2009年公演評

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ライモンダ』

新国立劇場バレエ団が牧阿佐美版『ライモンダ』(全三幕)を上演した。ワシントン公演を含めると四度目の公演となり、バレエ団は振付をよく咀嚼、レパートリーとしての安定感が増している。

牧版の特徴は20世紀における古典改訂の主流、古典のシンフォニック・バレエ化を最大限に推し進めた点にある。マイムは極力排除、踊りで全編を綴り、主役によっては一大ディヴェルティスマンの様相を呈する。登場人物も『眠れる森の美女』のリラの精に相当する白い貴婦人を省略、さらには夢の場面でのアブデラクマンをカットするなど、恐らく世界で最もシンプルな筋書きと言える。

この夢の場のアブデラクマンは、ライモンダに、他の姫役とは異なる神秘性を付与する重要な要素である。それを省略する点に、改訂者特有の演出傾向を見ることができる。すなわち、女性主役の完全性、無謬性の強調であり、このことは同じ作者の『ア ビアント』改訂版、『椿姫』でも顕著だった。

シンフォニック化された『ライモンダ』はマイム不可欠のプティパ版から遠く離れているが、今回はオームズビー・ウィルキンスの緩急自在な指揮の下、東京交響楽団がかつてない演奏を行なって、牧版の美点を強調した。特に初日の音楽的充実は主役のザハロワによる感謝のレヴェランスからも明らかである。

ライモンダは四キャスト。初日を含め三公演を踊ったザハロワは、初役時に比べると格段に成長した。特に一幕アダージョでは堂々たるボリショイ・プリマの風格を見せつけている。

バレエ団では最終日に踊ったファースト・ソリストの川村真樹が、碓氷悠太(松岡怜子バレエ団ソリスト)という釣り合いの取れたパートナーを得て、持ち味を発揮した。アラベスクの正統的な美しさはバレエ団の中でも群を抜いている。一幕アダージョでは久しぶりにバレエの美そのものを味わうことができた。また、三幕ソロの澄み切った詩情も素晴らしい。ただしコーダは押しが弱く、今後はゴージャスな肢体にふさわしい精神性を身に付けることが望まれる。

同じくファースト・ソリストの寺島ひろみは、なぜかこれまでとは異なり、ダイナミックでスポーティな魅力を発揮する前に終幕を迎えた。唯一、アブデラクマン森田健太郎とのパ・ダクションに本来の姿をかいま見せている。ソリストの本島美和は、華やかな容姿と押し出しの良さを買われての主役起用。ただ純粋なクラシックダンサーとは言えず、古典主役は少し時期尚早だったかもしれない。

ジャン・ド・ブリエンヌは、ザハロワにマトヴィエンコ、川村に碓氷、寺島と本島に山本隆之(前者は貝川鐵夫がインフルエンザのため代役)。一幕アダージョには、うつ伏せになったライモンダを両手で高く持ち上げたまま後ずさりで入場するハードワークがあり、頭が下がる。マトヴィエンコは従僕のような献身性、山本はノーブルでソフトな味わい、碓氷は荒削りだがダイナミックな踊りで、それぞれのジャンを務めた。

アフデラクマンは森田と冨川祐樹。両者ともエキゾティシズムよりノーブルさが優る。リアルな衣裳と齟齬があり、改訂者にはもう少し明確なアブデラクマン像提示を望みたい。

脇役では西川貴子のドリ伯爵夫人がずば抜けていた。ライン一つで空気を変えることができる。アンドリュー二世王市川透との組み合わせも良かった。また、ワガノワの同窓 トレウバエフと西川によるチャルダッシュが素晴らしい。回転技を含む変形の男踊り、さらにはスパニッシュでも、トレウバエフのキャラクター魂が炸裂した。

クレメンス小野絢子の明晰な踊り、ヘンリエット堀口純の内的な踊り、スパニッシュ江本拓の鮮やかな踊りが印象深い。また移籍組、芳賀望の無心な踊り、古川和則の生き生きとした踊りが目を引いた。(2月10、11、13、15日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2782(H21.4.21号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖

新国立劇場バレエ団が牧阿佐美改訂振付による『白鳥の湖』(06年)を再々演した。牧版は土台のセルゲーエフ版にプロローグを加え、三幕にはルースカヤを挿入、終幕はロートバルトが愛の力に打ち砕かれて湖に沈む演出を採る。今回はプロローグの王女と友人による踊りを削除し、終幕ロートバルトの演技にも手を加えて、物語の流れを分かり易くしている。また照明の明度が上がったのか、踊り、衣裳、美術がよく見えるようになった。

主役は4キャスト。初日を含めた3公演をザハロワとウヴァーロフのボリショイ劇場プリンシパル組、あとの3公演をバレエ団の寺島ひろみと山本隆之(「中学生のための公演」のため未見)、厚木三杏と逸見智彦、真忠久美子と冨川祐樹が担当している。

ザハロワとウヴァーロフは以前よりも互いを尊重し合うパートナーになりつつある。ザハロワはマリインスキーの伝統的解釈からもボリショイの様式性からも外れたところにいるが、本人の持つひたむきな愛らしさと美しい容姿でスターの輝きを放っている。ウヴァーロフにとっては狭い舞台なのだろう。力を出し切ることはないが、丁寧な踊りとサポートでザハロワを支えた。

厚木は初役。二幕は緊張からか体よりも頭が先に立ち、良いところを出せなかったが、三幕黒鳥からほぐれ、四幕は本来の姿に立ち戻った。厚木の才能は優れた振付解釈にある。コンテンポラリー、バランシン、創作バレエ、古典と、あらゆるジャンルにおいて振付家の意図を正確に理解し、それを最大限に膨らませることができる。振付の音楽的造形的な理想形が、恐らく瞬時に感得されるのだろう。終幕には厚木の個性ではなく、バレエ芸術とはかくあるべしという踊りを見ることができた。04年の『眠れる森の美女』でも共に優れた舞台を作り上げた逸見は、行き届いた踊りに愛情あふれるサポートで厚木を盛り立てている。

最終日の真忠は二回目の『白鳥』。一時よりもスタミナが付き、ヴァリエーションの不安定さも見られなかった。何よりも美しい白鳥である。おっとりした半ば無意識かと思われる踊りに、指揮者を始めその場の全員が魔法に掛かったように引き込まれる。永遠を含んだ独特の時間感覚は真忠にしかない個性。『カルミナ・ブラーナ』のローストスワンや『こうもり』のベラは究極のはまり役だった。あのローラン・プティにコール・ド・バレエから抜擢された逸話を成る程と思わせる、まさしくバレリーナの白鳥だった。パートナーの冨川は前回ドラマティックなロートバルトを演じたが、ノーブルな踊りと万全のサポートで真忠の美を生かしている。

ロートバルトは芳賀望が気の漲った踊りで舞台に貢献した。道化の吉本泰久、バリノフ、八幡顕光も例によって献身的。パ・ド・トロワでは、ベテラン西山裕子と若手小野絢子の音楽的でクリアな踊りが印象的だった。同じく江本拓は両回転トゥール・アン・レールを鮮やかに決めたが、髪の色が芳賀(トロワ時)共どもヤンキー上がりに見えたのが残念。また今回もトレウバエフがスペインとハンガリーで見事なキャラクターダンスを披露している。

同団の売り物であるコール・ド・バレエはこのところ若手を多く起用したこともあり、精度が落ちている。以前は若いエネルギーでそれを補っていたが、今回は明らかに志気が低下。残念ながらかつてのような輝きは見られなかった。

指揮は『ラ・バヤデール』で情熱的な音楽を紡ぎ出したアレクセイ・バクラン。今回も意欲的だったが東京フィルの状態が悪く、指揮者の足を引っ張る結果に終わった。(5月21、22、24日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2787(H21.6.21号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ドン・キホーテ

新国立劇場バレエ団が13回目のシーズンを開幕した。牧阿佐美芸術監督の総決算の年である。開幕作『ドン・キホーテ』(改訂振付・アレクセイ・ファジェーチェフ)には、ゲストを含め5キャストが組まれた。

今季バレエ団は新たなフェイズに突入した模様だ。Kバレエカンパニーからのソリスト3名の移籍(長田佳世、芳賀望、輪島拓也)、チューリヒ・バレエで活躍していた福岡雄大の参入、バレエ研修所には実力ある男子生徒が複数入所した。既存バレエ団や系統の枠を越える、国立本来のリクルートが軌道に乗り始めたと言える。その結果、所属ダンサーにも実力本位の基準が共有され、観客のために踊る劇場人らしい姿勢がより徹底して見られるようになった。

5キャストのうち最大の収穫は、プリマとして立つべき川村真樹の成熟、福岡雄大という新しい男性スターの誕生、さらに芳賀望の活躍だろう。

川村は99年入団、『眠れる森の美女』、『白鳥の湖』、『ライモンダ』とゆっくり古典主役の道を歩み、輝かしい存在感を示してきた。さらに今年3月のサープ作品では、ダンス・クラシックへの批評的振付をゴージャスな踊りで難なくこなし、優れた振付解釈力を明らかにしている。今回のキトリ役では、懸念されたコミカルな演技を英国系の上品な細やかさで的確に行なって、オールラウンド型プリマとしての実力を発揮した。踊りはパのみで空間を異化できる究極の正統派。一幕アン・オーのアチチュードでは、バレエの歴史を一瞬にして凝縮してみせた。無意識のうちにバレエの規範と化した肉体の可能性は計り知れない。川村自身とバレエ団は、その才能を完全に開花させる義務がある。

一方、福岡のバレエ団デビューは、久々の男性スター誕生を意味した。ルックス、技術、パートナリングが揃った即戦力で、爽やかな魅力にあふれる。若手の筆頭、小野絢子とメヌエットで絡む場面では、バレエ団の明るい未来図さえも描き出した。

福岡がノーブル系バジルなら、芳賀望はやんちゃなキャラクター系。『アラジン』の主役を登録時代すでに踊っているが、つむじ風のような回転と矢のような跳躍は健在。「楽しくやろうよ」精神で、パートナーの川村をぐんぐん引っ張っていく。腕を使わないピルエットは圧巻。生命の躍動としての踊りを、初めて新国立の舞台にもたらした功績は大きい。

研修所二期生 寺田亜沙子の主役デビューも、トレウバエフという安定感抜群、愛情あふれるパートナーを得て成功裡に終わった。少し硬くなってはいたが、おっとりした情感のある独自のキトリである。ラインも美しく透明感があり、何より観客に好感を抱かせるのが最大の強みと言える。

日本人初日の寺島ひろみは躍動感あふれる踊りが魅力。ただ少し先走り過ぎるのか、周囲とのコミュニケーションが空回りする。もう少し落ち着いた役作りが加われば、より美点が生きるだろう。パートナーの山本隆之はボリショイ劇場での大役を終え、ホームグラウンドでベテランらしい安定した舞台を見せた。ソフトで美しいバジルである。はまり役エスパーダには残念ながら配役なし。

