぞれロプホフ版、ワガノワ版に基づく。前者の男女群舞、後者の女性群舞は共に音楽的で、スタイルが統一されている。ポロヴェッツ人の野蛮な熱気、シルフィード達の絵画のようなフォルムに、対照の妙があった。 ポロヴェッツの男性、泊陽平(初日・リード)の覇気ある踊り、少女、坂本菜穂(初日・原田貴子)の切れのよい動きが印象深い。

最終演目『クレオパトラ』はアレクサンドル・ミシューチンによる再振付。プログラムによると抜粋が残っているとのことだが、どの部分かを明示して欲しかった。

音楽はアレンスキーを枠組に、グリンカリムスキー・コルサコフムソルグスキーグラズノフを加えた複雑な構成。ただし筋書き・人物名はC・ボーモント(41年)の記述とは異なるため、マリインスキー上演版と思われる。

美術・衣裳はレオン・バクストを模したもので、ピラミッドを遠景に、巨大神殿の踊り場が舞台。原色に金銀を交えた美しい衣裳と共に、バレエ・リュス当時を偲ばせる。

振付は『ラ・バヤデール』風あり、エジプト風ありのキャラクター・ダンス。マイムが少なめなので、全体がディヴェルティスマンのように感じられる。再演時には踊りもこなれ、ドラマの流れも出てくるだろう。音楽の統一感がないので、余程強引な演出力が求められる。

バレエ・リュス初演時にはイダ・ルビンシュテインが演じたクレオパトラには、キエフ・バレエ団のエリザヴェータ・チェプラソワ。美しい肢体にくっきりした顔かたちで、残酷な妖艶さを体現した。一方クレオパトラに魅入られ、一夜の情事と引き替えに命を落とすアモンには、リード。情熱的な演技と大きな踊りで舞台に貢献した。

恋人アモンをクレオパトラに取られるビリニカ役、峰岸千晶の哀しみに満ちた踊りも印象深い。

バレエ・リュス初期の4作品を一挙上演することで、振付家フォーキンの革新的な部分と、伝統に寄り添った部分の両方を見ることができた。 例によって、榊原徹指揮、東京劇場管弦楽団による高レヴェルの演奏が、舞台の質を高めている。(2月23日 ゆうぽうとホール) 『音楽舞踊新聞』No.2895(H25・4・1号)初出(3/30)

 

★[ダンス][演劇]  山崎広太・鈴木ユキオ・平原慎太郎@『ネエアンタ』&『ASLEEP TO THE WORLD』

3人の優れた男性ダンサーを見た。 山崎はARICA『ネエアンタ』(2月28日、3月1日 森下スタジオCスタジオ)、鈴木と平原は青山円形劇場の『ASLEEP TO THE WORLD』(3月9日)。

『ネエアンタ』はベケットのテレビ・スクリプトを舞台化したものである。元は、男性俳優をテレビカメラが写し続け(アップの距離、秒数を指定)、姿を見せない女性のセリフに、男性が顔で反応する作品。それを山崎が身体で反応し、同じシークエンスをニュアンス、動きを変えることで、時間経過を見せている。まずベッドに座って動かずに踊り、裸電球の点滅を合図に、立って窓のところに行き、カーテンを開け、閉める。そして冷蔵庫と関わったあと、ドアに向かって対角に歩行、開いたドアを閉め、ベッドに戻るというシークエンスである。終盤、広太踊りの現在形とも言える、世界を穿つソロの他は、動かない踊りに終始する。演出家藤田康城との共同作業の結果、山崎の可能性の一角が現前された。ベッドでの動かない踊り(内部では明らかに動いており、濃密な時間が流れる)。冷蔵庫に頭を突っ込んで脚を突っ張る冷蔵庫とのデュオ(鮮烈な脚は、肉体の充実を窺わせる)。そして幾通りにもニュアンスを変える対角の歩行、厚木凡人の「パクストンの歩行はグラン・パ・ド・ドゥだった」という言葉を思い出させた。山崎自身はポストトークで「ジャドソンはニュートラル、自分は日本人として違ったものを出したかった」と語っているが。 演出には疑問もある(なぜ女性を表に出したのか、とか)が、藤田が山崎を丸ごと理解していることが、ポストトークでよく分かった。

『ASLEEP』は中村恩恵の振付(出演なし)、共同振付は鈴木、平原、音楽・演奏は内橋和久、ドラマトゥルクに廣田あつ子という布陣。全体の構想は中村、所々中村振付(生々しくキリアン風の部分も)、ソロは鈴木、平原が各自という感じだろうか。

中村振付を二人がユニゾンで踊るときが面白い。鈴木は中村のタスクを易々とこなし、自分の空間に歪曲する。平原は振付を誠実に追って、自分の肉体との齟齬を露わにする。鈴木の空間感覚、空間構成力がずば抜けていて、踊りながら常に演出しているのに対し、平原は外界との対話で自分の内から出てくるものを注視している。体の質感も対照的。鈴木が鋼鉄のような重さ、密度を感じさせるのに対し、平原は柔らかく受け身。見た目も、鈴木はガンダーラ仏、平原は犠牲としてのキリストである。