最終日に福岡と組んだ本島美和は、チュチュでの様式性をよく意識してはいたが、やはりキャラクター色の強い一幕で持ち味が生きた。また初日のザハロワは、九月に行われた新国立劇場バレエ団ボリショイ劇場公演『椿姫』(振付・牧阿佐美)主演の感動そのままに、かつてない観客への奉仕と愛情に満ちた舞台で、オペラパレスとパートナーのウヴァーロフを興奮の渦に巻き込んだ。

バレエ団では市川透のロマンティックなドン・キホーテ、吉本泰久の献身的なサンチョ・パンサが初役ながらドラマの核となる。ロレンツォの小笠原一真も進境を示した。トレウバエフの正統派エスパーダ、それに応える厚木三杏の粋な街の踊り子と湯川麻美子の情念の色濃いギターの踊りが濃密なドラマを立ち上げる。またキトリの友人西山裕子と遠藤睦子の息の合った踊りはまさにバレエ団の歴史だった。

森の場面では、少し甘さ控えめながら音楽的な厚木と、ボリショイ主演の輝きに満ちた堀口純が女王として君臨した。 大和雅美率いるセギディーリャとジプシーアンサンブルの切れのよさ、西山、小野、丸尾孝子率いる妖精アンサンブルの透明感がすばらしい。バレエへの愛情に満ちた情熱派アレクセイ・バクランの指揮に、東京フィルもよく応えていた。(10月12、13、15、17、18日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2801(H21.12.11-12号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形』新制作

新国立劇場バレエ団が12年ぶりに『くるみ割り人形』を新制作した。演出・改訂振付は芸術監督の牧阿佐美。長年ワイノーネン版を上演しながら自らの案を温めてきたのだろうか、初演にして完成された版である。

演出の最大の違いはクララと金平糖の精を別配役にし、プティパ=イワノフ版に近づけた点。二幕パ・ド・ドゥは伝統的な振付が採用された。ワイノーネン版の演出と雪の女王役を含む英国系の演出が違和感なく組み合わされているのは、牧の音楽性によるものだろう。現代の東京から始まる導入部、ブルーマンを従えた興行師風ドロッセルマイヤーは、東京所在国立劇場の新制作として納得できる趣向である。

牧版ディヴェルティスマンは魅力的だった。アラビア(エジプト?)男女の官能性、中国の華やかな男性パ・ド・シャ、トレパックの勇壮、葦の精の音楽的調和など創意に富んだ振付が続き、牧の優れた音楽性、動きへの新鮮な感覚が改めて認識された。

オラフ・フォンベックによる赤から青に転換する大広間や国々の風景、夜会や花のワルツの美しい衣裳、立田雄士による幻想的な雪の森や王子登場のマジカルな照明がすばらしい。バレエ団のモットー「クール&エレガンス」を象徴する空間作りだった。

配役はゲストなし、バレエ団が総力を挙げて取り組んでいる。上演順に、金平糖の精には小野絢子、川村真樹、寺島ひろみ、本島美和、さいとう美帆、王子は山本隆之、芳賀望、貝川鐵夫、トレウバエフ、クララには伊東真央、井倉真未、さいとう、小野、雪の女王は西山裕子、西川貴子、湯川麻美子、厚木三杏、堀口純。

ファースト・ソリスト二人を置いて初日を勤めた小野が、緻密で的確な解釈を示している。優れたパートナーであるベテランの山本を相手に、二幕冒頭の登場からパ・ド・ドゥのアダージョ、ソロ、コーダに至るまで、気品と愛情に満ちた踊り、立ち居振る舞いで一貫した。象徴的だったのが幕前のカーテンコールでクララを先に入らせたこと。主役はあくまでクララという物語の筋を貫いた。まだ少し理が優っており、肉体の余情や倍音を醸し出すには至っていないが、バレエ団の次代を担うに足る志の高さがある。

作品の頂点を成すチャイコフスキーの痛切なアダージョを最も観客に体感させ、さらにパートナーシップの妙味を示したのが寺島と貝川。音楽の中に入り込み、パートナーをエネルギーの渦に巻き込む寺島の才能は、貝川相手によく発揮されるようだ。

前公演『ドン・キホーテ』で優れた舞台を提供した川村は美しい踊りながら、この役にふさわしい暖かさや包容力の点で物足りなさを残した。一方パートナーの芳賀はピンポイントの音感と献身性に魅力があった。

雪の女王の振付は解釈を分けた。西山は優れた音楽性とアシュトン風の鋭角的な上体使いで雪片のきらめきを、湯川はゆったりとした大きな役作りで女王の風格を表した。共に自らの可能性の最終段階に辿り着いた円熟の境地である。クララでは伊東の自然な少女らしさ、小野の圧倒的な解釈が強い印象を残した。

ドロッセルマイヤーはまだ完成の途上にあるが、冨川祐樹は妖しさ、森田健太郎はドラマティックな音楽性で個性を発揮、逸見智彦と楠元郁子がエレガントで美しいシュタルバウム夫妻を演じている。フリッツ、トロル、くるみ割り人形、トレパックと八幡顕光が大活躍、スペイン古川和則の音楽的で味わい深い踊り、アラビア寺島のなまめかしい踊りが印象深い。またフランスの田舎娘風葦の精の寺島まゆみ、小村美沙、細田千晶トリオが息の合った回転技で観客を魅了、雪、花の両ワルツ・アンサンブルは格別の美しさだった。

演奏は大井剛史指揮の東京フィル。健闘した東京少年少女合唱隊にスポットライト無しは可哀相な気がする。(12月20、21、23昼夜、26日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2809(H22.4.1号)初出

2008年

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『カルメン

新国立劇場バレエ団が三年ぶりに石井潤振付『カルメン』を上演した。初演時にもすでにレパートリーとしての地力は予想されたが、今回の再演でこれが確認されたことになる。

石井版『カルメン』の特徴は、オペラにほぼ準じた構成にホセとカルメンの心象風景を挿入している点、全体を闘牛のモチーフで貫いている点が挙げられるが、今回改めて、これらを駆使する石井の緻密な演出手腕に驚かされた。物語上の現在と象徴的場面が、演劇的必然性を伴って織り合わされている。ただ、ロビン・バーカーのきめ細やかな選曲とは足並みを揃えているものの、美術とはコンセプトの共有がなく、さらに照明の主張が強すぎて石井の実験性や諧謔味が前面に出ないなど、コラボレーションとしての不満が残った。

振付のスタイルは役に即した多彩なもの。主役、ソリスト、群舞、および男女舞踊のバランスのよさが、全幕物の醍醐味をもたらす。最大の見せ場はやはり「花の歌」のパ・ド・ドゥだろう。直接的表現にのみ目が行きがちだが、カルメンの孤独の激しさと深さが痛切に刻まれた、優れたパ・ド・ドゥである。また街の男による闘牛士を象った踊りは、発声に依然として問題を残すものの、フラメンコと東洋武術の掛け合わせが面白い。

カルメンは四キャスト。そのうち三人のベテランが、それぞれ役作りに充実を見せている。初日の酒井はなは、自らのカルメン像を振付に反映させ、その上で肉体の変容を目指す、一種巫女に似たアプローチを取る。今回は初演時のようなエネルギーの爆発はなかったが、舞踊の原点に遡る貴重な方向と言えるだろう。

二日目の湯川麻美子は、その場で役を生きる演技派の正統的アプローチ。四人のうちで最もホセへの愛を肉体化させている。「花の歌」のパ・ド・ドゥでは、湯川のこれまでの人生がすべて動きに注ぎ込まれ、真実とまで言える表現に到達した。

最終日の厚木三杏は舞台の上で自由になれるプロのダンサー。舞台で死んでもかまわないと思っている風に見える。クリエイティヴなアプローチはバレエ団随一と言えるだろう。石井の振付を細部まで読み込み、十全に身体化する。厚木の描く「孤独を抱えながら誰にも束縛されない自由人カルメン」には普遍性があり、石井の作品世界もより明晰になった。

対するホセもベテラン三人が個性を発揮している。初日の山本隆之は踊りの質も向上し、磨き上げられたホセ像を見せる。ただ前回よりも酒井を受け止める度合いが狭まったため、一人芝居に見える部分があった。二日目のゲスト、ガリムーリンは、往年の切れは見られなかったものの、ホセのプロトタイプを示す円熟の舞台。湯川との呼吸も深く、唯一、愛の物語を現出させた。最終日の貝川鐵夫は厚木に匹敵する思い切りのよさが身上。平気で舞台に身を捨てることができる。踊りはあくまで正統派ノーブル系だが、そのギャップに魅力がある。

三日目に踊った若手二人は課題を残した。カルメンの本島美和は、解釈を身体化する方向をまだ見つけていないようだ。動きが動きのままで終わっている。様式性の獲得、ラインの彫琢という原点に立ち返るべきだろう。一方ホセを踊ったゲストの碓氷悠太は、恵まれた容姿と一定の技量を持つノーブル候補。途中からロミオのようになってしまったが、場数を踏めば有望と思われる。

カエラの真忠久美子、川村真樹、西山裕子、大湊由美(出演日順)もやはりベテランが個性を発揮した。中でも川村は華やかで大きさのあるプリマの踊りを見せる。大湊は時期尚早のデビューだったかもしれない。

スニーガの市川透は嫌らしさで独壇場、パスティアのイリインは登場するだけでドラマが立ち上がる。また街の男ソリストでは、吉本泰久の東洋的呼吸と切れ味鋭い所作が光った。男女アンサンブルは年末の『くるみ割り人形』に引き続き円熟味を感じさせる。大井剛史指揮の東京フィルも、初日こそ硬かったものの、舞台との呼吸もよく、ビゼーの魅力を堪能させた。(3月27、28、29、30日 新国立劇場中劇場)  *『音楽舞踊新聞』N0.2753(H20.5.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖

新国立劇場バレエ団今季最終演目は、牧阿佐美版『白鳥の湖』。06年の初演以来一年半ぶりの再演である。牧版は、セルゲーエフ版本体にオデットが白鳥に変えられるプロローグを追加。終幕は同じハッピーエンドながら演出を変更し、さらに三幕にルースカヤ、四幕冒頭に王子の独白ソロが加わる。 プロローグと終幕の演出は依然として演劇的説得力を欠くが、全体の仕上がりが良く、特に一幕男女アンサンブル、二幕の白鳥群舞、三幕キャラクターダンスは、これまでになく生きいきしていた。「中学生のためのバレエ」を含め連続六日間、レヴェルを落とすことなくむしろ向上させて公演を終えた点に、十年を経過したバレエ団の成熟がある。

四キャストの初日は例によって海外ゲスト(ザハロワとウヴァーロフ、ボリショイ劇場バレエプリンシパル)だが、今回は日本人ダンサー三人の表現の違いに、考えさせられる点が多かった。日本人初日の川村真樹は初役。そのせいか白鳥では手足が縮こまり、長所の伸びやかなラインを見ることができない。だが一転して黒鳥では、コントロールされたラインが醸し出す輝かしい気品、踊りの正統的な美しさ、アチチュードで立つだけでふっと浮くような歴史的肉体が出現する。英国ロイヤル直系の姫役であり、同時に、酒井はなに並ぶ唯一のオールラウンド型プリマである。

二日目の寺島ひろみはスピーディ、スポーティにドラマティックが加わり、長足の進歩を遂げた。長い手足、ふくらはぎの筋肉、少し長めの胴が弓のようにしなり、音楽と一体化した力強い動きを繰り出していく。終幕では王子の貝川鐵夫、ロートバルトの冨川祐樹、指揮者のエルマノ・フローリオと四つ巴になり、破格のクライマックスを作り上げた。極めて意志の強い寺島の白鳥は、貝川の優しい王子とよく合っている。だがカーテンコールを含め、もう少し二人の共同作業も見せて欲しかった。

最終日、今季のトリを務めた酒井はこの十年間、第一線のプリマとして白鳥を踊り続けてきた。今回はその総決算とも言うべき、極めて完成度の高い白鳥を披露している。ただし、かつてのようなあの篠山紀信をかぶりつきに座らせた肉体の熱はなく、観客が体から自然に拍手をしてしまう霊的交感もなかった。劇場における酒井の位置付けの変遷を考えると、当然の結果と言えるだろう。

酒井の特徴は、バレエのパが完全に遂行されているのに、所謂「バレエ」に見えないこと、バレエという枠組みでは捉えきれない、ジャンルを超えた「踊り」そのものになっている点である。拍を刻まない独特の音取りや体幹の使い方と言った技術的なことよりも、舞台上での身体感覚や存在のあり方が、日本の伝統芸能に近い点に理由があると考えられる。 息を詰める座敷舞のような白鳥のアダージョ、花魁道中のようなマノン二幕の登場、道行きのようなオルフェオとのデュエットなど、身内がトロッとするような、日本の芸能が与える独特の感覚を、酒井の舞台から何度も味わってきた。さらに佐々木大と組んだ『ドン・キホーテ』では、巫女がトランスに入ったのと同じような破壊的なエネルギーを劇場に充満させている。世界(社会)を相対化させる劇場本来の機能に、最も貢献したプリマと言えるだろう。もう二度と篠山をかぶりつきに座らせるダンサーは現れない、酒井の静かに閉じた舞台を見て、そう思った。

三人のパートナーは、それぞれ中村誠、貝川、山本隆之。中村はノーブルな立ち姿とは裏腹にソロルの方が適役。ただ、いずれにしても体力、筋力の向上は必須だろう。貝川はおっとりした無垢な王子。登場するだけで場がなごむ。一幕ソロはまとまらなかったが、三幕ソロでは喜びが爆発、四幕は情熱的だった。酒井のパートナー山本は、第一舞踊手としての求心力がある。白鳥群舞をざわめかせる色気もこの人ならでは。

冨川の様式的でドラマティックなロートバルト、厚木三杏の鮮烈な大きい白鳥、中村の美しいスペイン、若手小野絢子のはじけるトロワが印象に残る。イリインの愛情深い家庭教師はやはり一幕の要。フローリオ指揮の東京フィルも、管のミスを帳消しにする重厚で体に残る音楽を作り上げた。

中学生とは別に二日間学生団体が入り、一般客に非常な忍耐を強いたが、中学生に対するのと同じ、適切な手当が必要だろう。(6月24、25、26、27、28、29日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2761(H20.9.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『アラジン』

新国立劇場バレエ団に老若男女が楽しめる魅力的なレパートリーが出現した。『アラビアンナイト』の一話として伝えられてきた『アラジン』である。構成・振付・演出はバレエ団次期芸術監督で、現ロイヤル・バーミンガムバレエ団芸術監督のデヴィッド・ビントレー。映画音楽で有名なカール・デイヴィスによる入魂の音楽に、創意あふれる舞台装置(ディック・バード)、美しい衣裳(スー・ブレイン)、マジカルな照明(マーク・ジョナサン)がスクラムを組んだ、高レヴェルの総合芸術である。

一見してビントレーの指導者としての力量は明らかだった。ダンサーのほぼ全員が、技術的にも表現的にもレベルアップしている。バレエの伝統的役柄に則った適材適所の配役で、久々にバレエ団全体が使い切られている印象を受けた。 明確な構成、演劇的で緻密な演出、優れた音楽性は、いかにもド・ヴァロア、アシュトンの後継者である。振付は前回の『カルミナ・ブラーナ』とは異なりクラシックスタイル。音楽に沿った自然な振付は、ビントレーの円熟を示している。

アシュトンへのオマージュ(ダイヤモンド)を含む宝石のディヴェルティスマンの完成度は高く、コンサートピースにできるほど。一方、結婚のパ・ド・ドゥと幸福のパ・ド・ドゥはストイックなまでにシンプルである。主役(特にプリンセス)に音楽性、様式性、演劇性を要求する試金石のような振付と言える。

主役のアラジンとプリンセスにはトリプル・キャストが組まれたが、今回は二人の新星が誕生した公演として記憶されるだろう。すなわちプリンセスの小野絢子と、アラジンの芳賀望である。

二日目を踊った研修所出身の小野は、新人ながら最も明確なプリンセス像を描き出した。清潔で伸びやかなライン、正確な技術、優れた音楽性、様式的かつ感情豊かなマイム、そして愛情あふれるユーモアのセンス。特に最後の属性は天から授かった最高の贈り物である。パ・ド・ドゥでは小柄ながら献身的な八幡顕光のサポートを得て、シンプルな振付を主役の輝きで満たした。

一方、三日目を踊った芳賀はやんちゃなアラジンそのままだった。つむじ風のようなピルエット、はじける跳躍、そして「ダイヤモンド」の振りマネの美しさ。舞台やパートナーへの献身性もあり、役柄は限定されるが、即戦力の主役である。

芳賀のプリンセス湯川麻美子は『カルミナ・ブラーナ』でも主役を務め、ビントレーの信頼が厚い。所謂姫役ではないが、役の感情を一つ一つ大切にし、丁寧な踊りで円熟味を見せた。一方、初日の本島美和は華やかな存在感が持ち味。ただ依然として人気が先行しており、今後は技術の向上、肉体(特に腕)の意識化もさることながら、主役として観客のために踊ることが求められるだろう。

初日のアラジンはプリンシパルとなった山本隆之。これまで王子役や『カルメン』のホセなど二枚目系統で優れた演技を見せてきたが、今回のやんちゃな役柄には自身今一つはまっていないようだ。珍しく役との隙間が見え隠れした。二日目の八幡は健気で真面目なアラジン。踊りの切れはあるが、もう少し役作りにゆとりが欲しい気がする。

魔術師マグリブ人のトレウバエフは様式美で、冨川祐樹は妖しさで、ランプの精ジーンの吉本泰久は高速の回転技で、中村誠は美しい肢体とエキゾティックな雰囲気で、物語の脇を固めた。特に中村は抜きん出た音楽性を示したエメラルド役と共に、究極のはまり役と言えるだろう。

サルタン役のガリムーリン、アラジンの母の難波美保は適役。ディヴェルティスマンでは、美しいシルバーの川村真樹、官能的なルビーの厚木三杏、ゴージャスなダイヤモンドの西川貴子が印象深い。

定評のアンサンブルも踊りが大きく勢いがあった。特に「砂漠の風」はこのバレエ団にしては珍しくエロティックなニュアンスを出している。ポール・マーフィ指揮、大編成の東京フィルも充実していた。(11月15、19、20日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2773(H21.1.1-11号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

新国立劇場バレエ団が二年ぶり六度目のアシュトン版『シンデレラ』をクリスマス上演した。前回公演はアシュトンのプティパ・オマージュが明確に伝わる批評性の高いパフォーマンスだったが、今回そうした振付のエッセンスは影を潜めている。星の精やマズルカ群舞の鋭いエポールマンによる人体のきらめきは消えてしまった。また、前公演『アラジン』のような演劇的な演出の痕跡もない。その代わりダンサー達は伸び伸びと明るく踊っており、指導者は芸術的な完成度よりレパートリーとしての安定感を目指したと思われる。ただし、5キャスト8公演の長丁場は波乱含みだった。

当初予定されていたアリーナ・コジョカルの代役ラリーサ・レジニナが初日の舞台で故障。第二幕で王子のヨハン・コボーがソロを踊って幕が降り、短い休憩を挿んで他日主演のさいとう美帆とマイレン・トレウバエフがパ・ド・ドゥから引き継ぐ一幕があった。

故障は避けられないが、最終日のアクシデント、馬車の横転は緊張感の欠如と言われても仕方がない。一つ間違えばけが人が続出する可能性もあり、何より物語上あってはならない事故である。

初日の短時間での代役交替は評価されるべきだろう。ただし観客への告知は表方の責任者が行なうべきだろうし、最終日、十数秒にわたって横転した馬車と呆然と立ち尽くす御者を観客の目に焼き付けたのは得策ではなかった。

シンデレラの4キャストはそれぞれの個性を発揮。ベテラン酒井はなは息の合ったパートナー山本隆之と共に、隅々まで心を込めた細やかな演技と踊りで、夢のような暖かい舞台を作り出した。

レジニナの残り二公演も代役したさいとう美帆(22日夜、23日昼夜のハードスケジュール)は、コボーとも自然なコミュニケーションを取り、きらきらと輝くシンデレラを造形、初役の寺島まゆみは、古典作品のような客席目線が気になったが、可憐で力みのない踊りが貝川鐵夫の優しい王子とよく合っていた。

最終日の西山裕子は最もアシュトン振付の可能性を明らかにしたと言えるだろう。室内楽のような繊細な音楽性、的確で自然な演技、妖精のような詩情が融合し、ダンサーとして円熟の境地に達している。とくに一幕が素晴らしく、マイム役者西山を見る喜びがあった。王子は同種の音楽性を有する中村誠。二幕で一瞬二人の音楽性が共有される瞬間はあったが、本調子でなかったのが残念。

義理の姉たちでは、姉役の保坂アントン慶のアンサンブルを見守る視野の広さが際立った。妹の初役高木裕次、ベテランの堀登とも呼吸を合わせ、物語の土台作りに貢献している。名父親役のイリインは残念ながら配役されなかった。

仙女のダブル・キャストは共に一長一短がある。初日の川村真樹はバレエの美そのもののヴァリエーションを見せたが、役作りに物足りなさが、一方の本島美和は役にふさわしい大きさはあるものの、踊りの精度に問題があった。

春の精小野絢子の清潔なポール・ド・ブラと優れた音楽性、冬の精厚木三杏の圧倒的な存在感と研ぎ澄まされたラインが印象的。吉本泰久、バリノフ、八幡顕光の道化三人組は献身的、伊藤隆仁のナポレオンは今回も期待を裏切らなかった。デヴィッド・ガルフォース指揮、東京フィル。(12月20、22、24、26、27日、新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2778(H21.3.1号)初出