この座組みの良かった点は、枠を与えることにより、二人の優れたダンサーが思い切りソロを踊れたことである。中村の家は代々キリスト教徒とのことで(プログラム)、中村作品の文学性、意味性の強さに合点が行った。 山崎の出自は舞踏+バレエ、鈴木は舞踏、平原はバレエ+ヒップホップ。山崎は笠井叡門下、鈴木はアスベスト館出身で、同門に近い。一方、山崎は平原に注目していて、自ら主宰するWWFesでも起用し、インタヴューも行なっている。3人ともスター性があり、体を投げ出すことができる。一緒に踊るとどうなのか。常識の彼方にいるのは、山崎がダントツだけど。鈴木は山崎に空間を与え、平原はノイズムでもそうだったように犠牲の仔羊になるだろう。(3/12)

 

★[バレエ]  酒井はな@日本バレエ協会白鳥の湖

日本バレエ協会が都民芸術フェスティバル参加作品として、ゴルスキー版『白鳥の湖』を上演、その三日目を見た(3月17日 東京文化会館)。

監修はベラルーシ国立ミンスク・ボリショイ・オペラ・バレエ劇場を長年率いたワレンチン・N・エリザリエフ。2004年にはNBAバレエ団に『エスメラルダ』、2011年には、バレエ協会に『ドン・キホーテ』を振り付けている。 ゴルスキー版と言えば、東京バレエ団の『白鳥』。アサフ・メッセレルとイーゴリ・スミルノフが、64年に改訂導入したボリショイ版である。二幕湖畔のコール・ド・バレエが背景に留まらず、主役を凌駕するほどダイナミックに動く点が大きな特徴。今回のエリザリエフ監修版では、そうした演出は見られなかった。他に目立った違いは、道化の扱い。東バでは、片脚を前に伸ばして座り、両腕を前に寄り合わせてパタンと前傾する古風な挨拶が見られたが、今回はなし。代わりに一幕、三幕では所狭しと回転技を披露する。ディヴェルティスマンの前振りとして踊るのを、初めて見た(ディヴェルティスマン自体、東バ版の方が古風な味わいが残る)。東バ版も踊りが多いが、それよりも多い印象。エリザリエフは『ドン・キホーテ』でも踊りを細かく挿入していた。今回もその気がある。エリザリエフのエネルギッシュな方向性が反映された版のように思われる。

酒井はなの『白鳥』を見るのは5年ぶりだった。新国立劇場オペラ劇場で見るたびに、ものすごく疲れたことを思い出す。今回も疲れた。帰りの山手線で一瞬眠りそうになったほど。新国立時代の白鳥と比べると、内に向かっていたエネルギーが、外向きになったような気がする(以前は勝手に座敷舞と称していた)。今回はもっと生々しく、一つ一つのフォルムに思いを充満させている。一昨年の「オールニッポンバレエガラ」で見た『瀕死の白鳥』を思い出した。踊りのフレージングがなく、エネルギーの塊としてのフォルムが数珠つなぎになっている。また重心が低く、丹田がエネルギーの中心のように感じられる。つまりバレエ(腰高で上昇する踊り)には見えない。そのことと、見ていて異常に疲れることとは関係あるのだろうか。酒井が舞台で格闘していて、それに体ごと引き込まれる、そんな感じ。『白鳥』に限られるが。 序曲が流れると、胸がグーッと熱くなった。福田一雄の指揮(東京ニューフィルハーモニック管弦楽団)。このようにバレエ音楽を愛する指揮者はいない。ドリーブの一音一音を愛でるような指揮、プロコフィエフのたった一音でドラマを立ち上げる指揮、そして自らドラマを生きるような『白鳥』の指揮。指揮台に立つだけで、福田一雄の音になる。年下の誰よりも熱い指揮だった。(3/20)

 

★[ダンス][バレエ]  新国立劇場バレエ団「Dance to the Future 2013」

新国立劇場バレエ団公演「Dance to the Future 2013」を見た(3月26、27日 新国立劇場中劇場)。因みにボックスオフィスのチケット販売状況掲示板にNBJ(The National Ballet of Japan の略称)の表示があって、少し驚いた。世界でこの略称が流通する日が来るのだろうか。海外公演を打つ日が来るのだろうか。ビントレーが続けていれば、少しは可能性があったのか。でもアウトリーチもできない劇場(構造)では。まずは国内ツアーができるようになることが先決だ。

プログラムは中村恩恵振付が3作品、金森穣振付が1作品。昨年の平山素子一人の同企画と比べると、配役が適材適所になっていない気がする。二人で分けて、バレエ団の要求を加えるとこうなったのか。仕上がりの良さでは、やはり唯一の新作、中村の『What is "Us"?』がダントツだった。