2007年の公演評

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『眠れる森の美女』

新国立劇場開場記念公演から十年、五回目のセルゲーエフ版『眠れる森の美女』は、川村真樹の主役デビュー公演として記憶されることになった。川村は99年に入団、04年にソリストに昇格し、リラの精、ミルタ、『シンデレラ』の仙女など、重要な役どころを踊ってきた。美しい容姿に伸びやかなライン、正確な技術を持ちながら、今一つ押し出しの弱さが弱点となっていたが、初主役の今回、これまでの印象を完全に覆すパフォーマンスを見せた。 とても初役とは思えない完成度の高さ。川村の七年間が凝縮されている。踊りは繊細で、真情がこもっている。役解釈はすみずみまで施されているが、演技上の工夫で見せるよりも、常に周囲を祝福する存在として輝きを放つ、理想的なオーロラ像だった。

バレエ団は酒井はなを登録ダンサーに移行させた後、酒井の跡を継ぐプリマを育てようと努めてきたが、現状では必ずしも成果が上がっているとは言えない。その中で今回川村が成功を収めたことは、バレエ団にとって重要な意味を持つと言えるだろう。さらに川村は酒井同様、舞台を一変させ、劇場を親密な空間に変える力を持っている。プリマ誕生への期待を十二分に抱かせるデビュー公演だった。

王子は初役の貝川鐵夫。ヴァリエーションの完成はこれからだが、踊りに勢いがあり、何よりも舞台を明るくするポジティヴな精神性が魅力である。前髪はわざとカジュアルにしたのだろうか、少し気になった。

トリプル・キャストのうち最終日を踊った真忠久美子は、二度目のオーロラ役。パートナー山本隆之の手厚いサポートを得て、二幕では夢のようなアダージョを展開した。真忠のおっとりした眠り姫らしい存在感は、バレエ団随一と言えるだろう。しかし一方で、一幕の不安定さはオーロラ役から大きく乖離している。古典全幕の主役としては、もう少し自立した踊りが要求されるだろう。山本は、回転技に少し乱れがあったものの、王子役としては完成されている。パートナーへの目配りと舞台をまとめる責任感は、山本の美点である。

初日と三日目を踊ったゲストは、キエフ・バレエソリストのアナスタシア・チェルネンコと、ボリショイ劇場ゲストソリストのデニス・マトヴィエンコ。チェルネンコは初役なのか、役作り、踊りともに精彩を欠いていた。初日のゲストとしては力不足だろう。パートナーのマトヴィエンコはここ一年で踊りが格段に進歩した。しかし依然としてノーブルな演技は不得手のようで、王子らしさを出すつもりが陰気としか映らない。ドゥミ・キャラクテールが本来なのかもしれない。

リラの精とカラボスはダブル・キャスト。西川貴子は役(リラ)の性根が入った踊りを見せる。三幕のヴァリエーションはもう少し柔らかさが欲しいが、ロシア派の規範に則った踊りと善の精としてのリラが二重写しになり、作品の堅固な要となっている。一方湯川麻美子のリラは、妖精らしい甘い雰囲気。踊りも精度を増しているが、残念ながら役の踊りとまでは行かなかった。

カラボス初日のイリインは、音楽のドラマ性を汲み取った優れたマイムで舞台にアンサンブルを作り上げる。今やバレエ団の宝的存在。一方のアクリはかわいらしく華やかなカラボスだった。妖精では、鷹揚の西山裕子、呑気の高橋有里、勇気の厚木三杏、元気の寺田亜沙子が、妖精らしい雰囲気を伝える。また寺島まゆみの白い猫がかわいらしい。パも明晰だった。

エルマノ・フローリオ指揮、東京交響楽団の初日は、まるでゲネプロだった。セルゲーエフ版の目玉である間奏曲も安定しない。最終日までにはフローリオがまとめ上げたが、もったいないプロセスだった。(2月1、2、4日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2718(H19.3.11号)初出

 

★[ダンス]  新国立劇場バレエ団『オルフェオとエウリディーチェ

新国立劇場バレエ団が、アメリカ人振付家ドミニク・ウォルシュの新作『オルフェオとエウリディーチェ』(グルック曲)を上演した。05年の石井潤振付『カルメン』に続くエメラルド・プロジェクト(内外の振付家に物語のある新作バレエを委嘱する)の一環である。

ウォルシュ版『オルフェオとエウリディーチェ』は、グルックのオペラ全三幕を二幕に縮め、オルフェオバリトンに変更した上で、オペラのアリアやレチタティーヴォ、合唱を最大限に生かしている。序曲とバレエ曲を使ってプロローグとエピローグを設け、物語に現代的な枠組みを加えているが、概ねオペラの構成に忠実である。

ただし、グルック独特のオルフェオとエウリディーチェによる迷路の掛け合いから解釈したのか、エウリディーチェ像が女性の原型的な二面性(聖母と娼婦)を併せ持つ人物にまで膨らんでいる。さらに、プロローグの出かけようとするオルフェオをエウリディーチェが引き留める愛の戯れは、ウォルシュ自身が今回の主役の一人、酒井はなと踊った『マノン』を想起させて、この版の出自の一つを明らかにした。 振付はバレエを基礎に、モダン、コンテンポラリーの語彙を加えている。ポアントはFuries(復讐の女神たち)のみが使用、その化け物性は、エリュシオンの精霊たちによる平面的でアルカイックな動きと対照を成す。全体的にマクミラン張りのリフトの浮遊感が多用されるが、物語に立脚した使用と言える。

演出は緻密。特にウォルシュがその音楽によって作品を選ぶきっかけとなった復讐の女神たちと死霊のシーンは、照明バトンの上下動と、奥舞台の距離感を有効に生かした劇的な演出だった。ルイザ・スピナテッリの洗練された衣裳も効果的。 音楽のドラマ性を写し取るウォルシュの力は、『ア ビアント』(牧阿佐美バレヱ団)におけるクラシックの振付同様、明白である。ただしこの作品が、歌手の参加する舞踊作品ではなく、舞踊シーンの多いオペラ作品に見えるのは、ソリストの踊りが歌と拮抗するだけの強度に欠けること、独立したパ・ド・ドゥがないこと、ソリストが三名のみで、群舞は音楽の背景と化してしまうこと、また、照明がダンサーの判別を許さないオペラ寄りであることが理由として挙げられるだろう。この作品の可能性は、オルフェオバリトン(吉川健一)の歌唱と、オルフェオ役ダンサー(中村誠)の音楽性が響き合った二日目の組で発揮された。

ダンサーは初日と三日目が山本隆之と酒井はな、二日目は中村と湯川麻美子、四日目は江本拓と寺島ひろみという組み合わせである。山本と酒井の踊りは、動きの隅々まで解釈が行き届き、振付の希薄さを感じさせない。特に二幕の迷路は感情のやりとりが濃厚で、近松の道行きを思わせた。酒井は女性の聖性と魔性を、細かい役作りと磨き込まれた身体で浮かび上がらせる。繊細でエロティックな感触は酒井独特のもの。ファム・ファタルの輝きがあった。

中村と湯川組も、相性の良さを窺わせる熱演。特に湯川は、今までで初めて形式と内容が一致した踊りを見せている。体も透明で美しい。一方の中村も、美しいラインと優れた音楽性を発揮する。体が音楽で分節化されているようだった。振付の音楽性を振付家の意図以上に身体化させたという点では、エリュシオンの女性リーダー西山裕子と双璧である。江本=寺島組は、実力を出し切れなかったせいか、先行二組がそれぞれ達成した虚構度の高さを示すには至らなかった。

バリトンオルフェオ)の吉川、ソプラノ(エウリディーチェ)の國光ともこ、八名からなる新国立劇場合唱団がすばらしい。編曲を担当したガーフォース指揮の東京フィルも緊密な音を響かせた。(3月21、23、24、25日 新国立劇場中劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2721(H19.4.21号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『椿姫』

新国立劇場バレエ団が、同劇場開場10周年記念公演の一環として、『椿姫』(全二幕四場)を上演した。振付・演出は99年より芸術監督を務める牧阿佐美、音楽はエルマノ・フローリオ編曲のベルリオーズを使用、舞台装置・衣裳はルイザ・スピナテッリ、照明は沢田祐二の組み合わせによる全幕創作バレエである。

牧版『椿姫』の根幹はフローリオの優れた音楽構成にあった。ヴェルディのオペラ『椿姫』の台本を踏襲し、ベルリオーズの『幻想交響曲』『イタリアのハロルド』『ファウストの劫罰』等から的確な選曲を行なっている。自ら率いる東京フィルの好演もあり、継ぎ目を感じさせない独立した音楽世界を築き上げた。演出・振付はアシュトン、マクミラン、ノイマイヤー等の影響を感じさせはするが、牧自身の呼吸と思考が全編を貫いている。牧が現在持てる力を出し切った力作と言えるだろう。

独自性を感じさせたのは、二幕ディヴェルティスマン。ポアント使用のジプシー、チャルダッシュ、タランテラや、官能的なアラブは、音楽の見事な舞踊化だった。特に回転技やステップの切れに、振付家の自然な音楽性を見ることができる。一方、本筋のドラマ場面では、マルグリットとアルマンの父による引導を渡すデュエット、終幕のマルグリットとアルマン、アルマンの父による脱力のパ・ド・トロワに力があり、逆にマルグリットとアルマンのパ・ド・ドゥに物足りなさが残った。

出会いのパ・ド・ドゥは短く、田舎での幸福のパ・ド・ドゥは困難なリフトが二人の愛を妨げるかに見える。終幕のマルグリットはすでに死の淵にあって脱力しており、さらにアルマンの父の介入もある。二人の愛の悲劇よりも、マルグリットの崇高な自己犠牲に焦点が当てられた演出は、残念ながらドラマのダイナミズムを失わせる結果となった。

マルグリット四キャストのうち、これまでの印象を塗り替える進境を示したのが、初日のザハロワ。アルマン役マトヴィエンコの形式的な演技や演出傾向のせいもあり、ドラマティックな愛を描くことはなかったが、高級娼婦の華やかな存在感、女主人の毅然とした立居振舞、アルマン父との苦しみの葛藤、終幕の崇高なソロと、牧の振付を十全に咀嚼し、そこに自らの解釈を加えている。ドラマティック・バレリーナとしての思いがけない一面を見た。

国内組では、トップを切った酒井はなの磨き抜かれたラインが圧倒的だった。アルマン父森田健太郎との激烈なパ・ド・ドゥは、二人によるマクミラン版『ロメオとジュリエット』を想起させる。またバレエ団の若手、本島美和は終始駆け抜ける若々しいマルグリットを、ゲストの田中祐子(牧阿佐美バレヱ団)は落ち着いた母性的なマルグリットを造形した。