中村はキリアン色濃厚な『The Well-Tempered』、東洋的動きを取り入れたソロ『O Solitude』、そしてバレエのポジション、パをモチーフにしたこの新作を担当。古典を踊るバレエダンサーに振り付けることで、こうした作品になったのだろう。長田佳世と江本拓が下手奥から、アン・ナヴァンの腕でバレエ歩きするシークエンスが美しい。長田の完璧に意識化されたクラシックの脚、そのねっとりと艶のある美しさは、クラシックダンサーにしか出せない味である。またエポールマンをモダンな動きにかぶせるのは、江本の得意技である。 だが何よりも作品の存在意義は、福岡雄大のソロにあった。このところ海外出張を控えて、今一つ個性を発揮できなかった福岡だが、この作品で爆発した。福岡にジャストフィットした初めての役(パート)かもしれない。福岡の実存が迸る踊り。中村の提案よりも細分化された動きをしているのだろう。Kバレエスタジオで鍛えられた足腰の強さ、鮮やかで力強い腕の動き、動きそのものへの集中力。ビントレー、サープ時の踊りが嘘のようだった。金森作品でも唯一、金森の動きを実現している(金森穣ソフト版)。

金森作品は『solo for 2』。新国立劇場新潟市民芸術文化会館により共同制作された『ZONE』の第一部を改訂、「NHKバレエの饗宴2012」でNoismが上演した作品。昨年末のKAAT公演でも再演されている。核となる井関佐和子のパートには米沢唯。大いに期待されたが、残念ながら金森の動きを消化できていなかった。これは一月のバランシン、ビントレー、サープ作品にも言えることだ。古典であれだけ成熟した舞台を見せる米沢が、モダンになると、つまり動き自体に振付家の個性が反映されると、なぜか幼く見える。あるいは物語のあるなしで、アプローチが違うのだろうか。組んだ福岡が華やかで重心の低い踊りを見せた分、ひょこっと軽く、人形っぽく見えた。

音楽はバッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ』を使用、渡辺玲子の演奏だったが、本家Noismに比べるとまだ丁々発止とは行かない。その中で、第一番クーラントを踊った小口邦明=小野寺雄(26日)と福田紘也=宇賀大将(27日)の若手二人組は、音楽と呼応する躍動感あふれる踊りで、金森の特徴である覇気を体現した。

パーセルの歌曲に振り付けられた中村作品『O Solitude』でも、若手が実力を発揮。初日の宝満直也は、体を真正面からぶつける素の魅力で、存在感あふれるソロを踊り、二日目の五月女遥は、繊細な音楽性、動きに対する鋭敏な理解力で、振付の機微をあぶり出した。(3/28)

 

★[コンサート][ダンス]  『無限大∞パイプオルガンの宇宙―バッハから現代を超えて』

標記公演を見た(4月12日 東京芸術劇場コンサートホール)。改修後はじめてのコンサートホール。大エスカレーターが壁際に寄せられ(以前は両脇から下が見えて、怖かった)、絨毯の模様が、青い銀杏から赤バラの線画に変わった。椅子もクッションが分厚くゴージャスな布張りに(クッションのせいで足が着かなくなったが・・・)。一階吹き抜けもガラスで囲まれ、吹きさらしでなくなった。

鈴木優人のオルガン、勅使川原三郎、佐東利穂子、KARASのダンスを合わせた公演。面白かったのは、表裏になったモダン・オルガンとバロック・オルガンの回転、そしてルネサンス・オルガンの調律。J.P.スウェーリンク(1562-1621)の『半音階的ファンタジア』では、ミーントーン調律法による調子っぱずれの笛のような音に魅了された。平均律ではない、肉体に密着した音。鼻の穴が広がり、体の筋肉が緩んだ。

先月BCJの『ヨハネ受難曲』で通奏低音を弾いていた鈴木は、今回主役。父雅明がロックスターのように華やかなオルガニストであるのに対し、鈴木(優)は翳のあるオルガニスト。モダンを使ったインプロでの軋み、轟音はこの世への自己主張だった。それにしてもオルガニストはダンサーである。バッハ演奏時の脚さばき、両手両足を鮮やかに使い分けて、巨大なオルガンを鳴らし続ける。一方モダンでは、巨大コンピューターか宇宙船の操縦士みたい(オルガンのデザインのせいもあるけど)。あちこちにあるストップを操作し、ホール全体を振動させる。ピアノに増して、世界を作れる楽器だと思った。

一方勅使川原は、還暦とは思えない体の切れ。コラールでの素朴な味わいも新鮮だった。全体を見据える演出もセンスがよく、オリエンタリズムを武器にしないで、西洋人と同じ土俵(パリ・オペラ座)に上がれる理由が分かる。ただダンサーとしては、相変わらずコラボレーションができない。「ラ・フォル・ジュルネ」でもそうだが、相手(たとえばチェリスト)とのコンタクトが取れない。今回はオルガニストが二階にいるためコンタクトの必要がなく、自由だったはずだが、それでも音楽との遣り取りは僅かしか見ることができなかった。かつて同じ芸劇の小ホールで、山崎広太がシェーンベルクの『浄夜』を生きたのとは対照的である。

鈴木は5月26、31日には、再びBCJ通奏低音に戻る。11月には、横浜シンフォニエッタの首席指揮者就任記念演奏会が控える。音楽監督山田和樹に依頼されての就任。山田は自分とは違うタイプの指揮者を迎えたかったとのこと。プログラムが楽しみだ。(4/14)

 

★[ダンス]  長谷川六パフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ

長谷川六のパフォーマンス『透明を射る矢2ヒロシマ』を見た(4月26日 森下スタジオ)。 長谷川の主宰するPAS東京ダンス機構による新作公演シリーズ「ピタゴラス2」の一環。今回は上野憲治との共演。両手奥それぞれに書見台を置き、原民喜『夏の花』の一節を交互に読み、交互にソロを踊る。 長谷川は黒いプリーツのソフトジャケットに黒のロングスカートで登場。「大の字」に立つと、黒子役の女性(後に衣装デザイナーと分かる)が、置いてあった赤い衣装と冠を長谷川に着せる。衣装は細かく切れ目が入り、体全体を覆う筒状のもの。同じ赤い布で作られた冠は、四角い底辺に山型の屋根を持ち、紐で固定する。シルエットは能衣装、赤いビラビラは原爆の業火を身に纏っているように見える。

上野が原民喜の言葉を読んでいる間、長谷川は研ぎ澄まされたフォルムで、空間を作る。「立つ」、それだけでスタジオを異化する。身体のあり方は能に近く、背後に無数のフォルムを感じさせる。両足で立つと左脚の曲りが深い。長谷川の表徴。手足は苦行僧のように極限の様相を帯びて、節があるのに優雅で美しい。このような能、または神事に関わる身体に加え、今回初めて太極拳の型と、気の放出を見せた。

赤い衣装を脱いだ後、『夏の花』の朗読へ。上野は美丈夫だが、まだ拮抗できる体ではない。長谷川は朗読を終えると、メガネを付けたまま奥の立ち位置へ行く。どうするのかと見ていると、何事もなかったようにメガネを置きに書見台へ戻った。以前シアターXの公演で、時計を付けたまま舞台に出たことがあるが、そんなことはどうでもよいのだ。

徹底したモダニズム美意識と、能、神事、武術の体の融合、そこに何でもありの精神が加わった踊り手。そして自分にとっては舞踊批評の唯一の師匠である。(4/27)

 

★[ダンス]  岡登志子クラス・創作ワーク・ショーイング

昨日アップした長谷川六パフォーマンスの前に、岡登志子ワークショップのショーイングがあった。当日12時45分から17時(途中退室)まで、岡のクラス(ジャン・セブロン・メソッド)と創作ワークショップを見学した。

ジャン・セブロンは1938年パリ生まれ。パリ・オペラ座ダンサーだった母に学び、その後 the London Leeder school に入学、同時に幾つかの極東スタイル(武術?)も学ぶ。ロンドンでデビューしたのち、the Essen Folkwang school へ赴き教師となる。フォルクヴァンク・バレエでも踊った。

岡は1990年にフォルクヴァンク大学に留学、ジャン・セブロン・メソッドを習得した。入学後、コンテンポラリーダンスクラシックバレエ、民族舞踊、ルドルフ・フォン・ラバンの舞踊譜などを2年、セブロン教授のメソッドクラスを2年学ぶというカリキュラム。岡によれば、セブロン・メソッドにはクルト・ヨース、ジーゴード・レーダー、ルドルフ・フォン・ラバン、チェケッティ・メソッドの影響が見られるという。またヨースのカンパニーで一緒に踊っていたピナ・バウシュは、セブロンの振付から大きな影響を受けたと語っている(『ダンスワーク』2013年、pp. 64-77 )。

岡のクラス(2時間)は座位から始まり、立位で終わった(3日間のうち初日のみ見学)。座位は胡坐か前方に足を投げ出す形。坐骨を使い、前進後退したりする。その際呼吸が重要で、胸を入れることが多い。バウシュの座ったまま左右に揺れる動きを思い出した。3拍子あり。以前、市田京美によるヨース・クラスを見学した際、3拍子の情動を喚起する動きを見た記憶がある。座位では呼吸法と身体への意識が重視され、やはり東洋的な印象を受けた。