対する男性陣は、山本隆之がソフトな語り口で恋するアルマンを、ゲストの菊地研(牧阿佐美バレヱ団)が無謀さを秘めた激しいアルマンを、そしてゲストのテューズリーがデ・グリュー張りの美しいアラベスクで正統派アルマンを作り上げた。ただし国内ゲストの演技は、所属団員の出演機会を奪うに足るレヴェルとは言い難い。

アルマンの父 森田の力強い存在感と美しいラインが印象深い。公爵のテューズリー、冨川祐樹は適役、プリュダンスの厚木三杏は主役を凌ぐ華やかさだった。また小間使いナニーヌの神部ゆみ子が、優れた演技でザハロワを支えている。

ディヴェルティスマンでは、ジプシー川村真樹の正統的な踊り、アラブ真忠久美子の魔術的な上体の美しさと金の奴隷を思わせる中村誠の官能的な踊り、チャルダッシュ西山裕子の驚異的な音感の鋭さと精妙な腕使いが楽しみだった。また女装のメヌエットダンサー、トレウバエフと相手役吉本泰久の演技力も注目に値する。

二幕でマルグリットの落とした扇を傍らの男性ではなく自らが拾う演出にしたのは、何か特別な意図があったのか。不明だった。指揮はフローリオ、演奏は東京フィル。(11月4、7、10、11日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2742(H20.1.1-11号)初出

2006年公演評

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団「ナチョ・ドゥアトの世界」

新国立劇場バレエ団恒例の中劇場公演は、「ナチョ・ドゥアトの世界」。ドゥアトはベジャール、アルヴィン・エイリーの下で学び、クルベリ・バレエ、NDTに在籍、現在はスペイン国立ダンスカンパニー芸術監督を務める。プログラムは、すでにレパートリーに入っている『ドゥエンデ』(91年)と『ジャルディ・タンカート』(83年)に、新レパートリーの『ポル・ヴォス・ムエロ』(96年)を加えたトリプル・ビルである。

三作中ドゥアトのオリジナリティを最も感じさせたのが、ドビュッシー室内楽、とくにフルートとハープを主とした曲に振り付けられた『ドゥエンデ』である。振付はニジンスキーの『牧神の午後』を思わせるアルカイックなフォルムに、昆虫や動物の奇怪な動きが加わっている。パンやニンフが戯れる神話的世界の現代版とも言え、スペイン色を排除することで、かえってドゥアト最大の特徴である音楽性が浮き彫りになった。ダンサーには、音楽のみを身体化する高度な音楽性が求められる。

『ドゥエンデ』四曲のうち、吉本泰久、グリゴリー・バリノフ、中村誠によるパ・ド・トロワが充実していた。吉本、バリノフの音感鋭いソリッドな動きを背景に、中村の身体が纏っている一種の狂気が音楽と一体となって、みずみずしい牧神のエロティシズムを醸し出す。音楽の身体化と音楽への没入を同時に感じさせる、稀有な踊りだった。また、パ・ド・シスの西山裕子はいかにもニンフ。西山独特の自然で流れるような音楽性が、柔らかでしかもピンポイントの動きを生み出す。陶然とするばかりだった。

男女三組が棒杭に囲まれた土色の舞台で踊る『ジャルディ・タンカート』は、カタルーニャ語の労働歌に振り付けられた土俗色の強い作品。エイリーやキリアンの語彙による影響もうかがえるが、処女作らしい自然な感情の発露がある。厚木三杏が音楽的かつ創造的な動きで突出している。現代的な動きのアクセントやニュアンスを、最も魅力的に作り出せる踊り手である。

宮廷舞踊風ネオ・クラシックとコンテンポラリーを行き来する『ポル・ヴォス・ムエロ』は、十五、六世紀スペインの古楽と同時代の詩人ガルシラソ・デ・ラ・ベガの詩に振り付けられている。作品構成の点でキリアンの影響を思わせるが、スペイン人のアイデンティティを前面に打ち出した、いかにも国立のダンスカンパニーらしい作品。ネオ・クラシックの部分では、高橋有里と西川貴子がクラシックの密度を感じさせる踊りで作品に重みを与え、コンテンポラリーでは、吉本と末松大輔によるデュオが新鮮な空気を作品にもたらしている。 初日と三日目では舞台の印象が大きく異なった。とくに三演目出演の山本隆之が、初日とは見違えるほどの精彩を三日目に見せている。山本のドゥアトへの情熱が舞台を牽引し、トリプル・ビル全体を覆わんばかりだった。同じく三作品出演の湯川麻美子は演技力で舞台に貢献。中心としてはもう少し踊り自体の密度が求められるだろう。

今回のトリプル・ビルは派手な演目がなく、玄人好みのプログラムと言えるだろう。しかし現代物の来日公演ラッシュのさなかにあって、「ドゥアト・プロ」がややインパクトに欠ける印象に終わったことも否定できない。新レパートリーが、動きの追求よりも演出に傾きがちな作品であったことも原因の一つだろう。かつてのJバレエやミックス・プロで見られたような、バレエ団が一体となったプログラムを、今一度期待したい。(3月23日、25日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2692(H18.5.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『こうもり』

新国立劇場バレエ団三回目の『こうもり』。02年の初演時に、振付家ローラン・プティによってコール・ド・バレエから一気に主役のベラに抜擢された真忠久美子が、ようやく大輪の花を咲かせ、プティの慧眼を証明した。真忠の美点は他のプティ・バレリーナとは異なり、上体の美しさと魔術的な腕の動きにある。細くしなやかな両腕が流れるような軌跡を描くとき、豊かな感情が音楽となり詩となって立ち現れる。腕のほんの一振りで見る者を陶酔させるその技は、愛のパ・ド・ドゥでヨハンをくるくると踊らせる際にもっとも威力を発揮した。真忠ほど、この振付の魔術性を浮かび上がらせるバレリーナは他にいない。

しかし真忠を真忠たらしめている最大の特徴は、無意識の大きさだろう。昨秋の『カルミナ・ブラーナ』で、男たちに喰われるローストスワンに全く違和感を抱かせなかったのは、役作りもさることながら、その存在のあり方による。今回のベラも、ただそこにいるだけで周囲の目を惹きつける、内在的な輝きを帯びていた。ショーアップされた演出においても、繭にくるまれたような浮世離れした雰囲気を漂わせるのは、無意識に吸収したものを、無意識のままに出せる才能のなせる業だろう。喧騒の夜が明けて、朝日の中に浮かび上がる真忠のシルエットは、驚くほど美しかった。美を表現しようとしているのではなく、美そのものとして存在していたのだ。

夫ヨハンを演じた森田健太郎も、その豊かな才能を十全に発揮している。プティ独特の(意味を持たない)アクセントを、これほど粋に見せられる日本人ダンサーがいるだろうか。そのセンスのよさに加え、気品ある正統的なラインと、物語をその場で生きる無意識の力は、森田を理想的な男性主役に位置づけている。森田の堅固で大きなサポートに、真忠のかよわい女らしさがしっとり絡み合ったパ・ド・ドゥは、プティの思惑をはるかに超えて、香り高く情感に満ちたデュエットとなった。終幕、膝に寄り添う妻の背に、夫がそっと手を置く光景は神々しく、二人が無意識のうちに交わした感情の大きさを物語っていた。

日本人初日を飾ったゲストの草刈民代は、ベラの役をよく理解し、華やかな存在感で行き届いた芝居を見せる。ソロではやや硬さがあったが、一期一会を感じさせる真摯な舞台だった。草刈のヨハンは山本隆之。振付の意味をもっともよく伝える。愛情と呼ぶしかない献身的なサポートと、舞台全体を巻き込む強いエネルギーが、シュトラウスの音楽、プティの振付と相まって、観客に生へのポジティヴな力を与えている。

ウルリックはヴェテランの小嶋直也と新人の八幡顕光。小嶋は完璧な足技とシャープなライン、役をよく心得た演技で、目の覚めるようなウルリック像を作り出した。一方八幡は、ペーソスなどの感情的な厚みには欠けるが、初役にしてすでに、役の明確な輪郭を描きえている。さっぱりとすがすがしい、少し和風のウルリックだった。

楠元郁子のメイド、トレウバエフのチャルダッシュとギャルソン、厚木三杏のカンカン、イリインの警察署長に、洒落た男女アンサンブルが元気に脇を固める。急遽代役のギャルソン奥田慎也がようやく舞台に戻り、十人分の明るさを振りまいた。男性陣の黒髪は粋。舞台の仕上がりの良さに比べ、今回の東京フィルは、プティの繊細な振付に対応していなかった。(5月26日、27日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2697(H18.7.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ジゼル』

新国立劇場バレエ団今季最終演目は、四年ぶり三回目の『ジゼル』。パリ・オペラ座エトワールのクレールマリ・オスタとバンジャマン・ペッシュをゲストに四組がキャストされたが、オペラ座の都合でオスタは来日せず、代って初演時に主役を踊った西山裕子が、円熟のジゼルを披露した。

西山は現在バレエ団でもっともロマンティック・バレエが似合うバレリーナと言えるだろう。演技やマイムの明晰さ、踊りの軽やかさ、自然な音楽性、繊細な感情といった西山の特徴が、内気で感受性豊かなジゼル像を作り出している。 西山における音楽性と演劇性の結合は、すでにガムザッティ役での驚くべき音楽的マイムで確認されているが、今回も全編にわたってその見事な融合を見ることができた。二幕のアダージョでは、ラインの端々からアルベルトへの愛情が流れ出し、音楽とともに舞台を覆いつくす。感情と音楽が一体化した、まさにポエジーの化身だった。

この日のミルタは、やはり初演組の西川貴子。踊り、マイム、立ち姿の全てに、ミルタの性根が入っている。凛として統率力のある堂々たるミルタだった。今回『ジゼル』らしい霊的世界を現出させたのは、唯一この組だけだった。他は全員初役という状況の中、西山、西川による初演ヴェテラン組の功績は大きい。

初日、二日目には、バレエ研修所第一期生の若手二人が抜擢されている。初日(最終日代役も)の本島美和は、まだ固有のラインを獲得しておらず、役作りが全て表現として定着しているわけでもない。しかし、役を自分で咀嚼しようとする強い意志に、将来への展望を感じさせた。とくに狂乱の場は、自らの存在の底にまで降りていったことをうかがわせる、強い静けさに満ちていた。

一方のさいとう美帆は、長い手足を生かしたラインが美しく、相手を翻弄する小悪魔的な魅力を備えている。一、二幕ともに踊り方をよく心得て粗がない。しかし、狂乱の場が象徴するように、いわゆる良いとされる表現に留まっていて、心底からの感情が表現として表に出るには至っていない。今後主役として、本島には外からの眼差しが、さいとうには内面との対話が求められるだろう。

『眠れる森の美女』『ドン・キホーテ』で、音楽性と様式性、スター性を併せ持つ大型主役であることを証明した厚木三杏は、今回残念ながら真価を発揮するには至らなかった。柄としてはミルタだろうが、様式性で押していく厚木ならではのジゼル・アプローチもあったかと思われる。華やかなスター性を持つ貴重な踊り手として、今後に期待したい。