立位になると、バットマンの変形などが見られ、よりダンスに近くなる。バウシュの片腕を上げて螺旋を描く動きは、ここから来たのかと思った。

岡は関西ニュアンスのある歯切れのよい口調で、受講者を引っ張っていく。岡自身はバレエダンサーの体。腕使いが繊細で、動きに詩情がある。

創作のワークショップでは、今年上演された作品の抜粋を使用し、受講生のインプロヴィゼーションを加える。老若男女、ばらばらの受講生の個性を一目で見抜き、彼らの動きをさらに展開させて、優れたダンスに置き換える凄さ。構成(ダンサーの関係性)を考えながら、個々の動きを付けていく速度に驚いた。19時30分からのショーイングは、一つの作品として見ることができなかった。作品化のプロセスを知っているので、ダンサーが与えられた振りをいかに遂行し、その上で自分を出せたかどうか注視してしまったからだ。(4/28)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ペンギン・カフェ2013』

新国立劇場バレエ団がビントレーの『ペンギン・カフェ』を再演した。同時上演は前回と同じバランシンの『シンフォニー・イン・C』と、ビントレーの近作『E=mc&sup2;』(バレエ団初演)。一月公演同様、ダンサーのアスリートとしての側面を鍛えるタフなトリプル・ビルである。

ビントレー初期の傑作『ペンギン・カフェ』(88年)は、サイモン・ジェフ率いるペンギン・カフェ・オーケストラの「世界音楽」を用いた被り物バレエ。ヒツジ、サル、ネズミ、ノミ等が民族音楽に乗って楽しげに踊るが、彼らは実は絶滅危惧種であり、狂言回しのペンギンは既に絶滅していることが、最後に分かる。 終幕、黒い不吉な雨を逃れ、動物と人間が対になってノアの箱船に乗り込む。しかしペンギンの前で扉は閉ざされ、あとに一人ポツンと残される。残されたことさえ分からないその無防備な立ち姿は、死そのもの、我々の行き着く先である。

さらに今回は3・11以前の前回と比べ、住むところを追われた熱帯雨林家族の哀しみが、他人事ではないリアリティを持って胸に迫ってきた。生の喜び(踊り)を味わううちに、いつの間にか死の影に捉えられる。緻密に計算された重層的な作品である。

久々復帰のさいとう美帆が嬉々としてペンギンを演じている。ウーリーモンキーの福岡雄大、オオツノヒツジの湯川麻美子、カンガルーネズミの八幡顕光、福田圭吾、ケープヤマシマウマの奥村康祐、古川和則もはまり役だった。最大の見せ場は貝川鐵夫、本島美和と子供が演じる熱帯雨林の家族。その無意識の哀しみ、無垢な魂が緩やかな動きとなって流れ出す。本当の家族に思われた。

前後を二つの傑作に挟まれた『E=mc&sup2;』は、09年にバーミンガム・ロイヤル・バレエ団によって初演された。デイヴィッド・ボダニス著の同名作から着想し、マシュー・ハインドソンに曲を委嘱した意欲作である。

作品は、ボダニスの章立てに沿って「エネルギー」「質量」「光速の二乗」と進むが、「光速」の前にこの方程式が人類にもたらした最悪の結果、「マンハッタン計画」が挿入される。

ハインドソンの音楽は、原初的なエネルギーに満ちた曲に始まり、雅楽を思わせる瞑想的な曲、振動を伴う轟音、そして明るいミニマルな曲で終わる。ビントレーの振付も、モダンダンス風の写実的な動きに始まり、浮遊感のあるアダージョ、日本風の舞、ミニマルな跳躍と、音楽に呼応する。ただしビントレー特有の、肉体の細部まで動員した繊細な音楽解釈を感じさせたのは、残念ながら「質量」と「マンハッタン計画」のみだった。

ダンサー達は作品の実質を上回るエネルギーで、芸術監督の意欲作に応えている。特に「エネルギー」の福岡、本島、「質量」の美脚三人組、小野絢子、長田佳世、寺田亜沙子、「マンハッタン計画」の湯川、「光速の二乗」の五月女遥が、振付の意図をよく伝えている。

バレエ団4回目となる『シンフォニー・イン・C』はPaul Boos の振付指導。バレエ団初演時(P・ニアリー指導)と比べると、大胆な脚技やフルアウトのエネルギーは影を潜め、より端正で流れを重視した形になっている。

プリンシパルにはバレエ団の顔が揃ったが、中でも第一楽章の長田が、優れた音楽性と正確な脚のコントロールでバランシン・スタイルの体現者となった。また菅野英男のクラシカルな切れ味、福岡のスピーディな踊りも魅力にあふれる。

コリフェではベテランの大和雅美、江本拓に加え、五月女、盆小原美奈、宝満直也等、若手の活躍が目立った。また第二楽章のプリンシパル厚地康雄と第一楽章のコリフェ小柴富久修が、『E=mc&sup2;』同様、サポート役で貢献している。

演奏はポール・マーフィ指揮、東京フィルハーモニー交響楽団。(4月28、29日、5月4日 新国立劇場オペラパレス) *『音楽舞踊新聞』No.2900(H25・6・11号)初出(6/11)

 

★[美術][ダンス]  フランシス・ベーコン

フランシス・ベーコン展を見た(5月25日 国立近代美術館)。 NHKの「日曜美術館」で、井浦新を相手に、浅田彰が熱弁をふるっていたので、見ようと思った。神が死んだ後の宗教画(三幅対)とのこと。

行ってみると、ダンスとベーコン展のような感じ。土方巽『疱瘡譚』の記録映像が常時流され、ベーコンの絶筆をなぞるフォーサイスの動きが、インスタレーションとして大スクリーンに映し出される。表からも裏からも見ることができる。ベーコンの絵は、肉体そのものを描いている。特に土方を見た後、『三幅対―人体の三習作』を見ると、肉の歪みが、そのまま舞踏を描いているように見えた。でも実は反対で、土方の方がベーコンにインスパイアされていたのだ(土方の舞踏譜「ベーコン初稿」)。『疱瘡譚』をオシャレな老若男女が見入っている姿に感慨が(普通の展覧会よりも明らかにおしゃれ)。

もう一つ『人体による習作』は、ドアの前で人体が消えようとしている絵。2月に見たベケット作品『ネエアンタ』を思い出した。山崎広太がドアに向かって歩行する、その肉体の軋み。ドアは世界の入り口になっている。そこに辿り着くことの不可能性。演出家はこの絵が念頭にあったのだろうか。(6/10)

 

★[ダンス]  金森穣『ZAZA~祈りと欲望の間に』

Noism1の神奈川公演を見た(5月26日 KAAT)。 一時、首都圏で公演を打たなかったが、その間に、ダンサーがバレエベースで統一されていた。演技派宮河愛一郎を除いて、みんな体が切れる。ラインも美しい。その分、金森の振付に抵抗する体(島地保武、青木尚哉、平原慎太郎のような)がいなくなった気がする。金森コンセプトの今回、また昨年の『Nameless Voice~水の庭、砂の家』を見ると、空間が閉じられている。金森の思うがまま。昨年末の『中国の不思議な役人』は音楽、台本があるので、金森の物語との格闘がある分、外に開かれていたが。 定期的に新作を作るレジデンシャル・カンパニーの場合、振付家一人の想像力では賄いきれないのが普通だろう。ドラマトゥルクか、台本から金森をアシストするスタッフが必要ではないのか。『Nameless Voice』はコンセプトを盛り込みすぎて、メッセージが伝わりにくく、『ZAZA』は、ダンサーの技量を生かし切れるコンセプトとは言えなかった。インスピレーションの度合いが浅い。

プロのコンテンポラリー・ダンス・カンパニーを維持し、ダンサーを育成し、ダンサー雇用の受け皿を作る金森の才能は、もちろん凄いと思う。また物語に即した演出振付の才能も。美術、音楽以外のコラボレーションが期待できれば、新たな展開があると思うのだが。(6/9)

 

★[バレエ]  パリ・オペラ座バレエ団『天井桟敷の人々』

パリ・オペラ座バレエ団が3年ぶりに来日、『天井桟敷の人々』(08年)を上演した。マルセル・カルネ監督の傑作映画をバレエ化したもので、バレエ団芸術監督ブリジット・ルフェーブルの企画。振付をジョゼ・マルティネス、衣裳をアニエス・ルテステュが担当した。

マルティネスは『ドリーブ組曲』や『スカラムーシュ』の振付から分かるように、歴史への眼差しを持つ振付家である。そうした資質と、エトワールとして物語バレエからコンテンポラリーまで様々なジャンルを踊ってきた蓄積により、文化的国家遺産『天井桟敷の人々』を現代に蘇らせることに成功した。

作品の構造は入れ子状態。サーチライトを持ったジャン=ルイ・バローが、かつての撮影所を訪れ、回想するという導入部が置かれる(終幕にもバローは登場、幕引き役となるが、少し余情が損なわれる面もある)。

回想の中では、パントマイム役者バチストと絶世の美女ガランスの恋が、俳優ルメートル、悪党ラスネール、座長の娘ナタリー、宿屋のエルミーヌ夫人、モントレー伯爵を絡めて、ほぼ映画通りのニュアンスで描かれる(翻案・マルティネス、フランソワ・ルシヨン)。

19世紀前半のコメディア・デラルテ風無言劇と、その舞台裏を見せるバックステージ物の妙味は、映画でも見られたが、実際に舞台上で演じられると面白さが倍増する。場面に応じて様々なスタイルを使い分けるマルク=オリヴィエ・デュパンの音楽も、この無言劇の甘く切ないメロディが特に素晴らしかった。