アルベルトはゲストのペッシュ、シーズンゲストのマトヴィエンコ、バレエ団の山本隆之。ペッシュはハムレット的陰鬱さを帯びたキャラクター性の強いタイプで、まだ役作りの途上にあるが、西山の透明感とはよく合っていた。マトヴィエンコは端正。持ち味の爆発力よりも、ラインのコントロールを重視している。厚木、本島を丁寧にケアしていた。 山本は作品を構築する深い物語性を発揮した。足技の明晰さにはまだ向上の余地があるが、一幕役作りの説得性はもちろんのこと、二幕の登場では唯一空虚なナルシシズムを免れている。終幕の片膝をついて花を拾う姿には、ジゼルとの逢瀬からその死、そして死後の愛の交感が、全て刻み込まれていた。

バレエ団では、村人のパ・ド・ドゥを踊った大和雅美と中村誠の香り高い踊りが印象深い。また冨川祐樹が節度あるマイムで誠実なハンスを演じ、クールランド公爵のイリインが、品格あるマイムでロシア・バレエの香りを伝えている。

今回コール・ド・バレエは、珍しく揃っていなかった。ウィリの本質を出す以前に、動きの方向性が指し示されていないように思われた。エルマノ・フローリオ指揮、東京フィル。(6月24、25、30日、7月1日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2700(H18.8.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』新制作

新国立劇場バレエ団が八年ぶりに『白鳥の湖』を新制作した。改訂振付・演出は芸術監督の牧阿佐美、舞台装置・衣裳は『ラ・シルフィード』と『リラの園』を担当したピーター・カザレット、照明は沢田祐二による。全四幕で休憩が一回という上演形式である。旧版のセルゲーエフ版は、マイムを減らし、演劇性よりも音楽性を前面に出したスピーディでコンパクトな演出。ラストはソビエト・バレエらしく戦って悪を滅ぼすハッピーエンドである。新制作ではこうした時代性を払拭し、原典重視の世界的潮流が反映されるのではと期待したが、残念ながらほとんどがセルゲーエフ版の踏襲だった。

演出上の改変部分は、プロローグとしてオデットの変身場面(室内)を加えた点と、終幕のロットバルトの死を入水自殺(?)に変えた点である。ただ両者ともに演出の練り上げがまだ弱く、説得性を獲得するに至っていない。なぜ友人二人がオデットの部屋からいなくなるのか疑問だった。一方、三幕で各国の花嫁候補とキャラクターダンスを結びつけた演出は、効果的だった。イギリスの踊りも加えるとより整合性が増すと思われる。

舞踊面では三幕に「ロシアの踊り」が加わった点と、四幕冒頭に王子が紗幕前で少し踊りを見せる点が新しい。また、一幕王子のソロを中盤から幕の最後に移し、「乾杯の踊り」の後半を村人の踊りに変更している。ただ後者については、音楽の急なテンポダウンを要する振付と音取りの変化にやや違和感を覚えた。

旧版のオークネフの美術は明快すぎるほど主張がはっきりしていたが、カザレットは中庸を重んじたのか、あまり特徴がない。湖畔も森の神秘性や廃墟趣味といったロマン主義的風景には至らず、小さな洞窟(通り抜けられる)と湖に落ちる滝が、どこがうらぶれた雰囲気を醸し出す。照明は横ライトを駆使し個性的だが、ダンサーのライン、とくにロットバルトの踊りが見えなかったのは残念だった。

オデット=オディールには、旧版での一月公演と同じくスヴェトラーナ・ザハロワ、酒井はな、寺島ひろみという配役。二回目となる寺島が成長の跡を見せて、三者三様の白鳥を競い合った。ザハロワは、所属のボリショイ劇場バレエでも組んでいるデニス・マトヴィエンコを相手に、いつもより伸び伸びとした踊りを見せた。ソロの解釈にはまだ物足りなさを残すが、ラインの美しさには一段と磨きがかかっている。きらめくようなグラン・アダージョだった。

ヴェテランの域に入った酒井は、以前のようなパトス全開の踊りは影をひそめ、高度にコントロールされたラインとすみずみまで施された深い解釈で、完璧とも言える白鳥を踊っている。当日は中高生の団体が半分近く入った半ば教育プログラムのような公演だったが、酒井は社会的啓蒙の役目を見事に果たしたと言えるだろう。一方客席は私語をする中高生と隣り合わせの劣悪な環境にあった。劇場側はオペラ同様、学生鑑賞日を別に設けるべきではなかったか。

『ライモンダ』に続いて主役を踊った寺島ひろみは、ようやく個性を発揮し始めたようだ。スポーティかつダイナミックな白鳥で、主役としての大きさが備わっている。ただ四肢の扱いが雑に見えることがある。かつて『眠れる森の美女』の銀の精で見せた、艶のある豪華な踊りをもう一度見てみたい。

ジークフリード三者三様。マトヴィエンコは華やかさに欠けるが端正な踊りで、酒井と組んだ山本隆之は、登場しただけで舞台の輪郭を作るドラマ性で、逸見智彦は寺島にはおとなしすぎるが、類稀な音楽性で、個性を顕かにした。

パ・ド・トロワでは江本拓の覇気、中村誠の優美、さいとう美帆の清新さが、白鳥たちでは厚木三杏と西山裕子の音楽的な姿形の美しさが、キャラクターではスペインの楠元郁子、ハンガリーの奥田慎也のはつらつとしたニュアンスが印象深い。楠元は王妃でも温かく気品のあるマイムを見せた。イリインの家庭教師は十八番、一幕の要である。

渡邊一正指揮の東京フィルは、いつもより音が分厚すぎて渡邊の機動力が生かせなかった。オーケストラの状態もよくないように思われる。(11月12、15、18、19日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2712(H19.1.1-11号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

新国立劇場バレエ団が三年ぶり五回目のアシュトン版『シンデレラ』(48年)を上演した。プロコフィエフの叙情性と諧謔性がすべて振付に写し取られた、アシュトン中期の傑作である。 振付は一見すると古典バレエのパロディに見えかねない。しかし、シンデレラと王子のパ・ド・ドゥが古典の様式に準拠していることから、振付自体がアシュトンによる古典バレエの解釈、メタ振付であることが分かる。バランシンのネオ・クラシックと並ぶ、プティパへの特異なオマージュと言える。のみならず、アンサンブルのスライドを多用した幾何学的フォーメイション、振付における上体の極端な捻りが、依然として作品に前衛の輝きを与えている。三幕の「誘惑」と「東洋」の省略には異論もあるだろう。だがこの版のもう二人の主役、義理の姉たちによるパントマイム演技の重量感からすると、三幕の短さは妥当と思われる。

七公演のうち、初日から三公演を英国ロイヤルバレエのアリーナ・コジョカルが、残りの四公演をベテランの酒井はなと宮内真理子、若手のさいとう美帆と本島美和が担当、王子にはそれぞれフェデリコ・ボネッリ(ロイヤル)、山本隆之(二日)、トレウバエフ、中村誠が配されている。

シンデレラ像の完成度の高さは、ゲストを含めても酒井がずば抜けていた。アシュトン振付の細やかな襞に分け入り、そのすべてに真の感情を満たしている。これほど繊細な造型は世界でも珍しいのではないか。カーテン・コールでは、謹厳な指揮者エマニュエル・プラッソンが酒井の頬に祝福のキスを与えている。ただし、今回の酒井にはいつものようなエネルギーの放射は見られなかった。その理由は不明だが、いずれにしても、バレエ団のほとんどのレパートリーを初演し、その蓄積を社会に還元すべき円熟期に入りつつある酒井を有効に生かすことは、観客に対する劇場側の義務と言えるだろう。

全幕久々復帰の宮内と、この作品で主役デビューを飾ったさいとうは共にはまり役。無理なく作品世界を作り上げる。特にさいとうは演技が自然になり、初演時よりもみずみずしさが増した。同期で初役の本島はいわゆる姫役のタイプではなく、今回は挑戦の意味合いが強い。古典もしくは古典に準じる作品を踊るには、もう少し様式への意識が必要だろう。またゲストのコジョカルは本調子ではなかった。本人特有の生きいきとした生命感が感じられない分、アシュトン・アクセントの緩さが目立った。

王子四人は持ち味を十全に発揮している。ボネッリのゆったりとした鷹揚さ、山本の気品に満ちた細やかな演技、トレウバエフのりりしさ、中村の優美ななまめかしさ。とくにトレウバエフは王子役の進境著しい。

この版の基盤である義理の姉たちは、乱暴だが妹想いの姉にマシモ・アクリと保坂アントン慶、恥ずかしがり屋の妹に篠原聖一、奥田慎也、堀登(出演日順)が配され、それぞれ献身的な演技を見せている。アクリのパワフルな姉は独壇場だが、アンサンブルで優れていたのは、父親役イリインを中心とした保坂=堀組。三人の娘を見守り、末娘の不幸を思って苦悩するイリインの父、妹への優しさがにじみ出る保坂の姉、そして堀の妹が絶品だった。手への接吻をダンス教師と王子の二人に拒否されるおかしさが初めて分かった。

観客への演技を含む難役の道化は、バリノフと八幡顕光が健闘。四季の精では、西山裕子の春の精がアシュトンの音楽性を余さず表現している。舞台を包み込む豪華な厚木三杏の冬の精、けだるい夏になりきった真忠久美子も印象深い。ナポレオンの伊藤隆仁もますます面白くなっている。

久しぶりに艶と張りのある東京フィルを聴く喜びもあった。指揮者エマニュエル・プラッソンの功績だろう。(12月15、16、19、22、23、24日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2715(H19.2.11号)初出

2005年公演評

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『白鳥の湖

新国立劇場バレエの新年幕開けは、一年半ぶり七回目の『白鳥の湖』。マリインスキー劇場版として導入されているセルゲーエフ版は、踊りでドラマを推し進める、簡潔でスピーディな版である。結末が悲劇ではないので、ドラマとしての振幅にやや欠けるきらいはあるが、王子の憂鬱のヴァリエーション(本家にはない)を一幕一場の真中に置いて、メランコリーの突発性を明示するなど、新国立版独自の美点がある。今回は、初日の海外ゲスト、ヴィシニョーワ、初役の新星、真忠久美子、ヴェテランの域に入ってきた酒井はなというキャスティング。この中で、長年白鳥を踊り込んできた酒井が、抜きん出て緻密な造型を見せている。

酒井の白鳥は明らかに深化していた。前回は内面を注視するあまり、外からの視線を欠いているように思われたが、今回はラインを整えた上で、これまで培ってきた自己の解釈をすべて、踊りに注ぎ込んでいる。酒井の並外れて強いパトスが、ラインという形式を得て、社会化された瞬間だった。ドゥジンスカヤの衣鉢を継ぐ黒鳥のアダージョも、鋭く強く、しかも洗練されている。酒井の芸術に対する姿勢は、一種宗教的エネルギーとでも言うべきものを生み出し、劇場を聖なる空間へと変換させる。酒井の踊りを見ることが、見る者の肉体に「経験」として刻まれるのは、このためだろう。パートナーの山本隆之は王子役も板に付き、余裕のある演技。ヴァリエーションはやや甘いが、相手に寄り添う優れたパートナーといえる。