劇場構造をフルに生かし、観客とダンサーを近づける演出も効果的。ルメートルの寸劇『オセロ』は、休憩時に観客が見守るなか、クローク横の階段で演じられ、終幕のガランスとバチストの永遠の別れは、ガランスが客席へと降り立つことで表わされる。 ジャグリング、太鼓を伴った呼び込み屋(残念ながらフランス語)、ルメートルの新作を宣伝するサンドイッチマン、天井からのチラシ撒きなど、昔の芝居小屋の熱気を劇場内に呼び起こす演出は、まさに演劇そのものへのオマージュである。

振付は人物に応じて、クラシックからコンテンポラリーまで多岐にわたる。バチストのピエロの仕草と床を使ったコンテンポラリーの語彙、ガランスのポアントのニュアンス、ラスネールの爬虫類風身のこなし、エルミーヌ夫人のコミカルなヒール付きポアント踊りが印象的。ルメートルの新作『ロベール・マケール』のプロットレス・バレエはバレエファンへのサービスかも知れないが、演技と踊りを融合した物語部分の方に、マルティネスの才能が発揮された。

バチストを演じたマチュー・ガニオは、美しい容姿の内包する空ろさが、ピエロの衣裳によく合っている。バローの天才的な鋭い狂気、詩的なパントマイムとは違った、何か常に受け身の哀しさを感じさせた。一方、ガランスのイザベル・シアラヴォラは適役。美しい脚と甲の高さで、様々な感情が表現できる。映画のアルレッティに近い造型だった。

ルメートルのカール・パケットは、クラシック場面を一手に引き受けている。数多の女をサポートし、休憩時も寸劇でリフト、そのまま新作の踊りに入るタフな役どころである。誠実で女を弄ぶ風には見えないが、献身的な舞台に好感が持てた。

ソリストを含め、バレエ団は一人一人が役を心得て、群衆の猥雑な活気を生み出している。一幕兵士の古風なユニゾンや、アクロバット三人娘のチンチクリンな可愛らしさも印象深い。カーテンコールの元気な出入りも楽しかった。

ジャン・フランソワ・ヴェルディエ指揮、シアターオーケストラトーキョーが若々しい演奏で、来日ソリスト陣と共に、舞台を大きく支えている。(5月30日 東京文化会館大ホール)  『音楽舞踊新聞』No.2901(H25・6・21号)初出(6/21)

 

★[映画]  王家衛『グランド・マスター』

王家衛の映画を久しぶりに見た。07年の『マイ・ブルーベリー・ナイツ』以来(6月5日 ワーナーマイカル板橋)。 ウォン・カーウァイの映画は全部見ている。『2046』のキムタク出演部分を除くと、全部好きだ。

作品の構成はハチャメチャ、映像も歪んでいる、終わりがない、そこがたまらない。全体でウォン・カーウァイの作品。彼が生きて仕事をしていると思うだけで、生きる勇気が湧いてくる。

ウォン監督の分身トニー・レオンも好きな俳優(阪本順治にとっての佐藤浩市)。田村高廣や小津作品の笠智衆を思わせる。上品な受け身の色気がある。 監督は「今回、香港・中国・フランスの合作なので、脚本の審査が厳しい」と、日経のインタビューで語っている。ということは本当はもっと流動的な構成だったかも。最後にトニー・レオンがにっこり笑って「君は何派?」と訊いて終わる。直前に「武術では流派は関係ない」と言っているので、お茶目をかましているわけだ。いかにものショットだった。

レオンはブルース・リーの師匠イップ・マン(葉問)役。47歳で初めて武術(詠春拳)を学んで、役に備えた。途中、二度骨折したとのこと。詠春拳は短橋狭馬(歩幅が狭く、腕を伸ばし切らない)で、接近戦を得意とする(プログラム)。レオンの構えは自然で美しい。心境に澱みがなく、淡々と技を繰り出す。レオンの形になっている。初めの2年間は戦うシーンの撮影ばかりで、冒頭の雨の格闘シーンは、10月から11月にかけて一か月以上、毎晩休みなしで行われたという。しかも、夜7時に撮影が始まったとしたら、翌朝まで着替えることができない。このシーンを撮り終えた後、レオンは気管支炎にかかり、5日間寝込んだ(プログラム)。レオンが監督の言うまま、黙々と役をこなしている姿が目に浮かぶ。

このイップ・マンという人は、「40過ぎまで何もしなくても生活できる代々裕福な家に育った。その味を一番出せるのがトニーだと思った」と監督(日経)。その妻の張永成役には、韓国女優ソン・ヘギョ。多くを語らずとも互いに分かり合える高貴な家系の女性なので、言葉を発しなかった。ただひたすら美しく、光り輝くような慎ましさがある。夫レオンに脚を洗ってもらっていた。なぜ日本にはひたすら美しい女優がいないのだろう。