初役の真忠は、気品に満ちた美しい姿と、豊かな感情に裏打ちされた踊りで、白鳥の王道を歩み始めている。ポール・ド・ブラは繊細で雄弁。この上体の圧倒的な魅力に比べると、脚の表情はおとなしい。しかし初役にしてすでに一貫した役作りで、将来に期待を抱かせる舞台だった。パートナーのトレウバエフは、端正な踊りと誠実なサポートで貢献。グァーン役で見せた演技力を、白鳥の王子にも期待する。

ゲストのヴィシニョーワは、マリインスキー劇場では『白鳥』を踊っていないとのことで、異質がぶつかる化学反応のような踊りを期待した。だが初日を見る限りでは、等身大の解釈が、黒鳥はともかく、白鳥の振付を覆い切れていない。伝統と切り離された根拠の無さが、裏目に出ている。パートナーのコルプは、なぜか丸刈りの頭。違和感は拭えなかったが、丁寧な役作りと基本に忠実な踊りで、ゲストとしての役目を果した。

『くるみ』同様、一幕の仕上がりが良い。家庭教師のイリインと、道化のバリノフが要となっている。アンサンブルは華やかで大きく、ワルツは典雅ですらあった。白鳥のコール・ド・バレエは、以前よりもばらつきがある一方、伸びやかになり、生き生きしている。ソリスト川村真樹の姿形が際立って美しい。残念なのは、物語の核となるべきロートバルト(市川透)に力強さが見られず、終幕が盛り上がりに欠けたことである。

管弦楽はロビン・バーカー指揮、東京交響楽団。今回は、音楽が舞台の足を引っ張る残念な結果に終った。指揮者のテンポの堅持が、新たな音楽的創造へと結び付かず、舞台と音楽の齟齬のみが露わになってしまった。(1月7、8、10日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2655(H17.2.21号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『カルメン

新国立劇場バレエに強力なレパートリーが出現した。今季すでにバレエマスターの職を退いている石井潤の強烈な置土産、『梵鐘の聲』以来七年ぶりに振り付けた、全幕バレエ『カルメン』である。石井の七年間の総決算を祝して、千秋楽のカーテンコールには、全キャストが勢揃いした。 石井の振付には力がこもっていた。自身の生理に沿った自然な作舞というよりも、情熱と意志によって作り込まれた緻密な振付である。流れるような場面転換にマクミランの影響が見てとれるが、振付自体はマクミランよりもリアルで即物的。バレエのパに闘牛士や兵隊の身ぶり、フラメンコのフォルムが加わっている。カスタネットの踊りからスニーガ殺害を経て愛のパ・ド・ドゥに至るシークエンスは、精緻な感情のドラマが、完璧なクライマックスへと一気に爆発する、手練の振付・演出だった。

カルメン、ホセ、ミカエラには三キャスト。初日の酒井はな、山本隆之、真忠久美子が、強度と存在感のある華やかな舞台を作り上げた。酒井のカルメンは素晴らしかった。マノンやジゼルといった蓄積が全て注ぎ込まれ、全編、高密度の踊りに終始した。アンサンブルを率いるユニゾンでは、磨き抜かれた美しい体が圧倒的な存在感を見せつける。また、クライマックスの愛のパ・ド・ドゥでは、『舞姫』以来辿ってきた道のりを総括する、凝縮度の高い踊りを見せて、プリマとして完成の域に達したことを印象付けた。作品の輪郭が消えうせる、まさにスターの舞台である。山本は、酒井のカルメンと共に地獄の底まで落ちていくホセ。ふたごのような愛の形は、この二人にしか見られない。スニーガにいたぶられ、カルメンに翻弄され、最後には相手を殺す大きな感情の振幅を、山本は難なく生き抜いている。

最終日の本島美和、貝川鐵夫、西山裕子は、石井作品の全貌を明らかにした。初日とは対照的なアンサンブルによる舞台である。本島のカルメンは新人らしく、若さにまかせて突っ走る体当たり演技で、猛々しい肉体の感触を残し、対する貝川は、ホセの心情を鋭いラインで描き出す。深い役作りが明晰なホセ像へと結び付いた。特筆すべきは西山のミカエラ。立ち姿だけで空気を変える。ホセとのアダージョでは、音楽への自然な感応とみずみずしいラインで、清らかな美しさを体現した。また、演技派のイリインが、懐の深いパスティア(全日)を生き生きと演じ、展開の早い舞台の、安定した軸となっている。

中日の湯川麻美子、ガリムーリン(ゲスト)、川村真樹の組は、ガリムーリンと振付に距離があったせいか、他組ほどのドラマを立ち上げるには至らなかった。

石井版『カルメン』は、細かい点を除けば、舞踊的には初演にしてすでに、レパートリーとしての充実した完成度を誇っている。構成的には、ホセのみならず、カルメンの心の葛藤を描いた点が、最大の特徴だろう。ほぼオペラの粗筋に沿った台本(児玉明子)に、カルメンとホセそれぞれの「幻想」の場を加えて、二人の内面を描き出した。男女相並ぶ現代的なドラマの骨格を獲得したかに見えるが、カルメンの男を惹きつけるファム・ファタルとしての輝きは失われていない。「幻想」シーンにオペラのミカエラに当てた天上的な曲を使用し、パ・ド・ブレを用いるというバレエ・ブランに通じる様式によって、カルメンの虚構性が保たれたのだろう。ただし、このことで、清純なミカエラとの対照が弱められたようにも思われる。

音楽(編曲・指揮ロビン・バーカー)はオペラの主要曲と、ビゼー交響曲「ローマ」、オペラ「真珠採り」や「アルルの女」から選曲。ミカエラとホセのアダージョに用いた「ローマ」の緩徐楽章が、作品に大きく貢献している。管弦楽は東京シティフィル。(3月25、26、27日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2662(H17.5.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『眠れる森の美女』

新国立劇場バレエ、一年振り四回目の『眠り』は、01年より契約ソリストとなり、数々の主役を務めてきた志賀三佐枝の引退公演となった。志賀は堅実なテクニックと抜きん出た音楽性で、『眠り』から『ライモンダ』まで、古典の主役を着実にこなしてきた。その志賀にとっての二回目、そして最後となる今回のオーロラは、あっさりした表現で音楽性を最大限に生かした、いかにも志賀らしいアプローチだった。このところ、細やかな演技のために音楽的な純粋性がやや曇りがちだったが、今回は、バレエ団随一の音楽的感性を、切れのよいテクニックで完全に身体化させている。四キャストの中で、最もチャイコフスキーを聴く喜びを感じさせるオーロラだった。 志賀の魅力は音楽と切り離すことができない。『ドン・キホーテ』では渡邊一正の指揮とともに、劇場一杯に音楽を充満させ、音楽に合わせて体を動かす原初的な舞踊の喜びを体現した。また初めての『シンデレラ』では、ワーズワースの超高速の指揮を難なく我が物として、完全に音楽と化した身体を見せつけている。新境地を開いたのが、今回のパートナーでもあるマトヴィエンコと組んだ『パキータ』。けれん味たっぷりの踊りに細やかさと艶をにじませる、高次元の踊りを編み出した。年令的には、早すぎる引退と言わざるをえない。もう一度、あの音楽のみが身体に残る『ドン・キホーテ』を見たいと思っていたが、叶わぬ夢となった。今後、その優れた音楽性と正確な技術は、教育の場で生かされることになるだろう。

今回の初日は、アナニアシヴィリの代役を引き受けたザハロワが務めている。本調子ではなかったが、理想的なプロポーションとひたむきな踊りで、最後には観客の心をつかんだ。バレエ団からは、共に初役の寺島ひろみと真忠久美子が、対照的な舞台を見せている。

寺島は硬質の踊りに日本的な情緒をにじませて、『ライモンダ』の時よりも一歩踏み込んだパフォーマンスを披露した。ただ、本来は踊りそのものの豪華さが身上に思われる。こぢんまりとまとまった表現に、寺島の個性が表れているとは思えなかった。

一方の真忠は、緊張または体調のせいか、二幕を除いて、伸びやかな踊りをほとんど見ることができなかった。表現以前の状態だが、個性は発揮している。腕を広げて微笑むだけで、夢心地に誘われる。万人に与えられる訳ではない、人を幸せにする才能を、真忠はよく自覚する必要がある。

今回の公演では、芸術アドヴァイザー兼ゲストバレエマスターとして、元ボリショイ・バレエ芸術監督のファージェーチェフが招かれた。演出の変化は感じられなかったが、男性主役は、ゲストのウヴァーロフ、マトヴィエンコ、バレエ団の山本隆之、青い鳥のトレウバエフと、グレードアップした。とくにマトヴィエンコが、限界に挑戦する気迫のこもったヴァリエーションを見せている。パートナーとしては、真忠を支えた山本が際立っている。

さらに今回は、リラの精を踊った三人が、それぞれの持ち味を発揮した。前回に引き続き、初日を踊った前田新奈がすばらしい。やはり登場するだけで、舞台の空気が変わる。全体を統率する力と大きさを持ったリラの精である。後半二日を踊った西川貴子は、正統的なロシア派の踊りに品格をにじませる。観客にもう少しアピールした方がよいかと思われるが、ロシアの香りを漂わせる貴重な踊り手である。西川同様、初役の川村真樹は、落着きのある演技と美しいラインで、初めての大役を見事に果した。

フロリナ王女は五人。宮内真理子が久々に復帰している(未見)。それぞれ味わいのあるフロリナだったが、最終日の島添亮子が、一段と引き締まった踊りを見せている。宝石の精も、やはり最終日に西山裕子、川村真樹、厚木三杏、寺島ひろみの主役級がそろい、最も見応えがあった。

音楽(指揮ガーフォース)はやや香りを欠いたが、間奏曲(Vn.青木高志)は毎回が楽しみだった。最終日に幕裏から笑い声が聞こえたのは残念。管弦楽は東京フィル。(4月29、30日、5月2、3日 新国立劇場オペラ劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2666(H17.6.21号)初出

2004年公演評

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『シンデレラ』

かつてない出来の『シンデレラ』。星の精は元より、四季の精、道化(吉本泰久、バリノフ)、宮殿の男女群舞、キャラクターに至るまで、アシュトンのきびきびとはじけるような振付を実現している。粗暴な姉イリイン、可愛らしい妹奥田慎也という自前の義姉たちが加わり、完全なレパートリー化が達成された。

新年の初日は酒井はなと山本隆之、半年ぶりのパートナーシップである。酒井は振付のすべてに自らの感情を行き渡らせる稀有なダンサー。四季の場のマイムや義姉たちとの和解の抱擁に、演技ではなく真の感情が込められていた。山本は『こうもり』三連続主演の影響か舞台上で故障。二幕ソロは省略したが終幕まで酒井へのサポートは揺るがなかった。主役級の故障降板が相次いでいる。ダンサーの肉体ケアや代役制度など構造的な改善が望まれる。

最終日は『くるみ』でも絶妙のコンビだった高橋有里と小嶋直也。小嶋のステージマナーは恐ろしく亭主関白だが、高橋がよく従って粗にはならない。高橋は一幕でけなげなかわいらしさ、二幕で相手を包み込むような情感を見せて、清潔なシンデレラを造型。小嶋は甘さに欠けるが、踊りは鮮やかだった。 管弦楽は音楽と踊りの両面に寄り添うガルフォース指揮、東京フィル。(1月10、12日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2627(H16.3.1号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『ロメオとジュリエット』

マクミラン版『ロメオとジュリエット』、二年半ぶりの再演である。主役は四組。海外ゲスト二組は、初日のフェリとコレーラ(ABT)が完成された役作りでマクミラン版の手本を示す一方、急遽代役を務めたシオマーラ・レイエス(ABT)とマトヴィエンコは、自然な感情のドラマを形成して、好対照の舞台を作り上げた。ただシーズンゲストのマトヴィエンコについては、振付解釈が前回よりも深まっていない点に不満が残る。

国内のジュリエット、酒井はなと志賀三佐枝はともに初演組。酒井は前回とは異なり、爆発的な愛の物語よりも凄絶な拒絶と死を選んだ。パートナーの山本隆之とは兄妹のような同質の愛を築き、バルコニーシーンはまるでユートピアかと思われたが、それを上回ったのが三幕である。寝室でのロメオとの別れからパリスに対する拒絶、仮死の選択、そして死体に囲まれた中でのロメオへの後追い心中と、ジュリエットの枠を越える苛烈な感情の氾濫だった。前回のロメオだった森田健太郎のパリスが触媒になったのか、あらがうリフト、力まかせに押さえ込むデュエットに、物語の爆発があった。これはいびつなことである。だが、そもそも森田という存在感の強い踊り手をパリスにしたこと自体が変則的なのであって、そこに反応した酒井に責任はない。ロメオの短剣で腹を突く酒井の姿が、目に焼き付いて離れない。

故障から復帰した山本はエネルギーに満ちていた。ラインをよく意識した丁寧な踊りと、持ち前の豊かな物語性を発揮して、快活で暖かみのあるロメオを造型。サポートは確実で自然、会話のようだった。 初演と同じマトヴィエンコと組んだ志賀は、前回よりも演技が細やかで踊りも繊細になっている。ただパートナーに感情が向かうタイプではないので、マクミラン版よりも古典的な振付のジュリエットでより生かされたかもしれない。

バレエ団ではイリインのティボルトと修道士ロレンス(日替り二役)がずば抜けている。23日のロレンスは、ただ座って祈るだけで聖なる空間を現出させた。また楠元郁子のさっぱりと気持のよいキャピュレット夫人は、娘の死の場面で、すべてを理解した母の大きさを示した。真忠久美子の豪華で美しいロザライン、湯川麻美子の情の深い娼婦、ジュリエットの友人西山裕子とベンヴォーリオ奥田慎也の主役を見守る視線が、舞台を親密なものにさせている。またバリノフを中心とした「マンドリン」は、ラインの見えないピラピラの衣裳にもめげず、大きな踊りで連日観客を魅了した。 ただ、こうしたダンサーたちの健闘にもかかわらず、今季先行作の『マノン』や『シンデレラ』に比べると完成度がやや落ちると言わざるをえない。とくに一幕「街の広場」の群舞と殺陣は、演出家の要求レヴェルの低さを窺わせる。また悲劇の鍵をにぎるマキューシオの人物造型の曖昧さも、ダンサーの実力から言って、演出家に責があると思われる。

トワイナー指揮の東京フィルは、二週目から調子が上がった。青春の疾走感には欠けるが、劇場音楽らしい落ちついた演奏である。(4月16、17、23、24、25日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2637(H16.6.21号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『眠れる森の美女』

97年の開場記念公演以来三回目、三年ぶりの『眠り』である。マリインスキー劇場版として導入されたセルゲーエフ版は、99年に当のマリインスキーで復元版が上演されたため、その根拠を失ったかに見える。また伝統的なマイムを排したスピーディでモダンな演出は、現演出陣の傾向に必ずしも合致するところではない。にもかかわらず、今回初めて、この作品に新国立の命が吹き込まれたことを実感した。

主役は4キャスト。初日のザハロワとゼレンスキーは、優れた技術と身体性を駆使して、ロシアスタイルのすがすがしい魅力を発散させる。しかし、この日の真の主役は、リラの精の前田新奈だった。前田が登場するたびに、舞台の空気が変わる。単に善の精と言うだけではない、すべてを見通す奥行の深さがあった。プロローグのソロは、前田の解釈が完全に身体化された、気が横溢した、この日一番の踊りだった。

バレエ団のオーロラは、ヴェテランの域に入った酒井はなと、初役の厚木三杏にさいとう美帆。厚木はこれまでの舞台経験を十全に生かした、新国立主役デビューである。一幕の品格、二幕の情感、三幕の存在感と全幕を通してすばらしい。初日の勇気の精で見せた鋭角的な踊り(好演)からは想像もできなかった、甘い優しさに満ちている。とくに上体の気品は、英国ロイヤルスタイルを彷彿とさせる。中心であることの重みを引き受けた新プリマの誕生だった。パートナーの逸見智彦は、演技がやや硬いように見えるが(そういう役作りか)、二つのヴァリエーションは爆発的だった。従来の美しさと鮮やかさに、力強さと安定感が加わっている。絵になる二人だった。

一方のさいとうは、シーズンゲストのマトヴィエンコ(代役)が王子。一年前に研修所を修了したばかりのさいとうは、『シンデレラ』で主役デビューを果しているとはいえ、幕ごとにアダージョのあるタフな役を、終始笑顔でよく踊り抜いた。まだラインで見せるまでには至っていないが、今後の成長を見守りたい。

酒井の日はマクドナルドデー(半額の日)のため、20列目からの所見となった。一幕の酒井はおとなしめだったが、二幕ではしんしんと静まりかえるような幻のソロを、三幕では感情が圧縮された緻密なアダージョを見せて、「酒井のオーロラ」を完成させている。パートナーの山本隆之はりりしい王子。感情のこもったサポートはいつも通りのすばらしさだが、今回はダイナミックな持ち味をソロで生かすことができた。コーダの一致はこの二人ならでは。リラの真忠久美子は初役ゆえ、役の彫りこみはこれからだが、身体の魔術的な美しさで他を圧倒した。

青い鳥組では、西山裕子とバリノフがメルヘンらしい甘さを、高橋有里と吉本泰久が日本昔話風の素朴さで見せる。また西山の呑気の精と、奥田慎也の猫が、愛情に満ちた踊りで舞台を温め、豪華な銀の精寺島ひろみと、美しい王妃深沢祥子が華やかさを加えた。細やかな演技で定評のあるアクリのカラボスは、今回なぜかおとなしかった。 ワルツの子供たちのトウシューズは疑問、アンサンブルが犠牲になる。グルージン指揮東京フィル。(6月4、5、12、13日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2639(H16.7.11号)初出

 

★[バレエ]  新国立劇場バレエ団『くるみ割り人形

年末恒例の、そして今季のテーマ「プティパ・バレエの世界」の一環として『くるみ割り人形』が上演された。海外ゲスト一組にバレエ団から四組というにぎやかさだが、ゲストが三日間、あとはそれぞれ一日のみという日程がやや淋しい。マリインスキー劇場版として導入されたワイノーネン版は、全三幕を一人のバレリーナが踊りぬいて、最後にアクロバティックなアダージョ(王子がいながら、四人のカバリエにリフトされる)と、回転技の多いヴァリエーションが待つ、バレリーナにとってはタフな版である。マーシャの成長を、幕を追って見せる演技力も要求される。

全体を通して最も完成された役作りを見せたのが、高橋有里。シンデレラ同様はまり役である。よく詰められた演技と緊密な踊りは、豊かな感情に裏打ちされており、一幕のかわいらしさからチュチュでの貫禄まで、隙のない舞台だった。相手役の吉本泰久は、初めての王子役。ノーブルなラインをよく意識している。男らしいサポートにシュアな技術が特長で、さらに落ちついた情感が加われば申し分ない。

プリマとしての華やかさでは、初役の真忠久美子が群を抜く。ロココ調に合った上品な少女らしさ、二幕アダージョでの暖かみのある美しいラインは、他の追随を許さない。三幕のアダージョでは崇高ささえ漂わせた(途中、やや不安定な場面もあったが)。相手役の山本隆之とも相性がよく、特に二幕のアダージョで、二人が作り出す虚構のレヴェルは高い。山本は自らを捧げる王子。アダージョでのラインも美しい。ただパートナーに徹したのか、ヴァリエーションの精度に物足りなさが残った。

舞台としての調和が最も感じられたのが、西山裕子とトレウバエフの組。西山は少し引っ込み思案なマーシャだが、踊りになると、素直な音楽性が伝わってくる。トレウバエフも、西山をよく見守り、りりしいヴァリエーションを披露した。二人とも華やかさはないが、舞台が進むにつれて心がポッと暖かくなるような、クリスマスにふさわしい味わいがあった。

最終日は若手のさいとう美帆。かわいらしい外見にガッツのある踊りが特徴。一幕では先行者をよく研究した細やかな演技を見せたが、厳しい日程をこなしたせいか、磐石の踊りではなかった。相手役の逸見智彦も、美しいラインを見せながら、やや集中に欠ける。『眠り』での圧倒的なヴァリエーションの再現とはならなかった。

三回踊ったアリーナ・ソーモア(マリインスキー劇場)は、03年に入団したばかりの新鋭。少女らしくはあるものの、ゲストとしての芸術的貢献を果すレヴェルには見えなかった。相手役のマトヴィエンコも、前回の役作りより後退している。

演出は一幕の仕上がりがすばらしい。ドロッセルマイヤー(イリイン)の優美なマイム、フリッツとその友人(大和雅美、キミホ・ハルバート)の悪童ぶり、シュタリバウム夫人(湯川麻美子)の大らかさが、舞台に貢献している。また雪の精のコール・ド・バレエは、相変わらず精緻。ソリストの厚木三杏、寺島ひろみが伸びやかな踊りで、雪の透明感とスピードを表していた。ただ三幕ディヴェルティスマンは、男性陣の駒不足が原因か、適材適所とはならず、盛り上がりに欠ける。 管弦楽は、渡邊一正指揮、東京フィル。ワルツの軽快さ、グロースファーターの荘厳さに、身体的ともいえる喜びを感じた。(12月17、18、24、25、26日 新国立劇場オペラ劇場)   *『音楽舞踊新聞』No2654(H17.2.11号)初出