ウォン・カーウァイとカンフーの組み合わせで、おいしさ二倍。美術や映像の美しさも凄いが、そこまでやるかという閾値を超えるところに快感がある。ディレクターズ・カットになるとどうなるのか。(6/10)

 

★[ダンス]  平山素子『Trip Triptych フランス印象派ダンス』

標記公演を見た(6月7日 新国立劇場中劇場一階席のみ使用)。見ながら思ったのは、時々曲が長い、後半が面白い、『ボレロ』はバレエダンサーのレパートリーになりうる、平山のダンサーとしての成長、平山の優れた音楽性、地についた世界観と演出、中村恩恵との違い、シルヴェストリンが東洋的になっているなど。

曲が長いと思ったのは、第一部のドビュッシー弦楽四重奏曲ト短調』、ラヴェルの『5つのギリシャの民謡』、第二部のサティ『ノクターン』。特に最後は、『ジムノペティ第3番』で二枚の白いチュールが舞うデュエットがよかっただけに、短く終わってほしかった。

演出は自分が考え出したもの、外からくっつけたものではないので、肯定できる。特に後半の水関係、チュールの踊りが面白かった。

ボレロ』はいくつかのシークエンスを使い、少しニュアンスを変えながら、繰り返していく。ラヴェルの明晰な構造を理解し、振りのパーツを組み立てている。さらに音楽のうねりを、動きの波動に変えているところが素晴らしい。時々休止(ポーズ)を入れる、その入り方と出方(動き出し)の音取りが絶妙で気持ちがいい。重心の低さは、プリエではなく、東洋的な中腰に見える。何よりも自分の音楽解釈から生み出された動きなので、ベジャールの呪縛から逃れている。酒井はなと米沢唯は、「絶対私が踊りたい」と思うだろうなあと思った。同時に、平山のダンサーとしての成長を思った。以前は自作自演の場合、自意識が見えてつまらなかったが、今回は自分の体を他者として振り付けている。作品が独立して存在する。『Revelation』『Butterfly』『ボレロ』を様々なバレエダンサーで見てみたい。

サティ、ドビュッシーラヴェルを使用し、バレエ・リュスへの理解を交えた作品だが、自分の音楽の好み、自分の世界観が作品に反映されている。ペダントリーではない。そこに中村との違いがある。中村の価値観は自分の外にある。 冒頭のシルヴェストリンのソロには、東洋的なニュアンスを感じた。以前はもろフォーサイス踊りだったのに。肩が上がり、手が外に曲がっている。動きの質感が湿っている。個性が出てきたのだろうか。小尻健太の牧神起用は正しい。テクニックの凄さ、重厚な体、存在感。元Noismダンサーは4人。青木尚哉、平原慎太郎、高原伸子、原田みのる。青木、平原はそのまま、高原はやはり井関佐和子の味を思わせる。平山の弟子、西山友貴が、平山そっくりなのに驚く。動きの癖、存在の出し方。驚いた(訂正:西山ではなく福谷葉子?ポアント履いてた)。新国立の宝満直也は、何もしないでそこにいるように見えた。大物か。宝満にとって勉強になったと思う。(6/9)

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ』初日と二日目

標記公演を見た(6月22、23日 新国立劇場オペラパレス)。 以前理想的と思っていた組み合わせが逆に。小野絢子は菅野英男と、米沢唯は福岡雄大と。『くるみ割り人形』もそうなったので、『パゴダの王子』や『アラジン』以外はこの組み合わせになるのかも。小野は菅野との『こうもり』で女らしさを出していたし、米沢と福岡はビントレーのモダンダンスでエネルギーが拮抗していた。

初日の米沢は、考え抜かれた演技と踊り。米沢の特徴は、身体(意識)の自在なギアチェンジと、回転技を中心とするずば抜けた技術にある。今回は後者が爆発した。これまで妖精(金平糖)、白鳥、死霊(ジゼル)と、異形の者で、身体意識を変えてきた。今回は人間なので、技術が目立ったということか。グラン・フェッテはトリプル以上(数えられなかった)。扇子スパイラル回しは、確か酒井はながやっていた(訂正:酒井は扇の開閉だった)。酒井は一度、トランス状態のキトリを佐々木大とやったことがある。その時のオペラ劇場の興奮は、それ以降経験したことがない。米沢はすっきりと静かなフェッテ。エネルギーがはじけるのではなく、高速コマの静止状態のような感じ。長唄をやっていたことと関係あるのだろうか。 バジル福岡は万全の体調で、なおかつ気持ちも充実していた。グランパのヴァリエーションは、危険ぎりぎりのところまで楽々と跳んで回る。コンクール荒らしの二人が組むと、という図だった。

そして山本隆之のドン・キホーテ。サポートするだけで物語を立ち上げる凄腕なので、全編山本ドン・キの視線に覆われる。米沢とは組んだことはないと思うが、『アンナ・カレーニナ』で組んだ森の女王の厚木三杏、『椿姫』で組んだグランパソリスト